<10>より続く

「ニューエイジについてのキリスト教的考察」
<11>
二
元論的傾向は、究極的には西洋文明のユダヤ・キリスト教的起源に基づくとしばしばみなされます。もっとも、より正確にいうなら、二元論はグノーシス主義、とくにマニ教と関連づけるべきです。科学革命と近代合理主義精神は、とくにそのものごとを細分化する傾向のゆえに非難されます。こうした傾向は、有機的な全体を機械的構造として扱うからです。この構造は最小単位にまで分解された後、この最小単位に基づいて説明されます。
p37
この辺で関連してくるのが 「理性主義的形而上学」
と称されるスピノザやライプニッツであろうか。また、二元論をうまいことグノーシスへとスライドしてしているが、検証を要する。
ま
た両者は精神と物質に還元する傾向のゆえに非難されます。こうした魂を含む霊的現実は、本質的には物質的な過程の単なる偶然的な「付随現象」となるからです。これらすべての領域いおいて、ニューエイジがしめす代替は「ホリステッィク」と呼ばれます。ホリステッィク医療への関心から、意識の統一の探求に至るまで、また環境保護意識から、グローバルな「ネットワーキング」に至るまで、ホリズムはニューエイジ運動全体に見られるものです。
p38
この辺あたりからニューエイジ「全体」を見通し、しかもここから批判に転じようとするなら、非常に脆弱な基盤だなぁ、と感じる。「個」に立ち返って「全」的につながろうというのは、なにもニューエイジばかりでもなく、もちろんマルチチュードの概念もそうだし、インターネットの考え方もそうだ。しかし、これはなにもバチカンいうところの「ニューエイジ」の特権ではないし、むしろ現代社会すべてに横たわるテーマなのではないだろうか。もちろんバチカンが置かれている立場もそう違いはないだろう。だからこそまた、こんな本もだそうとしたのだろうから。
ホ
リズムはニューエイジの基本要素であるとともに、二十世紀の最後の四半世紀に置ける主要な時代指標の一つです。機械論的思考の特徴である分裂を乗り越えるために多大な労力が費やされました。それはグローバルなネットワークに従わなければならないという意識を生み出しました。こうしたグローバルなネットワークはあたかも超越的な権威を帯びています。そのことをはっきりと示すのは、意識変革の展開と、環境保護思想の発展です。
p39
翻訳がそうなってしまっているのか、意図的に原文がそうしているのかしらないが、とにかくこのような文章は地雷があちこちに仕掛けられて、安心して読めるものではない。すくなくとも自分の信条をすなおに正直に吐露している文章ではない。相手を理解しようとして、自らの理解と自らの枠組みの中に引き寄せたうえで、常に反撃の機会を狙っている 。
「グ
ローバルなネットワークはあたかも超越的な権威を帯びています」
などという箇所を読むと、 「2001年宇宙の旅
」や Google
のことを連想したりする。 「Google が発見した 10 の事実」
などはまさにバチカンが危惧するような事態がすでにおきつつあるかのように錯覚するかもしれないが、当ブログが関知する限り、まだまだ「あたかも」であり続けていて、真の「超越的な権威」はまだまだ登場していない。しかも人々は、その「あたかも」であることに気づき、たのしみさえしている。
環境保護運動は自然を賛美し、大地、すなわち大地の女神ガイアを再び祭り上げます。こうした思想を広めるためにささげられる情熱は、「緑の党」に見られるとおりです。大地を管理する主体は人類全体ですが、大地を責任もって管理するのに必要な「調和と理解」は、地球倫理的な枠組みによるグローバルな管理でなければならないと、ますます考えれるようになってきました。被造物全体をその神性によって包み込む大地の女神のぬくもりは、ユダヤ・キリスト教における被造物と超越的な父なる神との隔たりを埋め、このような超越的存在によってわたしたちが裁かれるという考えを取り除きます。
p39
ひ
きつづきバチカンの文章は地雷を踏まないように、注意深く読み続ける必要がある。「地球的倫理的な枠組みによるグローバルな管理」も必要だけれども、 地球人ひとりひとりが、自らちいさな取り組みを始める必要もある
のだ。当ブログにおいては、キリスト教の立場、ニューエイジの立場、現代社会(と、それぞれの立場からみえる)の立場、そして、当ブログの個的な立場からの言説がないまぜにしてしまって判然としないところがあるが、ただ明瞭になってくるのは、「超越的存在によってわたしたちが裁かれるという考え」に対する言説だろう。
バチカンにおいては、わたしたち「超越的存在」(つまり神だが)は「裁かれる」必要がある。(いわゆるところの)ニューエイジにとっては(西洋的社会の中で育ってきたがゆえにキリスト教的「神」を意識しつつ)環境こそが「超越的存在」として認知しようとしている。現代社会においては、経済的にも交通流通、文化政治的においてもグローバル化せざるを得ない時代なので、政策や指針において、「地球環境問題」は超越的優先課題としようと動きは当然大事なこととされる。しかし「神」は持ち出せない。現代社会はそういう時代ではない。
さ
て、当ブログにおいては、何を根拠に今後このブログを続けていけばいいだろうか。最終的には、ここを問われるし、ここを表現できる見込みがないということが分れば、早々にブログを終了しようと思っている。いまわずかながら掴みかけている足がかりをつかって、もうすこし前に行ってみよう。
「神
」と他の霊的存在者と人間からなる閉ざされた宇宙という、こうした考え方の内には、汎神論が暗黙の内に含まれているのが認められます。これがニューエイジの思想と行動全体に見られる根本的な点です。それは、わたしたちがニューエイジのスピリチュアリティのさまざまな側面に対して積極的な評価を行うことを、最初から制限します。反対に、わたしたちはキリスト信者として、こう信じています。 「人間は本質的に被造物であり、永久に変わることなく被造物にとどまります。ですから、人間の自己が神的な自我に吸収されることは決してありえません」
。
p40
いまさら、「キリスト信者」にこう居直られても、はぁそうですか、とひれ伏すしかないが、信仰の自由だから、それでいいんじゃないでしょうか。しかし、そのような態度で、のしのし歩かれ、「ニューエイジ」つぶしを標榜しながら、ローラー作戦で、あることないことのべつまくなくつぶされてしまうのは、ちょと困る。「評価する」ことを「制限」し、「反対」する。それはそれでいいでしょう。しかし、この態度では、それこそホリステッィクな地球意識の芽が出始めている今、バチカンは、ますます孤立していくことになってしまうのではないだろうか。心配だ。
<12>につづく
かけがえのない人間 2008.05.22
生きる意味 2008.05.21
「生きる力」としての仏教 2008.05.21
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