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キャロル先生のレッスンを受けて思い出したのが、「スラビック・クリクリビーのラテンレクチャー」というレッスンビデオです。現在はカップル解消してそれぞれ別のパートナーと組んで活躍されていますが、2004年10月当時は世界選手権のファイナリストで、将来を嘱望されていました。このビデオの後半で、パートナーのカリーナが「ダンスの4原則の優先順位」に関するレクチャーを行っています。ある大学院生からの質問で、次の4つに優先順位をつけて下さいというものだったそうです。・ ルックス(見栄え)・ コリオグラフィ(振り付け)・ テクニックとベーシック・ プレゼンテーション彼女が1位につけたのは「テクニックとベーシック」でした。質のいいダンスは正しいテクニックの上に成り立つということで、これはブライアンのレクチャーでも言っていたことです。世界戦のファイナリストになっても、毎日何度も繰り返し練習して、身体や筋肉に記憶として組み込まなければならない。そして競技会ではもっと他のこと、例えばプレゼンテーションのようなことに集中して、テクニックとベーシックのことは考えてはいけない、と言っていました。2位につけたのは「コリオグラフィ(振り付け)」でした。フロアの上でたくさんの競技選手が一緒に踊りますから、審判が1カップルを見る時間はほんの数秒です。その瞬間に印象づけるためには、他のカップルと何かしら違うことをしてアピールする必要があります。「人類は平等」といいますが、大きい人小さい人、太っている人やせている人、いろいろな人がいるのですから、そのカップルに合った、一番得意なことを生かす振り付けにするべきです。彼女が3位につけたのは「プレゼンテーション」でした。これはフロアに入るときから始まっています。よくバーゲン会場に急ぐような足取りで、スタスタ入場するカップルがいますが、これはいただけません。女性の通る道を確保しないせいで、彼女がぶつかったりよけたりしているのに自分だけ悠々と入場していく男性も「レディファースト」に反します。こういうことも審判は見ていて、経験不足か思いやりのないリーダーという印象を持たれてしまいます。さらに、フロアに一緒に出て行って、あるところで手を放してしまい、女性をかってにポジションにつかせるリーダーもダメだそうです。女性を「ここから始めて下さい」という場所までリードしてから、男性は自分のポジションにつきます。フロアに出て、いい場所が見つからないときは、他のカップルがばらけるのを待って、音楽が始まってからでも慌てずに移動しても大丈夫といっていました。ブライアンとカルメンがカップルを組んで始めて世界チャンピオンになった試合を私たちは見る機会がありました。音楽が始まって、他の選手はもうビュンビュン踊り始めている中、彼らは悠然と入場口から一番遠いお客さんのところまで歩いてきて、炎のように踊りだしました。あんまりかっこよかったので、私たちも何回かそれをまねしたことがあります。1組だけ踊っていないと返って目立つので一種のプレゼンテーションです。ただ、踊り始めがショボイと逆効果だったりしますが…。彼女が4位につけたのは「ルックス(見栄え)」でした。フロアでの第一印象というのはとても大切で、その試合だけでなく別の試合でもその第一印象から逃れることはできません。ですから、化粧、髪型、ラテンの場合は肌の色、ドレス、男性のズボン、くつ、さらには男性のズボンの裾をとめるゴムバンドに至るまで完璧を目指さなければいけません。ここでカリーナはショッピングの話に例えています。「ブランドショップに行ってバッグを買った時に、そのまま渡されたのではお客さんは満足しません。きれいに包装して、にこやかに手渡されて始めて、納得のいく買い物だったと思えるのです。それと同様に、フロアに立つ場合の衣装や髪型すべてはひとつのパッケージなのです。」 このレッスンビデオは、「スタジオひまわり」という所から出版されていますが、大変参考になりますので、興味のある方はご覧になってみて下さい。飛行機で荷物が行方不明となったスラビックが、Gパンのままレクチャーをしています。
2006/09/17
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サンバとチャチャチャを踊り終えた時に、先生に止められました。「エネルギーです。」「もし通常のエネルギーレベルをこの辺りだとすると、」先生は手を胸のあたりに水平におかれました。「貴方たちの今のレベルはこのぐらい。」といって、今度は手をずっと下のお腹のあたりにおかれました。「いいですか、踊るときはエネルギーレベルを通常より上に持っていかなければダメ。練習のときはさらにもっと上を目指すんですよ。」先生の説明は続きます。「いつもと同じように正確に踊ることばかり考えていると、見ている人はエネルギーを感じないの。確かに間違いはないんでしょうけど、同じようなレベルの人たちの中では埋もれてしまいますよ。」「いい?まず、コネクションがどうとか、フットワークがどうとかいうことはこの際忘れなさい。音楽だけを聞いて、それを楽しんで、自分ができる精一杯のストレッチ、ボディムーブメントを出し切って、さらにそれよりもっと遠くに踊ろうと思って、もう一度サンバを踊ってご覧なさい。」目の前の霧がさーっと晴れるような気がしました。そうだ。私は踊りを楽しんでいなかった。日頃先生に注意されるフットワークやベーシックムーブメントのことをいつも考えて『無難にまとまって』しまっていたんです。私たちはその後、音楽を『もっと大きく、もっと表現』することだけに集中して踊りました。1曲踊るたびに、最近なかった『息も絶え絶え』状態になり、浴びるほどの汗をかきました。いつも汗ダクダクのリーダーに対して、「スプリンクラーじゃあるまいし、スピンするたびに汗ふりまくのやめてよー。」といっていた自分が『人間スプリンクラー2号』になっていました。しかし、何という気持ちよさでしょう。こんなに楽しく踊ったのは久しぶりでした。先生は、大変喜んで、「さっきよりずっといい。」といってくださいました。「試合の結果がうまくなくて、迷っているときはこれをやるのよ。まず、エネルギーレベルを上げるの。自分たちが音楽を楽しむことができなければ、審判やお客さんにも何も伝わっていかない。」「タイミングやフットワークやベージックはもちろん大切よ。それがなくてただ思いっきり踊ったのでは暴れているだけになってしまいますから。ただ、それらの技術的なことはジグソーパズルのピースにすぎないの。それをつなぎあわせて一つの絵にするのがプレゼンテーションよ。私たちはみんなその絵が見たいの。」なんでチェックが入らないんだろうと悩んでいらっしゃる方、どうぞ、ダンスをもっともっと楽しんで下さい。必ず光が見えてきます。
2006/09/16
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競技会で思ったような結果が出ず、ビデオをみても明快な答えが見つからないときがあります。「いったい自分たちの踊りの何がいけなくて決勝に残れないのか。」ジャッジの先生に伺ったり、試合を見て下さっていた先生に伺っても、納得のいくような答えが得られない。「次の試合に向けて、いったい何を練習したらいいんだろう。」そんな時、ありませんか?2004年10月2日、私たちはキャロル先生のレッスンを受けました。キャロル先生は元全英ラテンファイナリストで、現在は世界各国を回って競技選手の指導にあたっておられ、私たちの先生のコーチでもありました。レッスン料は先生のランクによって変わってきますから、全英ファイナリストとなると通常のレッスン料の3倍くらいですが、ロンドンに行くよりはずっとお得だし、いつもたちどころに問題点を指摘して下さって、内容が3倍以上濃いので、ここ数年は来日されたときは必ずレッスンを受けさせていただいています。私たちは最近の試合のビデオをキャロル先生に見ていただきました。そのビデオは、多くの審判が立っていたコーナーのそばの、審判と同じ視線で撮った準決勝の様子でしたので、ブラックプールでも審判をされているキャロル先生に『審判の視線で』何が悪いのか教えていただこうと思ったのです。先生が「この人たち決勝に残った?」といって指し示されたカップルは実際に決勝に残った組とほぼ一致していました。落ちたカップルは何が悪かったのでしょうか。先生はビデオの中の選手達を指差しながらおっしゃいました。「タイミングをはずしている」「ムーブメントが途切れる」「リズムが見えてこない」そして私たちの踊りは、「どこで踊ってるの?」といわれました。確かに最初から注目して見ていないと、サンバやパソは審判から遠ざかっていく方向で踊っているため見てもらうチャンスがありません。チャチャやルンバはビデオで見る限り、間にたくさんのカップルが間に入っているので「見えてこない」ということでした。「いいですか。審判によっては、服が黒で目立たない、髪がルーズで見苦しい、たまたまそのカップルが視線を動かした先にいなかったとか、いろいろな理由でチェックを入れないことがあるんです。ただこのビデオで見る限り貴方たちは見えていない。ポジションも重要ですが、他にも理由があるかもしれない。実際に踊りを見せて。」私たちは、先生の前で4種目を踊ることになりました。
2006/09/15
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2004年9月26日、アジア選手権の本戦です。アマチュアもプロもトップの中のトップを競う戦いで、東京体育館はたいへんな賑わいでした。昨日出場した選手は特典として今日の本戦の無料チケットがもらえます。私はこの日の午後バンドのセッションが入っていたので、リーダーに先に行ってもらい、なんとか7時前くらいに到着することができました。ものすごくラッキーなのは、もうこの時間から来る人は多分いないせいか、SS席を割り当ててもらいました。正面最前列の中央の席です(通常なら26000円)。私が入ったとき、丁度、アマチュアラテン決勝が行われていました。テレビでしか見たことのなかったデフィリッポ兄弟が目の前でチャチャチャを踊ってくれて、細い、早い、すごい、もうスピンなんて、半径0mなんじゃないかという速さでした。日本のアマチュア勢もいつものメンバーが健闘しています。競技は、アマチュアがアジアオープン、プロがアジアクローズド(アジアの選手だけ)とアジアオープン(全世界のトッププロ参加)のそれぞれラテン、スタンダードがあり、やはりいちばんすごいのはアジアオープンです。ラテンのオープン戦は、きのうレクチャーをしてくれたブライアン組を始め、ロシアのティモキン組、リュピン組、スロベニアのスクフカ組、イギリスのカトラー組そして日本からはたった一組山本組が決勝に残りました。どの組もすばらしいので、いったいどこをみたらいいのか悩んでしまいます。女性はみんなスーパーモデルみたいにスタイル、ルックス抜群で、しかもすごく踊りも上手なんですからもう私なんか「踊っててごめんなさい」という感じです。私の席の目の前に往年のチャンピオンだったドニー・バーンズが審判をしていました。このアジア選手権は昨日も含め、すべて外人審判でした。スタンダードの方は、イギリスからホーソン組、クロスリー組、イタリアからピノ組、ゴッゾーリ組、ボンシニョール組、アメリカからウィルキンス組が決勝に残りました。個人的にはイタリア系ダンスがすごく好きで、特に音楽にあって美しかったのはゴッゾーリのヴェニーズワルツでした。スローはやはりイギリス系の選手の方が波のような美しく滑らかで上品な踊りをしていた気がします。東京体育館はとても広くて、通常私たちが競技会を行う会場の4倍くらいあって、昨日競技で踊った時、半分くらいしか使えなかったのですが、さすがこの決勝に残っている選手は、オリンピックの体操の床の演技のようにぎりぎりはじまで踊るのです。特にクイックステップは、全力疾走のようなスピードであっという間に反対側まで駆け抜けてそれを2分も、5種目合わせると10分も走り続けるのですからただ事ではありません。結果は、昨日レクチャーをしてくれた二組が優勝し、それぞれオナーダンスでルンバとスローを踊ってくれました。ホーソンはオナーダンスで、出しっぱなしだった表彰台につまづき転んでしまいましたが、それも演出か?と思えるほど、すてきなスローを無事踊り終えました。すべての競技が終了してリーダーとの待ち合わせ場所にいくと、彼は2階席だったらしく、「それならもっと遅くいけば良かった」といっていました。でも、今日もオナーダンスを踊り終えたブライアンと言葉を交わせたといってよろこんでいたので、お互いすばらしい一日だったと言えると思います。
2006/08/20
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これまで、ブライアンのレッスンビデオを文字通りすり切れるほど見ていた私達。リーダーは彼の大ファンでした。世界チャンピオンになったブライアン・ワトソン&カルメンの生ラテン・レクチャーですから、私は一語一句聞き逃すまいと全身が耳になったみたいに集中して聞いていました。ブライアンがマイクを持って話し始めます。ダンスの基礎で一番大切だと思っているのはタイミングです。これによって踊りの個性を出すことができます。足のタイミングはルンバではオンカウント(2、3、4、1)ですが、その間のハーフカウント(&タイミング)にフットアクション、ボディーアクションが起こります。チャチャチャでは、スロー/スロー/クイック/クイック/スロー。ハーフビートとフルビートの違いをきちんと押さえることが必要ですが、競技会ではなぜかみんな大忙しで踊っていますね(笑)。例えばチャチャチャのオープンヒップツイストでは、女性をどのタイミングでターンさせるか、それを男性はしっかりと把握しておかなければなりません。つまり、カウント1でターンさせるのか、1&でターンさせるのか男性がリーダーなのですから、いつターンさせるかを決めるのは男性の仕事です。ここにいる男性は自分のパートナーのすべての動きとそのタイミングを、もちろん完璧に把握していますよね(笑)。女性を次にいかせる方向とタイミングを男性が定めていないと、二人の踊りはなりたちません。ただし、コントロールは男性の手でやるのではありません。ボディで伝えるのです。男性は女性に『踊っていただく』という気持ちでリードをすること。『どうぞ、こちらですよ』というリードです。女性を押したり動かしたり、一見強そうに見える男性の踊りはリードではありません。リーダーは、自分のボディムーブメントとタイミングの先に女性がいることを常に意識しなければなりません。自分のボディタイミング、そしてパートナーのボディタイミングをコントロールしているのは男性なのです。ジャイブでも、3/4、1/4、1というタイミングをしっかり刻めば、音楽が早くなっても遅くなってもどちらにも対応できます。スピードやボリューム・表現などは、『タイミングのコントロール』という堅固な基礎の上に成り立つものでなければなりません。カルメンと私は今でも毎日このベーシックを練習しています。準々決勝レベル、準決勝レベル、決勝レベルから一組ずつとってきてベーシックを踊ってもらうと明らかにこのタイミングの質が違いとして現れます。女性にはうれしい、男性にはちょっと耳の痛いレクチャーでした。これらレクチャーのあとに、ホーソン組はスローフォックストロットを、ワトソン組はジャイブのデモを踊ってくれました。そしてうれしいことに私たちはワトソン組と4人で写真を撮ってもらいました。リーダーはデモの後、あこがれのブライアンと話したといって興奮していました。
2006/08/19
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2004年9月25日、千駄ヶ谷の東京体育館でJDC主催のアジア選手権の第一日目がありました。翌日が本戦、世界トッププロの競演です。 この日はアマチュア2級戦からB級戦までがあり、これらに出場するとすごい特典が付いてくるというので、私たちもラテンB級戦に出場しました。特典その1 明日の本戦が無料で見られる。特典その2 ゲストのレクチャーが聞けて、一緒に写真撮影してもらえる。このときのゲストは、世界チャンピオンのティモシー・ホーソン&ジョアン・ボルトン組とブライアン・ワトソン&カルメン組でした。私たちの競技の方は、全員外人審判で、予想以上にレベルの高い戦いでした。『この人、どっかで見たことあるぞ。』と思った大柄の男性審判と踊っているときよく目が合って、そのたびに微笑んでくれるので、なんか手応えありかもなんて思ってたりしたんですが、張り出されたスコア表を見ると、その愛想のいい外人審判は全然点をくれてませんでした。結果、準々決勝(最終予選)で終わりでした。どうやら母が見に来てくれていたようなのですが、どれが自分の娘か分からなかったそうです。そんなに化粧濃くないつもりだけど...。さて、お待ちかねのティモシー・ホーソン&ジョアン・ボルトンのスタンダード・レクチャーです。3つの重要なポイント、ホールド(バランス)、ポスチャー、ムーブメントに関しての話でした。最初はホールドのお話。ホールドは5つのポイントでお互いのコネクションをとります。1. 男性の左手と女性の右手、2. お互いのミギマエ、3. 男性の左手首、4. 男性の左手、5. 女性の左手の手首、親指、中指、この5つのポイントできちんとコネクションできていないと一体となる踊りはできません。ティモシーとジョアンのように身長差のあるカップルの場合は、男性はひざを使って、二人のいちばんいいカップルバランスを作り出さなければなりません。2番目はポスチャーのお話。肩から骨盤を通り、足の中心にぬける完璧なストレートラインを保ち、首を長く見せるポスチャーをつくります。どんなに柔軟な動きをしても、ヒンジをしてもターンをしてもこの上体のストレートラインを変えることはありません。女性が男性に対して重く感じないためには、女性は左の肩甲骨を常に前に上げておくこと、女性は自分自身のバランスで立ち、男性は女性のこの肩甲骨のシェープを崩さないように踊ることが重要です。3番目はムーブメント。これには5つの要素があります。ロア、ライズ、ターン、スウェイ、ムーブメント、これらを男性はスムーズに正確にそして的確に女性に伝え、女性が完璧にフォローできるようにしなければなりません。女性は同じ量、同じタイミングで男性の動きをミラーします。最後のムーブメントに関しては、360度の選択が男性にはあり、男性がどちらの方向にどのように進んでも女性は男性のリードを完璧にコピーする必要があります。もちろん女性が簡単にフォローできるようなわかりやすいリードを男性はしなければなりません。このとき、まだスタンダードはあまりやっていなかった私たちでしたが、とても基本的な話しなのである程度理解することが出来ました。このあと、リーダーの大好きなブライアンのラテンレクチャーに続きます。
2006/08/18
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2004年9月12日、日帰りで仙台に行ってきました。仙台市青葉体育館で開催された2004ダンススポーツグランプリin仙台に参加するためです。私たちがエントリーしたのは、世界シニアラテン選手権派遣選手選考競技会という試合で、翌年12月にスペインのサルーで開催される世界選手権の日本代表を決める試合です。ダンスの世界でシニアとは今年度末の時点で男女共に34才以上のカップルで、毎年選考会は2回行われ、これらの試合で優勝したカップルが日本代表になれるのです。日本のダンス人口はいったい何万人なのか想像もつきませんが、その中で34歳以上というとかなりの割合を占めると思われます。さらにその中で日本一になるのは並大抵のことではありません。この年7月18日に第一回目の選考会が静岡で開催され、その時は7位だった私たちは、今度こそ優勝という意気込みで仙台に乗り込みました。これは初めてのことなのですが、どうしてもどの衣装にするか決められず、昨日ネットの占いでラッキーカラーを探していたところ、すごい占い結果が出てしまいました。 「今日の運勢エネルギーを表す星は、「帝旺」という強気・頂上を意味する星です。人間の一生に例えると、<高 い地位と安定した生活を手に入れて、人生の頂点を極めたイメージ>になります。今日は、強力な運勢があなたに微笑み掛けている一日。普段なら到底無理なチャレンジでも、挑戦してみることで好結果が得られるはずで す。頭ごなしに駄目だと決めつけず、捨て身の覚悟でトライしてみては。運は、決してあなたを見放しません。」やっぱり優勝するんだ!!!もうすっかりその気になって鼻息も荒く仙台に出陣。そして結果は、何と準決勝敗退。うっそーーー。スペインが待ってるのはわたしたちのはずなのに...。そんなわけで、早々に日帰りしてきてしまいました。折角仙台まで行ったのに美味しいものも食べず、仙台のセブンイレブンのおにぎりだけ。でも、さすが米所、オニギリ美味しかった気がしました。<仙台の米、味噌、醤油>
2006/07/10
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京都のパーティでデモンストレーションをしてくれたアラン&ドナ・シングラーについて少し書いておきたいと思います。アランはイギリス人、ドナはオーストラリアのシドニー出身で、彼らはカップルを組んで1年後に結婚しました。それから10年、2004年現在はプロスタンダード界の華麗なる世界戦ファイナリストとして君臨していました。アランは7歳、ドナは8歳の時にダンスを始めたそうです。世界のトッププロはだいたい年が一桁の時から始めるのが普通で、どの選手に聞いても4歳とか5歳とか言う答えが返ってきます。彼らはイギリス北部の小さな町に住んでいるといっていました。同じ町にデビッド・ベッカムも住んでいたけど今はスペインに行ってしまった、といっていましたが、それはどこの町でしょう。ベッカムファンならご存知でしょうね。ドナは高見盛(たかみざかり)とイチローのファンだそうです。もう何度も日本に来られているので、お寿司や鉄板焼き、刺し身などの和食も好物だといっていました。アランは覚えたての日本語の片言で日本の早口言葉「生麦、生米、生卵」などを言ってみせたりしてお客さんをおおいに沸かせていました。やっぱり関西はノリがいいですね。声援も大きいし、挨拶に回る二人に触りたがるし、とかいっている私も思いっきり手を出して2度も握手してもらいましたが...。まずクイックで華々しく登場してつかみはOK。ウィンナーワルツ、スローフォックストロットと続き、ダンゴ、ワルツで余韻を残して締めくくった後、アンコールで美空ひばりの「川の流れのように」にのせて、ゆったしたスローフォックストロットを披露してくれました。余韻を残すデモンストレーションの構成はさすがです。もうこのカップルは競技を引退して、今はオーストラリアのキャンプコーチとして活躍されているようですが、このときの「川の流れのように」のスローは、私の記憶の中で多分一生残り続けると思います。
2006/06/28
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2004年9月5日、私たちは京都に来ていました。リーダーの母親は京都でダンス教師をしています。それも、3人の男の子の子育てが終わってからから教師免許をとって第2の人生に踏み出したつわもので、この日のパーティを主催するダンススクールのスタッフとして働いていました。母は朝から美容院に出かけ、そのあと生徒さんのデモやフォーメーションのリハーサル、5時から本番のパーティという長い一日です。場所は堀川五条の京都東急ホテル。メインゲストは全英スタンダードファイナリストのアラン&ドナ・シングラー組でした。私たちは毎年お盆には帰省せず、パーティに合わせて京都に帰ることにしています。このダンスパーティの最中に地震がありました。踊っていた人は皆「知らんかった」といっていましたが、テーブルについて食事していた人ははっきり体感したようです。私は初め立っていたので気がつきませんでしたが、指摘されて天井を見上げると、スポットライトなどの照明器具がぶらぶらゆれていて、実は震度4だったと後から知りました。競技会の最中に地震にあった記憶はないのですが、雷はあります。競技会場の近くの変電所に落雷があったらしく、競技の途中で突然音楽が止まって、体育館も真っ暗になってしまいました。これとは別の競技会で、「競技の途中ではありますが、緊急のご連絡です。競技に参加されている○○さん、大至急こちらにお越し下さい。家が火事だそうです。」というアナウンスが入って、一時開場が騒然となったことがあります。じつは私も、ダンスの練習の後、夜遅く帰ってみたら裏の家がなかったという事件があります。しかもその時は全く気づかず、翌朝近所の方に、「昨日、大変だったのよ。」という話を聞いて初めて知り、見てみると確かに斜め裏の家が全焼していたんです。幸い延焼も全くなく助かりましたが、帰ってきて家がなかったら大変だっただろうなあ。ちょっと呑気すぎですか。
2006/06/27
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夢のような一日を過ごしたあと、翌日からまた彼は徹夜です。私は、クリクリビーや世界のトップ選手たちと同じ飛行機でイタリアかどこかに行く夢を見ました。飛行機の中ではみんなでワイワイ騒いで、それはそれは楽しい旅でした。飛行場に降り立ったところでクリクリビーを真ん中に私とリーダーで写真を撮ってもらい、目が覚めたあとも楽しかった思いにしばらく浸っていました。一緒にパーティに参加していた江戸っ子夫婦が、ダンスも出来ず夏休みもないような私たちをあわれに思って、東京湾クルーズに誘ってくれました。3日ぶりに家に帰って来た彼にビアクルーズの話をすると、スイカの汁を口からたらしながら言いました。「いいね。いくいく。」そんな安請け合いしていいのかなあ。予約が必要ですから、ドタキャンは絶対に困ります。お盆も過ぎた8月21日、『妖怪雨降らし』の異名をとる友達のCちゃんもパワー控えめにしてくれたのか、楽しいサンセットクルーズを過ごすことが出来ました。この一日がなかったら、『私たちの夏を返せ!』と反乱を起こすところです。さて、社交ダンスA級への道。2004年8月29日、私たちは千葉県のダンス競技会にエントリーしていました。いままで、どんなに体調悪くても一度も棄権したことはなかったのですが、今回初めての棄権です。私の足の怪我もまだ完治していませんでしたし、彼も仕事が思いのほか長引いて体力的にとても無理な感じでした。1ヶ月以上全く練習できないまま試合に出るのもさすがに不安です。こうして、私たちの夏らしくなかった2004年の夏は終わったのでした。
2006/03/16
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ある大きな組織のネットワークシステムを立ち上げる仕事で、あいかわらずリーダーは強烈な泊まり込み生活が続いていました。私も一人暮らしにもすっかりなれて、自分が動かさない限り部屋の物が動かないのが快適に感じられるようになってきました。そんな中、私たちにはどうしても参加したいパーティがありました。2004年8月8日(日)、浅草ビューホテルで開催される「DANCE in 浅草2004」です。いつも応援して下さる後援会長さんが主催者の方と知り合いで、私たちの分のチケットも用意して下さいました。<第106話> 大応援団 でご紹介した、友達のCちゃんとMさんの江戸っ子夫婦も一緒に行くことになっています。夜中に久しぶりに彼から電話があり、その日だけは絶対に休むといっていましたが、何かトラブルがあったりするとギリギリまで仕事という可能性も考えられました。チケットを郵送してもらって、現地集合となったパーティ当日、なんとかスペシャルゲストのデモンストレーションに間に合って、夢のような時間を過ごすことが出来ました。ラテン部門では世界チャンピオンのワトソン組に加え、ファイナリストのクリクリビー組が、またスタンダード部門ではピノ組とホーキンス組がそれぞれ5種目ずつ披露してくれました。とてもいい席だったので、手を伸ばせば届く位置で世界のトッププロの踊りが見えて、半分夢の中にいた寝不足のリーダーには、現実と夢の区別がつかなかった様です。ドレスがふわっと舞うたびに、甘い香水の香りがして、私もメロメロでした。ホーキンスはこのときヘーゼル・ニューベリーと組んで世界チャンピオン、日本語も堪能です。 この日はヘーゼル・ニューベリーの誕生日ということで、大きなケーキが切り分けられ、パーティ参加者に振る舞われました。ピノ、クリクリビー、ワトソンの3人も日本語で挨拶し、会場に詰めかけたお客さんたちも大喜びです。このパーティは2004年で6周年とのこと、ホーキンスが“one of the best parties”と評し、主催者を讃えました。その後、このブログでお知り合いになったにゃんこのめ さん、コピラ さん、nyanpal さんも、このパーティに参加されていたということです。
2006/03/15
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2004年の夏は猛暑でした。リーダーが仕事に忙殺されて全くダンスが出来なかった上、私も足首の怪我で、週一回ラテンベーシックのサークルにかろうじて参加していた程度。そんなとき、先生が、「来週の練習会はスペシャルゲストが来るから、是非参加するといいよ。」とおっしゃって、残念ながらリーダーは参加出来ませんでしたが、私はサークルが9時で終わったあとの10時から始まるラテン練習会に残っていました。2004年8月6日、スロベニアのアマチュア選手ユーリ&ヤグダが盛岡でのデモのために来日し、金曜日の練習会に参加してくれたのです。今年(2006年)のUK戦のアマチュア・ラテン部門で7位の成績をおさめたカップル。数ヶ月ごとに来日するキャロル先生の紹介です。キャロル先生は、私たちの先生のメインコーチですが、いつも私たちもレッスンをしていただき、密度の濃い時間を過ごさせていただいていました。ユーリ25歳、ヤグダ23歳。ユーリは、どことなくアンドレ・スクフカに似ています。同じスロベニア人ですから、どこかで遠い遺伝子のつながりがあるのかもしれませんね。アンドレ・スクフカ&カタリーナ・ヴェントゥリーニサンバのデモは映画「マスク」のサントラで、主人公イプキスが機動隊に囲まれて絶体絶命というシーンで使われた音楽、「キューバン・ピート」です。 魔法にかかったように、機動隊のみんなも踊り歌いはじめてしまう陽気な音楽に乗って、時差ぼけも感じられないようなすばらしいダンスでした。 そういえばヤグダはどことなくキャメロン・ディアスに似ています。床に吸い付くような強い足下、身長はそれほど大きくないのに、教室いっぱいに発散する巨大な存在感。この違いはいったいなんなんだ。9時までのサークル参加の皆さんも彼らの踊りを見ようと遅くまで残っていました。夜中にリーダーから電話があって、私は今日見た『すごい踊り』についてしゃべりまくりました。こんなにすごいものを見逃して、なんてかわいそうなんでしょう。どうやったらそんな風に踊れるのか分りませんでしたが、私はこの日、「世界のトップアマ」のレベルを強烈にインプットされたのでした。
2006/03/14
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2004年8月は例年にない猛暑で、私は一人でした。大きなプロジェクトが動き始め、リーダーはほとんど家に帰ってこなくなってしまいました。ようやく足首のギブスは取れましたが、まだ痛みはあります。テーピングをして週一度はダンス教室に通っていましたが、それも一人。仲良くして頂いているラテン練習会の皆さんにも、「旦那,浮気してんじゃないのー?」 なんて冗談をいわれました。たまに帰ってくる彼は、見るたびにげっそりと疲れた顔になっていき、私も食事が適当になって栄養のバランスが崩れてきていました。左足首を無意識にかばう歩き方をしていたせいか、その影響が腰痛に来て、更に顎の関節までずれ始め、ものを噛むたびに痛くてしかたありません。さらにジンマシンも出て、家にあったかゆみ止めを塗ったらどうも古かったようで、ますますかぶれ、猛暑なのにそれを隠すためにずっとスカーフを首に巻いて仕事に通っていました。「なんでこんな目に会うんだろう。」悪魔の仕業だ。私は一人で悪態をつきながら、かゆさと痛さに立ち向かっていました。ダンスが出来なくなって、突然暇です。痒い痛いではとても出歩く気にもなれないし、多分今日も彼は帰ってこないでしょう。そんな時、私は自分たちが歩んできた社交ダンスの記録を始めから書いてみようと思い立ちました。それがこのブログの始まりです。やがて、ジンマシンも治り、顎関節ももどって、自分たちが社交ダンスを始めた頃のいろいろな出来事を書き綴って行くうちに、少しずつ、また前向きな気分が戻ってきました。とても原始的な方法ですが、私は足首を治すために近くの天然温泉に通い始めました。会社の帰り、ほとんど1日おきに「くじきや関節痛に効く」とされる温泉につかり、祈るような気持ちで足首をマッサージしました。ずっと後になって、私なりに大変だったこの頃のことをリーダーに話すと、そのときもっと、死ぬほど大変だった彼はこう言っていました。「あのね、そんなの悪魔の仕業なんかじゃないよ。僕たちの周りには天使しかいないよ。それはね、全部、天使の悪戯なの。」そうだね。練習がつらいとか言ってたから、「練習すら出来ないつらさ」をちょこっと教えてくれたんだね。人は呼吸しないと生きていけないように、勝つための技を吸収するだけでなく、自分たちが培ってきた経験や技術を,今,その段階で悩んでいる人たちのために役立ててもらうことも必要なのだろうと思いました。そのために少し立ち止まる時間をくれたのかもしれません。多分,愛と同じで、与えても与えても決して減ることはなく、そうすることで、また新たな土壌が用意され,次のステップに進むための種を植えていくことが出来るのです。もっと大きな花を咲かせる為の、もっと強い種を。
2006/02/17
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人生山あり谷ありといいますが、「今日が人生最高の日だ。」なんて思っても,後から考えるとちょっとした上り坂の途中だったななんてこともあるものです。2004年の夏は、私にとってかなり「どん底」のような気がしていましたが、今考えてみると、ちょっとしたくぼみくらいのものだったのかもしれません。IDSF日本代表選考会を直前に控え、私は足首のギブスがまだ取れず、ただでさえ練習がままならない状態だったのに加え、リーダーの仕事が忙しくなってますます厳しい条件が重なってきました。とうとう試合までの1週間,一度もダンスシューズを履くことができず、リーダーは土曜の夜中過ぎに帰ってきて大慌てで荷物をまとめ,ほとんど寝ていないまま新幹線に飛び乗って会場の静岡に向かいました。「ここで寝たら、大阪まで行っちゃうから,絶対寝ちゃダメだよ。」2004年7月18日、ダンスグランプリin静岡。会場は軍艦のような形をした、グランシップ大ホールです。全日本選手権シニアラテン,出場組数25組。準決勝まで,ジャイブを抜かした4種目で競います。世界への切符を手にするのは優勝者のみ。周りを見まわすと、よく見る顔ぶれです。世界戦の連続出場記録を伸ばしている神奈川の超人Mさんから、優勝カップをもぎ取るのは誰か、みんなこの日を目指して練習に励み,トレーニングを積んできたカップルばかりです。私たちはこのときが2年目の挑戦で、前回予選落ちだったので、なんとかそれよりはいい成績を取りたいというのが悲願で、あわよくば優勝なんて思っていました。久しぶりにダンスシューズを履くと、心の底から「踊りたい衝動」が沸き上がってきて、超寝不足のはずなのにやけに体が軽く感じられました。1次予選,2次予選を突破して、準決勝に進みます。しかし結果は7位で、後もう1歩及ばず決勝進出できませんでした。しかしこの時ばかりは、こんなコンディションで、よくここまでの成績を出せたものだと、自分たちを誉めていました。優勝は岩手のYさん。ついに、第1代表の座を受け渡すことになった神奈川のMさんは2位の成績でした。試合が終わるとどこを観光するでもなく、すぐにまた新幹線に乗って帰ってきました。次の日の仕事に備え、1時間でも長く眠りたかったからです。そしてここから、私たちの試練の夏が始まったのでした。(つづく)
2006/02/16
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翌週の2004年7月11日は、教室のサマーパーティでした。デンマークやイタリアからゲストを招いて、東京の浅草ビューホテルで盛大に行われた夏の大舞踏晩餐会、私達はこのとき初めてスタンダードの方も紅白戦に参加することになっていました。パーティの様子を納めたDVDは、1本9000円もして高いのでいつも買わないんですが、競技会に応援しに来て下さるY家の皆さんにも見てもらえるし、今回はDVD買おうかなんて話していました。私達は白組。スタンダードの紅白戦のタンゴを担当していました。ところが、リーダーがおもいっきりルーチンを間違え、私もとっさにフォローできずに大ボケをやってしまいました。でも、観客は全然気がつかなかったらしく、先生だけが、「あ~~タンゴじゃなくて、だんご~~~!」といっておられました。さらに、第2部のラテン紅白戦では白組キャプテンとしてルンバを担当。なんとここでも、二人が離れてリーダーがパっとこちらをふりむくところでよろけ、彼はそれをまたずーーっと悔いておりました。だれも覚えてないと思いますけどね、そんなの。そんなわけで、DVDは買わないことになりました。買ったのは写真だけです。このときもまだギブスしていて、踊る時だけ肌色のテーピングをしました。まるで、どこも悪くないみたいでしょ?
2006/01/20
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ギブスしてから10日も経たないうちに、最初の大きな試合がありました。2004年7月4日、東京のホテルイースト21で開催されたJCF全日本選抜選手権です。プロ、アマそれぞれの日本一を決める大会で、私達はアマチュア・ラテンの部にエントリーしていました。蒸し暑い日でした。メインイベントの選手権は受付が遅く、16時半。私達は暑いさなかに家を出て、ゴロゴロカバンをいつものように引きずって駅から歩いていました。途中、何組か午前中の試合が終わって引き上げて行く競技選手とすれちがいます。結局試合開始は夜の7時半頃。この日、リーダーの弟、桂よね吉の落語が江戸東京博物館であったんですが、全然間に合いませんでした。私は左足首をテーピングでガチガチに固め、底の固い低いヒールのダンスシューズで試合に臨みました。出場組数7組。ラテン5種目でいきなり準決勝でした。最悪なのは、決勝に進むのは6組だけということで、ここで1組が落とされます。出場者全員、「まさか、自分たちがその1組じゃないはず。」と思っています。しかし、その「まさか」に私達がなってしまいました。まあ、全日本選手権ですから7位だってしょうがないとは思いますが、さすがに一組だけ決勝にいけないというその一組になってしまい本当にがっくり。点数は結構入っていたのですが、一人だけ全然点を入れてくれない審判がいて、リーダーはその理由を聞きに走りました。「どこが悪かったんでしょうか!?」その審判の先生は「僅差だから全然気にすることないよ。まあちょっと元気なかったかなって程度。」といわれたそうです。もっとなんか決定的なものがあるのかと思ったのに...。元気なく見えたのは、私がどこか、足をかばう踊りをしてしまったせいかもしれません。この日はプロの全日本選手権もあったので、自分たちの結果は今イチでしたが、大変刺激になりました。「元気いい踊りっていうのは、こんな感じなんだね。」テレビで見るのと実際では大違いで、ダンス雑誌に大きく載ってるJCFのトップ選手たちの踊りは私達の何倍も身体を使いきっているように見えました。すっかり夜遅くなって、私達は家路につきました。私はまた簡易ギブスを足首に装着して、「なんとか踊れて良かった。」と少しホっとしていました。
2006/01/19
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2004年6月、新潟の試合が終わってからのことです。痛めていた左足首は踊るたびにますます痛くなり、ついにはダンスシューズを履いただけでも痛くなってしまいました。「ダンス禁止」なんて言われるのがこわくて先送りにしていましたが、観念して接骨院に行ってみてもらうことにしたのです。どうもつま先を外側にむけるラテンクロスを作るために足首をひねりすぎて、くるぶしの後ろにコブができかかっているようです。よくバレエダンサーが同じような症状を訴えると説明されました。しかもその頃、足首でギュウギュウ床を押して背中の動きを出す練習ばかりしていました。今から考えるとこれは大きな間違いで、ボディの動きを作り出すのはあくまでボディの筋肉が始動で、足首に全体重を乗せ続けると過負荷がかかって故障の要因になります。ハイヒールを履いている時間が長いせいか、足の指も固くなってグーができなくなっていました。やっぱりA級になるのは大変なんですね。私は足首をギブスで固められることになりました。石膏と簡易ギブスとどっちがいいか聞かれました。最近は、ボール紙を濡らして形状記憶させる簡易的なギブスがあるんです。足首のこぶを綿で押さえてその簡易ギブスで固定し、包帯グルグルです。それでも練習会にはその時だけギブスはずしてテーピングで参加していました。折角作った筋肉を落としたくなかったので、昼休みのウォーキングもギブスしたまま続けていました。何でここまでしたのか。あと2つ、どうしても出場したい試合が控えていたからです。 ◎送料激安◎熱血肉体改造ギブス 椎名林檎/ギブス
2006/01/18
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新潟の柏崎には 「トルコ文化村」というのがあります。「日光江戸村」や「志摩スペイン村」なんて感じの異文化を感じる施設なんですが、ここで大発見が3つありました。ブラッド・ピット主演の「トロイ」という映画がこの頃公開されていましたが、トロイって、トルコにあるんですね。そんなことも知らなかったのか、と自分でもビックリ。二つ目のビックリは、なんとサンタクロースってトルコ人だったんです。えーーー?フィンランド人じゃないの?トナカイは??なんて騒いでしまいました。 私たちは「シシケバブ」以外のトルコ料理をいただいたのは今回が初めてで、なかでもゆでたラビオリにヨーグルトとハーブと唐辛子オイルをかけてたべるマントゥというトルコ家庭料理は癖になるいい味でした。トルコ紅茶「チャイ」にザクロシロップをまぜたのもおいしかったですよ。 トルコ家庭料理 レシピ集さて、トルコといえば、ベリーダンス。お香を炊き込めた穴蔵のようなステージで、ベリーダンスのショーが見られます。長身の美人ダンサーが、アラビアンナイトのような出で立ちで、手につけた小さなシンバルのようなものを鳴らしながら登場しました。私達のほかにも観光バスでやって来たお客さんが10人位いて、金髪の本場トルコ人ダンサーの踊りに狭い小屋は俄に熱気を帯びてきました。いよいよ踊りも佳境にさしかかった時、うちのリーダーがステージにひっぱりだされて一緒に踊りはじめました。予想外にうまかったんでほかのお客さんも大喜び。そりゃ、ラテンダンサーですから。金髪美女も観客席に座っちゃって、彼の独壇場です。これでもかってくらいにお腹動かして、拍手喝采!!すっかりノリノリで汗いっぱいかいて席に戻って来たリーダーは、たわけたことをいっていました。「ここで働けっていわれたらどうする?」そんなこと言われないってば...。ベリーダンスの洞窟をでたところで、トルコアイス食べました。売店のお兄さんは、3ヶ月前にトルコからきたばかりの人でとてもひとなつっこく、アイス食べてる間ずっとお話ししてました。近所のスーパーにもカップ入りのトルコアイスが売っているので、それは好きでよく食べるというと、「スーパーで売っているトルコアイスなんてダメダメ。」なんていってました。バニラ、チョコ、イチゴ味があって、トッピングにココナッツを振りかけてくれます。なんでこんなにのびるのかと聞いてみたら、ガムが入ってるんだといってました。へぇ~。これが3つ目の大発見。 トルコアイストルコ行ってみたいです。絨毯や絵皿、ガラス細工、トルコ石のアクセサリーそんな工芸品を売っているグランバザールの雰囲気はものすごく体になじんで、昔住んでたことあるんじゃないかっていう気さえしました。地震で大きな被害を受けたと聞きましたが、トルコ村は復活したんでしょうか。また是非行ってみたいところの一つです。(おわり)
2006/01/07
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2004年度春期、全新潟競技ダンス大会、午前中はラテン競技が行われました。会場のかきざきドームに行ってみると、千葉のKさん、Hさん、茨城のTさんに黄門様、すけさん、その他、関東からの強豪がどっと押し寄せて来ていました。みんな当然、A級狙いです。ラテンB級戦83組、種目はチャチャチャとルンバでした。私は左足首にグルグルテーピングをして、「夜の女王」ドレスで参戦しました。予選が進み、最終予選1位通過。期待は大きく膨らみます。ここで3位までに入れば、ついに念願かなって年度末A級昇級です。しかし準決勝では、足下がぐらついて6位。もうだめかと思いました。もう一度、テーピングをしっかり貼り直して臨んだ決勝。自分たちでもガッツポーズがでるほど完璧に踊って、ひょっとしたら優勝か...。と思いましたが、優勝したのは地元の中学生みたいなカップルで、こいちゃんから後で聞いた話によると、新潟のサラブレッドだとか。2位は昔からよく知っている茨城のカップルTさんたちで、1週間前に武道館で行われたJBDFシニア選手権でも2位だった人たち。そして私達は、3位に入賞しました。4、5、6位もよく知っている関東勢で、お互い健闘を讃え合いました。ついに、A級昇級です!実は年度末に大どんでん返しがあって、A級ではなかったんですが、このときはそう信じていましたので、うれしくてうれしくて足の痛みも忘れるほどでした。近くにコンビニがなくてお昼ご飯ぬきで、午後のスタンダードの試合に入ります。C級戦、ワルツとスローフォックストロットです。出場組数163組。こちらは4次予選まであったんですが、確か、3次予選くらいで敗退したんだと思います。まあ、そんなことは全然気になりません。ラテンA級ですから。さっさと荷物をまとめて、この日宿泊予定のザ・ホテル・シーポートに向かいました。日本海を一望するこのホテルでは、お昼抜きの埋め合わせをするかのように、お腹はちきれそうになるまで地魚懐石コースを楽しみ、ゆっくりとお風呂につかって、A級の喜びをかみしめていました。この天国のような地を、4ヶ月後に大きな地震が襲うことなど、いったい誰が想像したでしょう。(つづく)<新潟のお魚>
2006/01/06
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2004年6月20日、JBDF関東甲信越の全新潟大会がありました。その頃ちょうど、新潟の柏崎は何かと世間を騒がすニュースの多いところでした。冷蔵庫詰めの殺人犯が捕まったり、拉致も話題になっていました。私達は新潟に行くのは初めて。暗い道をトコトコ歩いてたら、もう帰って来れなくなるかもしれないよ、なんてことはないとは思いますが、念のためレンタカーを借りることにしました。試合前日のお昼に上野発の「MAXとき」に乗って、長岡で信越本線に乗り換え、3時頃柏崎に到着。駅に降り立つと、ロシア人と思われる若い金髪美女軍団に遭遇しました。「まさか、明日の大会に出る人たちじゃないよね。」まあ、普通それはないんですが、私達はちょっと神経質になっていました。その理由の一つは、この試合で3位以内に入ると、念願かなってA級に昇級が決まる大切な試合だったから、そしてもう一つの理由は、左足首に不安を抱えていたからです。栃木の試合のあたりから、踊っていると足首が痛くなってきて、練習会も途中でリタイアする有様。テーピングしてしばらく踊っていたのですが、テープのあとがかぶれてミミズ腫れになり、もう痒くてテーピングも出来ない状況でした。ダンスシューズのヒールを8センチから7センチに切換え、試合の時だけ痒いのを我慢し、テーピングで固めて出場していました。駅前のビジネスホテルにチェックインした後、巡回バスに乗って海沿いのスパに出かけました。日本海に沈む夕日を眺めながら、ゆったりとお風呂につかって最高に癒されます。すっかりくつろいでお風呂から出て、二人でマッサージをしてもらうことにしました。ところがこれが、大変ワイルドなマッサージで、背中に乗ったり、引っ張ったり押したり、まるでまな板の上でこねくり回されるパン生地になったような感じでした。「もう、かんべんしてくださーい!」と叫びたくなるほど。ようやく終わってボロボロになった私達は、「美食探訪」に出る元気が失せ、施設の中にあるちょっとした食堂でラーメンと餃子なんかで夕食をすませました。実はこのときはまだお知り合いになっていませんでしたが、こいちゃんも同じフロアで競うことになっていました。試合前夜、初めての新潟の夜は、こうして更けてゆきました。(つづく)<新潟といえば...>【新米●全国送料無料】柏崎高柳産「純」コシヒカリ越路大倉米5kgアルビレックス新潟 シーズンレビュー2004(DVD)
2006/01/05
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前回の試合ですっかり味を占めた私たちは、2004年5月30日に開催された全栃木競技ダンス大会でもラブホに泊まることにしました。ところがここで、とんでもないことが起こってしまったんです。明日の試合に備えて早めに眠りについた私たちは、草木も眠る丑三つ時、突然の大音響で叩き起こされました。なに?何が起こったの?それは隣の部屋で始まったカラオケの音でした。嘘でしょー。2時じゃない。なんでいまごろカラオケなのよ。ラブホに来てカラオケなんかするなー。早く寝てくださーい。心の声は届かず、カラオケは延々と続きます。赤いスイートピーなんて、歌ってるし。しかもえらく音痴だし。ア~、眠れないよ~。助けて~。しかしいつの間にか眠っていたらしく、次に目が覚めたときは目覚ましが鳴っていました。二人とも何となく寝不足です。「やっぱり、ラブホはだめだね。何が起こるか分からないよ。」「普通のホテルだったら、ありえないよね。」さて、試合の方は...。午前中は、スタンダードB級戦。私たちはC級に昇級したばかりでしたが、ワルツとスローの2種目で、眠い目をこすりつつ果敢にB級に挑戦。出場組数215組。ひたすら出番を待つ、と言う感じで、待ち時間が踊ってる時間より圧倒的に長い試合でした。待ってる間に眠気が襲ってきます。3次予選まで踊って、ここで敗退。午後はラテンA級戦。出場組数20組、チャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレの4種目です。頭の中を、「赤いスィートピー」が回っちゃって、今一つラテンのリズムに乗れずに、予選で敗退してしまいました。ダメダメです。帰りの車では、黙ってると眠ってしまいそうなので、高速飛ばしながら、二人で大声でサザンなんかを熱唱しながら帰りました。いまでも、赤いスィートピーを聞くと、この時のことを思い出してしまうんです。
2005/11/24
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競技会の受付は朝早いことが多いので、運転して片道3時間以上かかる場合は前日から会場の近くに泊まることにしています。そうしないと、3時起きとか4時起きとかになって、眠くて眠くて、競技で力を発揮できないからです。2004年5月16日、埼玉県深谷市で関東甲信越競技ダンス選手権が開催され、このときも、前日から泊まることにしていました。ところが、何かのイベントと重なったのか、予約が出遅れたせいか、近くのビジネスホテルが一杯だったのです。そこで、ラブホテルに泊まることにしました。街に必ず数件はあるし、予約もいらないし、どこか空いてるでしょう。夫婦なんだから、特に後ろめたいことはないんですが、受付を通りすぎるときなんとなくドキドキします。一度入るとチェックアウトまで出られないので、「ちょっと買い物」とかは出来ません。私たちは、朝食用のおにぎりやサンドイッチを近くのコンビニで買い込んで、ゴロゴロ大きい鞄を引きずって部屋に入りました。うわー、ウォーターベッドだ!すっかり大はしゃぎです。お風呂が広くてジャグジーなんか付いてたり、ミストサウナまであったりして、しかも普通のビジネスホテルより安いじゃないですか。これはお得かも。これからもずっと、この手で行こうよ、なんて話していました。さて、翌日起きて、朝食を食べようと冷蔵庫を開けて、大変なことに気が付きました。なんと、間違えて、冷凍庫に入れてしまっていたんです。フローズン・ヨーグルト、そしてカチカチに凍ったサンドイッチ。彼の分のおにぎりは、外に出してあったので無事でした。朝御飯食べないとパワーでなくて踊れないからなあ。きょろきょろ辺りを見回して、何かいい手がないか考えました。電子レンジがあれば一番いいんですが、そこまで充実していません。それで、いいものを見つけました。ヘアードライヤーです。結構、早く溶けるみたい。ちょっとパンがパサパサになるし、中のハムがシャリシャリだけど、なんとか朝御飯にありつけました。さて、試合はどうだたのでしょうか。私たちが参加したアマチュアラテン選手権は参加組数19組。チャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレ、ジャイブの5種目です。予選は無事通過、しかし、準決勝で敗退してしまいました。この日は、プロのスタンダード選手権もあって、たくさんの観客が深谷市総合体育館(ビッグタートル)に詰め掛けていました。私たちは試合が終わるとさっさと荷物をまとめて家に帰りました。らぶ☆ほ、結構楽しい思い出です。
2005/11/23
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幸か不幸か、A級戦は決勝には進めませんでした。はっきりいって、ホっとしてました。もう、9曲連続はご免です。タダでも踊んないよ。そして、全エネルギーをB級戦ラテン4種目に注いで決勝を踊り、5位に入賞しました。お昼から東京都の地区対抗戦も併せて行われ、参加人数も多く、結構大きな大会になってます。A級戦だけが参加人数少なかったんでしょうか。「タダで出ていい」なら、もっとエントリー数が多くても不思議じゃないのに、そうでもなかったのは、「タダでも出たくない」人が多かったせいなんでしょうね。午後はスタンダードD級戦に出場しました。参加組数113組。ストーンがついていないスタンダードのドレスは持っていないので、パソドブレ用の赤のラテンドレスで出場しました。ちょっと、スタンダードらしさを演出しなきゃと、ない知恵を絞り、羽衣みたいな赤い布を買って来て、チョーカーと輪ゴムで首と手首に固定しました。最初のうちは、いい感じでヒラヒラしていたんですが、端っこ縫ってなくて、切りっぱなしの状況ですから、端からどんどん布がほつれて来て、糸引いちゃって気になって仕方ありません。踏みそうだし。そのせいじゃないとは思いますが、こちらは最終予選(4次予選)までで、準決勝に至りませんでした。ラテン25曲で力使い果たしたのかもしれません。この日は全部で33曲も踊りました。試合が終わり、会場から東京メトロ駒沢大学前まで徒歩10分。もう、すでに足は棒の様だったんですが、何か美味しいもの食べて行こうということになり、私が以前仕事で来たことがある、隣の駅の三軒茶屋まで歩くことにしました。「あそこに見えてるビルだから、すぐだよ。」と言ったものの、着いてみたら違うビルでした。「ゴメン、もう少し先だ。あそこの高いビルだと思うよ。」私達は、ゴロゴロ鞄を引っ張って、ボコボコの歩道を歩くこと15分。ところが、このビルも違うビルでした。リーダーから泣きが入ります。「ねえもう、どこでもいいよ。あし、疲れたよ~。」それは、私も同じだ ! もう半分意地になってます。私は、目の前に人参をぶら下げながら、「もう少し、もう少し。」といいつつ、結局、正味1時間くらい歩いて、すっかり陽も暮れて、ようやくたどりつきました。冗談みたいですが、目指していたビルの名前は、 「キャロット(人参)・タワー」。なんと、三軒茶屋の駅前でした。これなら、最初から電車に乗ればよかった。電車賃ケチったせいで、夕食おごらされてしまいました。ほんと、「ダタより高いものはない」、一日でした。(おわり)<送料無料、消費税無料> しかも便利
2005/11/18
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B級戦ラテン、参加組数31組。1次予選は、まだ余裕でした。サンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレの4種目。2次予選、B級4種目に引き続き、すぐにA級戦(東京選手権)の予選です。こちらは参加組数20組。予選は4種目です。まだ2ヒートありましたから、1種目ずつに休憩が入るので、なんとかスタミナは保っています。予選を踊り終えた後に、大会事務局の方に呼び止められました。IDSF服装規定集を手に持っておられます。「女性はヒップラインを隠すことって書いてあるんですよ。パンツだとまずいんで、何かスカートお持ちですか?スカーフ巻いていただいてもいいんで、とにかく、ヒップライン出さないようにして下さい。」そこで慌てて練習用に持って来た黒のフレアミニスカートに着替えました。そして迎えた準決勝。勘のいい方はもうお分かりかと思いますが、私達は、A、B級両方とも準決勝に進んでしまいました。B級戦のサンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレ全力で踊って、すぐにまたA級戦のサンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレ、しかもその最後が、一番過酷なジャイブです。連続9曲。これはさすがに足に来ました。フィギアスケートだって4分の演技なのに、9曲踊ると約15分です。体中の全ての毛穴から汗が噴き出し、心臓ばくばく、呼吸困難、ちょっとオーバーですが、まあこんな状況で、頭から湯気出して準決勝を踊りきりました。「タダだからなんて、安請け合いするもんじゃないねー。死ぬかと思ったよ。」「まだ、決勝があるんだよ。」そうでした...。両方決勝に残りたくもあり、もう連続9曲は勘弁して欲しくもあり、複雑な心境で結果発表を待ちました。(つづく)<送料無料、消費税無料> しかも美味しい
2005/11/17
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ジャルダンカップから2日後の、2004年5月5日、私達って、本当にダンスしかすることがないのかしら、第39回東京都民ダンススポーツ大会に出場しました。1日おいてまた競技会なんて、初めての体験でしたが、特に疲れが残っている風でもなく、体調万全のゴールデンウィークです。場所は、駒沢オリンピック記念総合公園内の大きな体育館、都立駒沢体育館です。きれいな体育館ですが、厳しい服装規定があり、ストーン、スパンコール、羽がついている衣装、イヤリング、髪飾りも全部禁止とあって、みんな黒が基調の地味目のレッスン服です。オリンピックに使われたきれいな体育館を、傷つけないようにしようという趣旨だと思います。私達は、男性は上下とも黒、女性は赤のフリルのシャツに黒のパンツで出場しました。 ところで、この試合の2週間ほど前のことです。ダンス連盟から手紙が来て、同じ日に行われる東京選手権にも出ませんかと書いてありました。連休中だから出る人いないんでしょうか。私たちは暇だからラテンB級戦にでも出ようと思ってたんですが、B級戦に出る人はタダでA級戦(東京選手権)に出られます、なんていうへんな安売りみたいなことが書いてあるんです。出場料は通常、4000円くらいかかるので、それがタダなら、両方出ちゃおうかなんて言う、軽い気持ちでOKしたのが、すべての間違いの始まりでした。(つづく)<送料無料、消費税無料> タダだけど、高くない、かわいい商品
2005/11/16
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2004年5月3日、行楽の予定がない私達は、ダンス競技会に出場。いつものことですが...。東京と神奈川の県境に位置する大田区は、レインボーブリッジの架かる品川区と接した都心の閑静な住宅街です。今回の会場は、この東京都大田区、東急池上線の池上駅から徒歩5分ほどの池上会館というところで、日蓮上人入滅の有名なお寺、池上本門寺のとなりでした。駅からお寺に続く道が美しく整備された門前町で、朝早くから街の人たちが、通りをお掃除されていました。会場は披露宴などに使用されるホールらしく、選手控え室もしっかりしていて快適です。第6回 ジャルダンカップダンス競技会、前回の早着替えの試合と同じ、JPBDA主催です。プロの競技団体なので、審判は全員プロの先生でした。私達は、 ラテンオープン戦に出場しました。参加組数6組。準決勝、決勝ともサンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレの4種目です。参加組数が少ないので、全員が決勝に進みます。男性は黒のタートルネックにサイドにストライプの入った黒のパンツ、女性は黒のロングドレス、通称、「夜の女王」で、髪に銀ラメ入りの赤いバラをつけて出場しました。 これが夜の女王。ドレスのニックネームです(私のことじゃないですよ)後援会長のY家のお母様が、この日も応援にかけつけてくださり、周りの方々を巻き込んで熱い声援を送って下さいました。競技の合間に、観客席で見ていると、隣の席に座っておられた男性に話しかけられました。「ぼくはね、70代なんだよ。」「えー! 全然見えません。C級戦ラテンでバリバリ踊っておられるの見ましたよ。」「海外の競技会にも、いろいろ出てるんだ。あんたなんか、うちの娘よりずっと若いんだから、どんどん海外の試合にも出た方がいいよ。楽しいよ。」「はい...。がんばります。」いろんな意味で、いい刺激をいただきました。決勝では、Y家のお母様と一緒に大きな声で私達の背番号を呼んで応援して下さいました。そして、私達は優勝しました。午後のD級戦スタンダード、こんどは、ゆっくり着替えることが出来ます。参加組数30組。2次予選のあと準決勝、決勝。ワルツと、苦手な、というより、まだ出来上がっていないクイックステップの2種目でした。結果、3位入賞。試合終了後、ラテンオープン戦優勝者のオナーダンスがあり、ルンバを披露させていただきました。応援して下さったY家のお母様に、この時の優勝カップ(結構立派でした)を受け取っていただき、京都の母と同様、ホワイトデーのお返しに代えさせていただきました。私だったら、キャンディのほうがうれしいかも、と、ちょっと心配でしたが、リーダーにとっては、これ以上ないプレゼントらしく、贈られたお母様より贈っている彼の方がうれしそうに見えたのでした。これならきっと、もらってうれしい (太らないかも、大豆たっぷりケーキ)
2005/11/10
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2004年4月25日、第1回 JPBDA東部総局主催公認ダンス競技会が、すみだ産業会館で開催されました。プロの競技団体がいくつもあって分りにくいのですが、JPBDAは、アマチュアの競技団体JDSFの昇降級と互換性があるプロの団体です。会場は、東京下町、錦糸町駅前丸井の8階で、アクセスもよく買い物も便利。お昼ご飯はデパチカでお弁当を買いました。通常、午前中はラテン、午後はスタンダードと分かれているのですが、この日は大きく違いました。なんと、A級戦 ラテンと、D級戦スタンダードの試合が、午後に続けて行われるプログラムになっていたんです。A級戦 ラテンとD級戦スタンダードの組み合わせで出場する選手は、どうやら私達だけだったようで、そんな選手がいるとは、大会事務局側も思っていなかったのでしょう。たしかに、変わった取り合わせです。スタンダードは、ワルツ、タンゴの2種目で、準決勝から、スローフォックストロットも加わって3種目。参加組数53組。予選の間は、それでも余裕がありました。男性は燕尾服、女性は黒のロングドレス。スタンダード3次予選まで勝ち残って、問題はここからです。ラテンの試合までに時間がありません。男性は黒のタートルネックに黒のパンツ、女性はレモンイエローのフリンジミニで、髪に同色の羽根をつけてフロアに走ります。A級戦 ラテン、参加組数9組。いきなり準決勝です。サンバ、チャチャチャ、ルンバ、パソドブレ、ジャイブの5種目を踊り終わって、ハアハア言いながら控え室にかけ戻り、燕尾服とロングドレスに着替えます。プログラム上では、間が4分しかなかったので、大会係におすがりして練習時間を取っていただき、その間に早着替えです。ラテンの衣装は比較的簡単に着られますが、スタンダードの、特に男性の燕尾服は、パーツが多い分、着るのに時間がかかります。汗の乾く間もなく、続いてワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、D級戦スタンダード準決勝です。そしてまた走って、ラテンに着替え、決勝のフロアへ。B級選手で決勝にすすめたのは私たちだけで、他は皆A級選手でした。非常に光栄なんですが、何とも忙しすぎて、細かいアクセサリーにまで気が向きません。髪につけていた羽は、どこかにいってしまいましたので、パス。5種目踊りきって、また、走って戻り、燕尾服とロングドレス。周りの方々もあっけにとられているのか、私達が踊り終わるたびにあたふた戻って来ては着替えているのを面白そうに眺めておられました。今度はスタンダードの決勝です。ふつう、ラテンとスタンダードでは、お化粧や髪型を変えたりするんですが、このときばかりは、そんな余裕ゼロでした。全部一緒。汗ダラダラ。結果は、A級戦 ラテン、6位。D級戦スタンダードは、5位。これで、スタンダードはC級に昇級しました。応援して下さっていた後援会長のY家のお母様もとても喜んで下さいました。それにしても、大変な試合でした。いつもの倍は、疲れたような気がします。連続早着替え、4連発。いい経験になりました。 『ポイント10倍』今すぐ痩せやすいカラダに早着替え!?かなり魅力的。試してみようかしら。<送料無料+10%OFF>藤木直人DVD【まっしろいカンバス Se:NaoHitTvTourVer6.0】13曲目は「早着替え」どんな曲だろ?時間がなくても大丈夫!すぐに締めれて安心!忙しい貴方の為の夢の結び帯お仕立します。早着替えようの帯です。
2005/11/09
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東京を横断して車で山梨県に入ると、咲き誇った桃の花で丘一面が桃色に染まっています。2004年4月10日、JBDF関東甲信越大会の春期全長野競技ダンス大会に参加するため、私たちは長野県松本市に向かっていました。駅前のホテルにチェックインして、初めて訪れる松本駅前を散策していると、なにやら人の流れが松本城の方に向かっています。城の入り口には、「夜桜祭り」と書いた看板が立っていて、素晴らしいタイミングでお城とお花見が両方堪能出来そうでした。東京上野や浅草の花見は、場所とりに始まって、カラオケあり踊りありのドンチャン騒ぎが普通ですが、ここ、松本城のお花見は、本当にお花を愛でながらお弁当をいただくという、上品で静かなものでした。周りを埋め尽くすように咲く薄桃色の桜は、幻想的な夜を作りだし、その中心に白く浮かび上がる松本城は、この雰囲気を壊すものは許さぬというかのように、凛とそびえていました。お城を巡る桜並木を楽しみながら一周し、携帯で薄暗い松本城の写真なんか撮って、ホテルに帰りました。翌日は、松本市総合体育館でラテンA級戦に出場。出場組み数30組のうち、A級選手が10組、B級選手が13組、C級選手7組という内訳で、私たちはこのときB級でした。この年から北関東大会と甲信越大会が合併して、昇級規定が変更になり、A級になるためには、2つの条件が設定されていました。1、年間を通じてB級戦で2回以上、3位以内に入ること。もしくは2、B級戦で1回3位以内に入り、A級戦で決勝に1回、もしくは準決勝に2回入ること。私たちは予選を勝ち抜き、準決勝に進みました。残念ながら決勝には残れませんでしたが、昇級規定の2番目にちょっとひっかかったかなと思っていました。ところがこれは大きな勘違いで、参加人数が50名に満たないときは2番は適用されないことになっていたらしいのです。そんなことも知らず、ぬか喜びの私たちは、帰りは埼玉県の方を通って、渋滞に巻き込まれながらも喜んで家路に付いたのでした。
2005/11/08
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金曜日、サラリーマンやOLが街に繰り出して、パーっと一週間の憂さ晴らしをしている頃、私達は薄暗いライトのスタジオで、激しいラテン音楽に身をゆだね、汗を飛ばしてひたすら踊り込みの練習をしていました。教室に通うラテンの競技選手だけが集まって、夜10時から練習会をしていただいていますが、その前の時間帯に、ラテン中級クラスのサークルレッスンがあるので、早めに行ってもなんとなく居場所がありませんでした。通常、サークルでダンスを初めて、ある程度上手くなったら個人レッスンを受けるという流れが、普通です。しかし、私は、今通っている教室で、逆の流れを起こしました。ペアの個人レッスンで入って、2004年4月から、サークルにも参加することにしたんです。それまでは、残業したり、ご飯を食べたり、足裏マッサージしてもらったりで時間をつぶしていましたが、練習会の前のいいウォーミング・アップになって、サークルへの参加は大正解でした。そのうえ、ステップだけではなく、ベーシックのムーブメントやリードの仕方も教えてもらえるので、私のような、適当ベーシックを踊っていたダンサーには、目からウロコの話がたくさんありました。個人レッスンと同じ、若いT先生が担当です。先生のいい所は、個人レッスンでもサークルでも、出し惜しみしないで、自分が持っている一番新しい情報を常に提供してくれることです。サークルは料金も安いですから、同じ様なことが習えるならグっとお得です。このクラスは比較的レベルが高くて、メダルテストのスーパーファイナリストがいたり、パーティの女王のような百戦錬磨のラテンダンサーたちもメンバーでした。皆さん向上心があって、サークルの前後に予習・復習クラブが出来たり、うわさは広まり、サークルはますます盛況になっていきました。先生が、引き締まったボディの動きを順番に触らせてくれるのですが、それも皆さんの楽しみの一つかもしれませんね。私のように、個人レッスンからサークルにも参加するようになった競技ダンサーも増え、数人で始まったサークルも、いまでは20人を超えて、教室満杯状態です。リーダーが時間的に参加出来ないのは残念ですが、入った当初に比べて、自分的にはベーシックが随分上達したと思っています。たくさんの方々とお知り合いになれたこともうれしいことの一つ。何より一番のメリットは、踊ることが、また、楽しいと思えて来たことでした。
2005/09/29
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京都府選手権で、ラテンA級、スタンダードC級ダブル昇級を決めた次の日、私達は、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)に遊びに行きました。これで、2回目です。前回は、何もない雨の平日だったので、特に感じませんでしたが、今回は天気もよく、春休みのせいか、ものすごく混んでて、新しいアトラクションの「スパイダーマン」なんて、260分待ち。「それって何時間?」とっさに計算できません。しかたがないので、前回雨で見られなかったショー関係を網羅しました。初めて来たとき、私が「ロッキーホラー・ロックンロール・ショーに入りたい。」というと、彼は、「そんなの面白くないよ。」なんて、見てもいないのにいってました。ところが、入ってみると、私よりずっとノリノリで、「ビートルジュース」に惚れ込み、手拍子、足拍子、ウェーブ、そこまでやるかのはしゃぎぶりです。「この前見られなかったショーを、今日は見ようね。」というと、「ロッキーホラーは、もう一回いくよ♪ビートルジュース、ビートルジュース♪」そんなの面白くないって言ってたの、誰だったかな~。立ち上がって踊る踊る。ブルースブラザースのショーや、ヒップホップダンスのショー、どれも並ばなくていいものばかりでしたが、最後にWater Worldにちょっと並んで入りました。大阪は、やっぱりやることが派手です。一時期火薬の使用量が問題になりましたが、ほんとにこれは規定以下なのか?と思うほどドカンドカンすごくて、水はバシャバシャバケツでかけられるし、もう大変。USJ、これこそ大人のアミュースメント。迫力が違います。<ロッキー・ホラー・ショー> <ビートル・ジュース> ビートルジュース ビートルジュース <スパイダーマン> スパイダーマン・スーツ これであなたもスパイダーマン! <ブルース・ブラザーズ> <ウォーターワールド>
2005/09/16
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今回スタンダードの試合に出るために、母が自分のドレスをリフォームしてくれました。グリーンのストーンをちりばめた黒のロングドレスで、夜空に舞うホタルのような美しさ。「このドレスでA級になってくれたら、それで本望や。」まだまだ、遠い道のりではありますが、このおかげで俄然やるきが出てきました。午後は、D級戦スタンダードに出場。参加組数48組。タンゴとスローフォックストロットの2種目です。1次、2次予選のあと、準決勝、決勝と進出し、なんと、こちらも優勝でした。実は、一つの競技会で、ラテン、スタンダード両方優勝したのは、これが初めてでした。そして、スタンダードも、C級昇級を決めました。試合終了後、京都府選手権優勝者のオナーダンスがありました。夜の女王から深紅のドレスに着替え、私達はラテン優勝者として、ルンバを披露させていただきました。「○○先生の息子さん」と、ばれてから、芋づる式に、ついには大会関係者にまで知れ渡り、表彰式では大会会長に、「お母さんによろしくね。」なんていわれてしまいました。これで1次予選敗退でもしたら、母の面子まるつぶれになるところでしたから、いい成績でほんとに良かったです。家に帰って、凱旋報告をすると、お母さんは自分のことのように喜んでくれました。「そういえば、ホワイトデーもらってへんの、あんたとこだけやなー。」うちのリーダー、バレンタインのチョコをお母さんにもらっておきながら、ホワイトデーのお返しもせず、私もすっかり忘れていました。「このトロフィーがホワイトデーや。」彼はこんな調子のいいことを言って、二つのトロフィーは、京都の自宅のスタジオに飾ってもらうことになりました。(おわり)
2005/09/15
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2004年3月28日、京都のガレリア亀岡で、第37回 京都府ダンススポーツ競技大会が開催されました。私達は前日から、主人の京都の実家にお世話になっていました。彼は、長男です。丁度、宇都宮に住んでいる弟(次男)の家族も京都に来ていましたので、落語家の よね吉(三男)も含め、みんなで応援に来てくれるのかなーと漠然と思っていましたが、実際はみんなそれぞれ用事があって、残念ながら応援団は、なしです。朝、バタバタ支度をしていると、お母さんたちがおにぎりを作ってくれました。お父さんの車を借りて、会場へ。小春日和の暖かい日でした。会場は京都五条通りから続く国道9号線沿いの「道の駅」で、太陽光をいっぱいに取り入れた近代的な建物。無料の大駐車場をそなえた広い敷地に建ち、大浴場、レストラン、売店も備えています。前日に、練習会があったので、フロアの様子は分かっていました。午前中は、第4回京都府選手権 (A級戦) ラテンに出場。参加組数13組。男性は黒のタートルネックに、サイドにストライプの入った黒のパンツ、女性は黒のロングドレス、通称「夜の女王」で、髪に銀ラメ入りの赤いバラをつけて出場です。選手権(A級戦)には京都、大阪、滋賀といった近県以外にも富山、高知、静岡、東京、千葉等からの参加もあり、選手権以外にも6級戦から全部の級の競技がある、にぎやかな大会でした。予選はサンバ、チャチャチャ、ルンバの3種目。準決勝からパソドブレが入って4種目となりました。試合中、だれも身内の応援がいないとかえって気が楽だと思っていましたら、母が勤めているダンス教室のスタッフが、別の生徒さんの応援に来ておられて、「○○先生の息子さんですよね。」と、ばれてしまい、そこから芋づる式に知れ渡り、なんとなく応援団が出来てしまいました。私達は決勝に勝ち残り、こんなことは、初めてですが、4種目とも1位の完全優勝。そして、この試合で、A級昇級を決めることが出来ました。お母さんに作ってもらったおにぎり、それはそれは美味しく頂くことが出来ました。(つづく)
2005/09/14
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2004年3月14日、春期 全群馬競技ダンス大会が群馬総合スポーツセンターで開催されました。この年初めての関東甲信越大会とあって。関東各県のみならず北陸上越方面からの参加者も多く、全体では1000組を超える競技ダンサーが集結した大会となりました。午前中は、A級昇級への切符がかかる、B級戦ラテンに出場。参加組数118組で、この中の3位までに入賞すれば、片道切符がもらえます。JBDF関東甲信越では、3位以内を2回とらないと、A級にはなれないことになっています。衣装は男性は黒のタートルネックにサイドにストライプの入った黒のパンツ、女性はサイドに大きくスリットの入った、黒のロングドレスで、髪に銀ラメ入りの赤いバラをつけて出場しました。去年の暮に2着買ったドレスの、クラゲじゃない方です。名付けて「夜の女王」。チャチャチャ、ルンバの2種目。私達は、1次、2次、3次と4次予選まで勝ち進み、ついに準決勝、そして決勝の6組の中に残りました。「夜の女王」大活躍。この日が、このドレスのデビュー戦でした。そして結果は、残念ながら4位でした。あと一息だったのに...。気を取り直して、午後はD級戦スタンダードに出場。参加組数235組、ワルツ、タンゴの2種目でした。リフォームした白鳥のドレスに白い手袋、髪にはラテンと同じ赤いバラをつけて出場しました。4次予選のあと最終予選は1ヒート22組の大混戦でした。235組から勝ち残った6組の中に、私達も入っていました。結果、準優勝。即日C級に昇級です。スタンダードはあまり練習していないのに、なんで、こんなに勝ち残るのか、自分たちでも不思議でした。多分、ラテンで培った足や体の使い方が、スタンダードにも生きているんだと思います。優勝したのは、よく練習場でお会いする茨城の若夫婦で、お互いに、健闘を称え合うことが出来ました。久しぶりにトロフィ-2個もらえて、大収穫の遠征でした。
2005/09/06
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東京都江東区にある、有明スポーツセンターは、今まで行った中でも5本の指に入る美しい体育館です。 宇宙船が着陸したよう円盤型の体育館には、360度の窓が付いていて、レインボーブリッジ、お台場を望むすばらしいロケーション。その窓際にぐるりとシートを敷いて、競技選手たちは着替えをしています。2004年3月7日、ようやく武道館の悪夢から立ち直った私達は、この素晴らしい体育館で行われた、第13回江東区ダンススポーツ大会に参加していました。2月はボーっと過ごしてしまって、先生にもあきれられるほどでしたが、3月に入って猛然と追い上げて、この日が、JDSFスタンダードのデビュー戦でした。まだ級を持っていなかったので、6級からでも出られましたが、いきなり1級戦に挑戦。参加組数186組。ワルツ、スローフォックストロットの2種目です。服装規定があり、ストーン、スパンコール等フロアを傷つける可能性のあるものを身につけることは禁止のため、男性は通常通り燕尾服でしたが、私は違いました。冬のパーティでパソドブレを踊った、赤のアラビアンナイト風ロングドレス。つまり、スタンダード用のドレスではありませんでした。髪に銀ラメ入りの赤いバラをつけて、ますます、フラメンコダンサーのようないでたちです。186組のうち、決勝に残った6組だけがD級昇級を決めるという激戦でした。優雅なロングドレスの中のフラメンコダンサーは、それだけで多分目立って、1次予選、2次予選、3次予選と順調に勝ち進んでいきました。踊り終わった後の、クルクルっと回ってお辞儀も、効果あったのかもしれません。最終予選、準決勝も踊って、デビュー戦にしては出来過ぎの、決勝進出を果たしてしまいました。ダンスの神様、ありがとう!美しい満月が、東京湾を照らしていました。レインボーブリッジには明かりが灯り、ゴージャスに輝く東京の夜景が、宇宙船のような体育館の窓から360度のパノラマで広がっていました。186組の頂点に立ったのは、私達でした。久しぶりに手にした優勝杯。清々しい感動に包まれて見た夜景は、いまでもはっきりと脳裏に焼き付いています。
2005/08/31
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「ネコ人間のあたしは~、お気楽極楽♪ ニャニャニャニャ♪」NHKみんなのうたで、こんな明るい曲が流れて来ても、私は一人、ため息をつく毎日でした。2004年2月、風邪は治りましたが、全然やる気が起きません。武道館での失敗が、思い出すたび悔やまれて、なんか気合いが入らないんです。リーダーの仕事が忙しいのにかこつけて、全然ダンスレッスンにも行ってませんでした。武道館で初めて着たドレス、ふんずけてコケたせいでやぶけちゃって、ガーゼみたいなメッシュ布だから縫うこともできないし、まだ1回しか着てないのにもうガックリ。先生のお下がりとはいえ、5万円もしたのに...。ロンドンインターに出場しよう!という話も、先生の試合の都合で、キャンセルになってしまい、代わりに誘われた8月のスロベニア・サマーキャンプも、リーダーの仕事の関係で参加できません。なんか明るい話題ないのかなあ。テレビからは、あいかわらず明るいみんなのうた。「ネコ人間のあたしは~、お気楽極楽♪ ニャニャニャニャ♪」ニャニャニャじゃないよ、全く...。 2月一杯こんな調子でしたが、3月に入ると、やっとツキが変わってきました。バンドで歌いまくって、なんだか気分すっきり。久しぶりにダンスレッスンに行くと、先生が「目のやり場に困る」くらい退化していて、ちょっとショックでした。封印していたドレスは、やぶれちゃった部分のストーンをはがして、裾あげすることにしました。300個くらいのストーン剥がしを手伝ってくれたリーダーは、爪が痛いといって泣きました。フレアになっているので見た目よりずっと裾が広く、私も慣れない手縫いで、凄い肩こりに苦しみました。しかし、一針一針、願いを込めて縫ったので、きっと今度はうまく踊らせてくれると思います。こうして封印された「クラゲ」は、復活の日を待つことになりました。
2005/08/30
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見上げると、彼の顔がそこにあって、溺れかかった子供を助けるように、私に手を差し伸べ、目で訴えかけていました。大丈夫だよ、早く起きて。さあ、ぼくと踊ろう。私は、多分、泣きそうな顔をしていたんだと思います。本当に、走ってフロアから逃げ出したい気持ちでした。しかし、私は、彼の手につかまって立ち上がりました。曲は、チャチャチャからサンバ、ルンバ、そしてパソドブレと変わって行きます。 キャロル先生に習ったばかりだった部分、沢山間違えました。しかし、そんなことより、踊りきること、私には、いま、それだけが最重要課題でした。絶対に逃げないこと、自分に負けないこと。風邪で頭がボケボケでも、息がどんなに苦しくても、ころんだショックから立ち直れなくても、何があっても、「踊りきった」という勲章だけは持ってかえろう、そう自分にいい聞かせながら、踊っていました。予選が終わってスカートを見ると、やはりうしろが破けていました。替えのドレスを持って来ていなかったので、もし、準決勝に残ったら、またこのドレスで出なければなりません。しかし、幸か不幸か、私達の戦いはここで終わりました。この日は、競技の他にも様々なイベントが用意されており、フォーメーションや、プロアマミックスコンペ、アマチュアのデモ、ダンスタイムもありました。アマデモで素敵なルンバを披露された方は、83歳の女性でした。どう見ても、もっと若々しい感じの、足なんか、高く上がっちゃう方で、会場からはどよめきと感嘆の声が上がりました。83歳でもあんなに踊れるんなら、わたしなんか、まだ先が沢山ある、とても心強く感じました。そのうち、薬が切れたのか、私は鼻詰まりと頭痛でしっかり目を開けていられなくなり、持って来たポケットティッシュ全部使いきって、2階席の後ろの方で壁に寄りかかって寝ていました。ときどき薄目を開けては、ブライアン&カルメン、ティモシー・ホーソン&ジョアン・ボルトン、そしてジョナサン・クロスリー&リン・マリナーのデモを見ていましたが、あまり記憶にありません。はっきり覚えているのは、この日来ることになっていた、クリクリビー組が怪我のため欠場になったという放送が入ったことです。長い一日でした。自分が踊ったのは、ほんの短い時間でしたが、一生忘れられない想い出が出来てしまいました。「クラゲ」と「エルビス」のコスチュームは、このことがあってから封印され、しばらくは日の目を見ないことになったのです。
2005/08/24
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朝から絶不調でした。鼻水のプールに脳みそが浮かんでいるような感じで、止めどなく流れ落ちる鼻水で顔が洗えそうでした。よっぽどのことがない限り、安静にしていた方がよかったのですが、それは、2004年2月11日、待ちに待った武道館デビューの朝でした。ワールドダンスファスティバル、ユニバーサルグランプリダンス選手権、長い名前の大会です。日本武道館は、いろんなミュージシャンのライブで何度も行ったことはありますが、自分が出るのは、これが初めて。いつも応援して下さっているY家のお母様は、何万円もするアリーナテーブル席を購入されて、楽しみにして下さっているので、絶対に穴をあけるわけにはいきません。それに、お正月返上で、練習して来たんだし、買ったばかりのドレスを初めて着る、晴れの舞台でもあります。普段、めったに薬を飲まないので、ここ一番で飲むと、あれほど大洪水だった鼻水がピタっと止まりました。熱でボーっとしていましたが、傍目には全くの健康体です。受付で立派なプログラムを受け取ると、今日出演予定の、海外プロ選手、日本のトッププロたちの写真の後に、アマチュア招待選手、私達の写真も載っていました。格好良すぎます。自分たちじゃないみたいです。オープンラテンの出場者は17組。全員、フロアに入ります。周りをグルっととりかこんだスタンド席は高くそびえ、私はすり鉢の底の、ゴマ粒のような気分でした。クリーム色のフロアにまぶしく照りつけるライト。ああ、これが武道館なんだ。チャチャチャの曲が始まりました。周りの選手がビュンビュン踊り始めるのにつられて、私達も普段より振りが大きく、動きもダイナミックになっているのを感じました。私は、「クラゲ」と呼んでいるドレス、彼はエルビスのコスチュームです。と、その時、一瞬、膝が固まりました。スカートにヒールが引っ掛かったんです。「ビリッ!」スカートが破けた音です。周りの景色がスローモーションで変わって行くのが見えました。私の視線は、彼の顔から二階席へそして天井から降り注ぐライトへ。気がつくと、フロアにひっくり返っていました。その間、多分わずか数秒だと思いますが、とても長い時間が経ったような気がしました。私はこのままバターのように溶けて、フロアにしみ込んで消えてしまいたいと思いました。(つづく)
2005/08/23
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A級へのリーチを決めた試合の直前、リーダーは熱を出して寝込んでいました。後になって、その前の週の火曜日に、ダンス教室で練習会に参加していた人のうち、最低4人が同じ風邪に感染して、みんな39度近い熱を出していたことが判明しました。私はなぜか、うつりませんでした。週2回のラテン練習会は、このころ、5組くらいの競技選手が参加していましたが、新たな試みとして、パートナーをかえてルンバベーシックを踊る練習を始めました。そうすると、リードやフォローにものすごく神経を使うので、オリジナルカップルにもどったとき相手を思いやる姿勢が体に残っていてとても踊りやすく感じます。男性は、自分のリードがいかに相手に伝わってないか、女性はいかにリードを無視して踊ってるかを思い知ることになります。たぶん、このパートナー交換練習で、風邪のバトンリレーみたいなことをしていたんじゃないかと思います。リーダーが風邪で寝込んでいたので、試合前でしたが1週間練習をお休みし、たまたまテレビでやっていた「Shall we ダンス?」を、また見ました。以前、「最近踊ってても楽しくない」とぐちったことがありました。先生の注意やいろんなことを考えながらいつも踊っているので、ダンス自体を楽しく感じなくなっていたんです。たまこ先生が、競技会で緊張している主人公に「音楽にのって楽しく踊ればそれでいいのよ。」っていう台詞。なんかしみじみ感動しました。ただ音楽にのることだけを考えられたら、きっとダンスもたのしいだろうなあって。このとき、世界戦のラテンファイナリストだったポール・キリックのパートナーのハンナは、試合が近くなると注意事項をメモにして、家中のあっちこっちに貼るといっていました。こんなトップ選手でもまだ注意事項があるんだと思って少し安心しました。まだ、彼の風邪が完治していなかったにもかかわらず、試合の日は容赦なくやってきます。2月1日の試合を何とか乗り切って、しばらくすると、今度は、私の方が喉が痛くなって来てしまいました。どんな手を使ってでも治そうと、必死です。それは、夢の武道館出場の4日まえのことだったのです。
2005/08/21
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2004年最初の試合は、2月1日、立川市柴崎市民体育館で行われた、第38回東京都民ダンススポーツ大会でした。一年前、同じ大会のB級戦に出場して、準決勝で敗退していますので、今年はその雪辱を晴らすという意味でも、重要な試合でした。息が真っ白に凍る、よく晴れた寒い朝でした。東京を東から西に走る中央線に乗って、立川駅からモノレールに乗り換えです。私たちが到着したときには、既に多くの競技選手達が、日だまりに暖をとりながら長い列を作って、会場が開くのを待っていました。JDSFではこの年からA級昇級規定が変更になり、B級戦で、エントリー数の上位20%の成績を2回とる必要がありました。去年までは1回でよかったんです。会場のドアが開いて、受付を済ませ、プログラムをみると、B級戦ラテンの参加組数25組。今回は5位までに入れば、1/2昇級です。せっかく決勝に残っても、6位ではだめなんです。予選はサンバ、チャチャチャ、ルンバの3種目でした。服装規定があり、ストーン、スパンコールその他イアリング、髪飾りも禁止です。年末に買った新しいドレスも含めて、私が持っているドレスには全てストーンが付いているので、競技用のドレスは着られません。そこで、パソドブレやタンゴの練習で着る、赤のフリルのシャツに、黒のパンツで出場しました。リーダーも、ストーンキラキラのエルビスは着られないので、ハイネックの黒のシャツに横にストライプの入った黒のパンツ。予選は無事通過して、準決勝からパソドブレが加わって4種目となりました。正月返上で練習した成果が充分に生かされて、この日も「ここは武道館だ!」なんて、変なこと言い続けてたリーダーをなだめつつ、決勝に進むことが出来ました。「ここは、立川なの。」(第200話をご参照下さい)表彰式では、6位から名前が呼ばれます。私は心の中で、「お願いですから、6位だけは勘弁して下さい」と祈り続け、その願いは叶いました。5位以上なら、A級へのりーチがかかるので、何位でもいいとは思っていたものの、5位、4位と別のカップルが呼ばれていくと、ちょっと欲が出てきます。3位、しかし、ここで、私たちの名前が呼ばれました。あとでスコアを確認すると、サンバ、パソが2位、チャチャ、ルンバが5位で総合3位でした。チャチャ、ルンバはみんなたくさん練習しているので、上手なカップルが多いんですね。この日は、東京都選手権も行われたため、東京都所属のカップルは合わせてこちらにも出場した人も多く、見ごたえがありました。中でも、優勝した三森組の踊りは、今年からプロに転向しましたが、とても参考になり、今でもこのときのビデオを時々取り出しては参考にさせてもらっています。
2005/08/20
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2003年の年末も押し迫ったある日、1通の手紙が届きました。私達が出場しているダンス競技会を主催する、3種類の競技団体のうちの一つ、JCF事務局からの手紙でした。開けてみると、会長からの手紙で、2月に開催されるインターナショナルなグランプリに、招待選手として出場して下さいという内容です。始めは、二人とも、何のことかさっぱり分かりませんでした。このとき、JCFでの私達の持ち級は、C級。なのに、なんで、国内最高のグランプリA級戦に、私達が招待されるんでしょう??しかも、国際大会なので、プロの部門では、世界戦ファイナリストのブライアンや、ポール・キリック、クリクリビーなんかが招待されてる試合です。場所は日本武道館。招待状には、出場料免除、プログラムに載せる写真送れとか書いてあって、こんなの初めてなので、いまいち実感がわきません。1年前のダンス雑誌で調べてみると、やっぱりすごく大きな大会です。出場者もキラ星のごとき方々ばかり。落ち着いて、よーく考えてみると、そういえば、この年、JCF東部選手権で、5位の大金星の試合がありました。怖いもの知らずの私達は、2003年始めから、とにかく競技会で一番上のクラスの試合に出ようと決めていて、東部選手権(A級戦)に出場し、まぐれで入賞してしまっていたんです。というわけで、年末年始は、スタジオに通いつめて半スタッフ化しました。先生たちも誰か練習に付き合ってくれる人がいないとダラケるからちょうど良かったのかもしれません。わりと気楽に練習するつもりだったんですが、手紙が来てから、気合いの入り方が変わりました。この月のダンスビユウに、現日本代表の瀬古組の記事が載っていて、練習するときは、いつもそこが武道館だと思って踊るって書いてあったのに影響されたうちのリーダーは、「ここは武道館だ!」を連発し、それが、この時から約1ヶ月続いたのでした。
2005/08/19
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2003年の年末最後のラテン練習会が12月26日にありました。毎週火曜日と金曜日、教室に通う競技選手だけで1時間ほど踊り込みをする会で、私達はその定番メンバーでした。練習会のあと、先生たちは、自分たちが今年着たドレスの安売り会をして、参加していた競技選手カップルが、次々と気に入ったドレスの試着をし、私は2着、彼も1着買いました。やっと年賀状も赤いドレス姿じゃなくなると思うと、もううれしくってうれしくって早くお披露目したい気分満々です。しかし、年が明けて最初の試合は「スパンコール、ストーン禁止」。残念ですがしばらくお預けです。ちなみに、1つは黒のロングドレス。左足の付け根から斜めに大きくカットの入ったシースルーで、全面にビーズが縫い込んである、ゴージャス&アダルト。もう1つは、とても珍しいデザインで、茶色と青のストーンを散りばめたトップスと、青いシースルーのスカートを沢山のリボンでつないだ「クラゲ」と呼んでいるドレスでした。彼がゲットしたのは、高いエリと手首にびっしりとストーンを付けた黒のコスチューム、通称「エルビス」です。中に一杯パットが入っているので、これを着ると、マッチョな外人体型に変身出来ます。2004年からJBDF北関東の試合が、今までの千葉、茨城、埼玉、栃木、群馬の5県に、新潟、長野、山梨も加わって8県になり、関東甲信越と名前も変わります。D級の下にE級F級ができて、今までのように、のんびり1年に1回D級戦にでていれば、D級維持が出来たのとは違い、もたもたしてると、どんどん下がっていく方式です。JDSFの昇降級規定も大きく変わり、B級戦で上位20%以上の成績を2回とらないと、A級になれないという、厳しいものになります。私達は、2003年、あと1歩のところでA級に届きませんでしたので、2004年はスタートダッシュで、あっという間にA級を決めようと意気込んでいました。競技選手にとってコスチュームは、戦いの勝敗にも影響する鎧のようなものです。新しい鎧を手に入れて、新年に向けての戦闘準備は万全でした。
2005/08/18
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千葉県市川市は、寅さんの映画によく登場する江戸川を渡ってすぐの、東京に一番近い千葉県です。2003年最後の試合は、12月21日、国府台スポーツセンターで行われた、市川市長杯争奪・第12回市川市スポーツダンス競技会でした。この競技会は、昇降級が関係ないので、年明けすぐに昇級が確定しているカップルが、腕試しや、持ち級最後の錦を飾るために出場して、比較的レベルの高い競技会です。入賞するとトロフィーや賞状のほかに、おいしい賞品が付いているのも魅力です。例えば、オープン戦スタンダードでは、ホテルニュー赤城1泊無料宿泊券とか、オープン戦ラテンではダンスシューズ、男女1足ずつ、D級戦で優勝すると、ダンス雑誌半年無料、他にも、Tシャツや靴袋なんかがもらえることになっていました。C級以下でないと出られないので、ラテンは出られません。スタンダードのほうは、このときまだ持ち級がなく、こちらはどれに出ても良かったので、1級戦に出場しました。種目はワルツ、タンゴ、スローフォックストロットです。3級くらいでもよかったんですが、ちょっと上を狙ってみたわけです。参加人数は約50組で、予選は3次までありました。いつも狭いスタジオで練習しているので、試合で急に広いとこに出されてもフロアをいっぱいに使い切れません。予選が終わるたびに彼と「ここは距離が足りないからファイブステップを入れよう」とか「ぶつかって止まったらPPから始めよう」とか相談して、廊下で練習しました。そのおかげか、予選を重ねるごとにフロアの広さにも対応できるようになり、コネクションもだんだんよくなってきました。準決勝、決勝と合計5回踊り、私たちは準優勝に輝きました。優勝された方は、同じ教室の、いつもお世話になっている方なので、W入賞という感じで喜びも2倍でした。先生に報告すると、「何がよかったんだろうね。」と聞かれました。それは、私たちの方が聞きたいです。たぶん、私たちが一番上手だったのは「お辞儀」だと思います。1級戦くらいだと、まだお客さんにアピールできる余裕はないので、みんな踊り終わるとそそくさと帰っていくのですが、その点ラテンの蓄積が功を奏し、クルクルっと回ってお辞儀して退場したので、ちょっと審判にも印象付けられたんじゃないかと思ってます。これで少し自信がついて、2004年はいよいよ、JDSFスタンダード部門にもデビューすることにしました。
2005/08/11
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2003年12月6日、ダンススポーツグランプリ in 福岡に参戦するために、北九州空港に降り立ちました。試合は翌日の7日で、私達は、シニアラテンの日本代表選考会のために、やってきたのです。大会事務局で用意して下さった北九州プリンスホテルには、見たことある顔があちらにもこちらにも。競技選手のほとんどは、このホテルに宿泊していたようでした。試合会場となる北九州市的場池体育館を、夜、選手の練習のために解放して下さって、私達もダンスシューズをもってでかけました。メイン競技の、スタンダードグランプリに参加される方も練習に来られていて、今では日本代表になっている石原組もこの練習会に来ていました。キャロル先生の、「練習の時には必ずジャイブを踊ること」という言いつけ通り、早速曲に合わせて、まだ全然板についてないジャイブを踊っていると、それを見ていた石原組のパートナーに、小さく「クスッ」と笑われてしまいました。それが、かなりリーダーの心に強く残っているらしく、いまでも、「もう笑われないくらい上手くなったかな。」とその時の話が出てきます。この練習会で、初めて現シニアラテン日本代表のYさんと言葉を交わしました。もの凄く上手くて、一緒に競技フロアに立つのが嫌になるほどでしたが、「明日は、お互いがんばりましょう。」と言っていただき、それだけで、少し日本代表に近づいた気がしました。さて、一夜明けて試合当日。この日は一般競技がラテン、スタンダードとも4級戦からC級戦まであって、メイン競技のシニアラテンとスタンダードグランプリの準決勝以上は、夕方の5時のセレモニーの後でした。特に、シニアラテンは、参加者が12組でしたので、予選もなくいきなり準決勝です。残念ながら2ポイント差で決勝には残れず、7位の成績でした。しかし、僅差の7位ということで、前回よりは少し前進。盛大にお祝いは出来ませんが、ミニ懐石で名物のふぐを頂き、楽しい遠征の想い出が出来ました。翌日は、前から行ってみたかったスペースワールドに足を伸ばしました。駅からタクシーで、「スペースワールドお願いします。」というと、運転手さんが、怪訝そうな顔で、「本当に行くんですか?」なんて言われるので、なにかまずいこと言ったかな、と心配になってしまいました。平日のしかも、冬のせいもあると思いますが、何となく閑散とした雰囲気で、いまいち、「是非もう一度来たい」というムードにはなれず、いくつかアトラクションで遊んで夕方の便で羽田に帰ってきました。実は、母が博多の生まれなので、親戚がこの辺には多く住んでいます。ダンスの試合が決まって、母に、「おばさんたちに連絡した方がいいかな。」と、一応聞いてみると、しないほうが良いだろうという答え。きっと、私が試合で行くと知ると、みんな旗もって応援に来るから、かっこ悪いというのです。確かに、1回踊って終わりじゃ、あまり応援のしがいがないですね。早くもっと上手になりたいなあ。<ふぐ料理いろいろ> クール便送料無料もあります
2005/08/10
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ダンスの競技会には、何組かが一緒に踊って勝ち抜いていくものの他に、ショーダンスというのがあります。これはプロだけで、アマチュアにはない大会ですが、世界選手権に出場するカップルを決めるための選考会が年に1度あります。フィギア・スケートのペアダンス自由演技に似ていて、あらかじめ自分たちで決めた3分くらいの曲に振り付けして、一組ずつ踊るというものです。採点方法も、テクニカル・メリット(技術点)とアーティスティック・インプレッション(芸術点)で採点されるので、シンクロナイズド・スイミングなんかとも似ています。私は、このショーダンスが大好きで、2003年11月16日に行われた、JDC主催の選考会を見に行きました。どうせなら、見るだけじゃなくて、踊っちゃおうということで、合わせて行われていたB級戦ラテン競技に出場することにしたんです。私達の試合の方は、出場組数19組。予選は7位で通過しましたが、ジャイブが入って5種目になって、準決勝では10位の成績でした。このころ始めた床を長く使う踊りは、今までより足の筋肉を多く使うため疲労しやすく、途中で足が棒になってジャイブまで持たなかったんです。これがこの年最後のB級戦だったので、2004年もB級のままに決定してしまいました。Y家のお母様も応援に駆けつけて下さったのですが、何と、メインイベントのショーダンスをご覧にならずにアマチユア戦だけ見てお帰りになられました。せっかくきていただいたのに良い成績が残せず本当に残念です。優勝したOさんは筑波大の学連出身で、よく試合で顔を合わせるので何度か話をしました。うちのリーダーの赤いコスチュームを譲ってくれたN先生の先輩にあたります。ショーダンスの方は、昨年同様ラテンは山本さんが優勝でした。もう、全然他の選手とは比べ物になりません。芸術です。世界ショーダンス選手権で3位というのは、これより凄いカップルが二組もいるのかということでなんだか世界が遠く感じられました。スタンダードは谷堂・早野組の「よっぱらい」でした。これまた去年より一段と演技に磨きがかかっており、感動しました。今年はどんな選手のどんなショーダンスが見られるのか、毎年とても楽しみです。ショーダンスを踊る山本組(テーマ:Jazz)
2005/08/03
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2003年11月9日、JBDF北関東支部の全埼玉競技ダンス大会ラテンB級戦に出場しました。年度末のB級昇級を決めていたので、これは腕試しのような試合でしたが、種目があまり得意でないサンバ、パソドブレということで、勝ち残れるかどうかはやってみなければ分からない微妙な試合でした。いままで、いい成績を取れたのは、全部チャチャチャとルンバのおかげでしたので、それ以外の種目でも、B級選手の資格アリというところを証明したいと思っていました。パソドブレは、スペインの闘牛士の踊りです。ただでさえ格闘技系の私たちは、この生きるか死ぬかの真剣勝負の踊りになると、必要以上に力が入ってしまって、お互い邪魔しあいます。力を入れて踊るのは、力強く踊るのと全く意味が違うのですが、その辺がこのころ、まだ分かっていませんでした。パソドブレの振り付けをT先生に組んでもらってから、1年以上は経っていましたので、かなり慣れてはきていましたが、味方のはずのパートナーを力づくで潰しあう、普通ありえないような本当に格闘技のような踊りでした。途中に、闘牛士がマントを大きくひるがえして、そこを牛が通り抜けていくような振り付けが入っているのですが、試合の前、会場の外でその部分を練習していたら、彼の大きく振り上げたコブシが私の顔面を直撃し、唇が切れて、流血騒ぎです。泣くと化粧が崩れるので、目にいっぱい涙を貯めたまま、化粧室に駆け込みました。彼は、心配そうに、入り口でウロウロ。幸い大事には至りませんでしたが、ニッコリ笑うと、にじんできた血で前歯が赤く染まって、不気味です。美しさと華麗さを競う試合なのにホラーなんです。この時は、絶対歯を出さないで、謎のほほ笑みを浮かべたまま、競技で踊りました。口の中が、鉄のような味がして、本当に気持ち悪い感じ。みなさんはこんな、「危険なダンス」を経験したこと、ありませんか。ちなみにこの時の結果は、最終予選で敗退でした。
2005/07/23
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月に一度のセッションを続けているロックバンド「Zinc Sulfide」。ベース担当のBちゃんに、2003年11月、一大転機が訪れました。彼はいつもスタジオにビーチサンダルで来るので、Bちゃんと呼ばれるようになったんです。「結婚することになったから、今度のスタジオ後の飲み会に彼女つれてくる。」というメールが回り、みんなそれぞれのパソコンの前でひっくり返りました。1ヶ月前のセッションでは、彼女の「か」の字も出て来なかったのに、どこで知り合ったの? そして,スタジオ当日。凄い美人が現れました。ドラム「なんかさ、柴崎コウに似てるっていわれない?」ギター「ほんとだ。にてるにてる。」心なしか、男子の声が少しトーン高め。キーボード「あー。そうだね。目の辺りとか,似てるよね。」ヴォーカル「シバザキコウって、だれよ?」この一人だけ会話に参加できてないのが私。普段、帰りが遅いので、ドラマとかには全く縁がなく、芸能情報はさっぱり分からないんです。プリンターの宣伝に出てる人だっていわれたので、帰ってから調べて分かりました。うん、たしかに似てるかも。でも実は私、このコマーシャルに出てる人のことを、浅野温子さんだと思ってたんですよね。人に言わないでよかった。それにしても、先月までスポーツクラブで鍛えて6つに割れた腹筋を見せびらかしていた、競馬好き、女好きのBちゃんが、どこをどうしたら,こんな美人と知り合えたんでしょう。確かに,彼もハンサムだけど。どうやら、スポーツクラブのボクササイズのクラスで知り合って、おつきあいが始まったらしいです。二人は11月に結婚し、オリンピック直前のギリシャ・イタリアに新婚旅行に行って、すぐに子供が生まれました。都内一戸建ての新築住宅も出来上がり、その度にバンドメンバーは御祝儀袋を渡していました。去年の、文字ばっかりのつまらない年賀状がうそのよう。翌年は、新居の居間で家族三人の写真入りです。バレーボールの攻撃で、Aクイック、Bクイックなんていうのがありますが、まさにBちゃんのクイック攻撃。人間やる気を出せば,一年でこんな劇的な変化を遂げることが出来るんだなあと、感心してしまいました。
2005/07/21
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2003年11月2日、JBDF北関東支部の全千葉ダンス競技会が開催され、私達は、ラテンB級戦とスタンダードD級戦に出場しました。Y家のお母様や友達のCちゃんが応援に駆けつけてくれて、私たちのビデオを撮ってくれました。特にスタンダードは、彼と二人で「えー!!こんな踊りしてたの?」と絶叫してしまうほど、自分達がイメージしていたものとはほど遠く、これはまだまだ先が長そうだと実感しました。この年からスタンダードを再開して、先生がおだてるもんで彼はすっかりその気になり、私たちの目標が「シニアラテン世界選手権」だったはずが、いつのまにか「シニア10ダンス世界選手権」になっているほど、お調子者ぶりを発揮していましたが、これですっかり現実に目覚めました。笑っちゃうのが、彼の左手がずっとパーのままで踊っていて、まるで影絵の犬みたいなので、このときから彼の呼び名は「バウワウ星人」となったことです。ダンスの時、男性の左手と女性の右手で握りあって、コネクションをとるので、パーの手ではリードが伝わりにくいのです。また例によってかれは「なんでパーのまま踊ってるのに気が付かなかったんだろう。」と自分を責め、「バウワウ星人じゃ点入れてもらえないよね。」と自分のことを「バウワウ星人」とみとめて嘆いておりましたが、もちろんそのせいだけで予選落ちだったわけではありません。Cちゃんに、この「バウワウ星人」の話をすると、「へー、そんな手がパーの星人がいるんだ。」なんて、ボケてくれて、大爆笑してしまいました。手がパーになっている「バウワウ星人」なるキャラクターがいるわけではなく、影絵の犬みたいな手の組み方で踊っていた彼にたいして私がつけたニックネームです。(バウワウは英語で犬の鳴き方)ここまで説明してやっと分かってもらえたと思ったら、「バウバウ星人なるもんが、なんかのキャラクターかなんかにいるのかとおもったよー。手がパーの犬のさー、へんな宇宙犬を・・・・想像しちゃったよ。そうか、女性の背中にある男性の手はとじておくのね、ピタッと!!」そーじゃないよ、Cちゃん。閉じておくのは私の背中にある方じゃなく、もう一方のつないでる方の手だってば。それに、バウバウじゃなくて、バウワウだから!手がパーの犬って...犬の手にパーとがグーがあるかしら?犬ってグーできるの?なんか話が変な方向に行きそうだな。とにかく、bow・wow だから。この日は両方とも予選落ちでしたが、もう、笑いすぎて、試合の結果なんて気にならなくなりました。持つべきものは、ギャグな友達。DVDウルトラマン コレクターズBOX <初回限定生産>新スター・トレック コンプ・シーズン1 コレクターズ・ボックス(通常版) ◆20%OFF!
2005/07/15
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いままでで、一番印象に残る試合の一つが、2003年10月12日、千葉県ダンススポーツ競技大会です。私達はこの日、A級昇級をかけたラテンB級戦に、参加していました。同じ日に、他にも7つ競技会が開かれていたらしく、エントリーは12組と大変少なかったので、A級昇級は2位まででした。2003年の昇級規定は、いまより緩やかで、B級戦の上位20%に1回入るだけでA級になれたのです。2004年から規定が厳しくなって、今はB級戦の上位10%に2回入らなければA級になれなくなりました。お客さんがD級戦の優勝者を予想する「私もジャッジ」とか、抽選で当たった人には豪華賞品とか、いろいろな企画が用意されている面白い大会でした。また今回初めて、決勝で5人のジャッジが、それぞれの選手につけた得点表が公開され、それも参考になりました。驚きなのは審判長と若い女性のジャッジは、私たちに全種目1位か2位をつけてくれていたのに対し、他の3人のジャッジは5位~7位をつけていたことです。つまり完全に評価が2分されていたんです。これは私たちに限らず、他の選手に関しても1位をつけている人もいれば7位をつけている人もいて、見方に共通性がありません。いつも試合で顔をあわせる地元の美男美女Kさんも、この試合に出ていました。そしてなんと、そのKさんと私たちは同点で、ジャッジの多数決で2位と3位が決まると言う、世にもまれな試合だったのです。2位と3位は天地の差があります。2位までが来年A級、3位だと来年も1年間B級なのですから。結果は、3対2でKさんたちが2位となり、A級昇級。私達は3位でした。知り合いの方に「おめでとう」といわれてもなんか素直に喜べない結果でした。試合が終わった後、すぐに着替えてお台場に行きました。東京で開催されていた国際会議に参加している友人が、忙しいスケジュールの合間に連絡をくれて、一緒にディナーを食べることになっていたのです。彼女はアメリカ人で、2度のフライト経験がある、金髪美人の宇宙飛行士です。久しぶりに会えたうれしさもありましたし、彼女と別れた後、リーダーおすすめの地ビールバーにつれていってもらい、おいしい白ビールを飲んだので、もうすっかり気分は切り替わりました。負け惜しみですが、来年もB級戦に出まくって、こんどはダントツ優勝を決めてA級になってやる。美しくライトアップされた東京タワーを見上げて、そう誓いました。東京タワー 通常版東京タワー<こちら、おいしい白ビール> おためしあれ。特にヒューガルテン最高!
2005/07/08
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2003年9月21日、JBDF北関東の茨城大会が、東京駅から高速バスで約1時間、茨城県つくば市の中央にあるイベント会場、つくばカピオで開催されました。近県から1000組近い競技選手が集結して、普段そんなに混まない道路が大渋滞でした。雨の中、東京からわざわざY家のお母様が応援に来て下さって、私達の燕尾服&ロングドレス姿を「初々しくて上品で、ウイーンの上流階級の子女のデビュタントそのものを見るよう。」なんて、身に余るお褒めの言葉を頂き、お土産に三越のカニ缶までいただいて、私達はすっかりノリノリでした。合気道の道場の仲間、リカルドとマルティンも、彼女を連れて応援に来てくれて、もうこれは,何が何でもがんばらねばと、力が入ります。スタンダードD級戦、出場組数198組。種目はワルツとタンゴです。真ん中の白いドレスが私達です。一次, 二次と予選を突破したものの、三次予選で大きく失敗し、そこで敗退してしまいました。このことがよほど悔しかったらしく、お昼ご飯を食べてる間中、彼は「なんで間違えちゃったんだろう」、とジメジメ悩み、私をいじめ、自分を責めていました。よっぽど応援に駆けつけて下さった皆さんに、いいところを見せたかったようです。私はわりとサッパリしていて、「人間なんだから間違いはあるよ」といっていたんですが、午後のラテンではもっとすごいことが起こってしまいました。スタンダードに比べたら何十倍も練習しているはずのチャチャの、しかも出だしの一番目立つところです。二人がはなれて同じ踊りをするはずのところを、彼は全く別の動きをしてしまいます。ラテンはA級戦です。D級のスタンダードでさえ見逃してもらえないのに、A級で見逃してもらえるはずがありません。しかもサンバもです。私はすごくいじめてやりたかったのですが、「人間なんだから間違いはあるよ」といってしまった手前、「しょうがないね」としかいいようがありませんでした。それでルンバとパソしか点が入らなかったのですが、ギリギリ準決勝に進めて、「こんどはたのむよー」と言って臨んだ準決勝で、また間違えちゃってるんです。当然,決勝には進めませんでした。これはなにかの呪か??というかんじです試合の数日後、レッスンをうけて、ルーチンを大幅に変えました。間違えそうなところ、難しいのに点が入りそうもないところを全部カットして、シンプルなチャチャにしました。応援に来てくれた合気道の仲間たちは、「あんなに大勢,試合に来るもんだと思わなかった。」と驚いていました。撮ってくれた写真を、道場のみんなに見せては「別の人みたいだった。」「次はいつ?また応援に行く。」と言ってくれました。白鳥のドレス、華々しいデビューとはいきませんでしたが、それなりに楽しい一日でした。合気道の仲間、リカルドと彼女のマリア(ペルー人)合気道の仲間、リカルドとマルティン
2005/06/24
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2003年秋の競技会シーズンに向けて、「帰って来た浦島太郎」状態だった羽根つきのドレスをリフォームすることにしました。久しぶりのスタンダード競技に古い型のドレスで出て、やけに目立ってしまったので、最近流行の羽なしドレスにしたいと思い立ったわけです。ところが、私は洋裁なんかはまるっきりだめで、何をどうしたらいいのかさっぱり分かりませんでした。そこで、洋裁の得意な友達のCちゃんに相談してみました。ウエストのところからスカート部分を外して、ゴワゴワしたのをとって、すその羽をとったあと、端っこを丸めて縫うミシンで処理する、とかなんとか、相当大掛かりでこれは素人には無理だと悟りました。ダンス雑誌で調べて、リフォームのお店を捜し、ついでにクリーニングもしてもらうことにしました。もともとは、裾に紫の羽がついていて、肩には裃(かみしも)みたいなパットと紫の羽衣がついていたんですが、それを全部とって、真っ白なドレスになりました。まるで、生まれ変わった白鳥みたい。なんとなく薄汚れていた白いドレスが、ウエディングドレスのような純白の輝きを取り戻しました。肩パットは、腕に巻くアクセサリーに変身して、このまま,小さなティアラを頭に乗せたら、オーストリアの社交界にデビューする乙女のようです。(ちょっと、いいすぎました)リフォームは、クリーニングも込みで6万円くらいでした。新しいドレスを買ったら,その何倍もかかるし、6万円あげるから、同じことをしろといっても私には出来ないので、すっかり満足して、何度も鏡の前でポーズをとってしまいました。次のスタンダードの試合が楽しみ。恒例の京都の夏のパーティのあと、倉敷の出張があって、それが終わるといよいよ生まれ変わった白鳥のデビュー。秋の最初の試合は、2003年9月21日、JBDF北関東の茨城大会でした。会場が職場の近くなので、合気道の友達も応援に来てくれることになって、ますます楽しみでした。ナバホ・ピアス(スワン)モダンダンスシューズ 白鳥<ティアラ各種>
2005/06/23
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