「茶の本」
何が<和>でないか
岡倉天心 /村岡博・訳 黒崎政男 2006/06 出版社: 哲学書房 単行本 263p 日英両文
No.939 ★★★☆☆
正 月早々、一杯のお茶のつもりが、思わぬ深みへと導かれてしまった。お茶のおけいこから、岡倉天心の「茶の本」へ。東洋と西洋の文化の衝突・融合の話しへと突き進んでいる。もとより望むところではあるが、今日で一応正月行事も終わり、本格的な年度末の繁忙期に入る。そろそろ、けじめをつけて当ブログもすっきりした方向性へと進む必要があろう。
とはいいつつ、もとより急ぐ旅でもない。いきあたりばったりの自由奔放なスタイルのまま突き進むしかない。「茶の本」岡倉天心、などといいつつ、実はここまで、その本文そのものは読んでいない。この本にも、英文と翻訳が併記されている。もともとコンパクトな本であるし、また版権も自由になっていて、引用しやすいのだろう。
明
治時代における日本人と西欧と英語。それを今日の私たちが読むということは、いま私たちにとって西欧とは何か、あるいは、私たちにとって<和>とは何か、という問いと不可分であろう。百年前に英語で書かれた「茶の本」を二十一世紀の今日、ふたたび読み返すとすれば、それは、<私>にとって和とは何か、と問うことと深く絡み合い、考え直してみることを意味していると思われるのである。
p012 黒崎政男
黒崎は、生年も出身地も、私とほぼ近いところにある。もちろん会ったこともなければ、経歴も全く違う。だけど、同年代を生きてきた同じ日本人として、この人物を反射材として自らを省みると、実に人間とはそれぞれに個性があるものだと思う。つまり、この人物にかなりな異質なものを感じるということである。
い
や、なにも、本来わたしは日本人なのだ、とか、東洋人なのだ、とか主張したいわけではない。そもそも、<本来の日本人>とか<本来の東洋人>などという発想自体、単なる抽象的で内実のない概念だろうことは、少しでも考えてみれば明らかだからである。それにあらゆる情報が地域や国を越えて、グローバルに共有されるデジタル・ネットワーク時代においては、ローカルな地域性や狭いナショナリズムはいったいどのような意味を持ちうるのだろうか。
p014 黒崎
問題提起や、時代認識にさほどの違いは感じない。むしろ、同時代人として、当然の認識だろうし、共有できない問題ではない。しかし、なぜか、ザラつくこちらの心理はどこから来るのだろう。
西 欧舶来主義のうちで育ってきた私にとって、まるで異邦人(エトランジェ)として出会う<和>や<東洋>は、実にフレッシュで興味深いのである。そして、天心の存在、である。 p052 黒崎
少なくとも私は西欧舶来主義であったことはない。もとより<和>主義でも<東洋>主義でもない。そこはエトランジェでもなければふるさとでもない。私はむしろ、もっとプリミティブな アンソロポロジー 的な、人間としてのもっと基本的な営みへと降りて行きたい気分のほうが大きいのだ。
「仏
像は保護され文化として守られるべきだ」このような発想は、人類古くからの態度だ、と 私たち
は錯覚しがちである。しかし、決してそんなことはないのである。このような態度は、歴史的なある時点で、「発見・発明」されたものなのである。仏像破壊をするタリバンは野蛮で非文化的だと、 我々
は「ごく自然に」に感じるのだが、この「感じ」は、太古から自然に我々に備わっているものではない。獲得されたものなのである。そしてこの発想の発明者、それが日本では岡倉天心なのである。
p061 黒崎
Boo~~~。私のなかでは、ブーイングのブザーが大きく鳴り響く。少なくともこの人物が言うところの「私たち」とか「我々」の中に、この私は含まれないし、今後も同調者としては見られたくない。いや、この感覚は、この著者に特徴的につよく現れている個性的な部分なのではないか? 天心を評価するのは一向に差し支えないが、せいぜい個人的な試論とでもしておいてほしい。
あ あ、それにしても天心の扱った法隆寺の救世漢音や、彼が育てた大観、春草などと比べて、私のスケールは、まあなんと小さいことか。天心が、そもそも東洋美術そのものの発生、<和>の創出に関わっているのに、私は、その手のひらの上で、かくもこじんまりとした骨董、小さな仏像や茶碗などに歓びを見いだしているのだから。私の<和>の世界はすっかり天心の存在に負っているのだろうか。なんと私のスケールの小さいことか。 p075 黒崎
ああ、こんな奴の文章をいちいちワープロで転記しているこちらがアホくさくなる。だいたいにおいて、こいつはSMAPの 「世界に一つだけの花」 を聞いたことはないのだろうか。法隆寺の仏像と自分の骨董茶碗を比較して、自分のスケールが小さいなどと言う奴に、もともと天心なんか語らせておくべきではない。仏像でも、茶碗でもない、もっと小さな茶筅や茶さじにさえ<宇宙>を見ることができなかったら、「茶」など語れない。ましてや、こいつの<和>など、ちゃんちゃらおかしい。
かけがえのない人間 2008.05.22
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「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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