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『高く手を振る日』黒井千次(新潮文庫) 老人文学であります。 どうなんでしょ、ね。現代日本老人文学も、そろそろ煮詰まってきたんですかね。 かつて、日本の老人文学の嚆矢と言われた谷崎潤一郎の『鍵』からほぼ60年(やー、すごいもんですねー。『鍵』が書かれた年に生まれた赤ん坊がもう還暦なんですから)、日本の老人文学も十分に醗酵してきたのではないでしょうか。そしていよいよ老人文学が時代の「メジャー」に。 ……いや、どうなんでしょ。 実際の所、最前線の文学状況についてはほぼ無知なわたくしでありまして、どーもその辺はよくわかりません。 とにかく、平成22年に発行された老人文学小説をこの度読んでみました。 上記に触れた『鍵』は、現在の「性」についてのコモンセンスにおいてはともかく、書かれた時代ではかなりセンセーショナルなものでありました。 どんな分野の文学においてもそうでしょうが、時代を画するような名作の出現は、その時代においては激しく刺激的でスキャンダラスであります。 しかしそんな天才的作品が、まず知の領土を革命的に一気に広げていきます。 その次に、その領土内に大枠の土木的事業とでもいうべき不可欠な諸整備をなす作品が生まれ、そして最後にソフィスティケートされた日常生活の襞を描くような作品群が誕生する、と。 ……と、ここまで書いて私ははたと詰まりました。 最初の印象では、本作は上記の「知的領土開拓」例でいえば、第3期作品にあたるかと考えていたのですが、どーも、それではしっくりいきません。 で、あれこれ気になったものだから、ネットで調べてみました(こんな時ネットは本当に便利ですね)。何を調べたかというと、日本人の平均寿命の推移についてであります。 以前『鍵』を読んだ時、主人公の男性の年齢設定が50代中盤であったことにかなり違和感を持ったことを思い出したんですね。 で、調べてみると、……うーん、なるほどー。 『鍵』が書かれた1956年の日本人の男性の平均寿命は、63歳と少しであります。そして『鍵』の設定は、56歳の夫と45歳の妻となっています。 これを2015年の男性の平均寿命80.5歳(ちなみに女性は86.83歳)にアバウトにあてはめますと、主人公男性は73~74歳くらいとなり、おや、この年齢設定は、今回報告している冒頭の小説の主人公の年齢とちょうど重なるではないか、と私は気づいたのでありました。 いえ、私が何を言いたいのかと申しますと、本書に描かれた70代中盤の男女の物語(大学の同期生で、大学時代微かに相手を異性として意識するエピソードを持ち、その後どちらも結婚と連れ合いとの死別を経験し、そして偶然のきっかけから再び会うに至るという男女の物語)は、どこにでもいそうな市井の老人男女のようであり、また表向きは静謐で日常的で上品そうな展開のようにも見えながら、実はかなり「過激」である、と。 いえ、「過激」がピント外れな用語なら、かなりリアリティというものを脇に置いた「夢物語」的な作品である、と。 それは少なくとも精神的には、思う以上に『鍵』の世界と親近性を持っているといえそうであります。 私は冒頭に、老人文学も一定の時を過ごし作品も多岐に及ぶようになり、いよいよ洗練されていく時期になってきたのではないかと書きましたが、考えればそれはあまりに浅はかな思考でありました。 だって世間では、少し前まではそれでもまだ想定の範囲内的に多量の老人介護の問題が発生するなんていっていたのに、そういった介護にかかわる金銭的・人的な圧倒的不足状態(それを指を咥えて見ていた政治の無策無能力状態)はもはや明確な前提条件に変わってしまい、いよいよサバイバルな「争い」に、その結果については個人責任をほのめかす「下流老人」とか「貧乏老後」とか「老後崩壊」みたいなスキャンダラスな言葉が出てくる昨今です。まさに本当の「混乱」はこれからであります。 もしも文学が、個人的なものから人類全体に及ぶものまで、とにかく様々な「憂い」を糧に生じるものであるならば、時代が要求する老人文学のありようは、まだその端緒についた所といったあたりでしょうか。 本作もそんな一つの、まだまだ荒野を鉈を使って大きく切り開いていくような作品なのかもしれません。 今老人文学は「揺籃期」にあります。 そしてそれゆえに、ますます時代は老人文学の過激なる出現と、そして徐々の成熟を期待しているといえそうです。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.09.23
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『村上さんのところ』村上春樹(新潮社) ……えっと、これはアリなのか、という気は、まぁ、自分でもしとりますがー。 改めて記すまでもなく我がブログのコンセプトは(と振り返ってみれば、それについても長く記していないことに気づくのですが)、高等学校で学ぶ近代日本文学史教科書に取り上げられているレベルとジャンル(ジャンルというのは、ぶっちゃけて申しますと「純文学」というカビの生えたような言葉のことですが)の小説家の作品を(そんなメジャーな小説家の、できたらマイナーな作品を)、もっぱらの報告対象とすると、まぁ、自分で勝手に決めて、そして始めたんですね。 ところがその範囲が、いつの間にかずるずるとパンツのゴムの如く伸び広がって、とうとう今回は人生相談であります。 ……ははは。……まぁ、いいか。 というわけで人生相談、というか他人の相談事というものは、特に調べたわけではありませんがたぶん古今東西、けっこう人々が見聞きしたがるものでありましょうなぁ。 私が知っている範囲で思い出しても、古くはラジオで人生相談をする番組がありました。子供専用の相談番組なんかもありましたね。わりと人気だったように思います。 活字で思い出しても、いろんな週刊誌や新聞なんかが人生相談のページを作っていたと思い出しますし(確か『少年マガジン』にもあったのじゃなかったかしら)、わたくし、最近の雑誌については全くと言っていいほど何も知らないんですが、今でもそうなんじゃないんですか? 違うのかな? そして、そんな連載がそのまま本になったりなんかしました。 私がかつて、結構読んでいたのは中島らもの人生相談でしたね。 『明るい悩み相談室』のシリーズであります。 振り返ってみれば、あれは、何がそんなにおもしろかったのでしょうね。 ごそごそと本棚を探しましたらありました。 ぱらぱらとページを紐解いたのですが、なるほどね、韜晦・虚構・無意味、みたいな言葉でまとめられそうな人生相談であります。 なるほど、人生相談も進化しているのか、と。 そして、その進化した人生相談の一角を現在担っているのが村上春樹であるのか、と。 現在における進化した人生相談人気(そんなものがあるとしてですが)の秘密は、昔から言われている「他人の不幸は蜜の味」をソフィスティケートしたものに加え(昔の人生相談ははるかにストレートでしたよね)、人生の虚構化・無意味化のフィクション性にある、と。 でもよく読んでいけば、ふーむ、と考え込むようなことが、やはり書いてあります。 例えば、妊娠5か月の検診に行った時、医者からお腹の胎児がすでに死んでいる事を告げられたという女性への回答に村上春樹はこんな風に書いています。 お気の毒です。とても悲しかったと思います。どうかその悲しみを抱えて生きていってください。それも生きる大事な意味のひとつだと僕は思います。「悲しいことは早く忘れた方がいいよ」と言う人もいるでしょうが、悲しみを忘れないこともやはり大事です。もしよかったら、まだ読んでいなかったら、僕の『国境の南、太陽の西』という小説を読んでみてください。ひょっとして、あなたの気持ちに通じるものが少しはあるかもしれません。 この回答からは、村上春樹の作品理解に対して、私は二つのことがサジェストされていると思いました。 一つは悲しみを抱えて生きることを村上春樹がかなり重要なことだと考えていること(同種の表現がこの人生相談回答集の中には何回か出てきます)、もう一つは『国境の南、太陽の西』の自己解説の一端であります。 こんな風に読んでいくと、結構面白いです。 以前、村上春樹作品の研究をしている大学の先生の講演を聞いたことがあるんですが、村上春樹のこの種の本は(何冊か同様の本が出版されていますよね)、村上春樹研究家にとっては宝の山の様なものですという趣旨のことをおっしゃっていました。 研究者もなかなか大変そうですし、研究される側も、なかなかなかなか、大変そうですね。 参考までに、上記に触れた中島らもと村上春樹は、他にどんな接点があるのか、わたしはよく存じ上げないんですが(村上春樹と糸井重里なら、以前一緒にショートショートの本を作っていらっしゃいましたね)、ふっと思い出して本棚を探したら、ありました。 中島らもの『啓蒙かまぼこ新聞』(ビレッジプレス)という30年近く前の本の解説を、若き日の村上春樹が書いていました。 なるほど。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2015.09.06
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