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新型コロナウイルスが再び広がり、防止策重点措置が新たに東京、沖縄、京都に適用される中、高齢者向けワクチン接種が始まった。今年も孫の一人が大学生になったが、今年は入学式もあり、普通に授業もはじまったらしい。 元旦に弟が逝き、初めての兄弟との別れが淋しく、父母や弟妹と5人家族と過ごしたわたしの人生の始めの4半世紀の年月が色々と思い出された。昭和の10年代結婚した両親は,九州生まれで大学から京都へ来た父と生まれも育ちも京都の母と弟妹の5人家族で、戦争中はまだ幼く終戦の年、私が小学校へ入学した。年々生活が豊かになり、父母がした苦労はあまりしていない。でも晩年父母はよく二人で旅行をし、アメリカやヨーロッパまで足をのばしていた。それは我が家に共通していて、弟夫婦はもっとあちこち世界中海外旅行をしたし、私たちも旅行だけでなく、イギリスで英語研修に2回も行ったり、そこで知り合ったドイツの友達の家まで行き、今思えばその趣味は共通していた?と思うが今だったらのんきにどこへも行けない。 コロナ禍で葬儀も変わった。教会でも家族葬。弟のときはわたしたちと義妹の兄弟のみ。無宗教でとてもいい雰囲気だった。一世代前、父母、祖母、叔父叔母とは全く違う自由な温かいお別れ会は初めてだった。今はコロナ禍ということもあるが、これを機会に葬儀の形がかわっていくと思われる。 私たちも88歳と82歳。夫は元気だが、私は相変わらずあちこち老化がきびしいが、今のところ、日曜日の礼拝だけは二人で出席している。まもなくワクチンの高齢者接種が始まる。そうしたらイギリスのように、感染者がもっと減り、一気に収束するのではないかと期待している。
April 13, 2021
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コロナ禍と簡単に表現するようになって、あの猛暑も過ぎ、世界では100万人もの人がなくなり、日本では少しづつ元の生活に戻りつつある。元々教会と病院に行くくらいで、「Go To ~」の気持ちはないが、それでも所属しているコーラスや中高全体の同窓会の行事がすべて教会と同じように中止となり、新年会はまだきまってないと言われ、それもはっきり見えない。昨年夫が車の免許を返納したので、元々の外出もぐんと減り、毎週よほどでないと休まなかった礼拝もライブ配信が始まって、気後れすることなく休め、特に暑かった今夏は家で礼拝が守れることは大きな恵みであった。加えて自分の教会だけでなく、あちこちで配信される、それぞれの教会の礼拝を知る機会が与えられたのは思いがけないことであった。いつ人生が終わるか 考えることも多く、出来るだけ整理したつもりであったが、それもまだ満足に終わっていない。8月から朝日新聞で始まった連載小説は池澤夏樹の「また会う日まで」。その冒頭で、「わたしのこの世での日々はまもなく終わろうとしている。それを私は受け入れる。主の御許へ旅立つ。この世に残す思いはない」を楽しみに読んでいる。
October 3, 2020
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コロナウィルスの感染が益々広がり、今や世界中思いもよらぬほどの勢いで蔓延し,毎日マスコミを賑わしている。あっと言う間に増えたヨーロッパやアメリカの感染者や死者の数は恐怖に値する。毎日TVを見ながら外出するのは教会のみで、祈ることしかできなかったが、3月29日の礼拝からは讃美歌はオルガンのみ、主の祈りは司会者のみで「アーメン」を唱和。全員マスクをし、それでも今までと変わらない顔ぶれで集っていた。遂にイースターの前の週、政府から緊急事態宣言が出され、京都は入っていなかったが、感染者増加をまの当たりにして、とにかく高齢者や遠隔地から来る人、バスや電車に乗って来る人など12日イースター礼拝はお控えくださいと牧師からハガキが届き、その代わりフェイスブックでライブ配信を行うとのことで嬉しかった。早速パソコンを操作し、ホームページから見慣れた礼拝堂や牧師の姿を目にし、日曜日のいつもの礼拝の時間に夫と二人でパソコンを前にして、礼拝を守ることができ感謝であった。その後またパソコンを開けると、5月3日まで無会衆で礼拝を行うとあり、迷うことなく家にいて礼拝が守れることは感謝である。ヨーロッパやアメリカなどのキリスト教国はどうだったんだろう。イースターに大きな試練を与えられた私たちがすべきことを祈りながら終息の日を待ちたい。
April 14, 2020
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秋に集まった小学校時代の3人のクラス会に2人加わって、今日3月3日、もう一度会うことを楽しみにしていた。まだ新型コロナウィルス肺炎がこれほどまでになると分からなかった2月18日東京から来る友達の御主人がお医者さまで、潜伏期間が長いと思うので、とにかく今回はとりやめようとホテルに予約をした私はすぐ電話をかけ、あっさり分かってくださった。その後20日クルーズに乗っていた80代の男女が亡くなり、日々増える患者の数に新型コロナウィルスの恐怖が身に迫ってきて、やめてよかった!と胸をなでおろした。チャーター機で各国に帰ったクルーズ客からも陽性の人が出たり、日本人の陰性で下船して日本各地の我が家に戻っても陽性になったり、特に北海道にかかっている人多くなった。不要不急の外出は控えるように、イヴェントも自粛、スポーツも無観客開催。2月末の土曜日には小中高が臨時休校に。3月は受験、卒業式や就職活動の孫たちはどうなるのだろう。中国で新しいウィルスがなんらかの食べる動物からやってくるらしいとTVで見たが、今回のように巨大なクルーズ船で世界中の大勢の人々影響を与えたことは、初めてのことで改めてウィルスの脅威を実感した。3月1日の日曜日、礼拝に長男が部活が休みになった孫と出席、車で送ってくれた。広い礼拝堂にはいつもと変わらない空席がいっぱいで、離れてすわるようにとのこと。そして聖餐式も食事もなく、これからも礼拝は守るが、ほかの集会は2週間はとりやめるとのこと。今やヨーロッパ、アジア、アメリカなど世界中に広がり、今後どうなるのか。終息する日が一日も早く来るように祈っている。
March 3, 2020
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教会と病院以外は家でごろごろと寝てばかりいたわたしが、この秋は3つのクラス会に参加できた。その一と言っても小学校はたった3人。一人は卒業以来であった。わたしは中学、高校は私立に行ったので、地域の公立へ行った大勢の友達から離れてしまい、ずっと孤独感があった。3人のうちの一人は中学校は私と同じ私立で高校から公立へいかれ、最近高校のクラス会に出てこられるようになって、会うとなつかしい小学校の友達の名前が出て、「一度会いたいなー」と言ったら話してくださって、ホテルでお茶の時間を持った。その友達とは妹も一緒に市電にのってピアノのレッスンに通った思い出がある。父上は京大の総長までされた人で、当時の小学校は京大の先生の子どもが多く、アカデミックな雰囲気があり、美術や音楽に特別な指導もあり、朝は全校生が参加できるクロッキーの時間があったり、市内でも珍しい大きな規模のリズムバンドでわたしはいつもピアノを弾いていたし、そのころはよく賞をもらったので、絵も好きであった。ちなみに今回私たちの仲を取り持ってくれた友達は美術出身でもあり、終戦の年1年生だった私たちはとても恵まれていたと70年も前に思いを寄せなつかしかった。その二10月2日、81歳の誕生日、大学の友達5人で京都のホテルに集まって一泊した。今年もまた福岡と福井の二人は初めから決めていたが、1年前東京から那須へ移り住んだ友達が、もう最後かもしれないと京都まで来ると言うので京都の友だちと3人、シングルとツインを同じホテルでとり、5人でクラス会の前日ホテルで夕食、朝食の時間おしゃべりを楽しんで、那須の友達はクラス会に出ないで、帰っていった。クラス会は男性6人、女性8人計14人。鴨川のほりの「くに荘」で毎年よく続いている。今回知ったことは男性6人中2人が絵を描いていた。わたしも富山時代少し油絵を描いていたことを思い出す。そして以前感じたことであるが40人たらずのクラスにクリスチャンが10人もいたことである。今回も14人中クリスチャンが4人(男性1人 女性3人)いた。その3高校のクラス会は久しぶりに世話係のなかに入れられてしまって果してできるかと悩んだが、礼拝を受け持ったので祈りつつ、聖書の箇所を考え、詩編23編を読んで祈った。今まで40~50人の出席であったが、今回32人でぐんと減りホテルの会場もゆったりして、このところ毎年しているので、和気あいあいと時間が流れ、司会者から次回はどうするかと問われ、引き受ける人がいなかったのでもう終わりになるかもしれない。毎年発行される同窓会報に載せるためを久しぶりにみんなで写真を撮った。それもだれかさんのスマホで。10月は毎年歳を重ね、クラス会にでることすら容易ではなく、出られたことに感謝してほっとしている。、
November 9, 2019
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6月半ば、とうとうマンションの駐車場からマイカーが消えた。これからは87歳の夫の事故を心配しなくてもいいとさっぱりしたと思ったが・・・。京都に住んでから25年余 夫は定年の身になって、わたしは免許はなくても、どこへでも運転手つきで自由に車が使えた。最初にやってきた日曜日、とにかく教会へタクシーで行ってみた。京都市内といっても我が家からかなりの距離で4000円近くかかった。朝は遅刻できないので次はタクシーで地下鉄の駅まで行って地下鉄を降りてまたタクシーを拾い、・・・と色々やってみて今は「タクシーー地下鉄―歩く」に落ち着いた。でも帰りは地下鉄とバスで帰っている。近くの医院はタクシーで行っても安い。買い物には一切寄らなくなった。生協でよく計画を立てて一週間分届けてもらうようにしたら、やたらと無駄買いもなくなった。病院の帰り、バスが一時間に一本しかないと近くのレストランでランチすることも楽しい。思えば富山時代もほぼ25年3人の子どもたちをのせて、よくあちこち旅行をした。富山と関西も何度も往復した。コーラスの旅行もそれぞれのマイカーを連ねて信州など気軽に行けたし、京都にきてからも二人であちこち行き、いとこ旅行も車でいくことが多かった。最近では車をもつ人が減っていると聞く。マンションの車庫も減り、バイク置き場が多くなった。教会の園庭も早くいかないと困ったが、よく空いているようになった。わたしはここ1~2年で急に体力が落ち、ちょっと歩くとしんどく、特に今は季節的にもつらい。足腰はどうもないが、動悸、息切れがして元気に歩けない。よく牧師の言われる「這ってでも礼拝に出てきてください」をみこころと信じできるだけ礼拝だけは続けようと思っている。
August 6, 2019
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6月、富山のコーラス仲間の男性が亡くなった。子供同士が小学生のとき出会った小児科の先生で、趣味は園芸とコーラス。ほんとうは園芸家になりたかったと言われるほど、よく考えられた広いバラ園の中に医院があった。毎年5月~6月になると、さまざまな種類のバラが次々見事に咲き、何度もバラパーテイが開かれ、私たちも毎年バラに囲まれていっぱい歌い、富山のテレビ局が取材にきたこともあった。気さくな先生でコーラスが始まった初めての夏、子どもたちも一緒に家族みんなで近くの高原で、バーベキューをしたい、次の年はペンションで一泊しようと誘いかけてみたら、御主人方も皆さん行かれるならと念を押されて実現した。初めから夫婦共々のコーラスであったが、先生が賛成してくださると心強かった。ベコニア、ペチュニア、ゼラニウム、クリサンセマム・ムルチコーレ、クリサンセマム・パルドサム、アリッサムなど小さい花も種から育てられ、よく苗を頂いてわたしも 花好き、園芸好きになった。バラは夫がもらった苗を少しだけ育てていたが、その苗についてきた忘れなぐさが、毎年、庭のあちこちで雑草のようにたくましく小さいブルーの花をつけ、大好きな花であったが、京都に来てからはうまく育てられなかった。2015年私たちが最後に富山に行ったときは、医院もバラ園もあっさり、潔くやめて、富山のマンションに移られ、跡地にはアパートが建っていたが、みんなでお食事をしたときは、出てきてくださった。2年前、宇奈月で集まった時はもう来られなかった。訃報を聴いて富山時代の楽しかったことを思い出し、ちょっぴり悲しくなった。
July 24, 2019
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昨年のクリスマスの頃、我が家の家庭集会に長男の妻と孫娘が一度来たいと言っていたが、中々都合がつかず、3月終わりまで結局一度も日にちが合わず、終わってしまった。それで4月21日(日)のイースター礼拝の案内はがきを出したら、久しぶりに長男夫婦と大学生の孫息子がやってきた。偶々小学5年生の男の子の洗礼式で、富山にいたころは、福音系で小さい子どもが、堂々た立派な証をして、受洗する姿を経験したが、日本キリスト教団ではあまりないこと、幼児洗礼ー信仰告白という形とるからだろうか。わたしは25年たって初めてであった。5人兄弟のいちばん上のお兄ちゃんでお母さんがクリスチャンホームで育った人。いつも5人の子どもさんを連れてこられると一気に出席人数を占める。その日の夜長男のブログを見たら、自分が大学生のとき、小さい教会の学生寮に住んでいたことを思い出し、当時の教会の人たちの顔が次々目に浮かび、名前もスラスラとでてきたと。今日の礼拝もすんなりと受け入れてて、やってきたが、小学生の洗礼式を「まだその気になれない」と書いていた。それでもいい。「いつかきっと」と思ったことだった。琵琶湖のほとりに住んで、ウィンドサーフィンなどアウトドアに楽しみをもっているので、教会に来れる日曜日は少ないだろうが、これから祈っていこう・もう少し近くに住んでいると、私たちが6月で車がなくなるので、ときには送り迎えをして礼拝に出てくれたらいいと思うが…
April 25, 2019
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1993年3月から今年の3月まで、私宅で25年続けた家庭集会をやめた。こうして一つひとつできなくなることが増えさびしいが、80歳になりちょうどよい機会と思い切った。思えば富山の教会から京都へ移る頃、父母、祖母と続いて葬儀があり、その都度前任の牧師にお世話になり、叔父が行っていた家庭集会が都合でできなくなったと聞き、わたしは京都に行ったらその叔父をはじめ、まだ信仰をもたない親族のために家庭集会を開きたいと祈った。曽祖父が教会の設立にかかわって、みんな自分はキリスト教だと思っているのに洗礼を受けていなかったからである。25年経った今どれだけ多くの人が来てくださったか、感謝の気持ちでいっぱいである。夫や叔父叔母もバプテスマに導かれ、夫はすぐ役員になって、教会報の奉仕を長年続けた。今まで3か所で家庭集会を持っていたが、もう一人の方も高齢でやめられて、1か所だけになるのかと思っていたら、宣教委員会の発案で移動家庭集会として、1年に1回のみ家庭を開放して下さる人を募ったら10数人が手を挙げられ、4月から始まった。家庭集会を持っていない教会も多いが、友の会で経験した家庭を開放する喜びを多くの人にも知ってほしいと願っている。礼拝や訪問とは違った主にある交わりを一つひとつの家庭で経験するのもきっとこれからの教会形成にプラスになるだろう。特に救われてない家族が気軽に出席されたらどんなにいいかと祈っている・
April 23, 2019
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先日三男が子供時代のアルバムを取りに来たとき、「こんなのもあるけど」と手紙の束や日記帳、長男が教えた算数ノートなどみせたら、スキャナにとって保存すると持って行った。思えば遠い昔、長男が1年生になった日から1冊のノートを与えて1日1ページで毎日の出来事や思ったことを書くようにさせたら、次々下二人も楽しんで、毎日、日記をつけて、親として何年生になっても、学校での出来事や、友達関係など知ることができてよかったと思う。それが中学、高校、大学になっても続き、遠く離れても、帰省すると持って帰り、遠くアフリカまで何日も旅行した日記など、なんでも公開してくれていたし、手紙も3人ともよくくれ、愛犬宛のほほえましいハガキもある。そして3人が社会人になったころ、電子メールやブログでつながり、長男は日記にかわり毎日ブログを書き三男は子どもが生まれると動画が入り・・・と遠くにいても、パソコンを開く楽しみが増えた。一時3人ともブログを書いていたが、今もかかさず書いているのは長男だけ。かなりプライベートな内容や写真もあり、一般には公開せず、パスワードを知っているわたしたちだけ開けるが、本人はそれが昔の日記のつもりだろう。最近次男が短編小説の文学賞に見事入選し、新聞に写真が載り、「大きな賞がいただけたことで背中をポンと押された気がしている」とコメントしていたが、これも小さい時から日記をつけていた効果の表れかと嬉しい。
February 24, 2019
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歳を重ね、医院、病院へ行くことが多くなり、いろいろと思うことがあって、この本に出合い、「医師とのつき合い方に悩んでいませんか。もっと私たち患者が自立して主体的に医療に参加する患者になろう」と呼びかけておられることに目が開かれた。そういえば、私がまだ富山県に住んでいた25年以上前のこと、若い同年代の人が次々癌にかかられたが、大っぴらにはできなくて、東京へ行ってこっそり治療されたり、胃癌を胃潰瘍と言ってそれを信じて亡くなられてから、後で知ったり…それでいて今と違って、入院事態が大ごとでお見舞いにはよく行ったものだった。ところが、その後京都に住むようになったころには、告知するのが当たり前になって有名人がわざわざTVで公表され、医者は必ず本人に真実を伝えるようになった。そして医学の進歩で今まで治らなかった病気も一つひとつ解明され、嘘でかためた治療は先ずなくなったと思う。私は今まで、歯科やホームドクターくらいで大病をしたことがなく、後期高齢者になった5年くらい前からあっというまに5人以上の専門の医師にかかるようになった。病気が軽くて気持ちよく通える間はよかったが、2回の手術の結果が思うようにならず、体の老化、個人差であきらめてすむのかと、医者まかせにせず慎重であるべきであったと後悔が残る。セカンド・オピニオンという言葉も知っていたのに実行しなかったことも。その後漢方医のところにも行ったが、ちょっとしゃべると「わたしが聴いたことだけ答えて下さい」と冷たく言われ、何も言えなくなった。ー病気は時に、いのちや人生をも左右することがあります。そんな大切なことを、たとえ専門家といえどもお任せしていいのだろうか。もっと患者が自立して、主体的に医療に参加する賢い患者になりましょうーとこの本は呼び掛けている。ー納得できないことは何度でも質問を。治療するのはあなたですーと医者にかかる10か条の一つ。
November 2, 2018
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今月初めとうとう傘寿を迎えた。60歳は勿論、70歳になったときとは全く違う人生の終末を感じた。残された時間は想像したくない。まわりの人を見ていると、この80代を何喰わぬ顔で過ごしている人はやっぱり少ない。何かと体の故障が増え、外見的にも杖をつき、よぼよぼと年寄くさくなる。10月の第一週目は大学、第二週目は高校とまたクラス会が続いた。昨年と比べると、大学で3人減り、高校で3人増えた。それでも出てくる人は20%くらいだから、出てこない人は分からないが、私の周囲ではなんかと理由があるし、亡くなった人もぐんと増えている。私の親しい友達はまだ亡くなった人はいないが、最近80代の御主人を4人亡くしている。これからは、いつどちらがどうなるかと思うとやはり備えをしておかねばならないし自分がしっかりしなければならない。最近紙類の整理を沢山した。安易に資源ごみとして出せないものは、全部生ごみとして。最後まで時々見たいものは生ゴミとして出してくれるように書いておかねば。わたしの医療に対する希望(終末期になったとき)や牧師に渡す葬式の備えも。以前夫と3人の息子たちに一人ひとり残す手紙も書いた下書きはあるが、どうしよう。 2010年三男の新居で14人集まったとき、私たちの家族5人と一匹が過ごした富山での生活を新聞として作ってくれたことがあり、2015年金婚式でみんなで集まったときも三男が「金婚式クイズ」と称してスライドを作った原本が私の手元にある。久しぶりに出してみると、三男の質問は2,3代まえの話や、私たちのそれぞれの小中高大学時代、結婚以後の多岐にわたり、うまく作ってあり、家族の宝物である。80代夫婦になってこれから与えられる日々はきびしい。でも今は大きな病気はなく、二人で助け合い、日曜日の礼拝から一週間が始まる貴重な日々を大切にしたい。
October 25, 2018
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殊の外暑い盛りのころ、東京に住む音大時代の友から転居通知が届いた。昨年の春以来会っていなかったが、いつだったか、電話で「私たちもう80歳やね、いつのまにこんなおばーさんになったん?」と笑い合ったが、それきり音さたなしで、「このたび、銀座まで40分の生活から敢えて不便さを求めて那須へ転居しました。満点の星空と猛禽類の観察ができればと思っております」と。住所からNETで探すとかなり過疎地でなぜ敢えてそんな不便な土地に引っ越すのか、それにこの歳になって暑い夏に荷物を移すのも大変な体力がいる。病院通いばかりしているわたしには考えられない。電話をすると、セブン・イレブンもあるし、道の駅もあるし、土地の人はみなさん親切だと。彼女は若い時、病気をされたせいか自分のペースで自由に生きる人。だから都会のマンションから田舎の山荘?もいいのは分かるが、最近わたしの身内や友だちが京都のなかでも周辺の一戸建てを処分して都心のマンションに移る傾向が強く、羨ましく思っていた。教会が京都の中心部にあり歩いてこれる人は少なく、高齢者がだんだん欠席がちになり、礼拝出席人数が減るのが問題。私たちは京都に住んでから25年間、ほとんど休まず車で通ったが、来年なくなると、バスと地下鉄で行かなくてはならない。だんだん教会から離れるのを心配している。でもこの日曜日マンションの夏祭りで、夫が出てくれたので、わたしは献金当番で、かなり夏ばてで弱っていたが一人礼拝に行った。たまたま昼食のない日で親しい友と二人で近くのレストランでランチして暑い中4628歩も久しぶりに歩けたことに満足している。
August 27, 2018
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6月 震度5強の地震が起こり、どこに住んでもいつ何が起こるか分からないと強く認識させられた。その頃弟と妹が続いて入院し、やはり私たちも体が老化の一途をたどり、仕方がないのかと思わざるを得ない。7月3日 兵庫県の弟のところへ電車を乗り継いで、やっとお見舞いに行ったら、くたくたになり、その翌日から雨が毎日毎日降り続き、鴨川の水位がだんだん上がって、携帯に緊急速報メール、避難勧告、指示のメールがじやんじやん鳴り、落ち着かなかった。その後桁外れの雨量が広島、岡山、愛媛はじめ、西日本の広い地域にひろがり、これほどの大きい被害が出たとはあまりにも悲しい。土砂災害、河川の氾濫の怖さを知って、専門家はなぜもっとしっかりした対策を考えてくれないのかと残念に思う。その後京都は38℃の猛暑日が続き、埼玉、熊谷では41.1℃の国内最高を更新。気象庁は「災害」と認定。熱中症の死者も過去最多。世界に目を向ければ、世界各地で猛暑や少雨と言った異常気象が観測され、ギリシャでは山林火災が起こり北欧もロシアの北極圏も暑く、韓国もドイツも・・・そしてこんどは台風がやってくる。東京オリンピック.パラリンピックまで2年をきったというが、果たして東京で開催できるのだろうか。
July 27, 2018
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6月18日7時58分突然初めて震度5強の地震に襲われた。早く起きていたが、朝ご飯を作るその前にちょっと休もうとベッドに座っていたら、突然ぐらぐらーときてあちこちの部屋からモノが落ちる気配がして一瞬マンションもろとも崩れ、最後かもしれないと恐怖におびえた。夫もベッドに座っていて、同じ思いだったらしい。幸い思ったより早く揺れがおさまり、恐る恐る部屋を見ると、積んだ本や飾り物が散乱し、沢山ある額縁の一つだけ廊下で落下してガラスが割れていた。23年前神戸の震災のときよりかなりひどいものの、あれから食器棚の収納など考えたので台所ではあまり損害はなかった。家族の安全を確認し、あちこちから電話を頂き、通勤途上で地震にあい、帰れなくなった長男が来て、夕食を共にし、それでも夜遅くJRも復旧して帰っていった。一週間は余震に警戒せよということであったが、やれやれ一日終わり、0時31分ベッドに横になった途端、体が大きく揺れ、初めて震度4の余震が来てこわくなり、寝ている間になにが起こるかわからない。せめて着の身着のままで逃げれるように着替え、どうしても毎日必要なものをまとめて、大きなバッグに詰めて横において寝た。夜は案外よく寝て、翌朝新聞を読んでいると、7時52分また震度2の地震が・・・あれから大きな揺れはないが、落ち着かない。
June 20, 2018
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最近特に老化が激しく、何をしても長続きせず、夫もわたしもソファやベッドでアッというまに夢の世界へ。出かけるのは教会関係と病院ばかり。殆んど夫の車で出かける。ところが漢方薬の病院だけは京都駅のそばにあり、駐車場もなく、地下鉄の方が便利なので一人で昨年夏の終わりごろから月一回通っていた。膀胱も眼もそう簡単によくならず、良くわからないが先生が漢方の生薬を一つ一つ考えてくださるので、種類が増え(?)1ヵ月分となると、目方が重く5月には4kgを越え、バス停まで夫にとりに来てもらった。今週は特にしんどいので、車でと思ったが、夫に一緒にきてもらって、バスと地下鉄で行くことにした。久しぶりに5000歩も歩いた。そして京都駅の一番上の素敵なイタリアン・レストランでゆっくりランチして1時間くらい休憩して、コーヒーも飲んで帰ってきた。「これもいいね」と思えてきて、これから月1回あちこちレストランめぐりをしようかと思うが・・・どうせ車をもつのはあと1年、86歳になる夫はまだ運転しているので、気が休まらない。少しづつ車なしの生活にも慣れていかねばと思ったりしているが、体が益々衰えていくのに・・・今日のようにいつまでも体が動いてくれるか心配である。
June 9, 2018
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孫たちも大きくなって、毎年のように上の学校へ進む者がいる。6人が大学3年生から中学2年生まで成長はあっという間だ。3月末は大津の長男家の高校生の孫娘のヴァイオリンのいつもの発表会が琵琶湖ホールであり、行った。サンサーンスのコンチェルトを聴かせてくれたが、もうパパの伴奏では無理でプロの方にお願いして、ほかにもメンデルスゾーンやチャイコフスキーのコンチェルト・クライスラーの序奏とアレグロなどみんな一段と上達していた。終わってからひさしぶりに近くのレストランでみんなで食事したが、大学生のお兄ちゃんは別行動。4月になってから、次男と孫息子が伊豆からやってきて2泊した。この一番小さかった孫も中学2年生で父親の背丈を越しそう。夜は長男と高校へ入った孫息子も来て6人で夕食後、ショパンのエチュード「革命」を披露。わたしが教えたり伴奏をしたりしていた時代とは、隔世の感。あのピアノブームのころに比べて、ピアノやヴァイオリンを習う子どもはかなり少数派とはいえ、部活もそれぞれに激しいスポーツをやりながら、よく頑張っている。そして京都をあちこち歩きたい2人にはもう付き合えず、体力がなくなったことを痛感。夜はまた家の近くのレストランでゆっくり4人で夕食を楽しんだ。車で迎えに行ったり送ったりすることもなく京都駅から2人でバスで来て、またバスで帰って行った。
April 13, 2018
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7年前の3月11日、東日本大震災と津波に背中を押されて、70歳を過ぎてから始めた傾聴ボランテイアを今月でやめた。始めたころ90代の男性と楽しい傾聴が亡くなるまで続き、普通に会話ができたが、この間私の耳の老化が進み、月例会の会場で30~40人集まるのにマイクがなく、4つのグループ分けの討論が周囲の雑音(各グループの話声)で自分のグループの中に十分入りこめず、この一年とうとう傾聴に行った相手の話が補聴器をつけても聴き取れず、変えていただいた90代の方は逆に私はしっかり聴きとれるのに相手が補聴器をつけても聴き取れず・・・といろいろあった。でもその方はよく話す方なので、あいづちをうって表情でいくらでも対応できたが最後の日、耳のそばで大きい声で言ったら通じ、名残惜しそうだったので、またもっと若い人に行ってもらうようにお願いしようと思う。特養ホームにはかなり認知症の進んだ人もおられ、話の辻褄があわないが、わたしが行くととてもうれしそうで、いつもにこにこ愛想よく歌を何曲も歌ってくださった。7年間で9人のクライアントに出会い、みなさんほぼ家族(息子や娘)はおられるが、ホームに入っておられる。今や3世代同居がへり、どちらかが先立たれると一人でホームに入っておられるが、ホームでの生活は大勢仲間がいるはずなのに、やはり単調な毎日で孤独に見える。ボランティアもいいが、もっと家族や友達が行き来して声をかけてあげてほしいと思う。私も79歳。今のところ家事は85歳の夫と分担して、教会はじめあちこち出かけて気後れなく話す相手がいる。高齢になると体のあちこちの衰えは必ず出てくる。そこで閉じこもってしまうのでなくなんらかの形で外へ出て、定期的に人と接する関係を沢山もっていれば、常にリフレッシュされ精神的に元気でいられると思う。
March 14, 2018
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家庭をもって50年余、ずっと婦人之友の「家計簿」を使っているが、夫の定年で、富山から京都に転居した1993年から「高年の家計簿」に切り替え2002年まで10年間続いた。その当時まだずっと友の会員でパソコンも使い始めていたので、「パソコン家計簿」にまた変え15年、夫もずっと興味をもっていた。一昨年暮れ、私が15日間入院して自分で食事をつくり、それを写真に撮り毎日みせてくれた夫は、私が退院してからも以前に増して家事に協力的で、家計簿もつけてくれていたので、引き続いて2017年は自然に夫の担当になっていた。生活費は勿論のこと年金、税金、社会保険費など夫にも知ってもらうのにいいかと思ったが、一年経って夫の負担があまりにも重くなって、遅れ遅れになり、とうとう一年決算が出せなかった。一つ一つの費目の中のまた内訳に消費税も計算し記入するのは、あまりにも手間がかかる。特に副食費の野菜の内訳などいちいち記入するのはとてもしんどい。以前息子に「時間の無駄」といわれたことがあったが、私が引き受けるなら、パソコンは眼にもよくないし、再びノートに戻すことを考えた。1月半ばになって楽天に注文して「高年の家計簿」が1日で届き、久しぶりに手にしてみると、とてもシンプルですぐ眼に見えて、買い物してすぐに書き入れ、副食物は1日分合計して消費税をかけて、終わり。昔と違って今はすべてレシートがあり、知りたいときは見ればよい。再び私が家計簿係に。夫は嬉しそうだった。
January 22, 2018
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9月の富山からの帰り、サンダーバードで列車の走行音(?)に合わせてあるメロディーが聞こえてきた。初めは「キラキラ星」でコーラス、それも男性コーラスで階名で歌っている。いつのまにかフォスターの「スワニー河(故郷の人々)」に変わり、ある時は部分的に2部合唱になり、伴奏らしき連続音も聞こえた。サンダーバードを降りてからもいつまでも耳に残っていると思ったら、あれからずっと毎日続いている。教会で讃美歌を歌うと終わってからもまだ耳に残っていて、それでもいつのまにかまた「スワニー河」にもどって、それがうるさい。オーケストラの曲になったり、やたらと装飾音がついたり、分散和音のしつこい伴奏がついたり、夜ベッドに入ってからも眠れないので、それならせめて讃美歌にしようとまず知っている曲を次々入れて(?)みる。特に大好きな522番の「キリストにはかえられません」を度々歌ってみると(頭の中で)走行音のような力強い伴奏をつけてくれるが、いつも変わってしまうのは「スワニー河」なぜ「スワニー河」なのか。最近教会のクリスマスの祝会で女性会の出し物で「ジングルベル」と「赤鼻のトナカイ」を歌うため、伴奏の練習をしているとどちらも調子よくのってくる。耳鼻科で若い女性医師は「音楽の耳鳴りは初めて。音楽が聞こえてきていいですねー」といわれ、ジーンと耳鳴りもあり、その奥(脳)が音楽を奏でている感じ。先日人間ドックの最後の診察のとき、夏は熱中症だと思っていた頭痛が今でも続いていることと、いつも音楽が聞こえることも相談したら、「脳神経外科」へいくように言われ、ベテランの医師はすぐ頭のCTを撮って何ら異常はないと言われ、自分で納得できないなら、神経内科にいくように言われ、まだどうするか決めていない。
December 21, 2017
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今年は10月に大学、11月に高校のクラス会があった。前日に九州と福井から参加する友達と泊まるホテルにクラリネットの男性とご主人の介護でクラス会には参加できない親友も加わりお茶の時間をもち、男性1人と女性4人でいつもとは違う話題も出て楽しい時間を過ごした。男性いわく残り少ない人生になって、後悔しないうちにクラス会ではなく、会っておしゃべりしたいということだったらしい。やはり女性ではなく仕事として、広い方面に活躍した彼に私たちの知らない大学の後輩の活躍ぶりや今の音楽界事情も聞けて楽しかった。クラス会は毎年同じ会場で数年前から昼食の時間になり、出席者は14人、男性がだんだん少なくなってきて、変わり映えしない会はちょっと停滞ぎみ。ところが先週の高校のクラス会は冬のような寒い日になったが、いつものホテルではなく、同窓会館に49人も集まって、初めての人や、26年振りの人もあって、終始温かくなごやかな雰囲気で誰とでも打ちとけたのは学校のすぐそばの会場だったからだろうか。そしてみんな若くて元気なのにびっくりした。新しく建て替えられた校舎を校長先生の案内で見学し、大学のキャンパスでクリスマスイルミネーションの点灯式にも参加し、寒かったけど、充実した時間を過ごし、満たされた思いで帰ってきた。26年前高校のコーラスのOG会があって富山から出てきたとき、ずっと付き合ってくれた人が思いがけず来られて、三男が念願の大学に入学した5月、嬉しくて下宿に止まった時の気持ちが鮮やかによみがえって心が温かくなった。
November 26, 2017
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夏頃から家の片づけを少しづつ始めた時、長い間愛読している婦人之友の「漢方 人間は一つの宇宙」に目が留まった。「体は一つ」なので、すべてのトラブルは全身の状態としてとらえ、一つの薬で治すということに興味を持った。翌年「漢方で整える」のシリーズが毎月掲載され、「ドライアイ」や「尿トラブル」など、今私がかかえている悩みを漢方薬が解決してくれるのではないかと希望をもって、京都で診てくれる先生をさがし、8月末にその先生をたづねた。パソコンの問診票をプリントアウトし4枚も書き込んで、診察は両腕の脈と舌だけで、お薬をもらい、それから毎日30分煎じて、朝夕飲んでいる。はじめからわたしの場合老化もからんでいるので即よくなることはないと言われたが、夏から秋にかけて、季節的に体が少し楽になってきて、まだ眼も膀胱も少しよくなったかと思うとまた戻りの繰り返しではあるが、きっと体調が整えられると希望を持っている。昨年暮れの手術・入院からのこの1年は昨年までやっていたことはすべて続けていたが、一つだけ15年前から参加していた大学の講座のつづきの牧師の勉強会だけはどうしても行けなくなっていた。内容的にもついて行けなくなっていたのだが、牧師が移動されると聞いて、今週1年ぶりに出かけた。補聴器と眼鏡で思ったより集中してノートをとるとき漢字もすらすらでてきて、うれしかった。そして親しい4人とともにランチをして、楽しい時間を過ごし、嬉しい気持ちで帰ってきた。眼も耳も自分の気持ち次第であると思ったのだ。久しぶりに会ってみて、いつまでも人と人のつながりの中で食事をしたりおしゃべりすることが大切であると認識し、その方が体調もよくなると確信できた。
November 18, 2017
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先日、富山でコーラスのみなさんと会ったとき、ピアノの生徒のお母さんだった人から、「先生、大切なものを預かっていました。すみません」と頭を下げられ「あとでお渡しします」といわれ、何だろうと想像もつかなかったが、実はピアノ発表会の記録ノートであった。その年のお世話係のお母さんたちの丁寧な記録をわたしは当時見ることはなかったし、プログラムも貼ってありとてもなつかしい。1974年、自宅のレッスン室で親子でクリスマス会をはじめてから、1993年まで18回。その曲目の記録は最後に文集を作ったときにすべて書いた。けれどもそれは教える側の単なる記録でその陰でいつも支えて下さったお母さんのみならず、お父さんもプログラム作りや写真などかかわってくださったことが沢山あり、夫婦で集まるコーラスにつながったのだ。わたしが最後の発表会の終わりの挨拶で、半年後に京都に転居することと長い間の想いとお礼を述べたので、みんなびっくりされ、「思いがけなく、お別れの日をむかえねばならぬことを知りました。先生との別れを思うと、思い出をたどりながら、ぼんやりと時間を過ごしてしまうこともしばしばで、遅くなりました」と皆に渡された報告書の一枚も貼ってあった。あの日から24年、富山で過ごした26年に近い年月が近づいて、離れたからこそ、また全く違う世界で、別の景色を見つつ、新しい絆もでき、人生が豊かになったと思えてくる。
October 16, 2017
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その一夏休み中、孫たちとどこかへ行こうと恒例の長男家族5人+私たち祖父母3人の8人で琵琶湖の、会社の保養所に一泊した。前日夕方、集合して会食、卓球、カラオケ大会に、思いがけず夫がハッスルして「ベサメ・ムーチョ」をゼスチャーたっぷりに歌い出し、孫たちもお腹をかかえて、笑いこけ、初めて見たおじいちゃんのエンターテイナーぶりに接して、楽しい時間を過ごした。これは旅行というより、一泊の家族の集いというべきか。その二モーツァルトの生誕地ザルツブルクと富山の宇奈月が似てているということから、2011年から、「湯の街ふれあい音楽祭 モーツァルト@宇奈月」が行われていたとは全く知らなかった。それを機会に富山のコーラス仲間が集まろうと誘われ、「もう富山は遠い」と2年前最後に行ったつもりだったのに、9月の連休、思い切って出かけた。あいにく大型台風18号が直撃、予定していた朝一番のサンダーバードは前日運休がきまり、2本目は動いたものの、 サンダーバード―北陸新幹線―富山地方鉄道と乗継ぎ、やっと着いた宇奈月温泉はなぜか土砂降り。大変な思いをしたが、2年ぶりの再会、関東組とは6年ぶり。みんなでモーツァルトの街?でモーツァルトの曲を聴く楽しい時間を過ごした。夕食の後はコーラスもし、ほぼみんな70代の14人、病気や親の介護で出席できなかった人もいたが、コーラスを通して築いた仲間たちの結束はアマチュアなればこそ。40年前夫婦でコーラスをと強調したわたしであったが、老後をコーラスにのめりこんでいる人もあり、こんなに長く続いていることに喜んでいる。
September 22, 2017
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2~3ヵ月に一回、同じ美容室にいくのが7年目になり、いつもわたし一人で、10歳くらい年下のオーナーとよく話をする。バスで4つ駅向こうの地下鉄の駅から歩いて10分くらい。このごろは行きしは夫に車で送ってもらい、帰りはバスで帰る。考えてみるとこれが私自身の傾聴されている側だと気が付いた。だから傾聴ボランティアの中に、美容師やマッサージ師、お酒とカラオケのサロンのオーナー、元看護師の人がおられるのが分かる。適当に近くなので、まず近所の情報が入る。病院やスーパーの評判(これは傾聴ではないが)週刊誌やTVのうわさ話。身辺のことなどとても友達とはできない話もできるのは、2人以外他者との共通性が全くないこと、ちょっと話したことがプライベートな自慢話になったり、悩みであってもそれがまず広がらない。もし他のお客さんの話が出ても、どこの誰かわからない。心おきなくしゃべれるのはこの人かも知れないと思うと、傾聴ボランティアの必要性も分かってきた。教会の友達も学校時代の友達も妹でさえ、それぞれの事情がすべてわかっているので、何気ない一言一言がとげにもなる。後で後悔しないように慎重になる。心にもないことを言えないわたしにはなおさらである。人はみないろんな事情をかかえて生きている。いいことばかりかかえている人は先ずいない。また新しく出会った傾聴ボランティアのクライアントは恵まれたホームでの生活をしておられるにもかかわらず、日ごろしゃべる人がいないというのがボランティアを求められた理由だったようだ。そしてホームの中でちょっとしゃべると「~さんがこう言った」とかうるさいのでと言われた。何も知らない関係でただ聞き役になる傾聴ボランティアの必要性を改めて認識させられた。
July 31, 2017
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77歳の昨年春、いつ何が起こるかわからない、いつまでも白髪を気にして染めることが落ち着かなくなった。偶々教会の友達がいつも帽子をかぶっておられるなと思っていたら、すごくきれいな白髪になられて、良く似合っていたし、街に出ても、素適なシルバーグレーの人が目につくようになった。昨年5月に一旦決心して美容室でカットとパーマだけでにして染めないで帰ったら、もともとてっぺんはかなり白くなっていた上、美容室のシャンプーでかなり茶髪になったのでと茶色のスプレーをかけられ、あまりにもみっともない。このまま染めないでいると、グレーになるのでなく、茶髪になる!そのころ教会でまた従兄弟にあたる人がガンの末期でいつどうなるか心配の上、こんな頭で葬儀にでたら失礼だと強く思い、帽子も探したが、室内でかぶることに慣れてなく、決心が揺らぎ、10日後に染めてしまった。8月になって長男の家の近くの大型スーパーで「白髪染めをやめたら茶髪になってこまる。とりあえずグレーに染まるものがあったらいいのにねー」といったら「あります。わたしの母が使っています」とS社の「トリートメントカラーリンス白髪に彩り―自然なグレー」を見せてくださった。そう簡単にグレーにならなかったが、リンスだからと度々使っているうちにだんだん茶色がうすれグレーと白のグラディーションになり、寒くなったころなぜか「きれいな紫!」と何人かの人にいわれた。先日美容室に行ったらもう元の白髪染めは全くなくなったといわれ、1ヵ月に1センチしか伸びない毛が先までいくには私の場合1年くらいかかったと思わざるをえない。今でも出かけるところによっては黒っぽいスプレーを少しかけたり、まだリンスももっているので、時々使うが、徐々に慣れてきてやっぱりこれでよかったと思っている。
July 24, 2017
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白内障の手術から1年半。一向にすっきり見えないので先生に聞くと初めてドライアイが原因だと知る。手術前は今のように見えたり見えなかったりすることはなかったと思う。70代になっても眼鏡なしでよく見え、少し見えにくくなって、それが白内障だと言われ、手術することになり、事情で片方だけでやめたが、朝起きた時、新聞がはっきり読め、TVもよく見えたものの、1日続くことはなく見える日と見えない日があり、その上充血してかゆく、目ヤニがでたり、ショボショボしたりで、訴えるとドライアイの所為だと目薬をもらった。ところが、その薬を使えば使うほどその症状がひどくなり、膜がかかったようにかすみ、よく見えない。ドライアイが視力にまで影響しているとは夢にも思わなかった。見えにくいのは若い時と違って、眼の調節がしにくくなるといわれ、眼鏡も作った。その眼鏡はどんな小さい字でも読めるようにお手元用で、眼鏡屋で納得していた。ところがボヤ―としてくると眼鏡をかけても見えるはずもない。ドライアイといえば目がかわく、涙が少ないくらいの病気でその自覚は全くなかったのだ。先日ドライアイのお薬をどっさり下さるのでこれは余計目が悪くなると思ってこちらから聞いてやっと知ったのだ。手術した目もしていない目もそう視力は変わらなく、目の奥?でくっきり、はっきり見えるが、その前のボヤーとしたかすみを感じるときもある。ドライアイを治す薬はないものか。75歳からひざ、目、耳が悪くなり、思いがけず婦人科の手術までした。老化がどんどん進み悲しい。
July 15, 2017
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夫がパンを作らなくなって、生協やスーパーマーケットで買うものの、やはり手作りしたいと思うのは雑穀やドライフルーツ、ナッツを自由に入れたい、ずっと夫が一人でやってきた食パンを今更わたしが引き継げないが、ソーダブレッドなら何とかできそうだと2年くらい前から時々作っていた。夕食準備の前や、夕食後にちょこっと時間をとったらいいだけ。こねることも、発酵することもいらず、30回くらい作って、やっと定着してきた。特に婦人之友2月号に載ってから、このレシピを使って薄力粉の一部をオートミールや全粒粉、グラハム粉に変えてとても簡単!材料(薄力粉230g、砂糖15g、塩3g、ベーキングパウダー2g、重曹2g レーズン80g、くるみ30g、ヨーグルト170g はちみつ10g)を揃えて、計って手早く混ぜるだけ(夫と共同作業のときも)こんもりと丸く天板にのせて、粉をふり、十文字に切り目を入れて、200℃のオーヴンで30分焼く。我が家は二人なので、朝4回分出来上がり。時には市販の食パン、バターロール、マフィンなど取り入れて朝ごはんを楽しんでいる。
June 9, 2017
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5年間軽費老人ホームで傾聴を続けた90代の男性が、100歳を数日前にして亡くなり、6年目に入った傾聴ボランティアの新しいクライアントが中々定着せず、その上、軽費老人ホームが老朽化してちょうど移転する時期になった。少し遠くなるので、もう少し近くの特別養護老人ホームを紹介してもらった。最近教会や身内のものでいわゆる有料老人ホームに入る人が増え、訪問して少しは違いが分かるものの、特別養護老人ホームは初めて。以前の軽費老人ホームと同じお寺の経営でであるが、雰囲気は全く違う。先ず個室ではなく、ユニット型の4人部屋でTVが各部屋に備え付けられ、ベッドや引き出しのある棚などがあり、どの部屋もオープンで、仕切るのは病院のようなカーテンで、以前のように個室に入ってじっくり話を聴くことはむつかしい。4人部屋の外の大きな廊下のテーブルにみなさん座っておられる。傾聴する相手とは、少しみんなと離れたテーブルに移動するだけである。気軽な会話というか、今までとは全然違う。何人も座っておられて、表情もうつろで、他人に関心もなく、会話もない。今のところ、その中の2人とかかわっているが、ホームの職員さんは、話好きの人を紹介してくださるらしく、一人でべらべらしゃべる女性、その上歌まで何曲も歌って下さる。歌詞も正確に覚えておられるのはお見事。きれいな声で、音程も確か。一緒に歌ったものの、よく知っている「旅愁」すらも歌詞がついてゆけなかった。もう一人は子どもの頃の話をくわしくされるが、いつごろお話かはっきりしない。自分の簡単な歴史、生まれた年や結婚された年など2人ともはっきりしない。おそらく戦中戦後を生きてこられたのではないかと思うのだが。この先またいろいろと聴けるのが楽しみである。
April 28, 2017
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月1回、元の泌尿器科に通っているが、3月初め医師に思っていることを言おうと決心。●なぜ卵巣や子宮を調べてくださったのか。●婦人科ではもともと膀胱が悪かったからで、悪化したのは手術の所為ではないと何度もいわれたが先生には余計悪くなるとわからなかったのか。●私にとって手術は必要だったのか。卵巣の自覚症状もなく、多分良性といわれたのに、子宮までとった。78歳のわたしは、いつガンになるかわからないのに手術を受け、余命を延ばすことより、排尿障害によって残り少ない人生の質(QOL)が下がりつらい・・・・など。結局医師は「命が優先」だということで返された。これからは延命治療などの問題に直面したとき、よほど自分や家族がしっかり考えないといけないと強く思った。その後新聞広告で「手術数でわかるいい病院」を知り、NETで注文。手術数で病院の良し悪しがきまるなら、良性であっても、将来悪性になると「命第一」で手術するのかと思ってしまった。そういえば全摘手術することを聴いて不安と抵抗を覚えていたとき、横にいた看護師はニヤニヤ笑っておられたが、「どうせお腹を開くのなら子宮もとってしまった方がいいよ。もういらないでしょ」とあっさりいわれたこと。手術してから医師は「ガンのリスクはゼロになった」と言われたことを思い出す。
March 10, 2017
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12月に亡くなられた教会の90歳の女性会員の納骨式が先週行われた。80歳を過ぎてから礼拝に出られるようになり、家庭集会にも毎回かかさず来て下さった。洗礼を受けられたのはすぐで、6年前のクリスマス。何事にもまじめに努力してこられたのだろう。教会生活も一生懸命で、聖書の勉強はじめ、食事当番やバザーのお手伝いもきちんと果たされ、家庭集会のお菓子のレシピもよく欲しいと言われ、若いときは友の会にも入ってよく手作りされたらしい。何でも自分でできないと気がすまないタイプで結局亡くなるまで、車の運転もしておられたのには驚く。12歳違いの一回り上であったが、いい意味で気の合う友達でいて下さった。わたしよりずっと耳がよく、わたしは彼女のやさしいか細い声が聴きとりにくく、よく夜おそくまで電話で長々おしゃべりした。訃報が突然入ったのは、わたしが入院する前の日、告別式は手術の日で行けなかったが、納骨式には初めて息子さん夫婦や娘さんにお目にかかり、ご家族に私なりにお付き合いした思い出をお伝えできて、共に在りし日の教会での姿を偲んだ。同じ週、九州に住む音大の親友の従姉妹のご主人の告別式がわたしの教会であった。わたしの教会にその友達がきたのは初めて。共に讃美歌を歌い、祈り、葬儀を通して、よい証ができた。ところがそのご夫妻はは半世紀以上教会員であるが礼拝に出られたことはない。わが教会は創立130年以上を経ち、そのような人が多い。いわゆるお寺の檀家のように葬儀となると教会でとなるらしい。私の親族にも何人もいるし、洗礼を受けなくても、家族なら葬儀、納骨はしてもらえるが神様はどう思われるだろうか。そして礼拝堂に続き納骨室があるのは、教会がいつでも、いつまでも故人とつながっているのである。
March 4, 2017
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昨年7月に申し込んでいたドックは一瞬迷ったが、手術したことを話して、1月に受けることにした。変わったのは、尿の取り方が当日の検査の中ではなく、朝いちばんの尿を容器に入れてもっていくとのことで、私にとってその方がよかった。昨年と同様にCT、レントゲン、エコーはすべてその日に見ながら、くわしく丁寧な説明してくださった。ずっと同じ病院で受けていると、何年も続いて画像が残っているので、比較してほぼ変わりなければいいとのことで、今月に来た報告書はみんなコメントつきで、経過観察であった。その中で、わたしはしばらく止めていたコレステロールの薬をここ2,3か月きちんとのんだら劇的に下がり、HDLとLDLが77と76でほぼ同じ、総コレステロールは169だった。薬の副作用が皮膚に出て中止していた夫は数値がぐんと上がり、はっきり差がでた。また二人とも共通して糖尿のリスクが少しあがり、わたしは3か月後にかかりつけ医で検査することになった。また視力検査はで0.7 と0.6であったが、少し前の眼科検診では1.2と1.0。日によってずいぶん違う。白内障の右眼だけ手術をしてちょうど1年。日によって見えたり見えなかったり・・・視力検査だけで何が分かるのだろう。70代になっても裸眼で遠くも近くもあれだけ見えていたのに、この1年、時には見え過ぎることもあったが、もう今は以前と変わらず、手元用の眼鏡を作ったが、それもよく見えたり、見えなかったり…眼鏡屋で老化とともに眼の調節する機能が衰えるといわれて納得。「手術」はよほどよく考えて納得してやらねばとしきりに思う。
February 25, 2017
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昨年11月初め、長引く膀胱炎にこれ以上もうなにもすることはないと、泌尿器科の医師が子宮と卵巣のMRIを指示された。結果右卵巣になにかあるので、婦人科に紹介状を書いて下さった。なぜ婦人科に?という思いがぬぐえない。月半ば近くの少し大きな病院の婦人科へそのMRIの画像とともに紹介状を持っていくと、もう一度造影剤でMRIをとってみるといいながら、もう即12月に手術日がきまり、その日、血液検査やレントゲン、心電図など手術の準備をすべてして帰るように言われた。11月最後の日に再び行くと「腹式単純子宮全摘術説明書」をまず見せられてびっくり! 子宮、卵巣、卵管全部とる。もし悪ければリンパも。開いてみなければ分からない。手術の説明の下にはリスクがきわめてまれですが・・・責任のがれのための文が余計おびえさせられる。 「やめて!」「待ってください!」と言いたいのがなぜか言えない。12月に入ってNETで調べられるだけ調べ、クリスマス、お正月、暮の家族旅行などはどうするか、暗い気持ちで頭が回らない。卵巣の腫瘍は8~9割が良性とも書いてある。手術前、泌尿器科の診察日に行ったら、「たまたまこれだけ早く見つかったのだから、手術したほうがいい」と自分から言い出し紹介状だけ書いて無責任。NETに「なぜか日本だけ行われている子宮全摘手術」にショック! またまた揺れる。もう少し落ち着いてよく考えたら、少しのばすこともできたではないか、経過観察して半年後、1年後でも・・・よかったのに。迷いに迷い、とことん悩んで、なにも言えず、とうとう手術の日がきてしまった。手術後すぐ良性といわれたものの、思いがけず、膀胱がかえって悪化してわたしは後悔したが、婦人科の医師は「そしたらいずれガンになっていた」と。「インフォームド・コンセント」ということばが頭に浮かぶ。医師にしたら日常茶飯事のことかもしれないが、一人ひとりの患者にとっては人生の一大事。なぜもっと誠意もって温かく接してくださらなかったのかと自分があまりにも無知で軽率だったことを責めている。
January 10, 2017
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誰も知人のいなかった富山で婦人之友の友の会に入ったのは、子どもを通して知り合ったお母さんたちと手をつなぎ、地域でよい交流をもちたいと思ったからである。友の会のもより会は会員の家を開放することからお互いの生活を学び合うといっても過言ではない。赤ちゃん時代から子どもは子ども同士で遊び、よい刺激を受けた。お昼はお弁当であったり、持ち寄りにしたり、みんなで作ったり、はたまたお宿の人が一人で用意したり・・・と鍛えられた。その後小学校のPTAコーラスの延長で夫婦ぐるみでコーラスの集いをもったのは、ほとんど我が家であったが、夜のティータイムの準備は当番を回して、みんなが受け持ってくださった。クリスマスはティーだけでなくワインに合うオードヴルもでるときもあったし夫婦で仲良くし、家族ぐるみで旅行に発展して、富山と関東、関西に離れても、つい3年前まで続いていた。そして京都に移ってからは教会の家庭集会を月1回23年続けている。これは完全にアフタヌーンティー・タイムで23年間にどれだけのスイーツを作ってきたことか。富山時代には作らなかったシフォンケーキやタルト、ロールケーキなどさまざまアレンジして挑戦するものの、よく失敗もした。今だに自信がなく、いつも悩む。幸い本を買わなくてもインターネットで学べるので楽だ。夫も定年で掃除やお茶、コーヒーの用意はしてくれる。どちらかというと女性が多いが、牧師、伝道師、年配のベテラン男性会員も来てくださり、伝道師は2~3年で交代され、3月のお別れ会はサンドイッチも作ったりする。今月は牧師の都合でいつもの火曜日ではなかったが、昨日久しぶりに11人集まって創世記15章の学びと1時間ほどたのしいおしゃべりが続いた。年齢を重ねてちょっと大変になってきたが、教会へ新しく来た人、求道者が晴れて洗礼を受けられて、教会員になられるのが一番の喜びである。
October 15, 2016
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この夏は長男家の孫たちとよく過ごした。ママが入院したので、家に来たり、夫と一緒に大津に行き、今の中、高、大学生の生活を身近に見聞きすることができた。かつて3人の息子を育てた月日から30~40年経ち、私自身も歳を重ね、老い、特に夏は毎年体調がダウン。頭も体も思うように動かず、思うように何もできなかった。時代も社会も変わったものの、子ども3人を一人立ちさせる一日一日の積み重ねは、いつの時代も大変なこと。でも元気に勉強や部活に頑張っている姿を見て、嬉しくもあった。今は3人ともスマホを自由自在にこなし、入院しているママとも毎日しっかりつながり、高1の孫娘は今夏3回目の海外へ。息子の時代には考えられなかったことが実現?している。特に女の子を持たなかった私には孫娘の存在は珍しく、いつも母親を見ているのだろう、ドイツから帰ってくると、率先して家事をこなし、学校が始まると、朝のわずかな時間に弟と自分の弁当を作り、クッキーまで焼いて、私の高校時代やらなかったことを楽しそうにやってのける。最後に私たちが帰るなり「もう帰った?1週間ありがとう。料理とか、洗濯とかいっぱいありがとう!!ご飯おいしかった。またゆっくりできるときにきてね。今日はゆっくり休んでね」とメールでやさしくねぎらってくれた。ママの入院は家族がひとりひとり自分の存在を確かめ、これからの歩みを確かめたのではないか。それぞれの成長過程で大きな収穫もあったと思わざるをえない。幸い9月17日退院してまた元の生活に戻り、ほっとしている。
September 21, 2016
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彼は受洗後50日目に天に凱旋した。救いに与った魂は確実にイエスのふところに抱かれて、今は平安のうちにあり、残されたものは悲しみにはあっても喜びをもって讃美歌を歌う。牧師の式辞では故人の略歴や人柄を紹介、69年の生涯と家族や友人とのかかわり、趣味など語られ、集まったすべてのひとによい感化を与えた。牧師の祈りは故人の冥福を祈るのではなく、神への感謝と残された家族、とりまくすべての人を慰め、励ますためであり、説教はキリスト教の死について前夜式では[詩編23編] 告別式では [コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7~18節]からであった。がん発病2年前から受洗の日まで書き綴られたブログがあらためて宝もののようにありありと語りかけてくれ、ブログは生きた信仰の証そのものである。受洗した喜びを中心に家族や友人と過ごしたかけがえのない時間と空間がよみがえってくる。わたしたちもいづれ天で再びまみえることを信じて、♪「神とともにいまして・・・・・また会う日まで・・・・・また会う日まで」と歌いながら見送り、クリスチャン4代目のかれは天に帰った。
September 3, 2016
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4代前の曽祖父が同志社創立者の新島襄から影響を受けクリスチャンになって以来、母方の親族は何かにつけてキリスト教を継承してきた。そして曽祖父が設立に加わったその教会で洗礼を受けて、教会員として人生を送った人は3代目もそう多くはなく、教会員として名前が残っている人の中にも教会生活を真の意味で全うした人は少ない。しかし別の教派の家族には牧師もいて熱心なクリスチャンもいる。 そして私たち今の教会の4代目はほんの数人。ところがその直系4代目の長男のKさんが2年前膵臓癌を宣告され、一切の治療はしないときめて、余命を宣告されたこの6月も過ぎ、今月の第一日曜日に決心してバプテスマ(洗礼)を受けられた。 長いこと時々礼拝に出ておられたが、申し出られたのは6月で、体調のいい時来られた。牧師は病床洗礼でもいいし、もしそれがかなわないときは葬儀はしますといわれたそうだが、やはり教会できちんと洗礼を受けたいと、急遽7月3日と日がきめられたとき、その日具合悪くなられないかと気が気でなかったが、家族みんなで、いつもより大分早く来られ、きちんと礼拝・洗礼式を終えることができたことはとてもうれしいことであった。 またその日、今までほとんど礼拝に出ていなかった、いとこたちも出席して、よい証の場になったことも感謝である。 この上はどのくらい命を下さるか神様しか分からない。家族とともにおだやかな平安な日々が少しでも長く、与えられて、支えられて、神様の豊かな恵みと祝福があることを信じている。
July 28, 2016
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今年も早や半分終わろうとしている。77歳の毎日はどこがどうというわけではなくても、やっぱりしんどい。75歳で天に帰った母はもういなかったし、90代まで生きた祖母も息子家族と同居して、何も家事はしていなかった。長生きする人が多くなった今、私たちの年代では80代、90代の人の前にまだ若い!と思わざるを得ない。 今年の教会関係の行事は5月よりも6月に集中し、チャペルコンサート、セミナー、地区の賛美の集いや、女性会の例会も続き2回も他教会の人々と交わりの時をもった。特に女性会は7年ぶりにわが教会が会場となり、60人集まり、総会、マンドラ&マンドロンチェロの珍しいコンサートに後半はみんなで讃美歌を歌い、ミニバザー、ティータイムには12のテーブルに教会の庭の花を飾った。 間の日は教会員の若いピアニストのショパンの連続100曲リサイタルの2回目が長楽館であり、親しい教会員の友の絵の個展もあり、ギャラリーにも足を運んだ。 一番大変だったのは、70代~80代の母校の混声合唱団が地区の賛美の集いで、旧約聖書 詩編23編の英語の曲を4曲披露し、最後の日曜日は滋賀の近江今津まで行って、コンクールに出場。皆さんのお元気なこと。でもみんなと一緒は楽しい。湖西線でのおしゃべり、メンバーの同級生の琵琶湖畔のセカンドハウスでの手作りの打ち上げパーティのスケールが桁外れ。この歳で誰も真似できないこと。疲れもどこへやら。 そして今回英語の歌詞を完全に暗譜して歌えたことは自分でも満足したのである。
June 30, 2016
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新しくよみがえったフェスティバルホールへ一回行ってみたいとずっと思っていたが、大阪は年々遠くなりチャンスがなかった。新聞広告で見つけた西本智実指揮モンテカルロフィルハーモニー管弦楽団の魅力もさることながら、バラエティに富んだなじみ深い演目に、その日が日曜日の午後であるにもかかわらず、チケットが簡単に手に入った。夫がNETで申し込み、すぐ近くのコンビニへ取りに行った。 日曜日の礼拝後、京都から行くのはしんどいので、これもチャンスととらえて、知っている牧師や教会員のいる西宮の教会で守った。できるだけ礼拝はかかさず、どこでも自由に出席できるのはうれしいことで、イギリスやウイーン、沖縄でも主にある交わりをしてきた。大阪へ戻り、地下鉄の肥後橋を降りると大勢の人。人。人の流れができ、すぐそばの新しいフェスティバルホールがそびえ立っていた。3階のかなり高いところから、ステージ全体を上から見渡せる席で、すごくダイナミックなサウンドが耳に心地よく伝わり、ホール全体が響き合い、日本にもこのように世界的に活躍する魅力あふれる女性指揮者がいることに喜びを感じた。 最初のホールができたのは音大2回生の時、友達と3人でモイセヴィッチのピアノを聴いたことを思い出す。あれから58年、長い年月を過ごしてきた今、この至福の時間と空間を再び与えられたことを感謝しつつ、「ビゼーのカルメン」「スメタナのモルダウ」「チャイコフスキ―5番のシンフォニー」に温かい拍手がなりやまず涙が出、アンコールの「花のワルツ」もまた心地よい余韻が残った。昨年は富山で迎えたが、たまたま51回目の結婚記念日で下のイタリアレストランで「窯焼きピッツァ」で早めの夕食にした。家に帰ると歩数計が10000歩を超えていた。
May 31, 2016
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日本を訪れる韓国、中国の観光客が急に増えてきたが、わが教会も国際的になってきた。ペンテコステの日曜日。京都の大学で研究しておられる韓国のカップルが転入会された。もう20年も日本で生活され、東京では1000人の規模の大教会におられたそうで、韓国の福音系なのだろう。 昨年は韓国人で日本の教会の牧師のお嬢さんが転入会された。小中高と日本の学校で育ち、大学は韓国で、また京都で勉強したいと関東に住む家族と離れて一人来られた。170センチのすらりとした人なつっこいチャーミングな人でもっといろいろ話をしたかったのに、韓国で就職されることになり、帰る前「神様の示される道を歩めるように私のために祈ってください。わたしもこの教会のために祈ります」といわれて我に返った。 2014年は中国人の一家四人が転入会された。ご両親と小さいお子さん二人は幼児洗礼を受けておられるとのこと。日本語は少しおぼつかなく、二人のこどもは元気でにぎやかだ。 同じ年の少し前、中国人の男性が日本名の小学生の地域の小学校に通うお嬢ちゃんと来られ、洗礼を受けられた。中国にいるお母さんがちょくちょくこられ、バザーではたくさん買い物をしてくださった。 中国も韓国も夫婦は別姓で一字、むつかしい字でなかなか覚えられない。 韓国のクリスチャン人口は三人に一人と前から聞くが、今、中国のクリスチャンが急増していると聞く。 私たちの教会も日、中、韓の絆を深め、一人ひとりが主の御栄光を表す器として共によい歩みができるようにと祈っている。
May 17, 2016
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♪今年も孫娘のヴァイオリン発表会で息子(パパ)が伴奏した。だんだんわたしも知らない曲が多くなって、今年の曲はヴュータン「バラードとポロネーズ」孫娘はピンクの全体が何段にもドレープした素敵なロングドレスで登場。息子にとっても大分練習したであろうとても難解な曲を弾き始めたそのとき、私はもし母がここにいたら、涙を流して、どんなに喜んだだろうと胸が熱くなって、涙ぐんでしまった。もちろん息子が結婚したときも、孫が生まれたときももう母はいないし、今まで考えたこともなかった。つい最近102歳の母の友達に会ったこと、また昔の日記や育児記録を見る機会があり、私たちは長い間富山にいて、会うこともごく少なかったが、出産の手伝いには長く来て、孫たちの面倒をみてくれた日々の幼い長男とステージ゙に立つ孫娘の姿に、母の気持ちになって涙が出て困った。 ♪ソロが終わって、5年前の地震、津波、原発事故の被害にあわれた人の詩の朗読があり、バックに桜の花びらを映したステージで「花は咲く」のみんなの演奏を聴いた。津波で1階は流されたが2階にいたので幸い無事だった人。突然の原発事故でとりあえず、バスに乗せられてどこへ行くのか知らされず不安だったことなど、5年たったけど、原発の恐ろしさと悲しみを初めて聞いたような気がしてまた涙がでた。 ♪その日、高校生の二人のプログラムをとばされた。何の説明もなくインフルエンザとのこと。それでも一生懸命練習したので、皆に聴いてもらいたい.うつると困る人はホールの後ろへ移動してくださいといわれてびっくり。男の子はマスクをしてタルティーニの「悪魔のトリル」もう一人の女の子はヴィタリーの「シャコンヌ」を見事に弾かれ、熱があるとも聞いたが、よく頑張って、弾きとおした姿にまた涙がこぼれた。
March 31, 2016
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2011年から近くの老人ホームに行き毎月1回傾聴ボランティアで会っていたCさん(男性)は昨秋の敬老の日、100歳のお祝を総理大臣、知事、市長から受け、その喜び分かち合ってくださったが、実際にはこの3月14日で100歳になられる予定であった。その日はちょうど毎月1回の訪問日にあたり、何かお祝いの気持ちをと思い、バースデイカードに「100歳のお誕生日おめでとうございます」と書いてバッグにいれた。ホームの玄関へ入ったところにCさんの名前がなく、一瞬どきっとしたが、まさか亡くなったとは思いもよらなかった。 5年近く毎月通い続け、いつも1時間半くらいお話を聴かせていただき、43回も記録してきた。奈良に近い京都の南部出身。小学校に通うわらじは自分であんだとか白いご飯はお盆と正月しか食べられず、小学校を出たら京都市内へ丁稚奉公に出され、また戦地にも赴き、大正から昭和はじめの京都の街の様子などよく話された。TVや新聞で新しいことにも関心をもち時事問題や社会批判もよくされ自分の考えをしっかりもっておられた。 偶々その2日前の土曜日、眼科の帰り、母の親友(102歳)を久しぶりに尋ねた。ボランティアのように日がきまってないので、ついつい何年もたって気になっていた。ホームに行くと入院しておられるとのことで、どうせ帰り道なので病院へお見舞いに行ったら、ベッドに座ってノートや書類を広げておられ、歳とられた感じはしたが、まだまだ精神的には衰えておられない。喜んでいろいろしゃべられる。息子さんいわくホームも病院も食事が足りないほど食欲があり、「あんパンを買ってきてもらってこっそり食べたよ」といわれて大笑い。もうすぐ退院されホームにもどられるとか。 人とよくしゃべることで老後はちがってくる。教会でも、わたしより上の年齢の方が一人二人と礼拝に来られなくなってくる。せめて主にある親しい友を定期的に訪問することが大切でないかと、そして共に祈りあったらと思い始めている・
March 15, 2016
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白内障の手術から一週間が経った。今日まで洗顔も洗髪も禁止の上、ギッテルという眼を保護するプラスチックのカバーも終日つけなければならなかったが、昨日は教会に行った。 両眼とも新聞、パソコン、楽譜が読めるようにしたいのがわたしの希望であったが、はっきり言えなかった。これからどう変わるかわからないが、右は遠くに焦点を合わされ、細かい字が読めず、左は少し近くに変えてくださるようだったが、とりあえず、しばらく様子を見たく、一週間後の2回目の手術は延期することにして、申し訳なかったがキャンセルした。 前からその時々で見え方が変わり、今日は曇り日で近くも遠くもあまりはっきり見えない。はっきり言えることは、手術した方の眼は白っぽく、ブルーや黒が濃くなり、していない方は黄色っぽく見える。教会には片方だけ手術した人が3人もいてそれで充分と言われる。 とにかく今、白内障の手術がいとも簡単で、安全で、10分くらいで日帰りでできると聞いていたが、私にとっては手術というものは初体験、当日入院して、午後手術1時間前から点滴が始まり、点滴しながらトイレに行ったり、車椅子で手術室に行くのも、初めてのことばかりで思った以上にストレスがかかり、気持ちが動揺して、血圧があがり、常に点滴と血圧を測りながらの手術だった。 手術室に1時間近くいて、とても簡単とは言えず、いわゆる水晶体の中を入れ替える感覚は全くなく、眼は開けたままなので、赤、緑、ブルーなどいろんな色や形が見えた。 これから両方の眼がどう補い合ってうまく作用するのか分からない。よくごみやシミまで見えて困るとか、今までずっと眼鏡をかけていた人が全くいらなくなったという人もいるが、一人ひとり違う眼だからむつかしい。 幸い見えにくいが、どんな小さい字でも見え、眼鏡なしで生活してきたので、手術した右眼が少しでも左を助けてくれたらなーと勝手なことを願っている。
February 29, 2016
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5年前、初めて人間ドックといっしょに脳ドックも受けて、2年後に受けるように言われていたが、費用もかかるので受けずにいた。でも昨年7月1日後期高齢者のドックを申し込む日、脳ドックもお願いしたらリコール割引がありうれしかった。 年が明けて、1月15日に受診した。その日のうちに血液検査と便鮮血検査以外は全部結果が出て、MRI、MRA、エコー、CT、レントゲンの画像を全部見せてくださり、一応安心して帰ったが、3週間後に報告書が届いた。 脳は5年前とそう変わりなく、脳、脳血管の状態は安定している。脳に異常は見られない。ただ、前回と同様に頸動脈超音波検査で動脈硬化の所見が見られる。危険因子の管理が必要とのこと。血圧、糖代謝検査とも軽度、予備軍とはいえ、歳を重ねて、今まで以上に気をつけなけばならない。ずっと治療している高脂血症にしても、お薬を飲んでも数値が正常値にならず、何をどう食べたらよいのか、今でも迷っている。ここ数年体重が52~53kgで安定し、内臓脂肪面積も36cm^2で低いのをいいことについ自分に甘くなって、生協のカタログをみても美味しいものをあれこれと食べたいと思ってしまう。カロリーは気にしつつも誘惑に負けるが、どこかへ二人で出かけても、外食はしないで、家に帰って調理する。1週間に1回、生協につい沢山注文しすぎて、食べるのに追われる感じで、外食できないのである。 若いときなら血圧もコレステロールも血糖値もなにも気にすることなく、食べられたのに、こんなに食品が豊富でなかった。だからよかったのかもしれない。それなのに体重はもっと多かった。今になってせめてごはんやパンに雑穀を入れ、炭水化物をへらし、野菜をふんだんに、一汁三菜にも四菜にもなっておかずを食べる。 それにもっともっと歩くこと。週に3~4回出かけるときはできるだけ歩くようにはしているが、3000歩~4000歩くらいで、大分暖かくなったからウオーキングを始めよう。今年も鴨川沿いに桜がきれいに咲く日を楽しみにして。
February 12, 2016
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暮の25日~27日伊豆へ出かけて、帰ってから頭痛がひどく7度台の熱も出てぐずぐずしていたら、年賀状も全く手がつかないまま新しい年を迎えた。あわてて元旦に夫が金婚式の写真を入れて作り、元旦に来た人から順番に書いていった。 ところが来ていない人が多い。来ないのかと思うと3日以降に次々とくる。今年はそんな人も多かったし結局来ない人は今年でやめた人に多く、夫も同じ、あの人も来ない、この人も来ないといって、こちらから遅れて出すのを躊躇していると年賀状がたくさん余った。昔は「今年限りでやめます」という人はいなかったが、このごろははっきり宣言する人も時々ある。私も以前、常日頃会う人に新年のご挨拶もないだろうと否定的だった。 でも今年はこちらのずぼらにもかかわらず、下さった人には心から感謝し、昨年富山に行ったことで、みんなのことを思い出し、なつかしんでいたので、元ピアノの生徒から初めて3人、子どもの可愛い写真の年賀状が届き、彼そっくりの写真に思わず笑みがこぼれ「先生にほめられるのが嬉しくてピアノの練習をしました」それは最後の文集にも書いてくれたっけ。また「娘がピアノを習い始めて怒ってばかりいます(笑)」と。「先生に教えていただいたことがわたしの人生の宝物となり、様々な場面で生かされています」とうれしいことを書いてくれた彼は神学校を出たはず。またいつかゆっくり話したい。またアメリカで事故にあい、大病を乗り越えて、医学部に入りなおして、病院で働いている彼女が結婚して子どもが与えられた写真の年賀状にも目頭があつくなった。まだ4か月なのに「娘にはヴァイオリンしてほしい」と。 はじめのころの生徒は幼児から大学まで10数年つきあったが、わたしが京都に転居したため小学生くらいで別れた子どもたちの成長した姿は知らなく、みんなお父さんやお母さんになって子育て真っ最中。そんな年賀状が新しく増えたことはとってもうれしかった。
January 13, 2016
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私たちは今年5月、家庭をもって50年が過ぎた。いつか孫たちに「金婚式」を弾いてほしいなーと希望をもっていたら長男が伊豆の次男のペンションで、5年前と同じ、年の暮れならみんな時間がとれると2泊3日で企画してくれた。思っていた以上にきちんとしたもので息子3人で相談し、コンサートだけでなく、孫向けのクイズ大会に賞品も用意し、ノスタルジー映写会、記念品授与、「誓いの言葉」まであり、恐縮するやら、はずかしいやら。孫向けのクイズは三男の担当で、前もって夫と私にいっぱい質問がきて、先祖の有名人、こどものころの成績やエピソード、結婚のいきさつなども聞いてきた。息子たちの知らないことも多く、孫たちはスクリーンに映る家系図や写真なども添えた問題を真剣に考え、〇か☓で答えていた。ノスタルジー映写会も三男の担当で、私たちの結婚式から始まる8ミリを以前DVDにしてもらったので、その中からの抜粋。3人の息子たちが生まれてそれぞれに成長する姿、愛犬の思い出など富山での暮らしがなつかしい。サプライズで中1の孫息子とママのコンビであっと驚くマジックもしてくれた。 孫4人のヴァイオリンとピアノで念願のマリー作曲の「金婚式」は乾杯の後、いちばんはじめに演奏。これは楽譜はやさしい。チェロが3人もいるのに運べなかったのが残念。今回のために三男が作曲してくれた「金婚式」は、前もってパソコンで楽譜を送り、次男夫婦のヴァイオリン(本当はヴァイオリンとチェロの楽譜)と三男の息子のピアノの3人で披露。親ばかながらすばらしい曲で感動した。その他「チャルダッシュ」「タイスの瞑想曲」(ヴァイオリン)ラフマニノフの「プレリュード」モシュコフスキーの「エチュード」(ピアノ)小5の一番小さい孫はピアノはモーツアルトの「ソナタ」を弾いて、ヴァイオリンは父親とバッハの「ドッペルコンチェルト」を見事に弾いた。みんなよく頑張っている。 その上、音楽だけでなく、運動好きの息子たちの家族は女の子もママも一緒にペンションの近くの孫の通う小学校のグランドで、野球大会。バットもグローブもそれぞれ持参。見事に晴れ渡った伊豆高原で思う存分体を動かし、5年前と同じように保養所のみかん畑でミカン狩りも楽しんだ。 行くときは京都駅から高校生の孫息子と新幹線で行ったが、帰りは二人で熱海から乗った新幹線で夕暮れの中、冠雪の富士山が私たちを祝福するかのようにきれいな姿を見せてくれた。息子たちが自分のできることで協力してくれ、次男夫婦は「50th」と書いてキャンドルを5本立てた苺の大きなケーキを作ってくれ、50年の歴史をを振り返ることができたことを心から感謝している。
December 29, 2015
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この歳になって眼と耳が毎日の生活にいかに大切なことであるか、衰えてきて、初めてそのことに気づき、今まで不自由なくできたことに感謝の念がわく。特に眼はわたしは長年眼鏡なしで、遠くも近くもよく見えたのに、このごろは続けて本を読む、パソコンを使うとてきめん疲れてボヤーとしてくる。3年前急に見えにくくなって、眼科医が反対したのに遠近両用の眼鏡を作ったが、全然用をなさず、それが白内障になっているのかと自覚せざるをえなかった。手術は2月3月まで待たねばならないが、そうかといっていつも視力検査で0.8~1.2あり、ピアノやコーラスの楽譜も新聞も読めるし、春ごろ母校の同窓会のクリスマス・セールのための刺繍を頼まれ、ストラップの巾1cmほどに細かいクロスステッチをするのに、初めはパニックになり、眼が点?になって断ろうかと思ったときは9月なってしまって、言い出せず、祈りつつ、何回も失敗してはほどいてやり直し、昨日やっと6点仕上がった。どんなに細かくても、刺繍はやっぱり好きなのだ、こんなに細かい刺繍ができたと我ながら感心、けれども肩こり、首こりのひどさは半端ではない。 その点、補聴器は値段ははるがメスをいれるわけではないので、さっさと9月からつけているが、かならずしも必要と思われないことも多い。眼に比べたら、耳を使う時間は断然少ない。今の私の生活では毎日出かけて仕事や勉強をしているわけでもなく、週のうち半分は家にいて、夫が外出して一人でいるときにわざわざつける気もしない。電話でもテレビでも音量の調節はいくらでもできる。しっかり耳が慣れるまで、今はずっとつけるように言われたが、聴く相手、対象があってこそである。 補聴器を使うようになって、一番大切な礼拝のすべてはすっきり聴けるようになったし、マイクなしの個人やグループとの会話もあまりイライラすることはなくなって気分的にやっぱりよかったと思っている。 結局わたしの場合耳は補聴器で補えたが、眼は眼鏡で補えないということか。
November 15, 2015
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今月は高校の同窓会もあった。高校は全員同じ年齢。今年度中にみんなが喜寿を迎えるので「喜寿同窓会」と名付けて。車椅子の人も、大病をされてかなり変わられた人もあったが、出席できる人はみんな元気で45人も集まった。キリスト教主義の学校は先ず礼拝から始まり、先生方をお招きできなくなってからは、聖書朗読、お祈り、勿論奏楽もみんなで分担しなければならない。その中でわたしは奏楽(ピアノ)を受け持った。讃美歌だけでなく、校歌やカレッジソングなど4曲もあって、今は人前で弾くこともあまりないので、緊張した。 2年前の大河ドラマ「八重の桜」の放映中の同窓会に、家にあった八重さん直筆の掛け軸を持って行ってみなさんに見てもらったが、その書かれた「喜寿」がわたしたちの「今」とは気がつかなかった。もう一度持ってきてほしいと言われて、前回来られなかった人も見てくださり、より多くの人に見て貰えて嬉しかった。八重さんに因んでか、始まる前、来た人、一人一人に抹茶を点てられ、係の人に和服が多かった。 次の同窓会は2年後か、3年たつと傘寿になる。大学は毎年、高校は2年毎であるが、いつまで続けられるのだろうか。 今年感じたことは、大学も高校も回を重ねるごとに、お互いがすごく親密になっていく・・・若い日出会った友が同じように年齢を重ねていく連帯感・・・会えばどの人もなつかしく、学校時代にはなかった親密さでいとおしく、いたわる気持ちが自然にわいてくるのを感じるが、夫も大学は毎年と地元のものは2か月ごとに集まっているので同じだという。お互いにあと残り少ない人生、近くにいながら全く出て来られない人もあるが、会えば一瞬に吹き飛んでしまうのにと思う。一度来られると、また続けて来られるからである。今回も遠くから来られた人も多く、親友も横浜から日帰りで来られた。 次期世話役もきまっていて、これからは大学も高校も続いていくだろう。夫もわたしも母校の地に帰って来て、迎える側に立って恵まれていると感謝している。
October 22, 2015
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10月2日、喜寿の誕生日を京都のホテルで迎えた。夫とではなく、友だち3人で。しかもその友だちの一人も誕生日。全く同じ日に生まれたのである。その日は音大のクラス会があり、前日、どうしてもクラス会には出たくない友だち2人と、5人でホテルで集まる予定であったが、2日前東京の友だちは風邪で熱が出てとりやめ、前日はあちこち雨風で天候が荒れ、爆弾低気圧とまでいわれ、長野の友だちがキャンセルされ、夫の都合でホテルには泊まれないが、クラス会は出る返事を貰った友達が、急にクラス会の4日前、脳外科の手術を受けることになり、6人のうち3人が欠席。九州と福井からは2人来られ、わたしと3人で前日ホテルに泊まり、クラス会にも出席した。 高齢者になって、明日何が起こるか分からないと合言葉のように日頃言い合うが、ほんとうに思いもよらない事態になった。でも3人だからこそゆっくりお互いに思う存分しゃべることもでき、昨年夫を亡くしたOさん、3年前に母上を亡くしたKさんから一人暮らしの今の生活、思いをたっぷり聴くことができた。 そのグループ会もクラス会も世話係をしたわたしは、グループのホテル選びにちょっと後悔が残り、クラス会は当日の会費集めなど一日中神経をつかって疲れた。もう一人の男性の世話係が印刷物は全部引き受けて下さるので、わたしはその返事を受け取るのが楽しみで、全く出てこない人、出てこられないのは分かっていても近況を知りたく、多くの人に電話をかけ、卒業以来の人ともなつかしくおしゃべりしたし、世話係2人は2,3日に一回くらいメールで連絡し合って、結構話が弾み楽しかった。 郵便は着くが返事がこない人で介護施設に入っておられたり、亡くなっているのに奥様から来年は出席しますと返事が来たり・・・いろんなことを知った。 3年前にグループで集まったとき次回は6人でと願っていたのに、半数になって残念だった。 何故知れたのか、クラス会が終わって写真を撮る前、「Happy Birthday to you」をみんなで歌ってくださった。
October 3, 2015
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8月のはじめ大津の長男の家に行ったとき、帰り際、孫息子が「連れて行って!」とメルちゃんを車の中へ、押しこんだ。メルちゃんは身長75cmの大きな顔の犬?のぬいぐるみ。ベージュの淡いツートンカラーでほんわかしてやさしく、手と足がブラブラとどんな動作にも順応して可愛いこと。ずっと我が家に居候している。 夫との2人暮しも20年を超え、孫たちも成長して、抱っこしても何よりも肌ざわりがよく可愛いので、夫婦の間をとりもつ、癒しの存在になった。といってもいつも目をつぶっているので、寝ている姿がなんともいえない。 ずっと昔、我が家の子供たちがまだ小さかったころ、上司の家を訪れたとき、やはり夫婦2人きりになって、ミマちゃんという人形を2人で可愛がっておられたのを思い出した。確か洋服もデパートで買ってくるとか、テレビの子ども番組を決まって見るとか、その頃、私たちが飼っていた犬がマミーで名前が覚えやすかったことを思い出す。「年取ったら犬の代りにお人形がいいね」と思ったことであったが、その人形はちょっとやそっとでは手に入らない、高価なものだったと記憶している。 あるときはダイニングの椅子にちょこんと座る。あるときはソファーに反対向きに手を当てて立って、こちらをじっと見ている。クッションをいっぱい積んで、その上で手を組んで何を考えているのやら。でもソファーで眠っていることが多く、手がかからないどころか、その一つ一つのポーズが年老いた夫婦の気持ちをなごませてくれるのは確かである。 9月はまだ残暑がきびしい上、出かける用事も多かったが、少々疲れていても、夕日の沈むころ、鴨川のほとりを毎日ウオーキングしたら気持ちよく、夜は割に元気で、早く眠たくなるようになった。
September 25, 2015
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