2004/12/23
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テーマ: 社交ダンス(8433)
一年で一番憂うつな日、それは、視力検査の日でした。小学校に入学して初めての身体検査で、視力が0.6だった私は、すぐ眼科に連れていかれ、「逆さまつげ」の手術を受けました。まつげが眼球を射して、視力を低下させていたからです。

その手術の痕が、目の下に残って、誰かに会うたびに、どうしたのかと聞かれました。両親はそれで治ったと思っていたようですが、そうでないことは自分で分かっていました。黒板が見えなかったからです。クラスに一人、メガネの男の子がいて、みんなにからかわれていたので、絶対に眼鏡はいや。目がよく見えないのは、6歳の私の誰にも言えない秘密でした。

そして、2年生の春。その日は朝からとても憂うつ。仲良しのちえちゃんは、ちょっと太っていたので、体重測定がいやだと言っていました。が、わたしの抱えている問題は、そんなこととは比べ物にならないほど、世界で一番深刻でした。

視力検査の順番を待つ間に、前の子達が読んでいる字を覚え、いよいよ、私の番。先生が差したのは、無情にも、いままで差したことのない記号でした。全然、見えません。私が立ち往生していると、検査の終わった子達が集まってきて、「なんで、みえないの?」とか、「それも見えないの?」と、騒ぐので、ますますプレッシャーがかかりました。視力は0.2。去年よりさらに悪くなっていました。

バスと電車を乗り継いでいく、ちょっと遠い眼医者に、母は私を連れていきました。もう一度、手術をすることになり、ついでに前回の傷跡も取ることにしました。

しかしこれは、信じられないほどの拷問でした。目の下の肉を、ちょっと手でつまんでみて下さい。それだけでも痛いのに、そこを切り取って縫い合わせるなんて、想像を絶します。7歳の私は手術用のベッドの上で暴れまくりました。看護婦さん5人掛かりで押さえ付けられ、目をこじ開けられ、泣き叫ぶ私にお構いなく、手術は続けられました。

最初の右目で懲りた私は、もう左の傷跡はとらなくていいです、と先生にお願いしました。先生も、
「大人になったらマスカラつけたりして、目立たなくなるからいいでしょう。」と母を納得させてくれました。

数週間後、手術の眼帯が取れると、視力検査のイスに座らされました。検査をしてくれた看護婦さんはとても事務的でした。視力検査のボードがとても遠くに感じられます。イスに座ったときから、私はもう泣きそうでした。



私は検査イスの上で、口を真一文字に結び、看護婦さんがレンズをかえて、

「こんど、これで、上から読んでみて」

というのに対し無言の抗議を続けました。涙がポロポロこぼれて、もう全然見えません。困り果てた看護婦さんは、私を先生のところに連れていきました。先生はやさしく私の話を聞いてくれました。

「どうしても眼鏡はいやなんだね。分かった。先生が治してあげる。そのかわり、きちんと毎週来れるかな。」

希望というのは、遠くに見えるかすかな光のようなものです。私はそれを信じました。いつかきっと、視力検査の下の方まで見える日が来るに違いない。夢には、その大きさにしたがって、それが叶うまでの「時間」を注ぎ込まなければなりません。しかし、希望の光が消えないかぎり、いつかはそこに到達するものなのです。(つづく)





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Last updated  2004/12/23 11:25:54 AM
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