「臨済録」 <1>
Osho /スワミ・アナンド・モンジュ 1991/6 めるくまーる 単行本
Vol.2 No.0037 ★★★★★
道元 、とくれば、臨済でしょう、というくらい、私たち日本人にはなじみの禅師ではあるが、このふたつの流れには微妙な違いがある。もちろんかたや日本人で、かたや中国人、という出自はともかくとして、その禅風には、秋と春くらいの差があるような感じが私にはある。あるいは冬と夏、といってもいいか。道元のどこまでも質素で透徹な空気に反して、臨済には、どこか熱気がある。cool に対するhotと言い換えてもいいかもしれない。もちろん、私の単なるイメージだが。
今回、この本を久しぶりに手にとって、おやっと思ったことは、あの Osho最後の講話録・ZENシリーズ のなかの一冊にしっかり入っている一冊である、ということであった。それにしては、この「臨済録」、Oshoの最期のZenシリーズの中では、ちょっと雰囲気が違うなぁ、と思い、英語版にあたってみることにした。
そして分かった。なるほど、最期のZenシリーズのどれにも入っている、ジョークとドラムと、ジベリッシュと、Oshoの誘導瞑想が、すっぽり抜けているのだ。なるほど、そうだったのか。Oshoは、ことのほか臨済を愛していたので、いくつも講話録があり、ひょっとすると他の時期のものなのかな、とさえ思っていたのだが、そうではなかった。
道元は、あまりに深刻すぎる。やはりOshoのジョークが必要だ。それでこそようやくDogenになる。ところが、臨済もまた超ど級のまじめはまじめなのだが、そこが抜けたまじめさである。どこかすでにジョークっぽい。だから、また、Zenシリーズのドラムやジベリッシュがなくても、まぁいいか、って感じがしないわけでもない。
この本の翻訳がどうしてこうなったのか、考えてみた。本来、翻訳とはかなり恣意的な芸術だ。味付け加減ではどうにでもなってしまう。そこに翻訳者たちの面白さがあり、難しさがあるのだろう。ましてや、宇宙的おしゃべりBOXのOshoが「Master of Irational」つまり不合理のマスター=臨済を「語ろう」というのである。それを翻訳することは、そもそもが、簡単なはずはない。しかしまた、そこにチャレンジすることこそ、翻訳家達の喜びもあるに違いない。
この本が日本語訳されたのが、1991年6月。この当時の空気を読めば、この本のなかから、各講話の最後のジョークやジベリッシュがなぜ落とされたのか、わかる気がする。日本にはすでに根強い臨済のイメージが定着していた。それはもう、どんなことがあってもくつ返ししようがないくらいに、一般に流布している。この臨済のイメージを借りて、Oshoは日本の社会の中に染み出ようとしていた、といえなくもない。
しかし、あれから十数年。地球は何千回自転し、ガンジス河の水はどれほど流れさったことだろう。今、ちょっぴりづつめくりながら、思う。あのOshoのジョークや、ジベリッシュは、この本にも必要だったのではないか。あまりにお行儀のよいOshoの臨済では、本当のことが伝わっていないのではないか。Oshoは臨済ではなく、Rinzaiをこそ語っていたのではないか。
日本の社会が、いくら臨済を尊敬し、仏壇の奥深くに祭り上げたところで、何がどう変わっていっているというのか。何がどうなったのか。宗教的偉人が、到底、凡人がたどりつきようのない聖人が祭壇に祭られて分離されたにすぎないのではないか。OshoのRinzaiは、そうではないだろう。仏壇の奥深くにある偉人についてではなく、誰もがみんなの中にあるRinzaiについてこそ語っていたのではないか。
まずは、そんなことを思いながら、また、読み始めてみた。
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