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『水車小屋のネネ』津村記久子(毎日新聞出版) さて、前回の続きです。 前回は、ここで突然本小説のテーマ、と書いたところで終わりました。 では、以下に続けたいと思います。 と、ここで突然、私が考えた、本小説の主たるテーマについて触れてみます。 わたくし実は、さほど本書の筆者の小説を読んでいるわけではありませんが、何作かを読んでいて、ざっくり勤労女性を主人公にしての労働環境の人間疎外を主なテーマに描いている方かなと思っていました。 そして、各作品の最後には、ささやかながら小さな「救い」が描かれている(作品が多い)と感じており、そしてそれこそがこの筆者の作品の魅力であろうと。 本書も、構造や展開にいろんな違いはあっても、基本的に同じ形をとっているのじゃないか、と。 ただ、明らかな違いは、本作はそのテーマが労働環境ではなく、(少しまとめにくいですが敢てまとめると)「青春期の家族間疎外」あたりを主たるものとしているようです。 もう少し具体的に書くと、ネグレクト、両親の離婚、その他の家族間トラブルなどを起点とし、そしてそれがささやかながら癒されていくという物語でしょうか。 本作は、舞台である自然豊かな山間部の町に、引き付けられるようにそんな過去を抱えた青春期の少年少女達(またはさらに幼少の者)が集まってきて、互いに関係しあう姿が描かれます。 そして、ストーリーが進むにしたがって、見事にほぼ年齢順に、彼ら彼女たちに小さな「救い」が訪れる、という展開です。 ただ、個人の労働環境だけを描いた他の作品と違って、異なる環境の複数の若者達の救いを描くためには、そして、そのプロセスにリアリティを持たせるには、どうすればいいのか、その解決の試みが、この長い日常をじっくりと描く、ということであったのか、つまり、作品的な長さこそが、「救い」のリアリティの保証ではなかったかと、私は思いました。(言うまでもなく、水車小屋のヨウム・ネネがその象徴でありますね。合わせてわたくし思ったのですが、このネネのお話は、「尾籠物語」の構造を微妙になぞっているのじゃないかということです。聖なる尾籠が、人々を救い癒す、という。) またこれも多くは説明しませんが、彼らが何に救われるのかというと、それは、家族ではない他者からの幼少者に対する無償の善意によってです。 (そして年長者の善意に救われた幼少者は、次十年後に、また次の幼少者に善意をささげるというループ構造ですね。これもうまく設定してあります。) 或いは筆者は、このループ構造にこそ人が生きることの意義と希望を託しているのかもしれません。作品終盤に、ある登場人物にこんなセリフをしゃべらせています。 「誰かに親切にしなきゃ、人生は長くて退屈なものですよ」 最後にもう少しだけ触れておきたいと思いますが、長い小説を書くための工夫も、筆者はかなりなされています。 上記の、十歳ずつ成長していく登場人物たちの興味深さもそうですが、かなり細かく丁寧に工夫しているのが、作品の人称についてであります。 全体を通して、基本は三人称小説でありながら、各「話」ごとに(またはもっと細かく)、語り手が寄り添って語っている人物が変化していく表現となっています。 つまり、本作の三人称は、神の視点を持つ三人称ではなく、三人称ではありながら特定の人物の視点に寄り添う、例えば内面描写などはその人物のものしか描かないという形の三人称となっています。 その工夫は、登場人物の造形がより立体的になってくるという効果を生んでいると思います。長編小説を読者に飽きさせない工夫の一つでしょう。 と、そんな事をあれこれ思いながら読みました。 ただ、終盤は、わたくし、ちょっとしんどかったですね。 それは、途中までは順番に少しずつ描かれていた「救い」が、終盤、大団円とばかりに重なって(或いは既出の「救い」も思い出されてふたたび)描かれていき、ちょっと下世話に書くと「よかったよかったみんな幸せ」になってしまってはいないか、と感じたからであります。 いえ、そのことのどこが悪いのだ、長編小説のエンディングなんだぞ、と言われれば、まー、それは、個人的な好悪、なのかも知れませんが……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.04.19
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『水車小屋のネネ』津村記久子(毎日新聞出版) 長編小説であります。 私が読んだ新刊書では482頁もありました。 本作は毎日新聞連載で、2021年7月1日から2022年7月8日までとなっていて、ほぼ見事に1年間でありますね。 なるほど、まるまる1年間ということは、何回くらいの連載回数になるのでしょうかね。一年のうちには、新聞休刊日も何日かあるし、新聞は出ているが連載小説は休みという日もあるでしょうね。 ざっくり、350回、辺りでいかがでしょう。 夏目漱石の『明暗』は、漱石が原稿用紙に「189(回)」と書いたところで机に突っ伏してしまい、そのまま未完の作品となっていますが、岩波文庫で624頁(解説等込み)であります。本作がいかに長い小説かがわかりますね。 なぜこんなに長いのか、わたくし、頑張って読みながら、また読み終えてから、少し考えましたね。 まず、なんといっても全体の構造がユニークです。説明するのは面倒なので、目次をそのまま引用してみますね。 第一話 一九八一年 5 第二話 一九九一年 183 第三話 二〇〇一年 305 第四話 二〇一一年 393 エピローグ 二〇二一年 475 こんな感じです。どうですか、かなりユニークな作品構造だとわかりますね。「話」が進むたびに登場人物がみんな十歳ずつ年を取っていくんですね。いかにも面白そうだ。(しかし「話」ってのも、なんか変ですね。「章」とか「部」じゃないですか、普通は。) そういえばわたくし、これとよく似た構造の小説をずっと昔に読みましたよ。(つまり、本書よりかなり先行する小説)それは、 三島由紀夫『豊饒の海』 ただし、三島の小説は、巻ごとに二十年ごと進む設定であった違いと、第一、長さが「ネネ」の三倍くらいあるんじゃないでしょうか、四冊の連作長編小説であります。 私は今、似た構造だと書きました。でも、津村「ネネ」は、特に三島「豊饒」に影響を受けたとは感じませんでした。 ただ、こうして並べると、なんとなく興味深い事柄が浮かんできました。 それは、この構造にした起点となる年は、いつだったんだろうということです。 『豊饒の海』については三島自身がどこかで書いていたのを覚えています。 まず副主人公(全編を通しての狂言回しのような人物)の年齢を二〇歳から八〇歳までとし、そして、第四巻の年代設定を未来の(『豊饒の海』が書き始められたのは1965年)1970年とする、という事だったと思います。 本書(「ネネ」)の場合はどうだったんでしょうね。 筆者あとがきによると、この小説は2020年5月から2021年6月までに書いた(ごく短いエピローグだけ2022年4月執筆)とありますから、書き始めた時は、おおざっぱに最後を現代にそろえようという意図があったのかもしれません。 また、内容的な側面から類推すると、やはり2011年東日本大震災と絡めるための年代設定であったのかもしれません。確かにこの大震災の挿話は、終盤に向けてのストーリーの推進力になっています。 と、いうようなことをまずあれこれ考えました。 そして、この長さについて、さらに読み進めて感じたことが、もう一つあります。 それは、この長さこそが作品の「救い」に一定の説得力を保証しているということであります。 と、ここで突然、私が考えた、本小説の主たるテーマについて触れてみます。 と、書いたところで、あ、すみません、少し長くなりそうなので。次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.04.06
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