Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年05月16日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
人智学の光に照らした世界史 (GA233)翻訳紹介:yucca
第7講 1923/12/30 ドルナハ
 人類の歴史的進化における最後の大きな転換点(区切り)は、しばしば言及しました十五世紀の最初の三分の一の頃、悟性魂あるいは心情魂と呼ばれるものから意識魂への移行が起こった頃です。私たちは、人類にもっぱら意識魂の発達が起こっている時代に生きているわけですが、この時代には、自然のより深い衝動や力、すなわち自然における霊の衝動や力と人間を関係づける真の洞察は失われてしまいました。私たちは今日、人間と人間の物質的な成り立ちについて語るとき、たとえば化学者が今日いわゆる元素(エレメント/Element)と定めている化学物質について語ることさえします。けれども、何らかの食物が、炭素、窒素云々を含むことを知ったところで、それはもはや人間認識にとって、この時計がガラスとあるいは銀とその他いくつか別の素材からできていると知ることが時計のメカニズムにとって持つ以上の価値はありません。このように、実質的なものを、水素、酸素云々といったこのきわめて外的な抽象に還元することはすべて、結局真の人間認識はもたらしません。時計のメカニズムが力システムの連関から知られなければならないのとまったく同様に、人間の本質も、自然の諸領域に分割され宇宙のなかで別様に作用している宇宙のさまざまな衝動が、人間のなかで今まさにどのように発現しているか、その発現のしかたから知られなければならないのです。すでに退化したとはいえ、生まれつき良い本能に恵まれた人物たちによって十四、十五世紀まではいくらかのことが可能であったのですが、このようにそれでもまだ比較的残っていたもの、人間と宇宙との連関を真に見通すものは、パラケルススやヤーコプ・ベーメなどの少数の例外を除いて、少しずつ、完全に消え去ってしまいました。十五世紀以来徐々に形成された近代科学は、たとえば、そうですね、植物界、動物界と人間との関係について何を知っているでしょう。科学はまさに植物の化学的成分を調べ、それから何とかしてこの化学的成分の人間にとっての意味を研究しようとします、そして場合によっては、健康な人間と病気の人間への物質の作用について表象を形成しよう。これもたいがい放棄されるのです。けれども結局これらすべては人間をめぐる認識の闇をもたらすだけです。歴史的な洞察に基づいて人間認識において前進したいと思うなら、今日まったくもって重要なのは、人間の外にある自然と人間との関係についてまた知るようになるということです。十五世紀の最後の大きな飛躍までは、人間は明確な感情を持っていました。外部の自然のなかの金属と、人間の実質的なもの、人間の物質的なものに目を向けるとき何らかのしかたで現れてくる金属、そうですね、たとえば人体組織のなかにさまざまな結合して現れる鉄、あるいはマグネシア(苦土/Magmesia)などといった金属との間にどれほど大きな違いがあるかということについて、明確な感情があったのです。人体組織そのものを調べれば見出せるような金属と、人体組織を調べてもまずは見つからない金属が存在するということ、地上の金属に見られるこの違いについて、十五世紀までは、深い、根本的な感覚がありました。と申しますのも、人間はミクロコスモスである、と言われていたからです。マクロコスモスである外部世界に見出せるものはすべて、何らかのしかたで人間のなかに見出せるのです。これは何か普遍的抽象的な原理などではなく、かつて何らかの方法で秘儀参入学に近づいたひとにとって、それは人間の本質と宇宙の本質に必然的に結びつけられたものとして続いていきます。と申しますのも、全自然をその衝動と物質的な内容のすべてと関係づけるときにのみ、人間をほんとうに認識できるようになるからです。そのとき人間の本質についての像が、イマジネーションが得られます。そしてもし人間そのもののなかに見出すことのできない何かが外部の自然のなかにあるとしたら、この像、このイマジネーションは、損なわれるだろう。そうですね、まだ九、十、十一世紀の初頭に自然研究者であった人物はこのように考えたのです。けれども、人間が物質的な食物を通じて取り入れるものは、人間の物質的な生体組織を、生体の組織全般を維持しているものの一部にすぎないし、おそらくは最も重要なものですらないということも当時はよく知られていました。さて、呼吸というのもやはり新陳代謝なのですが、物質的な栄養から呼吸へと上昇するということには容易に思い当たりますね。ところが今日の人間は、さらに上昇していくということには思い至らないのです。十五世紀の自然研究者は、知覚というものに目を向ければ、単に目によって見ているというだけではなく、知覚プロセスが続く間、限りなく微細に分割された物質的なものが宇宙万有から目を通じて取り入れられるのだということをはっきりと理解していました。このように目を通し耳を通して、それは起こるのですが、人間の生体組織のほかの部分を通してもこれは起こりました。そして最も重要なことと見なされたのは、人間が粗雑な状態では自らのうちに有していないもの、そうですね、例えば鉛ですが、人間はこれを、まず予想できないほど限りなく微細に分割された状態から摂取するということです。鉛はさしあたり体内には検出されない金属です。けれども鉛は、拡散した金属、人間の思慮の及ぶ全宇宙にまで非常に希薄な状態で拡散した金属なのです。そして人間は鉛を、呼吸プロセスよりもずっと精妙なプロセスを通じて宇宙から取り入れます。人間は絶えず、周辺の(peripherisch)方向に自分から物質を分泌しています。皆さんは単に爪を切るというだけでなく、絶えず皮膚から物質を分泌しているのです。けれどもこれは単に退去するというだけではなく、物質が去っていく一方でほかの物質が摂取されるのです。よろしいですか、このように中世の九、十、十一、十二世紀の自然研究者はまだこうした思考の道筋のなかに生きていました。彼にとってはまだ、諸々の物質が、力が、どのように作用しているかを定めるのは、秤などではありませんでした、無骨な測定器でもありませんでした。そうではなく、自然の内なる特質(Qualitaeten)のなかに入り込んでいくこと、自然の内なる衝動と、自然と人間の関係のなかに入り込んでいくことでした。そうすることによって、この十五世紀までは多くのことが知られていました、それらをまた知ることが始められなければなりません。今日人間についてはまったく何もわからなくなっているからです。人間の成り立ちを探究して、一種の分類、一種の一般的なプランとでも申し上げたいものを与えるために、私たちはまず、人間は物質体、エーテル体、アストラル体、自我あるいは自我組織(Ich-Organisation)から成ると言っていますね。そう、これらはとりもなおさず言葉です。こういう言葉をもって始めるというのは良いのです、これらの言葉で誰しも何か少しは思い浮かべることができるでしょうから。けれどもこれらを生の実践において用いようとするなら、つまり人間の認識から追求しうる最も重要な生の実践である治療において用いようとするなら、これらの言葉にとどまっているわけにはいきません、言葉を真の内容で満たすもののなかに入っていかなければなりません。まず最初に問いましょう、物質体です、私たちはどのようにして物質体の表象に辿り着くでしょう。私がなぜこの概念を展開するのか、皆さんはのちほどすぐおわかりになるでしょう。私たちはどのようにして物質体の表象に辿り着くか。さて、地上において人間の外部に何かある対象が、そうですね、石があるとしますと、石は地面に落ちます。石は重い、石は地球に引き寄せられる、石には重さがあると私たちは言います。私たちはそのほかにも作用している力を見出します。石が結晶へと形成されるとき、石のなかには形(フォルム)を成す力が働いています。けれどもこれらの力は地上的な諸力に親和性があります。要するに、私たちが周囲の世界を見ると、地上的な本質に従っている物質があるわけです。私たちはこのことを心に留めておきましょう、私たちは地上的な本質に従っている物質を持つと。こういうことにきちんと目を向けないひとがやってきて、一個の炭、黒い炭を見せるでしょう。実際これは何なのでしょう。地球の近くでのみこれは炭なのであって、この炭を比較的短い距離であっても地球から離すとその瞬間に、それはもはや炭ではなくなるでしょう。地上で炭を炭たらしめているものはすべて、地球の諸力なのです。つまり皆さんはこう言うことができます、ここに地球があるとすると、地球の諸力はこの地上的なもののなかにあるのだが、この地球上で私が持つどの対象のなかにもあると。そして、人間の物質体はなるほど複雑に組み合わされているけれども、根本においてこれも、地球のこれらの物質的な力、地球の中心点からやってくる力に従う対象なのです。これは人間の物質体です、これは地球の中心からやってくる諸力に従います(外向きの矢印)。さて然し乍ら、地上には別の諸力もあります。これらの力は周囲からやってきます(内向きの矢印)。私がまったく定かならぬ遠方まで出かけていくとひとつ考えてみてください。そのとき、ちょうど地球の力とは逆に、定かならぬ遠方から力がやってきます。この力は至るところから働きかけてきます。そう、いたるところから作用してくる力、宇宙のあらゆる方向から地球の中心点に向かって働きかけてくるこのような力があるのです。これらの力について、まったく確かで具体的な表象を得ることができます、それは以下のようにしてです。有機体の、つまり植物、動物、人間の有機体(生体組織/Organismus)の基礎をなす最も重要な物質は、蛋白質です。けれども蛋白質はまた、植物、動物、人間の新たな生体組織の基礎でもあります。胚細胞(生殖細胞/Keimzelle)、受精した胚細胞から、植物、動物、人間の生体組織として発達するものが発生します。蛋白質は物質です。今日、ひとは真の科学を行う代わりにいたるところで空想しますので、こう思い描きます、蛋白質、これは、いわゆる炭素、酸素、水素、窒素、硫黄、いくらかの燐から複雑に組み合わされた、まさしく複雑に組み合わされている物質であると。つまり蛋白質のなかに、原子論者が考えるような理想の組み合わせが得られるというわけです。まったく複雑に原子と分子を描き込まなければならないでしょう。そしてそれから、動物母体あるいは植物母体のなかでこの複雑な蛋白質分子が形成されていく、あるいは好まれる言い方によれば、これがさらに発達していって、純粋な遺伝によって新たな動物が発生すると。しかしながらこういうことはすべて、霊的な眼差しの前ではまぎれもないナンセンスです。ほんとうは、動物母体の蛋白質は複雑に組み合わされているのではなく、完全に損なわれ、カオスとなっているのです。通常身体のなかに含まれている蛋白質というものはまだいくらか秩序があるのですが、生殖のもとになる蛋白質の特徴とはまさに、内的に完全にカオス状態で入り乱れ揺り動かされているということ、物質素材が完全にカオスへと引き戻され、もはや構造がなく、内部で完全に寸断され引き裂かれ破壊されているためにもはや地球に従っていない物体の堆積にすぎないということなのです。蛋白質は、なんとかまだ内的にまとまっている限りは地球の中心的な諸力に従っています。蛋白質が内的に分裂させられる瞬間、蛋白質は全宇宙領域の影響の下に移ります。力はいたるところから入り込んできます。そして生殖の元になる小さな蛋白質の塊が生じるのです。私たちにもまず最初に見渡すことのできる全宇宙万有の写しとして。どの蛋白質の塊もひとつひとつが全宇宙万有の写しです。なぜなら、蛋白質の実質は分裂させられ、破壊され、カオスへと導かれ、それによってまさに宇宙の塵として、全宇宙に従うのにふさわしくされるからです。こういうことについて、今日何も知られておりません。今日こう信じられています。さてここに親の鶏がいる。それはまさに複雑な蛋白質を持っている。蛋白質は卵のなかにもたらされる。それから新しい鶏が生まれる。それは継続され、さらに発達させられた蛋白質である。それからまた胚実質となり、こうして鶏から鶏へと続いていく。けれどもそうではないのです。ある世代から次の世代へと移行が起こるたびごとに、蛋白質は全宇宙にさらされるのです。したがって私たちはこう言わなければなりません、私たちは、一方において、地上的な中心的諸力に従う地上的な物質を持つけれども、私たちはある意味ではその物質を、宇宙万有の境界からいたるところから働きかけてくる力に従うものと考えることもできると。この後者の力は、人間のエーテル体のなかで働いている力です、エーテル体は宇宙の力に従うのです。よろしいですか、今、私たちは物質体とエーテル体についてのリアルな表象を持ちます。今、皆さんが、皆さんの物質体とは何かと問いかけるなら、物質体とは、地球の中心点からやってくる諸力に従うものです。皆さんのエーテル体とは何かと問うなら、それは皆さんにおいて、周辺のいたるところからやってくる諸力に従うものです。これも描いてみることができます。ひとつ考えてみてください。ここに人間がいるとします。人間の物質体は、これが地球の中心点へと向かうなら(赤)、地球の中心点へと向かう諸力に従うものです。人間のエーテル体は、宇宙万有の果てのいたるところから入り込んでくる諸力に従います(緑)。こうして今、人間のなかにひとつの力組織があると考えられます、垂直に位置しているあらゆる器官のなかにもともと存在していて、下降していく力と、外からやってきて、本来このような方向性を持つ(矢印)力から成る力組織です。皆さんはこのことを、一方の性質ともう一方の性質を代表している人間の形(フォルム)から形として見て取ることができます。脚を研究するなら、皆さんはこうおっしゃるでしょう、脚は周辺の力よりも地球の力に適合しているので、当然その理由からあのフォルムを有していると。頭は地球の力よりも周辺の力に適合しています。同様に皆さんは腕を研究することもできます。これはとりわけ興味深いことです。皆さんが腕を体に押しつけると、腕は、地球の中心点に向かう諸力に従います。皆さんが腕を活発に動かすと、皆さん自身が腕を、周辺のいたるところから入り込んでくる諸力に従わせるのです。よろしいですか、これが脚と腕の違いです。脚は一義的に地球の中心的な力に従い、腕は特定の姿勢でのある条件においてのみ、地球の中心的な力に従うのです。人間は地球の中心的な力から腕を引き上げて、周辺のいたるところからやってくる私たちがエーテル的と名づける力のなかに組み込むことができます。けれども、ひとつひとつの臓器についてもこのように、これらの臓器がどのように宇宙に組み込まれているかを実際いたるところで見ることができるのです。さて、皆さんは物質体、エーテル体を有しています。けれどもアストラル体とは何なのでしょう。空間のなかにはもはや、第三の種類の力はありません。そういうものはもはや存在しないのです。アストラル体はその力を空間の外に持っています。エーテル体の力は周辺のいたるところから入り込んできますが、アストラル体はその力を空間の外部から受け取るのです。地球の物質的な力が、あらゆる方向からやってくるエーテル的な力に組み込まれているようすを、自然の特定の場所に捜し出すことができます。ひとつ考えてみてください、蛋白質、これはまず物質的な地球に存在します。蛋白質のなかで、硫黄、炭素、酸素、窒素、水素が化学的にどうにか安定している限り、蛋白質はまさに物質的な地球の力に従います。蛋白質が生殖の領域に入ると、蛋白質は物質的な力から引き上げられるのです。周囲の宇宙万有の力が分裂した蛋白質に働きかけ始め、全宇宙万有の写しとして新たな蛋白質が生じます。けれども、よろしいですか。こういうことが起こることもあります。つまり分裂がじゅうぶんに進行することができないといった事態です。たとえば、何らかの動物に生殖が起こるためには、全宇宙万有の力に組み込まれることができるよう、産みつけられた卵のなかで分裂させられなければならない蛋白質もあるでしょう。こういう動物は、もっぱら全マクロコスモスのなかに組み込まれなければならないこのような蛋白質を生殖のために提供することを何らかのかたちで妨げられているのです。生殖可能な蛋白質は全マクロコスモスに組み込まれなければなりません。この動物は生殖可能な蛋白質を問題なく形成することを妨げられているわけですが、そう、たとえばタマバチ(Gallwespe)がそうですね。それではタマバチは何をするでしょう。タマバチは何らかの植物の一部に卵を産みつけるのです。タマバチが卵を産みつけた柏その他の木々にはいたるところでこれらの虫こぶ(没食子/Galle)が見つかるでしょう。するとこうした奇妙な虫こぶがたとえば葉についているのを皆さんはごらんになるでしょう、虫こぶのなかにはタマバチの卵があります。なぜこういうことが起こるのでしょう?なぜタマバチの卵は、たとえば柏の葉に産みつけられ、今発育しようとする卵が内部に入ったこのような虫こぶができたのでしょう。卵は自分だけでは発育することができないでしょう。なぜなら植物の葉は自らのうちにエーテル体を有しています。このエーテル体は全宇宙エーテルに適合していて、そしてこれがタマバチの卵の助けになるのです。タマバチの卵は自分だけではどうすることもできません。ですからタマバチは、すでにエーテル体を内部に持ち、全宇宙エーテルに組み込まれている植物の一部分に卵を産みつけるのです。つまりタマバチは、自分の蛋白質に分裂を起こすために、回りの宇宙周辺が柏の葉を、柏を通じて働きかけることができるように、柏の木に近づくのです、一方、タマバチの卵だけでは崩壊してしまわざるをえません、タマバチの卵はあまりに固く結合していて分裂できないからです。よろしいですか。このことは、自然のなかでいかに不思議な活動が営まれているかをのぞき見る可能性さえ与えます。けれどもこの活動は通常も自然のなかにあるものです。と申しますのも、想像してみてください、この動物は単に、生殖のために宇宙エーテルにさらされうる胚実質を提供することができないのみならず、自分自身のなかで任意の物質を食物に変え、内的な栄養に用いることもできないと。ミツバチの例(☆1)がすぐ思い浮かびますね。ミツバチは何でも食べるということはできません。ミツバチが食べることができるのは、植物によってすでに配分されたものだけです。けれどもさて今皆さんは非常に不思議なものをごらんになるでしょう。ミツバチは植物に近づき、蜜液をさがしてそれを摂取し、体内で加工し、ミツバチについて私たちが驚かざるを得ないものを作り上げます、まるごとの蜂の巣を、巣箱のなかの巣房を作り上げるのです。私たちはこれらふたつのまったく不思議な驚くべき経過を眺めます、外で花にとまっているミツバチが花の蜜を吸い、それから、巣箱に入り込んでいって、ほかのミツバチとともに、蜂蜜で満たすための蜜房を自分自身から作り上げるのです。いったいここで何が起こっているのでしょう。よろしいですか、皆さんはこれらの蜜房をその形(フォルム)に従って見なければいけません。それらはこのように形成されています(図参照、右)、ここにひとつ、続いてふたつめと続きます。これらは小さな房で、その空洞はもちろん物質で満たされるように形作られるのですが、水晶、つまり珪酸の結晶の形成のとはいくぶん違って形成されています。皆さんが山に出かけて、水晶をごらんになれば、皆さんはそれもこのように描くことができるでしょう。水晶はいくぶん不規則なところはありますが、連続した巣房に似た図になるでしょう。ただ、巣房は蜜ろうから、水晶は珪酸から出来ています。これを追求していくと、こういうことがわかります、普遍的なエーテル的、アストラル的なものの影響下で、地球進化の特定の時期に、珪酸の助けを借りて、山のなかに水晶が形成されたと。皆さんはここに、地球の周囲からやってくる諸力、エーテル的ーアストラル的力として作用し珪酸のなかに水晶を形成する力を見るのです。皆さんは外の山地のいたるところにそれを見出します。まさに驚くべき水晶、この六角形の形成物を。この水晶であるもの、これは、空洞となれば巣箱のなかの巣房です。つまりミツバチは、かつて六角形の水晶を作り出すべく存在していたものを花から取り出します。ミツバチはこれを花から取り出し、自分自身の体を通して水晶の複製を作り出すわけです。このとき、ミツバチと花の間では、かつて外部のマクロコスモスで起こったことに似た何かが起こっているのです。私がこういうことをお話ししますのは、炭素、窒素、水素、酸素云々のなかに存在しているこのまったく嘆かわしい抽象を眺めるだけでなく、驚くべき形成(ゲシュタルトゥング/Gestaltung)プロセスを、自然と自然の経過における内的で親密な関連を見ていくことがどんなに不可欠か、皆さんにおわかりいただくためです。そしてこういうことが実際かつては本能的に科学の基礎となっていました。それは十五世紀頃から人類の歴史的進化にともなって失われてしまいました。それは再び獲得されなければなりません。私たちは再び、自然の存在とその人間への関わりとの内密な関係のなかへと入っていかなければならないのです。このような関係が再び知られるようになるときにのみ、健康な人間と病んだ人間への真の洞察が再び存在するようになるでしょう。さもなければ、どんな薬学においても、内的な連関は洞察されることなく、単に試してみるばかりという状況は変わりません。十五世紀から今日まで人間の精神の進化において一種の不毛の時代があったのです。この不毛の時代は人類を圧迫しました。と申しますのも、植物を見ても、動物を見ても、人間を見ても、鉱物を見ても、あらゆることについてもはや何もわからなくなったこういう不毛な時代は、人間全般をあらゆる宇宙連関から引き離したからです。そしてとどのつまり、人間はあのカオスのなかに入り込んでしまいました、そのカオスのなかで人間は今日、もはや宇宙との何らかの関連のなかで自らを知るということのない世界に対峙して生きているのです。このような事柄がよく考えられていた時代には、生殖が起こるたびごとにマクロコスモス全体が語りかけていることを、人間はよく知っていました。生殖可能な胚あるいは種子のなかで、全マクロコスモスの写しが生じます。大宇宙は外にありますが、きわめて小さな胚のなかには、大宇宙のいたるところからやってくる作用の結果があるのです。さて人間のなかでは最初、地球の物質的ー中心的な力が共に作用しています、それらは人間のすべての器官(臓器)のなかで作用していますが、これらの力に対して、あらゆるところからやってくるエーテル的な力が随所で作用しています。なんらかの方法で肝臓を、脾臓を、肺をごらんになってください、そこでは地球の中心点からやってくる力と周囲の宇宙のいたるところからやってくるあの力が共に作用している、ということを知るときにのみ、皆さんはまずこれらの臓器を理解なさるでしょう。ーーさらに、ある種の臓器はアストラル体に、また自我組織(Ich-Organisation)に浸透されています。けれども、ほかの臓器は、これら高次の構成部分にはあまり浸透されていませんし、そもそも人間は睡眠状態では自分のなかにアストラル体と自我組織は持っていないのです。ひとつ何らかの臓器を、肺を(最初の図参照、右上)、考えてみてください。何らかの原因で、宇宙万有のいたるところからやってくる力(矢印)が、人間の肺にあまりに強く働きかける状態になったとします。肺は病気になってしまうでしょう、なぜなら、肺のなかで地球の中心点から作用するものと、周囲のあらゆる方向からやってくるものとの間には、一種の調和的な均衡状態が生じていなければならないからです。今、皆さんが、肺のなかであまりに強く働きかけているエーテル力の釣り合いをとる鉱物(ミネラル)実質をどのようにして見つけ出せるか首尾良く知ることができるなら、皆さんは、強く作用しすぎているエーテル的諸力を除去する治療薬を得るでしょう。そして逆のことが起こる可能性もあります、つまりエーテル的諸力があまりにも弱くなって、地球の中心点から作用する物質的な諸力が強くなりすぎるといったような。皆さんは、何らかの臓器を通じてエーテル的諸力を強めるように人間に作用することのできるものを、周囲の植物界のなかに求めるでしょう。そうすれば、皆さんはふさわしい治療薬を得るでしょう。単に物質体を観察するだけでは、最少の治療薬をどうにか見つけ出すことも不可能です、物質的な人体そのものには、人体の成り立ちについて何かを語る根拠はまったくないからです。と申しますのも、人体のなかで起こっているいわゆる正常なプロセスは自然のプロセスですが、病気のプロセスもまた自然のプロセスだからです。皆さんがいわゆる正常な肝臓をお持ちだとすると、皆さんは自然のプロセスのみがそこで起こっている肝臓をお持ちなのです。けれども皆さんが潰瘍を起こした肝臓をお持ちだとしても、皆さんはやはり自然のプロセスのみがそこで起こっている肝臓をお持ちなのです。物質体からはこの違いを見つけだすことはけっしてできません。物質体からは、ある場合は別の場合とは異なって見える、という事実を確認することができるだけで、原因については何も知ることはできないのです。皆さんの肝臓に潰瘍があったとすると、こういう場合たとえばアストラル体が、そうすべき程度よりずっと強力に肝臓に介入しているということを知っているときにのみ、皆さんは潰瘍の原因を発見するでしょう。皆さんは、肝臓の潰瘍形成の場合肝臓に強く介入しているアストラル体を、肝臓から追い出さなければなりません。そして、物質体から出て、人間本性の高次の構成部分にまで入っていかないことには、健康な人間と病気の人間についてリアルに語る可能性などそもそもないのです。ですから結局こう言うことができます、そもそも薬学というものは、人間の物質体から出ていくときにはじめてまた可能だろう、病気の本質は、物質的な人体からは理解することができないからだと。今回私は、事柄を歴史的関連で叙述することだけを意図しております。けれどもまさしく、古の時代から近代へともたらされてきたものがどんどん光を失っていったとき、人間認識一般もことごとく消え去ってしまったということなのです。今日私たちは、再び人間認識を獲得しなければならないという急務の前に立っております。この人間認識は、人間と周囲にある自然界の関係を再び把握することができるときにのみ獲得されるでしょう。ひとつ人間の自我組織から出発してみましょう。まず、そうですね、秘儀参入学由来のイマジネーション認識を通して人間の自我組織についての観照を得ると、自らにこう問いかけることができます、今日の人間の生体組織のなかではいったいこの自我組織はとくに何と関係しているのだろうと。この自我組織は、人間のなかで鉱物的であるものととくに関係しています。ですから皆さんが鉱物質(無機質)のもの、本質上鉱物質のものを摂取すると、たとえば塩を舌の上にのせると、たちまちこの鉱物質のものに襲いかかるのは自我組織なのです。次いで鉱物質のものはさらに送られ、胃のなかに移ります。自我組織は、塩実質が胃のなかにあるときにも、そこに居残っています、自我組織はそこに居残っているのです。塩はさらに進み、むろんいろいろな変化を遂げますが、腸を通過し、さらに進みます、けれども皆さんの塩は、決して自我組織に見捨てられることはありません。これらは、つまり自我組織と人間のなかに入ってきた塩は、対になったもののようにふるまうのです。よろしいですか、皆さんがたとえば、蛋白質という物質とまだいくらか結合している目玉焼きを食されるときには、そうではありません。皆さんが目玉焼きの蛋白質を舌の上に運ぶときには、自我組織は少し気にかけるだけです。さらにそれが胃のなかへと入り込んでいく間も、アストラル体はそれをほとんど気にかけません。さらに進むと、エーテル体が集中的に働きかけ、次いで物質体がそうします。皆さんが目玉焼きとともに皆さんの生体組織のなかに取り入れた蛋白質を、これらが皆さん自身のなかで分解するのです。そして今、目玉焼きは皆さん自身のなかで完全に鉱物的にされます。それは分解されます。腸壁においてこれら外的に取り入れられた蛋白質は、どうにかまだ蛋白質であることもやめ、完全に鉱物化されるのです。こうして今それはまた自我組織のなかに移行していき、そして鉱物化された蛋白質は、そこから自我組織に摂取されるのです。こうして私たちはいつもこう言うことができます、自我組織は鉱物質のものだけと関わり合うと。けれども鉱物質のものはどれも、人間の生体組織のなかで自我組織によって、外部にあるときとは異なったものになっています。人間の生体組織のなかでは何ものも、それがこの人間の生体組織の外部にあるときのままであることは許されないのです。自我組織は非常にラディカルにそのことを気にかけなければなりません。単に、そうですね、食塩やそういった物質が、自我組織に捉えられて、外部にあったときとはまったく別の何かに内的に変えられるというだけではなく、人間がある特定の熱状態に囲まれているとき、外的な熱状態が人間に何らかのしかたで浸透しているときですら、それは{外的な熱がそのままであることは}許されないのです。皆さんの指が、外的な熱として広がっているものによって満たされることは許されないのです。熱は皆さんに刺激として作用することが許されるだけで、皆さんは内部に持つ熱を自分で生み出さなければなりません。皆さんが単なる対象となり、皆さんの暖かさあるいは冷たさを自分では生み出さず、皆さんのなかのどこかで熱を、たとえば何らかの対象の場合のように作用させ続けるだけであるなら、その瞬間に、皆さんは病気になります。外的な熱そのものによって、単なる物質によってではなく、外的な熱によって病気になるのです。ちょっと考えてみてください。ここに布かスポンジか何かがあり、向こうにストーブがああるとしましょう。ストーブの熱はまったく静かに広がり、布あるいはスポンジに浸透するでしょう。布あるいはスポンジは、そこにストーブの熱として広がっているものを単に継続するだけです。ストーブの熱が皮膚まで到達すると、そうすることは許されません。ストーブの熱が感覚の刺激を引き起こすと、反応が返ってこなければなりません、つまり内部の熱が内から生み出されざるを得ないのです。風邪の状態というのはまさに、内部の自分の熱を生み出すべく刺激を与えさせるだけにとどまらず、外部の熱をいくらか皮膚の下に入れてしまって、その結果、自らの作用、自らの衝動そのものに満たされた完全に活動的な人間として自身を世界のなかに据えるのではなく、ひとつの対象のように自分を置き、自分を通じて外界の作用に浸透されるままになっていることに起因するのです。自らのうちに鉱物質のものを取り入れ、けれどもこれを内的に徹底的に変え、何か別のものに変化させること、これが自我組織の本質です。私たちが死んではじめて、鉱物質のものは再び外的自然の鉱物質のものとなります。私たちが地上に生きて、鉱物質のものを私たちの皮膚の内部に有している間は、自我組織が絶えず鉱物質のものを変化させています、私たちが摂取する植物質のものは、アストラル組織によって、アストラル体によって、絶えず変化させられているのです。したがって私たちはこう言うことができます、人間の自我組織は、鉱物質(無機質)のものすべて、単に固体状のもののみならず、液体状のものも、気体状のものも、熱状のものも、徹底的に変容させるのだと。おおざっぱな言い方をすれば、むろん、このあたりに水がある、私は飲む、水は今私の内部にあると言うことはできます。けれども私の生体組織が水を取り入れる瞬間、私の内部にあるものは、私の自我組織を通じて、もはや外部の水であるものと同じではなくなります。私がそれを汗として染み出させたりあるいはほかの方法で水に戻すとはじめて、それはもとに戻るのです。私の皮膚の内部では、水は水ではなく、生きた液体性である何かです。このようにして常に、限りなく多くのことが考え直されなければなりません。今日は皆さんにほんの小さな示唆を与えることができただけです。けれども皆さんがこのことを考えぬき、蛋白質は全マクロコスモスの作用のなかに入るために分解させられねばならないことがおわかりになるなら、私が飲む水は内的に生きた液体であり、もはや無機的な水ではなく、自我組織に浸透された水であることがおわかりになるなら、また、皆さんがキャベツを食べるとき、外にはキャベツがある、アストラル体がすぐさま内的にキャベツを、少なくとも現実の、物質的なキャベツを取り入れ、それを何かまったく別のものに変化させるとじっくりお考えになるなら、ここで私たちは、とほうもなく重要な経過の観察に至り、次のような観照へと押し進みます、つまり、私たちは私たちの新陳代謝のなかに、私たちのたとえば脳のなかにあってそこで神経系その他を作り出している代謝プロセスと、進化のある種の段階だけ異なっている経過を有しているのだ、という観照へ。これについては明日もさらにお話しするつもりです、紀元後十二世紀と二十世紀の人類のまったくラディカルな違いを際だたせるために、そして、そこからさらに、人間認識がすべて消え去ってしまい、健康な人間についても病気の人間についてももはや何もわからなくなってしまわないためには、さらなる進展になかで健康な人間と病気の人間のために、新たな衝動がやってくることがどうしても必要であることをご理解いただくためです。 (第7講・了)
参考画:自我組織(ego organization)



□編註
☆1 ミツバチの例:1923年12月1日ドルナハでの講義を参照のこと。『人間と宇宙自然における霊の作用ーーミツバチの本質について』(ゲーテアヌム建築に携わる労働者たちのための15回の講義、第5巻 GA351)所収
□記;シュタイナーの「自我組織」は、人間の意識と肉体の関係に焦点を当てています。以下に要約します。
自我の付与には肉体が必要:人間は肉体を持つことで「自己同一性」と「自己独立性」の意識を形成します。

真の自我性への成長:真の自我性は「自己独立性」と「自他同一性」を統合した意識であり、肉体を通じて形成されます。
必要悪としての自我の下降:肉体による自我は利己主義や物質的欲望を生み出し、唯物論的思考を促進します。
シュタイナーは、真の自我性を意識的に育てる時代が到来していると考えています。

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最終更新日  2024年05月16日 06時10分09秒
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