乱読・積んどく・お買い得!?

乱読・積んどく・お買い得!?

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

chiko619 @ Re:新参者(09/22) 「新参者」読みました。 東野圭吾さんは、…
kimiki0593 @ 相互リンク 初めまして、人気サイトランキングです。 …
Twist @ こんにちは! 遅ればせながらあけましておめでとうござ…
Twist @ こんにちは! 遅ればせながらあけましておめでとうござ…
Twist @ はじめまして^^ 先ほどこのロングインタビューを読み終え…
2014.10.30
XML
カテゴリ: 社会・政治・時事

『下流志向』 『日本辺境論』 レベルの衝撃度。
 時代は移り変わり、社会は確実に変化したなという感じ。
 消費社会を突き詰め、辿り着くべきところに辿り着いた。

 こんな世の中に、どうしてなってしまっのか?
 それを、内田先生らしく、明解に解き明かしてくれる。
 それじゃあ、これから先どうすればいいのか?


   ***

  僕たちが目の前にしているのは、「問題」じゃないんです。
  「答え」なんです。戦後の国民的努力の成果なんです。
  だから、「あ、あんなことをしてきたせいで、こんなことになったのか……」と
  がっくりするというのが、いちばん適切な対応なんです。(p.68)

振り返ってみる……
私たちは、いったいどんな社会を作りたかったのだろうかと。

  見落とされがちなことですが、バブル期以前まで、自分が「何もの」であるかは、
  消費行動によってではなく、労働行為によって示すものだと僕たちは教えられてきました。
  「何を買うか」ではなく「何を作り出すか」によって、アイデンティティは形成されていた。
  自分が作り出したものの有用性や、質の高さや、オリジナリティについて

  でも、八〇年代からの消費文化は、そのルールを変えてしまいました。
  それがこの時期の最大の社会変化だったと思います。
  「労働」ではなく「消費」が、人間の第一次的な社会活動になったのです。(p.97)

そして、消費社会の空気は、至るところに充満し始める。

  今、人々が学校教育に求めるのは「国家須要の人材育成」ではありません。

  共同体の公益のために学校は存在するという根本の合意が忘れられて、
  私的利益の増大のために学校は利用すべきものだというふうに、
  人々は考えるようになってきてしまった。(p.147)

「教育」も消費の対象物、即ち商品となった。
より良いものを、よりやすく手に入れることが、美徳とされるようになった。

  でも、今日本で行われている教育論のほとんどすべては、
  「人間というのは自己利益を最大化するために、教育機会を利用する存在である」
  ということを、無謬の前提にして話を始めている。
  その前提から出発する限り、何をやっても学校教育は破綻に向かう他ありません。
  自己利益の最大化を優先すれば、
  人間は「自分さえよければそれでいい」という基準でふるまうようになる。
  そして、子供たちが共同体内部で限られた教育資源を
  競合的に奪い合っているのだというフレームワークで考えれば、
  そこからは「自分だけが教育資源を独占的に利用でき、
  自分以外のものはできるだけ教育機会から阻害されることを願う人間」
  しか生まれてきません。
  そして、現にこの社会は、そういう人間を続々と生み出しつつある。(p.160)

さらに、情報化社会が進んだことが、これに拍車をかける。

  ただ、読者の皆さんには、あまりメディアに振り回されずに、
  「大々的に報道されているが、実はよくあること」と、
  「あまり報道されていないが、実は前代未聞のこと」を、
  自分で見分ける工夫はされておいたほうがいいですよ、と申し上げたいのです。(p.19)

情報化社会で生き抜くための、基本的メディア・リテラシー。
でも、それを備えている人は、実はそんなに多くない。

  クレーマーというものを生み出したのはメディアですよ。
  相手が行政でも、医療機関でも、学校でも、
  とにかく「一番うるさくて文句を言う人」の言い分を、
  最優先に聴くべきだということをルール化したのはメディアですよ。(p.238)

メディアが何を目的に活動しているのかという基本的なことを、
消費社会の中においては、常に頭に入れておかなくてはならないのだ。
このようにして、現代を生き、現代を形作っている人々は、生み出された。
そして、あらゆる集団や組織が、彼らが支持する論理で動いている。

  家族というのは、まさにそのメンバーが病気になったり、失業したり、
  へんな宗教やイデオロギーにかぶれたときの、
  最後のセーフティネットであるはずのものだからです。
  家族が非対称的であることを禁じたら、弱者にはもう居場所がない。
  弱者の面倒は行政が見ろ、そのために高い税金を払ってるんだから
  という言い分は合理的かも知れませんけれど、
  僕はそういう考え方にはどうしても賛同できない。(p.190)

私も賛同なんかしたくない。

  今の日本社会は、若い人がスタンドアロンで
  「誰にも迷惑をかけず、かけられず、自分らしく生きたい」
  というようなことが言えるほど、もう豊かも安全でもない。
  「お互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら、愉快に生きていく」ノウハウを、
  若い人たちは身につけてゆかなくちゃいけない。(p.86)

そう、現在の社会は、特異な条件下でのみ存在可能な社会。
しかし、その特異な条件は、もはや土台から崩れ去ろうとしている。
じゃあ、どうすればいいのか?

  でも、相互扶助システムというのは、
  「強者には支援する義務があり、弱者には支援される権利がある」という、
  不公平なルールで運営されているのです。
  個人の努力の成果は個人宛に戻ってくるのではなく、共同体が共有する。
  みんなが持ち寄ったものを一山に集めて、それを必要に応じて分配する。
  それが相互支援のルールです。(中略)
  残念ながら、現代人はこのルールがよく理解できない。
  「オレの努力の成果はオレのものだろう?何が悲しくて、他人と分けなくちゃいけないんだ」
  と、青筋立てる人がたくさんいます。(p.108)

このルールが理解できないと、先には進めないということか……
でも、青筋立てる人のほうが、圧倒的大多数なんですよね、現在は……

  今の年寄りたちが「高度成長期の日本は夢があって、親子も仲良くて、
  地域社会のつながりも深くて、国民は幸せだったけれども、
  それからどんどん社会が悪くなった」というような回想をするのを、
  軽々に信用してはいけません。
  時代の気分ということで言えば、そういう「三丁目の夕日」的ノスタルジーを語る人たちが、
  決して口に出さないことがあります。
  それは一九六〇年前後の日本には、「黙示録的な恐怖」が取り憑いていたということです。
  でも、それは誰も日常生活の話題にしなかった。
  「黙示録的な恐怖」というのは、核戦争の危機のことです。
  第二次世界大戦の末期から始まった米ソの冷戦は、
  一九五八年のベルリン危機、六二年のキューバ危機の頃には、
  いつ核戦争が始まってもおかしくないところまで来ていました。(p.24)

この時代の気分の実感は、ベトナム戦争終結後に生まれた人たちには分からないと思う。
少なくとも、太平洋戦争が終わって20年程を経た1960年代時点では、
まだ、日本が戦争に巻き込まれ、攻撃を受けることになるかも知れないとか、
自分が兵隊として戦わねばならない時が来るかもしれないという感覚は、十分にあった。

即ち、昔に戻ればそれでいいなんていう、そんな簡単な問題ではないということ。
この状況から抜け出す手だてはあるのだろうか?

  つまりコミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、
  コミュニケーションが不調に陥ったときに、そこから抜け出すための能力だということです。
  (p.166)

これは目から鱗。
こういった力が、現状を変えていくヒントになりそうな気がする。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2014.10.30 11:17:37 コメントを書く
[社会・政治・時事] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: