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『破れた繭・夜と陽炎……耳の物語1・2』開高健(新潮文庫) この度、岩波文庫に初めて入った開高健の小説がこれだという事を知人から聞き、そういえばむかーし新潮文庫で買ったのがあったはずと書棚をごそごそすると、やはり出てきました。 以前、本ブログでもよく似たことを書いたような気もしますが、私が文学青年に目覚めた頃(「目覚めた」というほどのものは何もないのですが)、純文学の日本人作家の「ヒーロー」は多分、大江健三郎を筆頭として、三島由紀夫、倉橋由美子そして開高健などの作家であったと思います。 しかし思い出してみるに、この4人の作家の中で、私が一番読んでいなかったのは、開高健でした。多分長編2冊、短編集2冊くらいじゃなかったかなと思います。 なぜだったんでしょうかね、我がことながら。 あの頃のことをあれこれ思い出しながら、今考えますに、少し身も蓋もないいい方になりますが、やはり読んでみようと思うだけの魅力を感じなかった、ということかな、と。 大人になってからの読書でも、例えば大江健三郎の小説は、間欠泉のように時に読みたく思い、そして実際に手に取ります。一方開高の小説は(早く亡くなった上に全体数として小説作品が少ないこともあって)、手に取るところまで行きません。 結局、開高小説は、わたくしにとって少々巡り合わせが悪い、という事でしょうかね。(実際には、開高小説だけでなく、なんとなく御縁の薄い作家は山のようにいますから。) という程度の開高健理解しかない私ですが、とにかく冒頭の理由(これが岩波文庫に初めて入った開高小説という理由)で、この度、読んでみました。 前後編2冊合わせて450ページほどの文庫本ですが、けっこう読むのに時間はかかりました。そして読み終えて、二つのことを考えました。 まず一つ目です。 あとがきに「人間五十になると誰でも自伝を書きたくなる」とあるように、筆者らしい主人公の半生を辿った私小説的作品となっています。 筆者は1930年生まれですので、本書の比較的始めの方に、1945年の8月15日の描写があります。 別にここだけではないのですが、その日の描き方が抜群に上手です。 まずその日の午前中の、とても静かな夏の日の様子を語った後、様々なイメージの連想から、あろうことか描写はインキン田虫の話になっていきます。 その前後の内容が敗戦の日の話だと思うからかもしれませんが、その描き方に私は異様なリアリティを刺激されました。 そこの一部を少し抜き出してみます。その「痒み」の説明が始まった部分です。 そうするとカサカサの古皮の下から、ういういしい薔薇色の柔らかい皮があらわれてくる。これは痛いたしいほど新鮮で艶っぽく、そしてみずみずしいが、痒さでうずうずしている。これを爪でやりたいままにひッ掻かないで、全身がふるえそうになるのをこらえ、こらえにこらえ、ゆるゆるとドラム缶のお湯のなかに体を浸していくと、湯がその部分にしみこんだ瞬間、全身を異様な量と質の快感が突進し、よろけそうになる。あまりのことに失神しそうになる。ざわざわと寒くなり、視野が狭くなり、蒼暗くなり、のけぞりそうになるのだ。例の悪い手の歓びはやめられそうにないけれど、深刻、痛烈、徹底的ということではとてもくらべものにならない。 そして、この描写のすぐ後に、再び8月15日についての記述が続いていきます。 ……うーん、こういう技巧(「技巧」というものなのかどうか、よくわからないのですが)って、どう考えればいいのでしょうかね。 わたくし思うのですが、まずこの文章がいわゆる「彫心鏤骨」のものであることは言を俟たないと思います。 まず天才的なものがあって、その上に、想像を絶するような努力(これもはたして「努力」と呼ぶべきものなのか、それも迷います)が加わって描かれたものでしょう。 読んでいて、確かに惚れ惚れとしてしまうような、天才的な筆者の文章力であります。 しかし私はここでふと考え込んでしまいました。 私が過去に、同様に天才的な文章だなあと思いながら読んだ小説に、上記にも少し名前を出しました三島由紀夫の『金閣寺』がありますが、その文章を開高文章と並べ思い浮かべた時、明らかに違っていると思ったことが一つ、いえ、二つありました。 一つ目は、これは、誰にでもすぐわかるような、開高文章の諧謔性への志向です。 上記に挙げた引用文の前後にも説明しましたが、敗戦記念日とインキン田虫の描写を無理やりぶつけてしまう事で、そこにシニカルな滑稽性が生まれるのは明らかです。 それに加え、そもそもの描写の文体が三島と開高ではかなり異なります。 三島文体は、和語と漢語、日常的な言葉使いと公文書めいた用語の存在空間が、きっちりと描き分けてあるのに対して、開高文体には両者の意識的な混乱、つまり日常語の中に突然挟み込まれる漢語的表現が、実に印象深くユーモラスな効果を発揮しているという事です。 わたくし、思いますに、これはやはり関西人文体の表現ではないか、と。 それも、標準語に関西弁をアウフヘーベンした(逆かもしれません)、究極に近い関西人文体表現型ではないか、と。 おそらくは西鶴あたりから始まった関西人文体が、宇野浩二や武田麟太郎、織田作之助、さらに開高の後には野坂昭如や町田康、川上未映子あたりにまで連綿と流れている中で、客観性と関西人的主観性を同時に表現しえた、最強の関西人文体ではないかと感じるものであります。 しかし、ここでさらに私は考え込んでしまうんですね。 いえ、それは所詮、さほど重大な発見ではないのですが、……えー、それは次回に説明させていただきます。 続きます。すみません。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.05.26
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『幕が上がる』平田オリザ(講談社文庫) 私は全く知らなかったのですが、この小説が出版された時は、読書界で少し話題になったそうですね。今回初めて読んでみまして、一応、なるほどさもありなん、とは思いました。 えー、演劇界エリートの平田オリザ氏の小説作品です。 しかし、冒頭からいきなり申し訳ない話を始めますが、これは以前もどこかで書いた気がするのですが、小さな声で少し恥ずかしそうに、私は宮沢賢治がよくわかりません、と。 なぜ小さな声で恥ずかしそうに言うかといえば、おそらく日本文学の世界では、宮沢賢治は「巨人」のような存在であるからです。 例えば、私は西洋クラシック音楽が割と好きなのですが、誰の作った交響曲が好きですかと聞くとすれば、その質問は基本的には、「ベートーヴェンは置いておいて」という枕詞が付いているように私は思います。 わたくし、ここは断言しますが(世の中に断言のできることのほぼない私ですが)、ベートーヴェンの交響曲が嫌いだというクラシック音楽ファンは、世界中に一人もいません。(たぶん。) それと同じとまではいわないとしても、近代日本文学界において、やはり宮沢賢治はビッグネームです。(特に演劇系の作家の賢治評価はかなり高い気がします。例えば、別役実、安部公房、そしてこの度の平田オリザもそうでしょう。) えっと、なぜ宮沢賢治の話が始まったのか、でありました。 それは、本作は、クライマックスのところで描かれる作品中演劇が、「銀河鉄道の夜」のパロディで、そのストーリーを通じて小説が盛り上がっていくという話なんですね。 ところが、そのポイントとなる「銀河鉄道の夜」の話が、何といいますか、わたくしは(一応、複数回読んだのですが)よくわからなくて(ナサケナイ)、そのまま本作のクライマックスにうまく付いていけないとなったのであります。 しかし、さらに考えますに、あながちそればかりでもないのじゃないか、と。 そもそも本小説は、高校演劇部の部員たちが全国大会を目指すという青春小説です。だから、対象となる主な読者は高校生(さらには演劇部の高校生)でありましょう。 あ、この段階ですでに、私のようなオッサンは、無資格、想定外といいますか論外といいますか、相手にされないのであります。 いえ、別にいじけて言っているのではないのですが、例えば本文庫のカバー裏表紙の紹介文には、「涙と爽快感を呼ぶ青春小説」と書いてあります。 「涙」は、まー、個人差があるとしても、「爽快感」について、私は読後ほぼそれを感じなかったなあ、と。 これはどういうことかと、わたくし、考えたのですね。 爽快感がなく、その反対のようなこの少し「嫌」な感じは、いったいどこから来ているのだろうか。 しばらく考えて、気が付きました。 本書に登場する演劇部顧問の先生の描かれ方が、どうも納得がいかないのではあるまいか、と。 でもこれもやはり、お呼びでないオッサン読者のゆえでありましょうか。 つまり高校生の読者なら、主人公たちの演劇部員に自然に感情移入をしますが、オッサンは、登場している大人に、つい注目してしまうんですね。で、よくわからない、と。 さらによく考えれば、そもそも高校生の熱血部活小説(実際に私がたくさん読んでいるのは熱血部活漫画ですが)での部活顧問の描かれ方というのは、なかなかビミョウな気がしませんか。それは、極端に影が薄かったり、ほぼ悪役だったり……。 だから本書への私の違和感は、本書だけのものではないのかもしれません。 しかしどうですか、本書を読んだ「大人」の方々。 登場する二人の演劇部顧問(厳密にいえば三人ですが)のうち、女性の吉岡先生についての私の感想は、すでにある程度予想できると思います。(その予想通りに後述します。) でも私がまず言いたいのは、もう一人の男性の溝口先生の描かれ方です。 実は彼の描かれ方も、よく読むとちょっと「嫌」な感じになります。 たぶん、演劇に対して理解がない(センスがない)演劇部顧問は、全国にたくさんいるのだろうとは想像でき、そして、そんな顧問に対する高校生の感性の中に、シビアな「残酷性」があることもわかります。 しかしこの設定と描かれ方には、作品自体に、演劇に関するセンスがないことに対する嘲笑感覚・侮蔑感があると感じられそうに思うのですが、わたくし、バイアス、掛かっているでしょうか。(だって演劇小説なんだから、演劇センスのない人物は、笑われキャラでしょう、って、……うーん、本当にそれでいいんでしょうか。) さて、一方、吉岡先生です。 そもそもこんな美術の先生って、いるのでしょうかね。 美術の先生の一番好きな「自己表現」は、美術を通じてのものではないのでしょうか。もちろん絶対にこんな美術の先生がいないとは言えません(あるいはベテランの先生になれば別かなとは思います)。 しかしこれは、他教科の先生とはかなり違うと思います。 吉岡先生は、大学から演劇を始めて、そこでハマったという設定(高校時代は帰宅部)です。 しかし美術の先生ということなら大学は美大か美術学部で、美大進学を志望する高校生は、そもそも美術が命のような高校生でしょう。(しかしなぜ美術部じゃないの。) そんな高校生が、美大に入った後、新たに役者という形の自己表現を学生生活の第一義にして、そして美術制作もするという設定は、かなりリアリティに欠ける(特殊中の特殊の)ものではないでしょうか。(それは例えば、野球部指導が生きがいの経済学部出身の社会科の先生、というのとはかなり違いますよね。) そして吉岡先生は、新社会人として教育現場に着任わずか半年で教師を辞めます。 彼女は、美術教師だからまず美術部の顧問を任され、演劇部は副顧問のようにしていたのがだんだん本気になっていく場面で、こんなことを演劇部員に言っています。 (略)だから、ブロック大会まで行くっていうのは、私のエゴみたいなもんで、でも、こんな素材を前にして、私が少しだけ手伝わせてもらったら、って言うか、これからは少しだけじゃなくて、手伝いでもなくて、本気で指導させて欲しいんだけど。いままでは、片手間でやっていてごめんなさい。本気でやらせてください、演劇部。 このセリフが、4月に赴任して3か月目、7月のものです。 で、10月初旬に、今までと「格が違う感じ」の有名な演出家から、女優としての活動を強く求められ、教師を辞める返事をします。その時、演劇部は全国大会に行けるかどうかの県大会の直前でした。 これは、いくら何でも、ひどすぎませんか。 というより、私は、この展開(吉岡先生の性格設定)にかなり戸惑いました。 吉岡先生が、演出をする主人公の女子高生に、こんなことを言う場面があります。 「俳優はね、現金なものだから、自分をよく見せてくれる演出家は、そいつがどんないやな奴だとしても信頼するよ」 とりあえず何でもないセリフのように思えますが、たぶんこの延長上に、吉岡先生の性格設定があり、そしてそれを裏返すと、もう一人の顧問・溝口先生に対する侮蔑感がちらちらと見えるように思います。 ……えー、ちょっと、嫌な展開になってきました。 もう、このあたりで終わりますが、何といいますか、青春期をすでにはるか過去に送ったオッサンにとって、本書はなかなか巡り合わせの良くない読書だったのかな、と。 ……うーん、ちょっと、なんとも言えません。はい。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.05.16
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『コーヒーと恋愛』獅子文六(ちくま文庫) 作者獅子文六の小説は2冊目です。前回読んだ『てんやわんや』の読書報告は本ブログにあります。少しそれを読み直してみました。 なるほど、今の私の記憶とほぼ違わないものでした。ただ、『てんやわんや』のストーリーについてはちっとも思い出せず、また、私の評価が(申し訳なくも)わりと低いものであったのが少し不思議に思え、つまり、この度の小説を読んで、私はなかなかのものじゃないかと感じたのでありました。 そこで、今回の小説が私の中で評価が高いのはなぜかと考えますと、(『てんやわんや』の内容をすでに忘れてしまっているので何とも比較のしようがないのですが)とにかく、文章が滑らかで、とてもゆったりしているという感じを強く持ったことですかね。 このゆったり具合は何かと考えますに、まずふっと浮かんだのは「修練」、つまりかなりのベテランの作、作家晩年の作だからじゃないかという事です。(作品中に、獅子文六が古希を迎えたとあります。) 実際このゆったり感は、読んでいてとても心地よく、それがストーリーとも相まって、なるほど、その頃の「新聞小説」が求められていたのはこういう感覚だったのだなと、考えさせるものでした。 (時代が新聞小説に求めていたものは、現在の新聞小説の置かれている位置とは比較にならないような、大きな期待を込められたものだったというのは、わたくし、最近何かで読んだのですが。) そもそも私が本書を読んだのも、なんといいますか、変な言い方ですが、ちょっと小説を読むのに疲れるという感覚があったからですね。 好きで純文学小説を読んでいるものの、純文学小説が取り上げる、人間とは、自分とは、社会とは、みたいなテーマが、やはりずっと続いていきますと、ただ読むだけではありますが、ちょっとツラい、みたいな感覚であります。 どこか、カラッと笑ってその後何も残らないという小説はないものかと感じていたんですね。そこで、全国展開古本チェーン店でこの文庫本を買ったのですが、見つけた時、この本自体が割と新しかったもので、おや、こんなのが新しく出ているんだなと思って、家に帰って何となくネットで確認してみたら、数年前にちくま文庫が獅子文六の小説を次々と出し始め、そしてかなり売れているとあるではありませんか。 大概世の中の動きからとても疎い私なんですが、やはり感じることは同じだったという事でしょうか。 生きづらい世の中を生きづらいと書く小説(「純文学」がまさにそうですが)は、確かにそれなりにリアリティがあって、場合によっては感動などもします。 しかし、いつまでたっても本当に世の中が生きづらいままなものだから、そんな小説ばかりが次々と出てきて、それを時代にリアルだとばかり読んでいると、うーん、とっても息苦しい。……。 そんな風に思って読んだ小説でありました。読んでみると、上記の「カラッと笑ってその後何も残らないという小説」では、ありませんでした。 いわゆる「ユーモア小説」ですね。そして、さらにいわゆる「上品なユーモア」というやつです。でも、この「上品なユーモア」を求める気持ちの評価は、実は、けっこう微妙であります。 ひょっとしたら、これは私のバイアスなのかという思いもあるのですが、少なくとも小説における「上品なユーモア」とは、常識的な保守性というような感じがします。 新しいもの、ラディカルなもの、先鋭的なものには「上品なユーモア」は、そぐわない。でも純文学を含めて芸術には、何かラディカルな新しいものが不可欠でありましょう。 しかしその一方で、間違いなくそれ(=「上品なユーモア」)が欲しい時がある、と。その思いにも、いわゆる普遍性があるのであります。 物語は、マスコミ、テレビ界という華やかな世界を舞台にしており、その世界について一般にはよく知られないルールや考え方や言動を報告するというストーリー、そしてそんな世界の住人の、男と女の新風俗と「恋愛」心理の紹介。 かつて三島由紀夫の軽めの小説を読んだ時に強く思った、「通俗心理学」と「啓蒙性」。 三島由紀夫の場合は、あまりにこの二つが前面に出すぎていて、時にその「教えてやる」感が鼻につく感じがあったように記憶しますが、本書は一つには時代が大きく現代から隔たっていること、そしてやはり作者の筆致の違いもあって、とても柔らかな(要するに「上品な」)文章になっています。 起伏のあるストーリーと、そして、いわゆる「悪人」が全く出てこない設定も、ひょっとしたら、読者が朝の出勤前のひと時に読む小説としては、最適な作り方なのかもしれません。 プロの見事な芸だなと思いました。これは確かに、この時代で新しくシリーズとして出版しても売れるだろうと感じました。 ……そんなことを考えながら、私は読んでいました。(我ながら理屈っぽい、ヤな性格であります。) しかし、出版不況といわれてすでに久しい現代でも、工夫と発想次第でまだまだスマッシュヒットは飛ばせるのだと、まぁ、少々他人事ながら、なんとなく良かったと思うものでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.05.06
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