<6>より続く

「ニューエイジについてのキリスト教的考察」
<7>
多
くのニューエイジの伝統を調べてみると、実際にはニューエイジの中には新しいものはあまりないことがすぐ分ります。「ニューエイジ」という名称は、フランス革命とアメリカ独立革命の時代に、薔薇十字団とフリーメーソンによって用いられるようになったようです。
p16
「すぐわかるもの」であるならば、なにもいまさらバチカンが重い腰を上げて「調べ」なくてもいいようなものだが、ここは、相手を軽くいなしておく、ボクシングチャンピオン戦のインタビューみたいなもんだろう。あんなやつ、オレのパンチ一発ですぐ伸びてしまうぜ。まぁ、お互いにそうののしり合うことによって、試合は盛り上がるのだが。
バ
チカンのいうことにいくばくかの信憑性があるとしても、実際は、薔薇十字団やフリーメーソンについては、ちょっと「調べれば」「すぐ分る」ようなものではない。ましてや、その存在自体さえ否定する研究があるなか、簡単にこういい切ってしまうのはいかがなものか。
ニューエイジが実際に意味するのは、西洋のエゾテリスム(秘教主義)の現代版です。エゾテリスムは、キリスト教初期の時代に生まれたグノーシス主義の諸グループにまでさかのぼります。
p16
秘
教主義という言葉については、当ブログではエソテリズム、エソテリックなどの言い回しをしているが、当面はバチカンの言い方と混在させておく。意味は同じことだ。さて、この グノーシス主義
だが、これもまた、「意味的には、古代ギリシア語で、認識・知識を意味する言葉」で、自らグノーシスを名乗った人々が現実にいたわけではない。
つまり、西暦1~2世紀以後、人間の精神性のプラットフォームとしてキリスト教はさまざま信仰体系や教義を包括してきたが、どうしてもキリスト教の体系に取り込むことができないで残されてしまったものたちがあった。教団は教団として成立するために、どこかで足切りをしなくてはならない。そこで残されてしまった精神性や当時のスピリチュアリティ体系を秘教的なもの、つまりグノーシスとしてキリスト教本体から切り離した、とみることが可能だろう。
立
教以来、包括できるもの包括し、包括しきれないものを「無視」してきた結果、20世紀が経過して、いよいよ無視できなくなりました、と告発しているだけではないだろうか。つまり、グノーシスがニューエイジとして衣替えしたのではなく、単にキリスト教(バチカン)から見て、非バチカン的な体系を、その時々に適当に名前をつけて「警戒注意報」を出しているだけにすぎないのではないか。
ニ
ューエイジ思想を発展させた近代西洋文化の強力な思潮は、ダーウィン(略)の進化論の一般的な受容です。自然界の秘められた霊的諸力の重視と並んで、これが現在ニューエイジ理論とされるもののかなりの部分の土台となりました。
p17
さぁ、バチカンがいうところの「現代文化」の中においても、ダーウィンの進化論を認めないというのは、相当に難しい。戦後教育を受けた人間なら、地球上ほとんどが、生物進化論を「常識」として捉えている。それは、コペルニクスやガリレオ・ガリレイの「地動説」を学ぶのと同じ感覚で、当たり前の常識として教え込まれている。
ニ
ューエイジの影に「ダーウィン」あり!、と注意報を出されても、はぁ、バチカンさん、それはちょっと困ります。でなければ、月曜日から土曜日までの6日間で世界が出来上がった、という証拠を提出しないと、「現代文化」は、バチカンを、「仰ぎ見る」ようにはならない。
ニ
ューエイジの思想が存在し、熱心に実践されていることは、超越と宗教的な意味に対する人間精神の抑えることのできないあこがれを示しています。これは、現代文化の現象であるだけでなく、キリスト教と異教を含め、古代世界にも見られたものです。
p17
つまり、現代文化において、「人間精神のおさえることのできないあこがれ」を、少なくともキリスト教は、満たせなくなった、ということなのである。だから、現代地球人は、さまざまな方法でその「人間精神の抑えることのできないあこがれ」をキリスト教以外に探し始めている。その動きを、バチカンは「ニューエイジ」と言って、キリスト教に対する挑戦とみるようになってしまっているのである。ここにある矛盾わかっているのかなぁ。
ニ
ューエイジ的宗教はある意味で人間本来の正当な霊的あこがれにこたえています。たとえそのことを認めることができるとしても、ニューエイジのこたえ方は、キリスト教の啓示と対立することも知らなければなりません。
p18
他のだれかが「人間本来の正当な霊的あこがれ」にこたえていたしたら、それはそれでいいではないか。AさんがBというあこがれを満たすことができたなら、Cは一緒になってよろこぶべきではないか。なぜにCはここで「対立」する必要があろう。
つまり、バチカンは地球人たちを迷える子羊と見て、全部、自分のところの檻に追い込もうとしているのではないだろうか。野山を自由に駆け回っている羊たちが、どこからかやってきたハメルンの笛吹きみたいな「ニューエイジ」について行ってしまっては困るのだ。お~~い、その子羊たちは、いずれ私の檻に入るべき予定になっている(というか、こっちが勝手にそうきめただけだけどさ、ヒソヒソ)んだから、連れていかないでくれ。う~~ん、困った。というあたりが本音なんではないかな。
ニ ューエイジの思想と実践について適切なキリスト教的識別を行う上で、必ず認めなければならないことがあります。ニューエイジは教会が異端とみなした諸見解をある意味で要約したものだということです。 p19
「異端」ねぇ・・・。もう、この辺になると、私自身が「異端」の烙印を押されて、せっかく友達つきあいしている友人のキリスト者たちからも村八分になるかもしれないので、ブログに書き込むことは、ほどほどにしておこう(クワバラ、クワバラ)。どういう論法であれ、バチカンはどうやら、ニューエイジを宗教裁判にかけて「異端」と決め付けたがっているようにしか見えない。しかし、いまさらではあるが、教会から破門されながら、一人でコツコツと自分なりの世界観をつくった、たとえば スピノザたち
が、より一層、偉く思えるな。
<8>につづく
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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