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今は、家の近くであるが、隣の駅の少し南に「カウボーイ」というとてもカルトな喫茶店があった。今は、家もなくなりガレージになっているが、知る人ぞ知る、ではなく知る人しか知らない、やる気のない道楽の店であった。私が、初めて、学生の時、訪れた時のインパクトもなかなかであった。やっと探し当てた店は、雨戸が閉まっていた。「あーあ、今日は休みですわなあ」と私が行った瞬間、急に雨戸が空き、浮浪者風体のじいさんが「開いてますよ!」と言った。中に入ると、喫茶と居住が一緒で、「ちょっと布団しまうから待ってな」といい、イソイソと布団をたたみ、「もう夕方ですなあ」と暢気なことをいった。注文は、聞かずとも、コーヒーしかない。それもナベに灯油で沸かすものだから、部屋は灯油臭く、もはや燃えそうな感じだ。壁も茶渋色になり、掃除もしている様子はない。コーヒーカップは、ちゃんと、山岳登山用のアルマイトのカップ。取っ手も、熱伝導でとっても熱い。底はちゃんと剥げており、恐らく通の人はマイカップを持参するに違いない。何時間居てもいいが、客はししっかり誰も来ない。マスターは多分、昔、バンドをしており、その前は翻訳をしていたともいう。しかし、実際は芦屋のボンボンらしい。そういうわけで、「じゃあ、始めるよ」なんか言わず、いきなりギターを構え、カントリーを弾き始める。繰り返すが、前触れはない。弾き終えると、缶ピーをドンと置き、美味そうに吸い、「この前のお客さんがプレゼントしてくれたんですわ」と言って、「あなたは何をくれるの?」と目で訴えかけられた。我々は3人で行ってたのだが、1杯500円のコーヒーで1500円渡すと、「今日の売上はこれだけやなあ」と呟いていた。一応、夜は、酒を置いていたようだが、本人が酒嫌いで、アルコール度数に応じて値段を決めていたようなので、大変高く「よし、これで誰も酒を頼まないだろう」と安心していたようだった。今は、もうない。もしかしたら震災で亡くなったのかもしれない。あったあった話は代わり、最近みた、できた人間は、やはりアテネオリンピックマラソンのブラジルのデリマ選手であろう。あの1位走っていて途中抱き疲れて妨害された選手ね。デリマ「気にしてない、メダルとれて幸せ。結果は気にしない。僕はメダルを取れて満足している。こうして今、この瞬間を味わうことができるのは、厳しいトレーニングの成果だ。トレーニングも順調だったし、メダルを取れると思っていたよ。目標を達成したんだ。何が起こっても、このメダル会見の壇上にいることをうれしく思うよ。」 デリマは3位で競技場に入ってくると両手を広げ、スタンドに向かって投げキッスをした。ゴール直前には飛行機のように手を広げて蛇行しながら走り、笑みを浮かべた。レース後の感想。「私はレースに集中していたし、何もできなかったよ。警備の人々も予期できなかったようだ。レースの途中で止まってしまったことでリズムを失い、元のように走ることはできなかった。だれもが予想しなかったことだろう。重要なのは、私が自分だけではなく、母国のためにメダルを獲得したことだ。今回の五輪の運営は非常にうまくいっていた。今回のような事件は、どこでも起こり得ること。ただ、それがマラソンレースの最中に起こったというだけだ。」この人、スーパーマーケットで働いているらしいね。実業団でなく、アマチュアやねんな。シブイ!おまけにこのスーパーの社長、いい宣伝になったと、デリマ選手に750万円を贈ったらしい。ヨ、太っ腹!
2004.09.30
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遠く県をまたいで 考えてみれば、毎日のように県を越えて通勤したり遊びに出かけたりしている。隣の県(正確には府)には電車で僅か20分で行けるが、反対の県(つまり岡山県)には、概ね90分はかかると予想される。おまけに、岡山県には今まで数える程度にしか行ったことがない。瀬戸内海側といえば、岡山市、倉敷市、そして今から紹介したい児島湾近くにあると思われる牛窓ぐらいか。 児島湾の干拓は、確かうる覚えであるが、世界銀行か、国際復興基金か何か国際機関からの借入で工事が行われたのではなかったか。昔、日本もそういうところから借りる方の立場だったんだよなあ、今後も分からないよなあ、と思いつつ、岡山市より、より兵庫県側にある牛窓に到着する。 キャッチフレーズがよくいったもので、ちゃっちゃちゃっちゃ言うわ言うわの「日本のエーゲ海」 しかしここでずっこけてはいけない。仮にも瀬戸内海国立公園内なのである、歴史博物館のようなものもあるのである、それも1階しかなく急いで周れば3分で回れるような展示スペースでもしっかり金を取るのである。ただし、説明してくれるおばちゃんは一生懸命でとても好感が持てて、思わず、がんばれおばちゃんちゃちゃチャと応援したくなる。 やはり、景色のいいところで海の幸をつつくという希望は当然あるのだが、それを満たしてくれるところがよく分からない状態である。山際にはリゾートペンションや別荘群があるのだが、行ってみれば、まだまだ区画された空き地、荒地が多く、ある区画では購入者か誰かがその区画の草刈をしていた。「上の方はもっと安いみたいで。ここで坪9万円やからなあ」そういう話し声が聞こえてきた。 意味も無く、原付で、どこまーでもいこうーと言って急に西に原付を走らせてみたが、この辺りでギブアップ。適当な場所に原付を置いて、後は普通電車で岡山に向かった。 岡山では何をしたか良く覚えていないが、後楽園に行って、芝生に寝転んで数時間で本を1冊読んだのを覚えている、それも小田実。 倉敷にも行った。美観地区をずっとミカン地区と思っていた。倉敷では何をしたか良く覚えていないが、大原美術館に行って、ムンクの「マドンナ」のポスターを5枚同じ物を買ったのを覚えている。部屋に5枚並べて天井に貼ったら、さすがにちょっと気色悪かった。 今思い出したが、どこかで岡山大学の男と知り合った。岡山大学は岡山地区では岡山の東大であり、何か偉そうでかなり横柄な奴であった。カッペめ!と私に思われているのも気が付かないようであった。地方の一番の大学は、エライんだろうか。
2004.09.29
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自宅前にて時給0円。交通量調査。ネパール人男0人。ネパール人女0人。子供0人。タクシー36台。人間男14人。人間女8人。別途ツタヤに入った男10人、別途ツタヤに入った女5人。日本車19台。自転車7台内1台二人乗り。単車9台内1台こける。西洋人等の外国人男0人。西洋人等の外国人女0人。牛0匹。犬0匹散歩も見当たらず。リーマン8人(ネクタイ付)。アベック3組、男ベック2組。携帯電話中5人。外車5台。ヤンキー仕様の車2台。じいさん1人。カンコーヒー飲みながら歩く男1人。女性中年団体さん10人内一人百貫。自転車に乗ってきてゲタ履いたツタヤに入っていったじいさん1人。半ズボン男3人。怪しい調査員約1人。
2004.09.28
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ネパール第2の都市ポカラのメインストリートに面するレストラン(照明は蝋燭)時給0円。交通量調査。ネパール人男34人。ネパール人女3人。ネパール人子供13人。車4台。自転車7台。単車0台。西洋人等の外国人男27人。西洋人等の外国人女18人。牛0匹。犬2匹。日本人2人。喧嘩してる人一組。歌っている人1人。以上。
2004.09.27
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時間があったので、ドアツドアで20分の距離にある映画館(シネマコンプレックス)へ急遽行くことにした。行く時は大抵急遽であるが、できるだけ深夜料金の効く21時台からのものを見るよう心掛けている。今夜も心掛けることにして、綺麗な満月の元、満月で照らされる秋の雲を感じながら、時速80キロ出せるところは遠慮なく出し、駐車場はアメリカ人よろしくエレベーター(以下EVと略す)にできるだけ近い所に駐車したのだが、EVを一人で待つのは、結構、何故か恥ずかしかったりする。待つ人の合計は奇数。EV前の踊り場にはだんだん人が集まってきて、明らかに、既に映画館しか空いていないので全員が映画を見る目的で待っていて、何となくワクワク感が伝わってくる。勿論、中心は学生か20代前半のカップルなのであるが、子供が寝静まっておばあちゃんにちょっと見ててもらってやってきましたという風情のヤング夫婦や、子育て終了仕事も定年で終了といったオールド夫婦も交じっており、更に時折、ヤング女ベックもいる。EVを降りてから更に気がついたが、生きていてもハナクソ程度にもならない私のような一人ベックが数人。それで全部である。ポップコーンも割とバリバリ音がシテ五月蝿いのは重々承知の上であったが、夕飯は特製普通のペペロンチーノ、目に唐辛子入り入り(はいりいり)だけだったので、小腹もすいていたという理由をつけて購入。飲み物は、映画館初めての試みカルピス。映画を見始めてから、ストローで飲んだら、カルピスであった。「これカルピスやんけ。アイスコーヒー頼んだと思っていた」と少しアルツハイマー入っていたことはトップシークレットである。カルピスとは梵語でのありがたい言葉が語源となっており、一歩間違えればカウピス(牛の小便)になる危険性を孕んだ飲み物である。ニューヨークのある日の映画館でのポップコーンは巨大であり、90分の映画上映中の98%の時間、口を動かしていた。しかし今日は20分程度でなくなったような気がする。映画は無事終了した。昼間であれば、エンディング、全ての画面が終わるまで座っている人も多数だが、23時50分では、出演者や監督のテロップが流れ出すと同時に席を立つ人が多く、私も、何となくつられて席を立った。私は、割と、目の前から画面のワクが消えて首が痛くなる程の前の席から見るのも結構好きで、私につられて席を立ったカップルはおおよそ20万人ぐらいかと思う。また地下駐車場から出てくる車は一時的にラッシュとなり、夜中の料金所チョトした渋滞という時間を過ごす。なつかしいねコリオリの力
2004.09.26
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いけない、唐辛子を持った手で、目を掻いてしまった。 苦しい。目が燃える。今年は台風が多く、街路樹が塩害で、冬に近い枯葉状態の形相を呈している。 20歳だった頃、ある日、横浜駅前の喫茶店でお茶を飲みながら、パスポートを取り出して、何やら確認していた。そこに背後からまさしく背後霊のように顔を覗き込んだのが、その喫茶店で働くおばちゃんであった。「あんた外国行くんですか?私の息子もアメリカに行ってますけど」「はあ、ちょっとアジアの方へ」「何故、アメリカやヨーロッパに行かないのですか?」その返事は何とも面倒だったし、何やら意味不明のことを答えたとおもう。おばさんは、しっかりと、はやとちりして答えた。「そうですか、もう先進国には学ぶものがない!」いや、そんあことは全然言ってないんですけど、面倒だからまあいいか。「はい」偏屈な熱狂者だったのだろう。遊びに行くのであるから、思想信条は副次的なものだよ。 21歳だった頃、ある日、成田空港で知り合った、これからインドへいくという東大生とお茶を飲んだ。「何かを、何かを学びたいんですよ」彼は控えめに、しかし焦りを隠すことはなかった。マニラに日本レストランがあって、着物を着たフィリピン人が注文を取りにきた。メニューを見ながら、彼女をちらりと見ると、有線に合わせて踊っていた。経済ゼミの先生が「わははは、フィリピンはアジア最高のミュージシャンですわ」と経済と関係ない話をしていたことを思い出した。印象的であった。セブシティのYMCAに電話があった。廊下に設置されていた電話であった。「ハーイ、昨日ビアホールで出会ったボーカリストのジョイです。今から行きます」そういったが、いくら待っても彼は来なかった。隣の島ボホールのチョコレートヒルに行きたかったのに。セブシティからフェリーが1日2便しかない。タイのバンコク南部のペチャブリという田舎町のバスステーションで唯一英語の話すジュース売りの兄ちゃんが言った。「黄身のバス代は10バーツだよ。しかし君の自転車搭載代も10バーツだよ、理解できるかい?」一応、理解できる。しかし、田舎町でそれもジュース売りの君だけが流暢な英語を喋るのは理解できない。
2004.09.25
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歴史において、99.9%の種は滅亡した。1キロの牛肉を作るのに7キロの飼料がいる。アメリカ人もオーストラリア人も年間100キロの肉を食い、インド人は年間1キロの肉を食う。世界中が、マクドナルドで埋め尽くされたなら、すぐに食糧危機がやってくる。モホロビチッチ不連続面(モホ面)というのがあった。高校時代に初めて聞いてから20年振りに思い出した。いや、正確には2,3年前にも思い出している。モホロビチッチ不連続面とは地殻とマントルの境界面で、本来地震波は到達する距離と時間が比例するはずなのですが、ある特定の距離を超えると予想していた時間より早く到達するとモホロビチッチという学者が発見したからであるが、そんなことはどうでもよくて名前にインパクトがあった。略のモホ面も、ホモ関連よりインパクトを残してはいるが、何故ぐちゃぐちゃにちびったホモの姿を想像してしまうのであろうか。もう時効だから告白するが、昨日、古本屋を覗いたら文庫本どれでもこの3日間オール105円祭をやっていて、急いで買った28冊。今朝、朝の出かけに上の2冊をとって鞄に入れて、電車で読み始めると前にも読んだ持ってた本であったので、急いでもい1冊に切り替えたら、それもしっかり読んだ後の祭。夢、ゆめのあと。
2004.09.24
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妹の婚約者である現在来日中のイギリス人J君120キロ190センチが、すい臓の調子が悪くなり、緊急入院したため、私も、緊急見舞に行くことにした。病院は緊急病院で、かつて、私の中学生時代の友達がバイク転倒事故で入院していた病院で、その彼は、この事故で入院する半年前にもバイク転倒事故を起こし入院していたという実績を持っていた。そういう彼も、その後、懲りずに当時400CC以上の限定解除は自動車学校では免許を取得することができなかった時代に、警察で実地テストを受け見事数回で合格し、750CC,そして1200CCと更にバイク人生を謳歌していったのであるが、今は立派に更正し、80CCぐらいのスクーターに乗っている。(多少時期的なものは曖昧であるが概ね、彼のバイク人生はそういうものだった)しかしながら、よく考えれば、中学生時代の友達の話ではなく、J君の話であった。見舞い品貢物としての日本庭園写真集を急遽入手(購入)し、それもサービス精神旺盛に2冊も奮発して、颯爽と病院に向かった。彼は、既に入院して3日目ということで、本日初めて飯を食わせてもらったらしく、明日には退院し、月曜からは京都に行くのだと息巻いていた。私の差し出した京都のお寺の庭を見て更に行く気満々となり、それにしても院内感染が心配だとこぼしていた。イギリスではもっと清潔であり、登録さえすれば医療代は無料なのだが、とも愚痴をこぼしていた。私は日本人代表として、明日彼が退院できること、院内感染しないこと、できるだけ治療費をまけてくれることの3点を祈った。彼は、日本びいきであり、彼の家には何故か鎧が3体も展示されてあり、彼の家に遊びにくる友達は皆、びびり、退散していくそうである。ラストサムライは3000回ぐらい見たと豪語していたが、私の考えによると多分3回であろう。それでも、彼は姫路の書写山の撮影現場に足を運んでエクセレントを連発していた。まあ、そこそこに切り上げて、帰ろうとするが、どうも鎧のことが頭にひっかかって仕方なかった。どこかあのおどろおどろしいヨロイにトラウマがあるのだろうかと自問自答したところ、小学校4年生のときの広島からの帰りともう一回どこかからの帰りに、赤穂市辺りの国道2号線沿いにあった、鎧を飾ったドライブインのことを思い出した。「あいつだ!」と急遽20数年ぶりに思い出した私は、車の方向を180度転換し、おそらく50キロ程さきにあるのではないかと予想されるその店に行ってみることにした。まだ、あった。きっと不思議スペースとしてホームページもあるはずだと思えばやっぱりあった。こことか、こことかで発見。たしか、小学校4年の時には、子供心に不気味な鎧も展示されてあったのであるが、そのほかにも、象牙も販売されており、その後すぐに仕入れた、象牙は輸入販売禁止という知識を本で得て、「ではあの店は何だったんだろう」とも思っていたことを思い出した。いずれにせよ、鎧の呪縛からついに解放されたようである。あと、鎧が怖いもうひとつの原因は、漫画妖怪人間ベムで、(多分)大英博物館の鎧が夜中に動き出したという恐ろしい記憶かもしれない。早く人間になりたい。妖怪人間ベロベロベ
2004.09.23
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やがて涼しい季節に入り総になっては、また鰤返し、夜、外に出れば、外の方が涼しく、少し意味無し散歩と洒落込み、しかし、全然洒落者ではなく、翌見ると、室内要Tシャツの図案がHONGKONGになっており、一帯全体誰からのプレゼントかも忘れたが、俗物根性丸出しTシャツで、欲見ると、ジャンボレストランとか寛とか何とか香港名所がプリントされている。一隊全体何年着ているんだか。「クジラ島の少女」というマオリ族素人少女俳優主演の映画と、「殺人の追憶」という実際に80年代に起こった未解決連続殺人事件を扱った映画を見た。http://www.herald-arthouse.com/kujira/http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD4617/見てる間に朝の5時半になった。会社なのにどないしてくれる年と、自分に文句を言って寝た。教訓を得た。零時10分前に、当日でDVDを2枚も借りない事。確かに、幼稚園の砂場では習わなかったが。父も、教えてくれなかった。というより、ビデオの操作方法を父に教えたのは私であり、覚えなかったのは父である。そんな訳で、今まで、父親が自分で操作してビデオを見ているのを黙劇舌ことは無い。ややもすると、すぐパチンコに逃げている。早く覚えればいいのに・・・しかし渋いことに未だラジヲ派の無頼派でもあることは確かだ。が、既に朝は到来、生活臭さの似合わない私であるが、今日はビンカンを出してもいい日なので、敏感を出して出たが、このアルコール量を見て、私の財布は泣いていた。財布を苛めてはいけないということを悟った。性格にいうと財布の中身を苛めてはいけないということだった。確か、幼稚園の滑り台でもそんなことは学んだ覚えもない。当然、母も、教えてはくれなかった。というより、母にお金の使い方を教えたのは私であり、それでも散財したのは母である。正確にいうと、母と私を入れ替えると尚正確である。もう時効なのでいってしまうが、幼稚園では、私の教室(あやめぐみ)の横はトイレであり、トイレ男子用便器にウンチがべったりついていた事件があり、トイレを出阿多と頃にニコヤカな子供が(同級生)ブランコをこいでいた。そのよこのブランコには白いブリーフがブランコをこいでいた。精確に言うと、白に、少し茶色が混じっておった。あやめぐみ全員に目撃された彼は、未だ、尚、ニコヤカであった。今考えると、有閑な奴であった。
2004.09.22
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日本へ帰るという朝、六時。最後に活発な朝の営みをもう一度、と道端に座り続けている。寒くて腰巻を体に巻きつけている。ちょうど、隣に台車を転がしてきたみかん屋が止まった。ここで営業するつもりらしい。早速おっちゃんにお金を渡す。朝一番の客におっちゃんは仰々しくお金を頭の上に挙げて目礼した。今日も一日やるぞ、という意気込みを感じた。目の前を、リキシャー人人人リキシャーオートリキシャー牛人人人。 犬二匹が喧嘩をおっ始めた。そこをゆっくり歩いていた牛が、突如犬目掛けて走りだし、喧嘩を止めさせた。犬の喧嘩の仲裁をしたことより、インドの牛が走ったことに驚く。 目の前にポンプがあり、人々が水を汲みに来る。そのおじさんもそういった人々のひとりであった。バケツに水を汲み、脇に置いて、もうひとつのバケツにポンピングして水を入れている間に、密かに牛が忍び寄り、ごくごく置いてあったバケツの水を飲んでしまい、しなやかに素知らぬ顔をして歩いていってしまった。そのおじさんが振り向いて、あれっという顔をして私を見る。漫画の世界か。 インドでもある薬用成分のある棒を歯ブラシに使う。次に来たおじさんは、得意そうに私を見ながら、にやけながら歯を磨いていたのだが、歯磨きに集中していなかったのか、棒を喉奥に突っ込み過ぎた。オエー。彼は吐いた。君はコメディアンか。感傷的観賞であった。 寒いのは続くので、暖かいティーを飲むことにして近くの掘立て小屋に行く。朝から数人座ることのできる店は繁盛している。そこに乞食かクーリー(苦力)か、無茶苦茶汚れた服を着た、垢か地か分からない真っ黒な顔をした男が、本当に大事そうに一杯のチャイを啜っている。ゆっくりゆっくりと。彼は、飲み干すと、汚れた小さな財布を出した。一ルピー硬貨が五、六枚見える。もし、これが彼の全財産なら、何てダンディな奴なんだ。彼は、一ルピーを渡して、雑踏の中へ消えて行った。
2004.09.21
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その日のデリー その1早朝、外に出ると暑い季節独特の一時的な涼しさを感じる。実は明日の予定はあっても今日の予定はない。もう一眠りできそうだ。昼過ぎ。意味のない散歩がてら、カレーを食べることにする。英語で書いたメニューが一つしかなく、気を遣ってくれた支給係が壁に掛かっているそれを外して持ってきてくれた。突然、私は二年前にもここに来たことがあるぞ、と思い出した。支給の顔を凄い勢いで振り返った。彼はすかさずウインクをした。彼は「君のことは覚えているとも」という顔をした。私はメニュー表のことしか覚えてなかったというのに。切っていないジャガイモが一個と豆がポツポツ入っているカレーを頼む。爪の中が黒くなっているのは、敢えて無視して、攻撃的に手で食べる。手も味わっているかのように。自分の手だけが他人と共用できない。口に入れる箸や匙を共用しないことが、徹底した身分制度であり、習慣なのであろうか。五ルピー。マンゴーシェイク大を別の店で注文。機械的に一気に、体内に入っていく。この氷で腹をこわさないかという緊張感がたまらない。まとわりつく蝿五匹が、体を這いずり回ってこそばい。五ルピー。かつて友人がオカマにじゃれ付かれたホテルの前を通り過ぎ、やがて商店はなくなり、民家脇を通り過ぎる。雲行きが怪しくなってきたので、急いで引き返す。珍しく、涼しい風が幾度か体をよぎって行く。察知した店主たちは、先程ののんびりさを捨て、道に出た商品を仕舞うなり畳むなりし始めていた。ある青年から青ボールペンを買った。ニルピー。ある子供からバンダナを買った。三ルピー。こういった気取らない買い物が何か嬉しい。「ハロー、ティー?」と青年に呼びかけられる。凛々しい顔つきが気に入って、入ってしまう。ゆっくりチャイを飲む時間をインドから中近東を経て北アフリカまで、何億という人々が飲んで暮らしているのだな、今は私もそのひとりなのだなと考えると連帯感を感じる。雨はドカンと降ってきた。窓のないホテルに戻ると。首都というのに、、毎日恒例の停電となる。窓のない部屋や廊下は闇に包まれる。都会でさえ、階段で膝を打つ程の濃い闇を失っていない。明日はパキスタンをめざす。
2004.09.20
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普段は肉は一人では食べないのであるが、1000円割引券があったため、思わず豚カツ屋に入ってしまった。不覚にも、ご飯(小茶碗)味噌汁(蜆入り)野菜(千切りキャベツ)がお代わり自由で、お代わりする必要もないのに、頼んでしまった。 大学時代、学校にはいろんな店が入っていたのであるが、その中でも一流の店「肉の三田屋」が入っていた。驚愕すべきことに、大学1年の時は、ステーキが630円ご飯サラダお代わり自由(ちなみにコープランチ300円)という世間から見て破格の安値であり、ピンポーカクセイにとっては高値の鼻であった。おまけに大学1年といえば、滅多にこういう場所には同級生と行くことはなく、専らシェン輩に驕ってもらうというのが余の常であった。コラア。必ず、食いすぎで気分が悪くなるのがこの三田屋であった。同輩同志来るといえば、何か顰蹙なことをしでかしたときのみで、プンプン怒りながら「そりゃ、サンダヤ、イッキじゃあ!」といって肉屋に直行するのであった。他の学食が昼間で賑わって、席の糞脱線を展開している間にも、この店だけは優雅な時が流れ、例え、12時5分に店に入っても十分に座ることができるという豪華さと値段を兼ね備えていた。何せ630円である。またそのため、配膳も結構暇で、学校の戦略的取り計らいの一環として、障害者の人々の雇用を創生していた。しかしその三田屋も当時の円高好景気に便乗して、2年、3年となるごとに順調に値上げを敢行し、ついには800円台にまで上昇してしまった。そして、学生会館内というのに、学生にはもはや手の届かない金額にまでいってしまった、かというとそうではなく、実際私も体験済みなのであるが、大学1年は時給600円は普通だったのに、昭和最後の大幸景気のあおりを受けて、大学5年では時給1,200円以下では働かなくなってしまっていた。よって、この肉屋も価格を便乗値上げしようが、学生の時給経済力が着いて行き、益々繁盛するという異常事態が発生していた。多分、一時的に起こる正のエントロピーのようなものであろう。しかし、ウエイターウエイトレス職も忙しくなってしまったためか、大学4年の頃には健常者がアルバイトをしていた。
2004.09.19
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今日は、25年ぶりにファンタオレンジを飲んだ。ちなみにスプライトは最近も飲んだ。最後に飲んでからまだ10年程度しかなっていないような気がする。それでも、世界のコカコーラである、私ひとりいなくても十分やっていける。確か、世界で一番進出国が多い多国籍企業ではなかっただろうか。このネットワークを利用して、麻薬ルートが確立されているという噂もあるほどだ。そういえば、自動販売機はネットワーク或いはシステムである。かつて、一番売れていた缶コーヒーは、我が神戸が誇ると思われる企業、上島珈琲であった。略してUCCだ。しかし、今は、違う。ジョージアだ。はっきしいってコーヒーに美味いまずいは多少はあるが、缶コーヒーに偏見を持つわけだが、そんなにメーカーによって味が変わるわけではない。用は、何をジョージアはしたかというと、コカコーラと提携しただけである。コカコーラは、日本で一番自動販売機を持っている企業だ。その端っこにジョージアのコーヒーを入れることに成功したのである。あとはシステムによって流れる。瞬く間にジョージアの缶コーヒーシェアはいっちまった。世の中、なんだかなあ、なのである。
2004.09.18
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結局、2週間程休んでないので、朝、遅刻しそうになった。靴下がもうなかったのだ。 黒い背広に灰色の靴下を履くわけにはいかず、肌色の裸足に革靴を履き、途中のコンビニにて靴下を購入。 余は満足じゃ、といった瞬間に、ネクタイを忘れていた。ついでにベルトも。
2004.09.17
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気分悪く会社に行って今日こそは早く帰るぞ、と勇んだが、トラブル発生で、結局、またタクシーで帰った。ひるめしhttp://r.gnavi.co.jp/k040700/menu1.htm
2004.09.16
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今度、北京に行くので、北京に住んでいたことのある野郎と飲みに行ったが、電車がなくなり、こうなったらテッテテキに飲んで、結局、北京のことを聞くのを忘れていた。
2004.09.15
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残念ながら、昨晩より固形物を食べていない。24時間たってしまった。昼過ぎに小腹が空いたところまでは空腹の記憶があるのだが、先程、気がついた。急いで、冷凍ビビンバ焼き飯をフライパンにかけて食った。が、何故、そのような冷凍食品が入っていたか不明であった。そういえば、長年の下らぬ夢の一つ、アメリカ合州国に行けば、TVディナーを食べてみたいと思ったことを、早速はじめてのアメリカで実験してみた。分らないが、どうも売り場の片隅に置かれているようで、皆楽しくグルメチックなTVディナーを想像していたのであるが、何だかイマイチチックであった。味も、忘れた。私は、パキスタンでガンダーラ仏教美術品や仏像を見学したことがあるが、なかなかよく保存はしようとはしているのであろうが、やはり、少し杜撰に見える。しかしながら、考えれば、現在はイスラムの国であった。旅行者の目当てはガンダーラ美術であったりなんかして、それは現在の宗教とは違う。どんな心境なんだろうか。そういえば、私は、思春期の頃も、米は一膳であった。20代は、食べるのを美徳としなかったりなんかして気取ってみた。しかしながら女性は、食べる姿を見て安心される方も多いのかも知れない。「もっと食え」「いつまで食べてるの」「ゆっくり食べなさい」「イヤなら食べるな」「肉を食べなさい」「茶碗をもて」まあそうやって親は脅し、すかし、再三再四言い聞かされてきた気がする。
2004.09.14
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人工衛星を見上げる。宇宙からの交信と、交信が終了した時にプチッと切れる電子音が、耳の中にイヤホンをつけているように直接入ってくる。 おおよそ、1メートル程度の擁壁から落ち、熱を出した。寝込んでいる横に薄汚れたデンデン太鼓が置いてある。 新築建築中の家の間で、見上げている。 タクシーが通り過ぎ、足の甲をタイヤが踏んでいったと言って子供が泣いていた。 すぐ横の山の、樫の木の麓にあった棒に手紙が入っていた。さよならの言葉が書き記されていた。ペットの墓だった。 その日、妹が生まれた。妊娠中の母の思い出や姿は全く覚えがないが、病院の前で、車に乗って待っていた。何を待っていたのか分らない。父が隣に居たかも分らない。 足が痛くなり、不機嫌になり、ダダをこね、子供用カートに乗せてもらった。「3歳にもなって。これは赤ちゃんをのせるものよ」と母に文句を言われた。万博で。しかし、これはそのような写真があるので、勝手に記憶を作り上げているのかも知れない。 其の辺りが3歳の頃の記憶だ。
2004.09.13
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その従弟が結婚突然するといいだしたのとは関係あるのかないのか、ハラマキの似合うその伯父のことを思い出していた。怒涛のごとく、其の年の冬。冬の雨。寝ぼけ顔。死。門出。待ちぼうけ。18時45分、仕事を切り上げ、外に出る。18時45分、そのとき、母の兄、他界。 寒いのはまだいい。冬の雨は冷たい。人もまばらな駅で、先程買った温かいミルクティーをチビチビ飲んでいたら、コートの外の空気が冷たく感じて、意味なく死にたくなった。 危篤状態の伯父が死んだ瞬間、私は、何かを感じ、其の瞬間が分るものだと思っていた。しかし、その時がきたときには何も分らなかった。虫の知らせはなかった。 通夜に相応しい程の寒さであった。人は小さかった。火葬場では、丁寧で、事務的な従業員が火葬部屋に送ってゆく。状況が人に涙を誘う。焼けば、人は小さくなる。ただの抜け殻になるのかも知れないが、その肉体を50年間使い続けた。酷使した遺品を焼いた。葬式の翌日、結婚式であった。結婚式の翌日は、留学する奴の空港送り出し。其の翌日も海外に職探しに行ってしまう奴の見送り。もう好きにしてくれ、ミディアムで。
2004.09.12
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25年ぶりぐらいに「スコール」を飲んだ。頭の中に「愛のスコオール」と歌うCMと金髪女性が水滴のばっちしついたスコール瓶をラッパ飲みするシーンを思い出していた。 白人信仰が今以上にあった時代であったなあ。そういえば、ゴルゴ13も初期作品の頃は、やたら白人女性をいてこまして?東洋人コンプレックスを克服しようと躍起になっていたような気がするなあ。 味覚とは不思議なもので、この炭酸カルピスのような飲み物、25年ぶりぐらいに飲んでも、味を覚えていた。まるで鉄棒で逆上がりをした気分になった。 ある日、バンコクで、スコールにあった。なかなか凄いスコールで水はけのわるい道路は水浸しになり、車が通り、水が飛び、思い切りびしょ濡れになった。「こうなったら(何がこうなったかは不明)いっちょ、濡れまくるか」といい傘もささずに、歩く。宿に着く頃にスコールは止み、気がついたときには、腰に巻いていた貴重品袋もしっかり濡れており、濡れたパスポートと500バーツ23枚をゆっくり破れないようにはがして、ベッドに並べて乾かしたのでありました。
2004.09.11
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人を何故殺してはいけないかというのが、神戸のサカキバラ事件の頃はやって、大学入試にでたりしていた。私の思うに、殺されたくないから殺さない(自分がされたらイヤだなと思うことは、人にしない)ということであり、やり直しがきかない(とりかえしがつかない)ということであろう。 デモなんだろうなあ、そんな命題がでてくるなんて虫けらから他者まで、生物はどこかでるながっている、人は生きらされているんだなあという感覚はなくなってしまったのだろうかなあ。http://www.goisu.net/cgi-bin/uranai/uranai.cgi?menu=d007ボストーク(征服)号で、全人類初めて宇宙飛行したガガーリンは飛行機事故で死んでいた。チンギスハンは落馬で死んだ。アラビアのロレンスはイギリスの隠遁生活中オートバイでこけて死んだ。アレキサンダー大王はワインの飲みすぎ2日酔いの不摂生で風邪をこじらせて死んだ。活版印刷機を発明して人類史を変えたグーテンベルクは借金のかたにその機械を取り上げられた。
2004.09.10
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大赤字の関西空港10周年。いつくたばっちまうのだろうか。 その年の冬、私は、既に関西空港のイミグレーションを通過した。出発までまだ時間もあり、一人、意味なく立っていた。そこに私を呼ぶ人が。「あんた、こんなとこで何しとん?」母であった。これからアラスカ経由でカナディアンロッキーに行くという。あんたはどこいくんやと聞かれる。こちら同行する友達やといわれて、意味なく記念撮影させられる。これから機内食が控えているというのに、コンビニ弁当とコンビニおにぎりを買ってきて、早く食えという。もう俺、行くからとイソイソゲートに向かった。 最近、大物ロックミュージシャンの高年齢化が問題になっているという。まだまだドル箱スターはローリングストーンズ等であり、のきなみ50歳以上(ミック61歳)。昔のドラッグアンドアルコールはどうもなりを潜め、豆乳にヨガ、それに体調不良によるコンサートキャンセルに備えた保険が大流行だ。酒の量と麻薬の使用が問題なのではなく、睡眠時間とコレステロール値が問題になっているという。ガンバレ。
2004.09.09
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女性には幸せ恐怖症なるものがある方が多いのかも知れない。不幸だった母は、自分より幸福になりそうな娘を許せない。娘の人生は、自分の不幸な人生の幸せの6割程度で抑えたい。娘は不機嫌な母を見て、幸せにならないことを選んでしまう。自己規制を始める。母親は自分の人生より格段に不幸な娘を見て初めて手を差し伸べる。しかし娘は、幸せ恐怖症を幼児期に体験しており、もう母が他界しようが、母親の不機嫌な幻影に悩まされ、幸せになれない。 そこで、そこには、B級男が入り込む隙間が出てくる。西南戦争西郷隆盛海外逃亡説大塩平八郎ヨーロッパ逃亡説壇ノ浦入水の安徳天皇硫黄島逃亡説豊臣秀頼薩摩逃亡説明智光秀、家康のブレーン天海和尚なりすまし説在原業平天竺(インド)移動説源為朝琉球王朝開祖説キリスト来日説楊貴妃来日説始皇帝の部下、除福不老不死の薬求め来日後、神武天皇説とかまあ、いろいろあるが、戦争中に軍部が考え出した源義経=チンギスハン説というのがあるが、それをモンゴル人に話したところ、ウムと頷き、「世界中にその国の英雄が後にチンギスハン(テムジン)になったという出鱈目な伝説がある、それほど彼は有名で偉大だった。世界史上、最も広い領土を有した国だったのだから」と言われた。さすがである。
2004.09.08
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今更言っても仕方ないのであるが、私は、滅法、地震には涙腺が弱い。災害特有の現象である「何故、いっぱいの人々が死んで、役にたたない私が生き残っている、申し訳ございません」症候群にも、人並みには陥った。130万人の人口で5、6千人が死んだということは2、300人に一人は死んでしまった計算であり、何故その中に自分がいなかったのかに悩んでいたりなんかもする。 先日も2回、今日も地震があった。その揺れている時間、長すぎる。今更言っても仕方ないのであるが、私は、滅法、台風には涙腺が弱くはない。暢気なもので、風に吹き飛ばされそうになりながら、やけに涼しいな、体が気持ち前向きになっても倒れなくておもろいな、等と失敬なことを思ってしまうのであった。家に帰ろうとすると、しっかり電車が止まっていた。(遅れてもいた)台風に備えて(実は備えなくても)先日のうちに古本を13冊買っておいたが、台風は既に関東にいってしまったようだ。最近、グングン隆起してきたことや、測量技術の発達で、チョモランマ(エベレスト)よりも世界第2位のK2のほうが高いということになるらしい。K2(カラコルム2)、パキスタンの最高峰であるが、この山頂部分をシルエットにしたパキスタン煙草の銘柄がある。シブイパッケージ。 しかし、だまされてはならない。あれは鏡に映った姿、反対向きなのだ。まあ、いいか。しかし、考えれば、人は、自分のことを、反対からしか見ることができない。ま、いっか。ところで、昨晩飲んだ、いとこたち、いつ結婚するんだったんだろうか。忘れた。
2004.09.07
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何を隠そう、夕方に、不思議な携帯メールが入ってきた。不思議なことに、いとこが、結婚することにしたという。1度として、かつての彼女も見たことのなかった私は、ゲエエと一応言葉にならない声を発した。 今夜は、エンゲージリングっていううのかな、買って帰ってちょと飲んでいるというので、見に行った。 まあ、飲んだ。見栄を張っておごった。帰りのタクシーの中で個人タクシーのおっちゃんは、自分の今日の成績を見せて憤慨していた。また個人になるムツカシさも強調していた。11時からはたらきはじめて5回までが1000円以内、一回だけ4000円、夜中の2時、ついに私で1万円の水揚げを超えるという。 長い長い彼の物語であった。従弟のことは忘れてしまった。美男子薄情かな。
2004.09.06
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今日は、イラン映画を借りてきた。今まで、キアロシタミ監督やマジッドマジディ監督などで数作みたが、ハズレはない。http://www.doujidaisya.co.jp/i2.html一言で言ってしまえば、素朴なんだが、何だかそれが、懐かしくて、得に子供が主人公の映画は子供の行動の不条理さにやたら同調してしまう。 そうそう、今でもそうだが、子供の頃は、訳の分らない無意味な行動がいっぱいあり、不安で焦ったり、緊張で倒れそうになったものだったということを思い出させてくれる一種のノスタルジーみたいなものがあるのだろうか。 チャップリンって54歳の時18歳の娘と4度目の結婚をして、75歳のときに8人目の子供をもうけた。そういう凄さに思うのは、経済力だなあ、って最近思う。 もう一本映画をみようとしたら、前に観た映画だった。本日の妹とのメールの会話。「カメラのレンズ貸して」「いつ」「今度会う時」「それロンドン持って帰るん?」「日本だけ」「20年前のニコンや」ちなみに、私のカメラのフラッシュの電池入れる上ブタは、プラハの溝に落ちてます。帰国してからそれだけ特注しました。多分1500円ぐらいでした。
2004.09.05
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ベスラン(ロシア・北オセチヤ共和国)ではドえらいことになっている。かつて友人がモスクワ大学に留学した。ロシアといえば、ウオトカであるが、マイナス30度の中にベロベロに酔っ払っていてもシラフに戻ると聞いていた。 彼に連絡を取り、聞いた。「今度フィンランドに行くのだが、どうもマイナス30度は下回るようだ。どのような服を着ていけばいいのだろうか。ところでやっぱ酒に酔って調子こいて凍死する人いるの?」「おるおる、いっぱいおる」当時、八王子に長期出張で住んでいた私は、米軍基地のある福生と、上野のアメ横に出かけた。アメ横で、おっさんに巧みに説明され、高度1万メートルでも十分対応できる米軍の引き下げ品上着を購入。腕を通しても、キョウツケはできない。ごわごわで手が30度ぐらい腋から離れてしまう。それから髪の毛が凍るので帽子と、当時は画期的に高かった(まだユニクロがなかった)フリースを追加購入。「よし、これで準備万端だ」と私はいい、東京本社には「大阪に年末帰ります」といい、大阪本社には「今年は帰りません」といい、成田空港に向かった。 さすがに北極圏ではマイナス30度を下回り、私は、さっそく現地の人々に質問した。「やっぱ酒に酔って調子こいて凍死する人いるの?」「おるおる、いっぱいおる」オーロラ見学会は中止にした。7日間連続酔っ払いになったため、7日間連続オーロラ会は中止になり、8日目にヘルシンキに戻った。
2004.09.04
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背広の上着を着ることなく1日中持って歩いていただけだ。この背広、良く見ると、内側に仕込んでいた万年筆のインクが漏れたようで、表までも黒い染みがついている。 もうそれで背広は終わりなのか。この背広は、急いで買った。今はもうほとんど聞かれないブランドであるが、何せ、デパートの紳士売場のフロアにエスカレーターで降り立った所にあった店に過ぎなかった。 一番最初に手にとった背広に決め、これぞインスピレーションかと思った。それよりも急いでいた、が、何故急いでいたかは分らないが、飲みに出かけたのは確実であった。 ベスラン(ロシア・北オセチヤ共和国)ではえらいことになっている。かつて友人がモスクワ大学に留学した。ああいうところは、共産圏だったこともあり、アフリカ諸国の大臣の息子や共産圏諸国のノーメンクラツーラの息子達が集まっており、庶民の彼はむしろ異色(普通の人と言う「意味で」)だったという。 そんな中で、異色を放っていた留学生の集団があった。北朝鮮からの留学生達だ。彼らは他の国の人々との交流をさけていた。障子はないが、どこかに王様の耳や目が光っていたに違いない。 友人は悪いことを思いついた。知り合いの留学生である韓国人を無理やり紹介したのであった。北朝鮮留学生は顔が引きつっていたが、とりあえず、その場はありきたりの差し支えない話を2,3して終わったという。 しかし、夜中、友人は二人が密会しているのを見たという。10年前の話であるが、今ならどうなんだろうか。http://www5a.biglobe.ne.jp/~toppon/handicap.htm
2004.09.03
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浅間山が噴火しており、2時間ぐらい車で離れた所でも音や火山灰が降ってきているという友達確認情報あり。 かつて、何かの拍子に北海道の洞爺湖近くにある昭和新山に行ったことがある。昭和20年ごろに急に畑が割れて、モコモコと盛り上がり、2年で爆発を繰り返し約300メートルも隆起してできた山である。今でも煙モクモク、カラスカーカーである。 2000年に隣の有珠山が爆発したからそれより以前だったと思う。その昭和新山の横に、クマ牧場という、怪しい牧場というより、ヒグマ100頭が堀型の檻に入れられた愛らしい動物園があり、訳の分らない餌を自動販売機で買って投げつけてもよいと言うシステムになっている(奈良の鹿せんべいのようなものか) そいつらが、何とも、和熊と違ってとても凶暴にみえ、脳がかなり足りないように見えた。しかし、餌の時だけは、吠えるだけでなく、手招きをして、「こっち投げろ、こっち投げろ」と哀願する。慈悲の心から、餌を投げると、熊同士が餌の取り合いで壮絶なバトルを展開する。やっぱりどこか脳が足りないようだなという光景であり、体中傷だらけなのは微笑ましかった。ちょっと意味不明の牧場であった。
2004.09.02
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1901年1月2日報知新聞 未来予測1、 海外の友達と無線電話ではなしすることができる。2、 いながらにして遠距離からカラー写真が手に入る。3、 野獣が滅亡する。4、 サハラ砂漠が緑化して、文明がアジアアフリカに移る。5、 7日で世界一周ができるようになる。6、 空中軍艦や空中砲台ができる。7、 蚊やノミが滅亡する。8、 機械で温度を調節した空気を送り出すことができる。9、 電気の力で野菜が成長する。10、写真電話ができるようになる。11、写真電話で買い物ができるようになる。12、電気が燃料となる。13、葉巻型の列車が東京神戸間を2時間半で走る。14、鉄道網が世界中に張られる。15、台風を1ヶ月以上前に予想して、大砲で破壊できる。16、人の身長が平均180センチ以上になる。17、薬が廃止され、電気で無痛で治療できるようになる。18、馬車がなくなり、自転車と自動車が普及する。19、動物と会話できるようになり、犬が人間のお使いをする。20、幼稚園が廃止され、男女とも全員大学にいく。21、琵琶湖で起した電気を国内に輸送する。22、トイモイこの世に生を受ける。
2004.09.01
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