Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年05月26日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第3章 動物の形態学に関するゲーテの思考の起源 佐々木義之訳
 ラバターの「人相学についての随想」が出版されたのは1775年から1778年にかけてでした。ゲーテはその発行責任者としてばかりではなく、執筆分担者としてもこの仕事に生き生きとした興味を持っていました。しかし、今、私たちにとってこれらの貢献が特に興味深いのは、その中に彼の後の動物学上の作品となったものの種子が見出されるからです。人相学では、人々の内的な性質や精神をその外的な形態を通して見定めようとします。形態はそれ自体として捉えられるのではなく、魂の表現であると考えられました。ゲーテが有する彫刻のような、まるで、ものごとをその外的、形式的な関係性において把握するために創られたような精神が、そのようなアプローチに限定されるはずもありませんでした。単に内的な存在を認識するためにだけ外的な形態にアプローチするようなこれらの研究に関わりながら、ゲーテは形態自体の独立した意義に気づくようになりました。そのことは「人相学についての随想」第2巻パート2に挿入された動物の頭蓋に関する彼の1776年の研究の中に見て取ることができます。彼がその年にこれらの研究を始めたのは、人相学についてのアリストテレスの著作を読んで刺激を受けたからです。彼はまた人間と動物の違いを検証しようとしました。彼はその違いを、人間の形態においては、いかにその構造全体がその頭部を際立たせているかという点に見出しました。つまり、その体のあらゆる部分がその中心として指し示すところの高度に発達した人間の脳の中にそれを見い出したのです。「いかに人間の形姿全体が天を映し出すドームを支える柱としてそこに立っていることか。」動物の構造にはその正反対であるところのものを見出しました。「頭部は脊椎に補足的に取り付けられているに過ぎない!脊椎神経の先にあるその脳は、その動物の精神を表現するために必要な、そして、その場限りの感覚を通して生きる生き物を方向づけるために必要な羅針盤以上のものではない。」。このように示唆することによって、ゲーテは人間本性の内と外との相互作用に関する考察を超えて、包括的な全体の把握、形態そのものの考察へと進みます。彼は人間形態の「全体」をその生のより高次の表現のための礎として見るようになりました。そして、彼は「その全体」が有するある特徴の中に、それによって人間が創造の頂点に置かれたところのある前提条件を認めました。私たちは、このような考えを形成するに当たって、ゲーテは動物の形態を完全に発達した人間の形態に関連づけようとしていたのだということを心に留めておかなければなりません。とはいえ、動物においては、主として動物的な機能に仕える器官がいわば支配的になっており、彼らの組織全体がそれに向けて方向づけされているのに対して、人間の有機組織の場合は、特に精神的な機能に奉仕する器官が発達しています。この初期の段階においてさえ、私たちは、ゲーテが動物有機体として心に描いていたのは、もはや私たちが感覚的な現実の中に見出すような個別の有機体ではなく、それはむしろ、人間においてはより高次の側面に向かい、動物においてはより低次の側面に向かってさらに発展するようなひとつの理想的な有機体であったということが分かります。ここにはゲーテが後に「元型」と呼んだものの種子が横たわっているのですが、彼がそれによって意図していたのは「個別の動物」ではなく、動物というアイデアだったのです。そうです、もっと言えば、私たちは後に彼が定式化した法則についての暗示をここに見出すのですが、それは「形態の多様性は、ある部分がその他の部分に対して卓越することから生じる」という重要な暗示でした。実際、既にここでは、動物と人間との間の相違はひとつの理想的な形態が二つの方向に逸脱することを通して生じる、そして、それによって、異なる様々な器官体系が優越性を獲得するとともに、その生き物全体に特有の性質を与えると考えられていたことが分かります。同年(1776年)には、動物有機体の形態にアプローチする方法が明確になっていたということも分かります。後に彼が彼の解剖学的な研究、それはいつも骨学から出発しました-の中で擁護した考え、つまり、骨が形態の基礎であるということに彼は気づいていたのです。その年に彼は次のような適切な文章を書いています。「動的な部分はそれら骨にしたがって、それらとともにと言った方がいいかも知れませんが出来上がっており、その硬い部分が許す限りにおいて、その役割を演じる」と。そして、ラバターの「人相学」では、もうひとつの示唆がなされました。私が、「骨格体系は人間の基本的な素描」であり、頭骨は骨格体系の根幹であり、そして、肉質部分はこの素描の色づけ以上のものではあり得ないと考えていることは既にお分かりでしょう。恐らくこれは、ラバターとこれらのことがらについてしばしば議論したゲーテの示唆によるものだったと思われます。このような観点は確かにゲーテのものと同じだからです。しかし、彼は私たちが考察すべきさらなる観察を行います。特に頭蓋をはじめとする骨の研究を行うことによって、骨格が形態の基礎であることを明確に理解することができるというこのコメントは、ここでは動物においては議論の余地がないにしても、人間の頭蓋における相違に適用するときには、かなりの反対に遭うかも知れません。ゲーテがこの後1795年に記述しているような複合的な人間の中により単純な動物を探すことを除き、彼はここで何をしようとしているのでしょうか。(編者注:ゲーテは、その随筆「形態学について」の「提示された目的」の部分で、この部分の記述に次のように光を当てています。「生き物が不完全であればあるほど、その各部分はお互いに、その全体に、より相似したものとなる。生き物が完全であればあるほど、その各部分は不相似となる。前者の場合、その全体は多かれ少なかれその各部分と同様であり、後者の場合、それはその各部分と同様ではなくなる。各部分が似ていれば似ているほど、それらは互いにより少なく依存し合っている。その各部分の依存性は、より完成された生き物であることの証なのだ。」)私たちはそれによって、動物の形態学に関する彼の後の考えをその上に基礎づけたところの基本的な概念をゲーテが確立したのは、彼が1776年のラバターの「人相学」に没頭していたことによる、と結論づけるように導かれます。この年はゲーテが解剖学の詳細な研究を始めた年でもあります。1776年1月22日に、彼はラバター宛に「公爵は私に6つの頭蓋を送るよう手配してくれました。私は輝かしい観察を行うことができましたから、もし、貴方がまだ私抜きにそれをされていないのであれば、お伝えできます」と書き送っています。ゲーテのイエナ大学との結びつきは彼の解剖学の研究をさらに刺激することになりました。1781年にその最初の示唆があります。ゲーテは、カイルによって編纂された日記の中で、1781年10月15日に「アインシーデル老」とイエナに行き、解剖学に精を出したと記しています。イエナにはローダーという学者がいて、ゲーテの研究に大いに貢献しました。ゲーテを解剖学の分野へとさらに導いたのは彼だったのです。ゲーテはそのことについて10月29日にはフォン・シュタイン夫人宛に(R.シュタイナーによる注:「私が関わっている面倒な愛の労働は、私を私の探求へとさらに導いています。ローダーは私に骨や筋肉のすべてについて説明してくれています。そして、私は2,3日の内に多くのことを理解するでしょう。」)、そして、11月4日にはカール・アウグスト宛に(R.シュタイナーによる注:「彼[ローダー]は私に、骨学と筋肉学について、8日間に渡ってみっちりと-私の注意力が持ちこたえる限りにおいてですが-説明してくれました。」)書簡を送っています。この手紙の中で、彼はその意図について次のように述べています。「芸術学院の若い人たちに、人間の体に関する知識の概略を説明し、それに向けて彼らを導くためです・・・。私がこれを行うのは、私と彼らの両方のためですが、彼らは、この冬季過程を通して、私が選んだ方法により、体の基礎に完全に精通するようになるでしょう。」ゲーテの日記の記述は、実際に彼がこれらの講義を行い、それが1782年1月16日に終了したことを示しています。ローダーとは、この時期に、人間の体の構造についてかなり議論していたはずです。1月6日のゲーテの日記には「ローダーによる心臓の説明」という記述があります。私たちはゲーテが早くも1776年には、動物の有機体の構造に関する先見的な考えを抱いていたことを見てきました。ですから、この時点において、彼の精力的な解剖学への関わりは詳細なことがらを超え、より高次の観点へと上昇していた、ということに全く疑いの余地はないでしょう。彼は1781年11月14日に、ラバターとメルク宛に、彼が「すべての生命とあらゆる人間的なものをそれに補足することができる文脈としての骨を」扱っている、と書き送っています。私たちがある文脈を読むとき、私たちの心の中で像と考えが形成されます。それはその文脈によって引き起こされ、創造されたように見えます。ゲーテは骨をそのような文脈として取り扱いました。つまり、彼がそれらを観察している間、すべての生命とあらゆる人間的なものに関する考えが彼の中に生じました。それらを深く考察する過程の中で、有機体の形成に関するあるアイデアが彼に刻印されたのです。1782年のゲーテの頌歌「神」は、人間の人間以外の自然に対する関係について、当時の彼がどのように考えていたかを私たちがある程度理解するための助けとなります。。初の韻文には次のようにあります。「高貴であろうではないか、役立つもの、善良なものであろう。それらだけが、私たちが知るあらゆる存在から私たちを区別するのだから。」この韻文の最初の二行で人間の属性を特徴づけた後、ゲーテはそれら「だけ」が私たちを世界のあらゆる他の存在から区別すると主張します。この「だけ」は、人間の物理的な構成はその他の自然と完全に調和しているとゲーテが考えていたことを非常に明確に私たちに示しています。私たちが以前に注意を促した考え、つまり、ひとつの基本的な形態が人間と動物の両方の形を支配しているけれども、人間においては、それは自由な精神的存在の乗り物になるほどの完成の域に達している、という考えは彼の中でますます生き生きとしたものになっていたのです。感覚的に知覚可能な特徴に関しては、韻文が語るように、私たちはまた人間として、「私たちの存在という円環を完成させなければならない・・・。強大な、鉄の必然という永遠の法則にしたがって。」とはいえ、私たちの場合、これらの法則は、私たちに「不可能」を行わせるのを許すような仕方で発達します。「我々は区別し、選択し、評価する、そして、その瞬間に永遠の形態を与える。」私たちはまた、ゲーテの観点がますます明確なものになっていた1783年には、彼が「人類史の哲学に関する考察」を定式化し始めていたハーダーと活発に連絡を取り合っていたということに注意しておかなければなりません。この仕事はこれら二人の男の議論から生じてきた、そして、そのアイデアの多くはゲーテにまで辿ることができると言っても差し支えないでしょう。その文体はハーダーのものでしたが、そこに表現された考えはしばしば全くゲーテのものでした。ですから、私たちはそこから、当時のゲーテの考えについて、信頼するに足る結論を引き出すことができるのです。ハーダーは彼の作品の第1部で、自然の世界について次のような観点を発達させました。我々は、あらゆる存在を貫き、様々な仕方、自らを実現するような原則的な形態を仮定しなければならない。「石から結晶へ、結晶から金属へ、それらから植物の創造へ、植物から動物へ、それらから人間へと」我々は「組織形態の上昇」を見る。それとともに、この生き物の力と衝突しますます可変的なものとなり、ついには、それらを包含できでに人間の形態の中へと統合される。この考えは完全に明確なものであり、理想的、典型的な形態は、そのようなものとしては感覚的な現実性を有しておらず、空間的に分離され、質的に多様な存在、そして、それは人間に至るまでそうなのですが、そのようなものとして自らを実現するということです。より低いレベルの有機的な組織においては、それはいつもある特定の方向で自らを実現し、非常に顕著な仕方でそれに向けて発達します。この典型的な形態が人間へと上昇するとき、それは低次の有機体の中で一面的な仕方で発達させられたあらゆる存在の間に配分されるすべての形成的な原理を「ひとつ」の形態へと集約します。そのことによって、きわめて高い完成度が人間において達成される可能性が創造されたのです。自然はここにおいて、多くの段階や秩序の下にある動物たちの間に分散させていたものをひとつの存在へと付与しました。この考えはその後のドイツ哲学に非常に実り多い影響を及ぼしました。ここで、この概念をさらに明確にするために、オーケンによって後に定式化されたものを参照してみましょう。「動物界とは、たったひとつの動物のことである。別の言い方をすれば、それは、その有機体のひとつひとつがそれ自体の中に全体として存在するというような仕方で動物性を代表しているのである。個々の有機体が一般的な動物体から分離し、しかも動物としての本質的な機能を確立するとき、個々の動物が存在することになる。動物界とは、最高の動物である人間がバラバラにされたものに過ぎない。人間の類、族、種にはたったひとつしかないが、それは単にそれが動物界全体であるからという単純な理由によるものである。(自然哲学教本、イエナ、1831年)」。ですから、動物たちの中には、例えば、触覚器官が発達したものがいますが、彼らの有機体全体」が実際に触ることに向けて方向づけられており、それが目的となっているのです。また、食べるための器官が特に発達した動物やその他の動物たちがいます。言い換えれば、それぞれの動物種において、ひとつの体系が一方的な仕方で際立っており、その動物全体がそれに浸っている一方、それ以外のものはすべて背景へと退いているのです。ところが、人間の構成においては、すべての器官と器官体系は、それぞれの器官が他の器官に自由に発達するための余地を残しておくというような、つまり、それぞれがその他のすべての自己実現を許すのに十分なだけ引き下がるというような仕方で発達します。ですから、個別の器官や体系の調和的な相互作用が生じることによって、他のすべての生物の完成度を統合しつつ、人間を最も完全な存在にするところの調和が創り出されるのです。このような考えは、ゲーテとハーダーとの会話の内容になっていますが、後者はそれらを次のように表現しています。「人類とは、人間性を達成するために集合する「より低次の有機的な力の大いなる合流」である・・・したがって、我々は「人間を動物の中でも中心的な生物、つまり、あらゆる種の特徴がその最も繊細な本質においてそこに集められた最終的な形態」であると考えることができる。(ハーダー、「人間性の歴史に関する哲学の考察」第5冊のⅠあるいは第2冊のⅠ)」ゲーテがクネーベルに出した手紙の次のくだりは、ゲーテがどれほどハーダーの「人間性の歴史に関する哲学の考察」に関与していたかを示しています。「ハーダーは歴史哲学を書いています。ご想像の通り、一から新しく積み上げながら。一昨日は、最初のいくつかの章を一緒に読みましたが、すばらしい出来です・・・。今や、世界史と自然史が私たちとともに正に荒れ狂っているようです。」ハーダーの(人間有機体とそれに結びつくあらゆるものに固有の直立姿勢こそ人間の思考にとって基本的な前提条件であるという:同、第3冊のⅥ、及び第4冊のⅠ)観察は、上で述べたゲーテによる人間と動物の属的な差異に関する1776年の示唆を直接思い出させるものです。(「人相学についての随想」第2巻第2章)ハーダーの表現はこの考えのひとつの定式化に過ぎません。このすべては、ゲーテとハーダーが自然の中の人間の位置づけについて、当時(1783年)本質的に一致していたという私たちの仮定を裏づけるものです。さて、そのような基本的な観点のひとつの帰結とは、ある動物の器官、あるいは部分は人間の中にも見出されるけれども、全体が調和していることによって課される限定の範囲内に抑制されている、ということです。例えば、特定の骨が特定の動物の中で卓越しているのであれば、それはある一定の仕方で実際に発達していなければなりませんが、それはまたすべての他の動物の中に少なくとも示唆されていなければならず、そして、人間の中に不在であってはなりません。それは、動物の中では、それ自身の法則性に対応した形態を取るのに対して、人間においては、全体に適応しつつ、その形成的な法則を有機体全体の法則に適合させなければなりません。しかし、もし、自然という織物が引き裂かれるべきではないとすれば、それは全く不在というわけにはいきません。何故なら、もし、そうであったならば、元型の首尾一貫した仕上げが妨げられたはずだからです。ゲーテがこの偉大な考えと完全に矛盾する意見に突然気づいたときの彼の観点とはそのようなものでした。当時の学者たちの関心は動物種を見分けるための特徴を見出すことにありました。動物と人間の違いは、動物には左右対称の上顎の間にあって門歯を支えている小さな骨―顎間骨―がある点であると信じられていたのです。この骨は人間にはないと考えられていました。1782年に、骨学に興味を持ち始めていたメルクは、当時、最も著名だった学者の何人かに助けを求めました。その年の10月8日に、優れた解剖学者であったゾンメルリンクは動物と人間の間の相違についての情報をもってそれに応えました。「顎間骨」については、ブリューメンバッハをご覧になるとよいでしょう。それは、他のすべては同じであるけれども、オランウータンに至るまでの類人猿以上の動物には見られて「人間には決して見られない」ただひとつの骨なのです。この骨を例外として、あなたが人間の中に見出されるあらゆるものを動物に移しかえるのを妨げるものは何もありません。ですから、私が雌鹿の頭をあなたに提供しようとしているのは、ブリューメンバッハがそう呼ぶところのこの「顎間骨」は、上顎に門歯を持たない動物にも存在していることを確認していただくためです。ブリューメンバッハは人間の胎児や幼児の頭骨の中に「顎間骨」の原始的な痕跡―実際、そのような頭骨のひとつには、実際の顎間骨のように完全に分離した二つの小さな核さえあったのです-を見出していたのですが、それでも彼はその存在を認めようとはしませんでした。彼は、「これと真の顎間骨との間には、ひとつの世界ほどの違いがある」と言っています。当時の最も有名な解剖学者、キャンパーも同じ意見でした。彼は顎間骨について、例えば「人間には全く見いだされていない」ものとして言及しています。キャンパーを非常に尊敬していたメルクは彼の著書を読みふけっていました。メルクは、ブリューメンバッハやゾンメルリンクと同様、ゲーテと手紙の交換をしていました。ゲーテのメルクとのやり取りは、彼がその骨学研究に大いに興味を持っており、それについて意見交換をしていたことを示しています。1782年10月28日に、彼はメルクに、キャンパーの「未知の動物」について何か書き送ってほしい、キャンパーからの手紙を送ってほしいと頼んでいます。もっと言えば、1783年4月に、ブリューメンバッハがワイマールを訪れたことに注意する必要があります。ゲーテは同じ年の9月に、ブリューメンバッハをはじめすべての教授たちに会うためにゲッチンゲンを訪れています。9月28日に、彼はフォン・シュタイン夫人宛に、「私はすべての教授を訪問することにしました。数日の内に一回りするとしたら、どれほど忙しくなることか、ご想像いただけるでしょう」と書き送っています。それから、彼はカッセルに赴き、フォルスターとゾンメルリンクに会いました。そこからフォン・シュタイン夫人宛てに彼が次のように書き送ったのは10月2日のことでした。
記:シャルロッテ・アルベルティーネ・エルネスティーネ・フォン・シュタイン(シャルト)(Charlotte Albertine Ernestine von Stein(Schardt) ,/1742年12月25日 - 1827年1月6日)はドイツ・ヴァイマール公国のフォン・シュタイン男爵の妻であり、ヴァイマール時代のゲーテと親しかった人物。「(フォン)・シュタイン夫人」としても知られる。彼女の存在は、ゲーテのほかシラー、ヘルダーなど同時代のヴァイマルの文人たちに大きな影響を与えた。彼女自身も文人として知られていた。
「私はとても美しく、すばらしいものを見ています。私の静かな勤勉さが報われているのです。今や私は正しい途上にある、今からは、私に関して何も失われることはないだろう、と言うことができるという事実こそが、今最も幸運なことなのです。」
参考画:Charlotte Albertine Ernestine von Stein



 ゲーテが顎間骨に関して支配的だった観点を初めて知ったのは恐らくこの交流があった頃だったでしょう。彼の観点からは、直ちにこれは間違いであると思われました。それは、それによってすべての有機体が形成されるところの典型的で基本的な形態を破壊するようなものだったからです。ゲーテは、あらゆる高等動物の様々な発達段階で見出されるこの部分は人間形態の構築にも関わっているけれども、そこでは精神的な機能に仕える器官のために栄養に関わる器官が全体として退いているために、ただ後退しているに過ぎないということに疑いを持つことができませんでした。ゲーテは、その全体としての内的な方向づけから、人間にも顎間骨があるに違いないと考えざるを得なかったのです。問題は、それが人間の中でどのように形成され、人間有機体全体にそれがどの程度適合しているかを検証することによって、それを経験的に証明することだけだったはずです。1784年の春に、ゲーテはローダーと共にイエナで人間と動物の頭骨を比較し、その証明を見つけることができました。彼はその発見を3月27日に、フォン・シュタイン夫人(R.シュタイナーによる注:「めったにない喜びですが、私は重要で美しい解剖学上の発見を行いました。」)、そして、ハーダー(R.シュタイナーによる注:「私が見つけたのは―金でも銀でもなく、それは言葉にできないほどの喜びを私に与えてくれるものー人間の顎間骨です。」)の両方に伝えています。私たちはこのひとつの発見だけを過大に評価するのではなく、その基本となった偉大な考えと対比しながら推し量るべきです。ゲーテにとって、それは、彼の考えを有機体における最も仔細なことがらに至るまで一貫して追求するのを妨げるように見えた偏見を取り除くことができたという点で価値があったに過ぎません。ゲーテはまたそれを独立した発見であると見ていたのではなく、絶えず彼の自然についてのより大きな観点との関連で見ていたのです。私たちはそのように理解すべきですが、それは、ゲーテがハーダーに宛てた手紙の中で、「それはあなたを大いに喜ばせるはずです。何故なら、それは人間にとっての要石のようなものだからです。それは失われたのではなく、やはりそこにあったのです。しかし、どのようにして。」と書いていることからも分かります。そして、彼は直ちに別のことがらについても彼の友人に次のように思い出させています。「私はまた、あなたの全体像との関係でそれを考えていました。それがそこにあれば何と美しいことだろうと。」ゲーテにとって、動物には顎間骨があるけれども人間にはない、というような議論は無意味だったのです。もし、有機体を形成する力が動物のふたつの上顎の間に顎間骨を置いたのであれば、人間の中にも、動物の中でその骨が見つかった場所に対応する位置に、外的な表現は異なるとしても、本質的に同様の仕方で、その同じ力が働いていなければなりません。ゲーテは有機体を、死んで固定されたものの組み合わせとは決して考えておらず、内的な形成力から絶えず生じてくるようなものであると考えていました。ですから、彼は、この力は人間の上顎の中では何をしているのだと問わざるを得なかったのです。顎間骨が存在するかどうかを問うのではなく、むしろその特徴と形態とを決定しようとしたのです。それは経験論的に行われなければなりませんでした。彼の様々な陳述が示しているように、今やゲーテの中では、自然に関して、より包括的な作品をという考えがますます大きな活力をもって掻き立てられるようになっていました。こうして、ゲーテは、彼の発見についての論文をクネーベルに送付した際に、彼に次のように書き送りました。「現時点で注意を引くのを差し控えている。」「私は現時点でその結論それはハーダーがその考察の中で既に示唆していた。人間と動物の間の差異はいかなる個別事象の中にも見いだされないという結論です。」、ここで最も重要なのは、ゲーテがこの基本的な考えを述べる前に「現時点で注意を引くのを差し控えている」と言っている点です。ですから、彼は後に、より大きな文脈の中で、そうするつもりだったのです。さらに言えば、この陳述は、私たちにとって最も興味深い基本的な考え方、すなわち、動物の型についてのゲーテの偉大なアイデア―はその発見のはるか以前から彼の心の中に生きていたということを示しています。ここでゲーテはそれらがハーダーの「考察」の中で示唆されていたことを認めていますが、そのことが述べられた文章は顎間骨の発見以前に書かれたものだったのです。「ですから、顎間骨の発見はこれらの壮大な観点の結果に過ぎないのです。」そのような観点を持つことができなかった人たちにとって、その発見は理解不能なものにとどまったに違いありません。ゲーテの広く知れ渡った観点―動物たちの間に配分された要素を「ひとつの」人間形態の中に調和的に統合し、それによって、すべての個別的な部分は同じであるにもかかわらず、自然の中で最高の位階を人類に付与する総体としての差別化―について、彼らが思い至ることはほとんどありませんでした。彼らの観察方法はアイデアを通してではなく、外的な比較によるものでした。実際、その観察にとって、顎間骨は人間の中には存在していなかったのです。彼らはゲーテが求めたもの、つまり、「精神の目をもって」見るということをほとんど理解しませんでした。彼らとゲーテの間で評価の仕方に違いがあるのもまたその理由からです。ブリューメンバッハが-彼もまた物事を非常に明確に眺めた人です-「これと真の顎間骨との間には、ひとつの世界ほどの違いがある」と結論づけたのに対して、ゲーテの場合には、「必然的な内的」同一性があるとすれば、そのような外的な相違は、それがいかに大きなものであったとしても、どのようにして説明できるだろうかと問うことによって物事が判断されたのです。ゲーテは今やこの考えを首尾一貫した仕方で仕上げようとしていました。1784年5月1日に、フォン・シュタイン夫人はクネーベルに宛てて次のように書いています。「ハーダーの最近の仕事は、私たちが始めは植物や動物だったかも知れないと思わせるものです・・・。今、ゲーテはこれらのことがらについて非常に慎重に考察しています。そして、彼の心をよぎるあらゆるものは、きわめて興味深いものとなっています。」。ゲーテは自然に関する彼の観点を主著の中で提示したいと望んでいました。その願望がいかに強烈なものであったかということは、新しい発見がなされるたびに、彼の考えが自然全体を包含するように拡大する可能性について友人たちに断固として語られたその力強さの中に生き生きと見て取ることができます。1786年に、彼は、いかに自然が、いわばひとつの主要な形態を巧みに操ることによって、その多様な生命を創り出しているかということについての彼の考えを自然のすべての領域、その王国全体に拡張するという彼の願望について、フォン・シュタイン夫人宛に書き送っています。そして、イタリアでは、植物界における変容の概念が、そのあらゆる詳細に至るまで、彫刻のような明快さをもって彼の精神の前に立ちました。1787年5月17日に、彼はナポリで「同じ法則をすべての生き物に適用することができるだろう」と書いています。彼の「形態論ノート」(1817年)の最初の随筆には、「こうして、私が若い頃の熱情の中で完成された仕事として夢見ていたものが、下書きとして、断片的なコレクションとして、今提示されることになりました」という言葉があります。結局、そのような仕事が彼のペンから流れ出すことは決してなかったというのは私たちにとって非常に残念なことであったと言わざるを得ません。私たちが手に入れることができるものだけから判断しても、そのような制作が行われていれば、これまでの時代に達成されたその種の仕事のいずれをも凌駕するものとなっていたはずなのです。それは原則に関する標準的な根幹になるとともに、そこからあらゆる科学的な努力がなされ、その精神的な本質をそれに即して評価することができるというようなものになっていたことでしょう。最も深遠な哲学的精神(*それがゲーテの中にあるのを見逃すのは表面的な心の持ち主だけです。)が、感覚的な経験を通して与えられるものへの愛に満ちた沈潜と、そこでひとつに結びつくというようなものになっていたはずです。彼の仕事は、ひとつの一般的なスキームにすべての存在が包含されると主張する体系に取りつかれた偏狭さとはかけ離れたものであり、個々人を正当に取り扱うものであったはずです。人間的な試みにおけるひとつの分野だけを他のすべてに対して偏重することもなく、それにもかかわらず、たとえ個別の課題に没頭しているときであっても人間存在全体がいつもその背後に存在しているような心による仕事がそこにあったはずなのです。こうして、個々の活動は全体との関係で正しい位置を占めることになり、その心は、それが考察すべき諸目標に客観的に沈潜するとき、完全にそれらの中に入っていくことになります。ですから、ゲーテの理論は対象物から抽出されたもののようにではなく、考察の中で自らを忘れ去る心の中で、対象物そのものから形成されているかのように見えるのです。この最も厳密な客観性はゲーテの仕事を科学的な仕事の中でも最も完成されたもの、あらゆる科学者がそこに向けて努力すべきひとつの理想にしたことでしょう。哲学者たちにとって、それは客観的な世界考察に関する法則を見出すための元型的な模範になったことでしょう。今や、いたるところで科学の哲学的な基礎として現われている認識論は、ゲーテの観察方法や考察方法をその参照点として据えるようになるまで、実り多いものとはならないだろう、と推測することができます。ゲーテ自身が、1790年の「年代記」の中で、その仕事が決して実現しなかった理由を、「それはあまりにも荷が重過ぎて、たった一回の取り乱した生涯の中で解決するのは不可能であった」からと述べています。この観点からすると、断片的に手に入れることができるゲーテの科学的な仕事の重要性は途方もないもののように思われます。実際、あの偉大な全体性から、いかにしてそれらが生じてきたかを私たちが理解しない限り、それらの価値を正しく推し量り、理解することはできないでしょう。とはいえ、1784年に、顎間骨についての論文がいわば単に予備的な習作として作成されることになりました。それは、ゲーテからゾンメルリンクに宛てた1785年3月6日の文書にあるように、さしあたり公表される予定はありませんでした。「私の小論は全く刊行の予定はなく、単に最初の草稿とみなすべきものです。ですから、あなたがこの課題について私と共有したいと思われるようなものであれば何であれ、喜んでお伺いしたいと思います。」。とはいえ、その計画は必要なすべての個々の研究とともに非常に注意深く達成されました。直ちに何人かの若い人たちが(ゲーテの指導の下で)描画を手助けするために招集されました。1784年4月23日に、ゲーテはこの方法に関する情報の提供をメルクに依頼するとともに、キャンパーの方法による描画を彼に送るようゾンメルリンクに頼んでいます。メルク、ゾンメルリンク、その他の知人たちはあらゆる種類の骨格や骨の提供を求められました。4月23日のメルク宛の手紙には、「myrmecopfagous(南アフリカアリクイ)、bradypus(ナマケモノ)、ライオン、虎、あるいはそれと同様の骨格を入手したいのですが」とあります。ゾンメルリンクは5月14日に象とカバの頭骨を、9月16日に山猫、ライオン、若い熊、アメリカマンモス、アリクイ、ラクダ、ヒトコブラクダ、そしてアシカの頭骨を依頼されています。彼の友人たちには特定の情報も求められました。メルクには、サイの口蓋についての記述、特に「実際、サイの角が鼻の骨の上についているのは何故なのか」ということについての説明が求められました。ゲーテはこれらの研究に完全に没頭していました。ヴァイツはキャンパーの方法にしたがって多くの角度から象の頭骨を描写しました。そして、ゲーテは、その頭骨の縫合線がまだほとんどと共に成長していないのを見て、自分が所有する大きな頭骨やその他の頭骨とそれとを比べてみました。その頭骨を調べているうちに、彼は重要な観察を行ったのです。他のすべての動物においては、顎間骨から生えているのは門歯だけで、犬歯は上顎骨に属しているが、象だけは例外であり、恐らく犬歯も顎間骨に属しているはずだ、と以前から考えられていました。今、その骨はそれが事実ではないということを示していたのですが、ゲーテはハーダーへの手紙の中でそのことを書いています。ゲーテの骨学研究は、その夏のアイゼナッハとブラウンシュバイヒへの旅の間も続けられました。彼は、ブラウンシュバイヒに滞在している間に「象の胎児の口の中を見て、ツィンマーマンと心からの対話を続けたい」と考えていました。彼はメルク宛にこの胎児についてさらに次のように書き送っています。「ブラウンシュバイヒにあるような胎児が私たちの保管庫にもあったなら、すぐにでも解剖して、骨格標本に仕立てることができるのですが。その内部構造を説明するために、それを分解しないというのであれば、そのような巨大なアルコール漬けの化け物が何の役に立つのでしょうか。」これらの研究は、キルシュナー文学全集のゲーテ自然科学論集第1巻に収録されている論文(編者注:「顎間骨は動物や人間の上顎に存在する」)になっています。ローダーはこの論文を作成するに当たって非常な助け手となり、彼の助力によってラテン語の語句が導入されました。彼はラテン語の訳も準備しました。ゲーテはその論文を、1784年の11月にはクネーベルに、12月19日にはメルクに送っていますが、その少し前(12月2日)までは、そのことで年末までに多くのことが生じるとは思っていませんでした。その仕事には必要な図表とともに、キャンパーのためのラテン語の訳がついていました。メルクはその仕事をゾンメルリンクに送ることになっており、彼はそれを1785年1月に受け取りました。そこからそれはキャンパーの元に届けられました。今、ゲーテの論文がどのように受け取られたかを見るならば、私たちはどちらかというと不愉快な場面に直面することになります。当初は、ゲーテが共に働いたローダーとハーダーを除いて、誰もそれを理解することができなかったのです。メルクはその論文を楽しみにしていましたが、その主張が真実であるとは確信していませんでした。ゾンメルリンクはその論文が届いたことを次のようにメルクに知らせています。ブリューメンバッハは既に主要なアイデアを有していました。彼(ゲーテ)の一節は、「したがって、疑問の余地はありません。それら(縫合線)の中の他のものは共に成長しているからです」というように始まっています。ただ問題は、それらが全く存在していないということです。私はここに3ヶ月から生まれる前までの胎児の顎の骨を持っているのですが、そのどれひとつにも前面に向かう縫合線は含まれていません。その説明は、骨が互いに押し合う圧力のためということになるのでしょうか。実際、自然がハンマーと楔を操る大工のように働いたと。」1785年2月13日に、ゲーテはメルク宛に「私はゾンメルリンクから全く思慮に欠ける手紙を受け取りました。彼は実際、そのことについて私と徹底的に話し合いたいのです。ああ、何ということでしょう。」と書いています。そして、1785年5月11日に、ゾンメルリンクはメルク宛に「昨日のゲーテからの手紙によると、彼は『顎間骨』に関する彼のアイデアを捨てる用意ができていないように見受けられます」と書いています。そして、キャンパーですが、彼は、1785年9月16日に、添付されていた図は確かに彼の方法によって描かれたものではない、とメルクに報告しています。彼はそれらが全く間違ったものであるとさえ思っていたのです。彼は美しい原稿の外観を賞賛しましたが、ラテン語の訳を批判し、著者にそのラテン語を磨くように示唆することさえしたのです。3日後、彼は、それまでに何度も顎間骨を観察したけれども、人間にはそのような骨は存在しないと主張し続けざるを得ない、と書いています。彼はゲーテの観察が正しいことを認めましたが、人間に関する観察は別でした。そして、彼は再び1786年3月21日に、多数の観察の結果、「人間には顎間骨は存在しない」と結論づけたと書いています。キャンパーの手紙が明確に示しているのは、彼はそのことがらについて調べることに全くやぶさかではなかったけれども、ゲーテを理解する能力には完全に欠けていた、ということです。ローダーはゲーテの発見を正しい光の下で直ちに理解しました。彼は1788年に出版された彼の「解剖学ハンドブック」の中でそれに重要な位置づけを与えるとともに、その後の彼のすべての著作の中で、疑う余地のない科学的に完全に受け入れられた事実としてそれに言及しています。ハーダーはクネーベル宛に「ゲーテは骨に関する彼の論文を私たちに示しましたが、それは非常に簡潔で美しいものです。この男は自然の中で真実の道を歩んでおり、幸運が彼に訪れています」と書いています。ハーダーは、ゲーテがそうしたように、本当にその「精神の目」をもって物事を見ることができたのです。その能力なしには、それと折り合いをつけることは全くできなかったでしょう。このことは、ゲッチンゲン大学の講師であったウィルヘルム・ジョセフィが彼の「哺乳類の解剖学」(1787年)の中で次のように書いていることからも分かります。「顎間骨」は人間とサルとを区別する主要な特徴のひとつであると考えられているが、私の観察によれば、人間もまた、少なくともその人生における最初の数ヶ月間は、そのような「顎間骨」を有している。しかし、それらは通常、非常に初期の段階から、実際、まだ母親の胎内にいる間に、特にその外側に関して、真の上顎骨と共に成長するため、しばしばそれらを見分けることができるような痕跡は残らない。ゲーテの発見は、実際、ここで完全に確認されることになるのですが、とはいえ、それは型の首尾一貫した仕上げの結果としてではなく、直接目で見ることができるものの表現として確認されたのです。もちろん、もし、目だけに頼るとしたら、それは偶然だけに、つまり、実際にそこでは物事を正確に「見る」ことができるような標本をたまたま見出すことができるかどうかにかかってきます。ところが、ゲーテのようにして、アイデアを通して物事を把握するならば、これらの特別な標本は単にアイデアを確認するためのもの、もしそうでなければ自然によって隠されていたであろうものを「おおっぴらに」表現するためのものとなります。とはいえ、アイデア自体はいかなる標本の中でも明らかなものとなり、それぞれの標本はそのアイデアの特別な例を表現するものとなります。私たちが実際にアイデアを有しているならば、正にそのアイデアを通して、それがもっとも明確に表現されているような標本を見出すことができます。しかし、アイデアなしには、私たちは偶然の恩恵を待つしかありません。実際、科学の共同体は、ゲーテがその偉大な考えを通してその衝動を与えた後で、多数の例を観察することによって、徐々に彼の発見の正しさを確信するようになったのです。メルクは迷い続けていたように見えます。1785年2月13日に、ゲーテは彼に、分離していた人間の上顎の骨とマナティーのそれとを一緒に送り、それらをいかに理解すべきかについてのヒントを与えています。4月8日のゲーテの手紙からは、メルクが多かれ少なかれ宗旨替えをしていたことが見て取れます。けれども、彼はすぐに再び考えを変えます。と申しますのも、1786年11月11日に、彼はゾンメルリンク宛に「ヴィック・ダジュールは実際、『ゲーテのいわゆる発見』を彼の本に含めたと聞いています」と書いているからです。ゾンメルリンクは徐々にその反対の姿勢を捨てるようになりました。彼はその「人体の構造について」という著作の中で次のように述べています。「上顎の顎間骨が動物と同様、人間にも見出されるということを、比較骨相学を通して示そうとした1785年のゲーテによる天才的な試みは、その非常に正確な図とともに、公的に認知されるに値する。」ブリューメンバッハの考えを変えさせるのはもっと困難でした。彼はその「比較解剖学ハンドブック」(1805年)の中で、人間には顎間骨がない、という彼の確信について主張しています。とはいえ、ゲーテはその随筆「動物学的な哲学の原則」(1830-1832年)の中で、ブリューメンバッハの改宗について語ることができるようになっていました。個人的なやり取りの後、彼はゲーテの側につくことになったのです。1825年12月15日に、彼はゲーテにその発見を実証する美しい標本を提供することさえしています。一人のヘッセン人アスリートが顕著に卓越して動物的な「顎間骨(がっかんこつ)」を手に入れるために、ブリューメンバッハの同僚であったラーゲンベックの助けを求めました。ゲーテの考えの擁護者については後でさらに議論する予定ですが、ここでは次のことをつけ加えるだけにしておきましょう。M.J.ウェーバーは、希釈した硝酸を用いて、上顎骨が溶解してもその後に残る顎間骨を単離することに成功したのです。ゲーテはこの論文を完成させた後も骨の研究を続けました。同時に行われた植物学上の発見は自然に対する彼の興味を強化しました。彼は関連する研究対象を友人たちから借り続けていました。1785年12月7日に、ゾンメルリンクは「ゲーテは骨を返してくれない」と怒り始めています。ゲーテがそれらの頭骨をまだ持っていたことは、彼のゾンメルリンク宛の手紙(1786年6月8日)から分かります。ゲーテの偉大な考えは彼と共にイタリアに赴くことになりました。元型的な植物についての考えが彼の心の中で形を取るようになっていたとき、彼は人間の形態についての概念をも発達させていたのです。1787年1月20日に、彼はローマで次のように書いています。「解剖学に関する準備は相当にできており、かなり努力したとはいえ、私は人体に関する知識をも獲得している。ここにある永遠に瞑想する彫像の傍らにいると、より高められた仕方においてではあるが、人の注意は絶えず人体へと引きつけられる。我々の医学的-外科的な解剖学はその各部分を知ることのみに関心があるので、その目的にとっては、情けない筋肉でも役に立つ。ところが、ローマでは、その各部分は、それらが高貴で美しい形態の一部でもあるということでない限り、何の意味も成さない。サン・スピリートの偉大な病院では、芸術家のために、非常に美しい筋肉組織のモデルが、人をその美しさへの称賛で満たすような仕方で、設置されている。それは皮を剥がれた半神半人、マルシャスでも通るだろう。ここでの習慣は、古代の習慣に従って、人為的にアレンジされた骨の塊としてではなく、それに生命と動きを与える靭帯とともに骨格を研究するということなのだ。」。
注:顎間骨(がっかんこつ)または切歯骨。上顎骨の前部を占める一対の骨で,間顎骨または顎間骨ともいう。「人間では発生の初期に狭義の上顎骨と合着してしまう」が,一般に哺乳類ではよく発達し,終生,独立の骨として存在する。現代ではそれほど神秘的なものではなくなった。

    (第3章了)

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最終更新日  2024年05月26日 06時10分07秒
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