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小さい頃鰹節かじったり、海苔をパリパリ、味の素をナメたり(もう一生分なめたから?今全く使いません)麩をそのまま金魚みたいと言われながら食べたり。たまに砂糖を入れるはったい粉(麦こがし)は大好きでした。きな粉は普段ご飯にかけてました。ごはん大嫌いでほっとくと食べなかったので、母が工夫したみたいです。なんか大昔の人みたいやね~!
2004.01.12
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お屋敷の離れを借りていたので大きな庭があった。(近所に住んでいたおばさんが元々女中として働いていた時住んでた所らしい)築山?夏にはせみが出てきた穴が一杯あったり。家主のおばさんの家には家にトイレとお風呂があったけど離れにはなくて、台所も土間になっていて、トイレは外にあったし、お風呂は普段は銭湯。そういえば、昔はシャンプーなくて、出始めの頃にはチューブに入ってた。歯磨き粉だったし。何時から練り歯磨きになったっけ?
2004.01.11
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牛を飼ってる農家があった!ポンセンを作っている家があり時々直に売ってもらったりしていた。さとまわりと呼ばれる青大将がいてまだ冷蔵庫が一般的でなく棚に入れておいた卵を裏の破れ目から呑んでしまった事件があった。女中さんが卵を盗ったのではと疑われたりしたらしい。卵と言えば鶏を飼っている家にかごを持って卵を買いに行くお使いをしていた。糞とかがついている産み立て卵。おいしかったよ~。そこの小母ちゃん笑顔の中に顔が有る感じの優しい人で、「なごちゃん来たんか~」体型もふっくらさんでした。駄菓子屋さんは二つあって村中のはお好み焼きもやっていて夏はかき氷もしていた。卵を持っていくと持ち込み料10円そこでノシイカを買って入れて焼いてもらったりしてた。もう一軒はバス通りに有っておばあが口うるさくて先にお金を渡して迷っているとせかされて選べずに泣いて帰って母に泣きついて一緒に行って貰った事が。
2004.01.10
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幼稚園から帰ってきても母はパートに出ていて時間差で鍵が開いていなくて、隣町の親戚の家で待っとき、と言われても絶対拒否で家の前で一人座って待っていて、母を見つけたら「ぱぁ~っと明るいホントに嬉しそうな顔になって飛んできた」そうだ。親戚の家で待っていてくれたら安心なのに心配で必死で帰らないといけなかった母に謝らなければいけなかった?今気付いたよ~。普通に遊びに行くのは大好きで私が早生まれなので学年は上になるけど同い年の子がいていつも張り合っていたから、預けられるとなると立場が弱くなると感じていたのかも。どちらが大きいかでよくケンカしていた。コチラは「年が大きい」あちらは「背が大きい」姉にあこがれていたようで、ねぇちゃん姉ちゃんと寄ってきてたよね、と言ったら、本当は私の持ってるものがうらやましくて貸して欲しくても「いや!」「アカン」と断られて姉に貸して貰ったりしていたからだそうで、そういえば一緒に写真に当時一人息子で見るからに私達姉妹より高そうなオーバーを着せてもらって写っているとっても嬉しそうな彼の手に握られているのはハンドバッグ…一人でも帰れるくらい近い距離に住んでいたのに、間に子犬を飼っている家があり、それが怖くて送っていって欲しいとまず私に言い、言下に「嫌!」と言われ母に私に嫌と言われたと泣いて言い「姉に頼んでみ」となだめられ姉に頼んで送っていってもらう。という感じでお互い自分の家ではえらそうだった様に思う。今だったら親戚の家に行くと思うけど、絶対彼に弱みを見せたくなかったからかな?今となってはよく分からない。
2004.01.09
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私が通ったのは堺市立百舌鳥幼稚園。赤組でした。一年保育のみになった年で全員今で言う年長児ばかりだけど、半分は2年目、半分は初めての幼稚園。それまで幼稚園に行かせない人も多かったのかな?姉の同い年でタケオちゃん(私をいじめた彼女の大人しいお兄ちゃんだったりする)という子が幼稚園に行ってなくて小学校になじめず苦労したとかで、ウチの町内でも5人揃って入園することになった。百舌鳥八幡の敷地内に有る幼稚園で環境は良かったと思うけど、教室が足りないってどういうことだったのかな?姉は母が始めての子で全くわからずに私立に入れて幼稚園バスに乗っての通園でお金がかかったこともあり~の、小学校が遠くてバテバテで登校を嫌がったことから小学校より更に遠い公立に入れたようだ。費用1/10くらいで済んだそうで姉も公立に入れておけば制服もお下がりに出来たのにね。お気に入りだったのは帽子のゴム!汗が染みたのを口にくわえてちゅぱちゅぱ今思うと汚いんだけど、タブンお母ちゃんを待って暇~でいじけた所から来ているんじゃないかな?おかげで?ゴムは冬も夏もびよよ~んと伸びちゃった。
2004.01.08
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幼稚園に入った頃母が働き始めた。その頃喘息を起こすのは甘えてるから。少し距離を置いた方が良いと医者に言われてその病院ではたらきはじめた母今思うと人手不足の病院の陰謀?とも思うのだけど歩いて30分くらいを保護者一人が付き添って同じ町内の子達5人で集団登園。何故登園だけ親が付いて行ったのかわからないけど、母が付いて来る時は幼稚園の近くからバスに乗って出勤するので行ってらっしゃいと言い合って、見送ったのを覚えてる。帰りは揃って帰っていたわけではなさそう。覚えてないけど、一度同じ町内で同じ組でいつも嫌味な子が同じ組の子と二人後から囃し立てながらついてきたことがあったから。もう泣きそうになってもう限界~と思った所で町内に入ったら町の入り口付近にあった彼女の家にそそくさ~と入っていった。?、そうかぁ、大人に私をいじめられている所を見られたくないんだぁ。なあんや、根性はないんや!ケッ。湿疹でも耳が切れて何時もジュクジュクで、膝裏も湿疹があって、汚いからいじめられてました。で、ある日アンマリしつこくいじめられたので、キレて耳に触る振りをしてその手で触ってやると追いかけてやったらみんな逃げて、誰かが先生に言いつけて私が怒られた。 先生なんてちゃんと見てない。心の中で「けっ!」と思いつつ口先で謝る術を覚えてしまった幼稚園児でした。 2月生まれで小さくてブランコに立って乗れなくて、まりつきも3回ぐらいしか出来ない子だったからしょうがなかったかな?で、幼稚園、あんまりいい思い出はないなぁお漏らしをするので、替えのパンツを鞄に入れてもらうと安心して?しないのに入れ忘れるとお漏らしして幼稚園のパンツを借りてくるを繰り返していたらしい。これってチックの1種だった?髪の毛はずっとおかっぱで短くて、ある日誰かが自分の髪の毛をなめられると自慢し始めて、背が大きくて髪の毛が長い子の髪をなめさせてもらった事がある。名前覚えてない。小学校も違ったので卒園してから会ったことないけど、あの時はおおきに。今考えると不潔?教室が足りなくて講堂を使ってたから学芸会の時に皆が入ってきて緊張して久しぶりにお漏らしして先生が「もう、忙しいのにぃ」とプリプリしてたの覚えてる。恐縮しながらも最後しゃあないやんと開き直った(心の中で。小心者だから口には出せない)記憶有り。
2004.01.07
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おかあちゃん大好きっ子だった。6歳までおっぱいまさぐってたもんねぇ。姉と一緒にいる所を見ようものならさぁタイヘン絶対間に割り込んで自分のものにしないと気がすまなかった。どこがどう好きなのかと聞かれてもわからないけどお母ちゃん大好き!
2004.01.06
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母に言わすと二人とも死に掛けたことが何度か有るけど姉は二階からまっさかさまに落ちたり、どぶの中に頭から落ちたりと事故系なのに対して、コレラ騒ぎからお腹が弱くなったらしく何度か病気で死に掛けて、小4の秋の最後の大発作の時は最後は家でと思って連れて帰ってきたらしい。ってオイ!3歳ぐらいから風邪を引くと喘鳴息が出来ないのに慣れているから肩で息をしながら外で遊んだりはしていたけど…さすがに走り回る事は出来なかったので運動神経は全く発達しなかった。幼児の時に走り回る=運動神経の発達らしい小さなお子さんをお持ちの親ごさん、ムリしてでも付き合って走りましょう。我が家は手遅れ。ゴメンね我が子よ~。
2004.01.05
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歩き始めた10ヶ月の頃にロタウイルス、当時は「仮性コレラ」に罹り入院。ベッドが空いてなくて精神科の病棟に入院。母と姉は貴重な体験をしたらしい。(アレルギー:入院に以前書いてる)一晩でばあさんのようになったとか。コノはたいしたことにならんかったよなぁあんなに弱かったのに。ヤッパリ7ヶ月ほど大きかったからかな?で、すっかりスマートになって退院してハイハイからやり直したので標準より少し遅くなったらしい。
2004.01.04
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あまりの幼少時の写真の少なさに決心した事2番目の子供も一杯撮る一応1年間は二人とも毎日撮った。アルバムはそれでもコノのほうが多い。でも決定的に違うのはビデオコノが生まれる直前に実家でビデオを買ったので「このみのおいたち」と銘打った編集してあるビデオがあるのだ。ヤッパリ2番目は嘆く運命!?だけどね、可愛がられるのは下なのじゃ自分は下だからよく分からないけど長女の方に訊いたら「下ばかり可愛がられて、悔しくて絶対上を可愛がるんだ!と思っていたけど気がついたら下を甘やかしてるわ」「上が甘えてきたらちょっと気持ち悪い、どうしたの?って訊きたくなる」「下は甘え上手よね」上はどうしてもお兄ちゃんお姉ちゃんとおだてられしっかりせぇと育てられるからか自分でしっかりしなくちゃと思うのかな?小さい頃は姉を泣かした事もあるみたいなのに何時しか調教されて小柄な姉より一回り大きくなった頃から姉の言う事は絶対的なものになっていて、それは実家全体そんな雰囲気になっていて何かしたいと思うとき言ってダメな時「お姉ちゃんがこうした方がいいよと言ってた」と付け加えるとOK。
2004.01.03
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和と書いて「なごみ」と読む最近ならありそうな名前をつけたのは父生まれたのが堺の大和川の土手の下。川を流れてきたからすくた(掬った)とよく言われた後々、姉が「大和川からつけたん?」と聞いた時父はニヤリと笑って何も答えなかった…そうなのかも。だって私の旧姓…姉は里帰り出産だったので三重で生まれている。元々両親の実家は隣同士だったのでどっちで生んだのか知らない。伯母(父の姉)が助産婦だったし、兄嫁と仲良くなかったらしいし。今も昔もむずかしいねぇ。閑話休題(古くさい言い回しやのう)たまたま宝塚の雑誌を見てそこから読みを選び、漢字を当てはめたらしい。母は名前がひらがなでしかも一文字変体仮名なのがイヤで子供には漢字!と決めていたらしい。で、皆の反対を押し切って読みは良いとして、男の子のような感じの一文字に。で、次女には誼(よしみ)と付けたかったらしい。父が大反対で和(なごみ)になったとちょっと悔しそうに教えてくれた。二人の感性が私に息づいていると思うと感無量ですわぁ。と笑い飛ばすしかないかも。姉は子供に自分のような苦労はさせたくないと普通の名前をつけた。確かに組替では必ず男子に名前があり、リクルートも男子系でいろいろ来てた。私は子供も道連れじゃ~、ソンナン子供にも苦労させなあかん!と読み方はそれでも母心でかわいくしてあげたけど、読めない漢字を当ててあげた♪だけど、読みがしりとりになってるのは姉も一緒。
2004.01.02
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1959.2.7.23:55平凡な夫婦の二女として生まれた。少し賢い小さな女の子がすでにいて、また女の子かぁと思われたからか、姉のアルバムの最初の数ページが生後何ヶ月という赤ちゃんの頃の写真で埋められているのに比べて、1ページ目で赤ちゃんが終わっているのがサビシイ。従妹に言わせるとそれはいい方で、従妹の場合、兄妹の二番目であった為1ページ目から立っている写真なのだそうだ。今とは違いカメラもフィルムも高額商品なのにビンボーな母が何故持っていたのかは知らないけど、最初に覚えているのは縦長の箱のような上から覗くカメラ。もう少し早くデジカメが出ていたら母はきっとフル活用していただろうなぁ。ちょっと残念。
2004.01.01
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