Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年03月01日
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カテゴリ: 絶対存在論



真理と学問
Ⅵ:無前提な認識論とフィヒテの知識学 1-1
 これまでの論述によって、我々は認識の理念を確定した。直接的に与えられたのは、ここでは、意識が認識するという振る舞いを行う限りでの、人間の意識の中の理念である。意識の中心点としての「自我」には、外的知覚と内的知覚、及び自我自身の現存在が直接的に与えられている。自我は、直接的に与えられたものより以上のものを、この所与において見出す衝動を感じる。自我にとって所与の世界に対する第二の世界、つまり思考の世界が浮かび上がり、我々が認識の理念として確定したものを、自我が自由な決意から実現することによって、両方の世界を結び合わせる。さて、ここにあるのは、人間の意識そのものの客観(対象)において、現実総体について概念と直接的に与えられたものが結びついて示されるその仕方と、残余の世界内容に対して妥当する仕方との間の根本的な違いである。世界像のそれ以外の全ての部分に際して、その結合が根源的なものであり、初めから必然的なものであること、及び、認識の始まりにのみ認識にとって人為的な区別が生じていることを、我々は考えざるを得ない。しかしこの区別は、結局のところ認識によって、客観的なものの根源的な本質に従って、再び止揚される。人間の意識にはそれ以外のものがある。ここに結合が存在するのは、この結合が現実の活動において意識によって遂行されるときのみである。それ以外の全ての客観[対象]に際しては、区別は客観(対象)にとって意味はなく、認識にとってのみ意味がある。ここではこの結合は第一のものであり、区別が派生したものである。認識はただ区別を遂行するのみである。なぜなら認識は、それが事前に区別していなかったなら、その仕方ではこの結合を強引に我が物とすることができない。しかし、概念と意識の所与の現実は、元来区別されており、結合は派生的なものであり、それ故に認識は、我々が前記で説明したようなものになっている。意識において必然的に理念と所与とは区別されて現れるから、意識にとって現実全体がこの二つの部分に分裂する。そして意識はただその固有の活動によってのみここで挙げた両方の要素の結合を生じさせうるから、意識はただ認識行為の実現を通してのみ、完全な現実に達する。もし残余の諸カテゴリー(諸理念)が、認識へ受容されない場合でも、それらは必然的に相応しい所与の形式と結びついているだろう。認識の理念は、意識の活動を通してのみ、その理念に相当する所与と統一されうるのである。現実の意識が存在するのは、意識がそれ自身現実化する時のみである。以上をもって、我々は、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte /1762年 - 1814年)の「知識学」の根本的な間違いを暴くと同時に、「知識学」の理解のための手がかりを提供するために、十分に準備していると思う。フィヒテは、全ての学問の基礎づけは単に意識の理論にのみ存しうると、カントの後継者の中で最も強烈に感じた哲学者であるが、彼はなぜそうであるかという認識には決して至らなかった。フィヒテは、我々が認識論の第二の段階と呼ぶもの、そして我々が公理の形式を与えるものが、「自我」によって現実に実行されなければならないと感じた。我々はこれを、たとえば彼の次の言葉から見て取れる。「それ故、知識学は、それが体系的学問である限り、他の一切の可能な体系的学問とちょうど同じように、自由が規定されることによって生じる。自由は、ここでは特に、知性一般の活動様式を意識化するように規定されているのである。さて、この自由な活動によって、既にそれ自体で形式であるところの或るもの、つまり知性の必然的な活動が、内容として新たな形式へ、知の形式ないし意識の形式へ取り入れられる。ここで、曖昧に感じられているものを、明瞭な概念で述べるということであれば、「知性」の活動様式という言い方で何を理解すればよいのだろうか。認識の理念の、意識において実行する現実化以外の何ものでもないもの。フィヒテが完全にはっきりとそれを意識していたならば、彼は前記の文章を単純に次のように定式化した筈であろう。即ち、知識学は、認識が未だ「自我」の無意識的な活動である限りで、意識化する認識を持つのだと。知識学は、「自我」において必然的な行為としての認識の理念の客観化が実行されることを示さなければならない。
[原注]
*28:我々は、ここで、「中心点」という名称と結びつけて意識の本性についての理論的見解を知りたいのではなく、この名称を意識の全様相の文体上の短縮形としてのみ用いている。この
ことは恐らくほとんど言う必要がないことであろう。
*29:J.G.フィヒテ『知識学の概念、あるいはいわゆる哲学の概念について』(1794)。 I.H.フ
ィヒテ版全集、ベルリン、1845 年(以下 SW 版と略)第Ⅰ巻 p.71f(邦訳:ラインハルト・ラウト/加藤尚武/隈元忠敬/坂部恵/藤澤賢一郎編『フィヒテ全集第 4 巻:初期知識学』晢書房 1997 年 p.60)

求は理論の限界の外部にある」と説明しているのである。「批判的観念論は、その表象の演繹において、自我の絶対的な活動からでも非我の絶対的な活動からでもなく、むしろ同時に規定作用でもあるところの規定されたものから出発する。なぜなら、意識の中にはそれ以外の何も直接的には含まれておらず、また含まれ得ないからである。何がこの規定を更に規定するのかは、理論においては全く未決のままである。そしてこの不完全性によって我々は、実際に理論を越えて知識学の実践的部門へと駆り立てられる」。しかしこの説明によってフィヒテは、およそ一切の認識を壊滅させる。というのも、自我の実践的な能動性は、或る全く別な領域にあるべきものだからである。前記で我々が提示した公理が、自我の自由な行為によってしか実現されえないことは、もちろん明らかである。しかし自我が認識しながら振る舞うのであるならば、まさしく肝心なのは、自我の決意が、認識の理念を実現することへ向かうことである。自我が自由な決意からなお多くの他のことを為しうることは、なるほど確かに正しい。しかし、学問一切の認識論的基礎付けは、「自由な」自我という性格ではなく、「認識する」自我という性格にかかっている。しかしフィヒテは、人間の個の自由を最も明るい光へと提示する、彼の主観的な傾向によって過度に影響されるままになっている。

参照画:berlin-tiergarten





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最終更新日  2024年03月01日 08時39分03秒
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