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『靴の話』大岡昇平(集英社文庫) 集英社文庫も新潮文庫と同じで、文庫本のカバーの裏表紙に当たる部分に、作品内容のまとめや評価についての宣伝文が載っています。本書のその文章の最後に、こう書いてありました。 戦争の中での個人とは何か。戦場における人間の可能性を問う戦争小説集。 「戦場における人間の可能性」というフレーズが、具体的に何を示そうとしているのか、もう一つよくわからないのですが、とにかく「戦争小説集」と。 そういえば冒頭に書いた本の題名には実はサブタイトルがあって(なんか面倒くさいから省いてしまいました。すみません)、「大岡昇平戦争小説集」とあります。 そういえば、私が例の110円の古本屋さんで本書を買ったのは、あの大岡昇平の「戦争小説集」だ、という理由が明らかにあったことを、思い出しました。 しかし、それを思い出すと同時に、私は、自らの本作品に対する「判断と期待」に、「あの大岡昇平の」という理解が、勘違いでしかないと当然のように思い知らされ、反省と後悔をいたしました。 私は、血沸き肉躍る(とまでは、さすがに誇張でありますが)「戦争小説」をちらりと期待していたのでありました。反省。 ということで、大岡昇平の「戦争小説」です。 昔、『俘虜記』を読んだ時にも、確かこの作品は「小説」ではなく「記録」ではないのかと思ったことがありましたが、まぁ、本書についてもずっとそんなことを感じ続けていました。 そうすると6つの短編小説が収録されている最後6つ目の話「靴の話」に、こんな挿話がありました。 「私」とは別の分隊に属していた友人が亡くなり、「私」は彼の靴をこっそり貰う。しかし後刻、友人の属していた分隊の兵士が靴を返せと交渉に来て、「私」の分隊の分隊長に追い返される(盗られるのは盗られる方が悪いという日本の軍隊の原則)という場面です。 「私」の分隊長が兵士を追い払うのを黙って聞いている「私」の心理を、語り手(一人称の作品である以上これも「私」でありますが)は、「描き方は幾通りもある」と書いて、三種類書き分けています。 そして、こうまとめています。 結局靴だけが「事実」である。こういう脆い靴で兵士に戦うことを強いた国家の弱点だけが「事実」である。 ここに書かれているのは、たとえ「記録」であっても、作者によって一つの言葉が選ばれて表現として定着してしまえば、そこに「記録」と「小説」の違いはないということでありましょう。「結局靴だけが『事実』である」とは、そう読むべき表現だと思います。 もちろん私がそこに注目したのは、大岡昇平の文章の恐るべき正確さ・明晰さのゆえであります。これだけの明晰な文体で描いても「事実」は描けてはいないのだという筆者の文章に対する心構えであります。 思いますに、少なくとも昭和という時代以降に(明治なんて時代にはひょっとしたら恐るべき表現者がいたような気もしますので)、これだけ明晰に日本語を操っている作家は、わたくし寡聞にして思い浮かびません。 この明晰さは、読者を快感に導くものであり、間違いなく大岡作品が読まれ続ける大きな魅力の源泉になってします。 しかもこの明晰さは、時に結果として諧謔をも生み出します。これがまた一陣の爽風のように素晴らしい。 ちょうどこんな一節がありました。 我々が受けた退船訓練は滑稽なものであった。傾く船の反対側から降りろとか、潮流の方向を見きわめて下の方から飛び込めとか、実際に当ってとても実行できそうもないことばかりであった。出発前の軍装検査の時、廻って来た年老いた佐官の質問に答えて、我々の一人が教えられたところを暗誦すると、老人は溜息して「こういう心得のある兵隊ばかりであったら、我軍の損害も僅少で済むんだが」といったが、近代国家の軍の首脳部にこういう善良な低能が存在し得るのは驚異である。私は私が無事マニラに着けるなどとは思わないことにし、門司で有金残らず飲んでしまった。 しかし、最後に、わたくし思うのですが、このような理の勝って、絶えず現実を明晰に分析しようとする精神は、時に、その精神の持ち主にとっても重苦しくはないのでしょうかね。 四六時中これで、しんどくないのでしょうか。 ……うーん、私のようにアバウトの極みのような思考能力では、とても想像できるものではありませんが、古今東西天才的な頭脳の持ち主が、心ならずも自ら死を選んだりするのは、ひょっとしたら、このせいでありましょうか。 また、神代の昔から人間世界にアルコール飲料があり続けるのもまた、これゆえ、でありましょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.10.17
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『この国の空』高井有一(新潮文庫) 本書を読み終えて、思わずいったいどうなっていたのだろうと考えたことがあります。あれは、今どうなっているんだろう、と。 しかし、ともあれもう少し順を追って報告していこうと思います。 高井有一という作家の本を読んだのは、今回が初めてです。 実際、私は日本の文学者(中心は小説家)だけに限って読書報告をしていますが(さらに言いますと、時々「違反」しつつもいわゆる「純文学系」の作家の作品)、それでも読めていない作家の作品は星の数ほどあるようで、もしジグゾーパズルなら、いったいいくつのピースがあるのか、台紙はどれくらいの大きさなのか、まるで想像がつかない状態であります。 と、いう高井有一の小説を今回初めて、……とまた書きましたが、厳密に言いますと、数年前に古本屋さんで同作家の『立原正秋』という伝記小説のようなものを買って読み始めたことがあります。しかし、それは途中で「ケツ割り」してしまいました。 何となく当時のことをぼんやり覚えているのですが、なんかやたらと仕事が立て込んで忙しく、少しいらいらして、何でこんな忙しい時にこんなぼーっととぼけたような小説を読まなあかんねん、と「ケツ割り」したのであったような……。うーむ、反省。 これは以前より私が経験則的に身にしみているのですが、一度途中で読むのをやめた小説は、なかなか再挑戦が難しい、と。 だから上記の『立原正秋』は、今に至って私の家の本棚の奥の方に、なかったことにして置いてあります。(もちろん読破できていません。) そんな少し「トラウマ」のある作家の小説を読みました。 上記に私は、わがままほうだいな感想として、『立原正秋』のことを「ぼーっととぼけたような小説」と書きましたが、今回の本を読んで、特に前半は、見事にこれ地味ーーーーな小説だなぁと思いました。 ああ、あの時の私が感じていたのはこれだったのかと思い出しました。 しかし今回は、必ず読み切ろうと少々気合いを入れていたので、じっくりと読んでいくと、これは力作の、得難いリアリズムだぞと思うようになりました。 舞台は昭和20年の早春から8月10日過ぎまでの東京。 いわゆる大戦末期の日本の庶民の姿を、「淡々と」という印象ではなく「地味ーーー」に語っています。 今私は「淡々」ではなくて「地味」と書きました。「淡々」と「地味」がどう違うのか、私も余りよく分からないのですが、感覚的なものとしては、この描写は「地味」でありました。 そしてこの地味さは、後半のためのいわば大きな伏線であったわけですね。 昭和20年の東京の庶民がどんな暮らしをしていたのか、我々は知っているようで、実際何も知らないことが、本書を読んでいるとたくさん出てきて思い知らされます。 例えば、千人針。これはその名の通り千人の女が一人一針ずつ赤い糸で縫って、出征兵士の無事を祈って渡すものですが、寅年の女は、自分の年の数だけ縫ってもよいとされていたとか。 例えば、昭和20年の初夏、人々は蚊取線香がなくって困っていたとか。また、その頃の東京の家の値段は、借家も含めて急騰していたとか。(これは何度かの空襲がすでにあって、もうこの先東京にはないだろうという根拠のない予想と、今までの空襲でそれまでの住処が焼けてしまった人たちが増えたせいだとあります。) そんな小さな話が、地味ーーに作品内に散らばっていて、地味ながらこれはなかなか鋭いリアリティを感じさせる、うまい書きぶりだなと思いました。 しかし、その地味さは、後半の打って変わったようなエロティックぶりを描くための「タメ」のようなものでした。 いえ、実は、前半部にも何か所か、さりげないところに少しはっとする形でエロティックな断片は描かれていました。 主人公の19歳の里子が、町で淫靡なからかわれ方をしたとか、叔母に体の成長を指摘され、「女は血を流されなければ美しくなれないのか」と里子が考える場面とか、ちらちらとそれは小出しにはされていました。 しかし、4章ある全体構成の、ちょうど第3章に入ってすぐ、里子の家の隣に住む、妻と子供を地方に疎開させ独り暮らしをしている38歳の「市毛」という男への、里子の恋心が堂々と書かれ始めます。それまでは、ほのめかし程度であったのに。 そして話は急展開して、市毛が普段寝ている部屋に里子がこっそり入る話や、そこで手にする枕の臭いの話になったり、さらに里子の母親とが交わす里子の肉体に関するエロティックな話が描かれていったと思ったら、田舎の神社で二人はキスをして、その夜、庭でできたトマトを持って男の家に行った里子は、窓越しに男にトマトにむしゃぶりつかせ(おい、ここの描写は「昼メロ」だろう)、そして、まー、そのまま部屋に入ってセックスですわ。……。 ……えーっと、今私は少し下品な書きぶりをしてしまったのですが、何といいますか、本書のこのあたりの描写の形が(あるいはそれに対する私の感じ方が)、特に本書の前半が恐ろしいほど地味であったせいか、なんか、かなり「下品」な感じがするんですが、私の偏見でありましょうか、ねー。 ともあれ、妻子ある38歳の男と19歳の女の「不倫話」は、一気に終盤を迎えます。 8月10日過ぎ、終戦が間近だという情報を市毛が里子に語り、里子は戦争が終わればあなたのもとには奥さんとお子さんが帰ってくるのねと確認し、しかし、その後の新しい日々がもうすぐ始まるのだ、と思うところで物語は終わります。 と、いうところでいかがでしょう。私は本小説の評価ポイントとして二点、あると思いました。 一つは、特に前半極めて丁寧に書かれていた戦時下のリアリズムに対して、後半の女性性のエロスがどれだけ説得力を持つか、というところ。 もし持ちきれないならば、「昼メロ」とあまり変わらなくなりそうな気がします。 二つ目は、エンディングについてのことですが、この話が「不倫」話であるがために、戦後の新しい日々が始まるという終わり方が、どうもその方向性を示さず、ぶつりと切れたような感じます。 例えば市毛が妻子のない中年男なら、これはそんなことはなく、二人の新しい日々は見えそうです。 このエンディングは、本当にこれでいいのかが、気になります。 ということを考えつつ、さらにふっと気が付いて、ああ、あれはどうだったかなと思ったのが、実は冒頭の私の迷いであります。 それは何かというと、上記の報告のつながりで書くと、「不倫」は今でも文学的テーマとして賞味期限はあるのか、ということであります。 恋愛とモラル、フリーセックス。なんか、文学の中でもわあっと流行った時期がありましたよね。(女子大生や女子高生と中年男とか。) あれは、その後どうなったのでしょうか。 確か、「揺り戻し」みたいな時期もありましたね。フリーセックスの先の恐ろしい精神と肉体の荒廃と孤独、みたいなものが描かれた時期がありました。 で、今はどうなっているのでしょう。 恋愛やセックスだけでなくあらゆる現代的課題に疎い私は、どうにも見当がつかないのですが、どなたか、お教えいただけますでしょうか。 モラル違反のセックスは、「文学的テーマ」として(ということは、人間の心の中の闇として)、今でもあるのでしょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.10.04
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