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『明治・大正・昭和』中村光夫(新潮選書) 近代日本文学史のことで、以前から気になっていたことがあります。 ……と、書けば、なんだか真面目な学究肌の方の文章みたいでかっこいいのですが、なあに、気まぐれにふっと思っただけで学問性や持続性など、薬にしたくてもない疑問であります。 いえ、それが何かといいますと、三遊亭圓朝の作品のことであります。 岩波文庫に三作品が収録されてあり、絶版になることもなく現在に至っているのですが(と思うんですが間違っていませんかね)、きっとそれなりの売れ行きを示している理由は、読めばすぐにわかります。 とっても面白くとっても読みやすいからであります。 そして本作品が、明治の二十年頃に出版されていることを知ると、この見事にオーバードライブした言文一致文体に改めて驚嘆すると同時に、たしか日本文学史の授業で習った「近代初めの言文一致運動」との関係について、迷宮に入ったような戸惑いと混乱を覚えます。 えっ? 言文一致運動って、もうここに十分言文一致しているじゃない? これ以上にいったい何を一致するの? どゆこと? ……。 そんな疑問を、わたくし、たまーにふっと、かつぼうっと思い出したりして、でもそれ以上に学問的に深めることもなく怠惰な日々を送ってきたのですが、本書に書いてありましたよ、その真実が。 ちょうどそのころ、西洋風の速記術が移入され、人情噺の名人と言われた三遊亭圓朝の話が、速記にとって刊行されました。 二葉亭の談話によりますと、彼が『浮雲』を書くとき、逍遥は圓朝の速記をお手本にしろと勧めたそうです。圓朝の人情噺の速記は今日からよんでも立派な文学ですが、当時の人々は、おそらく面白がってよんでも、これを文章と思わなかったのでしょう。 ……なるほどねぇ。 最後の一文に典型的に描かれていますが、当時と現代の、文章というものに対する根本的な認識の違いが、その水面下にあったことがよくわかります。 それは例えば、現代文学の大きな課題が漫画に描かれていたとしても(現代はジャンルごとの垣根の取っ払いがかなり進んでいると考えても)、おそらくそれは別の物だと、多くの人が考えるだろうことと同じなわけですね。 ……と、言うようなことが、数多く書かれてある本であります。 タイトルだけを見ると、内容が文学史の事柄かどうか直接分からなくなっていますが、文学という営みが、当然筆者の生きた時代のすべての環境と共にあることは、今さら言うまでもないことで、明治・大正・昭和の日本社会が、まさにそれぞれの時代の日本文学を生み出したわけです。 しかし、わたくし今回、本書を読んで、そして、上記に報告しましたような近代日本文学史に関する様々なエピソードを、いかにもどっぷりと首まで浸かるようにして読みながら、中村光夫の文芸評論はとても心地よいと改めて実感しました。 そもそも己の頭の作りの不手際具合については、常日頃から痛感しておる次第でありまして、それゆえに今まで難しい文芸評論の類は敬遠し続けてきたわたくしでありますが、中村光夫の文章は、そんな私にも砂漠に水がしみ込むようによくわかります。 ひょっとしたら自分の文章読解力は、己が思っている以上に遥かに進化を成し遂げたのではないかと推察した私は、にわかに本棚より蓮見重彦の『表層批評宣言』の文庫本を取り出してしばらく読んでみたのですが、残念ながらわが推察が誤解であったことを知るにとどまりました。 ともあれ、様々なシステム的欠陥を持ちながら生まれ、様々に転換点を乗り越えて育った明治・大正・昭和の近代日本文学について、筆者の水際立った鳥瞰的な考察を、私は読み進めていきました。 それはあたかも体の芯まで心地よい天下の名泉の如くであり、そしてそのような教えを得る機会は、実はきわめて貴重なものでもあり、わたくしは文学史にどっぷりとつかる快楽を、ほとんどいいのいいのとってもきもちいいのと声を挙げんばかりにして感じていたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.06.28
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『英霊の声』三島由紀夫(河出文芸選書) 上記短編集の読書報告の後半です。 今、「上記短編集」と書きましたが、『十日の菊』は戯曲でありまして、だから短編小説二編と戯曲一編というちょっと何と言いますか落ち着きの悪い構成になっています。 おおよそ、フォームの美しさを大切にする(だと思うんですが)三島由紀夫の著書としては異例であることは、筆者自身の後書きに準ずるもう一作『二・二六事件と私』の中に、一言触れられてあります。 実は前回の報告は、三島の自作解説がとってもよくわかるということを、わたくし、書いていたのでありました。 三島は自作『憂国』について、自分の書いた短編小説について、普段忙しくって小説なんか読んでいる暇がないという人が、一作だけ三島の短編小説を読むとすればどれがいいと聞かれた時(よく考えればかなりストライクゾーンの狭い設定ですね)、迷うことなく薦めるのが本作である、と書いています。本作には自分の短編小説の長所も短所もすべてが入っている、と。 前回、許光俊氏の文章を取り上げ、慶応大学法学部二回生(たぶん)の許氏の授業を受けた学生諸君が、揃いも揃って『憂国』にぞっこんになったという話を紹介しましたが、確かに『憂国』には、短編小説の「力」めいたものがあります。読者の心臓を一気にわしづかみしてしまう力強さがあると感じます。 何といっても文章によどみがありません。明晰でリズミカルで、まるで水が隅々まで染み込むような、読んでいて本当に心地よいと感じる文章を、わたくし久しぶりに味わった気がしました。 本作からだけでも、三島の短編小説論が書けそうな気もするのですが、『憂国』の「力量」もさることながら、実は私が今回、読んで特によくわかったのは『十日の菊』でありました。 この戯曲は、以前読んだ時は、ちょっとジミーな印象で、どこに注目すればいいんだかよく分からなかったという記憶が残っているのですが(しかし、今でも私の作品理解力なんて、ほんとに取るに足りないものでありますが、若かった頃の私のそれなんて本当にアリの脳みそ程度のものでありますなー)、今回は筆者解説により、そして3作一気に読んだことにより(でもこれも、前回も一緒だとは思いますが)、かなり見通しよく理解できた気がします。 『十日の菊』の(恐るべき)テーマとは、例えて言えば、『憂国』の主人公竹山信二中尉と麗子夫人が見事自刃したと思ったら、のこのこと玄関口から入ってきて(麗子夫人はわざと玄関を閉めなかったんですね)、二人の「遺体」を診て、「あー、この程度の傷なら大丈夫、ちょいちょいのちょいで生き返ります」と言って無理矢理手術をし、見事生き返らせてしまったお医者さん、といった役割が「菊」というおばさんの存在ということであります。 たぶん三島は彼女に対して、ケーベツというよりはある種の「恐れ」を抱いていると思われます。(確かに上記のようにまとめてしまうと、とてもコワイおばさんです。) ただ三島のうまいところは、この「菊」を恐れる感情を、俗物の代表格であるような主人公「森」に語らせていることです。しかし本来これは三島自身の恐れであるはずです。 三島は、「年を取る」ということを、ひどく恐れていた方であったようですが、「年を取る」ことの正体こそこれであり、そしてもちろんこれは、三島の自殺に大きく係わっていると思います。 ところで、上記に触れました本書の自作解説で、三島はこの連作のテーマをこのようにまとめています。 『英霊の声』→狙って死んだ(殺された)人間 『憂国』→狙わずして死んだ(自刃した)人間 『十日の菊』→狙われて生き延びた人間 なるほど。しかしこの組み合わせには、あと3種類ほどが欠けていますね。 「狙って生き延びた人間」「狙われて死んだ人間」「狙わずして生き延びた人間」であります。 そのうちまず、組み合わせの要素としては成立するが実際には成立しないのが、「狙わずして生き延びた人間」ですね。このカテゴリーは、要するに普通の人間一般を指します。 次に「狙って生き延びた人間」。これについては同文章に、一定食指を伸ばしかけたが先人に優れた作品があったと紹介して、すでに書かれていると解説しています。 では最後に残ったカテゴリー、「狙われて死んだ人間」。これが、少し気になるんですねー。 言うまでもなく、三島は「狙って死んだ人間」か、それに準じて「狙わずして死んだ人間」になりたかった、絶対にそうなりたかった、と思います。 しかし、ふと足元を見たら、「狙われて死んだ人間」がいるじゃないですか。そしてこのカテゴリーにも、三島が「おいしい」と感じる要素が存在しているのであります。 『十日の菊』の「狙われて生き延びた」とは、本当のところは、せっかく狙われたのに死なせてもらえなかった、というのが正しい書き方であろうと思います。 でも、「狙われた」という部分については、大いに魅力的であります。そもそも狙ってもらえなければ、話にも何にもならないからですね。(作品中に、その事に直接触れた一節があります。) しかしいくらなんでも、じゃあ「狙われて生き延びた」でもいいやとは、三島は言えんでしょう。とてもじゃないが、三島の美意識が許しません。 だからたぶん、三島の心情の一部を託したはずの「森」は、俗物の元政治家と設定されたのでありましょう。 ……うーん、どうなんでしょうか。 上記に、私は『憂国』はかなり力を持った作品だと書きました。しかしなんというか、三島の世界の美意識を突き詰めていきますと、『憂国』にしても『十日の菊』にしても、どこかこういったところに滑稽感が漂います。 と、書いてしまうことが、すでに私の鑑賞にバイアスが懸かっている証拠なんでしょうか。 三島が割腹自殺をした時、三島は自身自分のやっていることの愚かさが十分わかっていて、それでもやったのだという論調のコメントが少なからずあったように思います。 「愚かさが十分わかる」とは、己の偏愛する美意識(生のアイデンティティ)の不可能性と滑稽感という事なのでしょうか。 みんなわかっていてとは、詰まるところそういうことであるのでしょうか。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.06.13
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