2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
1月
2月
3月
4月
5月
6月
全4件 (4件中 1-4件目)
1
音楽や映像が大好きで、特に「発信(発射じゃない!)」をしたい人間にとって、インターネットはず~っと「魅力的」でなんだか「可能性」を感じないではいられない、そんな「メディア」に思えて仕方がない。。。のだけれど、じゃぁ~それで「飯が食えるか」というお話になると。。。ちょっと考えてしまう、というのが現状なのかな。そんなことを考え始めてから早や10年くらい経ったような気がする今、Web2.0がそれをもう少し「実現可能」なイメージに近づけてくれているように思える。YouTubeなどに代表されるような「CGM」が多数存在してくることで、「発信」して何かを共有(自分以外にもこの映像や音楽やコンテンツに共感を抱いてくれる)したい人間にとってネットは、結構満足度の高いものではないか。何もレコード会社や出版社やTVを通さなくとも自分が発信したいものをある程度自由(もちろん制限はある)に発信することができるわけだから。ただそこから「お金」を頂戴するのは。。。やはりまだまだな気がする。これまでのシステムを変えていくことはそう簡単ではないだろうし、著作権を保持したい側にとっては、そう易々と「新参者」に取って代わられるのを許すわけにはいかないし、自分たちのこれまでの努力なんだったのかと思いたくもなるだろう。もちろんその辺はこれまでの「経済システム」上からは「ユーザ」が自分の側についてくれれば(ファンになってくれれば)物は売れたかもしれない。しかし、ネット上の流通は既存の流通システムとは趣を変えつつある。AmazonやGoogleがそれを変えて行くだろう、と一部のメディアは書き立てる。実際のところはまだなんとも言えない、そんな気がするが。ポイントとして感じるのは、これまでのメディアはほとんどが「受身」だった。その一方、Googleなどの検索エンジンはこちらから、言葉を入力することで何かを得る仕組み。つまり「能動的」なメディア。テレビが一方的に情報を流すのに対して、ネット上の情報はこちらから何らかの言葉を入力して情報を得るというのが一般化している。その辺の情報の受け取り方、手に入れ方に違いがあるように思える。ネット(バーチャル)と既存メディア(リアル)とのお話は、以前から取り沙汰されているので、何も目新しいことではない。まだ、クリアに考えがまとまらないが、引き続き追っかけて行きたいテーマでもある。
October 9, 2006
コメント(0)
映画『稲村ジェーン』で流れていただろうか...映像と相まってサザンの歌を聴くことは経験上かなり少なくて、専ら、クルマの中か携帯音楽プレイヤーで聴くことが多いのだけれど、この曲や「さよならベイビー」(『彼女が水着に着替えたら』だったかな?)などは映像に重なって音だけでの記憶とはちと違った「感じ」で残っている。久しぶりにDVDでもと思いレンタルショップへ立ち寄って、「そうだ」と思いそれらのDVDないしはビデオを探してはみたが、どうもこの店には置いていないようで、見つけることができなかった。考えてみれば「リクエスト」と言う手もあったな。次回はそうしてみよう。そう...考えてみたら、この歌ももう10年以上も前の歌なんだと。そんな時間が経過したことなど微塵も感じさせない、そんな曲だな、と。想いを巡らせてみれば、そうなんだよなぁ~。サザンは十代から聴いているので、それぞれのアルバムや曲にいろいろ想い出はあるけれど、全部がぜ~んぶ「懐かしい」ってわけじゃなし。そんななかでもサザンの曲では「希望の轍」や「さよならベイビー」は映像とセットで昔を振り返らせてくれる数少ない歌なのかもしれない。ああ、またあの映像を観てみたいなぁ~。
October 8, 2006
コメント(0)
終日、テレビなどの報道を見ていると、今まで国連安保理会議で悠長な態度を表明していた中国もロシアも、それにこれまで対北には甘い外交態度を執っていた韓国でさえ、手のひらを返したような強硬姿勢を見せている。何を今更の感が強い。危機感を持って以前から対北対策を表明し続けてきた日本側からすれば、そう言わざるを得ないでしょ!9.11以上のことにもなりかねない、そんな危機感はひょっとしたら日本人自体もあまり持っていないかもしれない。先のテポドン発射の際も、日本のマスコミも割り合い、のんびりした、そんな騒ぎ立てることはない、といったことを述べるコメンテーターもいたが。。。この事態で早急な対応を周辺諸国、国連などなどはしなければならないはずだと思われる。これを機に韓国も中国もこれまでの日本とのわだかまりを乗り越えて力を合わせて対応してもらいたい。制裁と強行手段に出るのではなく、あくまでも平和的解決を早急にやり遂げて欲しいと切に望んでいる。
October 7, 2006
コメント(0)
過日の伊吹文明文部科学大臣の「美しい日本語」に関する発言。現場で小学校英語活動をしている人たちの声を聴くと「何を今更。またか」といった発言を聞く。全くだ。国の大臣が変わると現場はそれに合わせて右往左往しなければならないのか。おかしな話。まるでプロパガンダ、これを機に自分のことを売り込みたい、覚えてもらいたい、そんな「下心」しか感じない。この国や会社も政治も「本当に考えなければならない」人たちのことをおざなりにしている。この件で言えば「こどもたち」。子供たちにとってどうなのかを忘れて大人の自己満足が飛び交っているだけ。英語は話せたに越したことはない。民間ではずっと以前からそれも小学生以下の就学前の子供たちにも英語を教えている。その現実をどう考えるのだろう。それから、英語以外にもしかも教科となっている科目もあるわけで、現場の先生は他の教科も同じこと、英語が特別ではない、と言っている。もちろん小学校の先生にとっては、英語が苦手だから小学校の先生になったという方々も多いだろうし、あれだけの科目を一人でこなすのは、やはり大変なことだと思われる。それが障害となって子供たちに悪影響をあたえてはならないのはもちろん。だからと言って、こどもから学ぶ権利まで奪うことはない。英語を学ばせたいなら民間に通わせればいい。国語教育の方が大事だ、という意見もある。確かにPISA型では世界的に日本はあまり芳しい成績ではなかったようだ。しかしそれは国語教育のあり方にあるのであって、英語教育を必修化することとは別に考える必要があると思われる。要するに教育だけにとどまらずこれまでの「システム」が機能しなくなってきたのであり、新しい仕組みを考え、試行錯誤していかなければならない時に来ているのだ、という認識をもうそろそろ皆持っても良いのではないただろうか。一大臣のために日本の将来を担う子供たちの一生を台無しにされては、たまったものではない。
October 6, 2006
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1

![]()
