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暫く季節と共に自然をお伝えしてきた記事がコロッと替わります、 明治の初期に新島襄が自分の夢を実現するべく、志を同じくする者が創った結社「同志社英学校」(のちの同志社大学)を創立します、それに関わった新島襄・八重の夫妻と八重の兄山本覚馬が中心となりキリスト教精神に基づく教育の場を創りあげました その歴史を生んだ邸宅跡です (記事少し長くなります、お時間の許す折に又はスルーして下さい) 新島襄旧邸 同志社英学校創立の跡地です ↓「新島襄旧邸」玄関です ↑新島襄 ↑建設当初の同志社英学校 (以下三人の写真は、同志社社史より) 新島襄 同志社の創立者 国を改革し近代化する日本をとの夢を持ち、1864年21歳の時国禁を犯してアメリカに渡航、現在も有数な大学の一つアーモスト大学に学び、日本人として初の理学士の称号を得ます、留学中にキリスト教徒となり一つの夢、キリスト教主義教育を日本でもと言う夢を膨らませます、このあとアンドーバー神学校でも学びます 1872年在米中に、明治政府の岩倉具視を全権大使とした欧米岩倉使節団(新政府の中枢木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など108名)と出会い通訳として参画を許され、欧米各国の教育制度を視察、自由と良心に基づくキリスト教主義の教育で日本を近代化出来るとの確信を得、1874年帰国する前にアメリカン・ボード(アメリカ最初の海外伝道組織)の年次大会総会で、日本での学校設立を強く訴え5,000ドル(当時)の寄付の約束を得て帰国します 1875年に京都府知事槇村正直の賛同と同府顧問山本覚馬の強力な支援を得て京都御苑の東側寺町丸太町上るに同志社英学校を開校します、更に翌年八重と結婚したのち欧米の伝統的な総合大学の創設を目指し、私立同志社大学の設立の為東奔西走しますが創設目前に志半ばにして倒れ1890年47歳の若さで亡くなります のち、遺志は山本覚馬を始め徳富蘇峰らにより引き継がれ同志社大学が創立されています ↑新島八重 ↑女紅場(ニョコウバ)址、裁縫手芸料理等の教場 新島八重 (旧姓・山本八重) 同志社の母と呼ばれます 戊辰戦争時会津が戦場となった時に断髪・男装し会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持ち奮戦します(大河ドラマ八重の桜で知られます)が敗戦、三年後の1871年26歳の時に当時京都府顧問だった実兄山本覚馬を頼り上洛、兄の推薦により京都女紅場(現府立鴨沂(オオキ)高校)で権舎長を務め教育への足掛りとします、 この頃新島襄と知り合い1875年婚約キリスト教の洗礼を受け同志社英学校創立の身近な支援者となり翌1876年クリスチャン同志の結婚式を挙げる、襄の八重を称して「その生き方がハンサム」と言った事から云われるハンサム・ウーマンはその後知られる所となります、そのあと、同志社分校女紅場(のち同志社女学校)で礼法の教員となるのを始め同志社各校の教務に携わり、また篤志看護婦として日清・日露の戦争に従軍し取締として看護婦を指導、その後の看護婦地位向上にも寄与し勲六等宝冠章を授賞しています 襄の死後も住宅(旧邸)に起居していましたが、襄の想いを継ぎ住まいの土地建物、什器一切同志社に寄贈しています八重は86歳の長寿を全うし、若王子山襄の墓の隣に葬られています ↑山本覚馬 ↑前中央が覚馬 後ろ中央に襄と八重、時期は不明 山本覚馬 同志社の礎となります 会津藩の砲術師範で、勝海舟らと共に佐久間象山に学び、1862年京都守護職に就任した松平容保(カタモリ)に従い京都に入る、この頃から眼を患い失明同然となります 鳥羽伏見の戦いで捉えられ薩摩藩に幽閉、この中で口述筆記された建白書「管見(カンケン)」が認められ、京都府顧問として遷都後の京都近代化に貢献、初代府議会議長、商工会議所会頭など歴任します。1874年以前から学んでいたキリスト教に入信洗礼をうけます、その縁で知り合っていた宣教師ゴードンを通して新島襄に出会い彼の私学創立の想いに深く共鳴して、全面的に協力支援し同志社英学校創立に至ります そして襄の死後もその遺志を継ぎ、明治維新後所有していた旧薩摩藩邸の敷地(京都御苑北側の現同志社大学今出川校地)を提供して同志社大学創立に導き、現同志社の礎となります ↓御苑側から見た建物前面です ↓新島襄先生の石塔が立ちます ↓旧邸です 1878年(明治11年)に竣工、木造二階建ての和風建築で洋風の手法を取り込んだ建物で、現在は市の有形文化財に指定されています ↓建物東面です お寺や神社には明治時代やそれ以前に建てられたもの数多くありますが、住宅として現存しているのは希です、木造洋風住宅としては京都最古のものだそうです ↓建物南面です 柱が露出され壁はその内側に納まります ↓建物近くから 珍しい明治時代の洋風の住居、内部の設えと共にご覧下さい ↓建物外側は外縁が三方囲みます 和風の住まいには珍しい造りです ↓「応接室」 多くの来客があった様で、椅子・ソファーは多人数に備へ置かれています ↓襄がいつも在室し執務した「書斎」です 書籍そのまま残されています ↓「食堂」です ↓オルガンが置かれます、八重の部屋となります ↓「寂中庵」茶室です ↓寂中庵内部 襄の没後茶道家となった八重が洋室を改め茶室としたものです ↓通し廊下と二階への箱階段 二階へは行けません二人の居住に使った部屋です ↓旧邸の南にある「新島記念館」 最初の写真に見えていた建物です ↓記念館内部です 新島襄と三人が残した貴重な遺品や資料が保存され、一部展示もされています ↑覚馬1892年64歳で亡くなります ↑襄は1890年47歳の若さで、八重は1932年86歳で生涯を閉じています 墓碑の銘は勝海舟の揮毫 ↓新島襄と八重、山本覚馬三人の墓は共に左京区若王寺山(ニャクオウジヤマ)の山の上同志社墓地に葬られています (山道険しくとても登れません・写真は同志社社史より) ↓「同志社礼拝堂(チャペル)」1886年(明治19年)建てられたプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物となり、重要文化財とされています 現在の同志社今出川校地には、明治この時代の建物五棟が残り使われています、校内レンガ造りが一際目立ち明治の雰囲気が漂います ***************** 京都ええとこ一覧下 京都市の地図をクリック拡大して、各所に付されたNoをお控えのうえ下記 3区分の中のNoの説明をクリックして頂ければ記事にリンクしますのでご覧下さいただ、最近の2018年以降の各所記事については図の中に表示出来ていません、区分3.よりお入りください 「京都ええとこ記事一覧」 1.(No. 1~ 48はこちらから) 2.(No.49~ 96はこちらから) 3.(No.97~166はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです京都各所について何かお尋ねになりたい事などありましたらコメント欄にお入れ下さい、こちらの判る範囲でご返事差し上げます そしてもう一つ拘っていた「京都ええもん」少しだけですが画像クリックして下さい 京都ええもん
2020.06.24
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前回に続いて、足利幕府230年十五代の将軍を祀る歴史ある等持院です場所は、金閣寺から妙心寺と仁和寺のほぼ間に位置します 足利氏の菩提寺 萬年山 等持院 臨済宗・天龍寺派の寺院です ↓「表門」正面です 前編ではUPしていません ↓門前にある「鐘楼」です ↓前回最後の写真「方丈(本堂)」北面から東へ進みます ↓青苔と青もみじの中 苑庭を奥へ進みます ↓中央の燈籠は等持院型燈籠と謂れます、又蹲踞は自然の石が彫られています ↓「十三重石塔」足利初代から十五代に至る将軍の供養塔、遺髪が納められています ↓「足利尊氏墓所」宝筐印塔です 台座には蓮華紋様が彫られています ↓「心字池」東の苑地にある池泉回遊式庭園で同じく夢窓国師作と伝えられます ↓草書体の”心”の字を象られている静かな池庭です ↓ただ何処から見ても全体像は掴めません ↓池周りは青々しい草木で覆われます ↓池一番東側です 樹木が多く薄暗く静かな風情を感じます ↓かって中ノ島には妙音閣という建物があったと伝えられていますが今は礎石を残すのみです ↓心字池、幽寂閑雅という表現で紹介されています ↓半夏生咲く夏至の頃、又秋の紅葉時にはそれぞれ又異なった光景となります ↓心字池を一回りして青苔と青もみじの道 霊光殿に戻ります ↓「霊光殿」足利歴代の将軍を祀ります この写真以外の内部は撮影不可です ↓霊光殿内部、足利尊氏が念持仏として信仰した利運地蔵尊を本尊とし達磨大師と夢窓国師を左右に祀り、歴代の将軍木像が安置されています(5代と14代将軍を除く) 以降写真はHPより ↑初代将軍 足利尊氏像 一番奥に納められています ↑徳川家康42才の像 足利家との繋がりが深く共に祀られています ↑金閣寺を建立した 三代 義満像 ↑銀閣寺を創建した 八代 義政像 ↓霊光殿 外は青もみじに囲まれます ↓ここで前・後編に分けた、等持院あとにします ***************** 京都ええとこ一覧下 京都市の地図をクリック拡大して、各所に付されたNoをお控えのうえ下記 3区分の中のNoの説明をクリックして頂ければ記事にリンクしますのでご覧下さいただ、最近の2018年以降の各所記事については図の中に表示出来ていません、区分3.よりお入りください 「京都ええとこ記事一覧」 1.(No. 1~ 48はこちらから) 2.(No.49~ 96はこちらから) 3.(No.97~166はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです京都各所について何かお尋ねになりたい事などありましたらコメント欄にお入れ下さい、こちらの判る範囲でご返事差し上げます そしてもう一つ拘っていた「京都ええもん」少しだけですが画像クリックして下さい 京都ええもん
2020.06.14
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今回は近くの等持院へ行ってきました、2013.3月に一度UPしていますが時期的に庭園が寂しく、再度という思いを持っていましたが思い切って青葉・若葉溢れる庭園見てきました、ご覧下さい 足利氏の菩提寺 萬年山 等持院(前)臨済宗・天龍寺派の寺院です 1341年後醍醐天皇のもと、京の六波羅探題を攻め落とし鎌倉幕府を滅亡へ追いやった足利尊氏が天龍寺の夢窓国士を開山として、市中にあった等持寺を併合し衣笠山の南麓に創建され、足利将軍家十五代の菩提所となります 尊氏の死後その院号から等持院と称する事となっています ↓禅宗の開祖「達磨大師」衝立 天龍寺の元管長の関牧翁(セキボクオウ)師の作でユニークなこの達磨図は他の禅宗寺院でも見られる名物となっています 方丈西壁に於かれています ↓「山門」寺内への参道入り口に建てられています ↓寺院の建物が近くです ↓門前です、名勝庭園・史跡木像は等持院の見所です ↓玄関の「庫裏」正面こちらから入ります ↓方丈(本堂)南庭です こちらは静かな枯山水庭園となります ↓「方丈」正面 ご本尊に釈迦牟尼仏を祀り、内部襖絵は狩野興以の作、南庭に面する廊下はうぐいす張りで心地よく響きます 数年前から修復工事中で入れません、寺院のHPより ↓「書院」です 庭に面します ↓書院より左前方の庭です ↓庭は「芙蓉池(フヨウチ)」と名付けられた池泉回遊式庭園です ↓夢窓国師の作と伝えられています 蓮の花が形どられ創られています ↓中島の蓬莱島には石橋が架かります ↓石組みも変化に富んで組まれています ↓蓬莱島には沢山の花木をあしらい草木が配されています ↓池には緋鯉もたくさん飼われ、今は樹木で隠れていますが借景となる衣笠山より清水が流れ出ます ↓芙蓉池正面です 小高い奥にはひっそりと落ち着いた風情で茶室・清漣亭が建ちます ↓茶室「清漣亭(セイレンテイ)」 相阿弥らと茶道に興じた八代義政の好みと伝えられます ↓茶室前には江戸時代の司馬温公型(凹凸の石に水穴が掘られたもの)の手水鉢 ↓茶室から見る方丈北面です 次回続いて、等持院(後)「心字池と史跡木像」UPします ***************** 京都ええとこ一覧下 京都市の地図をクリック拡大して、各所に付されたNoをお控えのうえ下記 3区分の中のNoの説明をクリックして頂ければ記事にリンクしますのでご覧下さいただ、最近の2018年以降の各所記事については図の中に表示出来ていません、区分3.よりお入りください 「京都ええとこ記事一覧」 1.(No. 1~ 48はこちらから) 2.(No.49~ 96はこちらから) 3.(No.97~158はこちらから) ←2018年以降現在迄の記事はこちらからです京都各所について何かお尋ねになりたい事などありましたらコメント欄にお入れ下さい、こちらの判る範囲でご返事差し上げます そしてもう一つ拘っていた「京都ええもん」少しだけですが画像クリックして下さい 京都ええもん
2020.06.04
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