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2009.09.22
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佐々木春隆『B29基地を占領せよ―10個師団36万人を動員した桂林作戦の戦い』(光人社NF文庫,2008) その2


 ◇ メ モ(摘 録)

 ・ 《 》 の内側は私見や所感です
 ・ あくまで備忘録とする為に主観的に気になった点のみをメモしたものです
   内容の要約やあらすじにはなっていません


第一章 衡陽西郊の決戦
昭和19年7月中旬~ 衡陽西方での敵解囲部隊との戦闘

・ “今次作戦の敵は、二次にわたった長沙作戦当時の敵に比べて戦力、戦意とも格段に劣る。敵も弱ったもんだ”と感じていたから、敵の真っ只中に突っ込んでいると知りながら別に危険を覚えなかった…p.19
《このあたりの感覚は実際に作戦に従事した人にしかわからないのですが、長沙作戦以降の後退の途上で国民党軍もかなり人的な損害を受けていたのではないかと思われます》

・ 《ここから別段の記述があるまで「公刊史」として頁数の指定があれば戦史叢書『一号作戦(2) 湖南の会戦』を指すと思われます》p.20

・ このころ、インパール作戦の失敗やマリアナの失陥が口コミで伝わる…p.42

・ 同じ目的のために二組の斥候を派遣するのは当時の常識でもあった

《 意外な感があります。聯隊としての斥候派遣はそうなのかもしれませんが、大隊以下でも出していないのでしょうか…》

・ 《公刊史446頁の師団が軍に報告した衡陽攻略作戦発起以来の損耗について》p.67-
・ この記録は腑に落ちない。…我が連隊については計算が合わないし、間違っている。第一、第三大隊の損耗が一五%と五%であるのに、連隊が二〇~二五%(七二〇~九〇〇名)であるということは、第二大隊や直轄隊の損耗が高率であった事になるが、その事実は無い。将校の損害は二〇%(二五~二六名)とあるが戦死五名だけ。大、中隊長三名戦死とあるのは大きな誤りで、後送されたのは第三中隊長のみ。

・ 戦闘損耗は少なかったが、炎天下の機動作戦が続いたために意外に戦病患者が多い。でも損耗合計は一〇%未満、幹部の損害は少なかった、と言うのが当時の筆者の認識


第二章 洪橋会戦

・ 公刊史501頁に連隊の洪橋進出が9月3日とあるが間違い《2日夜》p.109


第三章 大追撃戦

・ 公刊史520頁に9月7日の第四十師団の東安東北方の戦闘の戦果として遺棄死体600以上、迫撃砲1門鹵獲とあるが、遺体600は多すぎ、逆に鹵獲兵器数は過少(実際には中迫6門、重機6、他)p.126

・ 山砲の側方よりの支援砲撃は当たらない。見る方向が違うので目標の授受が大変だし取り違えが多いp.142

・ 衡陽以降15日間の追撃戦において戦闘消耗は少なかったが、険峻な山岳地帯で道も悪く、且つ昼夜ぶっ通しの強行軍だったので、衡陽付近で内地から到着した補充兵《35歳前後と比較的高齢》の損害が酷かったp.146

・ 《連隊副官の久米滋三大尉(当時)が書いた『南国土佐を後にして―鯨第六八八四部隊の記録』(昭和35年刊)と言う本があるとのこと》p.146

・ 《聯隊レベルから見た洪橋会戦の統帥に関する問題点の指摘。戦略的な最終到達目標地点を示さず、小刻みに次の目標を示す所謂統制前進により結果的に強行軍が続き損耗が増加。このような小刻みな目標指示になったのは総軍が兵站準備不充分であるのを懸念して軍の突進を掣肘した為というのが著者の見解。確かに著者の指摘するとおりかと思われる。長距離の突進になるとわかっていればそもそも損耗の集中した補充兵はまとめて後方警備等に残した可能性もあるわけで、この点機密保持と作戦上の便宜を勘案してどこまで下級部隊に企図を示すのか、などという点も作戦計画そのものと同じくらい重要という事か。》p.148

・ 《ここから公刊史といえば特記の無い限り戦史叢書『一号作戦(3) 広西の会戦』になると思われます》p.149


第四章 桂林攻略戦(その1)


《 日本軍よりも隣省人のほうが恐ろしいと言うのは現代の中国にも通じるものがあると思うのですが、流石に殺されると言うのは極端のように思えます。ただ広西省というのは国民党との間で争っていましたのでありえないとも限りません。》

・ 《公刊史の記述、桂林作戦における四十師団への任務明示による士気向上、に対する事実との相違の指摘》p.170

・ 《著者が記憶している桂林北門への突入命令と、公刊史の記述の相違の指摘―四十師団司令部より北門攻略の命令を受けたが、これは功を焦った宮川師団長の独断によるもので、公刊史作成の際に受けたインタビューに対しては虚偽の回答をしているものと思われる―》p.193-

・ 《四十師団が市内に突入したと言う誤報が流れ、三十日と一日の午前1時の2度ほど別の部隊が北門から入城しようとして猛烈な銃砲撃を受け撃退されたが、公刊史はこの件に触れていない》p.201

・ 公刊史460頁に引用されている中国政府史政処編『抗戦簡史』の日本軍が数度にわたり桂林北側を猛攻したが、莫大な損害を受け陣地占領できなかった旨の記述はこの2回の誤報による突入を指すものと思われるp.208



・ 《桂江東岸の》七星巌は1930年に蒋介石が広西軍を討伐したとき、ついに奪取できずに和を講じた要害として知られていたp.212

・ 公刊史399頁から400頁に堀内大佐の回想として載っている七星巌攻撃計画は、二百三十六連隊福井大隊が攻撃したC岩を右大隊が攻撃した事になっていたり、蔵重大隊が担当した月牙山の攻撃に触れていないなどおかしな点が多いp.215

・ 駿河久雄・真鍋茂共著『桂林攻略戦』(昭和48年、土佐鯨会刊)《当時軍曹、第十一中隊、第十二中隊の指揮班員―渡河を行った大隊の指揮班の下士官なので桂林攻略戦の渡河部隊に関しては最も詳細な様相を伝えているのではないかと思われます。以後、本書の中でも引用多し》p.226

・ 当時は桂林でも日本時間を使っていたp.233

・ 第十中隊戦誌『追憶…征旅・幾千里』(昭和62年6月刊行)
・ 《同書における中正橋東側への進出と、中国軍による同橋爆破の経緯。どうやら爆薬をあらかじめ仕掛けてはいなかった模様で、爆薬を背負った兵によって爆破を試みており、銃撃を受けない夜になってからやっと爆破に成功しています。七星巌の防御を過信していたので手配していなかったのでしょうか。》p.243





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最終更新日  2009.09.23 01:07:39
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