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2月13日、夜12時。わたしは、外苑前にいた。その日、国立競技場で行なわれたサッカー日本代表の、ワールドカップ壮行試合を見たからだ。試合には勝ったものの、その内容にわたしは納得していなかった。それは共に観戦した仕事仲間も同じだったらしく、ミゾオチのあたりで存在感を発揮している不満の沈殿物を払拭すべく、わたしたちは国立競技場近くのレストランで食事をとったのだ。そして外に出たとき、時計の針は12時を刺していた。帰路につくにあたっては、地下鉄の外苑前駅から電車に乗り、銀座線で外苑前から一駅行った表参道まで行き、そこから半蔵門線に乗り換えることにした。12時半近くになりようやく電車がやってきたので、当初の予定通り表参道で降り、半蔵門線を待つことにした。「おやっ!?」ここでちょっとしたトラブルに遭遇する。半蔵門線で新宿まで行こうと思っていたのに、価格表には新宿の文字がないじゃないか!? 「おちつけ、こういうときこそ冷静になって考えるべきだ」と、その答を得るべくしばし思案をめぐらすが、主観や先入観を排除したときに辿りついたのは自明の事実・・・つまり「半蔵門線は新宿に止まらない」ということだった(アホですか、わたしゃ!!)。「いったいわたしは、何年、東京で暮らしているんだ」と自問自答しながらも、とりあえずは現時点で次にとるべき道を探す。 美味しい珈琲と暖かい布団が待つ我が家があるのは、新宿である(新宿駅からはけっこう歩くけど)。銀座線で国立青山一丁目まで行き、そこで大江戸線に乗り換える。そして新宿までいくのが、今となっては最善の策のようである。決意を新たに、今来た銀座線への道を戻・・・ろうとしたら、ホームへ下る階段の手前に柵が置いてあり、そこにはなにやら文字が書かれていた。「本日の電車は終了しました」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あああああああっ、終わってるよ電車! 終わってるよ、電車! I missed last train!!「いったわたしは、何年、東京で暮らしてるんだ! いったいわたしは、今年で幾つだ!!?」しかし、自己嫌悪に陥りかけるそんな己の弱き心にムチを入れる。「帰れらねばならない」。いくら多少なりとも暖かくなってきたとは言え、この2月の寒空の下で夜を明かす訳にはいかない。周囲には、開いている店もまったくと言っていいほどないし。そうだ、今わたしの目の前には、家に帰るという確固たる目標があるのだ! ……トホホ。 まあ、実はそんなに意気込む必要もなかったりする。表参道からなら、深夜税が入ってもタクシーで2~3千円で帰れるのだから。 本来なら必要ない出費だけれど。 不慮の事故で手元を去ることになった、財布内の不憫な夏目漱石との別離を惜しみ………って、お~~~い! 夏目さん、いねーーよー!! もちろん、新渡戸稲造も福沢諭吉も伊藤博文も!!「わたしは今年で幾つだ!! 社会人何年目だ!!?」 さて、ここで問題です。 今年で○才を迎える聡明な社会人は、こんなときにどうするべきでしょう?(1)コンビニに行ってお金を下ろす (2)とりあえずタクシーに乗り、家に着いてからお金を払う (3)交番に行ってお金を借りる どれも不正解です。 こんなとき、社会人なら“歩く”ものです。 考えてもみてください。社会人とは、普段は会社のデスクにかじりつき、様々な問題と直面しながら胃をキリキリとさせるような日々を送っているのです。運動量は不足し、ストレスは肥大するばかり。 そんな人にとって、これら諸問題を解決しえる千載一遇のチャンスを逃す手はありません。そう、まっとうな社会人なら、迷わず“歩く”という選択肢を選ぶものです。 まず、駅のそばの交差点に立っていた地図をじっくり眺め、自分の現在地と目的地、そしてそこまでの道程を確認する。現在いる地点は、表参道。これは間違いない。そして、目的地であるところのわたしの家は、新宿から徒歩15分ほどの地点(図1参照)。 とりあえず、進むべき方向は“北西”である。 まずは、表参道を西に進む。明治通りから北上できるが、それでは少々ロスが生じるので、表参道の適当なところで右のわき道に入る。そうしてショートカットして明治通りに出て北上、さらに明治通りから適当なところで左手に入る。これで、代々木まで行けるはずだ。ならば、あとは「勝手知ったるなんとやら」。新宿までは目と鼻の先だし、新宿まで行ければ問題なく帰れる。 これで無事、帰路は確定(図2参照)。さっそく歩き出すことにする。 それにしても、いざ歩き出すとさっきまでの自己嫌悪間や落胆がウソのように消えてなくなっていることに、我ながら驚いてしまう。ディナーを少々食べすぎ腹ごなしの必要性を感じていたからか、それとも試合観戦のために気分が高揚していたからなのだろうか? はたまた、ヘッドホンから流れてくるフェイバリットミュージックのためか? いずれにしても、わたしの足取りは軽快なリズムを刻み続けていた。適度に寒さを覚える気温も、「歩く」という運動を継続させるのに一役かってくれているのだろう。 冬の夜には、独特の“におい”があるが、わたしは幼いころから、このにおいが嫌いではない。この場合の“におい”は、嗅覚で知覚しているものではないのかもしれない。冷たく乾いた空気は、肌にピリピリとした刺激をあたえ、鼻腔から入り込んでは鼻の付け根辺りをツンとさせる。店などが閉まっているために食べ物などの人為的な臭いが消え、とってかわって、街路樹やコンクリート、空気そのものの“におい”が街を満たす。 30分ほど歩いただろうか、住宅街の細い道から大通り=明治通りに出たので、右折して通り沿いを歩き出した。大通りに出ると今度は、街路樹などの繊細なにおいにかわり、車が吐き出す排気ガスや、工事現場から漂うアスファルトの溶けたにおいが幅を利かしだすが、これはこれで風韻があり、決して悲嘆するようなことではない。。 そうこうしてしばらく歩いていたが、ふと気になることがあった。前方に見える歩道橋に、大きな黒塗りの文字で「外苑西通り」と書いてあったのだ。 「おや、ここは明治通りのはずだが、いったいなんのことだろう?」 不思議に思いながら、道路工事現場で通行者の誘導をしていたお兄さんに声をかけた。「ここは何通りですか?」「え~っと、外苑西通りです」・・・・・・・・・・・・・・・・ナゼっ!? なんでなんで!?? 明治通りじゃないの!!?? 何はともあれ、現在地を確認しなくてはならない。幸いなことに、前方に交番が見えたのであわてて駆けよる。「パトロール巡回中です」(机の上のプレートより) おおおおおおお~~~~いっ!! 日本の公僕はナニをしとるんだ!! わたしが通り魔に追いかけらていたらどうする気だい!! しかたないので、机の上にのっていた地図帳を失敬する。 間違いない。やはりわたしが今居るのは、外苑西通りのようだ(図3参照)。 それにしても、何で!? ありえない、ありえないよっ!! わたしは間違いなく、西に向かって歩いていたのだ(そりゃ、ショートカットのために脇道に入ったけど)。それが何故、スタート地点より東についてるんだ!? 思わず『ドラゴンクエストII』のロンダルキアの洞窟を永遠に徘徊した悪夢が脳裏をよぎった。あるいはこのあたりは、『ドラクエ』のワールドマップみたいに、端まで行くと反対側から出てきちゃう仕組みになっているのかもしれない。 「おちつけ、こういうときこそ冷静になって考えるべきだ」と、その答を得るべくしばし思案をめぐらすが、主観や先入観を排除したときに辿りついたのは自明の事実・・・つまり「下の図のように歩いてきた」ということだ。 あぁもうイヤだイヤだ。これだから歩くのはいやだったんだよ。どうする? もうタクシーに乗っちゃう!? ………あ~そうだった。金ないんだったわ、わたし。こんな風にグダグダしてんのに、未だお巡りさん、帰ってこないし。 しかたないので、地図を見帰り道を再検索してから、交番を後にして歩き始める。時計の針は、1時30分を指していた。 念願の明治通りに出られたのは、それからさらに30分ほどしてからのことである。今度こそ、ちゃんと標識を見たので間違いない。もうショートカットとかはせず、素直に大通り沿いを歩くことにする。寄らば大樹の陰、である。ちがうか。 そうこうしてしばらく歩いていたが、ふと気になることがあった。電車の走る音が右手から聞こえてきたのだ。こんな時間に走っているのは、電車自体は回送車もしくは運送車だろう……? いやっ、そんなことじゃないよ、重要なのは! 右手から聞こえるはずがないんだよ、左から聞こえなきゃ!! 線路(山手線)が走っているのは、左手のはずなんだから!! 疑心暗鬼にかられながら、音のした方…つまり右手に曲がってみる。幸い駅がすぐ側にあったので、現在地を簡単に確認することができた。「原宿駅」・・・・・・・・・おいっ!! な~~~んで原宿なんだよ。わたしが明治通りに出た地点は、すでに原宿より北だったはずだぞ。それがなんで原宿に戻ってるんだよ。 ………あっ、そうだ。わたし、明治通りに出てたとき左に曲がったわ。何でだろ? あまりに不条理なことが続きすぎて、痛みや悲しみや憤りに対する感度が鈍っているのか、わたしは自分の過ちを冷静に振り返ると、線路沿いを新宿に向かい歩き出した。 代々木を超え、新宿の脇をぬけ、ようやく家に着いたのは3時近くのこと。本棚に並んでいた『東京を歩く』なる本で、自分の歩んできた道程を確認すると(図5参照)、歯を磨き、目覚まし時計をセットして眠りについた。
2004年02月29日
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に、行きました。昨晩のことです。*****************************アンコールの初っ端は、わたしが大好きな大好きな楽曲『幸せになろう』。今日は、声のコンディションもほぼ完璧。きっと最高の『幸せに~』が聞けるだろう!と、期待に胸を躍らせていたのもつかの間。出だしの声の伸びの無さに、落胆より先に疑問が沸き起こる。「あれっ、アンコールの“間”が、彼女の集中力をそいじゃったかな?」ステージのほぼ真横の席だったので、表情はわからなかった。歌声が途絶えたときには「また歌詞を忘れたか?」と、やや失笑。彼女が服の袖口で顔をぬぐいはじめたときですら、にわかには何が起きたか理解できなかった。観客の悲鳴にも近い声援と、彼女がぬぐっていたのが正確には目元だと解って、ようやく事態を飲み込めた。まるで子供のように、服の袖口を指でいっぱいいっぱいまで伸ばし涙を拭くその仕草が、彼女の「ただごとじゃなさ」を物語っていた。わたしに涙はなかった。ただただ、呆然としてしまった。正直、そんな姿を見ることになろうとは予想だにしていなかったから。最後の歌を終え、舞台を去る際に観客席に背を向けた、その最後の表情を見たとき、胸に沸き起こった圧倒的な感動、郷愁……そしてそれらに紛れ込んだ夾雑物=かすかな不安――。それが単なる杞憂でしかないことを、今はただ切に願う。*****************************ちょっと自分的にまだ気持ちが整理できていない点も多く、いずれレポートをまとめたいと思っているんですが、とにかく全て・・・そう、あんなこともこんなこともひっくるめ、今はただただ「良かった」とだけ言いたいのです。
2004年02月11日
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この本を読んだ人たちは、この本のことを“ナニ本”として読んだのだろう? 暴露本? 自伝? インタビュー本? ノンフィクション?? 本を読む上で、その本がどのようなジャンルに属するかなどということは、本来たいした意味を持たないはずだ。でも、この作品において「半生を描かれている」高田延彦なる人物が著名な元プロレスラーであり、この本が彼のインタビューを元に構成されている以上、この『泣き虫』が“ナニ本”であるかは、読み手にとって大きな意味を持つように思うのだ。 『泣き虫』とは、元プロレスラーであり現在は格闘技イベント「PRIDE」の総帥(?)である高田延彦が、自身の生い立ちから現在までを赤裸々に語った内容を元に構成されている。著者は、現在、日本で最も(名実ともに)売れているスポーツライター、金子達仁氏。 プロレスラーとして3つの団体(細かく言えば4つ?)に籍を置き、そして最後は“格闘家”としてPRIDEのリングにこだわり続けた高田が、移籍の経緯やプロレスの舞台裏を明かしたため、プロレスという“興行”の有する虚業性を白日の元にさらしてしまった……ということでも話題になっている(そうだ)。 わたしは、プロレスというエンターテインメントに対する思い入れは、ないに等しい。が、興味は大いに抱いていた。 プロレスは、非常に奇妙で好奇心をそそられる物件だ。存在そのものは、かなりメジャーである。さほどスポーツや格闘技に関心のない人でも、著名なプロレスラーの名前くらいは耳にしたことがあるだろう。スポーツ新聞の一面を飾ることも、決して少なくない。にも関わらず、プロレスは“スポーツ”としての市民権を得ているとは、とても言いがたいのだ。いや、「認められていない」と断言してもさしつかえないだろう。 その理由のアルファにしてオメガ、それが「所詮は出来レースなんだろ」とい周囲の視線。つまり、スポーツの定義のひとつである「筋書きのないドラマ」と背反する存在だという認識だ。だが、そのような「色物」としてのケチがついているにも関わらず、会場に足を運び、マット上で繰り広げられるプロレスラーの一挙手一投足に熱い声援を送るファンは山ほどいる。ファンの熱狂と、それ以外の人たちの認識の間には、歩み寄りの議論を展開する余地すらないほどに、絶望的な離隔が存在するのだ。 わたしがこの本を手にした主な理由は、その絶望的離隔を埋める何かが――色物と熱狂の触媒となる何かが、この本には存在するのではないか、と思ったからなのだ。 で、読んで見ての感想。 かなり「がっかり」である。 ひとつには、ここで描かれている“プロレス界”が、なんとも平板というか平面的というか、いまいちリアリティに欠けるから。その最大の理由は、結局のところ本の中で描かれているのが“高田の視点で切り取られた”プロレス界でしかないからだろう。 例えば、こんな叙述がある。 高田は、最初に所属した団体“新日本プロレス(以下新日)”から、藤原という先輩レスラーに誘われるカタチで脱退する。だが、高田を誘った当事者である藤原は、新しい団体の理念に対しても、そして元所属団体である新日に対しても自分の感情やスタンスを明確に打ち出すことがない。杳として胸中の知れぬ藤原と高田の間には、いつしか埋めがたい距離感が生まれていくのだが、この本では、その藤原の真意については「あの人がどういう経緯でユニバーサル(新団体のこと)へ行ったのかは、いまでもわからないままなんですよ」という高田のコメントを記したのを最後に、以降、言及されることはない。 ここに挙げたのは最も顕著な例であるが、とにかくこの本、高田以外の人物の胸中や真意は、ことごとく無視しているのだ。例えそれが、高田の人生を大きく左右したであろう人物や状況の場合でも、である。 確かに高田は、プロレスという世界においてメインストリームに座した人間であろうし、そのような人物の視座で捕らえた世界には、それだけで特別な価値があるはずだ。にしても、この本が“著者初の書き下ろしノンフィクション(帯より)”との惹句を掲げる以上、他の角度からも光を当て、高田の生きた世界に立体感を持たせる必要があるのではないだろうか。アイドルのグラビア写真などが、強烈な光を当てて撮影することにより絵画的な美しさを得るのと引き換えにリアリティを喪失してしまうように、どうも、この本の中で描かれる世界は、手で触れられるような質感や陰影に乏しいと思えてしまうのだ。 その思いは、『泣き虫』というタイトルをつけたのは著者である(あとがきより)という事実を知るにつけ、より一層強くなる。“泣き虫”……この言葉を以って読者に想起させたいのは「弱さと実直さ」「ずるさとピュアさ」「失望と希望」「挫折と成功」……つまりは、「清濁併せ持った人間のリアルな生き様」みたいなもののはずだから。 ちょっとタイトル、上滑りしてます。 もうひとつ、釈然としない理由がある。高田の行動原理や高田をとりまく状況などが、読んでいてまったく理解できないことが多々あるのだ。「理解できない」というのは、わたしの感情レベルの話でなく、理論として、である。 例えば、それはこんな場面で露になる。 高田がプロレスラーを志したのは、一にも二にも、アントニオ猪木に憧れたからだ(そうだ)。この作品の冒頭部分では、高田少年がいかに猪木に心酔していたか、そしてそれ故に、いかに彼がプロレスラーになることを夢見たかが、それはそれは熱い筆致で書かれている。実際に新日に入団してからの高田は、雲の上の猪木よりも直接面倒を見てくれる先輩(前田や藤原)に心惹かれていくが、猪木の付き人になり、さらにその猪木からメインマッチの舞台を与えられたことで、再び“猪木熱”が再燃したことまで丁寧に描かれているのだ。ところがその直後、先にも述べたが、高田は先輩に誘われ「猪木を裏切る後ろめたさを覚えながら」新日を脱退してしまう。 猪木に憧れたために高校に進学することなく新日に入団し、そしてメインマッチを務めさせてくれたことで「この一件でしょ。これでまた、ぼくの中では(憧れや感謝の気持ちが、前田や藤原より)猪木さんがガーッとリードですよ」とまで言わせしめた猪木。だが高田は、その猪木を裏切ってしまったのだ。その胸中や、いかほどか!? そして、それほどまでの決断に至った理由とは!? 読んでいるこちらも、俄然いろめきたつ。だが、その理由として書かれているのは「(先輩である藤原から直接誘われた以上)選択の余地はなかった」のひと言。はっきり言って、こちらは完全に置いてきぼり。肩透かしをくらってしまう。 なんで? なんで選択の余地がないの? 藤原より猪木への想いが俄然リードしてたんじゃなかったの? ぜんぜん、納得できません。これって、単にわたしが女で、このような“体育会系オトコの社会”に属した経験が無いからなの?? 違うと思うんだけれどな~。 他にも理解できない話として、こんなものがある。 高田が藤原や前田とともに立ち上げた団体“UWF”は、旗揚げまもなく経営難で解散。そして高田や前田は、プロレスの中に本格的格闘技志向を取り入れた“新生UWF”という団体を立ち上げる。「ただでさえ経営難だった団体から派生した“子団体”に未来があるのだろうか」と疑問視するのが、普通の感覚だと思う。ところが、これがもう創設直後から、ファンの“熱狂的支持”を受け、彼らはたちまちプロレス新時代の寵児となった――のだそうだ。ところがここでもまた、なぜそのような「HAPPYな矛盾」が生まれえたのか、ほとんど説明がなされていない。またしてもこちらは、置いてけぼり。著者の筆が熱を帯びてくればくるほど、読み手の気持ちは引いてしまう。そして最終的に、わたしはその理解できない理由を“プロレス的なもの”に求めてしまうのだった。「結局のところ、わたしはプロレスがわからないから、高田と、それをとりまくことごとくが理解できないんだろうな」と。 この、2つめの「釈然としない理由」は、この本そのものの存在意義を揺るがしかねない大問題のように思う。冒頭にも述べたとおりこの『泣き虫』は、本来なら高田の自伝であるべきところを、わざわざスポーツライター金子氏の著書というかたちをとっている。 その最大の理由は、第三者の視点を介入することにより、書かれている内容に客観性を持たせ、高田の歩んできた道を“プロレス界の出来事”としてではなく、スポーツ界に存在するひとつの事象として世間にプレゼンしたかったからではないのか? そして、高田がこのような本を出そうと思った理由も(あとがきに書かれているが、この本は高田サイドの意向により上梓されたものだ)、なんやかんや言いながらも自分という存在の原点であるプロレスという世界の真の姿――それは強さへの渇望と“出来レース”との間のジレンマや、「夢を見せる」という理念と、内ゲバ渦巻く実態との乖離だったり――をさらけだすことにより、今の自分を正しく理解してもらいたかったから、ではなかったのか? 自分を正当化するわけではないけれど、結局のところ、金子氏という人選に至ったのは、わたしのような「プロレスという存在はなんとなく気になるけれど、なかなか理解できない」と思っているスポーツファンにこの本を手にとってもらいたかったからのように思う。少なくとも、わたしのような類の人間が、読者の多くを占めているはずだ。にも関わらず、結局は釈然としない点が多々生まれ、わたしに至っては、その答を「プロレス的な要因」に求めてしまっている。「求める」というと聞こえはいいけれど、要は投げちゃったのだ。 何度も言うように、この本が「高田延彦自伝」あるいは「高田延彦半生記」みたいなタイトルだったら、なんら問題はない。 しかし、本の顔とも言える表紙に書かれた文字は『泣き虫 金子達仁』・・・以上である。しかも装丁をちゃんと見たら、カバーには高田の顔とならんで、著者の金子氏の顔写真まで入っているではないか!!?? あっ、カバーを取ったら、そこにもカネコさんの顔が……。 今一度、問う。 この本を“ナニ本”として読めば良いのでしょう?
2004年02月09日
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