地球人スピリット・ジャーナル1.0

地球人スピリット・ジャーナル1.0

2007.07.24
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カテゴリ: マルチチュード
<4>よりつづく


「サイバージャーナリズム論」 <5>

 p209~p218におけるスポンタ中村(以下敬称略)の持分の要点をつまみあげれば、次のようになるのだろうか。

1)ニューメディア時代の望ましいジャーナリスト像とは何なのか?  p210
2)「市民記者」はジャーナリストとは”似て非なるもの”ものである。
p210
3)なぜ、既成のジャーナリストを凌駕する市民ジャーナリストが生まれないのか。 p212
4)「P2P世界の知的門番」とは誰のことか?
p214



1)ニューメディア時代の望ましいジャーナリスト像とは何なのか?  p210

 どんな時代であろうと、本当に求められているのは一部の職業カテゴリではなくて、人間のあり方そのものだろう、と思う。ジャーナリストを求めるとすれば、ジャーナリストという土俵の上で語らずを得ず、人間そのものにたどり着くまで時間がかかりすぎるのではないだろうか。ジャーナリストという職業に信頼や尊敬の念を持たないではないが、勝手なことを言わせてもらえば、今後、ジャーナリストの世界がどのような展開に巻き込まれていくのか、などについては、私自身はあまり関心がない。

2)「市民記者」はジャーナリストとは”似て非なるもの”ものである。 p210

 この概念はどのような経過でこのような名前を獲得したか知らないが、少なくとも、ライブドアが「パブリックジャーナリスト」というキャンペーンを張った時には、私自身もググッと来た。都合がつけば参加したかも知れないが、いろいろ疑問も残っていた。たとえば、自分が書いた記事を採用されたらいくらかの報酬になり、採用されなければ「ボツ」になる。じゃぁ、その時の私の「意見」はどうなるのだろう、ということ。私の意見の管理権、編集権をLDに握られてしまう、ということになるのだろうか。それはいやだな。言いたいことを言えるのがネットのいいところなのに、私と私の「意見」の間に、誰か他の存在を入れたくない、そんな感じがした。

 スポンタ中村自身が「あの半年間の無駄な体験」と総括しているのだから、それ以上、私には言うことはない。私は「無駄な体験」をしなくてよかった、というべきか。なんであれ、LDの軸足がぐらぐら揺れていたことは確かなので、キレイ事はともかくとして、その中で自分がどれだけ楽しめるのかは、未知数だった。まぁ期待薄だったということか。体験しなかった私だが、本当は、その「無駄」を体験してみてもよかったかな、と今では思っている。貴重な体験をした当のご本人には、これからも機会をとらえて、そこでなにがあったのかを話していただけるなら幸いだ。

3) なぜ、既成のジャーナリストを凌駕する市民ジャーナリストが生まれないのか。 p212

 これはどのジャンルでもいえることではないだろうか。相撲の横綱をこえる新しい相撲取りを待ち望んでも、なかなか登場はしてくれない。キックボクシングのチャンピオンを超える新しいキックボクサーはなかなかでない。そこで、たとえば、K-1というあたらしいスポーツをつくり、相撲取り、キックボクサー、レスラー、空手家、柔道家を戦わせて、手っ取り早く新しいK-1チャンピオンを作ったほうがいいのではないか。

 ひょっとすると、ジャーナリスト、という概念は、もう古いのではないか。ジャーナリストを超えるのは、市民ジャーナリストにではなく、まだまだいい加減の概念ではあるが、このブログでいうところの「マルチチュード」にでも、その夢を託したほうが早いのではないだろうか。

4)「P2P世界の知的門番」とは誰のことか? p214

 さあ、きたぞ。P2P。私は技術に詳しくないので、ついついイメージで語ってしまうところがあるが、カテドラルとバザールでは、当然バザール派なのであった。P2Pという言葉を聴くと、ちょっと興奮する。聞くところによれば、スカイプなどもP2Pの範疇に入るらしい。Winnyに関するウィルスが起こした悪戯だけがクローズアップされてP2Pの功績はなかなか評価されないが、むしろP2Pの功績を目立たないようにするためにWinnyがスケープゴートにされているのかな、とさえ勘ぐったりしてしまった。

 バザール派ということであるなら、当然、そこには リチャード・ストールマン リナックス 、フリーソフトウェア、 オープンソース などへの言及が当然のごとく起こってこようが、技術者ではない単にミーハー・バザール派の私には、実は本当のことはよくわからない。私の周辺ではいわゆるIT産業で食べている技術者たちも多いのだが、結構彼らはカテドラル派が多い。多いというより、ほとんどそうだ。私みたいな、外部のミーハーがワイワイと言っても、現実的にその仕事で食を食んでいる人々は、秩序ただしく「私語禁止」のルールを守っていることが多いようだ。

 私の想定する「P2P」は、バザールよりももっと進化した情報システムだ。 p215

 P2Pとは、Person to Person、個人から個人へ、という意味だととらえる。そういった意味で言えば、たしかにインターネットは、ところどころに適当な大きさのハブが存在して、そのハブに等間隔で各個人がぶら下がった形になっている。この図式をどこまで細分化するかはともかくとして、どこかでだれかが管理するすることになってしまう。LAN構造があるかぎり、社内、家庭内ですら、厳密にはP2Pではない、ということになるだろう。

 P2Pは中央サーバーを持たない、より進化した「多」対「多」の情報交流システムだ。 p216

 さぁ、ここでいうところの「多」とはいくつくらいの数字を示唆しているのだろうか。地球人の全人口60億を想定しているだろうか。あるいは日本人1億3000万人かな。私は、それはマスメディア時代の悪しき皮算用のように思う。

 人間生きていて、付き合っていける人間の数はそう多くない。たとえば、私が書いた記事が60億人に届くとして、60億人から帰ってくる60億通のレスには目を通せない。それは無理だ。だから、私の記事はそんなに多くの人に届く必要はない。

 一つの目安としてだが、人々は年賀状をどのくらい出すだろうか。一般的に考えて、少ない人で10~30通程度、多い人で400~500通程度か。最近の若い層はメール年賀で済ましてしまうだろうし、年に一度のDMがわりに年賀状に力を入れるひともいるだろうが、日常的に付き合っていける人はそう多くない。

 たとえば、ケータイに個人アドレスや電話番号を記憶させているのだが、一般的な社会人であろう私は、その記録が1000名に達したことはない。ファックスや固定やケータイを複数登録するので、500は足らないが、1000までは必要ないのではないかな。

 その他の件から考えても、私は「多」とはせいぜい200程度あれば、十分役に立つのではないか、と思っている。200対200で十分なのではないか。これだって、それぞれに支線を張ったら相当のネットワークのコングリマリットになる。

 私のRSSリーダーは100ブログまでしか登録できないが、面白いブログを見つけて100登録しても、私は全部目を通すことはできない。現在は40とちょっとだ。例のパレートの法則から考えてみると、200名のうちアクティブな関係がその20%で続いていれば、まずは80%の自由な言論ができている、と想定することもできるのではないだろうか。

 ネットワークは双方向性だ、などといわれることがある。しかし、考えてみればネットやウェッブは、くもの巣をイメージしている限り、平面にとどまる。それは、日本列島とか、せいぜいアジアという範囲程度なら、くもの巣にたとえることもできるだろうが、いまやインターネットは地球全体を覆っている。平面ではなく3Dであり、球体だ。しかも、球体というより、どの地点からもどの地点への等間隔距離でイメージされることが多くなってきているのではないだろうか。そろそろネットワークという言葉は実態にはあわなくなってきた。

 私は語呂合わせで、新しい概念をファイアワーキングとでも名付けたらどうだろか、と思う。ファイアワークとは花火のこと。打ち上げ花火は、裸の大将の貼り絵のように円で表わせられるけど、本当は球体だ。しかも二次的、三次的に小さな球体をいくつもつくる。

 そしてもうひとつ大事なことは、ネットワークの双方向性がよく語られたけど、それは、巨大マスコミと読者とか、数局しかないテレビ局と視聴者という、一方的な情報のあり方が常識化していた時代にこそ双方向性が語られたのだろうと思う。だが、これだけ総表現が可能になった時代では、むしろ、双方向性を強調する必要性は薄らいできているのではないだろうか。

 考えてみれば、P2Pといっても、PからPへいくには何次かの隔たりがある。あっても届けばいいのだが、その返信は、かならずしも、その何次かの隔たりをまったく正確に逆流してくるわけではない。新たな道筋を作って、戻ってくるのだから、それは返信と考える必要はないのでないだろうか。それはあらたな発信だ。

 ネットワークといっても、それが固定化してしまえば、いわゆる組織の変種でしかなくなる。ところがファイヤーワーキングでは、一発打ち上げ花火方式で、形もろともその時だけで、形が残らないのもいいのではないか。

 結論として「P2P世界の知的門番」というのは、私にはよくわからない。むしろ、意識をおなじくする200くらいの<マルチチュード>が常時流動的に認知しあえるシステム、それがあれば、「知的門番」は不要なのではないかな、と思う。

つづく





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Last updated  2009.02.16 20:48:49
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補足。  
スポンタ中村 さん
1.ジャーナリストとは、情報発信者ではなく、情報の重要度の審査員。

有体にいえば、競馬の予想屋。彼らは、未来を予測するが、当たる場合もあるし、当たらない場合もある。ここで重要なことは、競馬の予想屋は決してターフを駆け抜けぬことである。

2.市民記者は、他者を語ってはならぬ。市民記者は自分に切実でないことを論じてはならぬ。

実は、私は「無駄な半年」とは書いていない。編集の過程で、論旨を明確にするために、そのような変更があり、私が同意したのである。

あそこで起きたことは重要なことだと感じているし、もし興味かあるなら、その経験は、ブログで読める。
<small> <a href=" http://www.doblog.com/weblog/myblog/68466" ; target="_blank"> http://www.doblog.com/weblog/myblog/68466< ;/a></small>

3.本著で紹介されているラザー・ゲートをブロガーが、4大ネットワークのアンカーマンを更迭させたと捉える人が多いがそれは間違いである。特定のブロガーがダン・ラザーを更迭させたのではない。
集合知とでもいうべき、無為によって成立した役割分担によってダンラザーとCBSの不正を暴いたのである。

プロを凌駕する市民記者が生まれないと嘆くのは、既得権者の惹かれ者の小唄である。
市民記者の国語力・分析力を非難することは間違っている。雪印の企業腐敗を暴いた西宮冷蔵の社長は、その実効性において、すばらしい市民記者であるが、いかなる国語力・分析力も持ち合わせていない。
市民記者はそもそも、そのような技量を持つ必要はなく、その不備は職業ジャーナリストが埋めればよいのである。

(2007.07.28 07:28:38)

つづき。  
スポンタ中村 さん
4.P2Pというのは、「コミュニケーションの基本は1対1の対話」でしょ。ということ。

カテドラルもバザールも、礼拝や祭りが終われば、対話も終了しなければならない。一方のP2Pは、立ち話と同じだから、どこでも・いつでも・いつまでもできるのである。

5.私の想定する「P2P」は、バザールよりももっと進化した情報システムだ。

これは、私が2007年1月に考えていたこと。
いまは、個がコミュニケーションの最終単位になることはないとおもっている。

コミュニケーションの最終単位は対話(二人)である。それが数珠繋ぎになってクラスター化する。
個が最小単位で、それがハブに直結するなどという構図は、「議論をせずに結論を出す」または、「予習をせずに会合に行く」のと一緒で、叡智たる集合知を生み出さない。

6. P2Pは中央サーバーを持たない、より進化した「多」対「多」の情報交流システムだ。

これも同様で2007年1月の私の論理で過去のものである。

アルゴリズムを論じてきた私がいま思うのは、東京ドームや日本武道館の会議では、有効な結論は生み出さない。所謂フラット化の弊害が発生する。
それは、デジタルジャーナリズム研究会が指摘する「ポピュリズムと衆愚としての集合知」である。

(2007.07.28 07:29:52)

さらに  
スポンタ中村 さん
知り合いの知り合いという括りで言えば、全世界のすべての人は、7世代までの知人だという。

私は今村昌平の学校の一卒業生でしかないが、今村昌平の知人の一人ではある。ならば、今村昌平がマーチン・スコセッシと知遇を得ているならば、世界の巨匠スコセッシは、私の知り合いの知り合い(2世代つながり)である。
それからいえば、小津安二郎も、黒澤明も、石原裕次郎も、天皇陛下も、有名人のほとんどは二世代つながりになる。市井人の場合はそうはいかぬが、それでも7世代あればつながるということらしい。

問題は、それらの繋がりが単独ではなく、複数・並行的に存在するということ。
それがイメージできたときこそ、P2Pが実感できると思う。

ネットワークは動的であるし、そして、複数存在し、それは、並行的・並存的なのだ。

どこまでいっても、インターネットにガバナンスの概念を適用することに妥当性はない。 (2007.07.28 07:30:24)

半年の体験n  
Bhavesh  さん
☆スポンタさん

☆スポンタさん
>実は、私は「無駄な半年」とは書いていない。

「あの半年間の無駄な体験」212Pのところは、う~む、とうなったところではありました。私もスケールは違うけれど、編集する側にも編集される側にもいたことありますし、さらにマーケティングの場にもいたことがあるので、その時々の丁々発止な製作過程がわからないでもありません。
いずれにせよ、ネット上でもスポンタさんの表現が多々あるようなので、そちらからもより本意がわかっていけがいいなぁ、と思っています。 (2007.07.28 16:31:41)

6次の隔たり  
Bhavesh  さん
☆スポンタさん
>知り合いの知り合いという括りで言えば、全世界のすべての人は、7世代までの知人だという。

私はネット中にマスメディアが登場することは、必ずしも期待していません。むしろ、ごく普通の200人の知人。そして、その中に20%のアクティブな比較的アクティブな友人達40人がいればいいのでないか、と思っています。それぞれがそれぞれにその「コミュニティ」に流動的に参加している形です。

隔たりの計算が、下記で正しいかどうかはわかりませんが、
1次の隔たり 40=40
2次の隔たり 40*40=1600
3次の隔たり 40*40*40=6万4000
4次の隔たり 40*40*40*40=256万
5次の隔たり 40*40*40*40*40=1億0240万
6次の隔たり 40*40*40*40*40*40=40億9600万
7次の隔たり ・・・・

となり、幼児や地域の特性を考えると、63億とか言われる地球人類のほぼ全員とつながることは可能だということになります。

だからとにかく、世界共通の平均化したグローバルな感覚を身につけるより、とにかく200人の知り合いたち、そしてその中の特に親しい40人の友人達と暮らしていけるセンス、そしてかれらとコミュニケートする力があれば、自分の意思は、グローバルなものになりえる、と仮定することができると思います。 (2007.07.28 16:48:55)

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