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私は、日常使っている携帯電話のほかに、既に通話、メール機能を取り去った古い機械を手元に置いて、俳句が浮ぶと、これに打ち込んでおく。だから、いつも、電源は切ってある。この1ヶ月、中国の地震以来、これが、勝手にon になっている。急いで、off にきりかえるのだが、5時間もすれば on になっている。だから、しばしば充電している。こんな現象は、四川の地震まではなかった。恐らく地磁気のせいだろうと思う。これが、四川の地震のあとの、微調整なら問題はない。併し、四川に誘発されて、日本の下の地層がバランスを取り戻すため、あちこちでうごき、それが地磁気の異様発生になっているとすれば、近未来、大地震が怒る可能性がある。恐ろしいことだ。
2008年07月04日
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新幹線が東京大阪間に出来たと思う間もなく、東北、秋田、山形、長野新潟、山陽、九州 と広軌鉄道網が、全国に広がった。新幹線の駅を作って貰おうと、とちの整備をしたところもあった。県議会でもめた所、田圃の真ん中に駅を作った所、さまざま。一方高速道路網も次第に整備され、いまや全国どこでも車でゆける。航空機だって負けてはいない。地方空港を盛んにつくている。これ、全部羽田に直行だ。昭和十六年以降、東京はあらゆるものの 中心となった。上に上げた三つの交通機関は、どれもが東京にむいている。東京でなければ、いかなる事業もたちおくれる。で、本社機能を東京におくのだ。連絡の為、新幹線や航空機が、なくてはならなくなっている。人々は、仕事の為に、東京ないし、首都圏で住む。地方は老人だらけ、若い者は、東京でこどもを産み、育てる。東京生まれの人が、どんどんふえる。その辺の小さなものを、虫眼鏡でみると、製造者の本社が東京になっている。新聞の、朝刊の一面のしたの、本の広告は全部東京都発行になっている。こんな日本、そのうち 労働力ふそくで、 全部輸入に頼るようになる。輸入が途切れたらその時点で、全滅。今のうちに、地方へ権限をうつすべきだ。
2008年03月18日
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昔は、天気予報は中央気象台からと、民間の気象台からと、別々に出されていた。大阪でも、中央気象台大阪管区と、民間の大阪気象台との間に時々食い違い が起きて、夕刊紙などが、面白おかしく 取り上げたものだった。今は、気象衛星のお蔭で 予報が大きく外れることは なくなった。テレビなどでは、府県単位で予報を発表している。兵庫県など瀬戸内と日本海に面しているので、淡路島、阪神、播丹などに分けて予報をだしている。しかし、お役人らしく、責任問題にならぬよう、極めて曖昧な 表現がなされることがある。例えば、台風の進路予想は、最初はきまって 東京が圏内に来るようになっている。又、午前中を 中心に、と言うように、中心がよく使われる。太平洋岸を中心に、と言われても その中心が広すぎて 掴まえ所がない。滋賀県北部では、晴れ 時々曇り 所により俄か雨 というような予報では、100%当たるのである。県民は 傘を持ってでるべきか、洗濯物を外に出してほしていいものか、迷うのである。でも、お役人は100%だと 予想率を誇る。衛星があるにも拘らず、予報が外れることがある。でも、そ知らぬ顔である。最近は、中国の汚染空気が 風に乗ってやってくるので、天気図をしっかりと見ることにしている。
2007年11月03日
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草臥れて 宿借るころや 藤の花柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺これらの句には、主語がない。英訳すれば、Iという主語がつけられるだろう。だが、それでは、此の句の 本当の 味が失われる。確かにこれは、作者の体験である。だが、読み手は、自分の体験として 鑑賞する。英語で They say といい、ドイツ語で、Mann を主語とする これにやや 似ている。それに、最後の 藤の花 法隆寺 は、一体何なのか?主語でも 目的語でも、補語でもない。強いて言えば there is であろうか。 最初の句は、くた やど はな と「あ」音の調和。やどかるころや という母音のころがりが実にうまい。後の句は、かきく「か」の頭韻。なるなり の「な」の繰り返し、そして法隆寺 と伸び伸び と納めた この呼吸。こういうのは、他の国の言葉に 翻訳することが 出来ないものだ。私は、こういう立場で、自分も作句している。
2007年11月02日
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古池へ 蛙飛び込む 水の音と 言えば 古池へ向かい 蛙が飛び込んだ音という事になる。古池に 蛙飛び込む 水の音 というと 古池の中に 蛙が飛び込んだ音 という事になる。パリへ 行ったら お土産買ってきてね。というが、パリに 着いたら電話してね となる。へ は、的が広い。に は、的が小さい。これが、古池や となると へ や に とは違い、方向性はなくなる。や という感嘆詞が人里離れたところにある 小さな古い池 のイメジを呼ぶ。作者は この古い静かな 池 を歌いたかった のが分る。最初の2句は 蛙の 飛び込んだ音 を詠ったのだが、後の方は 水の音が はねかえって古い池の 静寂を一層 強調することになる。音と言いながら 実は、反対に 静けさ を詠っているのだ。や という 漠然とした措辞 が、この様な働きをする。切れ字 の効果は、こういうものである。
2007年10月30日
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私の属している 俳句会の或る会員が、彼女の幼友達で、サンフランシスコに住む 地球語というものを 発明して、その普及に熱心な女性に 俳句誌を送った。それが縁で、私の俳句が 地球語に翻訳された。以来彼女と私は、メール交換をしている。昨年、彼女の方から 連句を やらないかと 誘いを受けた。むつかしい約束事抜きで、やろうと言う。それから 二人で連句の やりとりを はじめた。奇数は 彼女(無季、自由律)わたしは、偶数で、77で受けることにした。時差のかんけいで、 一日一句 を毎日交換して、100になった。再び1から 初めて 今 2回目の 100になったところだ。彼女は、これを英訳してくれている。これがおもしろい。そのうち、随意に 地球語 をいれて、1冊の本に して出版するつもりである。
2007年10月22日
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私のいえは、丘の麓に近い山腹にある。所々に泉がわいていて、これらが、小川となり、Y字型に集まって下流に注ぐ。木の枝の様だ。道もまた、Y字型になっていて下の町へ降りてゆく。毎年、近くに猪がでるが、今年は、どうやら いつもよりも早い。4、5軒東にもう出た。先日、娘と孫息子と三人で、隣町へ夕食にいった。窓の運転で帰るとき、助手席の私の目の前を 子供連れの猪が横切った。町の真ん中である。よほど 山に団栗が少ないのだろう。此の分だと、熊が冬眠準備のため、現れるかもしれない。
2007年10月18日
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昔から、連歌というものがあり、それには、七難しい規則がある。私は、アメリカは、サンフランシスコにおられる 或る夫人(ご主人は白人)で、地球語というものを 発明し、その普及に ホームページ を使って頑張っていらっしゃる日本人の方と、かねてから メールを交換していた。彼女から 連句を作ろう、難しい規則なしで。という誘いを受けた。奇数の句は、彼女、偶数は私の句ということで始まった。彼女は、575を完全に無視し、かなり自由に送ってこられる。わたしは、出来るだけ 77 で応じる というかたちで、100まで行った。それを見ていると、場面が、太平洋を越えて くるくる変るのみならず、ときには、宇宙へ飛んだりして、二人だけの物ではなく、一冊の本にして広く皆さんに 見てもらいたくなった。そこで、もう一度1から新しく 連句を送りあいして、今90になった。もう100句を作って、全300の連句の本にしてみたい、と思っている。時差の関係で、お互い毎日一句ずつ 作ってはおくっているのだが、これが、心の負担にもなるし、一方で楽しみにもなっている。何しろ考える時間がなく、直感的に閃いた句を、すぐに送るのであるからだ。
2007年10月06日
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大阪地下鉄中央線と、千日前線の乗り換え駅として、この名前が知られている。又、阪神高速道路の渋滞情報には、毎日のように、此の名が出てくる。有名なな名前である。ところが、地図をみても、阿波座という町は見つからない。そう。今は、立売堀になってしまっている。私が子供の時は、阿波座という地名があった。1番町から、4番町まであった。学校のクラスは、1組が江之子島、立売堀。2組が、薩摩堀、島津町、阿波堀、3組が阿波座になっていた。これは、一見土地別の分け方だが、その実は貧富による分け方である。ともいえる阿波座の子は、筒袖の端がテラテラに光っていた。鼻水を拭った後である。でも、われら子供は、そんな差別はしていなかった。阿波座には、小さな出版社がおおかった。真田幸村、猿飛佐助、真田十勇士、などが、ここから生まれた。今はみんな東京へ行ってしまったが。釣竿屋さんも多かった。私は、散髪も銭湯も阿波座に行っていた。そんな庶民の町が、今や、名前だけが毎日のように呼ばれている。感慨一しきりである。
2007年05月06日
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約65年前、大学卒業論文のテーマは、インフレイシオンだった。今、銀行の信用が低下している上に、預金利子が僅かなので、人々は預金しないで、現金を箪笥に置いている。日銀の紙幣発行残高は膨らむいっぽうである。田中内閣の時、所得倍増が叫ばれ、一見景気がよくなり、収入がふえたような錯覚を覚えた。所得倍増とは、つまりは、貨幣価値の半分化ということに気がついたときには、物価は倍にあがっていた。今、政府は大きな債務を抱えている。これを尤も簡単に減らすのは、貨幣価値の減少だ。国民みんなが、騙されないように、監視する事。銀行預金をすること、流通する貨幣の量をへらすこと。今が正念場である。
2007年05月05日
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葵の紋について、もう少しかく。実は、私の家には、葵の紋の箪笥の油単が沢山ある。妻が持ってきたものだ。本田立ち葵右離れ、 というもので、これは、娘たちの結婚の時の、箪笥にもつけた。江戸時代には、此の紋も、下々の者には許されなかったものである。平成の世の中では、こんな紋など別に咎められることはない。と同時にこの紋を前に 頭が高い、控えおろう などいう人もいない。妻の実家は、上杉謙信の子孫だという。謙信は、妻を持たなかったので、養子さんがもってきたものか?葵祭りの頃になると、こんあことをよく思うのである。
2007年04月29日
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葵祭の起源は、随分古い。だが、その中に葵を恭しく包んで、使者をたて、これを、家康を祀った相模の久能山へ奉納するという行事があると聞いた。家康は元来は、松平、すなわち平家の子孫である。織田信長が、源氏の出ではなく、平氏の子孫であることから、征夷大将軍に為れなかったことから、家康は早々と、松平姓を捨て、源氏の系図を作った。此の時、ついでに上賀茂神社から勝手に葵を奪い、それを家紋とし、一般の使用を禁じた。それなのに 葵を家康に供えると言う当時の行事が今も行われているこの奇怪? 家康の当時の権勢の大きさを示すものとして、批判的に、この行事を見たい。
2007年04月25日
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1+1は、何故2であって、1ではないのか?そう。1ではない。0であっても3であってもよいのだ。ヘーゲルの、弁証法に従えば、1(正)に対する2(反)が合したとき、それは、正でも、反でもない 3(合)になるという。マルクスの、唯物論では、量的増加は反対物に変化する という。つまり、塵も積もれば山となる。ということだ。ここで1+1=2 が生まれる。勿論、それは、0であっても、3であってもよい。1以外のかずならOKなのだ。我々は、それを2と約束したのだ。桜が満開になれば、必ず散る。海は満潮になれば、ツgいは、干潮だ。我々の世界では、そういう現象がいつもおきている。祇園精舎の鐘の音は、盛者必衰の理を示す。だから、1+1=2 なのである。
2007年04月24日
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この計算しきは、一見当たり前のことである。が、1と1を足せば、何故2になり、3にはならないのか、は、哲学的にも、かいめいがむつかしい。アメリカで、銃を持って、自己防衛するのは、1+1=2 と同じ様に、当然で、丸腰で、市民生活をするなど、考えられないことであろう。確かに、アメリカは、清教徒の国であり、開拓者精神に満ち溢れた人々が、苦心して作った新しい理想の国であった。が、嘗て西部劇で見られたように、己は、善であり、土着民はすべて、悪であるという思想は、銃保持の精神に受け継がれている。土着民は、侵略者によって、徹底的に追い詰められ、土地も、何もかもを奪われた。いまでは、彼らを保護する動きもあるようだが、勝者の懺悔はきこえない。昔、ハロウィーンの夜、日本人の留学生が、彼らの習慣に従って、見知らぬ他人の家を訪問して、怪しまれて撃ち殺された。裁判で、陪審員たちは、正当防衛だと、無罪になった。日本人留学生は、撃たれ損、無駄死したことになる。もし、これが、白人の学生だったら、撃ち殺されなかったことであろう。仮に殺されたとしても、陪審員たちは、無罪とは言わなかったことであろう。私は今でも、アメリカの銃保持を軽蔑する。丸腰のよろしさは、彼らには分るまい。
2007年04月23日
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眼も悪いし、歯も悪い。体調も悪い。しばらく休眠して、元気になったら又、書きますので、それまでさよなら。
2006年10月01日
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今はもう使われる事も少なくなったが、万葉時代には、枕詞がよく用いられた。その多くは、例えば ひさかたの、たらちねのみすずかる あをによし などのように5音が主だった。辞書によると、枕詞は、和歌の中において、意味なく、調べを整える為のものとある。所が、中に おしてる(なにわ)さねさし(さがみ)そらみつ(やまと)のように、4音のものが幾つかある。、万葉の長歌を読んでいくと5,7,5,7、といいリズムできて、いきなり4音がくると、折角の調子が狂ってしまう。昔の人が、リズムに無頓着だったのか、あるいは、今のような音歩でなく、特別のリズムの刻み方があったのか、何故575 77が和歌として定着したか?此のあたりでで考えねばならないと思う。
2006年09月30日
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昭和53年夏、毎日新聞に私の昔作った夕焼けの俳句が、天気予報欄に引用されていた。妹がそれを発見し、みんなの話題になった。中に一人、これは、同姓同名の他人の作だという人がいたので、もう孫の顔も見た事だし、失明してもいい私は、俳句作家だと証明したくて、再び作句をはじめた。お陰で、また俳壇に出られたが、右眼は次第に悪くなり今では完全に失明している。左目も同じ様な経過を辿りつつあり、しかも白内障まで出てきている。去年は、視力0.5あったが、今は、0.3がやっと。しかも左目の視野がごく狭い。いずれは失明する。しかもそう長くはんなくだから、この稿も、文字通りブラインドタッチ。できてから、虫眼鏡で、訂正している。とんでもない変換がしてあることがしばしばだが、このブログが長い休みになった時は私が、両眼失明した時だと思ってもらえばよい。
2006年09月29日
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昭和33年秋、何気なく左目を閉じて、右眼だけで隣の部屋の蛍光灯のスタンドを見ると、光が見えない。逆に右眼を閉じると、左目にはみえる。これはおかしいと翌日、軽い気持ちで眼科へいった。先生は、目の中を覗いたり、暗い部屋で視野検査して、緑内障だ、毎日の生活習慣と、精神の緊張を取り除けと言われ、翌年春、手術を受けた。1週間の入院だった。原因は、当時の生活習慣にあった。私は、ホトトギスではないが、伝統的俳句誌の同人で、毎月、前衛俳句を5,6句ずつ解説させられていた。昼間は会社の仕事第一だから、解説の為の勉強は専ら睡眠時間を割いて、毎夜遅くまで勉強した。こがれいけなかったのだ。以来、先生の慰留を振り切って俳句を辞めた。
2006年09月29日
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私が子供の頃、家には風呂はあったが、夏の行水以外は、秋から春にかけて、近所の銭湯へ行ったものだ。一度に入浴しないと薪を燃やすのが手間なのである。 小学校6年生までは、父と行くときは無論男風呂、弟を連れてゆく時もそうだ。が、母や叔母に連れて行ってもらう時は女風呂だった。私は、小学校6年間は、男女組だったので、同じ組の女の子と一緒になることも珍しくなかった。お互い別にどうという事はなかった。心身共に発達がおそかったのだろうか? でも、当時は17歳位で結婚し、子供を生んでいることを思うと体の方は、出来ていたのだろう。商業学校五年までは、毎冬信州へスキーに連れていって貰ったが、この時も、混浴だった。今、家族風呂の規制が言われているようだが、親子で殺し合う世の中、昔のおおらかさが懐かしい。
2006年09月27日
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私は商家の生まれである。商家では、ペットの飼育は普通行わないものだ。妻も商家の出だが、郊外に大きな家があって、用心の為、大型の犬二匹を飼っていた。終戦後、石橋の自宅で小型の犬を飼った。幼い長女の為だ。鶏も飼った、卵を得る為に。その犬がある時急に体調を崩し、一晩中鳴いて亡くなった。戦後すぐだから獣医などいなかった。亡骸を裏の畠の一隅に埋めた。以来もうペットは飼わない。可哀想なのだ。その長女の娘が、大のペット好きなのだがマンションでは獣はダメだから、小鳥(インコ)を飼っていた。放し飼いで、孫が学校から帰る時はチャンと玄関に迎えにきていた。家の中では、いつも糞の掃除をしていた。ある日、そのインコが不幸にも足に踏まれた。以来、長女の家でもペットは飼われていない。
2006年09月26日
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宝塚線(福知山線)事故で、多数の犠牲者が出たこと、又負傷した方々には、不運だと諦め切れないものがあるに相違ない。T運転手が亡くなっているので、改めて聞くすべもないが、当時から私は、1つの疑問を持っていた。それを書いてみる。何両編成だったかは、知らないが、あの列車は学研都市線から、地下の東西線を経由尼崎に着いた。そしてそれから北に分岐し、宝塚に向かい、折り返しの信号で停車した。この時までの先頭車両をAとする。Aの運転台で操作していた運転手は、上記3線共にオーバーランなどしていた話は無い。宝塚の北で、折り返す。この時先頭車はAからGになる。今までの最後尾車である。こからすぐにオーバーランが始まった。折り返しの直後の停車、宝塚駅での停車、それから事故までの全停車駅でのオーバーラン。私は、G車両のブレーキの整備不良が原因ではないかと、ひそかに想像している。あくまで勝手な想像だが。運転手はAからGにかわったその後からオーバーランを全ての駅でしている。今更ではあるが、運転と整備には気をつけてほしい。
2006年09月25日
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私の幼い頃から、終戦あたりまで、国道2号線(阪神国道といっていたが)に、路面電車が走っていた。複線である。野田阪神から三の宮までを、次の停留所が見える近さに、駅があったので、主婦の買い物や、子供の通学に至って便利だった。上甲子園で、南に線が分岐して、甲子園1番町から南下、阪神本線の甲子園駅の下をくぐり、濱甲子園を経由、西に曲って高砂までこれも複線、沿線には、別荘が多かった。阪神パークへ行ったり、海に泳ぎに行くのには、これが便利だった。惜しくも、今は、撤去され、上下線の真ん中に緑地帯となってその名残が所々にのこる。 野田阪神から、淀川の南にそって、同じような路面電車が走っていた。中津で、阪急の下をくぐり、天六に至る。ここは新京阪(今の阪急)のターミナルだったから、これも便利だった。今は広い道、昔の電車道の痕跡すらない。
2006年09月24日
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元阪神タイガーズのエースピッチャーだった江夏氏は、解説で常に話す。ピッチャーも積極的に打って、点を入れることにより、自分の勝ち星にも繋がると。前からそういう傾向にあったが、今は分業化して、投手は自分が、打席に立っても、ベースから遠く歯なれて三球三振が当たり前のようになっている。場面によっては、投手もバントしたり、外野フライを打ち上げることも要求されるが、失敗しても、まあ許される傾向にある。昔、江夏氏が現役だった頃、甲子園での試合。両軍0対0で延長戦に入った。ここで、打順が江夏に回ってきた。彼は、他の野手が凡退してきた中、この時、スタンドへホームランをぶち込みこれで試合の結末をつけたのを私は覚えている。だから、彼の持論は空論ではない事を知っている。
2006年09月23日
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一番下の妹が、来年春早々に独唱するという。モーツアルトの 春への憧れ で、これを原語で歌うので、お手本にドイツ語で唱った上そのテープを聞かせてほしい とのこと。長女が既にドイツ語で歌っているのだが、それより、私のがいいというそうな。姪のよりも。娘の車で、お墓詣りをしたが、その車中幾度も唱って、練習した。8分の6拍子の軽快な曲だが、なかなか原語では難しい。帰宅して娘にピアノ伴奏して貰って、十数回ほど歌い、自信ないままテープに入れた。本番は3回歌ったが、内1回目は、伴奏音が小さくてNG,娘はもう暗譜しているのだが、こちらは稽古不足で、65点位の出来だった。でも、もう老体の声帯は、F音がやっとで、それで勘弁してもらう事にした。ダメですナ、年よりは。
2006年09月22日
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足を骨折してからは、外に出ることもない。家の前は、既に坂。杖をついても危ない。部屋に篭りがちになる。身の近くには、英語、ドイツ語、フランス語日本語の辞書がある。昨日もタイのクーデターを聞いて、早速辞書でひいた。coup d'Etat とあった。その他、国語の本、日本語のルーツ、芸術などのほかに、呆け防止のため、微、積分の本2冊、俳句歳時記4冊がある。寝室のベッドの頭には、英語の辞書と、ドイツ語入門、日本語のルーツ(別)の本が並んでいて、寝る前ドイツ語の本2ページを必ず読む事にしている。1種の睡眠薬の働きをしている。以然は、堺、岸和田、泉佐野まで見えたが、最近、マンションが多くなって、一部しか見えない。
2006年09月21日
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古事記の最初の書き出しは、あめつちのはじめのとき、高天原になりませる 神のみなは、天のみ中主の神、次にたかみむすびの神。次に神むすびの神 とある。つまり三大勢力が存在していたことを想像できる。これは、後に、天照と月読み、すさのお の3つに対応する。すさのおは、天照に反抗して出雲に追われた形になっている。次に国わかく,浮きあぶらの如くしてくらげなす ただよへるとくる。 形容が 水母 という海の生物であることに注意したい。ここでは、山と海の民族の対立が鮮明に出ている。
2006年09月20日
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娘が貸してくれた芸術の本の、最初に、写真が10枚ほど出ている。百済観音や、運慶の作品、伐折羅大将など。この、口を大きく開いた12神将の、上半分を大きく写した写真を私は、昔受験生の頃、部屋に掛けていた。隣に、半紙6枚位の大きな紙に、太筆で草書の 断 と書いて 受験の厳しさに耐えたものだった。写楽の絵もある。眼を剥き、両手を開いて見栄を切っているところだが、両手の五指とも開き、且つ眼を開く一方、目玉は真ん中にとり、口を引き締める。海老蔵の睨みの、すがたである。この開閉のバランスがとてもいい。私は前に、蚕豆は写楽の口をしていたりという俳句を作ったのを思い出した。年をとると、回想ばかりしている。
2006年09月19日
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吉本合唱団には、世界的カウンターテナーたる米良美一さんが参加し、ピアノ伴奏は音楽学校出のボヨヨーンの さゆり が担当した。無論夫のかつみ もメンバーの一人として歌っていた。曲は、もののけ姫とさくら であったが、前半の第一部では、吉本は4位につけた。後半の第2部は、ラップのさくら の四分の4拍子の指揮を、西川きよしが 持ち前のき真面目さから、腕だけ振っていたらよいものを、全身で振るものだから、歌の方が先行して、もどかしかった。それを見ていた落語家の面々がそれぞれ着物の袖を4拍子に振って、西川に応援しはじめた。採点者の一人が感想を求められて、皆さん、笑われる職業だからと言って、ブウイングを食らい、お笑いを提供する と言いなおしていたのが、印象的だ。吉本の芸人は、そういう使命感を持っているのだと、改めて見直した。
2006年09月18日
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昨夜、夜9時から2時間、7つの団体の合唱コンクールが放送された。NHKを除いて、この時間に合唱などを放送するのは。きわめて珍しい。因みに局はテレビ大阪。出演グループは、江守徹指揮の劇団、アイドル達、政治家とその妻たち、小朝指揮の落語家、角田指揮のスポーツ、山田邦子指揮のそっくり団、西川きよし指揮の吉本の7つ。みんな上手であった。中には、口を開かないで歌っていた人もあったが、大きな口を開けて、しかも歯を見せない本格的な人もいて、素人の集団とは思えないハーモニーを作っていた。各2曲ずつ歌って、きそったのだが、政治家グループが優勝した。みんなが中々揃わない忙しい職業でありながら、よく纏まったのが評価されたのだろう。順序はどうでもよい。一つの音楽を作ったと言うことが私の胸を打ったのである。 つづく
2006年09月17日
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今朝の新聞に、松本被告の死刑確定と大きく出ている。わが国では宗教の自由が認められていて、天理や、金光など、町の名前にもなっているものも、政党を作っている学会もある。また、古く、四天王子や、法隆寺、比叡山、荒野山もあれば、禅宗の寺、法華や浄土真宗の寺もある。と言っても、蘇我の時代、から、日蓮や親鸞の島流しなど、昔は渡来宗教には厳しかった。キリスト教とユダヤ教とでもキリストを認めるか否かで差別があり、そのキリスト教でも、マリヤ様を認めるか否かで、戦争が幾度もあった。さらに、イスラム教が起こると、これとの争いも頻発した。そのイスラムにもシーヤ派と、スンニ派が別れ、憎みあっている。宗教は必要だろうが、こわい。
2006年09月16日
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昨夜、久し振りに第9のコーラスの練習があった。今年は、1万4千人余りの応募があったという。兎に角1万人が、大阪城ホールで歌うのだから指揮者以外は、音がずれて聞こえる為、団体の1分子としてしか自覚出来ない。合唱の醍醐味を味わうのは、この練習の時しかない。私は、足が悪いので、杖をついて参加したが、帰りに車椅子で参加している人が居るのを見た。いつもは自分のパートだけを歌うのだが、今年は他のパートの練習をもさせられたので、面白かった。兎に角オーケストラの人数も多いし、1万人のコーラスなんて何処にもやっていない。今年で24回目だから、世界1である。因みに指揮者は佐渡 裕さん。私は今年で8回目の出席となる。中には、24回皆勤の人もいて、これは、熱心さと運のとさ のあかげだろう。ハーモニーを作ったり、聞いたりして、感激した。北海道でも、東京でも、九州でもそれぞれ練習しているに違いない。
2006年09月15日
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今朝の新聞を見ると、日の出5,42 日の入り18,02月出22,23 月入13,55 月齢22,3神戸港の満潮18,39 干潮7,36 とある。普通干満は、一日2回あるのだが、自転軸からある角度の線上では、極に近い所では上のように1日1回となる。これは、月の引力と、太陽の引力の両方の影響をうけて起こるもので、大雑把に言えば、各々の質量に比例し距離の3乗に逆比例するので、起潮力は、5:11と、月の方がはるかに大きい。その上、月と地球とは共通の軸を中心に回っているので、月と反対側には、地球上で遠心力が働いて、満潮になる。北極から遠く離れた神戸で、干満が1回づつと言うのは珍しいのかもしれない。
2006年09月14日
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幼児語には、重ね言葉がおおい。例えばねんね《眠り)のんの《月、東言葉)わんわん《犬)もうもう(牛)ぼんぼん(坊や 大阪言葉)など。漢字にもそれがある。悠々、閑々、淡々、早々など。 幼児語に限らない。日本語にはこれが多い。にこにこ、ぺこぺこ、はらはら、ころころなど状態や動作を示す言葉として、多用される。アフリカや、オーストラリアの原住民の言葉にもこういった重ね言葉が多いのは、或いは、ヨーロッパ人が、物や、動物の名前を聞いた時、念を押す為に現地人が、同じ言葉を二度言うのを、一つの単語として記録するからでもあろうか。ヨーロッパの詩の頭韻や、押韻も、一種の重ね言葉だともいえる。
2006年09月13日
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私達は、アラビアンナイトとか、シンドバッドの冒険などという お話から、アラブの人々に親近感を覚えていた。第2次世界大戦のまえは、アラビアから東南アジヤにかけては、英仏の勢力下にあった。それが、ナチスのユダヤ人排除によって、大量のユダヤ人がアメリカに流れ、そのアメリカが、国が滅亡して既に2千年以上にもなるユダヤの国をアラブの土地を割いて作ったものだから、アラブの人々の怒りは、強い。しかも悪い事にはユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、すべてが、エルサレムを聖地としてあがめている。アメリカをユダヤの国と考えるアラブのひとびとにとっては、身を挺しても攻撃せざるをえない。昔の日本の、人間魚雷、特攻隊と同じく、自分の命を捧げるのに躊躇しなくなる。恐ろしい教育だ。9月11日の事件は、こうして起された。アメリカは、イラクを武力攻撃しているが、武力だけでは千年まっても解決しない。謙虚さがほしい。
2006年09月11日
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言うという言葉の過去形は、言った となっている。これは、東京語系の言い方で、詰まった形だ。京大阪などの上方では、言うた となる。行く の過去形は、共に 行った で同じだが、上方では、行っちゃった などとは言わない。東京は促音が好きそうだ。そうです などの標準語は書き言葉として使われる。口語では、東京では、そうだ(よ) 京都では そうどす(え) 大阪では、そうだす(え) 略して そうだ(っせ)そうだ 文字では同じ形だが、{ふし}は東京は ̄__、であるに対し大阪は、 ̄ ̄ ̄ で全く違う。日本は島国だから、全部渡来人だが、その元の民族が場所によって違うので、言葉も元の民族の癖を残すのであろう。
2006年09月10日
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商業学校2年生までは、柔道が必修科目だった。まず受身の練習からはじまった。3年生からは、放課後柔道部員に混じって、練習をさせて貰った。それから、70年後、年老いて転びやすくなった。が、少年の頃覚えた受身を、体が覚えていて、いつも猫のように丸くなり、勝手に手で畳を叩き、怪我をしなかった。3月18日夜、テレビを見終わって、新聞を片付けた。お風呂にお湯を張ろうと歩き出した時、右肩を何か見えない力で強く押され、私は倒れた。受身を使うすべもなかった。私は、左足の付け根をスキャナで強打した。急いで携帯電話で近くの娘の家に連絡して、門と玄関を開けて貰い、119番した。20センチ後ろならテレビで頭を打って命を落としていたことだし、20センチ前なら、畳で、怪我もしなかったことであろう。全く、何か運命か、悪魔の力が働いたとの思いが、今でもする。土曜日だったので、翌々日手術をうけ、1月余入院した。死に神が狙っているのか?右肩を押した強い力は、一体何なのか? 今でも不思議である。
2006年09月09日
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今から三十年以上も前に、私は、どこかで 噴火があると思いも掛けぬ遠い処で、地震が起こることに気がついた。これを知り合いの若い大学助教授に話し、一度縦線に西暦年を書き、その左に火山の噴火の場所、右に地震の起こった場所を書いてゆけば、一目でその因果関係がわかる。是非試みてほしい、と言ったが、かれは、{そんなものは、火山性地震だ}とけんもほろろの 態度であった。翌年、プレート、テクトニクスの理論が、一般に承認され、わたしの考えが間違いでなかったことが、分った。彼は、私の言う事を聞いていれば、世界的に認められたかも知れない。つい最近でも、富士火山帯が、活動して小さな噴火がみられたが、その後、スマトラ地震があった。アジアプレートが、噴火によってバランスを崩したに違いない。北アメリカで噴火があって、新潟地震が起きた。同じメカニズムであろう。これを、今後の、地震予知に利用できないものか?
2006年09月08日
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今、占いが静かなブームを一部で呼んでいるらしい。私の弟も、電車を乗り継いで、見てもらいにいったというが、大勢の人で、順番待ちに時間がかかったという。テレビでも、のっぺり顔の女性が、多局で出ている。木火土金水の他に天王星を入れて、六星で占うという。私も、嘗て娘の結婚相手を選ぶのに、わざわざ先生について、本格的に勉強したことがある。私のは五星で、各々陰と陽があるので、いわば、十進法であるが、唯物弁証法のごとき考えもするので、ある程度、合理的な部分もある。試みにその当時、親類の一同を個別に鑑定したものが、今も残っている。あたるも八卦、当たらぬも八卦である。一人、当時生れたばかりの子供が、今や結婚適齢期になっている。果たして、あたるのだろうか?
2006年09月07日
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今朝秋篠宮家に男子が生れたと報道された。劇的である。これで、皇位継承順位第三番目の男子が出来たことになる。所謂、日嗣の皇子 であって、例えば、明治天皇の時に今の陛下まで皇位継承の順位が分ったと同じ位将来が開かれた事になる。ヨーロッパでは、王様は必ずしもその国の人ではなかったことが多くあった。神聖ローマ帝国の勢力の消長に伴い、色んな国が興ったり消えたりしたし、イギリスのように、女王が出来たりした、ヨーロッパ人は、元来狩猟民族だから、男は常に、狩にいって、女子が家を守る、この伝統が女王の存在に肯定的なのだ。反して日本は、農耕民族が主だから、男系男子が相続する。皇室典範を改正しようとする動きは、親王の生れなかった処からきていた。男女のどちらが生れるかは、女性でなく、男性の染色体にある。お二人の妃殿下のあずかり知らぬ所なのだ。先ずは、ここに此の問題が一応棚上げになる。
2006年09月06日
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書道を勉強するには、次の道具が必要だ。硯、墨、筆、下敷き、文鎮、お手本、紙(和紙)机又は平らな空間真ん中が窪んだ硯などは、研ぎやに出して平らにしておく。漢字には、篆、隷、楷、行、草の書体がある。先ずは、行書からはじめる。叢書は、行書の崩れたものではない、隷書から、生れたものである。仮名には、カタカナと、平かながあるが、書道では、カタカナを特に練習しない。なお、カタカナは、漢字の一部をとったもので、例えば、エは、江から、カは加から。但しキは、幾の草書体からきている。平仮名は、漢字の草書から来ているが、変体仮名といって昔から使われてきたものは、多くの漢字が源となっている。半紙で先ずは練習をするが、昔から中国や日本で字のうまい人の筆跡が刊行されているし、五体辞典などがあるので、それを参考にする筆は、全部水につけて糊を落としてから使う。但し、仮名用の小筆は半分位を指でもみほぐす程度でよい。
2006年09月05日
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今は亡き妻は、昔次女の通う幼稚園の3役《経理)をしていた。新しく保母さんを採用するに当たって、面接とオルガンの実技があり、一人が選ばれたが、被差別者を理由に一部で反対の声があったらしい。妻は、そんな事は一切関係ないと、彼女の採用を薦めた。戦後、彼女は選ばれて、私の母がしていたように、婦人会会長になった。そこで見たものは、会員に薦める便利用品の業者からのお礼の金が、別会計で処理されている事だった。その金で、役員が、区役所主催の親睦会へ行ったり、自分たちの会合の食事代に当てていたのである。即刻、彼女はそれを、一般会計に繰り入れて、一切の裏帳簿を無くした。これを見て、会計担当の役員は驚いて前の会長に相談に行った。説得が始まったが妻は応じなかった。お陰で、次期は、会長を強引に辞めさせられた。市町村、都道府県、国、でも規模が大きくこういった役とくと、裏金作りが行われているに違いない。血税を使って!!
2006年09月04日
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大阪には同業者が多く集まっている町が多い。例えば薬の道修町、北浜、今橋の株屋、船場の繊維屋、立売堀の鉄屋、長堀や西横堀の材木屋、谷町の工具屋、松屋町の玩具屋など。私どもも焼け跡にバラックを建てて戦前の商売に戻った。この復興会の会長が、マッチポンプで、自分の地位を守る為と、小金を得るために、税務署にあらぬ事まで密告しては、調査を受けた業者から、その役を利用して金品を得ていた。 私の会社にも5人の税務署員がきて、調査をしたが、私は、商業学校から、大学まで、経理を勉強し、父に倣って一切脱税はしていないので、調査しても無駄なのである。一人の署員が庭をへだてた私の自宅に向かった。私は、令状のないのを理由にそれを拒んだ。が、彼は靴を脱いで上へあがった。靴下に大きな穴があいていた。妻に現金出納帳を出せと言う。妻は、(大根をいくらで買ったかなどの個人の記録を見せる謂れがない)と意って、彼の目の前でガラス戸を開けて、裏の堀に出納帳を投げ捨てた。私は、直ぐに自宅の電話で、妹婿《当時直税部長)を呼び出し、令状なしで、今税務署員が自宅に上がってきた、5分以内に戻すよう手配しなければ、家宅侵入罪で訴えると目の前で言いつけた。5分もしないうちに組合長の家から連絡が入り彼らは、出て行った。以来私は、組合の役職にはつかなかった。
2006年09月03日
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私の父は、戦時中、連合町会長をしていたし、母は、婦人会会長をしていた。二人とも清廉潔白だった。父は会社を経営していたが、一切脱税はせず、模範的な経理を行っていたので、見込まれて長女(私の妹)が、東大出で、国税局の間税部長をしていた青年と結婚した。彼はその後どんどん出世して、大蔵省の幹部になって定年退職したが、私も、自分の会社の経理は透明、一切の脱税行為はしなかった。彼の出世の妨げになってはいけないと思ったからだ。両親、ことに父は、連合町会長だから、当時疎開用の牛車の割り当てを受けても、先ず会員で困っている人に使わせ、自分は庭にスコップで穴を掘り、大事なものを僅かだったが埋めていた。おかげで、私や、妻の嫁入りの持参品(ピアノや箪笥、着物類、宝石類などいっさい)空襲で焼けてしまった。両親は愛国精神の持ち主だった。 つづく
2006年09月02日
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大昔の日本語では、語頭に、ら行音及び濁音が来なかった。このような傾向は、今もハングル語に残っているそうだ。日本では、大陸から漢字が到来して、この癖がなくなった。start という時、関西でも関東でも、ふし の違いこそあれ、いずれも スタート である。arは、アー で、to と母音がつく。英語では、同じアーでも、舌の先を上に巻き上げて、喉を開いて発音するので、R音が自然にでる。別に巻き舌にしないでも。der というドイツ語の単語だが、昔テレビでドイツの声楽の先生が日本人の留学生に歌の指導をしているのをみたことがある。日本人の生徒が、デヤ と言うのを聞いて、先生が、デル と巻き舌に訂正されていた。所が その後先生が模範に歌われたのを聞くと私には、デヤ と聞こえた。 喉の奥で ご に近い発音なのだろう。孫娘がフランス語を学んでいたが、パリをパヒという。喉の奥から、擦れたような ひ である。私は、テレビやラジオで独学していてもそんなR音は聞いた事が無かった。所がある日テレビで、フランス人の女性が自分の名前を マヒア(マリヤのこと)と言っていたのを聞いてやっと孫の発音の正しさに気がついた。イタリヤ語では、例えばサンタルチアの歌いだしのSurmarre lucica のrは、巻き舌なのかどうか 聞いて見たい。
2006年09月01日
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私が独学でフランス語を勉強している間にも孫娘は、フランスへステイしたりして、ドンドンフランス語がうまくなっていった。卒業論文はアポリネールのアルコールという詩集の研究で、お陰で私もそれにつきあわされ少しは文章を読む事には慣れてきた。この詩集は、押韻をわざとしていない。孫が卒業して、私のフランス語はどんどん遠くになっていったが、孫は、毎年夏には勤め先をやめてもフランスへ、いっていた。時には、日仏協会から、日本代表で世界の若者の集会へもいったりした。今年3月、私は大腿骨骨折で1ヶ月入院した。この時彼女は、アポリネールの他の詩集と仏和辞典を差し入れてくれた。 が、退院の時は僅か1ページしか進んでいなかった。1字1字辞書をひくので、進まないのだ。
2006年08月31日
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商業学校4年生の時、英語でThe last lesson という文章があった。アルザスがドイツに占拠され、ドイツ兵士の訓練の靴音の聞こえる教室で最後のフランス語の授業があった。授業の終わりに先生が黒板にVive la France (ビーブ ラ フランス フランス万歳)とかいて教室を去って行った というものだった。これがこ妙に今でも頭に残っている。その後私は高商にはいり、フランス語を選択した友人もふえた。大学では、和歌山高商から来たフランス語を第2外国語に選択した友人からは、彼の親戚の中学生の家庭教師のアルバイトをさせて貰ったこともあって、フランス語とは、無関係ではなかった。この知っていたフランス語は、たとえば、bon jour(今日は)au revoir(さよなら)merci《有難う》その他、英語に入ってきた元の言葉などであった。孫娘が大学に入ってフランス語を専攻することになった。私は、テレビとラジオの両方でフランス語の独学を1年間した。そのときのテキストとテープ、ビデオは、今も残っている . つづく
2006年08月30日
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小学校で同級だった友人が久方ぶりに家に遊びに来た。彼は、大阪外語インド語科にいるそうだ。しばらくして、彼は急に{お前も、インド語やってんのか?}{いいや}{でも、ここにインド語でお前の名前かいてある}{ああそれマレー後や}二つは同じ字を使っていたのだった。 太平洋戦争が始まり、家が焼かれ、日本が負け、残った焼け跡の土地に財産税が掛けられ、愛国心の見本みたいな父が、日本を呪った。もう、世界一周どころではなくなった。マレー語などすっかり忘れていた。3,4年前、電車を降りてバスを待っていた。時間は10分以上あった。ふと見ると、東南アジヤ系の婦人が同じようにバスを待っている。遠い異国で自分の国の言葉を聞いたらさぞ嬉しいだろうと、私は、目の前のマンションを指差して思い切って声をかけた。{ルマ ブッサール}[大きい家}彼女は振り向いて私の顔と指先をみて、急に早口で喋りだした。私はその反応に驚き、うろたえた。{私は、マレー語を60年前に習ったが、今は喋れない}日本語と英語をまぜて弁解した。かえって彼女をがっかりさせてしまったのかも知れない。
2006年08月29日
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高等商業学校で、選択科目にマレー語があった。私は。卒業したら父を世界旅行に連れて行くつもりだったので、先ずマレー語アラビア語、スペイン語を独学することにしていた。これ幸いとマレー語を選んだ。講師は大阪外語の内藤先生だった。テキストは、先生の書かれたプリントで、例えばTerima Kasih (トゥリマカセ)Dank U とオランダ語で訳が出ている。これをもう一度 有難う と日本語に直すのだ。アルファベットは、アリフ バー ター カー とくる。私は、つい最近までこれは、オランダ語のアルファベットをマレー化したものとばかり 思っていた。数年前、オーム真理教が、サリン事件で問題になり名前をアーレフに変えた時、マレー語のアリフが、サンスクリット系のアルファベットだった事に気がついた。随分長く誤解していたものだった。
2006年08月28日
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私の小学校1年生の国語は、よみかた と言っていた先ず最初は、はな はと まめ ます次に みの かさ からかさと1ページに2個ずつ 単語があった。それから、すずめがゐます からすがゐますと文章がくる。います ではなく ゐますという字が使われていたその次が うしがゐます うまがゐます うしと うまが ゐますとなる。 はさみが あります ものさしが ありますと、いる と ある の使い方の区別が次に示される。無論、私達1年生に、そんなことは 分らない。今、振り返ってみて、順序を踏んで教えているんだな と分るのだが。ちょうちょうのことを、てふてふ と書いてあった。未だにこんな古い表記法だったのかと あきれる。
2006年08月27日
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私は、毎年12月上旬の日曜日に開かれている1万人の第9に参加している。今年で8回目。オーケストラ300人、コーラス1万人の世界一の編成で、私のパートはバス。シラーの詩を原語で歌うAlle Menschen werden Brueder (全人類は兄弟となる)が主題だ。このコーラスの練習以外ドイツ語とは縁が無い昨年12月、俳句会の帰り、電車から降りると幸いバスが待っていたもう既に満員だったが、2人掛けの席が1つ空いていたので片手を上げて座らせてもらった。発車して気がついた横には、外人が新聞を小さく折りたたんで読んでいる。隣に座る人がいなかった訳だ。私は遠慮しながら[何語ですか?}と聞いた。彼は、新聞を閉じて{ドイツ語です}と日本語で答えた私は、ドイツ語を習って60年になります と言いたかったが。英語のsince にあたるドイツ語が分らないので、[私は、ドイツ語を習った、私が18歳の時に}と下手なドイツ語で話しかけた。そのあと、ベートーベンの第9の練習をしているとか色々むちゃくちゃな文法で喋った。彼は黙って聞いてくれた。偶然にもバスの下車駅が同じだった。彼は上へ、私は下へ、 彼は{サヨナラ}わたしは{Auf Wiedersehenn} と手をふり逢って別れた。
2006年08月26日
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