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『行人』夏目漱石(新潮文庫) 確かこの作品も多分4回目くらいの読書だと思いますが、さすがに 4回目だと何となくストーリーは覚えています。(作品そのものだけじゃなく、漱石関係のテーマの図書もちらほら好きで読んでいましたから。) それで、漱石長編小説の中でも結構長めだし、重厚感のある一冊なはずだと、読む前に思っていました。しかし実際に細部として割としっかり覚えていたのは(読んでから細かい所は分かったのですが)、「二郎」の友人の女性についてのエピソードでした。 それは三沢という二郎の友人がまだ学生時代、家にとある理由で、離婚をして精神が病んでしまった女性が同居することになり、三沢が外出するたびに、玄関まで見送りに出て来て「早く帰って来てくださいね」と懇願したという話でした。 私は、この話が『行人』全編の下を通奏低音のように流れているエピソードだという認識を何となく持っていました。そして、どこか少しエロティックな印象も。 今回その部分を読むと、その女性についてこんな感じで書かれていました。 その娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸を持っていた。その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺めているように恍惚と潤って、そこに何だかたよりのなさそうな憐れを漂わせていた。僕が怒ろうと思って振り向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はその度に娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくって堪らないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。 いかがでしょうか。上手な表現であるのは言うまでもなく、加えて色っぽく感じるのは私だけでありましょうか。 しかし、この女性が作品全体に影を落としているという私の記憶は、やはり間違ってはいなかったことを、今回の読書で私は確認できました。ただ、その「淋しくって堪らない」主体は、主人公の「一郎」ではありましたが。 本書は四つの章で構成されています。 今私が挙げたエピソードは最初の章に描かれているのですが、二つ目の章から中心になって出てくるのは、上述の「二郎」、その兄の「一郎」とその妻「お直」であります。 ストーリーを詳しく説明するつもりはないですが、そして、漱石の『行人』といえばこのエピソードだと多分もっとも人口に膾炙されているのは、一郎が、妻のお直の節操を試してほしいと二郎に頼むという常軌を逸した展開でありましょう。 この展開が、二つめの章のほぼ全体と、三つめの章の半ばあたりまであります。 思わぬことで和歌山で一夜を過ごすことになる、二郎とお直の挿話はスリリングでもあります。 ただ、四回目の読書をしていた私は、筋そのものは覚えていたこともあって、その場の展開の面白さよりも、はっきり書いてしまいますと、漱石はよくこんなストーリーを考え付いたものだという思い、この筋書きはリアリティを伴っているのかという考えを持っていました。 漱石が、実際に兄嫁に懸想をしていたと強く主張していたのは確か江藤淳だったと思いますが、確かにそんな説を出したくなるような、一種の突拍子のなさを感じました。 ただ、最終章になると、俄然作品の様相が変わってくるんですね。 今までの章で中心に描いていた妻の節操という話も、どうでもよくなるわけではないですが、最終章が描く一郎の大きな苦悩の一部に過ぎないことが描かれていきます。 その大きな苦悩は、例えば、こんな表現で書かれています。 自己と周囲と全く遮断された人の淋しさ 「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途には此の三つのものしかない」 少し長い所を抜いてみます。一郎が、妻について、友人に語っている場面です。 「一度打っても落ち付いている。二度打っても落ち付いている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、やっぱり逆らわない。僕が打てば打つほど向こうはレデーらしくなる。そのために僕は益々ごろつき扱いにされなくては済まなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒りを小羊の上に洩らすと同じ事だ。夫の怒りを利用して、自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥かに残酷なものだよ。僕は何故女が僕に打たれた時、起って抵抗してくれなかったと思う。抵抗しないでもいいから、何故一言でも言い争ってくれなかったし思う」 こういう兄さんの顔は苦痛に満ちていました。(略)兄さんはただ自分の周囲が偽りで成立しているといいます。 例えば、漱石はその生涯の作品のすべてに三角関係を描いたといわれます。実際に本作もその形をとっています。しかしこの最終章に入って、そんなロマンスの影は、ほとんどありません。 その代わりに描かれているのは、モラルを徹底的に誠実に追い詰めることの絶対的苦悩と孤独、そしてそれをこれまた一心に描いていこうとする筆者の姿が、読者の心に突きつけてくるような強烈な迫力であります。 言われてみれば、作品を成立させる動力部のようなモラルと誠実さは、漱石作品全編に見られる特徴であります。 そして、それこそが、私にとっては、漱石作品の最大の魅力であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.09.21
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『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹(新潮社) さて、本書はもう25年も前になる村上春樹の短編集であります。 私としては、再読か、あるいは3回目くらいの読書であります。(ただし、内容はほぼ忘れています。) 時々、村上春樹の短編小説が妙に読みたくなるのは、これはどういうことでしょうねえ。 長編に手を出すのは少し厄介だし、村上春樹本人は自分は長編小説作家だとおっしゃっているようですが、周りの評価では、短編小説も優れている、いや、短編小説こそが優れている、などの評価もありそうです。そのせいかなと思います。 本書の中に、小説家が主人公の作品が一つあって(「蜂蜜パイ」この小説家の主人公・淳平は、別の短編小説集の作品にも出てきますが)、そのせいもあって、短編小説について、いろいろ面白い説明やセリフがあります。こんな感じ。 (略)淳平は言った。「でもそれはそれして、短篇小説という形式は、あの気の毒な計算尺みたいに着々と時代遅れになりつつある。(略) (略)どれも好評だった。彼は自分の文体を持っていたし、音の深い響きや光の微妙な色合いを、簡潔で説得力のある文章に置き換えることができた。 いかがですか。二つ目の引用文は、村上春樹自身の短編小説論のようですよね。だって、こんな文章を書いてるんですよ。 そのとき順子は、焚き火の炎を見ていて、そこに何かをふと感じることになった。何か深いものだった。気持ちのかたまりとでも言えばいいのだろうか、観念と呼ぶにはあまりに生々しく、現実的な重みを持ったものだった。それは彼女の体の中をゆっくりと駆け抜け、懐かしいような、胸をしめつけるような、不思議な感触だけを残してどこかに消えていった。 (「アイロンのある風景」) 焚き火の「深い響きや光の微妙な色合い」そのものの見事な描写であります。 と、そんなわけで、我が本棚にも何冊かある村上春樹短編小説集の中から、冒頭の本書を取りだしました。 しかし、本書を読み始める前に、私は、何か読書のテーマとでもいいますか、とにかくそんなものが本書読書にはあると考えました。それは、この連作小説が、阪神淡路大震災をモチーフにしているということから確認できることであります。 ちょっと調べてみましたので、年譜を確認してみますね。 1995年 1月・阪神淡路大震災、3月・地下鉄サリン事件 1997年 『アンダーグラウンド』出版 1998年 『約束された場所で』出版 1999年 『スプートニクの恋人』出版 2000年 『神の子どもたちはみな踊る』出版 出版された作品群の詳しい説明は省きますが、今回の本書は、筆者が阪神淡路大震災に数年しか間を置かず向き合って作った連作短編集であります。 そして、本書の6つのお話はすべて、1995年2月という、大震災とサリン事件の間の世情不安定な一ケ月を舞台にしています。 と、すると、この連作のテーマは、具体的な形はともかく、何らかの「癒し」や「希望」めいたものを描いたものにならざるを得ないのではないか、と。 ただその時、仮にも現代日本の純文学の第一人者の村上春樹が、この混とんとする世相の中で、読者にいかにリアリティを伴った「癒し」「希望」を示してくれるのか、これが、我々読者にとっての、本書読書の最大の「きも」でありましょう。 ……で、読み終えました。 やはり、おもしろかったですねー。時々ふと村上短編集が読みたくなるはずだなー、と思いました。 そして、読書前に考えていた読書テーマについて、考えてみました。(本当は、もう、そんな教訓めいたものは、ちょっとどうでもよかったのですが。) なんとなくそれなりのまとめができそうなので、さらっと書いてみますね。 ただ、そもそもが「オープンエンド」と呼ばれて、読者の多様な解釈を許す村上作品ですので、以下の文章はわたくしの、勝手気ままな解釈となります。 6つの作品に大小のウェイトで描かれる地震ですが、まずそれは圧倒的なエネルギー装置と位置づけられるようです。その特質には善悪、白黒はなく、ただ力が圧倒的な分、周囲には結果として理不尽な暴力破壊をもたらします。 本連作は、結局のところそんな地震のメタファーを絶えず意識しつつも、実際に地震に立ち向かうという話は一つだけ(「かえるくん、東京を救う」最もメタファーの強い作品)で、そのほかの5作は、個人の人生に降りかかってくる巨大な力や理不尽さに抵抗する人びとの、その個々人ばらばらの抵抗の仕方(または抵抗できないでいる実体)を描いています。 それは、作品順に、ほぼ抵抗できない実体から始まり、実は巨大な圧力とは自分の中にあるものだ、あるいはそれこそが世界の様相だという分析であったりしながら、そして連作の最終話においては、巨大な圧力に対して新たな一歩を決意する主人公の誠実な姿が描かれます。 そんな読み方を、今回わたくしはしました。 少しエンタメっぼく安易だったかなー(いつもはもっと心の闇の部分を深くえぐって終わる村上作品なのに―)という気もしつつ、しかしそれとは別に、この一作ごとの実にオリジナルな設定と展開がある限り、少なくとも村上短編小説は、そう簡単には「気の毒な計算尺」にはならないだろうと思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.09.07
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