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どこかが麻痺していないと、為せないことがある。何かが欠落していないと、成せないことがある。たとえば、人間は、麻酔なしに外科手術を耐えられないように。人が人に課するある特定の仕事は、心のある部分が麻痺していないと『やってられない』状態になることがある。しかし、麻酔なしでは不可能な作業をも。人はしばしば、当然のように『可能』と呼ぶ。 --------------------さて今週の30日は、いよいよテキストの第1章、締切。以前のように奇跡が起きて締切が延期されないかぎり、あるいは会社が火事になってくれないかぎり、泣いても笑っても、締め切り。結果は、考えない。やるか、やらないか。選択は、常に単純だ。“もし世界の終わりが明日だったとしても、私は今日、リンゴの種をまくだろう。” ―― ゲオルギウ ---------------------- 手相占いなどしてみた。<運命鑑>http://www.unnmei.com/index.html結果: ・・・・・。なぜ、こんなに当たるんだろう。心理テストとか、質問にたくさん答えるタイプの診断テストが当たる仕組みは理解できる。人間の思考や行動のパターンは一定の類型化が可能だからだ。たとえば、EQテストとか。しかし、手相。これが統計的に少なくともある程度は信頼できる仕組みを科学的に証明できたら、まさにノーベル賞ものだろうな。
Sep 25, 2006
薄々は、気づいていたのだけれど。なるほど。やっぱり、自分とは、こんなにも感覚が違うものなんだな。『一般社会人』というものは。実に5年以上ぶりに会う学生時代の後輩、2人。そのうち1人は、十数年ぶりの再会。当たり前なのだが、ふたりとも、すっかり大人になっていた。で。何が、ついていけないかといって。仕事の話。会社の話。今まで『会社員』というものになったことがない僕は、2人が楽しそうに、ときには、苦々しく愚痴る、会社での失敗談を、どうしても身近なものとして実感できない。ああ、そういうものなのかな、と、聴くだけ。有給休暇を全部とるのは勇気が要る、とか、どんなに時間が遅くなっても上司が残っている間は帰れない雰囲気がある、とか、失敗して始末書を書かされるときは悔し涙が堪え切れない、とか、社章を失くしたのはどうやらとんでもないミスらしくて、数年間、というか今後もずっと会社を辞めるまで誤魔化し続けようとか、会社にとって社員が思想的な価値観を表明するような行為は(なんと私生活においても!)好ましいとは思わないとか、ボランティアをするヒマがあったら営業成績を上げろという雰囲気が当然のようにある、とか、CMでは顧客の方を向いた姿勢を示しているし会社の上層部もそんな感じだけれど、支店長とか、中間管理職は目先の数字ばかりを追って長期的な視野が全くない、とか・・・・・。今夜は、不意打ちで、軽いカルチュア・ショックを受けてしまったよ。日本の企業。超一流とか呼ばれる日本企業。ダメだよ。全然ダメ。まだまだ、未熟なんだな、と、いうことを知ることができた。と、同時に。僕自身が、『世間』の感覚といかにズレているか、を思い知らされた。そんな夜。
Sep 15, 2006
こうして、毎日ブログを更新しようと決めてみると。何かしら書くネタは出てくるものだ。と、改めて感心する。というか。今日、思ったのは、テーマというのは、「ある」のではなく「作る」、または「努力して見つける」ものなんだな、ということ。それはあたかも、好きな人を前にして、何を話そうか、あれ、話すことが思いつかないぞ、どうしよう、でも、何か話さなきゃ、できれば、何かしら中身があることを・・・という切羽詰った情況で、ともかくも何かしらのネタを頭を絞って捻り出そうとする情況に似ている。沈黙したら、すべてが終わり。そういう情況。たとえば、15年前の自分だったら、そんなとき、迷わず沈黙を保って状況を台無しにする(ある意味で尊敬すべき)勇気があったのだけれど。今の自分には、『黙る自信』は、ないかなぁ。。。その代わりに、『話せる自信』は、絶大。とか、言い切れるだけの経験を重ねてきたということかもしれない。 “文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との 距離を確認することである。必要なのは感性ではなく、ものさしだ。” ―― 村上春樹「風の歌を聴け」 「距離を確認する」というほど意識して考えていたわけではないのだけれど。いまの僕自身には。なんとなく、『書く』ということが、自分の実在を基礎付けるために必要な作業である気がしてならないような、切迫感。そういうものは、あるかもしれない。 いや、なんとなく。なのだけれど。文章を通じて以外には表現できない、というか、表現したくないぞ、というような、(しかしたぶん非常に軽い)思い入れ。
Sep 14, 2006
歯医者の待合室で見つけた本。「へんないきもの」。その中の、クマムシ、という生物に、すっかり圧倒されてしまった。魅了されてしまった、と言ってもいい。この生き物。生存のために、酸素を必要としない。水がまったくない状態で、100年以上生きられる。(通常は体重の85%を占める水分を乾燥状態では3%にまで減らすことができる。)しかも、無気圧の、真空状態でも生きられる。絶対零度に近い-272℃から、151℃まで耐えられる。6000気圧でも死なない。(他のあらゆる微生物は3000気圧で死ぬ)人間の致死量の約1,150倍の放射能を長時間浴びせても死なない。電子レンジで3分間チンしても死なない。しかも。外見は、こんな感じ。 こんな生命体が、体長 50μm~1.7mm だったから、よかったよ。これで体長が1~2メートルもあったら、、、、人類なんて、二百万年くらい前にこの生物の支配下に収まっていたか、絶滅させられていたか、どちらかだろう。
Sep 13, 2006
さて、今日の授業は、7時~9時。シャワーを浴びたりとか、食事をしたりとか、出勤の準備は4時くらいから始めれば、余裕かな、と。せっせと、今日が締切の数学の問題選定に励む。午後4時を過ぎて。そろそろ、シャワーを浴びようか、しかし、その前に軽く運動しとこうかな、と。鉄アレイを百数回、振り回す。さて、次は、腹筋。・・・と、思った、その瞬間。7時からじゃなくて、5時からだよ!!と、いうことに、気づいた。現在時刻を確認。なんと、非情にも。 16:24pm!!!ぜ~~~ったいに、間に合わない。スタッフに電話して、受講生には1~2時間待ってもらうように、伝えてもらおう。理由は、『講師のスケジュールの確認ミス』。ハズカシイあああ、実に、10年ぶりに近い、大失態だよ。。。オウ、マイ、ガ~~ッ。 (←欧米か?! by タカ&トシ)と、一瞬、大反省をする自分。しかし。絶好調のときの自分は、ここからが違う。いや、待てよ・・・。電話するのは、ギリギリでいい。いまから、シャワーも浴びず、髭もそらずに、着替えだけして、出発しよう。そして、途中で、どうしてもやっぱり遅れてしまうと判断したら、電車の中からでもいいので、会社に連絡しよう。そう判断した僕は、Tシャツを脱ぎ、運動して汗だくになった体に性感剤、じゃなくて、制汗剤をたっぷりスプレーして、コロンをいつもより多めに振りかけて、Yシャツに着替える。ネクタイをしている時間はないので、電車の中で着けるべく、カバンに放り込む。駅まで、全力疾走。渋谷駅から会社まで。人ごみを、躱わして、躱わして、、、、、全力疾走。間に合った。 なんと、間に合った!!!あまりの奇跡的な強運に、驚いている間もなく、とりあえず、いつもどおり、会心の授業を無事に終える。授業を終わった瞬間、ふと思った。16:24 という、まさにギリギリに間に合う時刻に、自分の勘違いに気づいたのは、なぜだろう。自分は、とてつもない強運の持ち主なのだろうか。それほどまでに、自分の普段の行いは善いということなのだろうか。
Sep 12, 2006
早朝。雷の轟音に、起こされる。寝ぼけ眼で。あまりにも、いつまでも、しつこく怒鳴り続ける天に向かって。「いったい何が不満なんだ!?」と、思わず叫びたくなった。実際。正体が電気だって知らなかったら、絶対に、天が何らかの意思を持って人間に嫌がらせしているのではないか、と考えると思うよ。現代において、金縛りや虫の知らせ、シンクロニシティなどをはじめとした超常現象などが、原因が明確に解明されていないために、とりあえず霊とかspirit などという言葉で一括りにされてしまっているように。昔の人は、雷という意味不明な現象を『天の怒り』だと理解して、怯えきっていたのも、たしかに無理はない、と思う。 “恐怖の数のほうが危険の数より常に多い。” ―― セネカ ------------------ ところで、雷鳴がとどろいている間、僕が布団の中で懐かしく思い出していたのは、一人の女の子。雷が鳴るたびに、稲妻が光る毎に、本気で怖がって。ぎゅーっと、しがみついてきた。雷の正体が何であれ、それを恐怖する『気持ち』は十分に理解できる。「だいじょうぶなんだよ」と、(自分がそれまでの人生のなかで発揮してきたかぎりの最も頼もしく聞こえるはずの声で)安心させようとする、僕がいた。その一言で。そんな短い言葉だけで、思いが通じた。あの頃。 ----------------なんとなく。今の自分だったら。「だいじょうぶだよ」の一言とともに、雷が光ったり音を出したりする仕組みを科学的に、ああだこうだと長々と説明し始めたり、都市の真ん中で1軒の住宅に落雷する確率がいかに低いかを、理論的に説明してしまったりしそうだよ。いや、ほぼ確実に、してしまうと思うよ。 ---------------- ときには、言葉が要らないこともある。リクツがいらないこともある。
Sep 11, 2006
一言、二言、言葉を交わしただけで。無意識に、この人と何かもっと話がしたいな、と。そう、思わされてしまうような、人がいる。僕はそんな人に、正直、心から憧れてしまう。そして、ふと。自分自身を顧みる。まず何よりも、第一印象が、悪すぎ。特に。何かに自分の心が大きく占められているときなど。他人に対して、ついつい、不誠実な態度になる。無愛想になる。いいかげんになる。面倒だとか鬱陶しいとかいう気分を前面に押し出してしまう。・・・・・・・・・。大いに、反省。まったく見ず知らずの他人に接するときの咄嗟の態度を見れば、その人の、人間的な幅の広さを垣間見ることができる。そんなことを思った、日曜日の午後。 “君子は、和して同ぜず。小人は、同じて和せず。” ―― 孔子
Sep 10, 2006
数学三昧。部屋にいてパソコンに向かっていても。通勤電車の中でも。あろうことか夢の中でも。頭の中が、数式やら図形やら座標系やらで満たされる日々。いや、たいへんな授業を引き受けてしまった、と思うよ。とにかく、解くべき問題数が多い。準備に、やたらと時間がかかる。問題の選定に、これまた一苦労。まあ、これはこれで楽しいから、いいんだけど、ね。いいのか?そして、それとは別に。新人講師のトレーニング。彼もまた、数学者。知的刺激に溢れた時間が流れる。 彼の授業の、あまりのイケてなさは、おいといて。 “純粋数学をやりながら、人類に役立つかどうかなんて考えている 数学者は、たぶん歴史上、誰もいないと思うんですよ。 僕も人類の幸福なんて考えたこともないですよ。 幸福とか福祉とかね。 ただ、数学は圧倒的に美しいですからね。 それにひきこまれて、ずたずたになってもいいからいくという。 そういうところがありますね。” ―― 藤原正彦
Sep 9, 2006
好奇心は旺盛なのだけれど、すぐに飽きる。ものごとが続かない。持続力がない。気まぐれ。そんな自分の欠点を大いに自覚して。今回、楽天ブログは毎日更新することに決めてみた。とりあえず、いまのところ1週間は更新が続いている。自分にしては、上出来。今後も、特別の事情がないかぎりは、一言ずつでもいいから、何か書いていこう。と、宣言してみる。 “精神を凌駕することができるのは、習慣という怪物だけなのだ。” ―― 三島由紀夫
Sep 8, 2006
僕は、恵まれていた。自分の進む道を、自分で選択する機会が与えられていた。選択するのは、自分自身だということも知っていた。孤独な道。不安な道。しかし、それは、自由な道だった。自分を生かすための、自分だけが通るための、気が遠くなるほど、自由な道だった。笑顔でなかったのは、つらかったからではなくて、真剣だったから、本気で、生きることを楽しんでいたからだった。さびしくなかった。苦しくもなかった。永遠に歩くことができる、楽しい道だった。やがて、、、、道の途中で、“夢”に出会った自分は、ようやく、心からの笑顔を人に見せることができた。そして、泣いた。夢を手に入れ、歩くことをやめた自分は、いつまでも、夢に寄り添って、泣いていた。
Sep 7, 2006
最近の。座右の銘: やるか。やらないか。 根性がくじけそうになったとき。まあ、どうにでもなるさ、と開き直りそうになったとき。そんなときは、二者択一に限るよ。 単純素朴。それが一番。な、ときもある。
Sep 6, 2006
今のままで、いいのか。ここ数か月、それを考えない日がない。会社では、現在、『超多忙な人』ということになっている。しかし。現在の仕事においては、ほとんどストレスというものを感じることがない。それでいて、適度な充実感や幸福感、そして何より、時間的な余裕や心身のゆとりを、願ってもないほど享受できる。う~ん。。。たしかに、授業は、ほぼ毎回、会心の出来で。以前などは、受講生の「ノリ」によって、自分の気分が大きく左右されたりもしたのだけれど。最近は、どんなクラスでも、どんな受講生でも、何でも来い。って感じで。自分の腕に、絶対の自信がある。インドネシアのチャンピオンを1ラウンドKOした直後の(つまり今現在のノリにノった)亀田大樹並みに、自分に対して無限大の自信がある。自分で言うのも何なのだけれど、心、技、体、すべてにおけるバランス感覚が実に見事だよ、仕事スイッチが入ったときの自分は。で。これで、いいのか、と。今のまま、、、あと数年??悩む自分。迷う自分。 “鉄砲玉が遠くまで飛ぶのは、方向が限られているからさ。” ―― ディアギレフそうなんだ。僕自身、痛烈に実感している自分の人生的な最大の欠点は、「方向が限られていない」という、ただその一点に尽きると言ってもいい。
Sep 5, 2006
余計なものを背負い込みすぎていないか。余分なものを保持しすぎていないか。環境に合わせすぎていないか。自分の欲求を優先させすぎていないか。惰性に流されていないか。可能性を過大視していないか。 ----------------- 10年前の自分は。現在の年齢になっても、依然として同じことをやってるなどとは、まるで想像していなかった。というよりも。同じことをしている自分を想像しかけては、ゾッとしていた。だから、想像しようともしなかった。やがて。月日が経ち。10年間。そう。10年間も。『同じこと』をしている自分がいる。言葉にしてしまえば、『同じこと』。しかし、その本質、その内容は、10年前とは雲泥の差がある。何も知らない人が見れば、草野球も、高校野球も、大リーグも、球を投げて、打って、走る、という、それだけの、同じ行為。しかし、その技術と、才能と、努力と、その1つ1つのプレーがもたらす感動には、絶対的な、圧倒的な、差がある。子どもの頃テレビで観た、刀鍛冶の職人が登場するコマーシャルを思い出した。「三十、四十は、鼻ったれ。六十になって、やっと一人前」『同じこと』を数十年続けないかぎり、なし得ないものが、この世界にはある。たしかに、ある。 “勤勉だけが取り柄なら、蟻と変わるところがない。 なんのためにせっせと働くかが問題だ。” ―― ソロー
Sep 4, 2006
半月。を美しいと思う。 人が美しい。と思う。 人間がつくったもの。を美しいと思う。 ひとのこころ。をうつくしいとおもう。 “ 「あどけない話」 智恵子は東京に空が無いという ほんとの空が見たいという 私は驚いて空を見る 桜若葉の間に在るのは 切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ 智恵子は遠くを見ながら言う 阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だという あどけない空の話である。 ” ―― 高村光太郎
Sep 3, 2006
最近のお気に入り。のむ大豆。 口当たりのよさとかはどうでもいいから、とにかく健康にいいもの、体にいいものを。と、求める人には、ぜひお奨め。 -----------------Skype 初体験。先月からアメリカに住み始めた親友と。地球の反対側にいる人とでも、何時間でも、無料で、テレビ電話で会話ができる。こんなに便利なものがあるのに、そして、その存在は知っていたのに、どうして今まで利用しなかったんだろう。というか、こんな便利なものの存在を知っている人たち、どうして皆に利用を奨めないのだろう。パソコンの常時接続環境があるかぎり、世界中のどこにいる人とでも無料で会話ができる。カメラとヘッドホンのセットも千円程度で買える。特に、遠距離恋愛中の人たちに、絶対お奨めだと思ったよ、これは。NTT Docomo や NTT の高い電話代を気にして通話を中断する必要もない。ボーダフォンの『LOVE定額』すら、払う必要がない。世界中のどこからでも、誰と何度話しても、無料。しかも、お互いの顔が見える。いや、僕みたいに、友だちが少ない人は、いいんだけどね。友だちが多い人は、携帯やNTT電話で話すヒマとお金があったら、ぜひ、Skype で話すべきだと、切に思うよ。
Sep 2, 2006
なんというか。最近は、夜の記憶が飛んでいる。要するに、それだけ速いペースで酔っ払ってしまっている、ということだ。たとえば昨晩など、かなり酔った頭で日記をアップしたらしいのだが、翌朝にはその記憶が、全くない。いや正確に言えば、ぼんやりとは何か書いた記憶が残っているのだけれど。何を書いたかは、ぜんぜん憶えていない。相当に酔っている時は、楽天でヘンなこと書いたら恥ずかしいと思ってアップしないように気をつけている(いた)んだけど、、、、昨晩などは、その辺のことあまり考えずにあっさり書いてしまった(らしい)。たとえば、数日前など。プロフィールの写真がいつのまにか変更されてるのに気づいて、われながら唖然とした。いつのまに、か。そう、ほんとうに、いつのまにか、に。この写真をプロフィールに載せようとするとは。さすが、酔った自分、と感心。そして、それをあえて意地でも外そうとしないのは、さすが、シラフの自分、と感心。そして今、こんなこと書いてる自分も、相当に酔っている。たぶん、明日の朝は、何を書いたか、記憶がないと思う。そんな日常。も、ときには、ある。
Sep 1, 2006
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