「新教養としてのパソコン入門」
<1>
コンピュータのきもち
山形浩生 2007/7 アスキー 新書 207p
No.945 ★★★☆☆
当
ブログも変遷を重ねているうちに、パソコン本の感想を書くカテゴリがなくなりつつある。どのようにこれらの本を読み進めたらよいのか。かたや、進めようと思ってもなかなか進まないカテゴリがある。
たとえば、この 「アバター多火手」カテゴリ
などは全然進まない。しかたがないので、この二つの現象を融合して、パソコン本をアバター多火手に引き寄せて読んでいくことにする。
もっとも、 アバター多火手
は、コンピュータのエキスパートである。周辺の教養はすべて吸収しており、革命的なプログラマであるべきだ。すくなくとも山形浩生くらいの存在感を持っていてほしい。山形は、当ブログにおいて 「2ちゃんねる宣言 」
や 「暴走する『地球温暖化』論」
で、ちょろちょろとその名前が散見されただけだ。でもその勇名を馳せたのは、エリック・レイモンドの文を翻訳した 「伽藍(カテドラル)とバザール」
1998年においてだった。
あ
るニューエイジ運動の主唱者は、適切で意義深いたとえをを用いて、伝統宗教をカテドラルに、ニューエイジを世界市場になぞらえました。ニューエイジは、カテドラルで告げられる教えを、今や全世界に広がる市場に示すようにという、キリスト信者への招きだとされます。 「ニューエイジについてのキリスト教的考察」
p110
エリック・レイモンドの文章は、ウィンドウズをカテドラル(伽藍=大聖堂)にたとえ、リナックスなどのオープンソース(あるいはフリーソフトウェア)をバザー(市場=マーケットプレイス)にたとえたものだが、バチカンの文章は、カトリックをそのままカテドラル(伽藍)にたとえ、ニューエイジをバザー(市場)にたとえている。ここにおいて、カトリック---マイクロソフト---大組織的営み、という図式ができあがり、対峙するものとして、ニューエイジ---リナックス(やオープンソフトなど)---自主的で自由な取り組み、という図式が出来上がってくる。
当
ブログにおいて、表現不足ながら、 [ OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2 ]
というカテゴリを作って、いそいそと歩き始めているのは、 このような図式を背景としているからである。最終的に、当ブログがどのような結論に達するのかは、今のところはわからない。わからないまま終了する可能性も相当高い。しかし、私が、熱烈なマイクロソフト絶対主義者にはならないのと同じくらい、カトリック信者になる可能性は限りなくゼロに近いといえるだろう。
あのカテゴリの名前に由来は、まずはプラットフォームとしてのOsho「的」なものとしてのOsho。mmpは「meditation in the market place」つまり、バザー「市場」を表わしている。gnuは、 フリーソフトウエアの大御所リチャード・ストールマン
に敬意を表している。agarthaはいまのところ規定があいまいだが、曖昧なこと、つまり神秘や不可知を表現するものとして使われているのだから、このまま曖昧であっても必ずしも的外れではない。
さ
て、「新教養としてのパソコン入門」にもどろう。山形はこの本においては、伽藍派でもなければ、バザール派でもない。むしろ、その分別をつける前の、「教養としてのパソコン」知識の入門書として、この本を位置づけている。
「コンピュータのきもち」
2002/10というタイトルで出た本の改訂版と考えていいだろう。タイトルだけでは、 岩谷宏の一連の著書のタイトル
に似ているような感じもするが、視点はちょっと違う。
過
去数年間の情報通信技術の革命は、まったく新しい状況を生み出しました。現代の人々は容易にまた迅速に情報通信を行うことができるようになりました。これが、ニューエイジがあらゆる年代と階層の人の関心を引くようになった理由です。またそれは、多くのキリスト信者がニューエイジとは何かが分らないでいる理由でもあります。何よりもインターネットは、とくに若者に対して、きわめて大きな影響をもつようになりました。
若者にとってインターネットは情報を得るための快適で魅力的な手段です。けれどもインターネットは、宗教がもつ多くの側面に関して誤った情報を与える不安定な手段でもあります。「キリスト教」や「カトリック」と称するすべてのものがカトリック教会の教えを反映するものと考えることはできません。同時に、ニューエイジの情報源の著しい拡大が見られます。こうした情報源には、まじめなものから、馬鹿馬鹿しいものまでさまざまなものがあります。人々には、キリスト教とニューエイジの違いに関する信頼できる情報を得る必要と権利があるのです。
「ニューエイジに関するキリスト教的考察」
原書は2003年に出たものだし、翻訳の都合上、「過去数年間」と表記されているが、インターネットの功罪はさまざまある。「誤った情報を与える不安定な手段」であることは、なにもカトリックに関した情報だけではない。他の全ての情報と同様、ニューエイジに関した情報だって、同じ立場に立たされていることに留意しておかなくてはならない。
そ
れでありながら、カトリックは、「伽藍」的発想で、正しい知識をパッケージで提供しようという動きにでてしまうが、「ニューエイジ」(とりあえずそう対置しておく)は、「バザー」的感覚で、ひとりひとりが、トッピングしたり、ウィンドウショッピングしたりして、楽しむのである。
まぁ、そうした中で生息しているだろうと推測されるのが「アバター多火手」だ。「新教養としてのニューエイジ入門」という本があったら、ぜひ読んでみたい気もする。
グルジェフ伝 神話の解剖 2009.01.14
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