帝国陸軍好きの読書ノート

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2008.08.06
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フランク・オーエン著 永沢道雄訳『シンガポール陥落』(光人社NF文庫,2007) その2


 ◇ メ モ(摘 録)

 ・ 《 》 の内側は私見や所感です
 ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです
   内容の要約やあらすじにはなっていません


第一章 旗は失われなかった

・ 山下奉文中将は降伏式を行うよう主張。虜囚を辱めようとする、日本人らしい尊大さと巧妙さの工夫であるp.12

《 降伏式典の実施に対するこの批判は妙ですね。病人を含めた捕虜を赤の広場で見世物にした国の同盟国がそんなことを言えた義理なのでしょうか。降伏式典の実施自体は当時の国際法的には白に近い灰色ですが、故意に下級士官や兵士に至るまでを病人を含めて見世物にするソ連やドイツ行為は明らかに違法です。だからその点日本は巧妙だって言うのならまあそうですけど…》


・ パーシバルによれば降伏文書は一通しかなく、それを日本軍が持っている
 「確か、私はコピーを受け取っていない。だから実際の降伏条件は正確には再録できない」p.13

《そういえば関東軍のソ連に対する降伏文書も日本側には無いですね。それが瀬島龍三が批判されている一因になっているわけですが、これが当時の慣習だったのでしょうか。》


・ 捕虜のうちインド兵は他の英豪軍から隔離され、インド人脱走兵から「インド国民軍」への志願を勧められ、多くの者がころんだが、グルカ兵は一人も落ちなかったp.16




・ 1951年にチャーチルは「関係した将校と兵士の公平のためにも、戦闘がおわった後すぐ、あらゆる状況について査問するべきだと考えた。だが政府委員会はいまも作られていない」

・ 公式の英国政府報告書が出たのは1957年。これとて対日戦争の包括的な歴史にしようという試みは放棄している


第二章 赤信号は無視された


・ われわれ《英国側》は、秘密機関により日本人が東南アジアに入念な諜報網をつくりあげたことを知っていた。この地域では理髪店と写真屋の2軒に1軒は日本人だと思われていた。海軍基地の対岸のジョホール海岸線はスパイに調べ上げられた

・ それでも《スパイの》連中が無事に仕事を続けられたのは、情報組織である極東合同ビューローが彼らの通信文を傍受解読でき、やり取りする情報に結構価値があると評価されていたからp.20

《 スパイを見つけても、捕まえてしまうとまた新たな潜入が試みられ、今度は監視できないかもしれないから泳がせておいて、彼らが本国に送る報告と行動を監視する、というのは『FBI対CIA』にもありましたが諜報の世界ではよくあることのようです》


・ 《田中上奏文に関する記述。1960年当時の英国において田中上奏文がどのように考えられていたのかを知るにはいいかと思います》p.21


・ 1941年の秋。マレーとシンガポールの英軍は弱体な2個師団に航空戦力は約160機

・ しかし、日本軍の優越性は量よりも質にあった。マレー志願兵以外はジャングル戦の訓練をマレー到着前には受けておらず、戦闘訓練さえしていなかった

・ 《パーシバルによる到着した部隊への評価》p.29


・ 《昭和16年》11月29日夜、シンガポールとマレーの映画館でスクリーンに「全英豪軍人は直ちに部隊に出頭せよ」との告示が映し出された

・ 翌日《11月30日》情報部が駐独大使宛の東京の暗号電信を捕捉。ドイツに対英米戦の勃発の危険を警告するよう指示する内容p.34




・ トップレベル以外は有色人種とは簡単には溶け合わなかった。オーストラリア兵だけはマレー現地民とうまくやっていたp.36


・ 12月6日正午頃、オーストラリア空軍のハドソン機がコタバル沖300キロで戦艦1、巡洋艦5、駆逐艦7、商船25隻の船団を発見した旨を報告

・ 1時ごろには別のハドソンが巡洋艦2、駆逐艦10、商船約20の船団を発見と報告。このハドソン機は日本軍機に追跡された

・ 報告を受けた極東軍総司令官ブルックポパム大将は「第一級戦闘準備」の発令以外何もしないことと決めた。日本軍はタイに向かっているとの判断によるp.37


・ シンガポールでの灯火管制演習は9月に2回行われたのみ。シンガポールの民間防衛は行政の管轄で軍との効果的な連携は無かったp.39


第三章 国境を越えて



・ 帝国防衛委員会は、英本国からの救援が海路シンガポールに到着する《見込》期間を、1939年に70日から90日に増やした。1940年には参謀本部がそれを180日とした

・ 1940年11月22日付チャーチルの海軍大臣アレクサンダー宛手紙―優勢な主力艦隊が真珠湾かシンガポールにいる限り、日本海軍が根拠地を遠く離れるとは思えないp.45

・ シンガポール要塞の持久機関が2ヶ月から6ヶ月に伸ばされたのに伴い、守備隊と民間人用の食料備蓄を6ヶ月に増やすように提案されたが、1941年12月時点でも準備にすら取り掛かっていなかった

・ パーシバル本人がマレー軍司令部参謀だった1937年、日本軍のシンガポール攻撃についての認識と対策プランをつくり、その秋の帰国時に陸軍省に提出している

・ その執筆に当たりパーシバルは日本の陸海合同演習を視察し、特殊な上陸用舟艇《大発のことでしょうか》をたくさん使っているのを見た。また日本の造船所で18ノット級の商船隊が建造されていることに注目したが、デッキは貨物より乗客向きにできている

《これは日本に多かった貨客船のことでしょうか?特に兵員輸送に適した貨物船を建造したわけではないと思うのですが…。もしかすると陸軍の特殊船のことかもしれません》p.46


・ 1938年5月、マレー軍司令官ウィリアム・ドビー少将は、北方からの攻撃がシンガポール要塞の最大の危険であり、北東風モンスーンの期間中も実施できる。たいていのジャングルは歩兵の通過は不可能ではない、と書いているp.47

・ 1940年4月、マレー軍司令官ボンド中将の積算。日本軍の攻撃は南部タイより行われるが、国境線は数ヶ月持ちこたえられる。必要兵力は4個歩兵師団、3個機関銃大隊、2個戦車連隊。適切な空軍力(第一線機566機)があれば3個師団+数個の対戦車砲・装甲車隊p.47

《航空兵力の評価が数百機で1個師団+2個戦車聯隊程度というのは1940年としては低い評価だと思うのですが》


・ 英軍も南部タイで私服の将校による偵察を実施。日本もイギリスも熱心であり多くの旅行者を送り込んだのでよく鉢合わせしたp.49


・ 当時マレーは世界の半分のゴム、三分の一の錫を産出し、戦争初年度9800万ドル、2年目は11ヶ月で1億3500万ドルを稼ぎ出しており、労働者やその管理者を防御施設の工事に使うべきかどうかという問題があった。ここで英国政府は、召集免除の基準は総司令部の判断ではなく、必要な生産の維持と効率的な労働管理と決定p.50


第四章 巨艦沈む

・ マレー戦の間、敵の秘密無線がシンガポール~ジョホール地区から日本軍の前線にメッセージを送っていたとパーシバル将軍は信じている。発信源の探索は全て失敗p.59


・ 《レパルスに対する最初の航空攻撃において》水平爆撃機の編隊による攻撃の前に爆撃機がレパルスめがけて舞い降り、その強力な対空砲火をひきつけた上で旋回して行った。巧妙な牽制。それも一回だけではない。p.63


第五章 国境の南

・ 12月10日の夜明けには活動できる英空軍機は100機強から半分に減少。2日間の戦闘で空軍力は10対1になってしまった。防空に充分な高射砲や有効な警報システムが欠けていたため、給油や弾薬補給中に捕捉されたp.71

・ 12月9日にはクアンタン飛行場から撤退(以後は前進着陸地として使用)。どう飛行場には高射砲は一門も無かったp.71


・ 《撤退時の資材の》爆破のタイミングは厳密に調整されていた。早すぎると爆発音・閃光・煙が《前方で》交戦中の部隊にパニックを引き起こす。そこで、燃料はエンジンで浪費し、建物は引き倒し、爆破は工兵に残しておくようにするよう指示が出された

・ パニックに襲われた軍人が民間人の車や公営バスを銃で強奪したp.73


・ ロンドンの戦時内閣からは無制限の焦土方針―鉄道、橋、港湾、電力施設、給水設備、食糧倉庫等の破壊が―訓令された

・ この破壊は「アジア人のアジア」という日本のプロパガンダの下では実行しにくいものだった。シンガポールとロンドンでやり取りがあり、給水設備、発電所、民間に引渡し済みの食料を除外したp.73


・ 12月10日のペナン島空襲では死傷者は千人台を数えた。ペナン島はペナン要塞と称されていたが防空施設は無く、本国が約束していた高射砲は未着p.74


・ 《ジットラにおいて》雨の中、水浸しの土地に敷設した野戦電話用ケーブルは多くが役に立たなかったp.76


・ マタドール作戦の放棄の悪影響。前進防御の訓練のためにジットラ陣地の強化を行う時間が奪われた。また、これに伴う命令変更の多発は混乱と士気の低下をもたらしたp.82
《最初から手堅く陣地防御しとけばいいんじゃないでしょうか…》


第六章 北部マレーの失陥

・ 《ジットラ陣地からの後退中》南進中にマレー服で擬装した日本の狙撃兵が紛れ込んだp.83


・ グルン付近の十字路は、戦争勃発前から防御拠点に選定されていたが、準備は何もできていなかった。過去一週間、民間の労働力を大量に集めて軍の監督下に作業を進めるように指示されたが、陸軍省が賃金を民間の相場より安く設定したため労働力があつまらなかったp.84


・ 12月13日にはプリンスオブウェールズとレパルスの生き残りの水兵50人がペナン着。空襲で逃げた現地人に代わりフェリーを運航するためp.88


・ ペナン撤退において、英領マレー放送局の建物と施設の爆破に失敗。1週間しないうちに激烈な反英宣伝が流れ始めた。また、小船、はしけ、ジャンクを沈めず、特に2ダースの自力推進船《これが適切な訳語かどうかは不明》が日本軍の手に渡り、マレー西海岸での海上機動に利用されてしまったp.89


・ 損害の出た第6、第15旅団の統合が決まり、第6・15改変旅団となった。同様に大隊の“結婚”も行われたp.95
《旅団、大隊の統合というのは帝国陸軍では行わないですね。任務別に支隊はよく編成しますが。》


・ サー・ヘンリー・パウナル陸軍中将が12月22日にシンガポール着。極東総軍司令官の地位をサー・ロバート・ブルックポッパム空軍大将から引き継いだ。この人事は日本に参戦の一ヶ月以上前にチャーチルの了承を得ていたが、実行を三軍参謀総長に抑えられていたのを、下院議員ダフ・クーパーの主張で実現したものp.96

《この時期の英国でも政治家の人事介入を参謀本部が好ましく思わず抵抗するということはあったようです。ちょっと意外ですね》


  ◇ 過去の読書記録一覧は こちら です

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最終更新日  2008.08.09 10:42:28
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