<4>より続く

「ニューエイジについてのキリスト教的考察」
<5>
独
特の表現方法や、バチカン独特の婉曲な言い回し、そしてそれを文化的背景を考慮しきれないまま翻訳してあるので、小さな本ではあるが、なんとも読みやすい本とは言いがたい。だが、繰り返し読んでいけば、言わんとするところを摘み上げることは決して難しくはない。意味じくも「訳者あとがき」159~167Pは、その辺を修正して、なお要約を作っている。訳者とは「カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画」というところである。複数ではあっても少数の人々の手によるものだろう。
第一章については 、「ニューエイジの基礎となる世界観は、相対主義の成長と拡大、またキリスト教信仰への嫌悪ないし無関心によって準備されたものです。」(17頁)
163p、という要約が見える。世界的なキリスト教の影響力はともかくとして、日本においては、それを生活軸の基盤としている人々は、 全体の1%にみたない
とされている。ニューエイジは、すくなくとも日本においては特別にキリスト教を「嫌悪」しているわけでもなく、「無関心」でもない。キリスト教の持っているもともとの限界性なのではないか。あるいは現代人の特性と言っていいか。
第
二章においては 、「西洋世界の二元論を克服するとするニューエイジの主張は真の意味での二元論の問題にこたえたものではありません。また、その自然観が真の意味で人間間の連帯の土台となるかどうかも疑問です(二・四)。」
p164とする。この部分については、「ニューエイジ」などと一括してしまわないで、個別に評価されるべきであろうし、必要であれば、バチカンも胸元を開いて、「ニューエイジ」と対話してみたらいかがだろう。内部でゴチョゴチョと下部へ指令を出しているという姿勢に姑息な態度が感じられる。つまり、本書の一部に書かれているニューエイジの一つとしての「ラジニーシ運動」に、わずかながらでも関わって、その動きにシンパシーを感じた者の一人として、この第二章の評価は、簡単にうなづけるものではない。
ついでに言っておけば、「ラジニーシ運動」という言葉は定着していない。もともとは「ラジニーシ・ムーブメント」など英語圏の宗教社会学における研究的表記が、
島薗
たちによって翻訳されたものであろうが、その影響は、
伊藤雅之
などの研究におけるORM(オショー・ラジニーシ・ムーブメントの略)などの表記に見ることができる。伊藤自身はその「ムーブメント」にかつて身をおいた研究者であるが、その表記は、便宜的なもので、現在においても過去においても、その「ムーブメント」に身をおいた流れからは、不評を買っている表現である。ただ、一般化する上で、変遷を続けて一定の形態をとらない動きを形容するに、さりとて、これ以上、的確な形容表現もないのが実態だ。
第
三章においては 、「神秘的合一への夢想は、実際には、単なる仮想的な合一に終わるように思われます」(70頁)
p164 、 あるいは
「ニューエイジにおける『神化』は、人格的な神との出会いとしての、恵みによって与えらるキリスト教的『神化』とは似て非なるものです。」(三・五)
p165、とある。この辺はキリスト教的表現であり、比較されている他の動き全般を一括して言うことはできないが、いわゆるチャネリング的な動きの中では「人格的な神との出会い」は頻繁に記録されている。むしろ、彼らは積極的に「キリスト教的隠喩」を積極的に活用しているように思う。天使や過去の宗教的な存在など、積極的に「人格的な神」を認めている節もある。ただ、私個人は懐疑的だ。
第五章においては、 「わたしたちはニューエイジを積極的で無害なものと考えることができないのです」
(80頁)
p165とある。積極的な価値を認めないとは、つまらん、あるいは不要、あるいは危険、という意味であろう。あるいは無害なものではないとは、「有害」あるいは「有害なものになりうる」という意味の表現だろう。それはなぜか。
「ニ
ューエイジ運動のもつグノーシス的性格は、わたしたちがこの運動を全体として判断することを求めます。キリスト教信仰の観点から見るならば、ニューエイジ的宗教性の特性の要素をキリスト信者が受け入れることのできるものとして切り離して考え、他の要素を拒絶することは不可能です。ニューエイジ運動は、自然との交信、すなわち世界の善に関する宇宙的な知識を重視するため---それゆえ、それはキリスト教信仰における啓示された内容を認めません----,」
p165
当ブログにおいては、「グノーシス」についてはまだ触れていないので、性急な反応はできない。だが、「であるがゆえに」ニューエイジは一括りにして、すべて消極的で有害だ、と決めつけるこの態度には、困ったもんだ。坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。フグは食いたし、命は惜しし、という、哀れなバチカンの姿がうっすらと見えてくる。ひとつひとつ対処している場合じゃぁない、ええい面倒だ、お前ら全員有罪!、と言っているかのようだ。
第五章では、ヨハネの福音書で、自己補強をおこなう。
第
六章では、 「ニューエイジの土壌となった諸運動の多くは、明らかに反キリスト教的なものであることを忘れてはなりません」(100頁)
p166という表現が見える。いくら慇懃に見えていたとしても、終章に近づいて、結論部分に達しようとする頃には、ついに本音がボロボロでてくるのである。つまり、ニューエイジは反キリスト教だ、と。つまり、反キリスト教だから、ニューエイジには気をつけろ、と言っているにすぎない。
反キリスト教、という表現で思い出すのは、アンチ・キリストという存在。真の救世主が現れる前に、偽の救世主がやってくる、という考えだ。20世紀末においては、さかんにこのような論議がされた。私は、個人的には、この役割を 麻原集団
が「担わされた」のではないか、と思っている。彼ら本来が持っていただろう特質もあっただろうが、表面からは見えざる手によって、「仕立て上げられた」と見ることができないだろうか。このことは、いつか、公平に検証したい。
「人
は自分自身の現実を作り出すことができるという、ニューエイジに広く見られる確信は、魅力的ではありますが、幻想にすぎません」(102頁)
p166。ここでも、「フグは食いたし、命は惜しし」をやっている。バチカンにとっても「人は自分自身の現実を作り出すことができる」という確信は、「魅力的」に見えるらしい。ただ、ここでこれを「幻想」と切り捨ててしまえば、ニューエイジばかりではなく、禅やほかの既成宗教からも、総すかんを食う可能性があるのではないだろうか。
「教育、養成、説教を含めた、カトリック教会のあらゆる次元で、認識論と心理学の健全な使用を推進することが求められます」(103頁)。
p166 それは確かにそうだと思う。別にそれはカトリック教会に限ったことではない。非宗教的次元においても、あるいはにニューエイジとされる立場においても、つねに「健全な使用を推進することが求められる」のは当然のことだ。ただ、それを相手にもとめないで、「教会」内部だけで「健全化」しようという態度は、どうしたものか。なぜに、教会と教会の外と分けるのか。地球人としてのひとつの立場に立つことをバチカンが拒否し続けるのは何ゆえか。
何
より求められるのは、いのちの水を探し求める人々を真の霊性へと導くために、信者が自らのあかしを通してキリスト教の魅力を示すことであることが指摘されます。
p166
まずは、この辺あたりが、この本の結論だろう。「いのちの水」という表現はともかくとして、言わんとすることはわかる。しかし、ひとことで「真の霊性」と言ってしまうことに、不可解な気分になる現代人が、「宗教は信じていないけど、スピリチュアル」になってしまうのである。
S
pritualityはキリスト教の場合は「霊性」、ニューエイジの場合には「スピリチュアリティ」とおおむね訳しましたが、両方に関連する場合は「霊性」としています。訳者
p167
訳者はなぜにこの「スピリチュアリティ」で統一されている原書の単語を、日本語においては、二つに訳し分けたのだろうか。なぜに、日本で現在流行しているだろう「スピリチュアル」と同一視化されかねないリスクをとっても、ニューエイジに近づこうとしないのだろうか。
現
代において、「真の霊性」を「キリスト教」の魅力として感じることができる人はどれだけいるのだろう。ここは皮肉ではなく、私自身の「乾き」として、真に問いたい。私は仏教を基本とした家庭に生まれ、8歳に父と死別し、当時より仏典に触れたり、生死観に思いをめぐらした。
悩み多き思春期時代は、自ら聖書をもとめ、教会にも通い、夏休みにはバイブル・キャンプなどにも参加した。「天にましますわれらが神よ」と純真な気持ちで呼びかけてもみた。現在でも、キリスト教の学校訪問や、知人であるキリスト者の葬式などの儀式では、こころを込めて聖歌や賛美歌を唄う。
信
者が自らのあかしを通してキリスト教の魅力を示すことであることが指摘されます。
p166
<6>につづく
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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