「ベルゼバブの孫への話」
人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判<1>
ゲオルギー・イヴァノヴィチ・グルジェフ /浅井雅志 1990/08 平河出版社 単行本 787p
Vol.2 No.494 ★★★★☆
先日からパラパラとめくり出し、メモするのも、もうすこし後にしようと思っていたのだが、この本が三部作の第一作である限り、二部、三部の頁めくり作業も目白押しで待ち続けている。ここは暫定的に第一部をざっと通り過ぎ、二部、三部をめくって、再び第一部に戻ってくることにしようと思う。
しかし、1920~30年代の、光明を得たと言われる二人の人間の主著とされるものの、なんという両極端か、と驚かされることになる。かたやクリシュナムルティの 「自我の終焉」 や 「生と覚醒のコメンタリー」 の、なんとも素朴でベーシックな言語体系の中に、研ぎ澄まされた感性の、ひとつまみの繊細さの輝き。かたやグルジェフの「森羅万象」、なんでもありあり、なんでも来いの、バリバリ造語、パキパキ虚構、メキメキ論理の、グルグル迷路のオンパレードの中に隠された、ひとつまみの真理。
たとえば比較されるところの、ウスペンスキーの 「奇跡を求めて」 とか、シュタイナーの 「神秘学概論」 などのコスモロジーなどは、やはり6の世界の物事というイメージとしかいいようがない。この一種、整合性と合理性で組み立てられたコスモスは、一回ご破算にされなくてはならないのだ。でなければ、円環する永久活動は止まってしまう。
だから、クリシュナムルティーはたんたんと、自らの世界をベーシック言語だけで指標のように指し示すだけだ。その言葉は否定的装飾に満ち満ちている。言語は超えて行かれなくてはならないものだから。
グルジェフは、最後の最後まで、マスターであろうとする。自らは弟子のために存在する。弟子たちの暫定的なコスモロジーを、一気に爆破することによって、覚醒を呼び起こそうとする。なんでもありありの道行きのなかに、無数に仕掛けられた地雷の数々。
小説もSFもまったく受け付けないアレルギー体質の当ブログではあるが、意外とこの「ベルゼバブ」は読めるかも知れないという予感がする。しかし、それは数ページ単位にかぎった話である。これだけの大冊を根気づよく読みこむことはできるだろうか。そう遠くない未来に、この一冊だけを抱えて、部屋にこもってみたい気はある。
この書、最初は口述され、弟子が記述したらしいが、この辺はなんだか、出口王仁三郎の「霊界物語」を連想させる。いまや 「霊界物語」 はネット上からすべてダウンロードできるようになっているようだ。しかしまぁ、この物語を全部読むことも至難の業だ。
「ベルゼバブ」もひょっとするとオンラインで全部読めるような時代になっているかもしれない。だが、それでもやっぱり、こちらも全部読むことなんか、そうそうできるものではないだろう。
常に対で語られてしまう「森羅万象」と「奇跡を求めて」だが、どちらが書物として優れているかは知らないが、ことその存在の意味合いにおいて、やはり、ひとつの体系として形作られるコスモロジーは常に乗り越えられていかなくてはならない宿命にある。さもビックバンのような超爆発で散乱した、全きの超々カオスのなかに、移ろいゆく一瞬のカオスを幻視しつづけることこそ、7である。
この6年間というもの、私は自分に無慈悲なまでに絶えまなく過酷な思考活動を強いてきた。その結果、ようやく昨日、以前から計画し、6年前に書き始めた三部作の第一部を、誰にでも理解できると思われる形に完成することができた。この三部作の中で私は、まず第一に理論面で、次に実践面で考えを発展させていくことにより、そして同時に、以前に考え、用意しておいた手段を用いて、自分に課した三つの必要不可欠な課題をやりとげようとした。すなわち、第一シリーズで、人々の誤った理解の中にあたかも真実であるかのように存在しているものをすべて破壊すること、言いかえれば、<何十世紀にもわたる人間の思考活動を通して蓄積されたガラクタをすべて情け容赦なく粉々にしてしまうこと。そして第二シリーズでは、いうなれば<新しい建築材料>を用意すること、そして第三シリーズでは、<新しい世界を構築すること>。 p722
ドレミ<ファ>ソラ<シ>、そしてド。一オクターブの円環がこれでつながる。
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