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患者さんは言えないんです。それと「今までそうしてきた、じっと我慢してきた」からそれが当然だと錯覚している。「今までそうしてきた」とは、法律で強制収容終生隔離され中には「座敷ブタ」と職員に罵られてきたから。じっと我慢、お上に喰わせてもらっている厄介者。そんな気持ちが芯から染みついているのですね。お気の毒です。人権なんて言葉は存在しなかったのが、つい最近まで続いていたのだから。だから職員には逆らえない。こんな現実を良しとしていて良いのだろうか。
2016年01月31日
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トイレの話し。トイレのドアの開けっ放しは改善されていなかった。ご親切にかご配慮か、ドアにはガムテープで閉まらないようにしてある。つまり、トイレに入っても丸見え!何の意味があるのだろうか。看護婦さんに聞いてみたかったが止めにした「あとでどんな返礼があるか分からないので」。でも今度言ったら聞くことにする。トイレって何をするところなのか錯覚、丸見えである。常識が通用しない国立療養所。何の意味があるのだろうか。ひっくり返っていると管理者責任を問われるからだろうか。そんな馬鹿な嘘のようなホントの話である。入所者さんは、ひざを手術したのだから自分でトイレに行けるまでは時間がかかる。その間、簡易トイレを使うわけで、入口のドアが開けっ放しの所で簡易トイレを使うとは、なんという気の毒なことか。プライバシーとか人権とかは全く存在しない世界である。じつに不思議な信じられない嘘のようなホントの話である。そんなことが平気で行なわれている。する側もされる側も、疑問を持っていない、この神経が恐ろしいと思う。
2016年01月30日
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ブログは多くの人に知ってもらえる。声なき声に耳を傾けてくださる耳を大切にしたい。僕の知る患者さんは、ドアの開けっ放しを話すと「ついたて」を持って来てくれた。ドアの開けっ放しは規則か慣習か分からないけど、結局ドアは閉めてはもらえない。その代わりに「ついたて」とあいなった。これ以上の抗議は出来ない立場が気の毒です。代わりに僕が言おうと思ったが「後で嫌な思いをするから」とのこと。他の患者さんはどうかと言うと、今まで通りである。クレームを付けた患者さんだけのようだ。何か不思議な気がする。
2016年01月29日
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嘘のようなホントの話し病室に面会に行くと、まずは入口のドアに驚かされる。2人部屋の病室のドアはストッパーで開けっ放しになっている。<居るか居ないか一目瞭然!管理しやすい。>トイレのドアはご丁寧にガムテープがはられて開けっ放しになっている。<トイレで倒れていると困る!管理しやすい。>これって、どんな意味があるのだろうか?やはり管理しやすいからだろう。患者の人権より管理者の立場が優先か。それとも、患者の安全のための配慮と言うことか。おまけに、天井に目を向けると「防犯カメラ」まで付いている。刑務所の病院を見たわけではないが、想像するに、まるで刑務所病院だ。犯罪者でもないのに「人権」なんていう言葉は存在しない。さらにおまけに、夕食は20分で夕食を済ませないといけない。なぜなら、想像するに、5時で職員勤務が終わるからか。想像するに「ブロイラー」みたいだ!ある病院での入院生活。嘘のようなホントの話しの証拠に写真を掲載したいところだが、写真の載せ方が分からないのが残念です。信じられないホントの話しです。国立病院でこんなことがあって良いのだろうか。
2016年01月27日
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きのう日帰りで草津に行ってきました。片道160キロの日帰りは歳のせいかきつくなりました。シスターと半年ぶりの再会、車中3時間弱を有意義なドライブでした。雪は体裁程度のうっすら。米塚さんはお元気で顔色も良く、胡坐をかく姿勢でベットに座るのには驚きました。回復が早い、半年はかかると言われていたのが二カ月ですので、すこし無気味な回復力です。一時間ほどの会話をシスターは楽しみ、楽泉園を失礼しました。元気になったとはいえ、まだこのままそっとしておいてあげたいですね。僕はこれって話をするでもなく、一言二言話して失礼しました。いまは少し落ち着いてきたが、少し前まで話をするのも人に会うのも嫌だったようです。病人の姿を見られたくないのは誰しも同じことですものね。2月の末には退院できるのかもしれません。が、退院すればするで奥さんに負担がかかるし。自宅の寝室に手すりを付けたのですが、思うように付けてもらえない。まぁ贅沢は言えないし。居間には手すりがないから、訪問客がきても難儀することでしょう。訪問客は自分の都合だから相手のことを考えもしない。一番困るのは病人自身と言うことでしょうか。
2016年01月27日
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草津のハンセン病療養所楽泉園への訪問を待っていたシスターとご一緒します。9時に駅で待ち合わせだから7時には修道院を出たことでしょう。楽泉園の入所者さんが怪我で手術し、やっと30分ほどの面会が出来るようになったのを見計らってのことで、多くの人が怪我の回復を祈って面会をひかえ、やっと代表しての面会となります。本当なら、もっとお元気になってからの面会をすべきなのでしょうが。草津は雪なのかが心配です。車中、昨年11月の「朗読と音楽」の話し、脳性麻痺の女性の話しなど、半年ぶりのシスターとの会話を楽しみにしてます。きのう25日に誕生日だったので、ケーキをどうするか迷ってます。
2016年01月26日
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「ヴォカリーゼ」が気になってしょうがない。夢にも出てくる。vocaliseの作品を楽器で奏するとどうなるのか、声をいかに表現するか、そんな当然なことを今一度考えている。このことは20数年前に恩師菅原先生が亡くなられやり残したことでもある。ロシア音楽でラフマニノフを学んでいたときのことだった。ラフマニノフの「ヴォカリーゼ」の譜面は、ピアノ伴奏、オーケストラ伴奏、ソロ楽器の譜面を穴が開くほど見た頃で、自分でもピアノに管弦楽に各種ソロ楽器にも編曲した。フッと思い出し楽譜を探したが、もう捨ててない。思い出して譜面に起こそうか悩むところです。いま書かなければならない曲もあるので。ラフマニノフのvocaliseを聞いているとグレゴリオ聖歌を感じる。どなたかを亡くした時に書かれたものだろうか。
2016年01月25日
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日本人力士が10年ぶりに優勝した。おもわず拍手をした。外国人力士の台頭で色々なところで気になることがある。日本的ではない、と。久しぶりに表彰式を見た。表彰授与者がスリッパをはいて土俵に上がるのには感心できない。靴はまずいからスリッパという発想か、いや土俵に上がるには素足であるべきだと思う。以前、神聖な土俵には女性はあげないと、どこかの女性知事さんが拒否されたものだ。いくらモンゴル人力士が強いからと言っても相撲は相撲の所作が当たり前だと思う。国歌斉唱で「お立ちください」と命令口調のアナウンスには抵抗を感じた。以前は命令口調ではなかったと記憶しているが。国技に外国人力士が入ったことでスポーツ相撲になったのだから目くじらを立てる方がおかしいのかも。
2016年01月24日
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一週間のできごとをテレビで見た。グループ解散騒動と元の鞘の騒動。国会でも話される政治の歯車にもなっているとか。お隣の国では慰安婦少女像問題よりもグループ解散がニュースになると言う。アイドルかと思いきや、40になる年齢。否応なしにTVで流れる。その音楽を聞くことが出来た。きっと音楽がリバイバルされるのだろう。視聴率の仕掛け人がいるのだろうか。「ナンバーワンでなくオンリーワン」とかいう歌だった。単調で淡々とそれもユニゾンであるのに不協音程をリズムで誤魔化しているだけ。十代のアイドルなら許されても40前後じゃ、もっと磨かれた芸を披露すべきだと感じた。かわいい、かわいいだけがアイドルの条件、それが日本の芸能なんだろうか。日本の芸能の低さを見た思い。これも音楽。人が支持するのだから立派な音楽で、とやかく言っても詮無いこと。それはそれ、あれはあれ、全て事実で真実。だが、支持されずとも違う音楽があると言うことを、書き続けることにしましょう。「ナンバーワンでなくオンリーワン」とか言う音楽の利点を探してみたが、参考になる音楽性は僕には見つからなかった。40になるまで少なくとも20年は音楽練習をプロならしているはずなのに、音楽的向上は僕には見つからなかったのが残念です。音楽をする、と言うことはそんな態度ではいけないと思うのだが。音楽評論家と言われる人はいないのでしょうかね!
2016年01月24日
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この厳寒の中で薄っぺらいブルーシートと段ボールの仮屋生活をする人がいる。お上の用意した家には住もうとはしないらしい。何故なのか?そこには心を感じないからなのかもしれない。税金の無駄使いがお前たちなんだ、とのスタンスがもろに出ているのだろうか。気になる人を訪ねた。暖房が気になっていたので急きょ練炭をホームセンターで買って持参した。必要最低限の空間にセピア色に変色した一枚の写真が印象的だった。酒を飲まなければ、この寒さに耐えられないのを体感した。千円札一枚の重みを感じた。あすは我が身。芸者のあしたを見る思いで帰路についた。
2016年01月23日
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21日夜、窓を開けると寒い。テント暮らしの人には厳しい一夜。どんなに寒い寝床か。厳寒は体の中からあったまる酒が必要なのが分かるような気がする。あったまれる千円札を持参しよう。寝袋をもっと用意しよう。
2016年01月22日
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都会の居心地の悪さから逃れて近郊に流れる人が後を絶たない、と聞く。ブルーシートも少し値段のはるが暖房耐久性がいいらしい。暖房用のミニガスレンジも重宝。以前にオークションで大量に購入した寝袋。卓上ガスボンベ等々を届けました。特定の顔見知りの知人が気になって行ってみましたが、飛ぶ鳥あとをすっかりきれいにして空き地になってました。生活の痕跡もなく。みごとに、きれいにして居なくなってました。いまどうしているのか?今年はいつもより寒い。
2016年01月21日
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昨日の道路は大渋滞でした。スーパーにより駐車してる車を見ると、スノータイヤが少ない。一日の辛抱だから「まぁいいや」ですませているのでしょう。たまたま僕は草津に行くこともありで、すでに11月にスノータイヤにはしているが、草津行きがなかったら99%同じことをしているかもしれない。自分も含め身勝手な行動が社会を混乱させるのですね。自分だけならいいや、と。きのうはホームレス関係のことで秩父方面に行き、夕方と夜の運転は大変でした。陽の当たるところの道、そうでないところでは路面が凍っている。スノータイヤでもシフトダウンしての走行。雪道になれていない、おまけに普通タイヤなのかツルツルと蛇行。ガードレールにぶつかってる車を目撃。今日一日、運転は自粛します。
2016年01月20日
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あるシスターから電話があった。草津の入所信者さんの訪問ができるのか?と。お見舞えをひかえていたが顔だけでも見たいが、まだダメかと。いま少し控えるべきだとは思うが、草津教会の御ミサを十数年来ささえてきたシスターなので、顔を見る程度ならいいのかも。26日、朝いちで出て夕方帰る日程で、ご一緒することにした。行きは一緒で夕方シスターは電車で帰路、僕は28日帰宅。草津教会の十年前はカンコドリだった。ハンセン信者は4人。一人は動けない、一人は盲人、そして夫婦信者だった。外部からは司祭とシスターと一部近隣信者だけ。そこに僕ら夫婦が参加するようになった。入所者信者と外部信者の間には、重く厚い壁が存在するのを僕らは感じていた。入所信者さんも同じように感じていた。同じ心を持つ者どうしなのに、なぜか溶け込まないんですよね、何となく。それは今もなお続いていると僕だけだろうがそう思う。そんな中の三人のシスターが来るようになった。僕ら夫婦ともマッチして雪解けを迎えたが、このシスターの移動が大きかった。ハンセン信者は心から信頼していたと言うのに。昨年の11月に信者さんが手術をした時、会えるのをまだかまだかと催促されていたが、今やっと30分位ならいいのかな?そこまで回復してきているので、26日の訪問となりました。入院の経験者なら誰しも経験していること。見舞い客も痛しかゆし。食べられないのに有名銘菓を持参したり。マリアさまのご像だとかのオンパレード、ご像だけに粗末にもできないし、人にあげるわけにもできないし、どうしたものか?おまけに、指のない患者さんにロザリオとくる・・・要は病者のことより、自分の都合で自己満足の押しつけだということを知るべきだと思います。そんなことより、遠くから祈っていれば良いことなのに。シスターの心配の日々を考えると、やはりシスターの行動が正しいのだと思います。国境をこえた国で活動しているシスターと子供達から、この病者に「ロザリオの祈り」が一昨日届けられた。名もなく遠くで無心で祈る子供達の祈りが。これが本当ですよね。そう僕は思います。
2016年01月19日
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前回のブログで「手巻き時計」を書いたが、いまひとつ気になるものがある。手巻きの「メトロノーム」(ヌーシャテル・ポケット・メトロノーム)。サイズは懐中時計くらい。超珍しい。これもネジを巻きすぎて使えなくなった。壊れてもう三十年になろうか。電子メトロノームが主流の中、やっぱりアナログに戻りたいですね。とは言っても修理方法が分からない。これを買ったのは大学3年の21才、ウイーンの楽器店ドブリンガーだった。本当に重宝していた。メトロノームの復活はあるのだろうか。
2016年01月18日
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手巻き時計が壊れてそのままになって二三年になろうか。いつも気になっていたが、直さない理由は修理費用。新しくか購入金額以上にかかるからだ。娘からプレゼントされた時計だから、やはり修理したい。人の不幸をよそに、娘家族は無事にリタイヤできたが、銃後の家族の苦しみは経験者でないと分からない。そんな時間を乗り越えてきた時の時計だけに大事にしたい。購入元の善意でなんとかなりそうなのが嬉しい。いま使っている時計は自動巻。手巻き時計だと、あさ床の中でリューズを巻く感触が何とも言えない。耳もとに近付けると秒針の動く音が聞こえる。金属のはねるような響き。この秒針の音が、その日の体調によって微妙に秒針の音が違って聞こえる。人間の耳は聴診器です。2月中には動く時計が戻ってくるのが楽しみです。
2016年01月17日
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草津にあるハンセン病療養所の楽泉園を訪問してきました。少しはのんびりできるかと思いましたが、いつものように思うようにはいきませんでした。買物をしに街にくり出しました。9時半に出て4時帰り。町まで車で一時間の距離です。10年前に買物のお手伝いを始めた。60年も隔離生活をしていたのですから、シャバでまさか自分が買い物をするとは想像すらつかなかったわけです。今でも時折話すのは、スパーでリンゴ一個を自分の手で品定めをする自分を。彼らの口から必ず出る言葉は「逝った人達にもさせたかった。申しわけない。」と。一人でも多くの入所さんの買い物のお手伝いをしたいものです。世の中には、リタイヤをして時間に余裕のあるご仁もいると思います。ほんの少しの時間をさいてくれるといいのですが。楽泉園に行くようになって10年、このことを多くの人に話をしてきたが、参加してくれる人は只の一人もいません。でも、必ずどこかにいると思いたいです。
2016年01月16日
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今年一番目の大切な仕事が決まりました。12月6日(火)6時開演、ベタニア会の「チャリティーコンサート」、会場は練馬文化センターの小ホールです。光栄です。うれしいですね、僕らを使ってくださるとは。一月からさい先がいいですね。お役に立てるのが何よりです。信者の演奏家を中心に演奏したいですね。
2016年01月15日
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ハンセン病療養所の入所者さんのこと。みな様のお祈りのおかげで回復しています。奥さまから「皆さんのお祈りのおかげです。皆さんにお伝えください。ありがとう。」とのことです。医者もリハビリの先生も看護婦さんも、みなさん回復の早いのに驚いているそうです。普通なら半年はかかるのに、とのこと。僕の友人にもヒザの半月板を割って二ヶ月足を延ばしたままだった、と聞くと、術後二カ月でリハビリは早すぎでは?そう思います。医者もリハビリの先生も看護婦さんも「分かっているのかな?ハンセン病の患者さんだと言うことを。」健常者とは違うと言うこと。不思議に思います。ハンセン病療養所の専門家だから当然分かっての治療だと思うのですが。だって、膝に感覚がないんだよ。痛みが感じないんだよ。痛みを感じないから、膝を曲げようが伸ばそうが自由にできると言うことではないのかな。ちょうど痛み止めの注射をしてリハビリをするようなもの。そんな素人考えを持って不安になります。専門の先生の判断だから門外者の言うことではないけどこれから出て15日に帰宅。ワイフと訪問します。今月は15日の御ミサ1時です。
2016年01月12日
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30年前?に書いた曲が出てきた。習作。バッハのゴールドベルク変奏曲、モーツァルトのピアノ曲とフィガロ全曲、それにドビュッシーとサティーのピアノ曲。探せばまだあるのかも。捨てる書類箱の中に隠れるように入っていた。あのころ、捨てるか迷って焼却しなかったのだろう。探せばまだあるかも。でも見つかっても詮無いこと。苦しいだけ。ゴールドベルクは弦楽四重奏とギター四重奏の二曲。ギター四重奏は珍しいはず。今見てもやはり撥弦楽器の方に分がある。もともとチェンバロのためだから当たり前だが。それにペン書き浄書譜もある。ずいぶん勉強していたんだなぁーと我ながら感心している。モーツァルトのピアノ曲を、コンチェルトを書く勉強のために借用していたあの頃を思い出す。先生に怒られ、あきられ、それでも食らい付いていたころを思い出す。フィガロの全曲の全曲浄書、その後にコンデンス(ピアノ伴奏)にして、やっと書けたかと思いきや、さらにその後にオーケストラ2管編成で書きなおしている。どれも一週間後のレッスンには完成させていた時代。これでもか、これでもかと要求されたあのころは別に苦もなく書いていたし書けた。僕の一番充実した時代だった。あのころは、ベートーベンなどの交響曲一曲を一週間で写譜し、そのあと編曲したり、若さと情熱があった。ドビュッシー特にサティーには強い抵抗感を持ちながら深く傾倒している自分に悩んだものです。それが今では無抵抗に受け入れている。グレゴリオと印象派との接点は僕の糧になっている。いまこの歳になると、昔に慕っているほど気力もなく目も悪くしたのでマイペースに甘んじるためにも、市のゴミ焼却センターに段ボール3つを持参して自分で処分してきた。自分でやるしかないので、音にできなかった作品に「ご苦労様」と。わりとあっさりしたものです。2016年1月9日の出来事でした。
2016年01月11日
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30数年前の話し。菅原先生の作品を知る理解するうえで模写が一番のはや道。先生から「模写しなさい」と先生の作品を手渡された。模写は楽譜を全く寸分の狂いもなく書くわけで、この技術習得には大変な練習と忍耐が必要です。消しゴムが使えないから一回では完成しない。何十回も書き直しをすることになる。なんといってもペン書きだから間違ったら終わり。ちょっとした集中力の欠如で失敗して、また新しく書きなおしの繰り返しの話を先生にすると「間違った部分はそのままに最後まで書きましたか」と聞かれた。やばい!エライことをしゃべった!後悔先に立たずである。さいわい先生は気分が良かったのか、おだやかにこの話はおしまい。写譜はおわり!そうなんだ、最後まで書かなければ。音楽の流れ、一気に書いたその息吹を楽譜から感じ取らなければ、作曲の筆の流れを留めてはいけないんだ、とやっと気が付いた。完成した模写譜をお見せした。笑われた!!!フラーゼ(フレーズ)の線。先生はご高齢なのでペン先が震えるからフラーゼの線が震えてる。それを全く同じように虫眼鏡を使った書いている。もちろん震える回数まで同じにしているのだから。「そこまでする必要はありません」と笑われた。このようにして模写の勉強をしたものです。先生の晩年はペンではなくサインペンになった。サインペンだと濃淡がないので書き順が、どこからどこまで一気に書いたのか濃淡が分からない。サインペンの欠点かもしれない。先生の作曲スタイルは、最初から一気に清書する。考えられない事実。しかもミスがあっても数カ所程度。サインペンの欠点を聞かれて恐る恐る答えると「創作の目で見えてないからです」と、冷ややかにあっさり一言。比較はおこがましいが、僕はいまだにエンピツ書きです。僕の場合は消す作業があまりに多すぎるので。
2016年01月10日
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羽ペン。ドイツで習ったのはガチョウ、カモメほかの羽。カラスが身近だったのでこれを使ったが、入手方法の詳細はやめにしておきましょう。古い時代の作曲家の創作環境を知るうえで一番大切な過程、作曲を学ぶものは何度もこの行為をやります。万年筆のペン先と構造は全く一緒で、書くと言うことは、まずは羽の品定め、ペン先を作る削ることから始まる。さぁ、これから書くぞ!と言う前に、儀式をするかのようにペン先を削るわけで、この瞬間がとても大切な行為と言うことだろう。いまはエンピツ削り器を使うだろうが、これからやろうとする創作行為を高く引き上げるためにもその態度がエスプリが必要かもしれませんね。音符の玉っころのふくらみを付けるには、羽ペンの削り方に秘密がある。秘伝みたいに。それに一本二本ではなく十本単位で用意しての創作活動だったことを想像するだけで楽しいですね。時代の流れか、こんな書く姿勢が無くなっているのが残念です。
2016年01月09日
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菅原先生の門をくぐって、まず第一に鉛筆から学んだ。(初めて作曲を学んだのではありませんよ。日本とドイツで作曲を学んだ後の話しですから。音大で学んだのを全て忘れて一から始めたんです。)日本では2Bだと。どうして2Bなのかは不明。聞くことは厳禁。しょっぱなから怒られる。なぜ2Bなのか意味が分からない。先生は葉巻をくゆらせながら沈黙。この沈黙が怖い。小学生の子持ちの大の大人がオシッコをちびりそうになるし、早くこの場を逃げ帰りたくなる。先生のもとで、こうして学びました。「君の鉛筆はなぜ丸いのですか?」とくる。(電動鉛筆削り器で削ったのだから)そう鉛筆はナイフで削ってこそ書く者の礼儀だと、教わった。それから鉛筆は2Bと決まっている。エンピツの削り方から教わった。この歳になると、作曲を学びたいと若い楽徒と知り合う。なぜ2Bなのかとしつこく聞いた時点で終わりにしている。問うより自分で考えろ、です。言われたことをやるだけ。「何故」は禁句なり。日本では墨を使うことがある。硯(スズリ)と墨を持参。「墨は何ですか?」と。 「?」意味が分からない。 話の分からない僕には教わる資格がなく、違うレッスンに逆戻り。そして家に帰り、墨についてを調べてやっと理解できた。墨には油煙と松煙とがあり、好みもあろうが使い分けが必要となる。書くためのペン先、これを見つけるのに大変だったのを思い出す。そしてたどり着いた正解は「Gペン」だった。だが、そのGペンの使い方に時間がかかった。まずは自分で試みるのであるから。決して教えてはくれない。創作に厳しい先生でした。
2016年01月08日
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年末年始の草津で、久しぶりに写譜ペンを使って模写した。久しぶりと言うか10年ぶりかも。バッハのマニュスクリプト(オリジナル)からの模写です。久しぶりだと感が鈍って書く時間のかかること、かかること。日頃の精進の大切さを改めて感じる。インク持参のポカで、あわてて百均で黒インクと墨汁を購入。もうこの段階から写譜をする資格がない。菅原先生がおられたら怒り心頭「来なくていい」と出入り差し止めを言われるところ。バッハのマニュスクリプトと言ってもバッハ本人の手書きじゃないから、それだけに色々と推理ができて楽しい。音符の書き順が理論的にも推理できる。インクの濃淡、筆圧、音符の流れ、消し後など虫眼鏡を使っての譜読みは楽しい。10年前はこんなことに時間をかける余裕があったけど、いまはそんなゆとりがないのが悲しいことです。それだけ創作欲がないと言うことでしょう。写譜を始めたのは音大の作曲では習わない写譜と模写。自分で始めたのは初めは鉛筆で、そして余裕が出て作曲家気分で市販の写譜ペンで。これは素人作曲程度。お笑いだね。恥ずかしい話しですが。伝統的には、鉛筆、ペン書き、インクは青、黒に、日本だと今度は墨で、それらの間に羽ペンがあって消し方を教わって・・・最後は現実的に鉛筆とマジックペン書き。書く行為ひとつをとっても奥が深いですね。もうそんな教え方をする人はいないのでしょうね。
2016年01月07日
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今年は、草津の楽泉園で年を越しました。31日の「除夜の鐘」入所者さんとの会話で「除夜の鐘」を鳴らしますか?「寒くて108つもできない」「鳴らしてもいいですか?10か20でも」「どうぞどうぞ」・・・いろいろ考えた結果やめにしました。深夜に突然いい加減な数を鳴らすのは良くないと。深夜ゼロ時、温泉に入りながら耳を澄ませても除夜の音は全く聞こえなかった。2キロ先には草津の温泉街があると言うのに。ハンセン病で強制収容された患者さんが多い時代は1300人はいたと言う。いまは100人もいない。そのほとんどのご遺骨は、死してなお郷里の土に帰ることのできない霊魂を思うと、「除夜の鐘」を108回鳴らしてあげたかった、と心に残ります。今年2016年12月31日は有志と一緒に「除夜の鐘」を鳴らしたいと思うのであります。それにしても草津の深夜は寒いです。除夜の音の聞こえない深夜に、なんとなく「重監房跡地」もう出?をしました。それにしても楽泉園の夜は寒い。暖房もなく、電灯もなく、空腹、ライ者特有の神経痛は激痛だったろう。何も犯罪を犯したわけでもなく、見せしめか、気まぐれか、どちらにしても理由なき罪?で重監房に入れられ凍え死に発狂したライ者がいたことを忘れてはならないと思います。これは△△一人の責任ではない。広い意味で僕らも負うべきだと思います。多くの人が好奇心か偽善か償いか知らないけど、楽泉園の重監房資料館にバスを連ねて訪れる。裏門(正門ではない)から入り資料館を見学し、「ひどい、かわいそう」なんて神妙になって裏門から帰ってゆく。ただそれだけ。その後のアクションなんて考えてもいない。まるで原爆資料館詣でと同じ構図なり。わざわざ遠くから来て、実際の「重監房跡地」も見ないで帰るなんて、どんな神経をしているのだろうか。いつも不思議に思います。不思議と言うと、我がカトリック信徒も同じ。月に一度、わざわざ遠くから来て、主の食卓に招かれ、今はなきイエスが愛したラザロと共に食卓を囲みながら、花の一輪でも「重監房」に献花する気持ちにはならないのだろうか。これはいつも思う不思議なことです。
2016年01月06日
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昨年11月28日の朗読と音楽「私の生きた恵みの分かち合い」の音楽チェックをしました。メイン曲をどうするか、編成をどうするか、の基本の部分から考えてみました。これで良かったと思います。メイン旋律を最後まで流すのは台本を傷をつけること。音楽の印象をいかに薄くするか。聞きやすく、演奏は難しく、安っぽくならず。グレゴリオ聖歌の借用旋律と模倣。もう少しセラがあっても良かったのでは、その方が素人朗読の後方支援ができるので〔セラとは詩編から由来する言葉でBGMとは違う〕。台本については、手直しは不要だと考えてます。出版につなげるにも。再演を考えると、朗読者は問題ないが、問題は演奏者。演奏者の技量を視野にその都度編曲するしかない。それに、もともとの原曲は6本だったのを4本(Voce,Fl,Pf,Vc)にしたのだから。六人より四人の方が安上がりが大きな理由。その分、曲に大きな負担と演奏者にも負担がかかることになるけど、お金の出どころを考えると仕方のない話しです。もしかすると3本でもいいかもしれない。2本でも良いけど、こうなると今度は朗読者に負担が重くのしかかるから。
2016年01月05日
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深夜の楽泉園を歩いてみた。暖冬とは言っても寒い。重監房跡地に行った。ロープがはられて進入禁止だけど懐中電灯を片手に侵入。うっすら雪の薄化粧。雪が月あかりでキラキラ輝いている。ここだけ別世界。暖房も電灯も食い物もないない尽くしの独居房に、裁判での判決刑でもないのに犯罪者扱いされ、△△の気分一つで入れられた人たちを思うと「たまらなく」なる。中には凍え死にした人もいる。とにかく寒い。恐怖感がつのる。お祈りも早口になり、さっさと引き返した。この負の遺産はもうじき無くなるのだろう。負の遺産は国にとっては目の上のコブなのだから。
2016年01月04日
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5泊6日の草津から渋滞を避けて早めに帰宅しました。あの大きな本、デュボアのコントラポアンを持参して開かずじまいだった。バッハの管弦楽曲を歌とピアノに、弦楽四重奏に、とコンデンススコア―を書いた。それなりに大きな収穫を感じた。サティーのピアノ曲をトリオに一曲デッサンが出来た。これは今後への大きなヒントを与えてくれた。グレゴリオは目に負担がかかるので止めにしたが、アンティフォナの聖務日課だけ少しは出来たので、今後につながる。それに現行の「教会の祈り」が元旦から朝晩を続けているが、三日坊主に終わるのはたいしてかからないかも。国立ハンセン病療養所栗生楽泉園の病棟に見舞う。多くを考えさせられた。病室のドアは開けっ放し。ドアストッパーがかけられ開けっ放し。廊下を歩いて病室が一見できて患者のためにそうしているのだろう。病室のトイレも開けっ放しだから、トイレで倒れるを想定すれば、患者のためにそうしているのだろう。1998年にハンセン者は人権を回復した。人としての権利をやっと取り戻したと言うが、はたしてそうなのであろうか?プライバシーと言う言葉は、ここでは通用しないし、誰もそんなことを感じもしない。面会者の感想として聞いたことがないので・・・入院者は信仰の人。祈りの人だけに病室でも祈りたいのは当たり前だろう。が、口にだして祈ることが出来ないのだから。職員の目がいつもあるのだから。あけ放たれたドアごしに。今月の御ミサは14日。こんど行ったときに同じならばまた言おうと思う。〔気になることがひとつある。外の者が言うことで中の者に何倍もの嫌な思いをさせることが・・・〕
2016年01月03日
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