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『夜を賭けて』梁石日(幻冬舎文庫) まず、タイトル。 なかなか想像力を掻き立てるロマンティックなタイトルですが、意味しているところを考えると、んー、なんか、少しよくわかりませんね。 「夜」ってのは、何か人生上の暗い部分の象徴ですかね。 それを賭博の資として、賭博のように人生を生き抜く、くらいの意味でしょうか、内容を当てはめて考えると。 だとすると、なかなかよくできたいいタイトルであります。 えーっと、つまり、そんな内容の小説なんですね。やはりピカレスクロマンだと考えられます。 もう少し具体的に書きますと、昭和20年敗戦以降30年代初頭くらいまでの結構有名な話題だった、旧大阪砲兵工廠を舞台として活躍した「アパッチ族」をモデルとしたお話であります。 今、結構有名と書いたのは、本作を含めるとこの「アパッチ族」をモデルの小説が3作もあるからですね。 例えば歴史小説の中に何人の坂本竜馬が出てきたか、まー、そんな有名人に比べれば、3作のモデルというのは大したことがないかもしれませんが、それでも、この「アパッチ族」が小説家の想像力を掻き立てる存在であったことは事実でありましょう。 そんなヴァイタリティーとパワーあふれるエネルギッシュな「現象」が、「アパッチ族」でありました。 まず3作の小説とは、この3つですね。 『日本三文オペラ』開高健(1959・昭和34年) 『日本アパッチ族』小松左京(1964・昭和39年) 『夜を賭けて』梁石日(1994・平成6年) 開高健の作品は、改めてこうして見てみると、ほぼ同時代的なモデル小説であることが分かります。 開高の作品については、わたくし、恥ずかしながら思い出すところがあります。 まず開高作品の中では、わたくしが最も好きな作品で(とはいえ、開高健の小説はさほどたくさん読んでいるわけではないんですが)、5回くらい読んでいると思います。 その中の1回が、恥ずかしながら失恋の痛みを癒せないかと読んだ1回でした。 夢中になって読める元気の出る小説はないものかと、かわいそうな失恋青年であったわたくしはあの頃チョイスしたんですねー。 うーん、そう思ってみると、あの頃も今も、あれこれ小説は読んでいながら、わたくし元気の出る小説ってのにはあまり縁のない読書の日々を送っていますなー。 ひょっとしたらこれって、かなり困ったこと、なのかな。 次の小松左京作品も確か再読までしたような覚えがあります。 ただ、この作品は開高作品から繋がっていって読んだ小説で、筆者に対する興味というところまでは到達しませんでした。(これは全く個人的な好き嫌いの話なんですが、また、別に嫌いなわけでもないのですが、私はあまりSF小説に過去も現在も馴染んでいません。) そして、今回、冒頭の本作を読んだのですが、本作の解説を小説家の小林恭二が書いていますが、その中にも触れてあった、前半部と後半部の断絶について。 なるほど確かに、まるで別々の作品のような展開と描写であります。 ただ、わたくしが読んだ限りでは、この断絶にもかかわらず、本作は後半部の「大村収容所」の部分を書かざるをえなかったろうと思います。 まず「外因的」な部分で考えますと、本作以前に上記にもあげた同モデルの2小説がすでにあるということです。前半で作品を完結させてしまうことは、実際問題としてできるとは思えません。第1部だけではほぼまるまる開高作品とかぶってしまいます。 次に「内因的」な部分で考えますと、筆者自身が実際に「アパッチ族」の一員であったということです。開高にとっての「アパッチ族」は外部から手に入れたモデルでしょうが、梁石日にとっては内部から湧き上がってくるテーマであったと思います。 だからこそ、すでに開高作品から35年も経ってるにもかかわらず、筆者は自らのテーマとして書き始めたのでありましょう。 しかし、今、開高作品から35年と書きましたが、自らの経験とはいえ、40年近く昔の話を、筆者がいかにヴィジュアルに綴っているか。 そもそもこの作家は「タクシードライバー」を扱ったルポルタージュ作品から筆を染めた方ではありますが、驚くほどリアルタイムな筆致で、かつ子細な部分に至るまで見事に描ききっています。 上記に私は、かつて失恋の傷をいやすために『日本三文オペラ』を読んだと書きましたが、そのころに本作があれば、私はひょっとすると、こちらのほうを選んだかもわかりません。 あ、いや、本作の後半部は「純愛小説」的になっていますから、……うーん、失恋の傷を癒すにはなぁ、……うーん、……。 ……ひょっとしたら私は、第一部だけを読んでいたかもしれません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.02.22
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『白道』瀬戸内寂聴(講談社文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 前回は、本作品の主人公である西行法師に私がなぜ興味を抱いたのかという話をずるずるとしていたら、いつも予定している分量をだらだらと超えてしまったという訳でありました。……まー、いいか。(よくないだろーっ、という声は無視。) 私が前回の最後に触れていたのは「三夕の歌」という、高等学校の古典の授業で習った知識の内、かろうじて記憶の片隅に引っかかっていた言葉についてでありました。 「三夕の歌」というのはこの三つの短歌のことです。(もちろんこれは後で調べて書いています。) 寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ 寂蓮法師 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行法師 ……さすがにどの歌も甲乙つけがたい名歌ですね。 「秋の夕暮れ」という哀愁感覚でいえば、私の好みでは定家の歌が一番ムーディな気がします。岡本おさみ作詞吉田拓郎作曲、歌(オリジナル)は森進一の名曲『襟裳岬』のようであります。 しかし、やはり西行歌も捨て難く思いますね。 この捨て難さは一体どこから来るのかとじいっと歌を見つめていると、下の句の「よろしく哀愁」っぽいのと対照的な、無防備のような素直さを持つ上の句の何の衒いもなくふっと口から洩れたような素朴な言葉づかいにこそあるのではないかと、わたくし、思ったのであります。 という訳でそこに惹かれて、この度わたくし冒頭の本書を読むに至ったわけであります。(やっと、スタートラインにたどり着きましたな。) 本書の中には、多くの西行歌が挿入されていますが、同様に素朴で感動的な歌がたくさん入っています。きりがないので一首だけ挙げてみます。 さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里 という風に、西行法師の作った歌について学ぶにはなかなか良い本であります。 ただ何と言いますか、まーこれは私の側の勝手な事情でありますが、実はわたくしは本書を西行法師をモデルとした小説であろうと思って読みだしたんですね。(前回触れた有吉佐和子の『出雲の阿国』はそうでした。) すると、冒頭に筆者らしき人格が描かれています。 もちろんこういう筆者らしい人格(=視点)から始まる書き出しの小説は結構ありますね。ふっと浮かぶこのタイプの小説の名作は、谷崎潤一郎『春琴抄』であります。これは本当に名作。 次に浮かんだのは司馬遼太郎の様々な歴史小説であります。その中でも『菜の花の沖』なんかは、小説途中に筆者が度々顔を出して博識な歴史事項についてレクチャアなさいます。長いケースでは文庫本まるまる一冊分くらい、我々は司馬先生のご講義を受けさせていただけます。 そんなスタイルに本書の形式も似ているのでありますが、ただ本書の筆者登場場面は随想なんですね。ご講義では、ありません。 私は、太宰治の『津軽』なんかも連想しました。 筆者登場場面について、感覚的にはこれが一番近いです。でも、そもそも『津軽』は、ほぼ私小説をなぞって全編書いてある作品ですから。 今回の本書のように歴史人物としての西行を描写する史実の場面の中に混ざって出てくることはありません。 何が言いたいのかというと、筆者の随想場面が西行についての史実を描くべき場面とないまぜに出てくることで、歴史認識が恣意的に感じられることであります。 要するに、かなり強引な歴史解釈が見えるような気がするのであります。 結局、本書は歴史小説ではありません。 上記に私が挙げた小説家になぞって類似作品を考えるならば、司馬遼太郎の『街道を行く』のような歴史随想と呼べそうな作品です。 だとすれば、小説家の想像力の羽ばたきだけで史実を解釈するのは、はたしてどんなものなのでしょうか。もう少し、歴史的学問的な客観性は必要ないのでしょうか。 ただ、本当に何も知らない素人の私がそう言い切ってしまうというのもなぁ、という気が大いにします。 きっと寂聴ファンなら、それは十分納得のいく歴史解釈なのかもしれません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.02.08
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『白道』瀬戸内寂聴(講談社文庫) 西行法師のことが気にかかっている。 ……。……うーん。 かっこええなぁ。 ワンモアタイム。 「西行法師のことが気にかかっている。」 ……うーん、ほんまにかっこええですなぁ、こんな書き方をすると。まるで小林秀雄のようでありますなぁ。 複雑な思考と深い美意識の想念が、精神の中で静かにさくさくと活動をしているようであります。 ……と、まぁ、このままずっと遊び続けるのはやめますが、時々ふっと何かに引っかかることは、いちおー誰にでもありますわね。 わたしなんか特にしょっちゅう、あります。ふっと浮かんで、調べようかなーとも思いつつ、調べることを忘れてそのままうたかたのように消えていく単語群であります。 私の過去のそれを、一応文学っぽいのだけに絞って思い出せば、ちょっと前は「出雲の阿国」が少し気になっていました。 そんな時は便利な世の中で、ちょっと気になったらネットですぐに調べることができます。(すぐ調べられるんならその度ごとにちゃんと調べろよ、という外野の声は無視。)ちょこちょこと摘み食いのように調べて、その次はアマゾンですね。 これもちょこちょこと古書を探って、一冊二冊買います。そうやって「出雲の阿国」については、確か有吉佐和子の『出雲の阿国』(上下)を読みました。結構長い本でした。 ところが、いつものことながら、私の場合はそれ以上にその興味が持続しないんですね。さっと厭きちゃう。 厭きずにさらにどんどん踏ん張って学習していければ、もうちょっと落ち着いたインテリゲンチャもどきになれているだろうに、と。そこんところにわたくし性格的な弱点がありますなー、我が事ながらまったく。 というわけで、今回の引っ掛かりは西行法師です。きっかけは、なに、そんな深みある知的興味でも何でもありません。「1月」「和歌」と来て、……ははん歌留多だなぁ、と。 その通りなんですね。お正月に、久しぶりに親族が集まった時にカルタ取りをいたしまして、わたくし、読み手をしたんですね。 あれ、読み上げ終わると、少し間が空きますわね。(特にわが家のように百人一首に十分馴染みきっていないへたくそカルタの場合。) で、読み手は、何となく読み上げる部分(短歌部ですね)以外の情報に、その間、眼が行きます。 例えば、「夜をこめて~~」と、清少納言の歌を詠んだ後、ふと読み札に描かれてある彼女の後姿を見て、ははん、この清少納言らしい女性が後ろ向きの絵なのは、彼女が「不美人」であったという噂を受けているのだな、とか考えるわけですね。 で、西行法師の歌ですが、こんな歌ですよね。 なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな 私は素人なものでまったくよくわからないんですが、この歌、上手なんですかね。 歌の心情がよくわからないのでありますが。「かこち顔」なんて単語も、少し変じゃありませんか。そうでもないのかな。 と、考えていきまして、それより西行の歌といえば、この歌よりも有名で出来のいいのは、ほれ、あれ、あの歌……。 えーと、このあたりから、後になって調べた知識を交えながら描いていきます。そうしなければ、「あれ、あれあれ。あれはあっちよりずっと、その、あれだし……」という展開になっていくからであります。 よーするに西行法師の名歌といえば、やはり「三夕の歌」の堂々一角を占めるのこの歌ではないか、と。 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ あ、久しぶりに、冒頭の作品について全く触れずにここまで来てしまいました。 ……うーん、次回に、続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.02.01
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