「茶の本の100年」
岡倉天心国際シンポジウム
アン・ニシムラ・モース /三徳庵 2007/8 小学館スクウェア 単行本 231p
No.937
★★★★☆
「お
茶のおけいこ」
シリーズは必ずしも古典ではない。現在刊行中のれっきとしたマニュアル本だ。無粋な門外漢としては、なんとも古色蒼然とした世界だなぁ、と思い勝ちだが、現在も脈々と続いてる「道」だ。かたや、100年前に「茶の本」を書いた岡倉天心とはどんな人物でどんな仕事をしたのだろうか。もう古いのだろうか、まだ「新しい」のだろうか?
「茶の本」刊行100年を記念して2006年9月に開催された岡倉天心国際シンポジウムを基に編集・構成されたのがこの本だ。現代美術専門館・ワタリウム美術館と、茶道文化の普及を目的とする財団法人三徳庵の共同企画ということになろう。9人の共著。天心の玄孫であるカメラマン岡倉禎志や松岡正剛の名前が見える。アン・ニシムラ・モースは、天心との縁もあり大森貝塚の発見者であるエドワード・モースの子孫かなぁ、と推測してみたが、さだかではない。
あ
まりにも、今の茶の湯を考えるときに「茶の本」がうまく適合するために、われわれは「茶の本」の持っている1906年の段階の異質性といいますか、その非常に得意な性格というものを見落としがちでございます。われわれが違和感なく「茶の本」が読めるということは、逆に申しますと1906年の段階では「茶の本」は非常に違和感のある本だったのではないかということを今日はいくつかの点から申し上げようと思っております。
090p 熊倉功夫
お茶のおけいこシリーズとこの本を並べてみるだけで、二つの本はまさに現代の本ではあるが、茶というものの見方が、大きく分かれているのだ、ということを実感することができる。日本のお茶の状況は明治維新以降、惨憺たるものだったという。
お
茶の家元はそれまで、大名の扶持(ぶち)で食べていたわけでありますけれども、その扶持が、つまり給料がなくなる、しかも社会はみんな文明開化ですから、茶の湯のような旧態依然たる遊芸に対して興味を持ちません。家元にほとんど弟子がいない状況でした。
裏千家の当時の家元でありました十三代円能斎は京都でもう教える弟子がいないというので、東京へでてまいりました。麻布に寓居してお茶を教えようとしたのですけれども、それでも弟子が来ない。しようもなく今戸に行って毎日ろくろ挽きを、ろくろが回るのを見ていたという話です。
p093
熊倉
なるほど、そうであったか。家元制度など、どことなくズルイぞ、などとどこかで感じているのだが、そういう窮状の歴史を語られると、それなりに苦労があるものだなぁ、と納得する。そう言えば、 阿部業躰
のお父さんもお茶の先生だったが、親戚だったので、よく我が家に和服を着て、カクシャクとしてやってきたものだった。一度その住まいにも祖父に連れられていったことがある。いつも背筋を伸ばして、しっかりした物言いをする人物であったが、やはり、贅沢をしているというライフスタイルではなかった。
茶
の湯者自身はどうしていたのかというと、非常に貧乏していたなかでも、それでも一生懸命に改革といいますか、新しい時代に向けて改良の努力を始めた時代であります。そいうなかに、明治の初期でありますと、裏千家の十一代の家元の玄々斎千宗室という方がいらっしゃいます。この方は、何とか新しい時代にふさわしい茶の湯のスタイルにつくろうということで、 立礼(りゅうれい)
を考案しました。明治五年のことです。
p093 熊倉
このような時代背景にあって、岡倉天心はアメリカにいって「茶の本」を出すことによって、何をしようとしていたのか。一体、天心は、きちんと茶の湯を理解していたのか。欧米人はどのように天心を受け止めたのだろう。日本を欧米に紹介する仕事を天心は正確にやり遂げることができたのだろうか。
現
実の茶の湯界、茶道界と岡倉天心の「茶の本」は、いまだにすれ違い状況にあるといえましょう。やはり今後の課題として、この両者をつないでいく仕事が大切ではないでしょうか。
岡倉天心の茶の湯の論を現実の茶道界のなかでどのように受け止めていくのか、あるいは逆に現実の茶道界の成果を、どのように「茶の本」の上に載せてさらに豊かにしていくのかという努力がまだまだ必要ではないか、そのことが真の国民文化としての茶の湯の誕生になるのだろうと思っている次第でございます。
p106 熊倉
この本には、英文の「THE BOOK OF TEA」が原文で収録されている。すこし類書を読んでみようか。
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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