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これは今回のPRチラシです。先週、1月26日(水)に京都国立博物館に行きました。主目的は恒例の干支づくしの新春特集展示を鑑賞するためです。今年は勿論「寅づくし -干支を愛でる- 」です。 当日平成知新館で入手した「京都国立博物館だより 2020年1・2・3月号」です。現時点では、併行して企画されている3つの特集展示を平成知新館で鑑賞できます。一つは、上記の「寅づくし」で2月13日までの期間です。併せて特集展示として「新収品展」(2月6日まで)と「後期古墳の実像 -播磨の首長墓・西宮山古墳-」(2月13日まで)を開催中です。当日入手の諸資料も参照・引用し、私の覚書を兼ねたご紹介をしたいと思います。まずは京博への往路の一部を少し点描風にご紹介することから始めます。私は京博に行く時、通常はJR奈良線の東福寺駅で下車して、本町通を北上し、大谷高・中学校の正門前の道路を北上し、JRの軌道上の陸橋を経由して、三十三間堂の南端の築地塀(太閤塀)が面する塩小路通まで出ます。塩小路通りを東に進み、「南大門」を通り抜けて、北方向に転じて京博に至ります。 南大門を通り過ぎ、少し東にすすむと、塩小路通の北側に駐車場のフェンスが見えます。その南西隅にこの石標が建てられています。 傍の壁面に歴史地理史学者・中村武生著によるこの案内銘板(2010年5月)が設置されています。「当地東山には、ながく『大仏』がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したものです。その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。 現在も同寺は現存しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたあります。蓮華王院南大門(正しくは『大仏南門』)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、一般には塩小路通とよびますが、『大仏南門通』と別称されています。付近にある『大仏変電所』の名もそれゆえです。 幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまその母貞(てい)と末娘君江が同所で賄いをしていたからです。 このことはお龍(りょう)の晩年の回想録『反魂香』に記録されています。すなわち『<大仏南の門の今熊の(野)道>の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、<中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等』と同居していたといいます。 が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏づけたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶摩の書翰でした(元治元年<1864>5月2日付、母宛)。そこに『私義は此節は、洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮らし居候』とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも『本瓦町』で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいありません。 当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰ってきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。 以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」(転記) 石標の東面には「大仏(方広寺)旧境内地南限」と刻されています。塩小路通の東から西方向を眺めた景色です。 南大門を通りぬけると、道路の西側は三十三間堂(蓮華王院)で、東側には「法住寺」があります。 法住寺の北隣りは「養源院」です。左は養源院の表門を通り過ぎ、養源院の北西角付近から撮った景色です。南大門から北に歩むとき、見かけたのは一人だけ・・・・、三十三間堂の境内地も静かなものでした。 七条通の横断歩道を渡れば、京都国立博物館です。壁面にこの特集展示案内の大きなパネルが設置されています。平成知新館の3階まで上り、名品ギャラリーを順路表示に従って順番に鑑賞しつつ、下の階に移動していきます。<3F-1陶磁>は、[梅を愛でる][日本と東洋のやきもの]、<3F-2考古>では、[特別公開 四国の弥生土器と弥生・古墳時代の生産-辰砂と鉄-]というテーマで展示されています。2Fの1~3が[新春特集展示 寅づくし -干支を愛でる-]です。当日、入手した出品一覧表では会期中の展示総数は36件。25日以降の展示は34件です。2F-1は「強いトラ、かわいいトラ、どんなトラ?」というテーマが設定されています。 会場の入口で入手したのが「さがしてみよう! こんなトラ」というシート。京博の教育室が準備され、子供たちに展示作品に興味を持たせるための補助手段、ワークシートです。対象年齢は「6歳頃~」と記されいます。勿論、成人も対象のうちで、楽しむことも自由です。日英版と中韓版が準備されています。「つよそうなトラ、よわそうなトラ、かわいいトラ、かっこいいトラ、・・・・・」みつけたら、このシートにあなをあけてね、というものです。 また、「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」という解説シートも準備されています。 出品一覧のトップに載っているのがこれ! 尾形光琳筆「竹虎図」です。意図的にかわいい感じで行儀のよい虎を描いているのでしょう。ユーモアのあるトラです。上掲のNo.225には、この竹虎図を紹介し、併せて川柳を紹介しています。 猫でない証拠に竹を書いて置き京博では、ゆるキャラの「トラりん」が公式キャラクター。「実はね、ボクはこの『竹虎図』から生まれたんだリン」と公開されています。トラりんには「虎形琳ノ丞」という名前もあります。(資料1) 「青銅虎符」(中国の秦~前漢時代、紀元前3~紀元前4世紀)と称された虎も出ています。「符」という漢字が使われています。この虎、2つの半身に分かれる「割符」なのです。普段は半身が別々に所持されていて、それが合体するときは戦を始める合図になる、そんな主旨の説明が展示品の傍に掲示されていたと記憶します。メモをしていませんでしたのでちょっと曖昧! ネットで調べてみますとと、「虎符とは、虎の形に作った銅製の割符で、参戦する将軍が徴兵時の証明として、天子から与えられる兵符のことである。」(資料2)という解説に出会いました。これから吼える虎になるというところか・・・・。ここでは、陶磁器の鉢や香炉、香合に描かれた虎、印籠やたばこ入れを帯にはさむために紐の端につける根付と呼ばれる細工物に虎を彫像した「虎根付」が展示されています。根付は小さな細工物ですが様々な意匠があっておもしろい。「虎蒔絵沈箱」(京都・神光院蔵、江戸時代17世紀)という名称のものが展示されています。沈箱というのは「沈香を入れておく箱」のことで、沈香はジンチョウゲ科の常緑高木から採取された天然香料。この香料の優良品が伽羅(きゃら)と称される品だそうです。(資料3,4)「十二類絵巻」(重文、室町時代15世紀)の三巻のうち巻中に描かれている虎の箇所が展示されています。6曲1双の大きな屏風が二種展示されています。横山華山筆「虎図押絵貼屏風」(江戸時代19世紀)と単庵智伝筆「龍虎図屏風」(重文、室町時代15~16世紀、京都・慈芳院蔵)です。 これは、「龍虎図屏風」(左隻)の虎図です。やはり、竹が描かれています。 伝李公麟筆「猛虎図」(朝鮮半島・朝鮮時代、16世紀、京都・正伝寺蔵)これは伊藤若冲がモデルにした虎図と言います。若冲の虎図はエツコ・ジョウ プライス コレクションの一つになっています。この京博で若冲の没後200年特別展覧会が開催された時に、若冲の虎図が展示されていました。この猛虎図を見て、ナルホド!です。ほかにも逸品が展示されています。2F-2は「トラと一緒に」というテーマでの展示です。こちらでは、根付ではなく印籠そのものに龍虎あるいは竹林・虎を題材にした意匠を施してあります。江戸時代、19世紀の作品が3件展示されています。見応えがあるものです。 「竹に虎文様掛下帯」(江戸時代、19世紀、部分図)武家の女の人が身につけた帯に虎と竹が刺繍されています。武術の嗜みもあるきりっとした女性がこの帯を締めているのを想像してしまいます。この部屋にはさらに横山華山筆「四睡図」(江戸時代、19世紀)が展示されています。四睡図というのは、豊干禅師、虎、寒山と拾得の4者が眠る場面を描いた絵です。禅画として一つのテーマになっているようです。(資料5)羅漢さんと虎を描いた「十六羅漢図」(中国・元時代、13~14世紀、重文、京都・高台寺蔵)や「達磨・豊干・布袋図」(中国・南宋時代、13世紀、重文、京都・妙心寺蔵)に虎が描かれている図も展示されています。明治時代の作ですが、田村伎都子コレクションで京博蔵の「龍虎文様火消半纏」が展示されています。リバーシブルの半纏で、消火を完了したら半纏を裏返して龍虎文様を表にするというおもしろいものです。心意気でしょうか。京都・法金剛院蔵の後陽成天皇宸翰「龍虎」の墨書は凄く迫力を感じる文字です。2F-3は「本当のトラは・・・・・」がテーマです。この部屋には、京博に寄贈された作品2件が展示されています。一つは、展示品の中では最も現在に近い作品。20世紀の中国・中華民国時代の作品です。梁鼎銘筆「挿虎図」。勿論、本当の虎を熟視した上での虎が描かれています。 これがもう一つの作品。岸駒筆「虎図」(江戸時代、19世紀)「生きた虎を見るのが難しいので、虎の頭蓋骨に虎皮をかぶせてスケッチしたり、虎の足の剥製を手に入れて、関節の位置や仕組みを調べたり」という「リアルな虎を描くために様々な努力をして」いたと言います。「でも残念ながら、目は猫をお手本にするしかなかったようで、昼間の猫のような縦長の瞳で描いています。虎の瞳は、実際には丸くて、縦長にはならないのです。」(博物館 Dictionary No.225より)それでも、虎の気力を感じさせ迫力が溢れていると感じます。私は岸駒が様々に描いている虎図が好きですね。「寅づくし」はこれで終わり。2F-4近世絵画は、「平清盛没後840年 盛者必衰-『平家物語』と源平の合戦」(2月13日まで)の企画展示として、合戦図の屏風が展示されています。眺めていて、その合戦場面に描き出された人間を数えていけば、何人描かれているのだろ・・・・と思った次第です。すごい数の兵士たちが描き出されています。2-F5中国絵画は、「清時代の絵画」(2月13日まで)というテーマで展示されています。1階に降りますと、常設の諸仏像以外では「四天王と毘沙門天」「日本の彫刻」が2月21日までの期限で展示されています。 これは、今回の特集展示の一つの図録です。この展示を見て初めて知った古墳。播磨の首長墓だそうです。1F-2の部屋に展示されています。これも展示は2月13日まで。兵庫県たつの市西宮山古墳という横穴式石室をもつ前方後円墳の発掘調査結果と共同研究の成果をあわせて、ここにその実像を紹介するという試みでした。展示された一つの古墳の全貌を観察できるというのは、深堀りするような感じを味わえて興味深いものです。1Fの3~5が最後の特集展示「新収品展」です。新たに博物館の収蔵品となった作品の展示です。ここ2年の年度における様々な分野の収蔵品から約40件の紹介です。 伊藤若冲筆「百犬図」が収蔵品となったということだけ触れておきましょう。若冲のこの作品をここで見られる機会がたぶん増えるだろうということは、若冲好きの私にはうれしいことです。1F-6漆工には「中国と琉球の漆芸」というテーマで展示されています。様々な堆朱の作品を鑑賞できます。新春特集展示「寅づくし」を中心にご紹介しました。ご覧いただき、ありがとうございます。つづく参照資料*「新春特集展示 寅づくし-干支を愛でる- 出品一覧」*「京都国立博物館だより 2022年1・2・3月号」*「博物館 Dictionary No.225 虎-見たことがない生き物を描く」1) 2015年10月 はじめまして!トラりんだりん :「京都国立博物館」2) 倣秦青銅虎符 :「ギャラリー解説」3) 沈箱 :「コトバンク」4) 沈香 :「コトバンク」5) 四睡図 :「e國寶」補遺京都国立博物館 ホームページ 博物館ディクショナリー 虎(とら)―見たことがない生き物を描(えが)く PDF版のダウンロードができます。天台宗 法住寺 ホームページ洛東 養源院 公式サイト蓮華王院 三十三間堂 ホームページ十二類絵巻 :「京都国立博物館」東京ステーションギャラリーで「見ればわかる 横山華山展」を観た!:「とんとん・にっき2」 「虎図押絵貼屏風」右隻の図版を掲載横山華山 :ウィキペディア岸駒 :「コトバンク」虎図 岸駒 :「文化遺産オンライン」猛虎之図 :「東京富士美術館」虎木彫根付 :「文化遺産オンライン」虎猿牙彫根付 :「JAPAN SEARCH」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.31
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1月20日、会期が23日までという直前に、奈良国立博物館に行きました。2019年春に「国宝の殿堂 藤田美術館展」を鑑賞しています。今回はその続編という位置づけで、藤田美術館所蔵の絵画が紹介された特別展です。覚書を兼ねて、少しご紹介します。展示会場のパネルで藤田美術館の告知を見ました。昨年(2021)10月19日に美術館の建替工事が竣工しており、来る2022年4月に所蔵品を展示してリニューアルオープンする予定だそうです。 この展覧会のPRチラシここに掲載の作品図版を引用しつつまとめてみたいと思います。 展覧会チケットの半券 やはり、この竹内栖鳳筆「大獅子図」が異彩を放つという感じでした。一隻の屏風絵です。後でご紹介する今回の図録表紙にもこの絵が使われています。展示会場に入ると、入口に向かって右側壁面前のケースに納まっていました。縦239.0cm、横281.8cmというサイズです。迫力があります。 ライオンの頭部と上半身がグンと迫ってくる感じ。下半身の描写とはかなりアンバランスな第一印象を抱いたのですが、じっと眺めているとやはりバランスはとれている。どのアングルから獅子を見ているかという立ち位置が大きく関係しているようです。あるいはそれだけライオンの相貌にまず引き寄せられていたということかも・・・・・。やはり「藤田家の蒐集を代表する近代絵画の名品」(図録解説より)という位置づけにある作品だそうです。竹内栖鳳は明治34年に渡欧から帰国し、直後に新古美術展に獅子図を出展しました。そのとき「金獅子」として話題を呼んだそうです。これは明治35年頃に描かれた作品とか。 大獅子図の手前に、羽織・袴の和装で座布団に端座する肖像彫刻、「藤田傅三郎坐像」が置かれていました。その坐像の頭部です。数少ないと言われる肖像写真とは少し雰囲気が違います。彫刻像の方が良い感じ・・・・です。会場の説明パネルで印象に残ったのは、藤田傳三郎は自分の好みの絵画をコレクションするという指向ではなく、美術史的な視点で幅広く名品を蒐集したそうです。上掲チラシを後で読みますと、「藤田美術館の絵画コレクションには、日本絵画史を通史的に把握するに十分な作品が擁されています」と記されています。リニューアル・オープン後に、新しい藤田美術館そのものの見物を兼ね、所蔵品の展示を改めて眺めに行く機会をつくりたいと思う次第です。会場は7章構成で、当日入手の展示品リストによれば、会期中の展示品は総数74件。期間限定展示が時期をずらして2件。1件でも鑑査状、付属書、あるいは模本が付加されているものが数件あります。1件でも二幅、三幅の作品や画帖の展示がありますので、実際の展示数は異なります。同様に入手した「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)には、「展示作品中、初公開作品が23件、藤田美術館外での公開が初めてとなる作品が19件を数えます」と記されています。章ごとに少し印象などをご紹介します。「第1章 藤田傳三郎の視点」11点の展示品中、初公開品が6点。上掲の藤田傳三郎坐像も初公開でした。岩下清周著『藤田翁言行録』(大正2年)が展示されていました。これも初公開。ネットで検索すると古本として高い値段で取引されているようです。蒔絵・金具・螺鈿で表現された尾形光琳作「桜狩蒔絵硯箱」が目を惹きつけました。「浄土五祖絵 善導巻」(重文)は絵巻の一部分ですが、善導(だったと思います)が泳ぎ渡ろうとしているおもしろい場面を見ることができました。「第2章 やまと絵の伝統」7点展示中初公開1点。まず興味を抱いたのは「華厳五十五所絵巻残闕」(重文)です。平安時代の作品。善財童子が仏道を求めて、延べ55人の善知識を訪ね歩き法を授かるというその場面を描いたもの。『華厳経』の『入法界品』が典拠なのですが・・・・。いつか読んでみたいと思うストーリーの一つです。 鎌倉時代の高階隆兼筆「玄奘三蔵絵 巻四」(国宝)の一場面です。「灯光城の龍窟で、礼拝を続けると釈迦らの姿が浮かび上がった」という場面がPRチラシに紹介されています。この巻四は、玄奘が仏頂骨城で釈迦の頂骨を拝する場面から、中天竺の阿踰陀国で海賊に遭い、海賊が改心する場面までが描かれてます。(図録より)鎌倉後期の宮廷絵所の絵師高階隆兼筆のもう一つの作品「春日明神影向図」が展示されています。御車に乗った束帯姿の貴人が現れる様を描くという説明があったのですが、貴人は見えません。束帯の一部が御車の内部にほんの一部描かれているだけです。それだけで貴人を想像させるようです。改めて、図録の解説を読み直し、関白鷹司冬平が庭に影向した春日大明神の姿を夢に見たので高階に描かせたという絵だから、逆にそれで良かったのかも・・・と、後で理屈づけした次第。「第3章 宋元絵画憧憬」(伝)貫休筆「豊干寒山拾得図(羅漢図)」(南宋、3幅)と(伝)梁楷筆「寒山拾得図」(元、1幅)。寒山拾得図は良く描かれるテーマです。絵師によりかなり異なる雰囲気で寒山と拾得が描き出されるのが、いつもおもしろいと感じます。(伝)黙庵筆「白衣観音図」(室町時代)は、突き出た岩に寄りかかりのんびりとくつろぐ姿がこちらをもリラックスさせるような絵です。白衣観音は斜め上方の先を眺めています。絵には描かれていない瀑布を眺めているのだとか。見る人にその景色の広がりを想像させるという絵です。(伝)牧谿筆の作品を2点みることができました。「松樹叭々鳥図」と「樹下猿猴図」です。前者は「ははちょう」と読むそうです。後者は初公開の作品。牧谿の猿猴は別図を見たことがあります。印象深い猿の描き方です。この牧谿猿は日本の多くの絵師たちに影響を与えています。私が好きな長谷川等伯もその影響を受けた一人です。「第4章 中世水墨画」 当日購入した図録。表紙は大獅子図 一方、裏表紙は、初公開作品です。(伝)狩野元信筆「芦鱸藻鯉図(ろろそうりず)」二幅のうちの左側の絵です。 PRチラシでは、左右の二幅が紹介されています。鱸という漢字を辞書で引きますと、「すずき。浅海の魚で、春夏に川にのぼる。幼魚をせいご、中ぐらいのものをふっことよぶ。」(『角川新字源』)と説明しています。図録の解説には、一幅には鯉、ハゼ、鯰。もう一幅にはケツギョとカワイワシが描かれているとあります。魚たちは細密に描き込まれています。ここでは展示品の半数が狩野派の絵が占めていました。室町時代の作品で、71歳の「雪舟自画像(模本)」が展示されていました。原本は既になく、模本ですが原本に最も近いと考えられているそうです。雪舟を想像するのに役立つ絵です。「第5章 近世絵画」狩野山雪筆「夏冬山水図」(2幅、江戸時代)は、人物を点景として描きいれた雄大な山岳の景色の構図に惹かれました。初公開の作品です。 この3幅構成の(伝)長澤蘆雪筆「幽霊・髑髏・仔犬白蔵主図」が印象に残りました。中央の幽霊は美人です。長澤蘆雪は円山応挙の弟子であり、幽霊図は応挙の描いた幽霊を手本にしているそうです。右の仔犬と髑髏の取り合わせがちょっと奇妙でおもしろい。また白蔵主は左の一見僧侶に見える人物のことです。よく見ると狐の容貌です。この白蔵主は狂言の『釣狐』に登場するそうです。狐が白蔵主に化けているのだとか。図録の解説を読みますと、『絵本百物語』には、右と左の絵を関連付けられる話が載っていると言います。幽霊・髑髏・仔犬白蔵主のそれぞれが、画面の枠に納まっていずにそこから少し出て来た形で描かれているのがもう一つのおもしろいところです。 これは、鳥文斎栄之筆「吉原通図」という絵巻の部分図です。男性2人が猪牙舟(ちょきぶね)に乗り隅田川を行き、舟を降りて徒歩で吉原を目指す行程は水墨画で描かれ亭増す。そして、吉原の中での場面は華やかな彩色画に転換するという趣向です。宮川長春筆「美人文珠普賢図」もおもしろい絵です。文珠と普賢を女性(遊女)で描いているのです。最初は見立ての図かなと思いました。が、左幅の女性は謡曲『江口』がもとになって描かれているそうで、『江口』は仏教説話集である『撰集抄』などに載る話だと言います。(図録の解説より)「第6章 近代日本画」明治時代の日本画が展示されていました。図帖、名所図、画帖形式の作品が半数です。これらは一部しか見られないのが残念。図録には図版が小さくなりますが全図掲載されているようです。私が惹かれたのは、森寛斎筆「絶壁巨瀑図」です。絶壁上の岩端ぎりぎりのところから虎が瀑布の滝壺の激しい波を見つめているという図です。斜め上から見下ろした感じの高度感を感じさせる構図が魅力的です。虎の目線で眺める感じになります。「第7章 奈良の明治維新」ここだけ章立ての様子が転換します。「藤田傳三郎は、明治維新によって衰退する社寺から貴重な宝物が散逸することを回避する意識を持って、奈良の社寺に伝えられた品々を多数収蔵しました。」(図録より)とのこと。その収蔵品からの展示です。 右の図がその一例の部分図です。「阿字義」(1巻、平安時代、重文)の中の阿字観の実戦描いた絵図の部分です。左は、第3章に展示されていた(伝)馬麟筆「鍾呂伝道図」です。「八仙」中の2人、鍾(しょう)と呂(りょ)が対話をする場面を描いているとか。これも初公開作品でした。「近年藤田美術館と奈良国立博物館が共同で行った所蔵絵画の調査で確認された隠れた名品群」の一つだそうです。(「奈良国立博物館だより 第120号」より)この最終章で一番印象的なのは、やはり「小野小町坐像(卒塔婆小町)」です。初公開の彫刻像(安土桃山~江戸時代、16~17世紀)で、老いさらばえた乞食の小野小町の姿を彫像にした作品です。観阿弥作『卒塔婆小町』に登場する小野小町の彫像だとか。「花の色は移りにけりな・・・・」の行き着いた姿を表現しているといえます。実際の小野小町はどのような老境を過ごしたのでしょう・・・・。もう一つは「空也上人立像」(室町時代)です。京都の六波羅密寺の空也上人立像が有名ですが、同種の木造彫像です。口から六体の阿弥陀仏が飛び出しているのがやはり印象的、「南無阿弥陀仏」です。図録の図版と六波羅密寺の図像とを対比的に眺めてみようと思っているところです。これで終わります。絵画、彫像等の実物は、リニューアル・オープンする藤田美術館におでかけいただき、ご覧ください。ご覧いただきありがとうございます。参照資料展示品一覧表「名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-」図録 『名画の殿堂 藤田美術館展 -傳三郎のまなざし-』 奈良国立博物館 2021「奈良国立博物館だより 第120号」(令和4年1・2・3月)補遺藤田美術館 公式サイト藤田伝三郎 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」藤田伝三郎 :「コトバンク」藤田傳三郎と藤田神社 :「藤田神社」牧谿 :「コトバンク」牧谿 :「日本歴史的人物伝」鳥の名前「叭叭鳥(ハハチョウ) 」とはどういう鳥なのかを知りたい。 :「レファレンス協同データベース」ハッカチョウ :ウィキペディア円山応挙ゆかりの幽霊図~「返魂香之図」 :「護國山観音院 久渡寺」釣狐 狂言の演目と鑑賞 :「文化デジタルライブラリー」絵本百物語(桃山人夜話)一 :「ARC古典籍画像ポータルデータベース」演目事典 江口 :「the 能.com」阿字観 :「総本山智積院」撰集抄 :「コトバンク」演目事典 卒塔婆小町 :「the 能.com」小町坐像を初公開 藤田美術館所蔵の名品 奈良博 :「中外日報」色あせぬ歌 移ろう美貌 随心院の卒塔婆小町座像(時の回廊) :「日本経済新聞」重要文化財一覧 :「六波羅密寺」明治初期まで奈良に? - 英国からの確認で判明 隔夜寺に旧蔵の可能性/大阪・藤田美術館の空也上人立像 :「DIGITAL 奈良新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2022.01.30
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萬福寺の境内から少し離れた周辺に塔頭がいくつもあります。幕末には32ケ院あったそうですが、現在は19ケ院になっていると言います。(資料1)そのうちの北西側周辺にあって今回立ち寄ってみた塔頭を最後にご紹介します。萬福寺総門前の道路を北方向に進み道路が左折して西に向かう道路沿いにある塔頭です。冒頭の景色は左折するあたりの北辺です。道沿いに進めば、隠元禅師がこの地に足を踏み出された宇治川の畔に到ります。 駐車場の北側の東端に見える表門門前の右側には、「黄檗山萬松院 金成不動尊」と刻された寺号標が立っています。財運の不動尊として「金成不動尊」と称され知られているお寺(塔頭)です。左側は比較的新しい「萬松院」の石標のようです。この石標に刻まれた内容から、この表門と天光塔が京都府の文化財指定を受けていることがわかります。 表門を入ると北東方向にあるのが不動堂です。金成不動尊が祀ってあります。 お堂の右斜め前に立つ石灯籠。宝珠・笠・中台は火袋・竿・基壇と比べて古い感じです。組み合わせて石灯籠にしたようですね。火袋には鹿のほぼ半身が浮彫りにされています。 お堂の西側には、童形の六地蔵尊が祀ってあります。 石造の「水掛・願掛 不動明王」像と脇侍の子安二大童子像が造立されています。衿羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子です。 不動明王坐像の背後には、滝の石組があります。 石段を登って行くと、 「天光塔」と記された額が掲げられた「開山堂」(天光塔)があります。開山堂は平成4年(1992)4月14日に文化財に指定されています。(文化財指定掲示板より) この萬松院は龍渓性潜禅師を開基として、寬文11年(1671)に建立されました。龍渓禅師は、即非と同様に準世代と位置づけられている禅師です。準世代にはもう一人、又梅亨運禅師が列挙されています。(資料1)調べていて知ったのは、龍渓禅師の弟子・東厳禅師が萬松院を開創したそうです。(資料2) 堂内にはこの石塔が安置されています。龍渓禅師の塔(墓石)。この開山堂が塔所です。 これを判読できれば、経緯詳細が理解できるのでしょうが・・・・残念。 西側の円窓から東を眺めた景色 上掲の石造不動明王坐像の右斜め後方の位置にあるこの句碑が目に止まりました。 綿を摘む 崑崙山に いつも雲「平成3年10月に、一行9名がシルクロードの天山南路、ホータン、カシュガルを訪ねた。 ホータンは丁度、綿摘みの最中で、見渡す限りの白い花を敷きつめたような綿畑の果に、標高五千米をこす崑崙山の雪の山脈ご雲をかぶってつらなっていた。 行沢雨晴(ゆきざわうせい) 雪解 同人、俳人協会評議員 俳誌 懸巣(創刊 植原抱芽)主宰 藤沢禅会30周年記念の句碑 (1997年7月20日) 」(掲示案内文転記) もう一つ目に止まったのがこの地蔵尊石像群です。 この萬松院には、西側に本山境内に見られるのと同形の門があります。直接この寺の本堂に向かう門になっています。 西隣りには黄檗風の表門に「龍興院」と記されたお寺があり、地蔵菩薩立像が見えています。門前の左側に「出世地蔵尊」と刻された石標が立っています。 門前から見えるのがこの石造地蔵菩薩立像です。 唇が紅く塗ってあります。白毫の箇所も紅がつけてあります。白毫は「眉間に生えている、右回りに渦巻く白い毛のこと。常に光を放っており、伸ばすと1丈5尺にもなるとされる。本来は仏の三十二相の1つだが、如来となることが約束されている菩薩にもしばしば表される」(資料3)というものです。 門を入って上掲地蔵尊の手前を右に折れて、狭い通路を少し奥に行くとこの地蔵堂があります。 一見、普通のお地蔵さまという感じです。この地蔵堂の傍に駒札「出世地蔵尊の由来」が立っています。「この地蔵尊は昭和35年龍興院の寿塔修理の際に、崖の土中から転がる如くに御姿を現はされましたことから『出世地蔵』と申し上げ親しみ深い菩薩さまとして大切に祀られております。 当時専門家に依る鑑定の結果千年以上経た石佛であることが證明されました。(数千年前から奈良街道であったことの表れか)」(駒札説明文転記。平成17年6月に龍光院住職により設置された駒札です。) 門内から境内を眺めた景色 門を入るとすぐ傾斜地で階段の参道の先にお堂があるようです。参道右側は塀です。門近くの塀越しに見えるのが寿塔かもしれません。萬福寺の門前に位置する白雲庵内にある自悦堂からの推測としての印象です。(資料4)龍興院は慧林性機禅師を開基として宝永2年(1705)に建立された塔頭ですが、明治8年(1875)に現在地に移転したそうです。(資料1) 続いて西側に「宝蔵院」があります。 門を入ると石段の先に玄関口が見えます。宝蔵院は鉄眼道光禅師を開基として寬文11年(1671)に建立され、寬文13年に移転し、さらに明治8年(1875)に現在地に移転したと言います。(資料1)鉄眼は道号です。肥後(熊本県)の出身で、はじめは浄土真宗の僧となり、のちに禅に転じて木庵禅師の法を嗣いだ黄檗宗の僧。大蔵経刊行の決意をし、講経僧として全国を行脚し、刊行資金を集め、黄檗一宗の協力を得て、現在「鉄眼版一切経版木」と呼ばれるものを制作しました。寬文9年(1669)から始めて天和元年(1681)に完成したそうです。「日本において近代的な仏教研究が生まれる母胎となった。鉄眼は経典の説くところはすべて禅宗に帰着するという教禅一致の考えに立ち、また神秘家的側面を有する事業家的才能の持主であった。開版事業終わってのち飢饉救済に身を投じ、その途中に没した。」(資料4)大蔵経刊行のための資金集めに行脚している期間に、飢饉が起こった際にはその浄財を放出するという行動もとりつつ、刊行を完成させたと言います。(資料5)わが国の明朝体文字はこの版木の書体の由来するそうです。また、原稿用紙が400字詰めであるのは、鉄眼一切経の版木の文字組みに由来するとか。門前の案内板にも「原稿用紙のルーツ」というフレーズが使われています。なお、この点については諸説あるようです。 「鉄眼版一切経版木」収蔵庫 玄関口の左手前に、石造の地蔵菩薩立像が建立されています。台座の正面には、「寶地蔵尊」と題して一文が刻されています。判読不詳箇所があり省略。 宝蔵院の西隣りは「宝善院」です。門前、左に「守本尊 干支の寺」と刻した石標が立っています。宝善院は独振性英禅師を開基として元禄3年(1690)に建立された塔頭です。明治8年(1975)現在地に移転したそうです。(資料1)守本尊干支とは何か?宝善寺のホームページにその説明が載っています。「干支の守本尊八佛とは、皆さまにはご自身の生まれ年の干支によって、守護してくださる佛様が定まっております」(資料6)とのこと。干支と守本尊の関係は次のとおりです。 子年生まれの人 千手観音菩薩(縁日18日) 丑・寅年生まれの人 虚空藏菩薩 (縁日13日) 卯年生まれの人 文珠菩薩 (縁日25日) 辰・巳年生まれの人 普賢菩薩 (縁日24日) 午年生まれの人 勢至菩薩 (縁日23日) 未・申年生まれの人 大日如来 (縁日 8日) 酉年生まれの人 不動明王 (縁日28日) 戌・亥年生まれの人 阿弥陀如来 (縁日15日)余談ですが、これをまとめていて思い出しました。宇治川右岸、宇治橋東詰にほど近い「橋寺放生院」の境内にも「十二支守本尊」八仏が安置されています。以前に探訪したとき拝見しています。こちらからご覧ください。 (スポット探訪 [再録] 宇治 橋寺放生院) 宝善院の築地塀の西端にこの石標があります。そこからオープンに境内地の奥に入れるようになっています。お堂の背後が墓地になっているようです。少しアプローチあたりを探訪してみました。 これは坂道の突き当たりの景色です。 この地蔵菩薩は「数珠掛け地蔵さま」と称されていて、水子供養のお地蔵さまとして祀られているようです。後で調べていて説明をみつけました。(資料7) 石造の観音菩薩像が安置されています。 墓地と思える区域への入口に地蔵菩薩立像が安置されています。ここまでの拝見で引き返しました。最後に、今回ご紹介した萬福寺の塔頭のいくつかがなぜ明治8年に同時に移転しているのかです。明治8年(1690)に、現在の黄檗山萬福寺の境内域の東側の境内地が明治政府により上地(接収)の対象にされたのです。明治政府は、そのエリアを陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地にしたそうです。現在の地図では、萬福寺の東の「黄檗公園」となっているあたりです。(資料1,8,9)この辺で一旦ご紹介を終わります。萬福寺に関係する周辺の探訪はいずれ続編としてご紹介したいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 萬松院 :「京都 Kyoto」3)『仏像の見方 ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p1374) お庭 :「白雲庵」5)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店6) 守本尊干支について :「宝善院」7) 数珠掛け水子供養 :「宝善院」8) 黄檗山萬福寺塔頭「宝善院」 :「宝善院」9) 大阪陸軍兵器補給廠 宇治分廠 :「大日本者神國也」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ龍渓性潜 :ウィキペディア龍渓性潜 :「コトバンク」慧林性機 :ウィキペディア慧林性機 :「コトバンク」鉄眼道光 :ウィキペディア鉄眼 :「コトバンク」宝蔵院 公式ホームページ 重要文化財を未来につなぐ鉄眼プロジェクト このページに「一切経木版印刷・民救済~鉄眼禅師」動画・YouTubeが掲載あり400字詰め原稿用紙の由来について :「レファレンス共同データベース」鉄眼(てつげん)禅師荼毘(だび)処地 :「大阪市」宇治十三社寺 :「京の霊場」 萬松院 <万松院>(京都府宇治市) 萬福寺塔頭 宇治十三社寺まいり:「お寺の風景と陶芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.21
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三門から天王殿に向かう石條(参道)から分岐して通玄門に向かう参道脇に数多くの鉢が並べてあります。通玄門側から三門方向を眺めた景色です。これらの鉢の植物が咲く頃は境内の雰囲気がまた変わることでしょう。 境内を横切って南に向かうと、この白亜の門があります。右側手前に「黄檗文華殿」の石標が立っています。この石標の東面に「黄檗文化研究所 黄檗山萬福寺宝物殿」と刻されています。門の向こうに、西向きに立つ同種の門が見えます。 こちらの門の左側に「賣茶堂」の石標が立っています。門の向こうに見えたのは売茶堂の門です。 門をくぐり、文華殿を通り過ぎて南側から眺めた文華殿の全景です。 文華殿は、黄檗山萬福寺の宝物・資料の収蔵保管と展示を目的として、開山隠元禅師300年大遠諱を記念して、昭和47年(1972)に建立されました。今年が350年大遠諱ですから、50年が経ったことになります。(資料1)黄檗宗がもたらした文化の集積がここで見られる。黄檗文華の殿堂ということです。私はまだ拝観したことがないのですが、年に2回、春と秋に特別展が企画されて一般公開されているそうです。今年は多分特別展にも力が入るのではないでしょうか。私にとっての次の機会はこれかな・・・・・。手許の小冊子には、隠元禅師の画像を多く描いた喜多元規の作品、伊藤若冲や池大雅の名画、隠元禅師の遺品、中国伝来の品々などが収蔵されていると説明しています。既にご紹介したものとして、范道生作韋駄天像と二代目の魚?も収蔵されているとのことです。 文華殿の正面階段の左側(南)で目に止まったのがこれです。表面が鏡面になって築地塀が映り見づらいですが、嵌め込まれた顕彰碑文の上部に歌が刻まれています。 ゆきの原雪をしとねのゆきまくら 雪をくらひつゆきになやめる 「雪山道人河口慧海西蔵旅行歌碑」が平成25年(2013)6月に建立されています。 河口慧海(1866~1945)が仏典を求めてチベットを探査したという程度は何かで読み知っていたのですが、黄檗宗僧侶だったということは、この歌碑の碑文から初めて知った次第です。「黄檗版大蔵経を読み漢訳の不備を感じ、サンスクリット語原典と、漢訳より忠実なチベット語訳の仏典を求め、ネパール・チベットへ入国し、大量の仏典・仏像・仏画・植物標本・民族資料などを蒐集請来した。帰国後、チベット・ネパール・インドの宗教・社会・歴史・地理等を紹介し、仏典を邦訳し、啓蒙書を著述し、日本のチベット学の基礎を作った」(碑文を一部転記)のです。「チベット旅行は明治30年より大正4年かけて二度亘り、足かけ19年におよんだ」(転記)そうです。河口慧海は日本最初のヒマラヤ踏破者になりました。(資料1)月台の傍にある2本のヒマラヤ杉は、慧海の帰朝(大正4年)と隠元禅師250年大遠諱(大正6年)を記念して植樹されたものだそうです。当初は月台上に左右一対として植えられ、後に下に移植されました。(碑文、資料1)文華殿前から三門に戻ります。三門を出て放生池前から南の方角を探訪してみました。 真っ直ぐに進むと、築地塀に挟まれた通路があり、その南端に総門と同じ形式の門が見えます。 「天真院」と記された扁額が掲げてあります。黄檗宗の塔頭の一つです。門前に、天真院の「客殿・経蔵・表門(江戸時代)」が京都府指定文化財に登録されているという京都府教育委員会の掲示板が設置してあります。天真院は、延宝7年(1679)に了翁道覚禅師を開基として建立されています。(資料1)了翁道覚(1630~1707)は、弟5代高泉禅師を師と仰ぎ、法統は仏国派の僧侶で現在の秋田県出身の人です。(資料2)まとめていて一つ気づいたことがあります。塔頭を通常「たっちゅう」と発音しています。手許の辞書も「たっちゅう」で載っていますが、黄檗山で購入した小冊子には「たっとう」とルビが振ってあります。辞書を再読しますと、「ちゅう」は「頭」の唐音だと付記されています。(『新明解国語辞典』三省堂)隠元禅師は明時代の中国文化を導入されたので、漢字の発音も異なるということなのでしょう。 ここは拝観できない塔頭でした。門前から境内の景色を撮りました。ここの参道の石敷もまた趣の違うもので、おもしろい。 お堂の屋根の摩伽羅(まから)と鬼瓦 天真院へは両側が築地塀の通路を進むのですが、東側築地塀の北端寄りにこんな門があります。 門をくぐると、左斜め先に三門が見えます。「銀杏庵」と表示が出ています。すぐ右に転じて歩むと、 京都国立博物館の東の庭で見る事ができる石像と同種の像「石人」が出迎えてくれました。 砂利敷きの庭の先に暖簾のかかった建物が見えます。赤い毛氈のかけられた床几も置かれています。景色を眺めて、引き返しました。調べてみると、ここも普茶料理のお店でした。「黄檗山萬福寺伝統の四季折々の宇治の里の野菜を使った精進料理」(資料3)と記されています。「中国風の境内でゆっくりと・・・・」と説明されています。総門を入り、三門までの区域の南端にありますので、もとは塔頭だったところかと推測します。今度は逆に、再び三門前を通り過ぎ、総門を左に眺めつつ参道を横切って、北に向かってみました。 こちらも両側が築地塀。左の角に「黄檗二代木庵老和尚塔所」と刻された石標が立っています。 門の手前に木標と鬼板があります。褪色して文字が読みづらくなっています。後で写真を観察すると「京都府指定文化財 萬寿院表門」と記されています。観光行政を考えるなら、こういう表示は定期的にリニューアルしてほしいですね。 こちらも総門と同じ形式の表門です。 表門の屋根の摩伽羅が見やすいです。対で撮ってみました。(2016.4.10 撮影)こちらは大阪城を探訪した時に撮った天守閣の屋根に置かれた鯱(しゃちほこ)です。対比的に見ると興味深いです。 降棟の先端は鬼板で、文字が陽刻されています。「万寿院」の壽(寿)という文字を図案化してあるのでしょうか。傍に獅子の飾り瓦が置かれています。これも桃の実と同様に魔除けの機能を担っているのでしょう。 向かって左側に置かれている獅子の飾り瓦。 表門の両側の柱には聯が掛けてあります。内容は判読できません。残念なことに額を取り忘れました。たぶん、塔頭名の万寿院と記されているのでしょう。 正面に玄関口が見え西側にお堂が見えます。東側に庫裡が配置されているようです。万寿院は第2代木庵禅師を開基として延宝3年(1675)に建立されました。ところが調べてみますと、満寿院の南西側に位置する紫雲院もまた木庵禅師を開基として、万寿院より1年早く、延宝2年(1674)に建立されていると説明があります。(資料1)そうすると、築地塀の角に立つ石標に記された「木庵老和尚塔所」はいずれなのでしょう。塔頭は「高僧の墓所に建てられた塔、あるいはそれを守る小庵」「祖師の塔所の域内に建てられた子院をいう」(資料4)とのことです。塔所が墓のある場所と考えるなら、墓はどちらの塔頭にあるのでしょうか。調べてみた範囲では、木庵禅師は法系としては「万寿派」と考えられています。塔頭万寿院が塔所だそうです。(資料5)角に石標が立ち、その道を直進すれば、満寿院の表門ですからやはりそうでしょうね。 境内には入れそうでしたので、内側から表門を拝見。総門とはことなり、裏面に円相は象られていないようです。 門の構造が分かりやすくて参考になります。満寿院も表門の近くを拝見しただけで、萬福寺境内と直近の場所の探訪を終えました。萬福寺の北西側に位置する塔頭も序でにいくつか訪れてみました。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 了翁道覚 黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」3) 銀杏庵 ホームページ4)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店5) 木庵性瑫 黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗山萬福寺文華殿 :「京都府ミュージアムフォーラム」黄檗山萬福寺第二文華殿 :「TAKENAKA」(竹中工務店)塔頭 :「コトバンク」木祖忌 :「萬福寺」隠元・木庵・即非像 いんげん・もくあん・そくひぞう :「文化遺産オンライン」【県指定】紙本著色木庵画像 1幅 :「北九州市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.19
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寿蔵を右に見つつ西へと回廊を歩めば、開山堂の正面に到ります。頭上に見える幕を通り過ぎ、正面の回廊中央部から振り返った景色です。開山堂の正面のそれぞれの柱に聯が掛けてあります。こちらは右(東)半分。 同様にこちらは左(西)半分の柱に掛けられた聯です。まずは開山堂の正面を東(右)から眺めて行きましょう。 正面の桁の上に、第2代木庵禅師の書による「開山堂」の扁額が掲げてあります。その名称通り、この堂(重文)は黄檗開山隠元禅師をお祀りしているお堂です。三門をくぐるとすぐ左にこのお堂が位置しています。延宝3年(1675)に建立されました。 正面の扉は半扉の桃戸です。桃の実が板戸に線彫りされています。桃の実は魔除けとされています。(資料1) 堂内には桃の実を中央にあしらった幕が吊されています。真っ先に目に止まります。 このお堂も床は四半敷の敷瓦で舗装され、正面の奥に隠元禅師像が安置されているようです。諸儀式のために、堂内中央に礼盤が置かれ周囲に円座が配置されています。 八角燈籠が吊されていて、喝という文字、達磨大師、草花が描かれているのがわかります。このお堂の柱はすべて角柱で、堂内の柱にも聯がかけてあります。 正面の半扉の左右の柱に掛けられた聯 回廊を見上げると、開山堂も蛇腹天井の形式になっています。 正面、左(北)半分の柱に掛けられた聯。沢山の聯があるのですが、これらの内容を理解するための資料がないのが残念です。聯の文字を判読する力がないのが残念です。 開山堂の北西側に、この鐘が設置されています。開山堂正面の回廊の北端から先は立入禁止です。つまり、鐘の設置された場所から少し手前のところまで。その先にも通路がありますが、屋根の形も変化します。 開山堂の北側に、庭を挟んで白壁で統一された建物群が南北方向に連なっています。 開山堂の回廊には卍の勾欄が設けてあります。法堂では卍くずしの文様が勾欄に使われていました。お堂を出て、開山堂の外観を眺めましょう。 屋根の棟に置かれているのは、摩伽羅(まから)なのでしょう。 鬼瓦 開山堂の正面の上層には、隠元禅師の師である費隠禅師の書による「瞎驢眼」の扁額が掲げてあります。難しい文字です。「瞎」は「①めくら。めしい。盲目 ②かため。片方の目がみえないこと ③でたらめ」という意味(『角川新字源』)。「驢」は「うさぎうま。ろば(驢馬)。馬より小さく、耳が長い」(同上)という意味です。さて、この語句、何を意味するのでしょう・・・・・。調べてみますと、臨黄ネットにズバリ「瞎驢眼」という題で「法話」が載っています。詳しくは参照資料をお読みください。(資料2)字句通りの意味は「未だ目の開かない驢馬の眼」です。この言葉、禅の師匠が未熟な弟子を叱咤激励する際に使う厳しい言葉の一つだそうです。文中に『臨済録』の一章句「誰か知らん、吾が正法眼蔵、這の瞎驢辺に向かって滅却せんとは。」が引用され、その解釈と絡めた説明となっています。この言葉、反語的表現の使い方のようで、「禅独特の、大変高度な言葉の用い方」につながっているとか。この法話は、「人は誰でも、自分に対して厳しい言葉や激しい言葉を向けられるのはいやですし、避けて通りたいことですがほんとうにそれでよいのでしょうか」(資料2)という一文で結ばれています。(資料2)また、一休宗純禅師はいくつもの号を使われています。「狂雲子」は良く知られています。「瞎驢」も号として使われていたそうです。(資料3)つい脇道に逸れました。もとに戻ります。 このお堂は、大雄宝殿と同じ「歇山重檐式(けっさんじゅうえんしき)」の建物です。柱はすべて角柱が使われています。宗紋の三葉葵の紋を白抜きにした紫地の幕が張られています。「毎月1・15日には山内の僧が祝拝し、3日には開山忌を営みます。祥忌の4月3日には、他山からの僧を招待して厳粛に執り行われます。毎日のお勤めは、塔頭寺院の院主が1年ずつ輪番で(塔主=たっす)で行っています」(資料1)とのこと。 開山堂の正門から開山堂までの石畳の姿は「氷裂文」と称され、同じ形の石がまったくない組み合わせで作られているそうです。(資料1)おもしろい発想・・・・。お城の野面積みの石垣を連想します。氷裂文の石畳は人の世を象徴しているのかもしれません。深読みしたくなりますね。 開山堂の南西側に、白壁の塀に囲まれた「松隠堂」があります。関備前守長政夫人の寄進によるとか。書院造の和様の建物だそうです。寬文3年(1663)に庵として建立されました。隠元禅師が本山住持を退かれた寬文4年から、寬文13年(延宝元年1673)に示寂されるまで、松隠堂で過ごされたと言います。隠元禅師の寂後は客殿として使われ、元禄時代に現在地に移転増築されて、現在に至るそうです。(資料1) 玄関の唐破風屋根の獅子口 玄関口の右側の白壁、円窓のある壁面分割が素敵です。 正門の内側 開山堂の正門には、隠元禅師の書による「通玄」の扁額が掲げてあります。(資料4,5)この門は「通玄門」と称されています。 通玄門にも聯が掛けてあります。これも内容は不詳です。 通玄門の鬼瓦 通玄門は重要な結界の一つとして位置づけられているそうです。そのため、柱は円柱となっています。通玄門は「奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門」(資料1)とされています。通玄門の右側に、「中和門院御宮址」と刻された石標 が立っています。中和門院と宮址については、前回「中和井」の箇所でご紹介しています。回廊づたいに萬福寺の七堂伽藍ほかを拝見してきました。後日に手許の小冊子と境内図を見ていて、舎利殿を訪れていないことに気づきました。舎利殿前にいけるのかどうかもさだかではありません。この点も課題として残りました。さて、境内を横切って、文華殿のある一画に向かいます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 法話 瞎驢眼 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式サイト)3)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店4)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1105) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ一休宗純 :「コトバンク」一休さんとは、どんな方ですか?【元服の書㉒】 :「禅・羅漢と真珠」近衛前子 :ウィキペディア中和門院 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.18
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禅堂から祖師堂に向かう間の築地塀に砕石が埋め込まれています。私が気づいたのは、この箇所だけです。ちょっと特異な白壁。 禅堂の鬼瓦 祖師堂(重文)禅宗で祖師と言えば、達磨大師です。このお堂は寬文9年(1669)に今津浄水居士により建立されたそうです。(資料1) 「祖師堂」の扁額 正面両側の柱に、第2代木庵禅師筆の聯が掛けてあります。(資料2,3)資料がなくて私には判読できません。 祖師堂の案内額 中央に范道生作、寬文3年(1663)造立の木造、達磨大師坐像が祀られています。像高166.5cm。(資料1)江戸時代に出版された『都名所図会』は「祖師堂(達磨大師金色の像を安ず」と記しています。(資料2,3)「本像はもともと体全体に金色が施されていたようですが、現在は下地の朱漆色が目立ちます」(資料1)という状態になっている結果です。この祖師堂には、開山隠元禅師から57代までの歴代管長の位牌が祀ってあるそうです。 禅宗の初祖・菩提達磨はサンスクリット語のボーディダルマの音写。達磨という略称で良く知られています。「面壁九年」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。「宋代の禅宗史書によると、過去七仏より28代目の祖師となり、教外別伝(きょうげべつでん)の正法眼藏(しょうぼうげんぞう、さとりの真実)を伝えるため南海経由で梁に来て、武帝に迎えられた。しかし、武帝にはその教えが理解できなかったので、北魏に入り、嵩山(すうざん)少林寺で独り面壁して、後に2祖となる慧可を指導し、禅の教えを伝えてインドに帰ったという」(資料4)余談ですが、達磨と慧可といえば、「慧可断臂」の話が伝わっています。室町時代に雪舟が描いた「慧可断臂図」(国宝)はとくに有名です。あの図の達磨の眼がすごい・・・・・。(資料4,5) 鼓楼(重文) 鼓楼の案内額この鼓楼は、境内の南に位置する鐘楼と相対していて、「朝5時開静、夜9時開枕に太鐘と太鼓をもって、時刻と消灯、本山の大衆に起居動作の始終を知らせています。また賓客来山のときに鐘太鼓交鳴して歓迎を表します。」(資料1)そんな役割を担うお堂です。 祖師堂前の回廊(左側)と天王殿への回廊(右側)の分岐箇所から眺めた景色です。 天王殿に歩む回廊から眺めた鼓楼の全景重層入母屋造、本瓦葺きです。信夢善士により延宝7年(1679)に建立されたそうです。二階の四周には縁があり、逆蓮柱付の勾欄が廻らされています。大棟の両端には鯱(しゃち)が置かれいます。(資料1) 次回は近くから外観の細部を撮ってみたいと思います。 参道の正面は大雄宝殿の回廊で、手前に南東方向に見えるのは月台です。 祖師堂と禅堂ともに単層入母屋造、本瓦葺きのお堂です。屋根にはどちらも鬼瓦が使われています。 南の方向に目を向けると、右側(西)から、鐘楼・伽藍堂・斎堂のほぼ全景が見えます。鐘楼は重層、伽藍堂と斎堂は単層、3つとも入母屋造、本瓦葺きのお堂です。 鼓楼から、上掲の回廊が分岐する地点に到ります。ここにはもう一つ、北西方向へ回廊分岐しています。回廊が分岐(合流)する場所の西側には大きな池のある庭が広がっています。 北西方向への回廊が北に屈折するところで、この池の畔まで歩み、南への回廊と東西の築地塀に囲まれた形の庭を眺めた景色です。 この庭の西側から北西側を眺めた景色です。 庭から北東方向を眺めると、北西方向の回廊が北方向に転じた回廊が見えます。途中で、一段屋根が高くなっている箇所があります。 ここに「合山鐘(がっさんしょう)」と称する雲文梵鐘が吊されています。第6代千呆禅師によって元禄9年(1696)に再鋳された梵鐘だそうです。(資料1) 回廊の北側からの眺め。回廊の柱に「祈りの鐘」と掲示されています。撞木の背景に見えるのが北西~南東方向の回廊部です。 梵鐘の中帯の下の草ノ間が二段に区分され、上段には獅子、下段には龍がレリーフされています。この鐘は「開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭以外には鳴らされません」(資料1)とのことです。 回廊に置かれた石造賽銭箱と鬼瓦。北側にはこの石製箱が何か、名称が記されています。南から見ると、何コレ?という感じ・・・・鬼瓦に目が集中してしまいます。 合山鐘のある場所の東側に、樹木の傍に駒札「香椿(ちゃんちん)」が立っています。「隠元禅師が中国から伝えたもの。若葉は食用となる」と説明されています。 一段高くなったところにこの窟門(と呼ぶのでしょうか)があります。扁額風にデザインして、「潜修禅」と読めそうな文字が刻されています。かなり大きい建物がありますが、不詳です。 門側から合山鐘のある回廊を眺めた景色です。礎石と思える円形の石造物が踏み石の一つに。 北側に、「石碑亭」が見えます。 (2013.6.9 撮影)石碑亭はその名の通り、石碑を納めたお堂で、宝永6年(1709)に同時に建立されました。 石碑は亀趺(きふ)付きの顕彰碑です。「碑には、隠元禅師の特賜大光普照國師塔銘が刻まれています。」(資料1)亀趺とは「亀の形に刻んだ碑の台石」のことです。これは中国の碑の形式で、江戸時代になって用いられるようになったと言われています。(資料1)京都の探訪をするときに、この亀趺を意識すると結構各所で目にする機会があります。京都の探訪経験で記憶に残るのは、東寺・毘沙門堂の境内、建仁寺の開山堂、金戒光明寺の墓地、京都大亀谷大国寺境内、醍醐山に登る山道(参道)傍などです。「中国風を尊んだ江戸時代の藩主の墓碑や禅僧の行状碑に付属して多く作られ、それらの見本となりました」(資料1)と説明されています。余談ですが、かつて少し調べたとき、各地にかなり存在することを知りました。再確認した中での事例に、「水戸徳川家墓所」(資料6)、江戸東京博物館の徳川家康像(資料7)などがあります。 石碑亭の前から、北西方向に「寿蔵」(重文)が見えます。寿塔、真空塔とも称されるそうです。宝形造の屋根、本瓦葺きの六角堂です。寿蔵は隠元禅師の生前に築造された墳墓です。木庵禅師を中心に法子・法孫らにより、寬文3年(1663)に建立されたそうです。(資料1)回廊は石碑亭の近くで東西方向に向かいます。 左折して東西の回廊に進むと、寿蔵への参道が北に延びています。斜面地が段状に開平され、石垣が積まれた境内地に寿蔵が建立されています。寿蔵の背後は石垣が半円形に築かれ、その上に屋根付きの塀が寿蔵を囲っています。 門内参道の左右に石灯籠が3基ずつ並んでいるのが遠望できます。 一字目が欠けてしまいましたが、正面には霊元天皇宸筆による「眞空塔」の額が掲げてあります。ここも聯が掛けてあります。正面中央の円窓戸板には、隠元禅師の書による「壽蔵」という文字が刻されています。(資料1)寿蔵の正面にも円窓の左右に隠元禅師の書による聯が掛けてあります。右の聯は「天開寿蔵長生日」、左の聯は「地湧松岡不老者」とのこと。(資料2,3:付記一部修正) (2013.6.9 撮影)宝形造の屋根の頂には露盤と宝珠が置かれています。露盤には蓮華の紋様が見えます。 (2013.6.9 撮影)六方の降棟の先端は、鬼ではなくて中国の仙人を表した鬼瓦が使われています。すごく楽しげな二人の仙人です。寿蔵にふさわしい感じ・・・・・。「寿蔵の瓦は舎利殿と共に上方の瓦御用をつとめた大坂の寺島藤右衛門の寄進」(資料1)によるそうです。回廊に戻り、西に進みます。 回廊の左側に見える庭です。「中和園」と呼ばれています。(資料1)目が引き寄せられる珠状の石のある白砂の島の右側に井戸が見えます。「中和井(ちゅうわせい)」と称される井戸です。この辺りは「後水尾法皇の御生母(後陽成帝の女御)中和門院前子の屋敷趾(和田山御殿)で、日常使われていた井戸」(資料1)だそうです。「黄檗の創建にあたって、近衛家所領の一部を幕府から下賜されていることを示す史跡といえます。」(資料1)現在のこの庭は、隠元禅師300年大遠諱のあった昭和47年(1972)に整備されたそうです。 回廊の先は、開山堂です。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1103) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」4)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店5) 慧可断臂図(えかだんぴず) :「京都国立博物館」6) 国指定史跡 水戸徳川家墓所 :「徳川ミュージアム」7) 35 亀趺 :「石仏散歩」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ亀趺 :「コトバンク」大円広慧国師碑 :「フィールド・ミュージアム京都」日本の亀趺 :「東アジアの亀趺」(東京大学・東洋学研究情報センター) 日本の亀趺を一瞥 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.17
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大雄宝殿正面の回廊を斎堂側に引き返し、法堂への回廊を進みます。 回廊から眺めた「法堂(はっとう)」です。 回廊の突き当たりは石段の先に板戸が見えます。 大雄宝殿の東側から眺めると回廊の先、南側に入母屋造・柿葺きの「東方丈」の屋根が見えます。 柱に「東方丈」(重文)の木札が掛けられ、案内額も掲示されています。東方丈は「中央に寿像がある。1日、15日の一山の朝礼その他の式礼は住職が就いて取り行われます。襖や壁は池大雅の五百羅漢図、虎渓三笑の図、西湖の図、全部重要文化財ですが、現在は京都博物館に出陳されています。その他額や聯は開山禅師、木庵禅師筆で重要文化財です。この奥に住職の居住する甘露堂があります。」(案内文転記)板戸の左右の柱には、聯が掛けてあります。右側には「甘露中門開八字」、左側には「十方龍象任登来」と記されています。 右側に目を転じると、ここにも東方丈への入口があり、小ぶりな鐘が吊されています。この鐘も何か特定の合図として叩かれるのでしょう。 法堂に向かいます。 左折してまず目に止まるのが、白壁に設けられた円窓。 大雄宝殿の円窓との違いは、大きめの格子の円窓になっている点です。 円窓を斜めから眺めると、「方丈」と記された扁額が部分的に垣間見えます。 法堂正面の回廊を北方向に眺めた景色 法堂正面の北側から南方向を眺めた景色 大雄宝殿の東側から正面に法堂を眺めた景色です。 法堂側から眺めた大雄宝殿の東面です。 法堂の案内額 法堂は入母屋造、桟瓦葺きで、寬文2年(1662年)に建立されました。法堂は禅寺の主要伽藍の一つで、説法を行う場所です。法堂の内部は見られません。内部には須弥壇のみ置かれているとか。(資料1)「中央の高いところを須弥坦といい住職がこの坦上に登って説法し衆僧は問答(商量)によって所信をみがくところ」(案内文転記) 坦は壇と同義でしょう。参照の小冊子(資料1)に「上堂」という語句が使われています。意味がつかめず調べてみたら、住持などが須弥壇に上り説法することだそうです。(資料2)法堂は住持の晋山式にも使われます。(資料1) 法堂の正面の勾欄は卍くずしの文様が使われています。この文様は、奈良時代の法隆寺など南都寺院に使われていますが、江戸時代初期にあらためて黄檗を通じてもたらされたとか。(資料1) 正面に「獅子吼」の扁額が掲げてあります。隠元禅師の師匠である徑山(きんざん)費隠禅師の書によるもの。(案内額、資料1)獅子吼とは、釈尊の説法を、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば百獣すべてがこれに従うということにたとえた言葉です。(資料1) 左右の柱には第6代千呆禅師筆による聯が掛けあります。右側の聯は「棒喝交馳国師千古猶在」、左側の聯は「象龍囲繞霊山一会儼然」と記されています。(資料3,4)法堂の背後(東側)の奥には、伽藍図を見ますと、「威徳殿」があります。徳川歴代将軍を祀るお堂だそうです。昔は、雙鶴亭があったと言います。(資料1,西方丈の案内文) 法堂正面を通り過ぎ北に進むと、西方丈の角に到ります。板塀に「西方丈(重文)」の案内額が掲げてあります。西方丈は総門とともに、寬文元年(1661)最初に建てられた入母屋造、柿葺の建物です。方丈は禅院住持の居間です。萬福寺では寬文5年に甘露堂が建てられて以降そこが使われるようになりました。上記と重なりますが、それ以来、二つの方丈は来客の応対や特定の儀式に使われるようになったそうです。(資料1)西方丈側の回廊を西方向に進みます。 回廊の西方向を眺めた景色 途中、右側(北)奥にお堂があります。こちらに向かう回廊には「納骨堂」の扁額が掲げてあり、建物の正面に扁額が掲げてありますが、中央の一字が判読できません。 このお堂は堂内に「慈光堂」の扁額が掛けてあります。延宝3年(1675)に建立されたお堂で、一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所になっています。隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設されたそうです。納骨堂の額が掲げてあるのはこれに由来するのでしょう。宗旨を問わず納骨を受け付けているそうです。(資料1) 慈光堂の屋根の鬼瓦 慈光堂の西側にある宝篋印塔塔身の語句が目にとまりました。「怨親平等」という語句の意味はどう理解すればよいのか。調べてみて、「おんしんびょうどう」と読むのです。やっと一歩理解が深まりました。「怨敵と親しい者とを平等にみる」という意味だったのです。「にくい敵であるからといって憎むべきではないし,また親しい者であるからといって特に執着すべきではなく,平等にいつくしみ憐れむべきことをいう。」と説明されています。(資料5)グプタ朝時代に仏典のサンスクリット化の過程で<ブツダチャリタ>という釈迦の伝記が作られたそうです。それが『仏所行讚』として漢訳され、釈迦の御遺告「能者看定、以怨親平等観行、可令預護」がその語句の由来だと言います。(資料5,6)その境地に到るには、修行がいることでしょう。まずは意味の理解から一歩を進めましょう。 位置関係がこの景色からお解りいただけるでしょう。北東側から撮った景色です。左に見える屋根が南にある大雄宝殿です。宝篋印塔の背後が西方丈からの東西方向の回廊(左)と大雄宝殿からの南北方向の回廊の分岐点です。慈光堂は左(東)隣りになります。 さて、宝篋印塔のある箇所から回廊に戻ります。西方丈の方向を眺めた回廊の景色です。そのまま右に目を転じると、大雄宝殿の北側面の花頭窓が見えています。回廊を右折して進むと、 「禅堂」です。角の柱に「黄檗専門道場」の木札が掛けてあります。 この案内額が掛けてあります。 禅堂の傍にも巡照板があります。ここのはかなり打ち鳴らされている感じ・・・・。年季が入っていますね。山内にはここを含め5ケ所に巡照板が設置されているそうです。 禅堂の正面扉の上には隠元禅師筆の「選佛場」の扁額が掲げられ、左右の柱には聯が掛けてあります。残念ながら、ここの聯についての資料はありません。私には判読できない文字があります。 吊り下げられたこの「止静」の文字が効いています。三黙道場の一つ、速やかに静かに通り過ぎることに。静寂の漂う区域です。 回廊沿いに、祖師堂・鼓楼に向かいます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店3)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1104) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 怨親平等 :「コトバンク」6) 仏所行讃 :「コトバンク」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」 千呆性侒 即非如一千呆性侒 :ウィキペディア黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵 ホームページブツダチャリタ :ウィキペディア仏所行讃 : 現代意訳 池田卓然 訳著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」仏所行讚:「つばめ堂通信」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.16
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前回、大雄宝殿の十八羅漢像が安置されている全景をご紹介しました。ここでは十八羅漢像を個々に眺めてみたいと思います。その前に、やはりまず「羅漢」とは? ですね。羅漢は「阿羅漢の略で、敬われるべき人の意」(資料1)です。そして、阿羅漢ですが、これはサンスクリット語(梵語)のアルハンを漢字で音写した言葉だそうです。漢訳すると、<応供(おうぐ)>で、「尊敬・施しを受けるに値する聖者(しょうじゃ)を意味する。インドの宗教一般において、尊敬されるべき修行者をさした。」(資料1)とのこと。釈尊は10の別称(十号)を持っておられて、その一つに<応供>があったそうです。ところが、後になると、仏の別称であることとは区別して、仏の弟子に<阿羅漢>の称が当てられるように変化しました。仏の十大弟子は勿論最高の阿羅漢ということになります。「原始仏教・部派仏教では修行者の到達し得る最高位を示す」(資料1)ことになり、一方、大乗仏教では「批判的に声聞を阿羅漢と呼び、仏と区別した」(資料1)という経緯があるそうです。声聞はサンスクリット語では「教えを聴聞する者」を意味し、もともとは出家、在家を問わずに使われる言葉だったのですが、後に仏教では、出家の修行者だけを意味することになり、出家の修行者は阿羅漢を目指すということになります。次に、十六羅漢、五百羅漢、という言葉を見聞されたことはありませんか?そこに、さらに十八羅漢・・・・・です。まず、<十六羅漢>ですが、これは「中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子」を称する言葉だそうです。一方、<五百羅漢>は、「第1回の仏典編集(結集)に集まった500人の弟子」を尊崇するのに使われる言葉となったそうです。尚、異説もあるそうですが・・・・。(資料1)また、五百羅漢のおのおのについてその名称を記した経典はないそうです。(資料2)とくに禅宗では修行の過程にある者の姿として十六羅漢を尊び、唐時代末から五代にかけてもっとも信仰が盛んになったと言います。日本には、東大寺の奝然(ちょうねん)が中国より十六羅漢図をもたらしたと伝えるとか。(資料2)十六羅漢、五百羅漢については補遺に載せた事例をご覧ください。そこで、<十八羅漢>です。こちらは、鎌倉・室町時代に盛んとなっていった<十六羅漢>に対して、明時代の寺院の形式を受け継いで、「慶友(けいゆう)尊者」と「賓頭盧(びんずる)尊者」を加えて<十八羅漢>を祀っていると言います。(資料3) 大雄宝殿の堂内に入ると、すぐ右側、南側壁面に沿って、羅漢像が安置されています。大雄宝殿に居並ぶ十八羅漢さんを一人ずつ眺めていきましょう。尚、当日逆光ぎみだったりうまく撮れなかった羅漢像については、2013年6月に探訪した時に撮っていたものに一部代替します。(☆マークを付記)後日に学んだことを補足しながらのご紹介です。羅漢さんを意識的に考えたのはこれがまあ初めてに近いです。私にとっていい機会。お付き合い下さい。 慶友尊者 十六羅漢にさらに加えられた「慶友(けいゆう)尊者」が西端です。 十六羅漢を説く経軌には玄奘訳の『大阿羅漢難提密多羅(だいあらかんみたら)所説法住記』という典籍があるそうです。この『法住記』の著者が慶友尊者です。 十八羅漢について、調べていて興味深い伝えに出会いました。以下、引用します。”「法住記」には十六羅漢の姿に対する具体的な描写はないのですが、唐の末期に「張玄」「貫休」という二人の僧侶が、「法住記」をもとに想像を加えて十六人の大羅漢の絵を描きました。完成後、「法住記」の作者である「慶友尊者」を記念して、十七番目の羅漢として描き加えました。しかし、中国人は偶数を好むので、十七では座りが悪いとして、「賓度羅尊者(ひんどらそんじゃ)」という名前を勝手に作り、作品に書き加えてしまったのでした。宋の時代の大詩人「蘇東坡(そとうば)」は、在家弟子として深く仏教に帰依していましたが、「張玄」と「貫休」が描いた十八羅漢の絵の下に、この絵をほめたたえる詩を書きました。それから、中国では十八羅漢が広まるようになったのです。十八羅漢の名前と姿形がこのようにして世の中に広められた後、「慶友尊者」と「賓度羅尊者」は、「張玄」と「貫休」が自分達の都合で勝手に増やしたものなのだから、後世の自分達も好きなようにしていいだろうということで、様々なバリエーションが出てきました。”(資料4)歴史的な経緯があるのですね。おもしろい。 阿氏多尊者阿氏多(あした)尊者。梵名はアジタ。鷲峯山(じゅぶせん)にあり、弟子1500人と『法住記』に記されていると言います。以下、所在地と弟子の数を同様に記します。(資料2) ☆ 因掲陀尊者因掲陀(いんかだ)尊者。梵名はアンガジャ。広脇山(こうきょうせん)、1300人 逆光! ☆ 羅怙羅尊者羅怙羅(らごら)尊者。梵名はラーフラ。畢利颺瞿(ひりようく)州、1000人。手許の二書では、最初の「羅」という漢字の代わりに「囉」がつかわれています。どちらもルビは「ら」なのですが。(資料1,2)仏の十大弟子の一人、羅怙羅(ラーフラ)だけが、十六羅漢の一人に入っています。ラーフラは釈尊とヤショーダラーの間に生まれた子。出家後「智慧第一」の舎利弗(しゃりほつ)に就いて修行したそうです。「密行第一」、学習第一の比丘と呼ばれました。(資料1)強烈な造像です。ここで逆光だったのが実に残念・・・・・。 ☆ 戍博迦尊者戍博迦(じゅはくか)尊者。梵名はジーヴァカ。香酔山(かすいせん)、900人。 迦理迦尊者迦理迦(かりか)尊者。梵名はカーリカ。僧伽荼(そうぎゃだ)州、1000人。 諾詎羅尊者 諾詎羅(なごら)尊者。この羅漢名に該当する尊者は資料により使われる漢字がことなります。参照資料の一つは「諾矩羅(なくら)」(資料1)、他は「諾距羅(なくら)」(資料2)としています。この2つの梵名は同じナクラです。南瞻部(なんせんぶ)州、800人。同じ尊者をさすと思うのですが不詳です。課題が残りました。 迦諾迦跋釐惰闍尊者迦諾迦跋釐惰闍(かなかばりだじゃ)尊者。梵名はカナカ・バーラドヴァージャ。東勝身(とうしょうしん)州、600人。 賓度羅跋羅惰闍尊者賓度羅跋羅惰闍(びんどらばらだじゃ)尊者。梵名はビンドーラ・バラドヴァージャ。西瞿陀尼(せいくだに)州、1000人。 南側壁面の東端には、達磨さんが置かれています。その前には、香炉と小さな梵鐘が置かれています。 お堂の南東隅側から眺めた南側の羅漢像の全景です。それでは、本尊の背面の通路を歩み、北側壁面の羅漢像を東端から拝見していきましょう。 迦諾迦跋蹉尊者迦諾迦跋蹉(かなかばっさ)尊者。梵名はカナカヴァッツァ。加湿弥羅(かしつみら)、500人。 蘇頻陀尊者蘇頻陀(すびんだ)尊者。梵名はスビンダ。北俱盧(ほっくる)州、700人。 手許の二書は、「そびんだ」とルビをふっています。(資料1,2) 跋陀羅尊者 跋陀羅(ばっだら)尊者。梵名はバドラ。眈没羅(たんもら)州、900人。 伐闍羅弗多羅尊者伐闍羅弗多羅(ばじゃらふっだら)尊者。梵名はヴァジラプトラ。鉢刺拏(はらな)州、1000人。この尊者名のルビは参照資料により異なります。一書は「ばじゃらほったら」(資料1)、他書は「じゅばじゃらほったら」(一字目に戎の文字が付いています)(資料2)です。 半託迦尊者半託迦(はんたか)尊者。梵名はパンタカ。三十三天、1300人。 那伽犀那尊者那伽犀那(なかさいな)尊者。梵名はナーガセーナ。半度波(はんどは)山、1200人。 伐那婆斯尊者伐那婆斯(ばなばし)尊者。梵名はヴァナヴァーシン。可住山(かじゅうせん)、1400人。 注荼半託迦尊者注荼半託迦(ちゅだはんたか)尊者。梵名はチューダパンタカ。持軸山(じじくせん)、1600人。 賓頭盧尊者賓頭盧(びんずる)尊者は上掲の賓度羅跋羅惰闍尊者と同一であるとも考えられているそうです。(資料2) お堂の北西隅側から眺めた北側の羅漢像の全景です。上記の『法住記』は十六羅漢を説明していますので、参照資料1,2では、賓度羅跋羅惰闍尊者を第一尊者に、注荼半託迦尊者まで同じ順番で表記されています。それと対比すると、萬福寺の十八羅漢の並ぶ順番はかなり違っています。この辺りも興味深いところです。賓頭盧尊者は一番なじみがあるかもしれません。お寺の仏堂の外陣や外縁に安置されていることが多い尊者です。病者が患っている箇所と同じ賓頭盧尊者の部分を撫でると治るという信仰があり、「撫(な)で仏(ぼとけ)」として信仰されてきました。多くの賓頭盧尊者像はテカテカと光った部分が残る像です。衛生上の観念も浸透し、今では撫でるということが減ってきているようですが・・・・。また、中国では『請賓頭盧法』に「法会を設けるときは、必ず賓頭盧尊者を請じて食事を供養する」という記述があることから、寺院の食堂に彫像の賓頭盧を安置し、聖僧として祀ることが行われたと言います。(資料2)羅漢像は群像として造られることが一般的です。賓頭盧尊者だけが単独で造立されるというのも興味深いと言えます。賓頭盧尊者は、「コーサンビーの優塡王(うでんおう)の大臣の子で婆羅門(ばらもん)の出身。神通力に優れていたが、それ以上に説法に優れていたので獅子吼第一と呼ばれた」(資料1)そうです。一つご紹介しておきたい像があります。2013年6月に萬福寺を探訪したとき、この大雄宝殿の本尊から南西側に隠元禅師像が安置されているのを拝見しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ 「隠元倚騎獅像」の画像を彫像にしたものを間近に拝見できました。今回、南側の羅漢像群を眺めた後、一瞬あれっと感じたのです。隠元禅師像が以前のようにはなかったのです。そのときはそのままで、北側の羅漢像群の拝観に行きました。記録写真を整理し、まとめながら、改めてなぜだろう、と考えていて気づきました。 上掲の画像から切り出した部分図です。その位置に厨子が設置されていたのです。多分、現在はこの隠元禅師像がこの厨子に安置されているのではないかと思います。厨子の扉が閉じてあり、意識せずに通過してしまったのか・・・・定かではありません。残念。それでは、三門、天王殿、大雄宝殿と一直線上に配置されたその先にある法堂に向かいましょう。つづく参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店2)『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一編 学研 p198-2093)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子4) 30.十六羅漢と五百羅漢(3) :「全日本少林寺気功協会」補遺十六羅漢像 :「e國寶」紙本淡彩十六羅漢図・全16幅 久隅守景 筆 :「臨済宗建長寺派 金徳山光明寺」阿羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」十六羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」十八羅漢 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」羅漢(阿羅漢)とは?羅漢像のある有名な寺院や施設など :「よりそうお葬式」聖者のかたち -羅漢- :「福岡市博物館」苔むす百面相 無常説く 石峰寺の五百羅漢像(時の回廊):「日本経済新聞」愛宕念仏寺 1200羅漢の寺 :「4travel.jp」彦根の粋なスポット、名庭と五百羅漢~天寧寺・龍潭寺~ :「トラベルjp」五百羅漢 :「川越大師 喜多院」富山の宝 長慶寺 五百羅漢 :「NHK」天恩山五百羅漢寺 ホームページ世界遺産 五百羅漢 石見銀山 :「羅漢寺」廣田寺木造十八羅漢像 :「松本市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.15
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再び斎堂を経由して左折し回廊を進むと、南東隅の柱に「大雄寶殿」(重文)の木札が掛けてあります。堂内に入る前に、まずは大雄宝殿の正面の拝観です。 大雄宝殿の正面、左右には白壁の壁面にスッキリとした円窓が設けてあります。円窓は「日・月」を象徴しています。(資料1) 円窓下の腰板のところに、案内文の額が掲げてあります。順次参照しつつご紹介します。 (2013.6.9 撮影)2013年6月に探訪したときには、円窓が開放されていてこんな景色を眺めました。円窓の左の柱に、最初の聯が目に止まります。第5代高泉禅師の筆による「碧水丹山設長生之画」の聯が掛けてあります。北側の柱には、高泉筆で対となる「光輪白月献無尽之煙」の聯が掛けてあります。こちらの写真は撮り忘れました。(資料2,3) 正面五間の中央には、前回触れた「萬徳尊」(木庵禅師筆)の扁額が掲げてあります。正月なので、桁には左から「場・道・懺・禮」の文字を記した幡が掛けてあります。大雄宝殿は萬福寺の本殿であり、ここは礼拝し懺悔する道場ですよという意味でしょうか。 回廊に大きな鼎の香炉が置かれています。 部分図として切り出しました。「壽」の字がデザイン化され要所に描かれ、様々な花模様を細やかにし、描き込んだ意匠です。ケバケバしくはなく、華やかな雰囲気を感じさせて素敵です。 正面の北側には、即非禅師の筆による聯が掛けてあります。向かって右側は「世豈無主人」です。『都名所図会』では左側には「仏是良事漢」が対になっているという説明があります。(資料2,3)しかし、改めて写真を見ると、文字数が一致しませんので、不詳です。 大雄宝殿の北側面には、花頭窓が設けてあります。 正面、左(北)の円窓傍から大雄宝殿正面の回廊を眺めた景色です。 回廊を引き返し、南側面の入口に戻ります。大雄宝殿は「歇山重檐式(けつさんじゅうえんしき)」の建物ということに前回触れています。外見上は二重構造に見えます。しかし、下方の屋根(檐)は装飾としての屋根で、堂内は単層構造になっています。下方の屋根が回廊部分になります。(資料1)法隆寺金堂の屋根の裳階(もこし)を連想しました。 (2013.6.9 撮影)回廊の天井を見上げますと、蛇腹天井の形式です。龍の腹を表しているそうです。中国、チベットには同様のものがあり、「檐廊(えんろう)」と称されるそうです。(資料1) (2013.6.9 撮影)日本の寺院では、束と蟇股が見られます。大雄宝殿にはそれらの中間的なイメージを持たせる形が使われていて、興味深いところです。 堂内に入ったところからの景色柱は角柱で、床面は敷瓦(甎 せん)を四半敷にして舗装されています。本尊を祀る須弥壇に向かって、内陣に円座が並べてあります。 装飾法具が中国式です。本堂の柱には数多くの聯が掛けてあります。 堂内中央の須弥壇には三尊像形式で本尊が祀ってあります。その上に「真空」と記した額が掲げてあります。明治天皇の宸筆とのこと。(資料1,案内額) 中尊は釈迦如来坐像が祀ってあります。釈迦牟尼仏が本尊です。従来、范道生作と伝えられてきました(案内額)が、近年の研究で范道生が離日していた時期の事実により、京大仏師兵部作が有力な説になっているそうです。寬文9年(1669)造立。像高250.0cm。 後日、記録写真をよく見ると、胸の部分に卍が刻されているのに気づきました。脇侍として、向かって右には迦葉(かしょう)尊者、左には阿難(あなん)尊者が立っています。 摩訶迦葉は、サンスクリット語でマハーカーシャパ(大迦葉)と称し、仏十大弟子の一人です。頭陀(衣食住に関して小欲知足に撤した修行)第一といわれたで、教団の長老にもなりました。釈迦が摩訶迦葉に法を伝える契機になった「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事が有名です。(資料4) (2013.6.9 撮影)阿難は、サンスクリット語でアーナンダと称し、釈尊のいとこであり、十大弟子の一人です。釈尊の侍者として25年つかえ、釈尊の説法を聴聞することが特に多かったので、多聞第一と呼ばれています。経典の結集の会議おいては大きな役割を果たしたと言います。(資料4) 北側面から 南側面から 堂内中央正面の手前には高い位置に7つの幡が吊り下げてあり、「南無○○如来」と七仏に念じる形に記されています。右から見ていくと、多宝、宝勝、妙色身、広伝身、離怖畏、甘露王、阿弥陀と、それぞれ読めそうです。 堂内の南と北の壁面沿いに、十八羅漢像が安置されています。 こちらは出入り口のある南側壁面です。 羅漢像を端から眺めつつ、反時計回りに進みます。 北側壁面を東端から眺めた景色です。 こちら側には、この木造の虎像がガラスケースに収めて展示されています。虎らしくない(?)かわいい感じです。猫をモデルに想像を駆使して彫像したのでしょうか。 堂内で「東日本大震災被災犠牲者諸精霊位」の位牌が目にとまりました。 布袋尊の小像も安置されています。萬福寺で特徴的な聯。この堂内で目にする聯をいくつかご紹介しておきましょう。この大雄宝殿では、堂内の柱に掛けられた聯について、簡略な説明用の木札が聯の傍に掲示されています。 堂内への出入口に一番近い柱の正面の聯は、第7代悦山禅師筆の「万徳殿中移来一会耆閻崛」です。説明木札は[まんとくでんちゅう、うつりきたるいちえ、きじゃくつ]と読み、<万徳尊(お釈迦様の別名)のお堂の中は、耆閻崛(きじゃくつ)山のお説法をここに移して来たようである>という意味と記されています。以下、同様です。この正面に対して、左側面の聯は第2代木庵筆の「一茎草現紫金容赴感流慈道祓三千世界」[いっきょうそう、しきんようをげんじ、かんにおもむき、じをながして、どう、さあんぜんせかいにこうむり]<一本の草が仏のお姿をあらわしていて信心を感じるところ慈悲心をもって三千世界(世界中)に仏法をひろめ> 木庵筆の聯は、北側の柱の右側面が対応します。「万徳功円浄妙智随機化物恩加百億人天」[まんとくこう、まどかにして、じょうみょうち、きにしたがい、ものをけして、おんひゃくおくにんてんにくわう]<万徳(仏のお徳の多いこと)を円満にお積みになってその知恵は人間(機)や衆生(物)の中に教化して沢山(百億)の人達にその恩を及ぼしておられる>この左柱の正面の聯は、 これです。上掲悦山筆の聯に対応するものだと思います(末尾一文字欠落)。ところが、説明木札に撮影に失敗していました。残念! 次の機会に確認したいと思います。 釈迦如来の脇侍・迦葉尊者の斜め前の柱には、隠元禅師筆の聯が掛けてあります。「宗門肇啓廓天心祗樹林中十聖三賢皆景仰」[しゅうもん、はじめてひろげ、てんしんかくたり、ぎじゅりんちゅう、じつしょうさんけん、みなけいぎょう]ここまでは記録写真で判読できましたが、訳文にあたる箇所が鮮明でなくて、お伝えできません。上掲左の写真の聯も撮影は失敗。課題が残りました。読み下し文がわかりますので、語句からの類推で少し文意を理解できそうです。宗門をはじめて確立したという意味では、釈尊が悟りを啓いて教えを広められたことか、隠元禅師が日本に渡来され黄檗宗の基を啓いて教えを広められたことかのいずれかを意味するのでしょう。祗樹林は釈尊が教団を営まれた祗樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)、つまり祇園精舎という場所のことだと思います。そこで仏の十弟子をはじめ多くの僧が修行に励みました。(資料4) その場所を比喩的に例示したとも受けとめられます。三賢十聖は「大乗仏教で、菩薩の修行階位のうち、聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢)のこと。三賢十地。」(『デジタル大辞泉』)を意味する といいます。(資料5)最後の「景仰」は「したいあおぐ」(『角川新字源』)という意味です。いずれにしても、十聖三賢として修行の階位にいる先人を仰ぎ見て、修行に励もうという主旨なのでしょうね。大雄宝殿の堂内を眺めますと、 堂内で、この鐘が本尊の背後の壁面の南の柱に設けてあることに目がとまりました。特定の目的でこの鐘も叩かれるのでしょう。 本尊の背後の堂内の通路部分ですが、見上げた部分は下方の屋根(檐)の棰(たるき)の整然とした列が見えます。屈曲した海老虹梁も使われています。 堂内の一隅の天井部分です。かなりの高さがあることで、このお堂が単層の建物とわかります。細見と言いながら不十分さが残りました。次回は大雄宝殿拝観の最後に、十八羅漢像見仏に絞り込んでご紹介します。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1103) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」4)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店5) 三賢十聖 :「コトバンク」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ隠元 :「Japan Knowkedge」隠元禅師と黄檗文化 :「旅する長崎学」(長崎県文化振興課)隠元 生活の中の仏教語 :「読むページ」(OTANI UNIVERSITY)隠元倚騎獅像 :「神戸市立博物館」木庵禅師 :「恩林寺のぶろぐ」(岐阜県)木庵禅師物語 記事一覧 :「黄檗宗宝林寺」(群馬県)木庵禅師頂相 :「姫路市」木庵禅師書 三幅対 :「長崎市」高泉性潡 :「コトバンク」高泉性潡 :ウィキペディア高泉和尚襍話 侍者編 :「黄檗宗慧日山永明寺」(滋賀県)高泉禪師一滴艸 (こうせんぜんじいってきそう):「新日本古典籍総合データベース」【県指定】紙本隠元画像 1幅 :「北九州市」拈華微笑 :「コトバンク」「拈華微笑」とはどういう意味なのか :「禅の視点 -life-」拈華微笑《ねんげみしょう》 (無門関) :「今月の禅語」黄檗宗 梵唄(ぼんばい) YouTube黄檗宗・萬福寺 梵歌 YouTube萬福寺 お施餓鬼(令和2年 中元法要) YouTube令和3年【中元法要】施餓鬼 YouTube令和3年 仏供講法要 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.14
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斎堂の正面、東側にはこの大きな魚の形をした魚板が回廊の梁に吊されています。 柱には、「開梆(かいぱん)」という名称で説明が掲示されています。 回廊の東側から眺めた姿です。開梆は、魚梆、魚鼓とも呼ばれるそうです。 この魚梆は萬福寺における日常の行事や儀式の刻限を報じるために叩いて音を境内に伝えるための法器です。 西に延びる回廊を眺めると、開梆の向こうに雲版が見えます。どちらかが音を発すれば、その音が何を意味する合図(信号)であるのか。日常の修行の行動に直結しているのでしょう。上掲の案合掲示に記されていますが、こおちらもこれを叩いた音をスマホ、携帯電話で聴くことができるそうです。私は試していませんが・・・・。(掲示説明文より)現在の魚梆は三代目と言います。これは木地のままですが、先代(二代目)は全体に丹塗りが施されていたそうで、現在文華殿に蔵されているとか。(資料1)この魚梆が木魚の原型とされています。 この魚板を斜め下から見上げると、こんなスリットが刻まれていて、内側が刳り抜かれていることがわかります。叩けば音が反響することになります。 木魚はこんな形ですね。インターネットからわかりやすい画像を引用しました。(資料2)木魚の原型だということがわかりやすくなるでしょう。 なぜ、魚が珠を口にくわえているのでしょう?この珠、「煩悩の珠」を意味するそうです。口の部分に珠をあしらうのは、木魚を叩くことで、煩悩を吐き出させるという意味があると言います。(資料3) 「昔は、魚は昼夜を問わず目を開けているため寝ないものと思われていました。」(資料3)「魚は不眠不休でいるところから、怠惰を戒めるためにこれを叩く」(資料1)「寝ない魚のように、修行僧は常に怠けずに修行に励みなさい、という意味が込められて魚の形になっています。」(資料3)そんな意味が込められているのですね。 ちょっとマニアックに部分撮りを・・・・・。室町時代の禅宗寺院では、大衆を集める合図として木製の鳴り物が用いられたそうですが、江戸時代に隠元禅師が開梆/魚梆を用いたことから、今の形の木魚となり本格的に仏事に根付いていったと言います。木魚は現在では諸宗派の仏事で使われています。(資料3) こんな新聞記事が掲示してありました。コロナ禍のご時世を反映していますね。 魚梆を潜ると、 左には、「大雄宝殿」に到る回廊が北方向に延びています。西側には長椅子が並べてあります。春先にはここで一休みするのもよいかも・・・・。 この回廊への入口、東側の水槽に、なぜかミニ盆栽が並べてあります。大雄宝殿に進む前に、斎堂の南東側を少し探訪してみました。斎堂の東側には通路を挟み、売店があります。『最新版フォトガイドマンプクジ』を購入したのはこの売店です。 近くで目に止まった巡照板。「無常迅速」の文字が叩かれ続けてほぼ消滅しています。まさに、「無常」を示す如くに。 境内の南東角のエリアには、「萬福寺寺務所」の建物と「双鶴亭」の木札を掛けた建物があります。 斎堂の南側には、「香福廊」の扁額を掲げた建物があります。この建物の西側が前々回に屋根だけの景色を載せた「典座」と表示される建物です。外観を一瞥して、いよいよ大雄宝殿に向かいます。 大雄宝殿に向かう回廊の途中に、東に延びる回廊が分岐します。「法堂」に向かう回廊です。 大雄宝殿の正面前、つまり西側には「月台(げったい)」があります。探訪したときには、正月の飾りつけがなされていました。 一旦、天王殿の東側面に戻り、天王殿から大雄宝殿に繋がる参道を進みます。参道から眺めた景色です。大雄宝殿の前に、白砂の基壇が設けてあります。これが「月台(けったい)」です。 参道の両側に一対の石灯籠が設置されています。 月台には、献花が飾ってあります。 弘原未生流家元・小林秀加作です。 大雄宝殿前からの景色 月台の南東隅からの景色生花と青竹の組み合わせが、オブジェの世界に繋がっているようです。生花が隠されてしまうような、守護されているような雰囲気の現出がおもしろい。青竹の緑と提灯の赤のコントラストも鮮やかです。インドでは陰暦で仏教行事を行い、中国では仲秋節を三大節句の一つに位置づけて、明・清時代には月をお祭りする行事が行われました。「黄檗山では1日(新月)と15日(満月)には特別の法要を執り行い、その前日の14日と晦日に半月間の罪を懺悔するお経を誦みます」(資料1)。月台は仏教と戒律と月を象徴する場所だそうです。花器が月台の中心である長方形の平石のところに置かれています。この平石を「罰跪香頂石(ばっきこうちょうせき)」と称し、「叢林の共住規約を守らなかった者が罰として線香を立て、この石上に跪き礼拝して懺悔します」という場所でもあるそうです。また、萬福寺の中心線上に位置し、月台の核となる石、結界の戒碑でもあるのです。(資料1) 回廊には、大きな絵馬が置かれています。今年は寅年。睦まじい虎の親子が家族として描かれています。「勝運」まずはコロナに勝ち抜きたいものですね。 回廊の傍からも絵馬を撮ってみました。柱間いっぱいですから、大きさが想像できることでしょう。数えてみますと柱間は四半敷の敷瓦8枚。絵馬底辺は7枚+αくらいの長さのようです。大雄宝殿は、萬福寺の本堂で、最大の伽藍になります。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物になるそうです。歇山重檐式の建物で、寬文8年(1668)年に建立されました。 大屋根の棟の両端には、摩伽羅(まから)が見えます。 棟中央には、二重の宝珠が置かれています。 上層には隠元禅師の書による「大雄寶殿」の扁額が掲げられ、 (2013.6.9 撮影)下層には第2代木庵禅師の書による「萬徳尊」の扁額が掲げてあります。中国の禅宗寺院や韓国の曹渓宗の寺院では、お釈迦さまを奉祀する仏殿を大雄宝殿または大雄殿と呼ぶとか。「すべての徳をそなえた尊いお方」という意味でお釈迦さまのことを万徳尊と称するそうです。(資料1)それでは、回廊を戻って、堂内を拝観しましょう。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 木魚 :「株式会社浅野太鼓楽器店」3) 木魚とは 木魚の意味・由来 :「いい仏壇」(株式会社鎌倉新書)補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ木魚 :ウィキペディア念仏と木魚/知恩院サウンドセラピー YouTube「日本一」巨大木魚の響き 小樽・龍徳寺 YouTube月台 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.13
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回廊を東に歩むと、 「伽藍堂」(重文)があります。第2代木庵禅師の書による「伽藍堂」の扁額が掲げてあります。 「萬福寺全景図」の右側(南)の赤丸のところです。伽藍堂は左側(北)の祖師堂(左の赤丸のところ)と相対する形で同時期、寬文9年(1669)に建立されました。単層入母屋造り、本瓦葺きの建物です。伽藍堂は伽藍を守護する伽藍神を祀るお堂だそうです。(資料1) 扉の両側の柱にも聯が掛けてあります。 堂内中央に本尊が祀られていて、その手前の左右の柱にも同様に聯が掛けてあります。これらの聯について、資料がなく不詳です。 本尊には華光菩薩像が安置されています。像容としては顔に三目があり、中国の文官の服装です。范道生作で、寬文3年(1663)の造立だそうです。木造彩色。像高163.5cm。(資料1) 華光菩薩像の前には、椅座する男性の像が安置されています。 この像、なかなか厳めしい相貌です。手許の参照資料には残念ながら明示されていません。『百丈清規證義記』の附加伽藍の項についての補足説明があります。(資料1)そこで、その説明の文脈と他の資料を合わせこの像を関帝像と推察します。間違っているかもしれませんが・・・・。(資料2,3)神戸と横浜には関帝廟があります。中国の人々の信仰の一端であり、そこからの類推でもあります。 これはウィキペディアから引用した関帝像の一例です。(資料2)雰囲気は似てますよね。 祭壇の手前には、把手付き鼎の形の大きな香炉が置かれています。まさに中国という感じ・・・・。 祭壇に掛けられた赤地の刺繍布には、唐子たちが楽しげに音楽を奏でている図柄が見えます。 本尊に向かって右側の厨子には、八臂の弁財天坐像が安置されています。木造、像高74.0cm。(資料1) 本尊に向かって左側の厨子には、三面大黒天立像が安置されています。塑造、像高74.0cm。三面六臂の像で、右に毘沙門天、左に弁財天の顔を併せ持つています。余談です。ふと、思い出しました。宇治川傍にある曹洞宗の興聖寺にも、僧堂北側に三面大黒天が祀られています。もう一例は京都・東山にある圓徳院の三面大黒天。こちらは豊臣秀吉の出世守り本尊として有名です。 ふと、堂内の北西隅に目を向けると、こんなものが置かれています。何でしょうか。不詳。 伽藍堂を過ぎて振り返った景色 回廊を進み、次のお堂の正面に向かう前に目に止まるものがあります。 これです。青銅製で雲の形をした「雲版(うんぱん)」と称される法具です。QRコードが見えるので何かと思えば、スマホ、携帯電話でこの雲版の音を聴くことができるそうです。お寺も進歩している。工夫していますね。雲版は「主にお堂への出頭を促す合図を送るために鳴物」とここには説明されています。「雲版は、朝と昼の食事と朝課の時に打つもの」(資料1)だそうです。なぜ雲形なのか? 「雲は雨を降らせることから恵みの象徴であるとともに、火事や災害を防ぐ意味もあるといわれて」(転記)いるからなのだそうです。 この雲版の西面には年月が陽刻されています。「寬文元年 歳在辛丑□□月吉日」(二文字不詳)と読めそうです。十干十二支による紀年法で、辛丑(かのとうし)の歳は、寬文元年(1661)に該当します。(資料4)寬文元年は第4代将軍徳川家綱の時代。萬福寺の創建年でもあります。整合します。この雲版には天女の姿がレリーフされています。 雲版の反対側(東面)です。 「黄檗山萬福禅寺住持 隠元□□」(末尾二字不詳。琦と置の二字か?)という文字が読み取れます。左側に落款の形も見え、こちらの面にも天女のレリーフが施されています。 両側には太陽と月、そして雲が象られています。 こちらのお堂は「斎堂」です。萬福寺全景図に青色の丸を付けた位置になります。 正面の扉の上に第2代木庵禅師の書による「禅悦堂」の扁額が掲げてあります。 扉の両側の柱に聯が掛けてあります。これも木庵禅師の書だそうです。こちらもまた資料がなく判読できかねます。 正面右側の腰板部分に「斎堂」の案内額が掲示されています。「斎堂」は萬福寺本山の僧衆の食堂です。約300人が一堂に会して食事をすることができるそうです。(案内文より)扉が閉ざされていますので、内部は分かりませんが、堂内には緊那羅王菩薩立像が祀ってあり、高脚飯台と腰掛が並んでいるそうです。緊那羅王菩薩立像は范道生作で寬文2年(1662)に造立されたもの。八部衆の一人で、楽器を演奏し歌を得意とする音楽天であり、僧衆の食事を見守る火徳神とされています。斎堂が寬文8年(1668)に建立されるまでは法堂に安置されていたそうです。(資料1)一つ疑問があります。八部衆なら、仏像としては天部に分類され、菩薩とは区別されています。なぜ、緊那羅王菩薩と称されているのか、今ひとつ私には理解できていません。 斎堂の正面から「大雄宝殿」が間近に見えます。この景色の右下にある駒札が目にとまります。 それがこれです。駒札には「生飯台(さばだい)」と記されています。 「堂前の生飯台は食前に一箸の飯を餓鬼や鬼子母神などに施しをする台です。」(掲示の説明文転記) 大雄宝殿に向かう回廊の南端に溝が設けられているのが目に止まりました。広大な伽藍ですので、境内の排水の流れも伽藍配置の一環として組み込まれていることがわかります。斎堂正面の東端寄りに、上掲の雲版と対になる「開梆(かいぱん)」のご紹介から始めます。説明としては、上記「斎堂」の案内説明に触れられています。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 関帝 :ウィキペディア3) 関帝図 :「文化遺産オンライン」4)『歴史探訪に便利な日本史小典』 3版 日正社補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ「范道生」 長崎往来人物伝 :「長崎Webマガジン」【曹さんぽ】番外編!神戸・関帝廟をご紹介します YouTube横浜 関帝廟 ホームページ緊那羅王 仏様の世界 :「Flying Deity Tobifudo」緊那羅 :「owlapps」乾漆八部衆立像 :「法相宗大本山 興福寺」八部衆 :「isumu」三面大黒天 尊像 :「曹洞宗 仏徳山・興聖寺」三面大黒天 :「圓徳院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.12
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もとは敷瓦を四半敷にしていたと思われる天王殿前の回廊を南の方向に歩みます。 三葉葵の紋を使った燈籠が回廊に吊されています。萬福寺のホームページをあらためて見て、徳川家と同じ三葉葵の紋が宗紋となっていることに気づきました。つまり、当時の徳川幕府が萬福寺に同紋の使用を認め、庇護したことにつながることと推察します。1975年1版発行の文庫本が手許にあります。それを読み返すと、江戸時代に隠元禅師がそれまでの宋朝禅とちがった明朝禅の新風をふきこんだことが改めてわかります。「隠元は浄土教同様、念仏によって禅的境地に到達すべきだと高唱し、また言語・衣食住にいたるまで故国の風習をまもった。」「十三世まで山主はすべて中国僧だった。」「黄檗禅は、詩文にはしり安逸にながれた当時のわが禅界に大きな波紋を投じた。妙心寺派の鉄牛道機、竜渓性潜ら、曹洞宗の鉄心らが隠元の門にはしった。」「各行事から梵唄(読経)はもとより、建物の配置から用材(チーク材)のほとんどにいたるまで中国式、もちろん言語も中国語だった。」(資料1)と記述されています。徳川幕府にとって、隠元禅師の渡来は宗教政策的にも庇護する意図が大いにあったのでしょう。この書の説明をふまえて当時をイメージすると、菊舍の詠んだ「山門を出づれば日本ぞ茶摘うた」の句が一層鮮やかなものとなり、その心象風景を感じさせます。南に直進する回廊は、直角に東に向かう回廊と、少し先で南端となる部分に分岐します。 これは回廊を西側から撮った景色です。直進の回廊の南端近くに額が吊り下げてあります。「売茶堂 有聲軒」についての案内です。 ここで回廊を外れ、右折してこの参道を西に歩み窟門を潜れば、「売茶堂」「有聲軒」に至ります。窟門前の右方向の下り坂の手前に、一木が円形の石囲みの中に見えます。傍に駒札が立ち「黄檗樹(きはだ)」と記されています。中国福建省、福清の黄檗山には黄檗樹が多く繁茂していたことから、山号が黄檗山と称されたと言います。黄檗の甘皮部分は黄色で苦みがあり、漢方の原料になる一方、染料として用いられるそうです。(資料2) 窟門の手前右側に「賣茶堂」の石標が立っています。賣は売の旧字です。窟門の上部には名称が記されていますが、残念ながら私には判読できません。 窟門を潜ると、南方向に寄棟造りのお堂が見えます。 左側の築地塀の先に竹垣が続き、その前に「賣茶翁顕彰碑」と横書きに刻された碑が建立されています。正面にあるお堂には「茶禅」と記した扁額が掲げてあります。「賣茶堂」です。「煎茶道の祖、賣茶(まいさ)翁(高遊外、月海元昭禅師)が祀ってあります。 翁は当寺開寺禅師の曽孫にあたり晩年洛東洛北名勝の地に茶席を設け行人に茶をすすめ風流三昧に余生をおくりました」(上掲の案内額の説明文転記)売茶翁は「他人からの布施をこのまず、晩年法弟に寺をゆずり、路傍で茶を売った煎茶道の名人」(資料1)という説明もあります。余談ですが、ノーマン・ワデル著『売茶翁の生涯』(思文閣出版)という翻訳本が出版されています。この本の読後印象をもう一つの拙ブログ(遊心逍遙記)でご紹介しています。こちらからお読みいただけるとうれしいです。 売茶堂の正面の扉に見える開口部から堂内を垣間見ますと、賣茶翁月海禅師像が祀ってあります。加納鉄哉作の禅師像です。(資料2) 売茶堂の北西方向、一段低い位置にこの建物が見えます。入口の上部に「喫茶去(きっさこ)」の扁額が掲げてあります。たぶん、ここが「有聲軒」の玄関なのでしょう。売茶堂から北方向に戻り、窟門傍からさらに北にゆるやかな傾斜地を下って行くと、 「茶具塚」と刻された供養碑が曲がり角に建立されています。 この庭の樹木の先に見えるのは「文華殿」です。庭の左側に見える建物が、上掲の玄関に続く建物「有聲軒」ということでしょう。「有聲軒は煎茶席、庭園は太湖石芭蕉梧桐竹を配した煎茶趣味の庭園です。 社団法人全日本煎茶道連盟の本部がここにおかれています」(同説明文後半を転記)さて、「喫茶去」についての余談です。この語句に使われている去は助字で「去る」という意味はないそうです。「喫茶去」は「お茶を一服おあがり」ということを述べているフレーズなのです。ところが、この「喫茶去」というのが禅では大問題なのだとか。「趙州(じょうしゅう)喫茶去」の公案と言い、禅では有名な公案だそうです。趙州禅師は、たずねてきた僧がかつて来たことのある僧にも、初めてきた僧にも、まず「曽(か)つて此間(すかん)に到るや」と質問し、僧が返答すると、どちらの僧にも「喫茶去」と言われたのです。この両方の様子を見ていた院主が変に思い禅師に質問したところ、禅師はこの院主にも「喫茶去」と言ったとか・・・・。趙州禅師はなぜ三人に一様に「喫茶去」といわれたのか? これが公案の眼目なのだそうです。千利休は、趙州喫茶去の境地こそ茶の真精神であるという主旨のことを語っていると言います。(資料3)元に戻ります。 天王殿から南進した回廊の真っ直ぐ先にあるのが、「聯燈堂」です。燈は灯の旧字。 ここも正面の柱、堂内の柱の双方に聯が掛けてあります。残念ながら、これらの聯と堂内の扁額についての資料がなく、私には判読できません。不詳です。現在の建物は昭和47年(1972)の再建だとか。「本尊は釈迦牟尼佛。千手観音像、室田夫人観音像を祀っています。過去七佛より西天東土の歴代祖師、黄檗宗流下の法を継ぐ僧侶を祀り・・・・・・近世においては、黄檗宗の流れを受け継いだ末寺の和尚や檀信徒篤志者も過去帳に記載して一切有縁の方々を祀るようになりました。」(資料2)ちょっと関心を抱いたのは、堂内天井の装飾画と、 降棟の鬼瓦(般若とは珍しい・・・・)および建物正面の桁の上の束の造形です。 天王殿から南進してきた回廊から左折し東に延びる回廊の角で、この木札が順路を示す役割を果たしています。魚梆の絵です。この先にこれがありますよという案内表示でもあります。 聯灯堂からでは、右折して東方向への回廊を歩みます。この回廊も重要文化財です。柱にその旨の木札が掲げてあります。回廊には、「京都最古 都七福神 毘沙門天 東寺」の幟が立ててあります。ここ萬福寺の布袋尊はこの「都七福神」の一つに入っています。「古来より民衆の間で信仰の篤い七福神は京都が発祥の地とされ、『都七福神』の巡拝は古くから行われているものです」(資料4)ということをこの探訪で知った次第です。毎月7日は都七福神のご縁日とされています。(資料4) 最初の建物には「鐘楼」の木札が掲げてあります。 この部屋は自由写経のために開放されているようです。回廊から眺めていた時は、部屋の奥に置かれているものは何か判然としませんでした。後日、写真を見て、仏像が安置されていることがわかりました。 聯灯堂側から見れば、この建物が二階建てとわかります。上層に梵鐘が吊されているのでしょう。長崎の元奉行だった黒川与兵衛が寄進し、寬文8年(1668)に建立された入母屋造、本瓦葺の建物です。梵鐘は戦後に再鋳されたものと言います。 棟には総門と同様の摩伽羅(まから)と鬼瓦が見えます。 鬼瓦と軒丸瓦。軒丸瓦の瓦当面には「萬福禅寺」の文字が陽刻されています。 鐘楼の北東側から回廊を眺めた景色回廊の柱に耐震補強がされているのが目にとまりました。 巡照版朝夕打たれ続けているためでしょう「無常迅速 各宜覚醒」の文字がかなり消滅しています。 鐘楼の東側の空間から南東方向に見える建物の屋根「萬福寺 七堂伽藍」図を参照すると、「典座(てんぞ)」と称される建物のようです。(資料5)典座は「禅宗寺院で、僧侶の食事を司る役職」(日本語大辞典・講談社)という意味ですので、食事の準備、食事等に関わる建物なのでしょう。 さて、回廊を先に進みましょう。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p146-1482)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子3)『茶席の禅語(上)』 西部文浄著 タチバナ教養文庫 p136-1404) 日本最古 都七福神まいり ホームページ5) 境内の建造物と文化財 :「萬福寺」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページキハダ(植物) :ウィキペディアすぐわかる生薬 おうばく(黄柏) :「漢方薬師堂」喫茶去 今日の言葉 :「臨済宗 円覚寺派大本山 円覚寺」喫茶去 <五灯会元> 今月の禅語 :「安延山 承福禅寺」[禅語] 喫茶去の意味・解釈ー原典ノエピソードから解説 :「mame-sadou.com」 典座 :ウィキペディア宇治市の朱印:黄檗山 萬福寺 :「家紋研究家が行く!京都御朱印巡り」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.11
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天王殿(重文)は萬福寺の玄関にあたる位置づけで、中国では一般的な建て方ということは前回ふれました。五間三面、単層、屋根は入母屋造り、本瓦葺きのお堂で、寬文8年(1668)に建立されました。正面の石段を上り、右に右折して堂内に入ります。萬福寺でありがたいことは、境内も堂内もオープンに写真を撮れることです。お陰で私なりの細見状況をちょとマニアックかもしれませんが、できるだけ具体的にご紹介できることです。ご興味があればお付き合いください。 入口側から眺めた景色 堂内の中央、正面に「ほていさん」が鎮座されています。ひらかなで書いてあるのがいいですね。親しみがわきます。 布袋は弥勒菩薩の化身といわれているそうで、萬福寺では弥勒仏とされています。前回、順路表示の上の額の内容は次回にと記しました。この説明額の内容に触れておきしょう。冒頭に「正面は弥勒菩薩釈迦滅後五十六億七千万年後この世に現れ釈迦の救済にもれた一切衆生を救うという使命をおひて待機している菩薩です布袋和尚は弥勒菩薩の化身であると申します」(転記)と句読点無しの説明文です。布袋は名を契此(けいし)と称し、中国・南北朝末後梁の高僧で、定応大師と号した人だそうです。范道生が隠元禅師の命を受け、寬文3年(1663)11月末に造立し、松隠堂に安置された後、天王殿の建立に際し移されたと考えられているようです。像高110.3cm。(資料1)契此はいつも大きな袋を担ぎ国中を行脚し、貧しい人々に救いの手を差し伸べ、大きな袋の中から必要な物を与えたと言います。また救われた人々からいただいた布施を袋に入れて旅を続けたとか。いつしか人々は契此を「布袋」さんと呼ぶようになったそうです。布袋さんは七福神の一人に数えられます。唯一、実在した人物といわれています。(資料2) 重複しますが、『岩波仏教辞典』(第二版)の「布袋」を引用しておきましょう。「中国、唐末、五代後梁に実在した禅僧。明州奉化[浙江省]の人。名は契此(けいし)、号を長汀子(ちょうていし)という。福々しい面相で、巨腹をもち、布の袋を背負って旅をする修行僧として知られ、大きな袋にはさまざまな財貨が入っていて、布袋の行くところ幸運がもたらされるという信仰も生じた。弥勒の化身ともされ、中国の寺院ではその像が入口に安置される。日本には室町時代、禅画の渡来とともに受容され、七福神の一つとして民間に広まった。」 南側からの眺め 北側からのながめ 弥勒菩薩(布袋)坐像の背面に巡ってみますと厨子があります。 「韋駄天立像」が伽藍守護神として安置され、天王殿の東側に位置する「大雄宝殿」を見守っています。三十二将軍神の筆頭に置かれる護法善神です。(資料1) 非情に早く走ることを「韋駄天走り」と称します。韋駄天は「仏舎利を奪って逃げた鬼を追いかけて捕らえ、また、僧の急難を走って行って救ったと言われる神」(『新明解国語辞典』三省堂)です。「ご馳走」という言葉は「韋駄天の俊足をもって各地より食物を集めるということに由来します。」(資料1)この像は、康煕43年(1704)頃、清で造立されたものを請来したもの。木像。像高200.0cm。ほていさんとともに、范道生が韋駄天像を造立していて、その像は現在文華殿に蔵されているそうです。(資料1)(冒頭で触れた説明額には、「菩薩の背後には范道生の作にによる韋駄天を配す」という説明のままで、時が止まっています。ご注意を。)上掲の写真に写っていますが、南北の壁面際に四天王像が安置されています。四天王は『金光明経』四天王品などに説かれる仏土守護の神像で、東西南北の方位に配置されます。(資料2)奈良の法隆寺金堂の四天王像、並びに東大寺・戒壇院の四天王像が特に良く知られていると思います。これらと対比してその造形表現の違いをご覧いただくと、一層興味深いと思います。北面から巡ってみます。 向かって右(東)に多聞天(北)、左(西)に広目天が安置されています。 多聞天立像(北) 多聞天は単独で毘沙門天としても信仰の対象になっている天部の仏像です。少し、マニアックにこの立像の部分を眺めてみましょう。 この多聞天は左手で宝塔を捧げています。法隆寺と戒壇院の多聞天は右手に宝塔を捧げています。 右手の槍は背面に回して斜めに槍先を上げる形で握っています。槍先は三叉になっています。法隆寺の多聞天は左手に槍を直立させて握っています。戒壇院の多聞天は左手には巻物を持っています。 この腰のベルト辺りの造形は、三者三様の表現です。 この多聞天は台座の上に立っています。法隆寺と戒壇院の多聞天は共に足下に邪鬼が居て、その上に立っています。しかし、邪鬼の向きや造形は全く異なっています。勿論、これは事後に手許の本に掲載の写真やネット情報で対比してみたものです。四天王像だけでも興味深くておもしろい。他の三像も同様に対比的に眺めてみるとおもしろいですよ。 広目天立像(西) それでは入口に近い南側の壁面に移ります。こちらは、向かって右(西)に、増長天(南)、左(西)に持国天(東)が安置されています。 増長天立像(南) 持国天立像(東)これら四天王立像は、伊勢の福島信士などの喜捨により、延宝2年(1674)に造立された木像です。像高は各223.0cm。「着衣・甲冑に施された装飾的文様など明代彫刻を忠実に踏襲していますが、下半身が詰まり、衣の裾を重厚に強調しているなどから日本人仏師の手になるものと推察されます」(資料1)とのことです。四天王像について、冒頭に記した説明額には、「護国安眠の守護神」と説明されています。 天王殿の方柱はチーク材が使われているそうです。堂内の中央部になぜか2本だけ円柱があります。なぜ、円柱なのか? これが黄檗の七不思議の一つといわれているそうです。円柱の礎盤は、三門と同様に太鼓形の礎盤が用いられています。方柱の方はご覧のように礎盤の形が立方体が使われています。 天王殿の背面、つまり建物の東側面は韋駄天立像が大雄宝殿に対面している方です。こちらには、即非の書による「遺徳荘厳」の扁額が掲げられています。そして、第6代千呆禅師の書による聯が掛けてあります。右側(北)には「首冠兜鍪感応三洲功不宰」、左側(南)には「臂横宝杵護持正法徳難磨」と記されています。(資料4,5)説明額には、額と聯が誰の書によるものかという点の説明が最後に記されています。説明文の左下、末尾の一文をご紹介しておきます。「即非禅師は木庵と共に隠元禅師の高弟で世に隠木即と称せられています。」(転記)調べてみますと、「隠木即」は「いんもくそく」と読み、「隠元・木庵・即非を<黄檗の三筆>、また<隠木即(いんもくそく)>と呼ぶ」(資料6)とのことです。なるほどです。序でに、前回、購入した小冊子に即非禅師が福岡の福聚寺住持と記していました。ネット検索で調べてみますと、勿論黄檗宗のお寺で現存します。福聚寺は寬文5年(1665)小倉小笠原の初代藩主が菩提寺として創建し、開山が中国僧の即非如一禅師だそうです。(資料7)広壽山福聚寺は「九州四十九院薬師巡礼」の第6番札所でもあるそうです。(資料8)玄関である天王殿から、回廊を反時計回りに巡ります。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2) 布袋さまのお話 :「萬福寺」3)『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p54-554)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1105) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」6) 隠木即 :「コトバンク」7) 【県指定】広寿山福聚寺 :「北九州市」8) 広壽山福聚寺 :「九州四十九院薬師巡礼」(九州四十九院薬師霊場公式サイト)補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ四天王像 :「法隆寺」美を語る「薬師如来坐像」「四天王立像 広目天・多聞天」:「Japan Art & Culture」四天王像 四軀 国宝木造 彩色・切金 :「新美術情報2017」四天王像-天平に息づく守護神たち :「うましうるわし奈良」戒壇堂 四天王立像 :「なら・観光ボランティアガイドの会」九州四十九院薬師霊場公式サイト福聚寺 (北九州市) :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.10
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三門を潜りつつその周辺を眺めることから始めます。三門には円柱が用いられています。正面の中央戸口の外柱(控柱)に聯が掛けてあります。右側には「祖席繁興天広大」、左側には「門庭顕煥日精華」と記され、第2代木庵の書だそうです。(資料1,2) 三間三戸の門ですので、本柱が4本で柱間3間、前後に4本ずつの控柱があり八脚門です。下層の天井、梁並びに柱周辺に飾りはなく、質朴そのもの。中央の戸口両側の柱には、隠元禅師の書による聯が掛けてあります。右側には「地闢千秋日月山川同慶声」、左側には「門開万福人天龍象任登臨」と記されています。(資料1,2) 三門にも「萬福寺全景」図が右側に設置されています。 三門の左右にある「山廊」。上層に上る階段とその覆いとなる建物を内側から撮りました。 山廊周辺の鬼瓦 内側の中央には、第6代千呆(せんがい)の書による「栴檀林」の扁額が掲げてあります。たとえば白檀は栴檀の一種。堅くて芳香もつ心材が仏像彫刻の材に使われています。「栴檀林」の略が「檀林」です。「栴檀は香木で、徳のある仏や仏弟子の住所が栴檀の林のようであるという意味から寺院のことをいい、転じて僧徒を教育する機関を指すようになった。」(『岩波仏教辞典 第二版』)<檀林>の名称は近世になって一般化したそうです。この意味で使われているのでしょう。 こちら側にも聯が掛けてあります。こちらの聯も第6代千呆の書だそうです。右側には「大道没遮欄進歩真登兜率殿」、左側には「法門無内外飜身投入栴檀林」と記されています。(資料1,2) 三門の円柱には、太鼓形の「礎盤」が用いられています。ここにも中国風の特徴が見られます。この迹に続く諸建物の礎盤にも注目してみてください。 三門に設置された拝観受付所の背後(南側)にこんな休憩コーナーがあります。大木の幹を輪切りにしたものにご注目! 巨大な老木があったのでしょうね。 三門からは東に一直線に参道が延びています。正面の建物が「天王殿」です。 三門から少し境内の南東側に進み、南側の地点から北を眺めた景色参道を進むと、 途中、左の北方向に「開山堂」の「通玄門」が見えます。 逆に、右の南方向に目を転じれば、中国風白亜の門が見え、その南西側に「文華殿」が見えます。これらの後に巡ります。 先に歩むと、左に石柵で囲われた大樹があります。柵内の南西隅に「開山大師帯来菩提樹」と刻された石標が立っています。左には駒札が立ち、「宇治市名木百選 ぼだいじゅ」で、「しなのき科 樹高 12m、幹周 0.6m」。昭和57年(1982)3月に宇治市名木百選選定委員会が認定と記されています。 菩提樹の東には、「鎮守社」が祀ってあります。「八幡宮祠堂」(重文)です。寬文7年(1667)建立。一間社流造で、祭神は八幡大菩薩。「寬文4年に放生池を開鑿する資金を喜捨した原田佐右衞門が、天王殿と伽藍建設に先立って、境内守護と法門隆盛を祈願して寄進、建立」(資料3)と言います。 天王殿の手前、北西側で、鎮守社からは東側にこの宝篋印塔が建立されています。基礎に家名が刻されていますので、この位置に建立されているところから推察すれば、たぶん萬福寺の大檀越の一人なのでしょうね。 塔身には四仏がレリーフされています。 基礎を拝見していて、南面に回向文が刻まれているのを見ました。私が知っているのは、浄土宗の総回向偈「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」です。(資料4)既知の回向文と異なり、また判読できかねた文字があるので、ネット検索で調べてみますと、「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」と刻されているようです。(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)「法華経‐化成喩品」にある梵天王の願文が典拠となった回向文とわかりました。また、私が知っているのは善導の「観経四帖疏‐玄義分」が典拠とわかり、一つの副産物となった次第です。(資料5) 参道を挟み、「天王殿」前の南側にはこれがあります。 蓮華を象った大きなブロンズ製の水瓶が置かれています。 その南側には長方形の池があります。 正面に「天王殿」の扁額が掲げてあります。第2代木庵の書によるものです。この建物(重文)はこの寺の玄関という位置づけだそうです。中国では一般的な建て方だとか。正月だからでしょうか、総門と同じ形式の幡ですが、こちらには「金運来福」と記されています。ストレートで中国的というべきか・・・・・・。思えば、伏見の稲荷大社も、えびす神社もまあ大方の祈願は同様と言えるでしょうね。 正面の両側の柱に、即非の書による聯が掛けてあります。即非は福州出身で福岡の福聚寺の住持だったそうです。準世代に位置づけられている禅僧のようです。(資料3)右側には「福地鍾霊特感四王護国」、左側には「慈門現瑞大欽三舍度人」と記されています。手許の本(資料1)は、なぜかここだけ聯ではなく額と表記しています。(資料1,2)一旦、石段を降りて、 右側に立つ石標他に触れておきます。1つは、天王殿の基壇が二段になっていることがまずわかります。2つめは、基壇上の回廊に設けられた勾欄(こうらん)です。X型の組子を入れた勾欄の形式です。これは、日本では見かけない得意な「襷(たすき)勾欄」が使われています。チベット・中国で使用されているデザインがここに取り入れられているそうです。大阪の八兵衛信士による寄進だとか。(資料3)3つめが、この石標(誌碑)です。次回にご紹介する天王殿内に祀ってある弥勒仏像と韋駄天像についてです。天王殿に祀られているこれら仏像が年久しく破損した状況にあったようで、それを昭和時代に大阪華僑の梁兆如大善士が資金を寄進し修理を助けたとのこと。それを顕彰した石標です。萬福寺には華僑の人々の墓地があります。このお寺と華僑の人々との繋がりの一端がここにもうかがえます。 天王殿前から北方向への回廊を眺めた景色 石段を上がってから、天王殿に入るには右折する順路になります。順路表示の上には、この案内文の額が掛けてあります。次回の内部のご紹介の折に触れたいと思います。つづく参照資料1)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1102) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」3)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子4)『お経 浄土宗』 藤井正雄 講談社 p1525) 願以此功徳 :「コトバンク」補遺回向文。漢字の棒読みと日本語読み、どっちが心地いい?。:「お気楽、お四国巡り」東福寺 三門 :「京都観光Navi」 山廊がよくわかる画像の事例です。大徳寺の山門(三門) :「京都観光Navi」 こちらも同様です。宝篋印塔 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.09
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総門を潜り、境内に踏み入ると中央に正方形の板石を四半敷(菱形)に一直線に敷き連ね、左右の砂地を長方形の石條で挟んだ形式の参道が真っ直ぐに東に延びています。これは龍の背の鱗をモチーフ化したものと言います。この形式の参道が、萬福寺の境内を縦横に走っています。「中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上に立てるのは住持のみです。」(資料1) これは拝観の受付所でいただいた「拝観のしおり」です。後ほどご紹介する三門を背景にした景色が撮られています。参道の中央をあけて両側に禅僧が並んでいるのは何でだろうという疑問が解けました。参道の正面は築地塀に突き当たります。これは「影壁(えいへき)」と呼ばれる魔除けの壁だそうです。 総門からまっしぐらに突進してきた邪鬼はこの影壁に激突し退散するようにということだとか。智慧のある者は手前で右折することを知り三門に至ることができる仕掛けです。(資料1) 右側には「看門寮」と称する建物が見えます。門衛詰所ということでしょうか。 総門を振り返った景色 よく見ますと、「第一羲」の額が掲げられていた位置の裏側、中央上部の内側には漆喰壁の中に円相が型どられています。これは風水的モチーフの一つ「白虎鏡」だそうです。(資料1) 看門寮の西側、総門を入ってすぐ右側の参道を進んでみました。 看門寮の南西隅近くでまず石碑が目に止まり、その背後に大きな池が広がっています。「放生池」です。右上の「水廊」という文字は読めますが中央の文字列は「山□放光」でしょうか。二字目が私には判読できません。残念。「放生」は捕らえられた生き物を放してして功徳を積むという、仏教の不殺生の思想を意味します。この池で放生会が行われます。放生会は「通常、陰暦の八月十五日に行われる」(『日本語大辞典』講談社)儀式です。 放生池の東側に三門が見えます。 探訪の時は意識していなかったのですが、この池の形は半月型だそうです。風水上の機能を有しているか。(資料1)そういわれれば・・・・。撮っていた写真で少しその形に近づけました。池の南辺からも三門の方に巡ることができるようですが、池の西側を眺めて総門側の参道を歩むことにしました。 総門前の道路に面した築地塀と放生池の間は小川が流れる空間に作庭されているようです。放生池と一体となった広い庭園空間になっています。 看門寮の東側に「萬福寺全景図」が掲示されています。 参道の左側は途中から築地塀となり、上記「影壁」の少し手前に石段が見え、奥まったところに入口があります。この建物は不詳。その手前、築地塀の向こう側に竹林が見えます。「隠元やぶ」と呼ばれています。隠元禅師が請来され植えられた孟宗竹の薮だそうです。 影壁の側から総門を眺めた景色 猛進する邪鬼ではありませんので、直角に曲がる参道に沿って右折します。左の石條が直角に曲がっているところで左折すれば三門です。 影壁は直角に東に折れ込んで三門の北側(左側)の築地塀とで、この空間を作っています。 「白雲関」と名付けられた開いた「窟門(くつもん)」があります。明和5年(1788)に設けられたそうです。通り口です。ここの聯も第5代高泉の書です。(資料1) 菊舍尼という山口出身の俳人が寛政2年(1790)に参拝した時に詠んだ句が「菊舍句碑」として建立されています。大正11年(1922)。 参道の西側は、放生池です。 放生池東辺からの景色 三間三戸。重層の楼門造り。左右に山廊が設けられています。 三門(重文)大棟の中央には火焔付宝珠が置かれています。この三門は、延宝6年(1678)横田道補信士による建立だそうです。 上層階の正面には「黄檗山」の扁額が掲げられ、 下層中央の門戸の上部には「萬福寺」の扁額が掲げてあります。これらは共に隠元禅師の書だそうです。 三門の右側手前には、「禁牌石(きんぱいせき)」が建てられています。(資料1)「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」薫とは臭気のある野菜、たとえば、ニラです。そして酒。仏道修行の邪魔になる代表例と考えられていたのでしょう。禅寺の山門を潜るにあたり、修行者としての自覚、自省を促す典型的な例示。禁止事項を掲げるのは、逆に破る修行者も居た・・・・ということかも。 三門にむかって右側には「通霄路(つうしょうろ)」と名付けられた窟門があります。こちらの聯も第5代高泉の書だそうです。「三門」について、その意味を再確認してみました。(資料2)三門は「禅宗寺院の仏殿の前にある門。”南都六宗寺院”の中門にあたる。三門は、空・無相・無願の<三解脱門>を象徴するといわれる。これは、仏殿を”解脱”・”涅槃”にたとえ、そこに到達するために通らなければならない門である三解脱門にたとえたものである。」(資料2)三門は寺院の山号にならって、山門とも書かれます。山門と書く方が多いかもしれません。山門は「寺院の正式な門の呼称として一般に広く用いられている。」(資料2)それでは、三門を眺めて、三門に設けられた拝観受付所を経由して、先に進みます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ放生池 :「コトバンク」放生会 :ウィキペディア黄檗宗大本山萬福寺 蛍放生会・夜間拝観 :「京都イベントなび」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.08
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5日、久々に地元宇治市の黄檗に所在する「黄檗宗大本山萬福寺」を訪れてきました。日本三禅宗の一つ。あとの2つは臨済宗と曹洞宗です。 門前及び道路を挟んで西側の広場にこの幟が掲げてあります。宇治市の東宇治図書館に向かう坂道の東側から萬福寺の塔頭があり、萬福寺周辺には昨年から幾つもの幟が立てられています。今年、令和4年(2022)4月3日が、宗祖隠元禅師350年大遠諱にあたるのです。たぶん、春になると多くの参拝客が訪れることでしょう。正月三が日を外して訪れたので、境内は静かなもの。参拝客を時折見かける程度でした。久々に静謐さの中で拝観できました。静かに眺め得た萬福寺を細見風にご紹介したいと思います。 門前の道路から少し奥まった位置に「総門」が見えます。現在の門は元禄6年(1693)に再建されました。中央の屋根が一段高く、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式だそうで、漢門と呼ばれたとか。(資料1) 総門の右斜め前には、この「由緒」が掲示されています。栄西が47歳より5年間二度目の入宋より帰朝して、臨済宗を広め始めたのが鎌倉時代の1191年。道元が入宋から帰国し、曹洞宗を広め始めたのが鎌倉時代の1227年です。それに対して、長崎の興福寺の僧逸然性融(いつねんしょうゆう)に請われて決意し、明僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)が長崎に渡来したのが江戸時代(第4代将軍家綱期)、1654年です。隠元禅師63歳の時に弟子20人他を伴って来られたと言います。将軍家綱より1659年に宇治大和田に約9万坪の地を賜り、寬文元年(1661)に禅寺が創建されます。隠元禅師は、中国明時代末期に臨済宗の法統を受け継ぎ、臨済正伝32世となり、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持でした。そこで、この地に創建された寺を黄檗山萬福寺と名付けられました。それ故、中国の方は「古黄檗」と呼ばれるそうです。(由緒、資料1,2) 総門に張られた幕に葵の紋が描かれている意味が納得できます。 総門の正面には、第5代高泉和尚の書「第一羲」の扁額が掲げてあります。(資料1) お正月だからでしょうか、門の頭貫には「天・開・泰・運」の四文字の幡が吊り下げてあります。横書きとして素直に読めば「天開泰運」。「泰運」が「安らかなる気運。泰平の気運」(デジタル大辞泉/小学館)を意味するので、天は安らかな気運を開くという意味で受けとめれば良いのでしょう。新しい年への祈念、寿ぎですね。 総門の左右の柱には、高泉和尚筆の聯(れん)が掲げてあります。(資料3,4)左には「聖主賢臣悉仰尊」、右には「宗□済道重恢廊」(第二字不詳)と。「聯」は柱や壁などの左右に相対して掛けられた書の板のことです。この本山萬福寺には聯44対、額40面(重要文化財)が掛けてあるそうです。(資料1)屋根に目を転じましょう。 屋根の棟の両端には、「摩加羅(まから)」が置かれています。摩加羅はガンジス河に生息するワニをさす言葉だそうで、ガンジス河の女神の乗り物だと言います。(資料1) 低い屋根の棟の鬼瓦 こちらは高い屋根の方ですが、鬼瓦の鬼の部分が鬼ではありません。おもしろい造形です。余所のお寺で見た記憶がありません。 総門前の道路を挟んで西側の広場周辺を眺めておきましょう。まず最初に、 南北方向の離れた位置に2つの井戸「龍目井」があります。右(北側)の井戸の背後に案内板「龍目井」が掲示されています。「この井戸は寬文元年冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、萬福寺を龍に譬へ、これを龍目となし、天下の龍衆、善知識が挙って此處に集まらんことを念願されたもの 禅師曰く『山ニ宗あり水に源あり龍に目あり古に輝き今に勝る』」(転記) 左右の龍目井の中間あたりの更に西側にこの大きな木が茂り、木の向こう側に立石があります。お寺の売店で購入した小冊子には、「龍目井は龍の眼を、周辺の小川は口を、松は口ひげを表しています」(資料1)という説明があります。この木と並びその南側には松の木がありますので、これらが龍の口ひげに照応しているということでしょう。 また、周辺に不規則に少し大きめの石が散在しています。これらもまた、龍の顔の一部を表象させているのかも・・・・・。ここには想像力を広げた見立ての次元が広がっています。この広場空間には他にもいくつかのものを目にすることができます。 この広場の北東隅には、現代風の道標が建ててあります。 切り出した地図を拡大したものがこれです。右方向が北になる地図です。西へ行けば、JR奈良線黄檗駅と京阪電車宇治線黄檗駅。門前の道を北に少し歩めば「宝蔵院」、逆に南に進めば「蔵林寺」と表示されています。 向かって右側(北)の龍目井から南西方向に地蔵堂があります。格子戸から拝見すると、お地蔵さまはきれいに彩色されていました。 地蔵堂の南西方向、広場の西端にこの一画が見えます。手前に「宇治市の史跡紹介 駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)」の掲示があります。 左側に「駒蹄影園趾」と刻された石標が建てられ、右側には「駒蹄影園記」と上部に横書きし、下に銘文を刻んだ顕彰碑が見えます。「鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵上人が馬を畑に乗り入れ、その蹄の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています。この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです。」(宇治市の史跡紹介文を転記)黄檗山萬福寺が創建される前のこの辺り、宇治郡大和田村には茶園が広がっていたということでしょうか。 中央に明恵上人の歌碑が建立されています。碑文の歌の文字は異なりますが、上掲紹介文に歌も掲載されています。 栂尾の尾上の茶の木分け植えて 迹(あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影 明恵 広場の南西端には、築地塀の門に「白雲庵」の扁額が掲げてあります。隠元禅師が草庵に与えられた筆蹟だそうです。白雲庵は元大本山萬福寺の塔頭の一つで、自悦禅師の開山だそうですが、現在は普茶料理(精進料理)の老舗になっています。(資料5)門前には、赤枠の白地に普茶と墨書された旗が風に揺らめいています。ちょっと風情を感じます。敷地には酒樽で作られた茶室があり、現在は「自悦堂」として自悦禅師木像を安置して祀ってあるそうです。(資料5) 門前から庭を眺めると目の前に七重の石塔が見えます。塔頭だったという雰囲気は残っています。 石塔の軸部には僧像がレリーフされています。 この広場でもう一つ目に止まったのが、この観光案内板です。こちらには「黄檗山萬福寺」について説明すると共に、道標を兼ねた表示があります。併せて地図が掲示されています。それでは、総門を通り、萬福寺の境内に入りましょう。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子 2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木 編集 岩波書店3)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1104) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 白雲菴 ホームページ補遺隠元隆琦 :ウィキペディア隠元 :「コトバンク」萬福寺 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式サイト)万福寺(福清市) :ウィキペディア福清市漁渓鎮 黄檗宗 黄檗山万福寺 :「4travel.jp」中国福建省の福清萬福寺から長崎の興福寺へ梵鐘が寄贈されました。:「長崎県」東明山興福寺 :「東明山興福寺」明恵上人 :「栂尾山高山寺」第二話 お茶の伝来と拡がり :「綾鷹物語」普茶料理 :「黄檗宗大本山 萬福寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -10 法堂・東西の方丈・慈光堂・禅堂ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.07
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