Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年03月19日
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カテゴリ: 霊魂論
「魂生活の変容-経験の道」(第二巻)(GA59) 佐々木義之 訳
第五講「病気と治療」(1910年3月3日)
 恐らく、この冬の間、ここで私が開くことを許された講座に、多かれ少なかれ定期的に参加されている皆さんには、今回の連続講義は魂についての一連の遠大な疑問を取り扱ってきたのだということが明らかになっていることでしょう。今日の講義でもそのような問題、つまり、病気と治癒の本質に関する問題を取り上げようと思います。それに関して、精神科学の立場から、精神的な存在の単に表現である限りにおいての人生の事実について述べることができるようなことは、以前ここで開催された連続講義、例えば「病気と死の理解」、「偽りの病気」、あるいは「熱に浮かされたような健康の追求」の中で説明しています。今日は、病気と治癒について理解する上で、きわめて奥深い問題を取り上げたいと思います。病気、治癒、そして、ときとして死に至る何らかの病は人生に深い影響を及ぼします。私たちは、これらを考察するための基礎となる精神的な前提、基盤について繰り返し探求してきましたので、これらの遠大な事実の原因であり、人間が人間として存在することの結果であるところのものについても探求することが許されるでしょう。つまり、これらの経験に関して、精神科学が言うべきこととは何なのでしょうか。人間の通常の発達過程との関連で、病気、健康、死、そして治癒がどのように位置づけられるかを明確にするためには、発展していく人生の意味について、もう一度、深く探求しなければなりません。何故なら、これらのできごとは通常の発達過程に影響を及ぼすものである、と考えられているからです。それらは私たちの発達に何か貢献するのでしょうか。それらは私たちを前進させるのでしょうか。あるいは、遅らせるのでしょうか。これらのできごとについての明確な概念に至ることができるのは、ここでもまた、人間全体を考慮するときだけなのです。しばしばお話ししてきたことですが、人間は四つの構成体から成り立っています。第一は、人間が彼の周りの鉱物存在すべてと共有している肉体ですが、その形態はそれが内に有する物理的、化学的な力に依存しています。人間の第二の構成体は、私たちがこれまでエーテル体あるいは生命体と呼んできたものですが、人間はこれをすべての生命あるもの、つまり、彼の周りの植物や動物と共有しています。そして、私たちは人間存在の第三の構成体としてアストラル体についてお話ししてきましたが、これは、楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、つまり、一日を通して溢れるすべての感動、イメージ、思考等を担うものです。人間はこのアストラル体を彼の周りの動物世界とだけ共有しています。そして、人間を被造物の頂点に立たせるところの最高の構成体、すなわち自我、自意識の担い手があります。私たちがこれら四つの構成体について考えるとき、まず第一に言えることは、それらの間には表面的に見ても一定の違いがある、ということです。私たちが、人間を、つまり、私たち自身を外側から見るとき、そこには人間の肉体があります。肉体は外的、物理的な感覚器官によって観察することができるのです。これらの器官に結びついた思考、すなわち脳という器官に結びついた思考によって、私たちはこの人間の肉体を理解することができます。それは私たちの外的な観察に対して明らかにされます。人間のアストラル体に対する関係は全く違っています。既に以前の記述の中で見てきたことですが、真に超感覚的な意識にとって、アストラル体とは、単に外的な事実です。つまり、アストラル体は、しばしばお話ししてきたような仕方で意識を訓練しさえすれば、肉体と同じように見ることができるものなのです。通常の生活においては、人間のアストラル体を外側から観察することはできません。目で見ることができるのは、その中で波打つ本能、熱情、思考、そして感情の外的な表現だけです。しかし、これとは対照的に、人間はこれらのアストラル体の経験を自分の中で観察します。彼は、私たちが本能、欲望、熱情、楽しみや悲しみ、喜びや痛みと呼ぶところのものを観察するのです。このように、アストラル体と肉体の関係は、通常の生活においては、前者は内的に観察される一方、肉体は外的に観察されるというようなものなのです。さて、ある意味で、その他の二つの構成体、人間のエーテル体、そして自我の担い手は、肉体とアストラル体というふたつの対極の中間に位置しています。肉体は純粋に外側から、アストラル体は純粋に内側から観察することができます。肉体とアストラル体の間にある中間的な構成体がエーテル体です。それは外側から観察することはできませんが、外部に影響を及ぼします。アストラル体の力、内的な経験はまずエーテル体に移行しなければなりません。それは、そうすることによってのみ、物理的な道具、肉体に働きかけることができるのです。エーテル体はアストラル体と肉体の間の仲介役として働き、外側と内側の結びつきを形成するのです。私たちはもはやそれを物理的な目で見ることはできませんが、エーテル体が外に向かって肉体と関連づけられていることによってはじめて、アストラル体の道具を目で見ることができるようになっているのです。さて、ある意味で、自我が内側から外側に向かって働くのに対して、エーテル体は外側から内側へ、アストラル体に向かって働きかけます。と申しますのも、人間は自我によって、そして、自我がアストラル体に影響を及ぼすその仕方によって、外の世界の、つまり、肉体自体がそこに起源を有するところの物理的な環境についての知識を獲得するからです。動物存在が個々の、個人的な認識を持つことなく生じるのは、動物が個的な自我を有していないからです。動物はアストラル体に関するあらゆる経験を内的に生き抜くのですが、その楽しみや苦しみ、共感や反感を、外なる世界の認識を獲得するためには使いません。私たちが楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、共感や反感と呼ぶところのものは、動物においてはすべてアストラル体の経験なのですが、動物は、その楽しみを世界の美に対する賞賛へと変換するかわりに、その楽しみを生じさせる要素の中に留まります。動物はその苦痛のただ中で生きるのに対して、人間は苦痛に導かれて自分を越え、世界を発見するのです。何故なら、自我が彼をそこから再び連れ出し、外なる世界に結びつけるからです。こうして、私たちは、一方では、いかにエーテル体が人間の内面、アストラル体の方向に向けられるかを、他方では、いかに自我が外なる世界、私たちを取り巻く物理的な世界に導くかを理解します。人間は交互に入れ替わる生を生きています。このことは日々の生活の中で観察されます。私たちは、朝起きた瞬間から、魂の中へと流れ込み、流れ出すあらゆるアストラル体の経験-喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、感情、イメージ等々を観察するのです。夜には、アストラル体と自我が無意識の中に、あるいは、多分もっとましな言い方をすれば、意識下の状態に入っていくために、いかにこれらの経験が漠然とした闇のレベルにまで沈み込んでいくかが見られます。朝から夜までの間、起きている人間を見ると、肉体、エーテル体、アストラル体、そして、自我が互いに織りなされ、それらの影響に関して、互いに結びつけられているのが分かります。秘教的な意識には、人間が夜眠りにつくと、肉体とエーテル体はベッドの中に残り、アストラル体と自我は精神的な世界の中の本来の場所に帰る、つまり、肉体とエーテル体から抜け出す、ということが分かります。私たちが今のテーマに適切に対処することができるように、このことをもっと別の方法で記述してみましょう。肉体は、その外的な側面だけを私たちに示しているのですが、眠っている人間においては、外的な人間として物理世界の中に留まり、内と外の仲介者であるエーテル体を保持しています。眠っている人間の中に内と外の間を仲介するものがないのは、仲介者としてのエーテル体が外の世界にあるからです。このように、眠っている人間においては、ある意味で、肉体とエーテル体とは単に外的な人間に過ぎないということができます。エーテル体は内と外の仲介者ではありますが、肉体とエーテル体を「外なる人間」として記述することもできるでしょう。反対に、眠っている人間のアストラル体は「内なる人間」として記述することができます。これらの言葉は起きている人間にも当てはまります。何故なら、あらゆるアストラル体の経験は、通常の条件下では、内的な経験であり、人間は起きているときに自我が獲得する外の世界についての知識を内的に取り上げ、学びながら自分のものとしているからです。外的なものは自我を通して内的なものにされます。このことは、私たちが「外の」人間と「内の」人間について、つまり、前者は肉体とエーテル体から、後者は自我とアストラル体からなるものとして語ることができるということを示しています。さて、人間のいわゆる通常の生活とその本質的な発達について見てみましょう。何故、人間はアストラル体と自我を伴って、毎夜、精神的な世界に帰って行くのでしょうか。人間が眠りにつく何らかの理由があるのでしょうか。これについては以前にも触れましたが、私たちが今日扱っているテーマに関しても、つまり、病気と治癒において現れるような、一見異常な状態を認識するためにも、正常な発達についての理解が必要です。人間はどうして毎夜、眠りへと赴くのでしょうか。これについての理解に至ることができるのは、「外なる人間」に対するアストラル体と自我の関係を十分に考慮するときだけです。私たちはアストラル体を、楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、本能、欲望、熱情、波打つイマジネーション、知覚、思考や感情の担い手として記述しました。けれども、アストラル体がこれらすべての担い手であるとするならば、肉体とエーテル体が存在していないとはいえ、実際の内的な人間がアストラル体と結びついている状態にもかかわらず、何故、人間は夜、これらの経験を持たないのでしょうか。この間、これらの経験が漠とした闇の中に沈んでしまうということが何故あるのでしょうか。それは、アストラル体と自我が、喜びや悲しみ、判断、イマジネーション等々の担い手であるにもかかわらず、これらのものを直接には経験できないからです。私たちの通常の生活においては、アストラル体と自我は、それら自身の経験を意識するために肉体とエーテル体を必要としているのです。私たちの魂の生活とは、アストラル体によって直接経験される、というものではないのです。もし、そうだとすれば、私たちがアストラル体と結びついている夜の間にもそれを経験することができるはずです。昼間における私たちの魂の生活は残響あるいは鏡像のようなものです。肉体とエーテル体がアストラル体の経験を反射するのです。私たちが起きてから眠りにつくまでの間に、私たちの魂が私たちのために魔法にように出現させるあらゆるものを出現させることができるのは、それが肉体とエーテル体もしくは生命体という鏡の中にそれ自身の経験を見るからに他なりません。夜、私たちが肉体とエーテル体を後にする瞬間、私たちはまだアストラル体の経験のすべてを私たちの内に有しているのですが、私たちはそれを意識しません。何故なら、それらを意識するためには、肉体とエーテル体の反射する性質が必要だからです。こうして、私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの私たちの生活の全過程を通して、内的な人間と外的な人間、すなわち、自我とアストラル体、そして肉体とエーテル体が相互に作用しているのを見ます。働いているのはアストラル体と自我の力です。何故なら、いかなる条件下でも、物理的な特徴の総計としての肉体やエーテル体がそれら自身から私たちの魂の生活を生じさせることはできないからです。私たちが鏡の中に見る像が、鏡に発するものではなく、鏡の中で反射される対象物に由来しているのと同じように、反射される力はアストラル体と自我から生じるのです。このように、私たちの魂の生活を生じさせるすべての力はアストラル体と自我の中に、すなわち人間の内的な本性の中に横たわっているのです。そして、それらは、内的な世界と外的な世界との間の相互作用の中で活発になり、いわば肉体とエーテル体にまで手をのばすのですが、夜には、私たちが「疲れた」と呼ぶ状態に入っていくのが、つまり、それらが夜、消耗しているのが見られます。そして、もし、私たちが毎夜、朝から夜までの間そこで過ごすところの世界とは別の世界に入っていく立場になかったとすれば、私たちは自分の生活を続けることができなかったでしょう。私たちは、起きている間に滞在する世界の中で、私たちの魂の生活を知覚可能なものにすること、つまり、私たちの魂の前にそれを提示することができるのですが、それはアストラル体の力によって可能になるのです。しかし、私たちはこれらの力を使い果たします。目覚めている間の生活からそれを補充することはできません。私たちがそれを補充することができるのは、私たちが毎夜入っていく精神的な世界からだけです。私たちが眠るのはそのためです。夜の世界に入り、そこから昼の間に使う力を持ってくることなしに私たちが生きていくことはできないでしょう。こうして、エーテル体と肉体の中に入るとき、私たちは何を物理的な世界に持ち込むのか?という問いに対する答えが得られました。ところが、私たちはまた、夜にも何かを物理的な世界から精神的な世界へと運んでいくのではないのか。これが第二の問いです。この問いも第一の問いと同じように重要です。この問いに答えるためには、通常の人間生活に属する数多くのことがらを取り扱わなければなりません。通常の生活には、いわゆる経験と呼ばれるものがあります。これらの経験は私たちの誕生から死までの人生において重要なものです。ここでしばしば触れられてきたひとつの例、つまり、書くということを学ぶことについての例がこのことに光を当てるでしょう。私たちが自分の思考を表現するためにペンを取るとき、私たちは書くという芸術に携わっているのです。私たちは書くことができるのですが、そのために必要な条件とは何なのでしょうか? 私たちが誕生から死までの間に有する一連の経験のすべてが必要なのです。皆さんが子供として通過してきたことのすべて、ペンを持つという最初のぎこちない試みからそれを紙に当てる等々のことがらについて考えてみて下さい。これらすべてのことを思い出さなくてもよい、というのは神に感謝すべきことです。何故なら、もし、書くたびに、私たちが書道と呼ぶところの芸術を発達させようとして線を引き損ねたことや、多分それでしかられたことなどを思い出さなければならないとしたら、ひどい状況に陥るであろうからです。何が起こったのでしょうか。誕生から死までの間の人生において重要な意味を持つところの発達が起こったのです。私たちは一連の経験の総体を有していますが、これらの経験は長い時間をかけて生じたものです。それらはその後、いわば私たちが書くための「能力」と呼ぶところの本質的なものへと純化しました。他のすべてのものは、忘却の漠とした闇の中へと沈んでいきましたが、それらを思い出す必要はありません。何故なら、私たちの魂は、これらの経験から出発して、より高次の段階に達しているからです。つまり、私たちの記憶は、人生における受容力や能力として現れるところの本質的なものの中へと共に流れ込むのです。誕生から死までの存在状態における私たちの発達とはこのようなものです。経験は最初に魂の能力へと変容し、次にその能力は肉体という外的な道具を通して表現されます。誕生から死までの発達は、すべての個人的な経験が能力や、そしてまた叡智に変化させられるというような仕方で生じるのです。もし、私たちが1770年から1815年までの期間を眺めるとすれば、この変容がどのようにして生じるかの洞察を得ることができます。重要な歴史的事件がこの間に生じました。多くの人がこの事件と同時代に生きていましたが、彼らはそれにどのように反応したのでしょうか。彼らの内のある部分は、そのできごとがかたわらを通り過ぎるのに気づきませんでした。彼らはそのできごとが知識に、世界の叡智に変化するのを無感動に見過ごしました。他の人たちはそれらを深い叡智へと変化させました。彼らは本質的なものを抽出したのです。どのようにして経験は魂の中で能力や叡智へと変化させられるのでしょうか? それらは毎夜、そのままの形で私たちの眠りの中に、つまり、魂あるいは内的な人間が夜の間滞在するあの領域の中に取り込まれることによって変化させられるのです。ある期間中に起こった経験は、そこで本質的なものに変化するのです。人生を観察する人であれば誰でも、もし、誰かがあるひとつの活動領域における一連の経験を秩序づけ、自分のものにしたいのであれば、これらの経験を眠っている間に変化させる必要がある、ということを知っています。例えば、何かを一番よく学ぶことができるのは、それを学び、それとともに眠り、再びそれを学び、再びそれとともに眠ることによってです。経験は、眠りの中に沈められることがなければ、能力や叡智、あるいは芸術の形で現れてくるように発達させられることはないでしょう。これは、私たちが低次のレベルで直面する必然的なものの高次のレベルにおける表現です。もし、今年の植物が暗い地球の覆いの中に帰って行かないとすれば、それは次の年に再び成長する植物にはなれないでしょう。この場合の発達は繰り返しに留まりますが、人間の精神に照らされることによって真の「発達」になります。経験は無意識の夜の覆いの中に降り、そして再び、さしあたりはまだ繰り返しとして取り出されるのですが、最終的には、叡智として、能力として、生きた経験として現れるほどに変化させられていることでしょう。今日よりもより深く精神的な世界を観察することができた時代には、人生はそのように理解されていました。古代文化における指導的な人物たちがイメージによって何かを話そうとするとき、人生におけるこれらの重要な基礎が示唆されているのを見ることができるのはそのためです。もし、一連の昼間の経験が魂の中で火をつけられ、何らかの能力に変化するのを妨げたいのならば、何をすべきでしょうか。例えば、誰かが一定の期間中に、誰か他の人と何らかの関係を持つときには、何が起こるのでしょうか。その人物とのこれらの経験は夜の意識の中に沈み、そこからその人物に対する愛として、つまり、それが健全なものである場合には、いわば連続した経験の本質として再び現れるのです。他者に対する愛の感情は、経験の総体がひとつの織物へと織られるように統合される、というような仕方で生じます。さて、一連の経験が愛に変化するのを妨げるためには何をなすべきなのでしょうか? 私たちの経験を本質的なもの、すなわち愛の感情に変化させるところの夜の自然過程が生じるのを妨げなければならないのです。私たちは、昼の経験から織られた織物を夜に再びほどかなければなりません。もし、そうすることができたならば、魂の中で愛に変化する他者に対する経験は私たちに何の影響も及ぼさなくなるでしょう。ホメロスはこの人間の魂の深みについて、ペネロペと彼女の求婚者のイメージの中で暗示しています。彼女はある織物を織り上げたときに結婚に応じることを皆に約束します。昼間に織り上げたものを、単に夜毎にときほどくことによって、約束は回避されます。見ることができる人が芸術家でもある場合には、非常に深遠なものが明かされます。今日、このようなことがらに対する感情はほとんど残っていません。ですから、同時に見ることができる人である詩人がそのようなことを説明するとき、それは気ままな思いつきであると断定されるのです。それによって古代の詩人も、そして真実も害されることはありませんが、私たちの時代はそうはいきません。それはそのようにして人生の深みに入っていくことを妨げられるのです。
参照画:Homerus




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最終更新日  2024年03月19日 06時10分07秒
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