Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年03月03日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-15
真理と学問
Ⅵ:無前提な認識論とフィヒテの知識学 1-2
 フリードリッヒ・.ハームスは彼の講演「フィヒテの哲学について」(p.12)の中で、正しくも次のように述べている。「フィヒテの世界観は支配的という意味でも例外なくという意味でも倫理的であり、その認識論はそれ以外の性格を持たない」。現実性の一切の領域がその総体性において与えられているなどというならば、認識は絶対的に課題を失ってしまうだろう。しかし今や、自我が思考によって世界像の体系的な全体へとはめこまれていない限り、自我も直接的に与えられたもの以外のなにものでもないのだから、自我の為すことを単に示すのでは充分ではない。けれどもフィヒテは、自我のところで単に探索をするだけで既に全てが為されているという見解である。「我々は全ての人間知の端的に無制約的な、絶対的第一原則を探求しなければならない。それが絶対的第一原則であるべきだとすれば、それは証明されることもできず、また規定されることもできない」。我々は、既に前章で証明や規定がもっぱら純粋論理学の内容に対してのみ相応しくないということを見た。しかし、自我は現実に属し、現実ではあれこれのカテゴリーの存在を所与の中で確定することが必要不可欠である。フィヒテはこの必要不可欠なことをしなかった。そしてこの点に彼が彼の知識学にこれほど的の外れた形態を与えた理由が求められる。ツェラーは次のように述べた。「フィヒテが自我概念に達しようとした論理的公式は、そもそも、なにがなんでもこの自我という出発点に至るという、既に先取りした目的に達したいと、フィヒテが思っているという事情をただ粗雑に覆い隠している」³⁴⁾と。これらの言葉が、フィヒテが 1794 年に彼の知識学に与えた最初の形態に関係している。フィヒテは実際に、彼の哲学的営為の構想全体に従って、学問を絶対命令によって始めさせること以外の何のも欲しえなかったと我々が固執するならば、この始まりを理解できるように思わせる方法は二つだけである。一つ目は、意識を何らかのその経験的活動のところで取り扱う方法であり、本来意識から帰結しないものすべてを徐々に剥き落とすことによって、自我という純粋な概念を結晶化させるという方法であった。そしてもう一つは、自我の本来的な活動のすぐそばで始まり、自我の本性を自己観想及び自己観察によって明示するという方法であった。フィヒテは哲学的営為の始めに一つ目の方法をとり、そして哲学的営為のプロセスにおいて、徐々に二つ目の方法に移行した。
【原注】
*30:J.G.フィヒテ『全知識学の基礎』1794 年。SW 版第Ⅰ巻 p.97(邦訳:Ibid. p.97)
*31:SW 版第Ⅰ巻 p.91(邦訳:Ibid. p.90)
*32:SW 版第Ⅰ巻 p.178(邦訳:Ibid.p.189)
*33:SW 版第Ⅰ巻 p.91(邦訳:Ibid. p.90)

 カントにおける「超越論的統覚」の綜合に結び付けて、フィヒテは、自我の全ての活動が、判断の形式に従って、経験の素材を組み合わせることに存すると考えた。判断は、述語を主語と結びつけることに存し、このことは、純粋に形式的な仕方で a=a という命題によって表現される。この命題は、両方の aを結びつけるxが端的な能力に基づいていないならば、措定することができないだろう。というのも、その命題は「a が存在する」ではなく、「もし aが存在するならば、そうすれば aは存在する」を意味するからである。かくして、a の絶対的な措定については問題とすることができない。つまり、一般に絶対的で端的に妥当するためには、その命題そのものを絶対的だと言明すること以外に何も残っていないのだからである。a が制約的である一方で、a の措定は無制約的である。しかし、この措定は自我の事行である。それ故自我には、端的で無制約的に措定する能力が帰せられる。a=a という命題において、一方の a は、他方の a が前提されることによってのみ措定される。しかもそれは、自我によって措定される。「もし a が自我の中に措定されているならば、そうすれば、a は措定されている」。この連関は、自我の中で何かが、即ち、一方の a から他方の a へ移行する何かが、常に変わらないものであるという条件のもとでのみ可能である。そして前記の x は、この変わらないものに基づいている。一方の a を措定する自我は、他方の a を措定する自我と同じである。即ち「自我=自我」である。「もし自我が存在するならば、そうすれば自我は存在する」という判断の形式で表現されるこの命題は、意味を持たない。自我は、他方の自我の前提のもとで措定されるのではなく、自我自身を前提とする。つまり、自我は端的なものであり無制約的なものである。絶対的自我の前提なしに一切の判断に帰せられるという判断の仮説的形式は、ここでは「自我はとにかく存在する」という絶対的実存命題の形式へ変化する。フィヒテは今述べたことを、「自我は根源的に端的に自分自身の存在を措定する」というふうにも表現している。このフィヒテの推論全体が、自我の無制約的な活動の認識を、彼の読者にわからせるための教育的な議論の方法以外の何ものでもないと、我々は見ている。自我の行為が、彼の読者の目の前にはっきりともたらされるようになっており、その自我の行為の遂行がまったくなければ自我はまったく存在しないのだ。
【原注】
*35:SW 版第Ⅰ巻 p.94(邦訳:Ibid. p.93)
*36:SW 版第Ⅰ巻 p.98(邦訳:Ibid. p.98)
さて我々は、フィヒテの考えの筋道にもう一度振り返ってみよう。即ち、より鋭く見てみれば、彼の考えの筋道の中に飛躍があり、しかも、根源的な事行についての見解の正しさを疑わしいものにするそのような飛躍があるということが明らかになる。一体そもそも、自我の措定において実際に絶対的なものとは何なのか?次のように判断される。「もし a が存在するならば、そうすれば a は存在する」。 a は自我によって措定される。つまり、この措定については疑いが存在しえない。しかし、仮に活動として無制約的であるとしても、自我はなおも単にとにかく何かを措定しうるのみである。自我は、「活動それ自体」ではなく、ただ一定の活動を措定しうるのみである。簡単に言えば、措定は内容を持たねばならないということである。しかし、この内容を自我は、自我自身か取り出し得ない。というのも、そうでなければ自我は、永遠にただ措定することを措定する以上の何もできないことになるからである。つまり、自我の絶対的な活動である措定にとって、その措定を通じて実現される何かが存在しなければならないのだ。自我は、自我が措定する所与に取り組むことなしには、およそ「何も」できないし、従って措定できないのである。「自我はその存在を措定する」というフィヒテの命題も以上のことを示している。この存在はカテゴリーである。我々は再び、次のような我々の命題の下にある。即ち、自我の活動は、自我が自分の自由な決意から所与の概念と理念を措定するということに基づいているという命題である。フィヒテは、彼が自我を「存在するもの」であると実証することを無意識に目指すことによってのみ、その結論に至る。フィヒテが認識の概念を発展させていたならば、彼は認識論の真の出発点に至っていただろう。即ちその真の出発点とは、「自我は認識を措定する」である。フィヒテは、自我の活動が何によって規定されるかをはっきり理解しなかったので、存在の措定を単純に自我の活動の性質とした。そして、それとともにフィヒテは、自我の絶対的な活動をも局限していた。というのも、自我の「存在措定」が無制約的であるならば、自我から出発するそれ以外の全てのものは制約的だからである。しかし、無制約的なものから制約的なものに至るためのどんな道も断たれている。自我が示された方向にのみ無制約的であるならば、その自分の存在以外の何かを根源的な働きによって措定する自我にとっての可能性がすぐになくなるのである。従って、自我のそれ以外の一切の活動の理由を述べる必然性が生じる。フィヒテは、我々が前記で既に見たように、そのような理由を虚しく探したのである。それ故に彼は、自我の導出のために、前記で示された道とは異なる道へと方向転換した。既に 1797 年の『知識学への第一序論』において、自我を自分の生来具わった性質において認識するために、彼は正しいものとして自己観察を奨めた。「君自身に注意を向けよ。君の目を君を取り囲むもの一切から転じて、君の内部に向けたまえ。これが哲学見習いの徒に対して哲学が最初に要求することである。君の外部にあるものが問題となるのではなく、専ら君自身が問題となるのである」。知識学を導入するこの方法は、なるほど、他の方法よりも大きな長所を持っている。というのも、自己観察は確かに、自我の活動を事実特定の方向へ、一方的に展開するのではなく、自我を単に存在措定的に指し示すのでもなく、思考によって直接的に与えられた世界内容を把握しようとするその全面的な発展の中で、自我を指し示すからである。自己観察では、所与と概念の組み合わせから、世界像を組み立てる自我が現れる。しかし、我々の前記の考察を一緒にやり通していない者、つまり、自我がその思考形式を所与に持ち込む場合にのみ自我は現実の内容全体に至る、ということを知らない者にとって、認識プロセスは自我から世界を紡ぎ出すこととして現れる。それ故にフィヒテにとって世界像は、ますます自我の構築となる。フィヒテは、知識学においては、世界のこの構築において自我を一心に探求することができる感覚を呼び覚ますことが重要であるということをますます強く強調する。これができる者は、フィヒテには、単に構築されたもの、出来上がった存在のみを見る者よりも高い知の段階にいる者と思われている。諸々の対象物の世界を単に観察する者は、対象物が自我によって初めて作り出されることをわかっていない。しかし、自我をその構築の中で観察する者は、できあがった世界像の根拠を見ている。何によって自我が生まれ、何によってその者に対して与えられた前提の結果としてその者に現れているのかを、その者は知っている。通常の意識は、措定されたもの、あれやこれやの仕方で規定されたもののみを見ている。その通常の意識にとっては、何故それがまさにそのように措定され、それ以外の何ものでもないのかという前提ないし根拠への理解がない。この前提を媒介するための知は、フィヒテによれば、全く新しい感覚器官の課題である。私は、こうしたことが、「知識学入門講義 1813 年秋ベルリン大学での講義」の中で最もはっきりと述べられていると思う。「この学説は一つの全く新しい内的な感覚器官を前提としている。この器官によって、普通の人間にとっては全然存在しない、一つの新しい世界が与えられるのである」。或いは「新しい感覚の世界が、そしてそれによって新しい感覚を持つ者自身が、差し当たりはっきりと規定されている。即ち新しい感覚の世界とは、「それは何かである」という判断が基づいている前提を照らして見極める「光明の作用(Sehen)」であり、そして、まさに新しい感覚を持つ者がこうした差し当たりはっきりと規定されたものであるが故に、それ自身として再び存在することはなく一つの存在にはならない、存在の根拠なのである。」。
【原注】
*37:J.G.フィヒテ『知識学への第一序論』1797 年。SW 版第Ⅰ巻 p.422(邦訳:ラインハルト・ラウト/加藤尚武/隈元忠敬/坂部恵/藤澤賢一郎編『フィヒテ全集第 7 巻イェーナ時代後期の知識学』晢書房 1999 年 p.365)
*38:J.G.フィヒテ『知識学入門講義』1813 年。I.H.フィヒテ編『J.G フィヒテ遺稿集』、ボン、1834 年 第Ⅰ巻 p.4 及び p.16(邦訳:ラインハルト・ラウト/加藤尚武/隈元忠敬/坂部恵/藤澤賢一郎編『フィヒテ全集*第 20 巻ベルリン大学哲学講義』晢書房 2001 年 p.210 及びp.227)
 しかし、自我によって遂行される活動の内容のはっきりとした洞察は、フィヒテにはここでも欠けている。フィヒテはそうした洞察にまでは決して達していない。それ故に彼の知識学は、そうでなければ、その知識学の構想全体によれば哲学的基礎学としての認識論になっていたはずのものにはなりえなかった。即ち、フィヒテがかつて、自我の活動がこの自我自身によって措定されなけれ
ばならないことを知っていたならば、自我の活動が自我によってその活動の規定をも得ることを考えることは当然であっただろう。しかし、いかにして自我の純粋に形式的な活動に内容を与えることにおいてとは異なるかたちで、これが起こり得ることになるのか。しかし実際にはこの内容が、自我によって自我のそれ以外は全く規定されていない活動へ入れられることになるならば、この内容もその本性に従って規定されねばならない。さもなければ、やはりこの内容は、自我自身によってではなく、せいぜい自我の中に存する、自我が道具てあるところの「物自体」によって、現実化されうることになるだろう。フィヒテがこの規定を試みていたならば、彼は自我によって実現されることになる認識の概念に至っていたであろうが、しかし彼はそうしなかった。フィヒテの知識学は、所与を補えば現実性を持つような正しい思考形式(カテゴリー、理念)に辿り着けば、鋭い洞察者にさえ何らかの分野で効果的に影響を与えることが成功するということの証拠である。そのような考察者には、極めて格調の高いメロディーが示され、メロディーに対する感受を持たないが故に、そのメロディーを全く聴かない人のように、ものごとが進む。意識を与えられたものであると特徴づけることができるのは、「意識という理念」を所有することに自分の立場を置くことを知っている者のみである。




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最終更新日  2024年03月03日 06時08分20秒
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