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京都の四条大橋東詰で、四条通の南側には南座があります。南座に前進座公演の観劇に出かけた際、開演前に少し川端沿いを散策しました。先日、「七条から三条へ 寺と地蔵尊と町並ウォッチング」という探訪記をご紹介しました。その補足という位置づけにもなります。上掲の探訪記をまとめるにあたって地図を参照していて、改めて鴨川、川端通と琵琶湖疏水の位置関係に気づきました。冷泉通の北側沿いに西に流れてきた琵琶湖疏水は、鴨川のところで南に向きを変えて川端通の西側を南方向に流れます。鴨川と並行する形で流れるのですが、御池通に架かる御池大橋の少し先で、琵琶湖疏水は暗渠化します。御池通の先、三条・四条を経て、鴨川に架かる「団栗橋」に先までは疏水は地下に潜っています。そして、団栗橋の南から、川端通の東側に位置を変えて南に流れる形に変わります。松原通までは琵琶湖疏水が地表面を流れています。そして、疏水沿いの東側に道路が南に並行しているのです。通りに沿って、北から南に宮川筋1丁目~同5丁目が隣り合っています。この通りの一筋東側が、「宮川町通」です。こちらの通りは上記探訪記でご紹介しています。四条大橋から南側の川端を歩く事がなかったので、位置関係などを意識していませんでした。この点を現地確認してみたかったのです。冒頭の景色は南座の建物の西面で、川端通に面しています。南座西側出入口の階段南側に駒札と碑が立っています。「阿国歌舞伎発祥地」記念碑 慶長8年(1603)この辺りの鴨河原で出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露したと言います。歌舞伎発祥350年記念として、昭和28年(1953)11月吉例顔見世興行前に、この記念碑が建立されたそうです。(駒札より)さらに66年の歳月を経て、2020年を迎えていることになりますね。 川端通を挟み、西側には鴨川端に小径が遊歩道として設けてあります。この小径の東側は琵琶湖疏水が暗渠になっていて見えません。まずはこの遊歩道を団栗橋まで南に向かいます。 鴨川の西岸には、北側に「東華菜館」、南側に「ちもと」が見えます。老舗のお店が川端沿いに軒を連ねています。 (資料1)これは『都名所図会』に載る「四条河原夕涼」の模様を西側から眺めた挿絵です。左ページには鴨川の東側と河原の間にだけ橋が架けられています。東側には通りを挟んで、北側に2箇所、南側に1箇所、「芝居」という文字目にとまります。南側は「南座」で、北側に「北座」があった状況を描いています。右ページに目を転じると、一番右に「宮川町」、その斜め左上に「どんくりの辻」と記されています。右ページの右下角に「西石垣」と記されています。その左斜め上に、東側の流れに架けられた橋が描かれています。つまり、当時は四条通には、鴨川の全幅に架かる大橋はなかったことがわかります。四条河原での夕涼のこの風景は、旧暦の6月7日から始まり同18日に終わるという期間限定の一大イベントだったようです。その状況をかなり詳しく説明しています。これは天明6年(1786)に、安永9年刊の再板として出版された『都名所図会』に掲載されていて、安永9年刊の初版には載っていません。(資料1,2)では、四条大橋が架けられたのは何時か? 『花洛名勝図会』に挿絵が載っています。 安政4年(1857)に加茂川(鴨川)御浚が行われ、この時に四条橋が架けられたと記されています。長さ50間巾3間の石柱板橋で、高欄つき石柱が42本とその規模が説明されています。(資料3) 南に歩き始めて、小径の左側に目に止まったのがこの駒札です。 上掲探訪記に「宮川」の名の由来に触れています。この駒札が立てられていることを、今回の散策で初めて知りました。駒札の最後に、「なお、四条大橋から松原橋(旧五条大橋)までの間を、古くから特に『宮川』と呼ぶがこの『宮』とは祇園社(八坂神社)のことを指し、神輿を洗い清めたることに由来するとも伝わる。」と記されています。 四条大橋から小径を200mほど南に歩いた団栗橋のところで、一筋東側の道路の歩道をさらに南に歩みます。そして目に止まったのがこの地蔵尊の小祠です。小祠の前に立ち寄り、格子戸の内部を眺めてみましたがよく見えませんでした。 これは小祠の傍から、地表に現れた琵琶湖疏水を北方向に眺めた景色です。左側が川端通で、右側が疏水端の道路と歩道です。その左つまり東側が宮川町です。 疏水の上に設けられた地蔵尊の小祠を祀る一画で目に止まったのが擬宝珠のついた欄干の柱と石橋に使われていたのかと思われる丸い石柱です。疏水に架けられていた石橋の残欠なのでしょう。擬宝珠の下に「疏水」と刻されています。脇道にそれます。鴨川と琵琶湖疏水の間、かつての鴨川堤上が線路となっていて、京阪電車が地上走行をしていました。上記の場所より更に南に歩めば、松原橋です。その南を地上走行する1975年頃の写真が公開されているのを見つけました。こちらからご覧ください。ページの一番下の囲み記事に掲載されています。(「じつは京阪電車の田邉朔郎にお世話になりました」[京阪電車])もう一つ、「団栗橋」について。江戸中期、宝永6年(1709)の京大絵図にはこの橋が記されているそうです。その名は橋のたもとに大きな団栗の木があったことに由来すると言われています。上掲の挿絵に「どんくりの辻」とあるのは「団栗の辻子(づし、図子)」にあたるようです。辻子は次の通りまで通り抜けられるようにつけられた道をさします。その名称はたぶん団栗橋に近いという位置からつけられたのでしょう。(資料4)京都では、天明8年(1788)正月30日に起きた火災(天明の大火)が歴史上最大の火災と言われています。この団栗辻子の民家からの早朝の出火が原因で、東からの強風の影響で鴨川を越えて西、南北に拡大していき、二昼夜燃え続けたそうです。そこで、「団栗焼け」とも称されるとか。(資料5,6)元に戻ります。 疏水沿いの道路の反対側を見ますと、「宮川町歌舞練場」への入口です。宮川町通側で撮った景色は既にご紹介しています。疏水端の道路から、歌舞練場へのこのアプローチを進み、宮川町通を再び北上して、 上掲の探訪記の最後に掲載したこの地蔵尊のところに至ります。ここで右折して歩道を少し歩めば南座です。半時間程度の散策でしたが、四条に出ても普段歩く事のない所で幾箇所かのタウン・ウォッチングをでき、地図と現場が繋がりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 『都名所図会』(安永9年版) 竹村俊則校注 角川文庫3) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 団栗橋 :「京都通百科事典」5) 天明の大火 都市史 :「フイールド・ミュージアム京都」6) 団栗辻子(どんぐりのづし) :「京都通百科事典」補遺出雲阿国 :ウィキペディア出雲阿国 :「コトバンク」出雲阿国の墓 :「出雲 観光ガイド」古美術をみる眼2 「歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・ 浮世絵の誕生前夜」:「愛知県共済生活協同組合」京阪三条駅が地上にあった頃、鴨川べりの懐かしい風景:「電車好きな元鉄道員のブログ」 四条駅付近の懐かしい風景も掲載されています。北京料理 東華菜館 ホームページ京料理 ちもと ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.01.23
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これは若冲のネズミの絵です。京都高島屋の7階グランドホールで開催されていた「京都の若冲とゆかりの寺」展は今日20日で終了です。大型PRパネルから年賀状風に切り出してみました。京都四条南座での前進座初春特別公演も18日で終了しています。高島屋と南座は近いので先日、併せて見に出かけてきました。冒頭のネズミの絵をご覧になり、どの絵からの部分に由来するか連想できますでしょうか? 連想できたら貴方はかなり若冲ファンなのかもしれません。答は「鼠婚礼図」(細見美術館蔵)です。元ネタは一幅の紙本墨画です。横長画面の中央部分は空白で、左上隅に婚礼の宴たけなわの鼠たちが三角形の枠中に寄り集まる姿が描かれ、右下に鼠が二匹の鼠の尾を引く姿が描かれているという大胆な構図です。左の二匹の鼠は左上隅の鼠群像からの抽出で、右下のネズミの尾を引っ張る鼠は原画の右下に描かれているものです。この鼠婚礼図は楽しい絵! 展覧会の副題は「いのちの輝き」です。 冒頭の部分図は、会場入口傍に設置されていたPRパネルの部分図です。当日会場で入手した出品作品リストを見ますと、大阪高島屋(2/21~3/8)、日本橋高島屋(3/18~4/6)、横浜高島屋(4/22~5/11)と順次展覧会が開催される予定です。このパネルと同じものが設置されるのかどうか・・・・・。現地でご確認ください。 今回の展覧会PRチラシです。 表面 裏面 入場券の半券伊藤若冲が描いた動物たち、まさにそのいのちが躍動し輝いている姿が切り取られています。チラシの裏面にはそれら動物たちを描いた絵を抽出して紹介されています。 当日購入した図録。30cm×14.5cmという変形サイズ版です。軸物や屏風の作品が多かったので、それらをまとめるには便利な縦長サイズでおもしろい大きさです。 PRチラシからの引用です。これが「鼠婚礼図」(細見美術館蔵)です。子の年に因んでこの図からネズミが抜き出され、冒頭の大きなパネルに使われています。引っ張り出されたネズミがどこにいるか、これで良くおわかりでしょう。何たって、このネズミたちの顔がカワイイ!ド~ンと中央を空白にしてあるのが実にいい!一段高い所はどれほどの大きさで、どれだけネズミが集まっているのか、中央の空間との対比で想像が広がります。図録では、右下の2匹のネズミをクローズアップしています。尾を引っ張られるネズミは盃をしっかり掴んだまま引っ張られるのに任せています。 チラシと入場券に使われている鶏は「雪中雄鶏図」(細見美術館蔵)で、鶏の背後、上部には雪を被った木が大きく描かれています。 チラシ裏面の右上に墨画の鶏が取り上げられています。こちらは「鶏図押絵貼屏風」(細見美術館蔵)六曲一双の左隻第三扇の部分図です。若冲は自邸の庭に鶏を放し飼いにしてその自然な姿を克明に観察して生き生きとした鶏の様々な姿を描き取っています。彩色された鶏は若冲三十代半ばの作品。その羽の描き方に力が漲っている感じを受けます。墨画の方は若冲82歳の作品です。墨の濃淡だけで描き、その羽の描き方は大きく違いますが、躍動感を表現していても、力が漲っているという印象はうけません。「遊鶏図押絵貼屏風」(細見美術館蔵)六曲一双という若冲の弟子の一人、若演の代表作も出展されています。若冲派として鶏を描く様式は踏襲しているようですが、描き方はかなり異なります。共に墨画の屏風作品ですが、対比的に見るとおもしろい。また、若冲40代と推定され、長らく贋作と思われていたが近年の調査で真筆と確認されたという「竹に雄鶏図」(宝蔵寺蔵)も出展されています。他にも若冲の鶏図が展示されていますので、年齢とともに変化する若冲の鶏の描法も楽しめます。 PRチラシ表と入場券半券の右上、図録表紙の上部に取り上げられている虎にも触れておきましょう。「竹虎図」(鹿苑寺蔵)です。虎が右前脚の裏を舐めているというおもしろいポーズの絵です。これは手本とした「虎図」があり、それを若冲が背景を変えて写した作品だそうです。双幅で、右側には海荘顕常の賛が墨書されています。その賛の内容を読み解けて若冲の虎図と併せて鑑賞できればもっと良いのでしょうが、残念ながら・・・・敷居が高いなあ・・・という思いです。虎の顔にはどことなくユーモアがあります。この「竹虎図」と対であると想定されている「芭蕉図」(大光明寺蔵)も並べて展示されています。それぞれ別の寺に所蔵されている作品を鑑賞できるというのも、このような企画展のメリットです。54件の出展数のうち、20件はお寺で所蔵されている若冲の作品。その内16作品が若冲筆の絵です。1件は若冲下絵の「髑髏図」(宝蔵寺蔵)です。会場には若冲ゆかりの寺々の写真と説明のパネル展示もあります。ゆかりの寺名もご紹介しておきましょう。相国寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・大光明寺・萬福寺・天真院・壬生寺・宝蔵寺です。宝蔵寺は伊藤家の菩提寺。他にもゆかりの寺はあります。例えば石峰寺。若冲の五百羅漢石像で有名ですが今回は所蔵の絵も対象にはなっていませんでした。金戒光明寺・信行寺・誓願寺・両足院も若冲作品を所蔵されているそうです。会場入口を入るとすぐに、平木浮世絵財団からの特別出品として、伊藤若冲下絵の「花鳥版画」が6点、展示されていました。この後巡回点では各地で3作品が展示されるようです。また、細見美術館からは若冲作19件、若演作2件の計21件の所蔵作品が出展されています。若冲の菩提寺である宝蔵寺所蔵の若冲派の作品が9件出展されています。若演・伊藤自歳・処冲・意冲・環冲・若拙・若啓という絵師たちの作品です。若冲に憧れ挑んだ絵師たちの痕跡といえます。今年は若冲没後220年にあたるそうです。 そして、鴨川に架かる四条大橋を渡って、南座へ。この写真は観劇を終えて南座正面に出てから撮りました。恒例の前進座初春特別公演です。 今年の演目は、河竹黙阿弥作「人間万事金世中(にんげんばんじかねのよのなか)」です。二幕八場の通し上演でした。チケットを予約購入した時、同封されていたPRチラシですので折り目の線が入っています。チラシを見るまで知らなかったのですが、原作はイギリスの戯曲『money(金)』だそうです。それを、明治12年に、歌舞伎の大作家・河竹黙阿弥が、明治維新後の激変する世相、文明開化の風俗を盛り込み、翻案して作った歌舞伎=散切物といいます。河竹黙阿弥は文化13年(1816)~明治26年(1893)という激変する時代を生きた戯作家です。そのタイトルからそのものズバリ、金が全てと考える強欲な親類縁者とそのまま行けば飼い殺しの居候身分である恵府林之助が引き起こす散切喜劇です。最終的には人情話のオチがつくという笑えるお芝居でした。舞台は横浜。文明開化になり西洋文明の発信地となる横浜で商売をする強欲な伯父・勢左衛門(藤川矢之輔)の許に引き取られた林之助(河原崎國太郎)。両親を亡くし伯父の店に居候の身。下男同様に扱われ、伯父には公然と飼い殺しだという意味のことを言われている。一方で、長崎にも伯父・藤右衛門が居た。その藤右衛門は資産家だったが急逝してしまう。その伯父の遺言により、突然に林之助の莫大な遺産金が転がり込むことに! 強欲な親類縁者は林之助に群がり寄ってくる。林之助が金と無縁の時は糞食らえの態度だった勢左衛門は、林之助が遺産金を手にすると、コロリと手の平を返して、己の娘を林之助の嫁にと押し付けようと・・・・。娘は娘で、林之助の得た遺産金と結婚する気になっている。林之助は遺産金を資金にして、陶磁器点を開店する準備を万端整えたのだが、そこに思わぬ問題が起こる。亡くなった父が、生前米相場に手を出して、莫大な借金を残していたのだ。開店前日に、林之助に転がり込んできた遺産金の噂を聞き付け、借金の取り立てに貸主が突然現れる。林之助は借金返済を第一に考える。親類はそんな借金は返済不要と言い出す。金の亡者が大騒動を繰り広げていくという喜劇である。だが、金の亡者の群がる中に、そうではない人も居た・・・・。林之助は人の心の在り様と人の情けを身に沁みて体験する羽目に。どうなることかと思ったら・・・・おもしろい落とし所が仕掛けてあったという結末に。長崎から遠路もたらされた遺言書を親類縁者が集まった中で、公開する場面のやり取りが実に滑稽です。可笑しさ一杯の喜劇せすが、ホロリとさせる場面も織り込まれた散切喜劇。イギリスの原作はどんなストーリーなのか・・・・・・気になります。久々に新装開場となった南座内部を眺めました。開演前に撮った建物内部の景色をご紹介しておきましょう。 正面の舞台の上部には唐破風が設けてあります。その上の獅子口は至ってシンプル。破風には金色の飾り金具が輝き、兎毛通は蕪懸魚のスタイルです。 折り上げ格子天井の照明 欄間は花狭間窓に。角柱の上部に粽が見えます。木組の間は漆喰壁で塗り込めてあります。 赤い提灯の列が観客席に華やかさを加えています。かつて、四条河原で阿国歌舞伎が演じられた頃は、どんな小屋がけだったのでしょう。また、南座、北座が競って芝居を興行していた時代の建物はどうだったのでしょう・・・・。そんな関心が湧いてきました。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『京都の若冲とゆかりの寺 -いのちの輝き-』 2020 MBS*「没後220年 京都の若冲とゆかりの寺 -いのちの輝き-」展示作品一覧表*PRチラシ ニ種補遺南座 :「松竹」南座の歴史 :「松竹」劇団前進座 ホームページ阿国歌舞伎図 :「京都国立博物館」阿国歌舞伎図屏風 :「Google Aets & Culture」北野社頭阿国歌舞伎図 :「とやまの文化遺産」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.01.20
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稲荷山南側の谷間のお塚と不動明王像のお堂などを訪ねた後、「奥社奉拝所」の境内域に入る石段を上りますと、この「奧ノ院」あたりは参拝客で混雑していました。千本鳥居の帰路ルートを最小限の区間だけ通り、途中から北方向への参道に回避。比較的静かな境内域を少し散策してから、初詣として本殿に向かい、楼門を抜けて、表参道からJR稻荷駅に出ました。ここでは、伏見稲荷大社の境内点描を楼門付近から始める形で、少しご紹介します。伏見稲荷大社の境内マップはこちらからご覧ください。「伏見稲荷大社細見」という形で、以前に拙ブログ記事でご紹介しています。ここではあくまで点描です。併読いだだけるとうれしいです。 現在のこの朱塗りの楼門は、組物が三手先で、入母屋造、檜皮葺です。楼門自体は天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈願して寄進したと言われています。昭和48年(1973)に解体修理された際、垂木に同年号の墨書が発見されています。(資料1、駒札)駒札によれば、楼門の左右(南・北)の廻廊二棟は江戸時代中頃の建立だとか。 楼門に向かって、右側に上下に2つの石碑が建立されています。 こちらは「御鎮座一千二百五十年奉祝大祭記念の碑」です。昭和36年(1961)3月15日~21日の7日間、奉祝の大祭が行われた記念碑です。この時に本殿の修復、内拝殿の新築、史実大年表の編纂などの記念事業が推進されたと刻されています。そして、平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。(資料2)では、始まりは何時なのか? 和銅4年(711)2月初午の日と伝えられていますが、明らかではなさそう。あくまで伝承のようです。しかし最も古い文献として『山城風土記』逸文があります。「風土記に曰はく、伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等(はたのなかつへのいみきら)が遠つ祖(おや)、伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稲梁(いね)を積みて富み裕(きさは)ひき。乃ち、餅を用(も)ちて的(いくは)と為ししかば、白き鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生(お)ひき。遂に社の名と為しき」(資料3)と記されているそうです。これを踏まえて、「秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖秦伊呂具が驕富のあまり、餅を的にして矢を射たところ、餅は一羽の白鳥と化し、山のいただきに飛び去った。その鳥のとどまったところに稲が生えたので、伊奈利(いなり)社と名付け、秦氏が代々禰宜(ねぎ)・祝(ほふり)となって春秋のまつりを行なったのが起こりだとつたえる」(資料1)。伊奈利社を創祀した場所は、稲荷山の「三ケ峰の平らな処」(資料2)だそうです。秦氏の神は三ノ峰の下社に降りた時に始まります。下社が最も崇拝されたようです。つまり、元々の稲荷社は稲荷山の山頂に祀られていました。平安時代に清少納言が『枕草子』に稲荷詣での苦しさを山頂の中社での場面として、第153段「うらやましげなるもの」(別本:うらやましきもの)に記しています。尚、前々回「荷田社」に関連して触れていますが、稲荷山は神の降臨する神南備山でした。伊奈利社が創祀される以前から、神を祀り崇敬されている山だったようです。標高233mの稲荷山山頂の峰々は、考古学的な視点でとらえると、古墳が築かれていたそうです。「二ノ峰は全長70mの前方後円墳、他の三基も約50mの円墳である」(資料4)と言います。 その前に歌碑が建立されています。 あかあかとたたあかあかと照りゐれば伏見稲荷の神と思ひぬ 前川佐美雄 石段を上がると楼門前の左右には、狐の銅像が配置されています。狐は稲荷神の使いとされています。なぜ、狐が神のお使いなのか。これもまた明かなわけでもなさそうです。『日本書紀』の巻十九・欽明天皇の冒頭に、深草の里人・秦大津父のことが記されています。秦大津父が伊勢からの帰路に、二匹の狼を「あなたがたは恐れ多い神である」と言って逃がしてやったというエピソードです。この秦大津父は欽明天皇の大蔵の管理・出納を任されるようになります。秦氏との関係で狼が出てくるのです。(資料3,5)欽明天皇が即位したのは539年です。その頃には、既に秦氏が深草の里に住していたことになります。風土記の編纂が命じられたのは和銅6年(713)ですから、2つの話の間にはかなりの歳月が経ています。梅原猛先生は興味深い見解を述べています。「伏見稲荷の神の眷属もかつては狼、或いは山犬ではなかったか。それがいつのまにか里近くに住む狐に置き換えられたのであろうが、狐もまた、アイヌでは狩猟の獲物の在処を教えてくれる神として尊ばれた」(資料3)と。さらに、弘法大師空海が創始した真言密教との関係です。真言密教ではは荼枳尼天(だきにてん)が崇拝されます。荼枳尼天が日本に移入された段階で、狐と結びつけられ、狐に乗った天女の姿で表されたそうです。稲荷神と荼枳尼天信仰が結びついていくようになります。廃仏毀釈・神仏分離政策が明治の初めにとられる前は、稲荷社の本願所、御本山・愛染寺が稲荷社に向かって左にあったと言います。真言密教のお寺だったそうです。(資料3) 楼門を入ると、「外拝殿」があります。 一段高い境内地への石段の手前に、今年はこんな絵馬形の案内が出ています。楼門前の狐が口に咥えている鍵は、「達成のかぎ」と称されています。右の「福かさね」には、「しるしの杉」が付けられています。また、右側の絵馬には「しるしの杉」について説明が記されています。「杉」は伏見稲荷大社の神木です。「杉」は「椙」とも書き、「木が昌(さか)に生い繁ること」を意味し、「富の木」と称えられているそうです。(絵馬形の案内より)この「しるしの杉」は、『山城風土記』逸文に上記の後半として出てきます。「其の苗裔(すえ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖(う)ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇(い)きば福(さきはい)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず」と。 向拝大唐破風です。蟇股には白狐が透かし彫りにされています。上部の大瓶束の両側には、鳳凰と草花文が透かし彫りにされ、鮮やかな極彩色です。ここが通常の一般参拝所です。この参拝所の正面は撮影禁止です。内拝殿・本殿がその先にあるからということでしょう。内拝殿の内部は、初詣である故でしょうか、ご祈祷祈願する人々で満ちていました。応仁・文明の乱で、伏見稲荷大社の社殿は焼亡などにより失われたそうです。室町時代の1499(明応8)年に現在の本殿(重文)が再興されます。江戸時代の1694(元禄7)年に、向拝大唐破風が加築されます。そして、上掲の御鎮座一千二百五十年奉祝大祭の記念事業として1961年に内拝殿が新築されたことで、向拝大唐破風が内拝殿の正面に移されたという経緯を経ています。(資料6)稲荷山山上の下社・中社・上社という三社別殿の古制がこの本殿再興の折りに改められて、五社相殿となったと伝えられています。五社というのは、下社の摂社、中社の摂社が加わることによります。その結果、現在の本殿には祭神として、五柱が並び鎮座していると言います。宇迦之御魂大神、佐太彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神です。ホームページを参照しますと、本殿に向かって左から次の順に五柱の祭神が祀られています。 田中大神 佐田彦大神 宇迦之御魂大神 大宮能売大神 四大神 田中社(下社摂社) 中社 下社 上社 四大神(中社摂社)ホームページを読み、この五社の神々を列挙してみると、やはり伏見稲荷大社は秦氏の神として記されていることがわかります。調べていて、いくつかの史資料間の差異に気づきました。江戸時代に出版された『山州名跡志』を見ますと、「稲荷宮」という見出しの項があり、そこに「社」という小見出しで次の記載があります。「上古ニハ三坐ノ神三所ニ別レテ。上ノ社、中社、下社トイヘリ。祭ル所、上ハ土祖神(ツチノヲヤノシン)。中は倉稲魂(ウカノミタマ)。下ハ大山祇女也(ヲホヤマズミノムスメナリ)。件ノ地山上ニシテ乾(イヌイ)自リ亘ツテ卯辰ノ間ニ。三峯雙ヒ立ツ。上社ハ頂上ニアリ。中ノ社ヨリ凡ソ二町下ノ社中ノ社ト隔(ヘタツ)ルコト二町餘ニアリ」(資料7)一方、「『二十二社註式』によれば、下社 大宮女命 中社 倉稲魂命 上社 猿田彦命」(資料3)と記されています。『二十二社註式』は文明元年(1469年)に吉田兼倶が撰したとされる書だそうです。(資料8)少し調べてみますと、佐田彦大神は猿田彦大神の別名という説明があります。(資料9)すると、以下の関係になるようです。つまり、宇迦之御魂大神=倉稲魂=倉稲魂命、佐田彦大神=土祖神=猿田彦命、大宮能売大神=大山祇女=大宮女命、です。この関係性が成り立つとしたら、上社・中社・下社で祀られていた祭神がいずれかの時に中社と下社の間で入れ替わっているということになります。分析的に見ていくと、興味深い不可思議さです。稲荷山山上、間ノ峰に存在する荷田社は伏見稲荷大社の祭神とは切り離し別格になっているものと受け止めました。尚、拙ブログの「伏見稲荷大社細見」で触れていますが、境内地の参道の傍に境内社として小社「荷田社」が祀られていることもご紹介しておきます。稲荷山をめぐる神々は不可思議で興味が尽きない世界です。 中心となる社殿に向かって右側、つまり南には「神楽殿」があります。ここで神楽が舞われるようです。この建物はほぼ能舞台の形式です。 正面の両側の柱と頭貫との角部分に設けられたこの透かし彫りは見応えがあります。参拝客は多いですが、この神楽殿を眺めに立ち寄る人は意外と少ないものです。ちらほらと参拝客が居る位です。神楽が演じられるときはたぶん人だかりとなるのでしょうね。 橋掛かりの手前にこの山形の石が置かれています。近くまで行くと、これが山口誓子の句碑だと言うことがわかります。傍に説明板が設置されています。稲穂舞を詠んだ句です。 早苗挿す舞の仕草の左手右手 山口誓子境内地の静かな場所を少し歩いてみようと立ち寄ったのは、本殿の北方向にある八鳥ケ池の近くです。奥社奉拝所、つまり奥ノ宮から千本鳥居の帰路参道の途中で抜けて北方向の境内通路を下り、橋を渡ると、池の側に出ます。本殿を起点にすれば、向かって右側に進み参道を上って行くと橋のある方向に行けます。 橋の上から眺めた小川。水は池に流れ込みます。 老木の幹の一部があたかも椅子の背の様な形で残る姿が目に止まりました。おもしろい形です。 道沿いに時計回りに進んでいくと、池の東側に「神田」が設けられています。傍に案内板が設置されています。ここに100坪の神田があり、水口播種祭(4月12日)、田植祭(6月10日)、抜穂祭(10月25日)という神事がここで行われるそうです。その時この辺りは観覧する人々で溢れることでしょう。冬場にこの辺りを歩くのは、物好きだけかもしれません。神田からの初穂は新嘗祭(にいなめさい)に供えられ、稲藁は火焚祭で焚き上げられると、末尾に記されています。最後に、次の歌が記されています。 けふは よき日ぞ けふは よき時ぞ 心よけ 神楽歌はむ 神楽歌はむ 稲荷山の山手への道を上って見ると、「熊鷹社」から「三ツ辻」への参道に林立する鳥居の列が見えます。朱塗り鳥居のトンネル参道から逸れた山道を歩く人は見かけませんでした。参詣のメインとなる境内地の雑踏から外れると、静けさの漂う境内地があちらこちらに併存しています。最後は参拝客で混雑する表参道を下り、JR稲荷駅に戻りました。境内点描としてのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p56-662) 伏見稲荷大社 ホームページ (「伏見稲荷大社とは」の項)3) 『京都発見 一 地霊鎮魂』 梅原猛著 新潮社 p157,p167-1714) 『京都府謎解き散歩』 井本伸廣・山嵜泰正編著 新人物文庫 p136-1375) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷猛訳 講談社学術文庫 6) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p210-2137) 『山州名跡志 自一橋至木幡 十二』(巻十二目録 紀伊郡) 白慧撰8) 二十二社 :ウィキペディア9) サタヒコ :ウィキペディア補遺荼枳尼天 :ウィキペディア荼枳尼天 :「コトバンク」サルタヒコ :ウィキペディア猿田彦大神 :「狗奴国私考」伏見稲荷大社田植祭2020/6/10(日程・・・) :「京都 Kyoto」伏見稲荷大社で「田植祭」 :YouTube【京都】伏見稲荷大社 田植祭 2017 Fushimi Inari Taisha Rice-Planting Festival 2017 :YouTube京都・伏見稲荷大社「荷田社」(稲荷山・荷田社神蹟) :「伏見稲荷・御朱印」稲荷信仰/稲荷神顕現伝承 :「戸原のトップページ」竜頭太/龍頭太 :「ふしみいなりガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市伏見区 再び稲荷山周辺にて(ぬりこべ地蔵尊・荷田春満墓・羽倉可亭墓)へ探訪 京都市伏見区 伏見稲荷大社 補遺 -1 未訪のお塚2箇所と谷間の不動明王像 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ 10回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -1 奧社奉拝所・竹の下通経由で瀧巡り 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.01.18
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伏見稲荷大社探訪関連の補足として、項を改めて続けます。JR奈良線稻荷駅の前から伏見稲荷大社の大きな鳥居と表参道が見えています。駅前の道路を南に進むと右手にJR奈良線の踏切、左手に摂取院の宝形造りのお堂(腹帯地蔵)が見ます。冒頭右のお寺です。この地蔵堂の北側(手前)に東に向かう道路(坂道)があります。その道沿いに進むと、民家に突き当たるT字路の分岐になっています。右折すれば、前回ご紹介したぬりこべ地蔵・荷田春満の墓に向かいます。この分岐で、左折して歩むと、冒頭の左の景色が見えます。この分岐点からが、前回探訪のつづきになります。ここ(冒頭の左の景色)が伏見稲荷大社の境内地に南側から入る裏道の一つの入口になります。 道沿いに緩やかな坂道を上って行きますと、千本鳥居が見えてきます(左の景色)。千本鳥居の外側を並行して歩む形になります。しばらく進んで、振り返ると右の景色です。もう少し、緩やかな坂道を進むと、左手に石垣が見えてきて、手前にそちらに上がる石段があります。その数十段の石段を上がると、通称「奧の院」、つまり「奥社奉拝所」の境内地のただ中に入るという印象です。ほとんど人が通らない裏道から、突然に参拝客で混雑する境内域に出くわす形になるのです。観光ガイドブック流にいえば、奉拝所の右側後に「おもかる石」という願い事が叶うかどうかの試し石が置かれている境内域です。伏見稲荷大社の境内マップはこちらからご覧ください。 石段傍をを通り過ぎて裏道を少し東に歩み、この「奥社奉拝所」のある境内域の石垣全景を撮ると、こんな感じです。石垣下の右側に見えるのは稲荷山の山上と同様に稲荷山にある「お塚」の一部です。 上掲の石垣の傍近くから、鳥居の連なりを眺めると、こんな感じです。この箇所は、以前に稲荷山の南側の山腹沿いの「お塚」を探訪した時に、その傍を通り過ぎていただけでした。そこで、今回この箇所に立ち寄ってみました。 鳥居の列の参道を進むと、正面にあったのがこのお塚でした。正面には「福高大神」と刻まれた碑が建立されています。様々な名称の神名碑が並んでいいます。 関心を引いたのは、左側に置かれたこの石像です。常識的に考えると狐像かな・・・と想像できますが、正体不明の像です。帽子を取って確かめるのも、ちょっとはばかれて・・・不詳のままにとどめました。 鳥居の列を戻ってきて、気づいたことがあります。以前はマゼンタ色で追記した道を往復して、南側山腹のお塚の探訪をしています。赤い線を追記した上掲のお塚に近くて見過ごしていた道に気づいたのです。それが紫色の線を追記したところです。 谷間へ下って行く道があり、樹間に屋根らしきものが一部見えたのです。いままでこの下りの坂道に気づきませんでした。そこでこの道を下ってみることにしました。 下ると谷間になっていて、先に石鳥居が散見されます。 降り道は先でT字路となり、横一線に前の斜面にこのように沢山のお塚がここにも祀られています。 谷底の右手方向に建物がみえますので、そちらの方を訪ねてみることにしました。 その建物は不動明王を祀るお堂です。 この扁額が掲げてあります。二文字目が読めません。手許の『角川漢和中辞典』を引いてみましたが、この文字を見つけられませんでした。 石造不動明王像が安置されています。その右手には石造役行者像と思える椅座像も安置されています。 堂内の手前左側に神名を刻した碑が並んでいます。これはお塚に在るような神名碑です。 お堂の側面にもお塚が祀られています。 お堂の前には、「不動明王」と陽刻した扁額を掲げた石鳥居が建立されていて、その先を拝見しました。 そこは水垢離を行う行場になっているようでした。滝水は枯れているのか、止められているのかは不詳です。神の世界と仏の世界が融合する本地垂迹説の世界がここには厳然と存在しているようです。神仏習合の世界、その信仰の一端がここにみられるといえるのでしょう。 伏見稲荷大社境内そのものは、正月の初詣参拝客で大混雑の様相ですが、この裏道の谷間は静寂そのものでした。お塚を眺めつつ、「奥社奉拝所」の境内域に向かうことにしました。つづく補遺伏見稲荷大社 ホームページ本地垂迹説 :「玄松子の記憶」9 本地垂迹説 :「一望千里」本地垂迹 :ウィキペディア神仏習合 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市伏見区 再び稲荷山周辺にて(ぬりこべ地蔵尊・荷田春満墓・羽倉可亭墓)へ
2020.01.17
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摂取院・腹帯地蔵尊のお堂のところまで戻ります。このあと、このお堂の北側の緩やかな坂道を歩み、久しぶりにまず「ぬりこべ地蔵」を訪れ、その後思いつくままにしばし彷徨してみました。伏見稲荷大社の表参道は正月の参拝客で混雑していますので、ポピュラーな参道はできるだけ敬遠することにしました。坂道を上って行くと、民家に突き当たり、道は左右(北方向と南方向)に別れます。T字路です。 右手に少し進むと、墓地の一角が見えてきます。墓地域の北西角辺りは無縁墓となった墓石が集められ、その傍に数多くの地蔵石仏が集められています。 お地蔵さまのご集合です。 ここでも、欠損した地蔵石仏の頭部が補われています。素朴な補填ですが、信仰心の現れでしょうね。 どれくらい前に作られた石仏なのでしょう。顔貌が風化摩滅して定かでない地蔵石仏が数多く安置されています。 通りをはさみ、西側に「ぬりこべ地蔵」のお堂があります。伏見稲荷大社から南東約200mほどの地点に位置します。お堂傍の建物(詰所)の北隣に、右の墓石が建立されています。「神馬」の第一世と第二世と刻されています。そこで残った疑問は、第三世以降はどうなったのでしょう・・・・。稲荷大社では生きた馬を神馬として養い維持することは、いつかの時点でなくなったのでしょうね。第三世からなのか? あるいは、もっと後 今、伏見稲荷大社に行けば、奧の院への途中の境内地に神馬像を祀った建物があります。 南東側から眺めた地蔵堂とその傍の建物(詰所)です。この地蔵堂を維持管理されるための建物のようです。 地蔵堂前に立つ石標の背面を見ますと、「深草稻荷保勝会」により維持管理されているようです。地蔵堂の軒下には「ぬりこべ地蔵」と墨書された赤い提灯が吊されています。 お地蔵さまの高さは約1.2mだそうです。お顔をよく見ると鼻の先が少し欠けています。このお地蔵さまがここに移るまでに移転を繰り返していることは、以前の拙ブログ記事でご紹介しています。「そとわの墓地」が明治の末頃、陸軍十六師団の兵器庫建設のために現在地に移されたときに、このお地蔵さまもここに移されたそうです。「その際、地元の人々の手助けのもと、故・木村藤太郎氏が地蔵像を背負って移し、以来木村さん方でお守りされている」(資料1)と手許の本に記されています。 これは傍の建物に現在掲示されている「ぬりこべ地蔵尊」の案内です。この一番下に、「世話人 木村家」と付記されていますので、「深草稻荷保勝会」とともに、今も変わらずお世話をされているようです。ぬりこべ地蔵は、「昔から歯痛や病気の痛みにご利益があるとされているお地蔵さんです。」(掲示説明文より) 地蔵堂前の石の円柱の正面には卍が彫り込まれています。なぜか、上面には三重に小さな座布団が置かれ、その上にお餅のような形状の石が置かれています。正面に香炉様の石柱が置かれているのは時折見かけます。しかし、このように丸石が置かれているのを見ることはありません。上掲、説明文の「お参りの仕方」の中に次の記述がありました。「お堂の前にある丸い石を撫でてから、自分の身体の痛いところをさすると痛みが取れるという言い伝えがあります。」ということです。その続きの文は、「近年では、うつの悩み、抜歯やインプラントの痛み封じ、良い歯医者さんに出会えますように・・・と願いは様々です。」とあります。お地蔵さまに対する願い事は時代の変化を含んで変化して行く側面があるようですね。説明文には「ぬりこべ」の由来はよく分かっていないのですがとしつつ、次の説明が記されています。”「痛みを封じ込める」、「病を塗り込める」とか「塗り込めのお堂(土壁のお堂)に祀られていたから」そのように呼ばれているのではないか? と言われています。”「遠方の方は、こちらにハガキを送ってもそのご利益にあずかれることができるとされ、全国から手紙やハガキが届きますし、海外からもお手紙が届くことがあるそうです。」という一文もあります。このお堂の住所は、地図で確認すると「〒612-0882 京都市伏見区深草薮之内町26」です。毎年6月4日(虫歯の日)に、深草稻荷保勝会の方々が中心になって法要が営まれています。 東側のお墓を反時計回りに回り込みますと、六地蔵が祀られています。 かなり古い時代に制作されたお地蔵さまのようです。一部は石の表面が剥落してきています。錫杖を持つお地蔵さまと持たないお地蔵さまが混在し、錫杖もまた一部しか見えませんが、その形状は異なるようです。また頭部が部分剥落しているお地蔵さまには、その内側に新たなお顔が刻まれています。内からお顔が新たに現出した感じ・・・・・優しいお顔が刻まれています。この六地蔵から東にそのまま歩み、この墓域の南東隅に向かいます。 そこに西側から見えるのがこの石碑です。石碑の裏面です。 東側に回り込んで拝見しましょう。この石碑は、「荷田春満(かだのあずままろ)」のお墓です。まずは参拝。手許の辞典は、荷田春満について「(1669-1736)江戸中期の国学者。本姓羽倉。京都伏見稲荷の祠官の子。復古神道を唱え、古道研究の端緒を開く。著書『日本紀神代巻劄記(さつき)』『古事記劄記』『万葉集僻案(へきあん)抄』など」(『日本語大辞典』講談社)また、「(1669-1736)江戸中期の国学者。本姓は羽倉とも。京都伏見稲荷神社の神官。国学四大人の一人。契沖に傾倒し、記紀・万葉・有職故実を研究、復古神道を唱えた。弟子に賀茂真淵・荷田在満などがいる。著『万葉集僻案抄』『万葉集訓釈』『日本書紀訓釈』『創学校啓』、家集『春葉集』など。」(『大辞林』三省堂)と説明しています。上掲の墓石裏面に、「元文元年7月2日没時年68」と刻されています。享年68歳。国学の四大人とは、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の4人を言います。伏見稲荷大社境内の拝殿の東側に、「東丸(あずままろ)神社」があります。伏見稲荷大社とは別の独立した神社です。この東丸神社の祭神が荷田春満です。「明治16年(1883)荷田春満(東丸)に正四位を贈位されたのを記念して社殿を造営し、神霊を奉斎したもの」(資料2)と言います。 上掲写真の右手前にこの長方形の碑が建立されています。 「羽倉可亭翁墓」と上部に篆刻されています。これも墓石です。羽倉一族の一人ということになります。その下には、 この碑文が刻されています。撮った写真を拡大してみますと、その陰刻文字がほぼ判読できそうでしたので、少しチャレンジしてみました。碑文の縦一行分を横一行に対応する形で文字に起こしてみました。□は判読できなかった文字です。 「翁諱良信字子文可亭其號也家世為三峰稲荷社司父延年補權御殿預翁生五 月延年卒同宗目代信賢養之信賢男信資終以為其嗣其妻尚子并河氏有才徳 愛撫教育備盡其力翁年十四叙従五位下任駿河守年十七為非蔵人年十八補 權目代時有所感憤奔江戸遂辞其職實文政五年齢二十四也後漫遊四方以篆 刻書畫為業翁為人磊落不羈淡泊勢利性不嗜酒而好宴遊戯笑踏舞同其酔興 終日不倦少従村瀬栲亭而學刻苦累年又學書及篆刻於僧月峰後更學畫於岡 本豊彦翁之在江戸也遊於大窪詩佛之門又就細川林谷以究篆法之妙宮内省 有命前後刻 御璽六顆又畫山水数幅及為諸親王所刻印章悉留其影以為附 名日天満清流殊篆有栖川親王寵遇手賜黄玉茶銚京都畫學校微其履歴書翁 辞以老衰失□弗聴乃賦二絶以代焉年八十八自張宴於祇園中村楼来聚者凡 百餘名山階久邇二親王亦賜和歌以祝之配咲子信資長女也生男信功通称全 □□性孝順好學而稟質□弱多病翁為之別買彌榮境内竹坊而以居為文久三 年信功先父母而没年三十二翁後令以武部良豊系其後翁以寛政十一年三月 十六日生明治廿年八月十二日没於竹坊享年八十有九葬之於稲荷山翁高伯 祖公春満之墓在 明治廿一年七月」この碑文(漢文)を我流ですが読解して、その意味を大凡訳してみました。少しマニアックかも知れませんが、ご関心があればおつきあいください。上記碑文の判読自体も含め、誤読している箇所が多々あるかも知れません。その節にはご寛恕ください。またご教示いただければうれしいです。「翁の諱(いみな)は良信、字(あざな)は子文、可亭はその号である。家系は三ノ峰稲荷社司である。父延年は御殿預の権を補佐していた。翁が生まれ、五月に父延年死去。同宗目代信賢は良信を養育し、最終的に継嗣とした。その妻尚子は並河氏の出で、才徳あり、愛撫教育し、その力を尽くした。翁は14歳で従五位下に叙され駿河守に任じられる。17歳で非蔵人、18歳で権目代補佐となった。時に憤りを感じる所があり、遂にその職を辞して江戸に出奔した。実に文政5年24歳の時である。その後、四方(各地)を漫遊し、翁は篆刻書画を業とした。翁の人柄は磊落不羈で淡泊、積極的な性格で、酒は嗜まないが遊戯、談笑、舞踏の宴席を好んだ。同様に、その酔興は一日中少しも倦むことがない。村瀬栲亭に師事して刻苦して学び年を重ね、また、書と篆刻を僧月峰に学ぶ。その後、更に書を岡本豊彦に学ぶ。翁が江戸に居るとき、大窪詩仏の門人として過ごし、また、細川林谷に就いて篆刻技法の妙理を究めた。宮内省から程なく以下の制作下命があった。御璽六顆、山水画数幅及び諸親王の為に印章を全て制作して名を残した。曰く天満清流殊に篆ずと。有栖川親王が寵遇され黄玉茶銚を賜られた。京都書画校は履歴書を求めた。翁は己の心身状態を考慮し辞退された。88歳の時、自ら祇園の中村楼で米寿の祝宴を催すと100余名の人々が集まった。また山階・久邇両親王からはこの祝として和歌を賜わっている。」この後、判読できない文字があります。羽倉可亭の家族の事が記されています。その要旨は配偶者は咲子で信資の長女であり、息子が生まれたが父母に先立ち32歳で死亡。可亭は弥栄境内の竹坊を購入。可亭は後に武部良豊を継嗣とした。「翁は寛政11年3月16日に誕生し明治20年8月12日竹坊にて死去した。享年89歳。翁を大変すぐれた先祖(荷田/羽倉)春満公の墓がある稲荷山に葬る」という文で、末尾が締めくくられています。この墓碑は、明治21年7月に、可亭の弟・羽倉信慶氏と義子・羽倉良豊氏により建立されたと末尾に刻されています。 荷田春満の墓の附近には、羽倉姓・荷田姓の墓石が林立していますので、この一角は荷田/羽倉一族の墓域になっています。またこの南東側の墓域は、伏見稲荷大社関連の社家の墓が多く祀られていると以前に聞いた記憶があります。先日、梅原猛先生の「荷田氏と伏見稲荷」と題する一文を読んでいて、なるほどと思うところがありました。この一文は、伏見稲荷大社の宮司、禰宜の方々にヒアリングされ、また提供された膨大な文献や諸研究等を読まれた上で、梅原流の分析と見解をまとめられた一文です。稲荷山に上ると、各峰に社があり、それと膨大なお塚が祀られています。社だけに限定しますと、次の関係があります。 三の峰 下社(白菊大神) 間の峰 荷田社 二の峰 中社(青木大神) 一の峰 上社(末広大神)山の峯に荷田社が祀られていて、荷田氏は伏見稲荷大社の神官(祠官)でもあります。そこで、荷田氏が伏見稲荷大社の歴史のなかで、どういう位置づけになっているのかに関心がありました。以下、梅原先生の一文からの要点の引用です。(資料3)*荷田氏はこの地に稲作農業を持って侵入してくる秦氏以前の土着の民である。*荷田氏の祖先として「龍頭太」なる者のことが語られる。 ⇒龍頭太は蛇の化身。蛇は狩猟採取民である縄文の民に厚く崇拝されて来た。*稲荷の神は、『山城国風土記』逸文をよく読むと、もともとは土着の狩猟採取民の神である。そして、狩猟採取民が稲作農業民に屈伏し、稲作農業を受け入れた神の姿となる。それが稲を荷う背の高い白髪の老人の姿で示される。*稲荷社は明治の初めまでは荷田氏と秦氏の対立と協力によって、社運を発展させてきた。*荷田氏の方は神事の他、世襲で竈(へっつい)職、即ち御殿預職(本殿の管理)や目代職(若宮の管理)に就くのに対し、秦氏は本家・分家平等に専ら神事を司り、上社・中社の神官を経て、最後は下社の神主に至るという。神事は秦氏が司り、荷田氏は本殿・若宮の管理、即ち財政を司ったいうのである。*荷田氏は東羽倉家と西羽倉家のニ家がある。荷田氏は備後国から興った羽倉氏に乗っ取られたといわれる。荷田氏は秦氏より古い。 一方、秦氏は鳥居南家、(西)大西家、(東)大西家、祓川家、松本家、中津瀬家、森家、毛利家がある。伏見稲荷大社はその祭神を含め、神社運営の側面でも奥が深い感じがします。そこに弘法大師空海が稲荷山に絡んでくる側面もあり、ますますこの地は興味深い神々の地と言えそうです。また、上掲の「荷田羽倉大人之墓」や「羽倉可亭翁墓」の家名や碑文中の神職名などの関係も少し繋がってきました。最後に脇道に逸れました。この辺りで、T字路の分岐地点まで引き返し、左の方への道に進みましょう。こちらは以前に拙ブログでご紹介していますが、伏見稲荷大社へ裏道からアプローチすることになります。そこでの新たな探訪を補足して、ご紹介します。つづく参照資料1) 『新版 京のお地蔵さん』 竹村俊則著 京都新聞社出版センター p192-1932) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p673) 『京都発見 一 地霊鎮魂』 梅原猛著 新潮社 p162-166補遺ぬりこべ地蔵(京都市伏見区) :「京都風光」荷田春満 :ウィキペディア荷田春満 :「コトバンク」羽倉可亭 :ウィキペディア羽倉可亭 :「東京文化財研究所」東丸神社 :「神社参拝図鑑」東丸神社 :「古今御朱印研究室」神職、神主、宮司、禰宜などの呼び名について :「出雲大社紫野教会」宮司と神主の違い :「キャリアガーデン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -5 四ツ辻・三ノ峰・間の峰・二ノ峰・一ノ峰探訪 伏見稲荷大社細見 -9 周辺(東丸神社、荷田春満旧宅・ぬりこべ地蔵尊・摂取院)
2020.01.16
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この景色はJR奈良線「稻荷」駅から本町通を南に徒歩数分に位置する踏切を渡り、西から「摂取院」の全景を撮った景色です。摂取院は本町通の東側にあり通りに面しています。拙ブログ記事「伏見稲荷大社細見」記で周辺の見所の一つとして簡単にご紹介しています。 宝形造りのお堂の正面に角柱の香炉が立ち、その正面に「腹帯地蔵尊」と刻されています。 須弥壇前の祭壇には蓮池の上を鳳凰が飛翔する化粧幕が張られています。よく見ると五具足の中央手前には小さなお地蔵さまの立像も置かれています。 そして壇の中央には半丈六の地蔵菩薩坐像が安置されています。像高約2.5mで平安時代末期の作だそうです。「腹帯地蔵尊」としてよく知られたお地蔵さまです。山号を光明山と称する浄土宗のお寺で、院号と寺号が同じです。 (資料1,2)このお堂は私の知る限り昼間はいつも正面の格子扉が開放されていて、腹帯地蔵さんの全体のお姿を拝見できて、ありがたいお堂です。 地蔵菩薩の両側の脇壇には、童子像が安置されています。少し調べてみますと、「閻魔王ら十王を従えた地蔵菩薩坐像、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子を左右に従えた三尊形式の地蔵菩薩坐像などもある」(資料3)及び「室町時代以後、日本では地蔵菩薩の向かって右脇に掌善童子、左脇に掌悪童子を従えた地蔵三尊形式で祀られるところもある」(資料4)という説明に出会いました。さらに入手した仏像画像の姿を参考にして判断しますと、掌善童子・掌悪童子の方かなと思われますが定かではありません。(資料5) お堂の正面左側に南面してお地蔵さまの小祠があります。ここのお地蔵さまはかわいらしい化粧が施されています。僧衣も含め全体が丁寧に彩色されていました。さて、それでは2つの気になることに移りましょう。JR稻荷駅から上掲の踏切を渡り、右折して琵琶湖疏水に向かいます。 数十m先に、琵琶湖疏水に架かる橋があり、その橋名が「ススハキ橋」です。また、この南北に流れる疏水の東岸沿いの町並から西の南北の通りである「師団街道」までが「深草ススハキ町」という名が付いた地域です。師団街道の西側に龍谷大学のキャンパスがあります。龍大にREC講座を受講に行く際、このススハキ橋を渡り、川端沿いに南に歩き、京阪電車「龍谷大前深草」駅の通路を経由してキャンパスに行くルートを利用しています。この橋名、町名にあるカタカナの「ススハキ」という語句がずっと気になっていました。この地名はどこに由来するのだろうと。ネット検索で調べてもみたのですが、よくわかりませんでした。探訪記をまとめる際によく参照する平凡社刊の『京都市の地名 日本歴史地名大系27』を見ても、記載はありません。さらに地図を見ますと、京阪電車の駅の大半は塚草ススハキ町の南隣りの「深草ケナサ町」に位置します。この町も「ケナサ」というカタカナ名称です。龍大の図書館の書架で探していて、その由来を記した本を発見!”「ススハキ町」の「ススハキ」は「ススグ」の意で、祓川筋に身祓行事に因む町名がついたし、「ケナサ町」の「ケナサ」は足利時代砂川を「ケナサ川」といったところからその古名をつけ”と、いわれの説明がありました。(資料6)ネットで地図を見ますと、深草ススハキ町の北隣りは深草鳥居前町で、その北隣りに「深草秡川町」という町名があります。一方、深草ケナサ町には、「龍谷大前深草」駅の西側に「砂川小学校」があります。「砂川」です。この本の説明がなるほどいう感じ。初めて見出した由来説明です。勿論、これもまた一説ということかもしれませんが・・・・。 ススハキ橋を渡り、琵琶湖疏水の右岸、つまり西岸の川端通りを「龍谷大前深草」駅に向かうときに右側にこの年季が入った感じの小屋の屋根があります。すぐその先に見えるのが京阪電車「龍谷大前深草」駅です。駅舎は高架となっていて、線路の上方に改札口と横断通路があります。この小屋のところが何なのか、気にはなりながらいつも素通りしていたのです。 駅舎のある南側から眺めると、こんな景色です。半ば以上幹が空洞化した大木が傍にあります。「区民の木 アカメヤナギ」と記した木札が立っています。幹の空洞化が進んでいても木はその生命力を維持しています。先日、時間のゆとりがあったので、小屋の西側、川端通りより一段低い地面に回ってみました。 なんとこの屋根は覆屋の屋根でした。数多くのお地蔵さまが集められて祀られている場所だったのです。すぐ傍の川は開削されてできた運河です。その東側の本町通/直違橋通は、旧伏見街道です。運河の開削で出土した石仏や旧街道周辺からこちらに移された石仏などがここに集められたのかもしれません。地蔵石仏がここに集まってこられた理由は不詳ですが、西向きに地蔵石仏が並べられています。 中央後部の左に安置された一体には、はっきりと錫杖の頭部が見える地蔵菩薩立像です。順番に眺めて行くと、ここにも如来形の頭部と思える石仏がいくつか混じって安置されています。二尊形式の石仏も一体あります。 一石五輪塔にも前掛け(涎掛け)が付けられています。 向かって右側のお地蔵さまの光背部分には右に「南無延命地蔵菩薩」、左に「開眼供養」と刻まれています。すごく大きな耳たぶが特徴的です。 左側のお地蔵さまは光背部分に文様が彫刻されていて、左手に子供を抱いていらっしゃる感じです。前掛けの上に頭部らしきものが見えます。子安地蔵尊あるいは水子地蔵尊として建立された石仏でしょうか。 最初に横長の大きな覆屋が設けられ、その時点で集まって来られたお地蔵さまが安置されました。だけど、さらにお地蔵さまがこの地に集まって来られた。そこで、覆屋を順に補って行く事に・・・・という風にして今の形になったのかなあと、想像しました。 大きな覆屋と中の覆屋との境目部分に石柱が立っています。角柱の背後の石の上に立方体の石が置かれています。このサイコロ状の石には梵字が刻されているようです。前の角柱も上部が欠損状態ですが「見大菩薩」という文字から推測すると、「妙見大菩薩」という名称が連想されます。普段この川端の通りを利用するする人々は、この屋根を眺めながら歩いていることと思います。この屋根が何のためのものか意識されているでしょうか? 屋根があること自体、気にしていない人もいるかもしれません。私自身、数えきれないほどこの疏水端を歩いてきました。だけど気に留めながらも素通りしてきました。今回は長らく気になっていた2つの事に一歩踏み込んでみた結果のご紹介です。これでちょと私的にはスッキリしました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 摂取院 :「浄土宗寺院紹介Navi」(浄土宗)2) 摂取院 :「京都通百科事典」3) 『写真・図解 日本の仏像』 薬師寺君子著 西東社 p854) 掌善掌悪童子 地蔵菩薩脇侍 立像 :「粟田こだわり仏像専門店」5) 掌善童子・掌悪童子 :「仏像画像集」6) 『深草を語る』 深草を語る会 財団法人深草記念会 平成25年1月 p129補遺矜羯羅童子 :ウィキペディア制多迦童子 :ウィキペディア写真: “脇仏 掌善童子” 五條市 :「トリップアドバイザー」童子立像 :「MIHO MUSEUM」地蔵菩薩二童子像 :「鶴立山大覚寺」腹帯地蔵 :「コトバンク」京都で必見!安産祈願に霊験あらたかな善願寺の巨大な仏像「腹帯地蔵」 :「サライ」京都の安産祈願寺はココ!伏見区日野「恵福寺」の巨大腹帯地蔵 :「LINEトラベル」伏見区あれこれ : ふしみ昔紀行(平成19年3月) 恵福寺 :「伏見区」広見寺・腹帯地蔵(染殿地蔵)(京都市西京区) :「京都風光」京都:光念寺~常盤御前の腹帯地蔵~ :「yoritomo-japan.com」十輪寺 :「京都観光Navi」水子地蔵とは?合掌と子供を抱いている地蔵には違いがある! :「宮城お墓相談室」洛陽四十八所地蔵霊場巡禮利生記 :「仏教大学 Digital Collections 」アカメヤナギ(赤芽柳) :「樹木検索図鑑」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 伏見稲荷大社細見 -1 表参道から楼門・外拝殿へ 10回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -1 奧社奉拝所・竹の下通経由で瀧巡り 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.01.13
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京都国立博物館を出た後、久々に七条通から三条通まで歩くことにしました。東大路通あるいは大和大路通を北上して三条通にストレートに歩くことは何度もしていますので、違った道を歩いてみようと、思いました。結果的に歩いたのは、本町通~森下町通~宮川町通~川端通ということに。そして、三条大橋を渡り、西木屋町通を少し南下して終わりとしました。北西角に「七条甘春堂」のあるところが本町通です。本町通を南に歩くことで一度眺めた通りですが、今回は七条通から北上しました。最初に西側に見えたのが通りの東側、「養泉寺」(真宗大谷派)の閉じられた山門です。北側に別に通用門がありますので、日常の支障はないのでしょう。 その先にお地蔵さまの小祠があります。 最初の辻が、正面通との交叉です。正面通の東を眺めた景色です。大和大路通に突き当たり、そこにあるのが豊国神社で、大きな石鳥居が遠望できます。その手前に「耳塚」がある「耳塚公園」が正面通の南側にあります。正面通を渡って本町4丁目に入ります。その北辺から北隣りの本町3丁目に跨がり、東側に「本町公園」があります。 公園の北西隅にお地蔵さまの小祠があり、北側にはさらに石仏が並んでいます。ここのお地蔵さまは、お顔に化粧がしてあります。 本町1丁目に入ると、東側に山門があります。その先の奧の方にお寺が見えます。途中までは民家の通路にもなっているようです。本町通を北から南に探訪した時には、この門前の写真を撮るだけでした。今回は立ち寄ってみました。 鬼瓦の表情がちょっとユーモラスでもあります。獅子の飾り瓦は標準的な感じです。 通路の北側に弁天堂があります。 「亀翁大辨財天」が祀られています。石灯籠の竿に「亀翁辨財天」と刻されています。 本町通に面して山門がありますが、現在のお寺の境内はこの門扉の東側のようです。通路の正面に本堂が見えます。後で地図を確認しますと、「浄雲寺」(浄土宗)です。山門の飾り瓦と同種の獅子の飾り瓦が見えます。 向拝の木鼻と蟇股はごくシンプルな造形です。 門扉の右側の通用門扉が開いていましたので、正面付近の境内を拝見しました。すぐ傍で目にとまったのがこの石標です。一面には「厄除観世音大菩薩」、もう一面には「安産地蔵尊 淨□□」と刻されています。下端の文字は判読できませんが、一文字から浄雲寺というこの寺名と推測します。ということになれば、観音菩薩と地蔵尊が当寺に祀られていると言えます。 本堂の南側には、如来形の石仏や地蔵石仏が祀られています。左の石像は頭部の欠損を、何かの事情で頭部だけ残った地蔵石仏の頭部で補った感じです。これもまた信仰心のなせる形なのでしょう。ほのぼの感が涌きますね。やはり頭部がある方がいい。 奥まった位置にかなりの広がりがあるお寺です。 かつてはもっと境内地が広かったということになるのでしょうね。 本町通から五条通に出たところで、東を眺めた景色です。東山三十六峰のうちの鳥辺山あたりを遠望していることになるのでしょう。五条通を横断し北側の通りを進みます。本町通はこの五条通を起点に南に進む通りです。一方、北に進む通りは微妙に位置がずれています。「森下町通」を北上します。鴨川傍の川端通からは4筋目の通りになります。 延命地蔵尊と記された扁額を掛けた小祠があります。 森下町通は少し北に歩めば、「柿町通」に突き当たり終わりです。この柿町通を東に、つまり山が見えている方向に行くと、すぐに六波羅蜜寺の南側近くに至ります。そしてこの通りは、そのままで六波羅裏門通につながり東に延びています。左折して、一本西側の通りを北上することにします。そこは「宮川町通」です。一方、柿町通よりも南側は「新宮川町通」と称されています。 宮川町通を北に進むと、ここにもお地蔵さまの小祠があります。 少し先で、通りを振りかえて南方向を撮った景色です。この辺りは、昼間は人通りが少ない静かな町並です。 さらに松原通を横切って北に歩むと、また小祠があります。松原通を西に進めば、鴨川に架かる松原橋になります。この松原橋が、かつての五条の橋になります。現在の五条通は、豊臣秀吉が京都の都市改造を行ったときに五条通を南に移して付け替えた結果です。つまり、義経と弁慶が出会って戦ったのは、現在の松原橋あたりということになるようです。これも戦った場所は異説があるようですが・・・・。 宮川町通の北を眺めた景色です。 宮川町は「歴史的景観保全修景地区」に指定されています。右の通路は鴨川と並行する疏水沿いの道路と宮川町通を結ぶ東西方向の道路です。宮川町は、四条大橋の東畔、川端通四条から南の五条通に至るまでの南北約1km、宮川町通に沿った花街を言います。格子造りのお茶屋が軒を連ねている町並です。「江戸初期の寬文6年(1666)鴨川の磧地をひらいて町地とし、四条通の南、宮川筋一町目より松原通の五町目に道路を設け、これを宮川筋とよんだ」のが始まりだそうです。「宮川とは、四条より五条にいたるあいだの鴨川いい、毎年7月10日の夜、四条橋上に於いて行なわれる祇園会の『みこし洗い』の式に、橋下の水をくんで祓いを行なったことから、この名が起こった」と言います。尚、この地が遊里になったのは、宝暦元年(1751)と言われています。(資料1)その後、変遷を経て、今は芸妓と舞妓だけの花街であり、現在は京都の五花街の一つです。 東側に目を転じますと、宮川町の歌舞練場が宮川町通より東側にかなり奥まって建っています。昭和25年(1950)10月に、「京おどり」が創始されたそうです。ここ歌舞練場で「京おどり」が行われるようになったのは、昭和45年(19+50)の第20回からだとか。(資料1) 宮川町通の町並です。 通りの西側にまた、お地蔵さまの小祠。ここは延命地蔵尊と記された提灯が格子戸の内側に吊られています。ここのお地蔵さまはお顔に化粧が施してありました。 団栗通に出る地点でであったお地蔵さまの小祠。ここから川端通に転じます。四条通まではあとわずか。川端通と四条通の交差点からは、左折して、川端通の西側歩道を北上することにしました。 四条大橋北東詰めの近くに建立されている「出雲の阿国」の銅像です。「かぶき踊の祖 出雲の阿国 都にきたりて その踊りを披露 都人を酔わせる」平安遷都1200年記念として建立されたことが、基壇正面の銘板に記されています。歴史年表を見ると、出雲の阿国が京都で歌舞伎踊りを演じたのは1603年と記されています。この年(慶長8年)2月、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開いています。(資料2)尚、『時慶卿記(としよしきょうき)』には、1600年に宮中で「クニ」という人物が「ヤヤコ踊り」を踊ったという記録があると言います。(資料3) 阿国の銅像から少し北に歩んだところに、このモニュメントがあります。初めて気づきました。この歩道のこの箇所を通ることは今までなかったので知りませんでした。傍に設置された建立主旨を説明した銘板によると、京都の花、紅しだれ桜をモチーフに制作されたモニュメントだそうです。そして、三条大橋に到着! 三条大橋西南詰で南にすこし下がると、川端に地蔵尊が祀られています。 そのすぐ南隣りにもう一つ、お地蔵さまの小祠があります。ここの両方のお地蔵さまの顔は化粧がみられません。この後、河原町通の丸善に立ち寄るために、西木屋町通を歩きました。鴨川の西側に造られた高瀬川の東側が木屋町通です。川の西側の西木屋町通は短い区間だけの通りです。しかし、ここにも地蔵尊の小祠が2箇所あります。 北の方がこれで、覆屋の梁に「大黒福授延命地蔵菩薩」と記されています。残念ながら小祠の内部はよく見えません。 もう一つ南にあるのがこちらです。地蔵尊を祀る小祠です。しかし、同様に小祠内部が見えません。 この小祠の南側に「彦根藩邸跡」の石標が立っています。高瀬川沿いには、江戸時代いくつかの藩邸が並んでいました。これはその一つです。これで、町歩きウォッチングを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p265-2672) 『新選日本史図表』 監修:坂本賞三・福田豊彦 第一学習社 3) [出雲阿国が作った歌舞伎]かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで:「歴人マガジン」補遺東山三十六峰 :「Toshimi KOBAYASHI」京都宮川町 公式サイト京都宮川町 facebook宮川町と花街 :「よし富美」京おどり前夜祭 YouTube京おどり 総踊り 宮川音頭 YouTube京都花街・宮川町で「ゆかた会」 YouTube祇園小唄 宮川音頭 YouTube近世の京都にあった各藩の屋敷場所が知りたい。:「レファレンス協同データベース」土佐藩邸跡 :「京都観光Navi」幕末の京都。そもそも、なぜ大名は京都に藩邸を置いていたのか? :「金沢歴活」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館「京博のお正月」と二寺の山門風景 へ
2020.01.12
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4日に京博に出かけてきました。2日に奈良博に出かけたとき、「国立博物館メンバーズパス」の期限が12月で切れていたことに気づきましたので、その更新をするためと、新春恒例「京博のお正月」特集展示を鑑賞するためです。その印象をご紹介します。例により、JR東福寺駅から三十三間堂傍の道を通り、京都国立博物館に向かいました。 法住寺の山門風景です。山門の両側に行事案内の立て看板が置かれています。「庚子~かのえね~」の行事は現時点では終了ですが、右側の「大根焚き」はこの日曜日、12日です。無病息災を願う恒例行事です。 法住寺の北側に養源院があります。こちらは何の飾りもなく、いつも通りの山門風景でした。法住寺は天台宗の寺院で、養源院は浄土真宗遣迎院派の寺院です。宗派により新春に行われる宗教行事も大きく異なるということでしょう。通りを挟んだ西側の三十三間堂(蓮華王院)もまた、いつも通りの佇まいでした。この三十三間堂もまた天台宗の系統ですが、妙法院の所管される仏堂となっています。三十三間堂の正月の恒例行事は、なんと言ってもやはり「通し矢」でしょう。それと「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」。両年間行事は12日に行われます。 それでは、「京博のお正月」のご紹介に移ります。企画展の大型PRパネルは七条通に面する壁面に恒例として掲げられています。 これは、平成知新館で入手した、「京都国立博物館だより」の最新号です。PRパネルとこの最新号表紙に今年の特集展示の一端が集約されています。まず、新春特集展示は「子づくし-干支を愛でる-」です。干支に因んだ特集が恒例の展示です。とは言うものの鼠特集は今回の特集企画が京博で初めてとなるそうです。 左は京博だよりの掲載から、右は英文版京博だよりとPRパネルに掲載のものを引用しました。以下も同様です。(資料1)展示品は全部で24点の展示があり、その中で小さくて精巧な彫刻の根付が6点並んでいます。「蝋燭に鼠根付」はその一つです。 土佐光吉筆「源氏物語画帖」(重文)の「初音」の絵には、子と根にさらに音(ね)の字をかけているそうです。源氏物語は平安時代の宮廷の様子を描いています。「子の日」には、「子の日の遊び」が行われ、「子の日の宴」が催されたといいます。「子の日の遊び」とは正月の初子(はつね)の日に野外に出て小松を引き、若菜を摘む野遊びを言い、この日に行われる宴を「子の日の宴」と称したとか。「その日に丘や山に登って四方を望むと陰陽の精気を得て煩悩を除くという思想に基づく。松は延寿、若菜は邪気を払う意味がある」(資料2)子と根をかけた「根引きの松」は吉祥文様ともなったそうです。(資料1)『源氏物語』初音の巻には、「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はんに、ことわりなる日なり」 (今日は子の日なのだった。なるほど千歳の春を子の日にかけて、長寿を祝うのにふさわしい日である。)珍しく元日と子の日が重なったという描写です。小松を引き、若菜を摘み、遊宴を催すということになります。この文の後に、「姫君の御方に渡りたまへれば、童、下仕など御前の山の小松ひき遊ぶ。若き人々の心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿よりわざとがましく集めたる鬚籠ども、破子(わりご)など奉れたまへり」 (姫君の御方にお越しになると、女童や下仕えの女などが、お庭前の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちの気持は、自分たちも引いてみたくていられない様子である。北の御殿から、今日のためにわざわざ用意したらしい数々の鬚籠や破子などをおさしあげになっている)という情景を源氏が見る場面が描かれています。上記、音(ね)の字をかけるという箇所についてです。上記の子の日の遊びの直後に明石の君の詠む歌がでてきます。「年月をまつにひかれて経る人にけふ鶯の初音(はつね)きかせよ 音せぬ里の」と聞こえたまへるを、・・・・・・という風に。 (「年月を小松-姫君にひかれて過ごしてまいりました私に、今日の鶯の初音-初便りをお聞かせくださいまし 音せぬ里の」と申しあげになっているのを・・・・)鶯の初音(ね)に初便りをかけているという暗示です。つまり、姫君は六条院の春の町に住み、明石の君は冬の町に住むという状態で、新春を迎えても会うことができずに別々に生活を送っていたという状況が背景にあります。初音に重い意味合いが秘めらています。 永楽妙全作「黄交趾釉俵鼠置物」鮮やかな黄色の俵の上に、鼠が乗っています。縁起物の置物ですね。永楽妙全(1852-1927)は京都の女性陶芸家で、夫が永楽得全(14代 土風炉師・善五郎)だそうです。(資料4)余談ですが、[土風炉師・焼物師]永楽善五郎は京焼の家元の一つで、併せて千家十職の一つでもあるそうです。(資料5)「からくり人形 大黒と鼠」という珍しい作品も展示されています。 「新羅十二支像護石拓本」のうちの子像興味を抱いたのはこの拓本です。韓国慶州市にある金廋信墓護石だそうです。十二支全部の拓本が並べば、見応えがありそうです。 二つめの特集展示は、「京都御所障壁画 紫宸殿」です。上掲京博だよりの右上にこの部分が使われています。京都御所の紫宸殿には高御座(たかみくら)が置かれています。即位式のために東京に運ばれましたが、今は戻っているのでしょうか。この高御座が置かれていますので、紫宸殿の前に立っても、背後の障壁画はほんの少し垣間見えるだけです。高御座の背後には、紫宸殿の母屋と北庇を仕切る9面の障子があり、そこに描かれた障壁画は「賢聖障子(けんじょうのしょうじ)」と称されるそうです。今回それがすべて公開展示されています。こういう機会は今後もあまりないかもしれません。 9面のうち、中央の一面には獅子狛犬と瑞獸の負文亀(ふぶんき)が描かれています。そのうちの獅子狛犬がこれです。賢聖というのは、中国殷時代から唐代にいたる期間での選ばれた賢臣をさします。各面に4人、合計32人が描かれています。人物の上部には、名前や功績などが記された色紙形が貼られています。上掲の面は、東二間の障壁画だそうです。寛政度の内裏造営時に、幕府儒官柴野栗山主導のもとに時間をかけ図様考証が実施され、幕府御用絵師住吉広行(1755~1811)が描いたものだそうです。現在の紫宸殿には昭和40年代(1965-1974)に制作された模写が設置されているといいます。個々の賢聖の名称の説明は展示室には掲示がありませんが、「博物館 Dictionary No.218」という リーフレットが準備されていて、自由に入手できます。両面刷りの学習資料です。これに各面の賢聖の名が明記されています。ご参考まで。上掲・東二間は、左から諸葛亮(しょかつりょう)・蘧伯玉(きょはくぎょく・蘧瑗きょえん)・張良(ちょうりょう)・第五倫(だいごりん)だそうです。(資料1,6)たとえば、この4人のことがわかるという人は相当の中国史通でしょうね。一例として、『日本語大辞典』(講談社)を引きますと、諸葛亮と張良は項目として取り上げられています。残り2人は載っていません。『大辞林』(三省堂)も同様です。 3つめの特集展示は「神像と獅子・狛犬」です。京博だよりの左上、並びにPR大型パネルの左下に使われているこの像は、滋賀・大宝神社蔵の獅子です。様々な姿の獅子・狛犬を見ることができておもしろいと思います。基本の姿はほぼ同じですが、髪型の形状や目の表現、表情、尻尾の造形表現などが様々ですので、対比してみるとおもしろいものです。 展示室に、二つ折でA4サイズのこんな鑑賞ガイドが準備されています。普段は狛犬と言い慣れていますが、獅子と狛犬の違いや、これらのルーツと伝搬経路などがわかりやすく説明されている資料です。獅子と狛犬も、奥が深そう・・・・・です。 これは英文版の京博だより本文中に掲載された写真の引用です。京都・大将軍八神社蔵の大将軍神坐像です。日本に仏像が将来されて、広義での様々な種類の仏像が広まって行くに伴い、日本古来の神々の世界でも神像が作られるようになったと昔どこかで見聞した記憶があります。この像を見ていると、仏教の天部の像である四天王像や十二神将像の甲冑を連想してしまいます。神仏習合の世界での相互影響でしょうか。勿論、冠を被り袍を着て笏を持つ、平安時代の貴族のような姿で造形した神像もあり、バラエティがあり興味深いものです。最後に、一つご紹介しておきたいものがあります。二階の絵巻展示室で1/2~2/16の期間展示されている「幻の源氏物語絵巻」です。この絵巻は、展示室の説明によりますと、古典籍研究家である杉原盛安(生没年不詳)が制作全般に関与したと考えられることから「盛安本」とも呼ばれるそうです。「葵」の巻が展示されています。江戸時代前半に制作された重要作例で、物語の全文を詞書とする絵巻だと言います。私は知らなかったのですが、「2019年1月、夕顔の死の場面を描いた『源氏物語絵巻』の断簡がフランスで発見されたという報道」があったそうで、その絵巻の一環(巻)になるとか。「幻の」と冠するところが一層関心を引きます。「京博のお正月」への誘いになれば幸いです。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 「京都国立博物館だより 2020年1・2・3月号」 京都国立博物館2) 『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助=編 角川書店3) 『源氏物語 3』日本古典文学全集 小学館4) 永楽妙全(作) 紫交趾 花唐草文鉢 共箱 :「古美術ささき」5) [土風炉師・焼物師]永楽善五郎 :「古美術 八光堂」6) 「博物館 Dictionary No.218 京都御所の障壁画-紫宸殿」 京都国立博物館補遺法住寺 ホームページ養源院 :ウィキペディア蓮華王院 三十三間堂 ホームページ神像 :「コトバンク」男女神像 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」木造神像 男神坐像 一/女神坐像 一 :「文化遺産オンライン」横たわる夕顔、嘆く光源氏…幻の「夕顔の死」見つかる :「朝日新聞DIGITAL」幻の源氏物語絵巻「夕顔の死」 「盛安本」一部、仏で発見 :「朝日新聞DIGITAL」江戸初期における絵巻制作の一背景 : 中井正知・杉原盛安の文化活動 :「慶応義塾大学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 七条から三条へ 寺と地蔵尊と町並ウォッチング へ 京博を出た後に七条通から三条まで久しぶりに違ったルートを歩いてみました。 そのご紹介です。
2020.01.10
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前回ご紹介したこの案内図から始めます。一つ、空色の大きめの丸を国道169号線の左側に追記しました。「奈良ホテル」があるところです。散策最後の探訪先との位置関係がわかりやすくなると思いますので。国道169号線を南進していたとき、瑜伽神社の名称と方向を示す案内板が目にとまり、その名称に関心をいだきました。それは「瑜伽」という漢字が「ヨガ」の音訳として使われる漢字だったからです。何か関係があるのか・・・・そんな興味が湧いたのです。できれば後で立ち寄ろうか・・・・と。もう一つは、この「山ノ上町案内図」自体についてのことです。この案内図は現在の住所表記では、「高畑町」に立っているのです。この地図で位置関係を見て、天神社正面の鳥居前から西方向への石段を下り、瑜伽神社へ向かいました。後でこの地図の写真をよく見ると、この西に歩んだ道路とその南の県道との間に、「北天満町」「中天満町」という表記があります。つまり、山ノ上町・北天満町・中天満町は、高畑町という形に統合される前の町名だったようです。ウィキペディアの「高畑町」の項に、「域内に江戸期以来の御所馬場町、片原町、北天満町、中天満町、下清水町、中清水町、上清水町、下高畑町、上高畑町、破石町、福井町、丹坂町、閼伽井町、菩提町、山之上町、能登川町などの通称町名があり、ほかに東大路町、下久保町、上久保町、本薬師町、本薬師東町、高畑大道町、橋街道町、高畑南町などもある。」とその記述典拠を示して、説明されています。この通称町名の中に、「下清水町、中清水町、上清水町」とあります。県道傍の地蔵堂に「中清水」と刻されていた根拠がこれで明瞭になりました。またこの三町の名称がかつて玄昉が建立した清水寺の寺域が存在した場所に関係しているのでしょう。最終的に「奈良市高畑町」に改称されたのは、1903年(明治36)だそうです。(資料1) 天神社から西へ緩やかな坂道を下ると、朱塗りの鳥居が見えてきます。 「瑜伽神社」の寺号石標が入口東側に立っています。北方向に参道が延び、二の鳥居の先から石段となり、ここも小高い丘の上に社殿が見えます。左側手前の建物が社務所のようです。 入口を入ると、左側に手水鉢が見えます。正面に「瑜伽山」と太い文字が刻されていて、水の注ぎ口のある石柱には「瑜伽玉井」という文字が見えます。この傍に、「瑜伽神社のこと」という題で、案内文が掲示されています。後でご紹介します。神社名の「瑜伽」は「ゆうが」と読むそうです。 石段を上ると、左側に建物があり、右側には小祠があります。右斜め前の石標には「飛鳥神並社」と刻されています。 小祠の左側には「瑜伽山桜楓歌碑」が建立されています。 春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみてここ瑜伽山は、奈良十六景の中で「瑜伽山の桜」「瑜伽山の紅葉」と二景が選ばれる名所だそうです。歌を詠んだのは江戸時代、天保年間に6年間奈良奉行として在勤した藤原良材、「山城大和見聞随筆」三巻を著してもいる旗本の士だと言います。(駒札より) 詳しくはこの駒札をお読みください。正面には更に石段があり、それを上ると、 両側に阿吽形風の狐の像が見えます。 正面に南面する唐破風の拝所が設けられ「瑜伽本宮」と記された扁額が掲げてあります。 唐破風の獅子口の下の破風部分に、菊花の紋が付けられています。祭神は宇迦御魂大神です。別名を豊受大神と称し、伊勢神宮の外宮に祀られる祭神と同じとのこと。祭神との関係から、狐の像が置かれていることが頷けます。 「瑜伽神社略記」の駒札が掲げてあります。 こちらは上記に後ほどと記した入口に掲示の案内文です。当社の沿革の要点を箇条書きにしてみます。*かつては、飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守社として当社が祀られていた。*平城京遷都に伴いこの地に遷宮した。この地は「平城ならの飛鳥山」と称される。*元は元興寺禅定院の鬼門の鎮守社で、飛鳥古京の本宮に対し「今宮」と称していた。*中世、平安時代にこの山麓に興福寺の大乗院が建ち、大乗院の鎮守社となった。*神社名が興福寺の宗論の「瑜伽」に改称された。この沿革から、「平城の飛鳥」と称される理由と「瑜伽」の由来がわかりました。尚、平城遷都に伴い明日香の地よりこの平城の地に遷座した神について。調べていて入手情報の相互関係から理解したことなのですが、一説として、当初はどうも飛鳥坐神社の祭神が当地に今宮として遷座されたとあります。その祭神は「飛鳥の神奈備に祭られていた大己貴命の娘の賀夜奈留美命」とか。この神は現在、上掲の摂社「飛鳥神並社」として祀られていて、「摂社飛鳥神並社 瑜伽大神の和魂を祀る」と説明されています。(資料2)この瑜伽神社の祭神にもその後変遷がうかがえるようです。興福寺は法相宗大本山です。法相宗は唯識宗とも言われるように、唯識説を説く宗派です。瑜伽行唯識学派は単に唯識学派とも言われ、サンスクリット名ではヨーガーチャーラーと称すると言います。瑜伽神社の名称がヨーガの音訳である瑜伽が結びついてきました。興福寺北円堂に安置される像として有名な無著・世親は瑜伽行派の立場を確立宣揚した学僧です。尚、瑜伽行派は、正統バラモン系統のヨーガ学派とは別のものです。(資料3,4)探訪結果を総合すると、天神社と瑜伽神社がともに、元興寺禅定院ならびに大乗院の鎮守社だったことになりますね。 石灯籠の竿に「瑜伽大権現」と刻されています。本地垂迹説の一端がこの表記に見てとれます。神仏習合の時代の姿がここに残っています。 本殿に向かい右側斜め前(東側)の景色です。 万葉歌碑 ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 平城ならの明日香を見らくしよしも万葉仮名で刻した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の詠んだ歌碑が建立されていて、右側に駒札が立っています。 『万葉集』巻六、992番に撰集されている歌です。天平5年(734)の作。大伴坂上郎女は大伴旅人の妹で、万葉時代の女流歌人の一人です。女性歌人としては入集されている歌が最多と言います。最終的には氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた女性としても有名です。『口譯萬葉集』で折口信夫(釈迢空)はこの歌を、「昔住んでゐた飛鳥は、勿論よい所だが、奈良の飛鳥も、なかなか見るのに、愉快な處だ」と訳しています。(資料5) 一言稲荷社 「飛鳥之御井」と刻された石標が立っています。 西側にも境内社が祀られています。左が猿田彦神社(祭神:猿田彦大神)、右が久恵比古社(祭神:久延彦大神)です。猿田彦神とは、天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に中つ国へ降り始めよと命じたときに、その先導を名乗り出た国津神です。鼻の長さは七咫(ななあた:上代における長さの単位)で、口尻明るく、目は鏡のようで赤ら顔だったと伝えられる特徴を持つ神様です。一方、久延彦神(くえびこのかみ)は、『古事記』の中で、出雲神話に登場する神です。神名の由来は「神体の朽ち果てた男性」で、知恵の化身。足は行(ある)かねども天下の事をことごとく知れる神とされています。山田の曾富騰(そほど)という者だといわれています。案山子(かかし)を意味します。民俗信仰による案山子は、田を守り収穫をもたらす神と考えられているそうです。(資料6) この境内地から西方向を眺めると、国道169号線が直下に見え、その先に奈良ホテルへの通路が見えます。この国道169号線で分断されるまでは、ここ瑜伽山と奈良ホテルが建つ鬼薗山がつながっていて、中世には瑜伽山城、西方院山城・鬼薗山城があったところでもあるそうです。(資料7) 南東寄りの方向を眺めてパノラマ合成しました。ここからも奈良盆地を眺望できる確かにいい場所です。今では樹木が少し邪魔になりそうですが・・・・。奈良十六景に取り上げられた時季に再訪してみたいものです。ここまで奈良散策が終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 高畑町 :ウィキペディア2) 瑜伽神社 :「神奈備にようこそ」3) 瑜伽行派 :「コトバンク」4) 瑜伽行唯識学派 :ウィキペディア5)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫6) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房7) 瑜伽神社 :「奈良観光.jp」補遺大伴坂上郎女 :「千人万首」飛鳥坐神社 :「旅する明日香ネット」飛鳥坐神社 :「古都飛鳥保存財団」由加神社本宮 由加大権現本社 ホームページ法相宗 :「全日本仏教会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ
2020.01.09
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西面する福智院の門前、南北の道を北に歩みます。前回大きな交差点と称していたのは、南北に通る国道169号線と東西の通りとの交差点「福智院北」です。東西の通りは西方向が「ならまち大通り」で、東方向が県道80号線です。この大きな交差点の北西側に「旧大乗院庭園」「大乗院庭園文化館」があります。福智院前の通りから県道80号線に出ると、右折して東に行きました。南側歩道脇で出会ったのが、冒頭の少し大きな地蔵堂です。 格子戸の前に、角柱の香炉があり、正面に「卍 地蔵尊」と刻されていて、右肩に「中清水」と刻まれています。現住所は高畑町内となります。この「中清水」から連想したのは、福智院内の案内板に記されている玄昉が清水寺を建立したという説明の寺名「清水」です。調べてみますと、やはり関係がありそうです。一つは、毎日新聞「やまと百寺参り」の記事を掲載引用されているブログ記事を見つけました。(資料1)もう一つは、福智院のホームページがあることを今日知り、そこからもその関係が見えてきます。(資料2) 格子越しに堂内を拝見すると、地蔵尊を線刻した大きな船形状の石仏が一基安置されています。地蔵尊像がおぼろげに見えるくらいです。 石仏画像をグレースケールの変換して色調補正の処理をしてみて、少し線刻像の姿を推測しやすくなるかなという程度です。ご覧いただき貴方の想像力を働かせてみてください。 堂内には石仏の背後に小さな厨子が置かれ、また小ぶりな地蔵石仏なども傍に置かれています。地蔵堂の少し先で道路を左折して、北方向の通りに入ります。しばらく進むと、 石段参道が北西方向に見えます。 石段参道を上がってみると、奈良町が一望できる場所です。奈良町エリアで一番高いところにあたる小高い丘陵地にあります。勿論、ここから生駒山地・矢田丘陵・金剛山地など奈良盆地を囲む山々を遠望できる場所でもあります。そろそろ夕刻に近づいてきました。西方向に下る参道も見えます。 下から眺めた朱塗り鳥居は、「天神社」と記された扁額が掲げてあります。「天神社」と赤地に白抜き文字で天神社と記した幟も立っています。自宅でネットの地図(Mapion)を参照しますと「天神大神社」と表記されています。また、奈良町天神社とも呼ばれているようです。 鳥居をくぐり抜けると右側に「天神社縁起」が掲示されています。この境内地一帯は、奈良時代(8世紀)には、「平城の飛鳥」と呼ばれる聖地だったそうです。最初に祀られた祭神が少彦名命(すくなひこなのみこと)で、手間天神と呼ばれ、医薬や学問の神としてあがめられたとか。平安時代に御霊信仰の広がりの中で、菅原道真の霊が相殿として併せて祀られることになったそうです。道真の霊は天満天神とも呼ばれます。つまり、この天神社の天神には二重の意味合いがあることになります。天満天神が祀られたのは、社伝では白河天皇の時代だとか。 鳥居の斜め左(北西側)にある総霊社 丘陵の斜面が開平されて境内地になっていますので、すぐ前に石段があり上段に「割拝殿」が建てられています。中央の通路の先は更に一段高い境内地で、社殿が見えます。割拝殿の蟇股には星梅鉢紋が陽刻されています。 割拝殿を通り抜けると、石段手前右側に手水舎があります。その背後、石段を上がったところに石造臥牛像が奉納されています。これを見ると菅原道真、北野天満宮を連想します。 石段を上がり参道を歩めば両側に狛犬が配されています。 その先に唐破風の拝殿があります。「天神社」と記された提灯が左右に吊り下げてあり、紫色の幕が張り巡らせてあります。大きな剣梅鉢紋が白抜きになっていますので、雰囲気的には天満天神の方に比重がかかっている印象です。今では、やはり学問の神としての菅原道真の方がよく知られているからかもしれません。 拝殿前から眺めた本殿 本殿の西側には「神楽殿」があります。 神楽殿の前を奥に進みます。境内地北西隅の建物が何かは不詳。その東側に境内社として「浅間社」(祭神:木花咲耶姫命・このはなさくやひめのみこと)があります。 本殿を囲む瑞垣の背後を通り東側に行って見ますと、境内社として「秋葉社」(祭神:火之伽具土神・ひのかぐつちのかみ)があります。 境内を巡っておもしろいと思ったのは、様々なスタイルの石灯籠が献燈されていることです。石灯籠の竿に「凱旋記念燈」と刻されているのは日露戦争を背景にした献燈でしょうか。時代の雰囲気がこの刻銘と奉納に垣間見えるようです。 この境内地の南東隅に「祓戸社」が祀ってあります。 割拝殿の一部は社務所になっています。その前の境内地を東に歩むと、「稲荷社」(祭神:宇賀御魂神・うかのみたまのかみ)があります。 本殿の東側の一段低い境内地で、稲荷社の北側には池があります。そして池の北西側に「柿本社」(祭神:柿本人麻呂)が祀られています。 その東側、一層池に近い位置に「住吉社」(祭神:三柱筒男神・みはしらのつつおのかみ)があります。 池を東側に回り込み、本殿境内地の西方向を眺めた景色です。東西に細長い境内地です。 天神社の東門を出て、東から眺めた天神社の景色です。西日が木漏れ日となっています。築地塀で囲まれていますので、縁起の末尾に記載されている、「元興寺禅定院あるいは興福寺大乗院の鎮守となり」というかつての状況を記す一節がうなずける雰囲気です。 春日大社表参道の途中、あるいは浅茅ケ原を通り抜ける形で、北から南に向かってくると、この朱塗りの鳥居が一番近い入口になります。 この鳥居前の道路を挟み、東側(紫色の丸)に「山ノ上町案内図」が設置されています。上辺が北ですので、方位通りのイラストマップです。位置関係がわかりやすい様に追記しました。案内図の南辺に福智院と黒字で記入しました。もう少し南だと思いますが、位置関係はこれで掴んでいただけるでしょう。緑の丸あたりが、冒頭の地蔵堂付近です。荒池の傍を国道169号線沿いに南下して、福智院北の交差点に出るまでに出ていた「瑜伽神社」の方向を示す看板が気になっていました。そこで、この後、奈良散策の最後の探訪箇所をこの神社にしました。 天神社から西方向への石段を下り、振り返って見上げた景色です。つづく参照資料1) 奈良市の福智院、毎年6月18日に玄昉(げんぼう)忌/毎日新聞「やまと百寺参り」第9回 :「tsudaブログ『どっぷり!なら漬』」2) 福智院について :「南都 福智院」補遺南都 福智院 ホームページ北野天満宮 ホームページ富士山本宮浅間大社 ホームページ秋葉山本宮秋葉神社 ホームページ伏見稲荷大社 ホームページ住吉大社 ホームページ柿本神社(明石市) ホームページ祓戸大神 :ウィキペディア祓戸大神 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社 へ
2020.01.08
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奈良国立博物館に行く前に三条通から興福寺の南東側の石段を上り、興福寺の南円堂前を通り抜けました。 南円堂の軒丸瓦には、「南円堂」の文字が記されています。浪を表象したものと獅子の飾り瓦が使われています。 いつもこの参道を通り抜けるのですが、南円堂の南側に鐘楼があるのを今まであまり意識していませんでした。 南円堂の斜め前のお堂に安置されている不動明王坐像です。日差しの関係で堂内が明るく撮れました。 五重塔の傍を通る度に、塔全景と鬼瓦の写真を撮っています。やはり青空の方がいい。 東金堂と屋根の鬼瓦奈良国立博物館には2つの特別陳列を鑑賞に行きました。この内容は前回ご紹介しています。ここからは、奈良博を出た後の周辺散策のご紹介です。興福寺境内や東大寺、春日大社は初詣客で一杯ですので、人混みの名所は避けて南の方向を少し散策してから帰ることにしました。国道169号線(興福寺境内地の東側)を南に進みます。春日大社表参道の一の鳥居のある交差点あたりまでは初詣客でけっこう混雑しています。そこを通り過ぎて道沿いに進めば、人通りは極端に減ります。 国道169号線の東西両側には「荒池」があります。西側は奈良ホテルの敷地になっていますので、高い鉄柵が道路に沿って設けられていますが、東側は歩道に沿って低い柵があるだけです。 東方向のズームアップ 池の畔には鹿がいました。他にも数頭がゆったりと池傍を移動しています。 池の南西端に近い歩道から撮った荒池の全景をパノラマ合成しました。 歩道沿いの池西辺の柵が終わる辺りに、お地蔵さまが祀られています。南側側面には「南無阿弥陀仏」と刻されています。北側面を見ますと「交通安全」と刻まれていました。この辺りでかつて交通事故でもあったのでしょうか。お地蔵さまはそれほど古いものではなさそうです。この先には大きな交差点があり、横断した先に福智院町のバス停があります。ここで左折して、通りを東に歩みます。この通りを「頭塔」のある所までまず東進してみました。 通りの北側には趣のある町家があります。 奈良市指定文化財に登録されている「青田家住宅」です。江戸時代、嘉永年間(1848~1854)に建造された商家です。「横田屋」という屋号で代々醤油の製造販売を行われてきたと言います。 この通りの南側に、この町家も見かけました。 「頭塔」の入口まで行きましたが鍵が掛けられていました。開いていれば・・・と思ったのですが、残念でした。以前に2回訪れているので、まあいいか・・・と、引き返すことに。通りを戻れば、南側に「福智院」があります。以前に奈良の探訪講座でこの傍を通りすぎるだけとなっていましたので、開門されていれば訪ねて見たかったお寺です。山門が開いていました。 本堂(重文)本堂は閉められていました。格子ガラス窓も布で閉ざされています。通りに掲示の標識に、「地蔵大仏」という表記が出ていますが、その仏像は残念ながら拝見叶わずです。本堂前面の右側に案内板が置かれています。「寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により玄昉(げんぼう)が清水寺を建立し、その経蔵を鎌倉時代に本堂として再興し、福智院と称したと伝えられています。 本尊の地蔵菩薩坐像は、像高約2.73mの大作で、威風堂々とし、光背にも千体地蔵を表わしています。像内の墨書などにより、1203年に福智庄(現奈良市下狭川町附近)で造られ、1254年に当地に遷されたと考えられます。1283年の『沙石集(しゃせきしゅう)』にも霊験あらたかな『霊仏』と記されており、鎌倉時代の南都の代表的な地蔵像です。 本堂は、細部に大仏様を用いることや、本尊の墨書などから、1254年の建立と考えられています。高い内部空間をもつのが特徴で、柱を高い位置で継ぐことなどから、大きな本尊を安置するために前身建物を造り替えた可能性もあり、南都仏教の復興期にあたる鎌倉時代の堂のひとつとして貴重です。」(案内文転記) 本堂正面に「地蔵大佛」と記された扁額が掲げてあります。 向拝の頭貫の木鼻には草花文が彫刻されています。あまり見かけない造形です。蟇股には獅子と草花が透かし彫りにされています。 向拝の屋根には、獅子の飾り瓦が見えます。こちらは一般的な獅子像です。 本堂の左斜め前に、手水鉢置かれ、その背後に石造地蔵菩薩立像が建立されています。基壇正面に「御願(おねがい)地蔵尊」と刻されています。 手水鉢の龍像は興味深い姿です。龍口が水の注ぎ口なのでしょう。 また、地蔵菩薩像の基壇右側面に、六地蔵を線刻した石板が置かれています。 山門を入った左方向の築地塀前にお堂があります。「勝軍地蔵尊」と記された扁額が掲げてあります。右側の柱には、このお堂には併せて不動尊と毘沙門天尊が安置されているとの表記があります。堂内を拝見できないのが、これまた残念なところです。 その斜め前にこの「玄昉僧正顕彰之碑」が建立されています。この末尾から福智院の山号が「清冷山」ということがわかりました。福智院がここに存在する淵源に玄昉僧正がいたということを当寺を訪れて初めて知りました。後で調べていて、探訪地の相互関係などが奇しくもいささか明らかになってきました。少し、脇道に入ります。玄昉と諸般の関係についてです。玄昉は奈良時代前期、大和の阿刀氏の出だそうです。天智天皇から岡本宮を賜り、龍蓋寺(岡寺)を建てた法相宗の義淵に師事して、七上足と称される優秀な僧の一人となります。後の6人は、行基・宣教・良敏・行達・隆尊・良辨です。(資料1)玄昉は716年学問僧として入唐し法相宗の智周に師事し、在唐19年に及びます。遣唐使の帰国船にて、日本に帰国します。その時の入唐大使は従四位上の多治比真人広成です。聖武天皇の天平6年11月20日に種子島に帰着。翌年(735)3月10日に、遣唐大使らは「唐国より帰朝し節刀を返上した」と『続日本紀』は記録しています。そして、3月25日、「遣唐使一行が天皇に拝謁した」のです。この一行の中に、吉備真備が入唐留学生として帰国しています。唐国内で玄昉と真備が出会っていたのかどうかは不詳ですが、少なくとも帰国船では交流があったのではないかと想像します。「4月26日 入唐留学生で従八位下の下道朝臣真備が唐礼130巻・・・・・・平射箭(いたつきのや)十隻(・・・)を献上した」と記されています。玄昉は「帰国に際し、『開元録(かいげんろく)』に記載されている5000余巻の経論を請来(しょうらい)したものと思われ、以後、日本の写経の書目が増大した。」(資料2)と言います。737年、「8月26日 玄昉法師を僧正に任じ、良敏法師を大僧都に任じた」(資料3)という風に、玄昉の地位も高まります。玄昉は帰国後、興福寺に法相宗の最新の状況を伝えたことでしょう。上掲の興福寺南円堂には、「木造法相宗六祖坐像」(国宝)が安置されています。その中に、「玄昉像」(像高84.8cm)が含まれています。「興福寺法相宗興隆に貢献のあった学僧」として崇敬されているのです。(資料4)玄昉は「皇太夫人藤原宮子の看病をして功あり、宮中の内道場に仕える。それを契機に政治に参与し、吉備真備とともに藤原氏にかわって権力を振るい」(資料2)という立場になっていきます。それが吉備真備・玄昉らの排除を要求した藤原広嗣の乱の原因となったと歴史は伝えています。乱を起こした藤原広嗣は敗死しますが、玄昉もその後、745年に九州筑紫(福岡県)の観世音寺に左遷されるという結果となります。『続日本紀』は天平18年(746)の編年史中に次の記録を残しています。「六月十八日 僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏といい、霊亀二年に入唐して学問に励んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊んで、三品に准じて紫の袈裟を着用させた。天平七年、遣唐大使の多治比真人広成に随って帰国した。帰国に際して仏教の経典およびその注釈書五千余巻と各種の仏像をもたらした。日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで僧正に任じ、内道場(宮廷内で仏を礼拝修行するところ)に自由に出入りさせた。これより後、天皇のはでな寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行ないに背く行為が多くなった。時の人々はこれを憎むようになった。ここに至って左遷された場所で死んだのである。世間では藤原広嗣の霊によって殺されたのだと伝えている。」(資料3)権力者の側での正史に類いする歴史書にはこういう形で記載されています。法相宗並びに仏教の興隆に大きく寄与した優秀な傑僧だったことは間違いないことでしょう。松本清張が玄昉を登場させる小説『眩人』を発表していることを思いだしました。もう一つ、『平家物語』巻七には、「八 玄昉の事」という一節があります。その後半に「天平十八年六月十八日、筑紫国御笠郡太宰府の観世音寺、供養せられし導師には、玄昉僧正と聞こえし。高座に登り鐘打ち鳴す時、俄に空かき曇り雷おびただしう鳴って、かの僧正の上に落ちかかり、その頭を取って雲の中へぞ入りにける。これは広嗣調伏せられし、その故とぞ聞こえし」という記述があります。その後、翌19年6月18日、枯髑髏(しゃれこうべ)に玄昉という銘を書いて興福寺の庭に落とされたという記述が出て来ます。「その弟子どもこれを取って塚につき、その内に納めて、頭墓と名づけて今にあり。これによつて、広嗣が亡霊を崇められて、肥前国松浦の、今の鏡の宮と号す。」と語り伝えています。この最後は藤原広嗣への御霊信仰に繋がっていくことになりますが、『平家物語』が形成された時代には、そういう伝承が広まっていたのでしょう。(資料5)ここに記された「頭墓」が、上記の「頭塔」だと伝承されてきたという繋がりです。さて、脇道が長くなりました。元に戻ります。本堂の右側境内を拝見しました。 山門を入った右側は、築地塀沿いに細長い庭があり、南の奥に庫裡等が位置するようです。その手前に、築地塀で仕切られた手前に、石造観音立像が建立されていて、その回りに数多くの地蔵石仏が祀ってあります。 また、本堂のすぐ南側にも、大きな水鉢と数多くの地蔵石仏が集めて祀られています。 その背後、東側には「大乗院門跡地蔵堂墓所」と刻まれた石標が北東隅に立ち、長方形に区画された墓域があります。南側の最前列に、五輪塔が八基、誰の墓であるかを示す石標とともに横一列に祀られています。その背後には整然とかつ密集して墓石が祀られています。 墓石をよく見ますと、五輪塔が浮彫りにされています。大乗院に関係した僧たちの墓所なのでしょう。素直に考えると、地蔵堂というのがこの福智院の現在の本堂にあたりそうです。大乗院というのは興福寺の塔頭として創建された門跡寺です。摂政藤原師実の子尋範が入室して以来、藤原摂関家の子弟が門主となった寺であり、一乗院と並び交互に興福寺の別当に任じられた寺です。(資料6)元大乗院の庭園は、この福智院からみると国道169号線を挟み北西側に所在します。序でに、一乗院は、還俗して織田信長の支援で将軍となった足利義昭が、一乗院に入り覚慶と称して住んでいた寺として名を残しています。(資料7)大乗院、一乗院はともに明治維新で廃寺となりました。 墓所に立つ石造地蔵菩薩立像福智院に集うお地蔵さまを見仏しておきましょう。 墓所域のすぐ前に北向きに立つお地蔵さま。 二尊を浮彫にした石仏もあります。 宝篋印塔を浮彫にした板碑 地蔵尊を浮彫にして、その両側に戒名(法名)を刻んだものもあります。これらは墓石として作られたものでしょう。お地蔵さまには、人々の思いが込められているのだと思います。 福智院を出るにあたり、山門の左側に置かれていた案内をご紹介して終わります。「祈りの回廊」という企画の一環なのでしょう。秘宝・秘仏特別開帳が期間限定で行われるそうです。「2019年9月~2020年3月 秋・冬号」として、3/17~3/23がこの企画での福智院のご開帳の最後の期間となるようです。(資料8)福智院を出た後、北側に位置する東西の通りに出て、JR奈良駅に戻る前に、初めての道を散策することにしました。つづく参照資料1) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房2)玄昉 :「コトバンク」3) 『続日本紀 全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫 (上)p132、(中)p534) 木造法相宗六祖坐像 :「興福寺」 5) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p332-3336) 大乗院 :「コトバンク」7) 足利義昭 :「コトバンク」8) 祈りの回廊 2019年9月~2020年3月 秋・冬号:「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」補遺玄昉 :ウィキペディア玄昉 :「古寺巡訪」玄昉の墓<福岡県太宰府市>と頭塔<奈良県奈良市> :「源平史蹟の手引き」史跡 頭塔 :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」史跡 頭塔 :「奈良県」史跡頭塔発掘調査報告 :「全国遺跡報告総覧」足利義昭 :ウィキペディア名勝旧大乗寺庭園(名勝大乗院庭園文化館) :「NARA Traditional Guide」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社 へ
2020.01.07
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やはり、奈良公園入口にある奈良博の案内板から始めましょう。1月13日まで2つの特別陳列が行われています。そのご紹介です。 一つは、師走から年始にかけて恒例の企画「おん祭と春日信仰の美術」です。この展覧会は、おん祭の開催される時期(12月)に併せて祭礼の様子とその歴史が毎年様々な視点から紹介されています。今回は「春日大社にまつわる絵師たち」の特集となっています。もう一つは、「文化財写真の軌跡」というテーマでの企画で、特に「法隆寺金堂壁画写真ガラス原板」がそのハイライトになっています。私は、ある社会人向け講座でここ数年法隆寺の仏像美術の講座を受講し、また考古学視点からみた法隆寺の講座をこの1月までの一期だけの講座として並行受講していることから、特にこの法隆寺金堂壁画の方に関心を寄せていたのです。そこで2日に奈良に出かけてきました。 今回、博物館には観覧券を購入して入館しました。これは旧館の正面の景色です。現在、旧館は「なら仏像館」として利用されています。上記の2つの特別陳列を鑑賞した後、「なら仏像館」を訪れてみました。仏像ほかがかなり入れ替え展示されているように思いました。今までは、京都国立博物館で、国立博物館メンバーズパスの会員となっていましたので、そのパスで入館していたのです。2019年12月半ばで期限切れとなるのを失念していました。 これはA4サイズのPRチラシの表面です。上掲の案内と同じ観音菩薩の容貌写真原板が使われています。「第六号壁 第二列の二」と称される箇所の写真ガラス原板です。 これは鑑賞後に地下通路傍の売店で購入した図録の表紙です。同様に「第六号壁 阿弥陀如来像」の写真ガラス原板。 こちらは図録の裏表紙で、「第一号壁 赤外線写真 比丘」で、原板を洋画(ポジ)に反転させた写真です。 これは上掲チラシの裏面に掲載されている「第一号壁 第三列の三」写真ガラス原板の引用です。昭和24年(1949)法隆寺金堂の壁画の模写が行われている期間中に、火災が発生し壁画は損傷してしまいました。それら壁画は保存処置が施されて、収蔵庫に保管されています。また、その恒久的な保存と将来的な公開を目的として法隆寺金堂壁画保存活用委員会が2015年に設置されて、活動が始まっています。昭和10年(1935)に、文部省の国宝保存事業の一環として、京都の美術印刷会社が法隆寺金堂壁画十二面を撮影していたのです。巨大壁画の精密な記録作成に成功していました。図録を参照しますと、このときの分割写真撮影の主任技師・佐藤浜次郎氏は、「昭和10年十二壁を単色で撮影」されたのです。「この機会に実は私は誰から頼まれたわけでもなく、まったく自分の発意で別に十二壁を全紙大の乾板に色を分解して原色撮影しておきましたが、今ではこれが唯一の貴重な形見になりました。」と語っています。法隆寺金堂壁画写真ガラス原板は363枚あるそうで重要文化財となっています。2016年度から2019年度にかけてその原板の保存修理事業が実施されてきたことをこの特別陳列で知りました。今回の展示では写真ガラス原板10枚だけを、「第二章 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板」のセクションで展示されています。併せて、法隆寺金堂壁画撮影模型一式、撮影関連資料、『赤外線原寸大 法隆寺金堂壁画』(コロタイプ印刷)一式(20枚)などが展示されています。さらに、現在(後期)は「法隆寺金堂壁画模写(昭和の模写)」として「第十号壁(薬師浄土図)」が展示されています。この特別陳列は2章構成です。第一章は「文化財写真の軌跡」というタイトルのもとに、「1 古器旧物と写真の黎明-近世から近代へ-」「2 文化財調査と日本美術史」「3 歴史学と写真」「4 文化財修理と写真」「5 文化財写真の諸相」という5つのサブセクションとして構成されています。サブセクション1では、旧江戸城写真帖がまず展示されています。かつて江戸城の写真を見るのは初めてでした。+山形県の「県庁前通り」の写真と併せて、この写真をもとに高橋由一が「山形市街図」を油彩で描いたものが展示されています。石版画も併せて展示されています。写真の方は建物と通りだけが撮られていて一種無機質な感じですが、油絵と石版画には通りを往来する人々も描かれています。また、油絵と石版画では人々の描き方に微妙に変化が加えられていて、これまたおもしろいところです。 これは、サブセクション2に展示されています。上掲チラシの裏面に掲載されている写真です。「美術工芸写真帖」の一葉です。東大寺の日光菩薩像。 こちらはサブセクション3の展示の一部です。「台紙装写真」の一葉で、興福寺の不空羂索観音像です。サブセクション5では、大正から平成にかけての文化財写真が7葉展示されています。それぞれ見応えのある写真ですが、私には特に「法隆寺 五重塔塔本四面具のうち侍者像」という写真のインパクトが印象深いものでした。 こちらはもう一つの恒例企画展の今回の図録です。 一方、これはPRチラシの表面(左)と裏面(右)です。今回は、「第1章 春日若宮とおん祭のはじまり」「第2章 描かれたおん祭」「第3章 春日大社と絵師たち」「第4章 春日信仰の美術」という構成になっています。第1章で一際目を引いたのは、「若宮御料古神宝類 毛抜形太刀復元模造 一口」です。原品は保延元年(1135)11月に若宮社に寄進されたと考えられる太刀です。復元模造品を介して、当時の工芸技術がいかに精緻なものだったかがイメージできます。第2章の一旦は上掲チラシで紹介されています。チラシ表面の下部には「春日若宮御祭礼絵巻 上巻」が使われ、裏面の下部には、「春日若宮御祭図屏風」が載っています。会場では、絵巻3巻で祭礼の全体像がわかります。興味深いのは、狩野探幽筆の「縮図 春日若宮祭礼絵巻」が展示されていることです。探幽が目にした祭礼の姿を略筆で写し取り記録し淡彩を施している一巻です。矢野夜潮筆「春日祭図」二巻は横長に続く画面にうねるように前進する行列が大胆に切り取られて描かれている構図がおもしろい。長刀の先端部の斜めになった連なりだけや、野太刀と人物の肩までとそれに続く野太刀だけ描き、行列の人物像はこの絵巻を眺めた人の想像力で描かせるという技法が大胆です。現代感覚を感じさせる異色な絵巻です。掛け軸の絵で画面をはみ出した構図を見たことはありますが、絵巻で意図的に使っているのがおもしろかった。 こちらはチラシの裏面から切り出したものです。右の絵は図録の裏面にも使われています。これは春日大社の本殿に関係します。本殿は四殿が一列に並び、それぞれの間に壁が立てられていて、御間壁(おあいかべ)と称されるそうです。この御間壁には平安時代より絵画が描かれています。春日社では20年ごとに社殿を新たにする御造替が行われ、その際御間壁の絵は加筆されるか、或いは描き直されると言います。昭和5年の第56次御造替にあたり春日絵所預りとして和田貫水と大坪正義が本殿御間壁の絵を担当した時、大坪正義がこの唐獅子牡丹図を描きました。その折りの同寸の写しが右の絵だとか。2016年の第60次御造替の時は、描き直される事となり、前回加筆されることに留まった絵は壁から剥ぎ取られて木製パネルに貼り額装に仕立てられました。その唐獅子牡丹図ほか2面が展示されています。左の絵は「競馬図衝立」で、江戸時代文久3年(1863)のもの。20年に一度の式年造替で調進されたもので、若宮社の神楽殿に置かれたものと言います。これは衝立の裏面の絵です。 第4章は「春日信仰の美術」です。これらはチラシの裏面に使われた二種の春日曼荼羅です。会場には5点の春日曼荼羅が展示されています。「春日鹿曼荼羅」も1点展示されています。この種の春日曼荼羅は以前にも鑑賞したことがあります。そのため会場で初めて見た「春日千体地蔵図」と「春日地蔵曼荼羅」の方が私には印象深いものでした。もう1点「春日宮曼荼羅彩絵舎利厨子」が展示されています。正面扉の内面に不動明王と第威徳明王、両側面も扉で開き、四天王が各面に一体ずつ描かれ、奥壁に春日社の景色が描かれています。春日信仰と舎利信仰、つまりここにもかつての神仏習合時代の状況がうかがえます。この厨子は鎌倉時代(13世紀)の作品です。長い歴史の時間軸で眺めると、明治の神仏分離という強硬な動きこそが異常だったのかもしれません。歴史を振り返る上でも、一見の価値がある特別陳列だと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料図録『[特別陳列] 重要文化財-文化財写真の軌跡- 法隆寺金堂壁画写真ガラス原板』 2019年12月 奈良国立博物館図録『[特別陳列] おん祭と春日信仰の美術 ~特集 春日大社にまつわる絵師たち~』 2019年12月 奈良国立博物館補遺法隆寺 ホームページ春日大社 公式サイト 春日若宮おん祭 法隆寺金堂壁画 :ウィキペディア法隆寺金堂壁画 :「朝日新聞DIGITAL」法隆寺金堂壁画と百済観音 :「東京国立博物館」春日若宮おん祭_お渡り式_KASUGA WAKAMIYA ONMATSURI YouTube ←2014年春日若宮おん祭「お渡り式」 YouTube ←2017年【古都奈良の祭礼】春日若宮おん祭り~お渡り式~171217 YouTube ←2017年春日若宮おん祭「お渡り式」の時代行列 YouTube ←2018年2018.12.15(土) 春日若宮おん祭 大宿所詣行列 奈良市 YouTube ←2018年 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -3 瑜伽神社 へ
2020.01.05
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亀の水不動尊の少し先の分岐点から、山側の一番高いと思える道路をまず選択し、一種大凡の方向判断で進んで行きました。途中で、「京都イエス之御霊教会」の案内板がありました。後で地図を確認しますとそこはまだ北花山山田町です。この町は山に沿って細長くのびた形の区域になっています。その先で北花山大峰町の住所表示と再び北花山山田町の住所表示が行程の記録写真にありました。そして、JR琵琶湖線の線路下の隧道を抜けて進みました。結果的に目にとまったのが、冒頭の築地塀の角を切って設けられた「子安地蔵尊」です。 それだけではありません。そこはお寺の築地塀ですが、ずらりと築地塀沿いにコンクリート製のお地蔵さまが安置されているのです。後で調べてみて、中嶋利彦作ということを知りました。(資料1) 反対側から眺めた景色です。 西側の門を入り境内を拝見しましたが、ご紹介は本来の山門から始めます。 山門にむかって左側に寺号標石があります。「臨済宗妙心寺派 崋山寺」です。右側には、「愚堂国師入定地 崋山寺」と刻された石標が立っています。愚堂国師は愚堂東寔(ぐどうとうしょく,1577~1661)のことで、妙心寺住持を三度勤めた臨済宗の高僧だそうです。「近世初頭における臨済宗復興の先駆的人物であったが,万治元(1658)年に華山寺を建立して退隠し,この地で入滅した。」(資料2)と言います。 崋山寺を開山した僧です。この寺地には慈徳寺の旧跡になるそうです。(資料1,2)余談ですが、後で地図を見ますと、崋山寺の南側に、隣接して「元慶寺」があり、元慶寺の方が良く知られています。『都名所図会』にも「花山」の見出しの中で登場します。(資料3) 山門は薬医門の形式です。境内地からみた門の左側塀ぎわに大木がそびえています。 門前から撮って見ました。上掲の塀にこの「ケヤキ」の説明板が掲示されています。平成16年3月に「京都市指定保存樹ケヤキ」として指定登録されています。山門を入ると正面に庫裡が見えます。庫裡の西側に 本堂と思える建物と宝形造り屋根のお堂が並んでいます。本堂は南面しているようです。 山門東側・塀際の石塔 山門を入り左側にある鐘楼 撞座の上部、縦帯に「南無聖観世音菩薩」と陽刻されています。また、別の縦帯に「聖観音寺」という名称と住職名が陽刻されていますので、聖観音寺からここに移された梵鐘かもしれません。 こちらは山門西側の塀際です。 地蔵菩薩立像は西面して安置されています。 その両側に数多くの小ぶりなお地蔵さまが集まっています。 いずれもコンクリート製のようです。お地蔵さまの表情がいいですねえ・・・・。 それらの西側に、「花山院之墓」と刻された石標が立つ三基の五輪塔が並んでいます。 詳細不詳。この墓の北側、塀のそばにも、 お地蔵さまが並んでいます。お地蔵さまの微笑みに満たされて、寺を出ました。 すると、お寺の東北角の北面下隅龕にも石造地蔵菩薩立像が祀られています。崋山寺は境内が地蔵尽くしのお寺でした。北花山河原町に所在します。 崋山寺前の道路を東に進むと、またお地蔵さまの小祠が目にとまりました。最初の辻の南東側が花山中学校です。ここが華山寺を訪ねる目印になります。右折して、南進すると府道116号線に至ります。そのまま道沿いに南に歩めば、国道1号線に至ります。地図を見ますと、花山中学校の背後(東)には、旧安祥寺川が南下していきます。この川端の道路を利用するのもいいかもしれません。この日の探訪は国道1号線に出たことで終了です。今回のご紹介は、年をまたぎました。ご覧いただきありがとうございます。今年もお立ち寄りいただき、参考になるようでしたら幸いです。今年もよろしくお願いします。参照資料1) 崋山寺(京都市山科区) :「京都風光」2) 愚堂国師入定地 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p302補遺愚堂東寔 :「コトバンク」山科だより「山科区民誇りの木」 渡邉好造氏「花山院之墓」について :「鏡山次郎 ホームページ」 元慶寺 :ウィキペディア元慶寺 :「京都観光Navi」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか へ探訪 京都 山科を歩く -2 日岡峠の旧東海道(地蔵尊の小祠・光照寺・大乗寺・量救水と亀の水不動尊ほか)へ
2020.01.03
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前回ご紹介した『都名所図会』の載る日岡峠の挿絵から始めます。(資料1)赤丸を付けた牛と牛車が描かれている方が京都側です。赤色の番号1が「姥が懐」と呼ばれていた場所で、番号2が「日の岡」です。そして幕末の慶長年間、日岡に新道が作られたとき、京都側は姥が懐の辺りで日岡峠を通る東海道と新道が合流するということを『城州日岡峠新道図紀』のご紹介で触れました。(資料2)そして、「車石公園」から坂道を少し御陵駅側に戻ると、府道と旧東海道との分岐点があると最後に説明しています。 京都側から来ると、この表示が目印になります。左側に府道があり坂道が下り勾配です。一方右側が旧東海道で、上り勾配の坂道になっています。つまり、この辺りは江戸時代に姥が懐と呼ばれたエリアに相当するようです。現在の地名は「山科区北花山山田町」です。住所表示板がありました。現在の旧東海道は乗用車一台が通れる程度の道路幅になっていて、道路の両側は家が連なっています。今では高台にある住宅地の中の道路という雰囲気です。 旧東海道を歩き始めると、お地蔵さまを祀る小祠が目に止まり始めました。 そして、この家が目にとまりました。右側の倉の前の樹木の根元に表示があります。それには「150 years house」(築150年の家屋)と記されています。外国人の人が結構旧東海道を訪れるのかもしれません。 その家への坂道に近づいてみると、こんな休憩できる雰囲気の場所が見えました。柱には「山科牧畜場牛乳搾取所」という木札が掲げてあります。そこに認可日付と認可番号が記されています。明治時代の認可です。この家の古さの傍証となっています。 この家の前あたり、道路の反対側に「旧東海道」と刻された石標が立っていて、樹間から府道が下方に見えました。かつての新道に相当します。 石仏の頭部を眺めると、お地蔵さまとは思えない形状のものがあります。それもお地蔵さまとして祀られているのかもしれません。 1箇所だけ、「天道大日如来」と記された提灯が吊るされている小祠があります。しかし、その小祠内にお地蔵さまのような石仏も安置されています。洛中を含めて、時折提灯を堂内に吊るし「天道大日如来」を祀る小祠を見かけます。 いつ頃から祀られているのかわかりませんが、次に訪れた光照寺までの北花山山田町の区域に沢山の小祠が目にとまった次第です。 その先にお寺があります。後で調べてみますと「頂後山源空院光照寺」です。 石段の手前にあるこの石標が目に止まりました。当寺ホームページの記述を参考にすると「当寺は法然上人の御霊跡でもあります」と記されていますので、「円光大師□□跡」(判読できない文字あり)と刻されているのはそのことを意味するのでしょう。「行基菩薩が草創された後、光照法師が再興され、浄土宗に改宗された事がきっかけとなり光照寺と名づけられました。」とのこと。当寺は800年以上の歴史があると言います。(資料3)「『東海道分間延絵図』(江戸末期)では、光照寺の北側辺りに「義経千本松」「高札場」『毘沙門堂』が記されているが、現在その跡はない。」(資料4)とのこと。また、「三条海道筋山科郷麁絵(そえ)図」には、後でご紹介する梅香庵とともに、光照寺が図の中に明記されています。(資料5)上掲『都名所図会』の粟田口日岡峠図に光照寺が描かれていないのは単なる省略でしょうね。 石段を上って行くと、「善光寺如来」と上部に刻された三尊石仏があり、 その側にいくつか如来形の石仏も並んでいます。石仏にはすべて前掛け(涎掛け)を付けてあります。これらはすべてお地蔵さまとして信仰されているのでしょうか。区別されているのでしょうか。 その先に、近年建立されたと思える石造阿弥陀如来坐像が見えました。左隣りの無逢塔の塔身に「南無阿弥陀仏」、竿に「暦代蓮華蔵」と刻されています。蓮華蔵とは蓮華蔵世界を意味するものと思います。永代供養のために建立されたようです。 その先に本堂があります。本堂前までの境内を拝見して先に進みました。 少し先に、法華宗の「大乗寺」があります。 大乗寺の寺号標の側に、この駒札が設置してあります。駒札を読みますと、江戸時代にはここにはなかったお寺です。昭和55年(1980)に上京区鳳瑞町からここに移転した後、無住寺となり荒廃していたとか。平成4年(1992)以降から復興が進められていると言います。今では1500本もが群生する「酔芙容の寺」として知られているそうです。(駒札より)寺への上り口の石段が少し急勾配ですが、境内を拝見することに・・・。 山門から境内に入ると、まず次の歌碑が目にとまりました。 この歌碑、私には判読できない箇所があります。ご教示いただければうれしいです。 こちらは読みやすい字体です。傍に「日蓮聖人御和歌」と刻した小さな石標があります。 供養塔 山門の左側の石段から見えているのが、この2つの歌碑です。それぞれに歌碑の寄進主が駒札が設置されています。歌意と鑑賞を詳しく記されています。右: 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ 光孝天皇 小倉百人一首 第15番左: 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば 源宗干朝臣 小倉百人一首 第28番お堂より一段高い境内地を奥に進みます。 突き当たりに「十三重石塔」が見えます。 軸部には四方仏が浮彫りにされています。四方仏として今までに見てきたものとはまた趣の違う浮彫です。この2面だけ確認できました。 十三重石塔の左側にこの像が建立されています。「酔芙容観音菩薩像」と期した木札が前に立っています。 基壇の正面に「酔芙容観音」と陰刻されています。両側の線刻は酔芙容なのでしょう。 左側に、「酔芙容観音」と題した漢詩碑が建立されています。岡澤宣洲作の漢詩です。 花山の地称芙容綻びて 訓在り詩を吟じて意気揚る 観音なる像現れて此の域に望み 尊形へ合掌し温容を仰ぐこれは漢詩の左に記された読み下し文です。碑の下半分には道釈が記されています。酔芙容は9月~10月に花を付け、朝、午後、夕~夜と花の色が変化するそうです。酔芙容が咲く時季に現地で、道釈をお読みください。 大乗寺を出た後、道沿いに進むと、挿絵に番号2を付記した「日の岡」の峠辺りです。現在の地名は山科区日岡ホッパラ町です。道路に沿ってフェンスがあり、ここは私有地ですがその内側の隅に2つの道標が立っています。「右 明見道」の道標は大塚の妙見寺への道案内に立てられたものとされ、低い方の道標には「右かさんいなり道」と記されているそうです。(資料4) この道標の左側に幅の狭い通路があり、それが『都名所図会』に記された「量救水は石刻の亀の口より漲る」という場所に導きます。量救水は「亀の水」とも称されています。「亀の口不動尊」という幟が目印になります。 まさに、石刻の亀の口より一条の水が絶え間なく注がれています。 四角い祠の奥に、石造不動明王坐像が安置されています。「亀の水」は東海道を往来し、難所の一つだった日岡峠を越える人々の渇を癒やすために飲料水として設けられたものと言います。木食正禅上人は日岡峠改修工事の過程で峠に梅香庵を設置し井戸を設けました。最初は湧き上がり方式だけの井戸だったのを、衛生面の観点から亀の口から水を落とし、水鉢に水を溜める方式に改良し、「量救水」と称したそうです。その水鉢は丸型の井筒で、高さ56cm、外径1m、厚さ15cmの大きさのもので、側面に「量救水」と太い文字が刻されているというものです。この丸型大水鉢は現在、東京に所在する椿山荘が所蔵されています。また、この大水鉢の上部には、時計回りで「山科郡日岡峠車道木食正禅建立省方」と彫られ、内側には光明真言の梵字28文字が刻まれているそうです。(資料5)「亀の水の上には水神の小宮を造り、その奥に不動尊を安置しました。水神様がおられれば水を汚すこともあるまい、と思ったからです。」(資料5)水神様を祀り、不動尊を安置された意図がうなずけます。この亀の水の近くに梅香庵があったそうですが、今はありません。『都名所図会』は、「峠の梅香庵は地蔵尊を安置す」と記しています。そこが冒頭の日岡峠の挿絵に番号3を追記した「木食寺」と記されているあたりだそうです。(資料4) 亀の水の辺りで、道がいくつかに分岐していきます。分岐点近くから山科の町を見下ろした景色です。天智天皇山科陵辺りまでの展望が良い景色です。この坂道がたぶん旧東海道であり、山科陵の近くで府道(三条通)に合流する道だと思います。この後、この道を下らずに、山沿いの一番高い位置の道路を歩いてみて、大凡の見当で歩いてみました。つづく参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)2) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月3) 光照寺について :「頂後山源空院光照山」4) やましなを歩く東海道1日岡峠 :「山科区」5) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月補遺蓮華蔵世界 :「コトバンク」蓮華蔵世界 入澤崇氏 :「J-STAGE」(印度學仏教學研究)華厳経の世界 1.盧遮那仏と蓮華蔵世界 斎藤征雄氏 :「企業OBペンクラブ」フヨウ(芙蓉)&スイフヨウ(酔芙蓉) :「里山コスモスブログ」スイフヨウ(酔芙蓉) :「小さな園芸館」 京都山科:大乗寺の酔芙蓉 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか へ
2020.01.01
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