全41件 (41件中 1-41件目)
1

みなわひとし 筏が、ぐらりとゆれた。ウエオの恐怖は、そこにはじまる。たぶんそれは、三歳か四歳の、体験というよりは、体感のような気がする。ウエオが泣いたかどうか、それは記憶の彼方にしかない。ただ情景だけが、ありありと浮かんでくる。青黒い淵を、水はどこか、魔性を帯びたように刃を逆立てていた。ウエオの記憶は、なぜか、そこで消える。 家は、大きな川のまん前であったようでもあり、川と家のあいだに、柳の木や藪があったような気もする。すべて、おぼろな記憶である。 サイレンが鳴り、敵機の来襲をつげる。逃げる先は、防空壕とよばれた。ウエオは、たぶん、母に連れられて、防空壕に走った。そのとき、弟が生まれていたのかどうか、なんの記憶もない。ただ、防空壕の暗さが、やはり、なにか体感のようにのこっている。しかし、なにか変な気もしないではないが、その暗さは、安堵の感情とともに、ときによみがえる。暗さが恐怖を消したのか、それとも、恐怖を暗さが包み込んだのか、それもまた確かめようがない。とはいえ、死ななかったことだけは事実である。 あるとき、航空廠の屋根に練習機が激突し、何人かの死者を出したことがある。ウエオの父は、徴用を受けて航空廠に勤めていた。ウエオの父は、その事故のとき、幸運にも死をまぬかれたが、頬に傷を負った。三、四歳のウエオに、正確に、その事故のことが記憶されているはずもないが、たぶんその事故は、のちにウエオの父が語ったことが、いかにも当時の記憶さながらにウエオの脳裡に刻まれているのだろう。 練習機が航空廠の屋根に激突したとき、ウエオの父は、まっさに咄嗟の判断で廊下を、右だか左だかに走った。その反対に逃げた同僚は、帰らぬ人となった。ウエオはそれをひとつの事実としておぼえているが、父が自分の幸運をことさらに、なにか意味があるように語ったことはなかった。 ニホンがアメリカとセンソウをしていたあいだの、ウエオに記憶されたもろもろは、これですべてである。酸鼻をきわめた空襲の結果をウエオは見ていない。そして、人間がどこまでも動物と化す、というより人間そのものの残虐がむきだしにされる戦闘を、ウエオは記憶していない。 ときどき耳にもし、書かれたもののなかにもいつも現出する、ニホンの敗戦の日――八月十五日の全的虚無のごとき青空を、ウエオは記憶していない。ニホンが敗けたことに、ウエオの父や母が、どんな気持ちをいだいたか、どんなに思い出そうとしてもいっこうによみがえってこない。たぶん、ウエオにとっては、ニホンが敗けたことも、アメリカが勝ったことも、おのれになにかを加えるという性質のものではなかったのだろう。というより、ウエオは、まだ自分が外に向かって、なにものかでありうる年齢にはいなかった、というほうが事態の説明になるかもしれない。 たしかに、防空壕に逃げたことは記憶されているが、それがほんとうにセンソウであることを、理解していたとは思えない。防空壕の暗さが、むしろ安堵のひとつの世界としてよみがえることが、ウエオにとってしばしば重要のことに思えた。 センソウは、暗さの安堵としてよみがえるが、そこに死をまねくものとしてあらわれることは、あるときまでなかったのである。 ――ウエオは、ずいぶんのちに、南の小さな島、というより市街地から、目と鼻の先の、島まるごとが小さな一集落である島をおとずれた。残暑の、まだあつい陽をうけて、波打ち際に波はタプタプと心地よい音をたてていた。たしかに、平和な一光景というほかなかったが、しかし、対岸を見ると、船のドックがあり、赤茶けた大きな工場が見えた。 いま、平和であることの象徴として見えるものが、かつて戦間期に、それはべつの象徴であったかもしれない――という想念が、ふとウエオのこころをよぎった。 南の空は、青さが深く、からだごと心地よくしてくれる。釣り人は、サオを海に投げ入れ、釣果をしずかに待っている。ヘイワがタイセツでない――とだれにいえるだろう、ウエオはかんがえる。 センソウが、ほんとうはなんであるのかを知るようになったのは、街に傷痍軍人を見かけるようになったころか、とウエオは思うのだった。
Oct 14, 2005
コメント(1)
ふと、思うとくべつがんばっているわけでもないけれどいろいろな風景にぼくははげまされているらしい出来事水を撒いたらブロックの塀の下のあるかなきかの茂みから涼気に向けてムラサキシジミが一匹舞い上がった記憶と今坂の上まで歩いてきたら日がカンカン日がカンカン――夏はやっぱり古びることなくあらたににおいをさせている みなわ ひとし
Sep 8, 2005
コメント(0)

こころを風にねぶらせておくだけだった倦怠の夏に時はたしかにプレゼントをくれていった――希望赤らむこころで、ある時ぼくはそっと、言ってみた みなわ ひとし どこまでも続く青い空にムクムクと白い雲が湧き上がっている。「喜一さん入道雲、入道雲」(こんにちは)でも(やあ)でもなく元がネットカフェに入ってきた。「入道雲? 珍しいね。雷、かな」なにやら書類を手にした喜一がカウンター越しにゆっくりと顔をあげた。「元くん」と、喜一がコーヒーを差し出しながら言った。「ここ、引き払わなければならないんだ」「な、なんで」元が、目をぱちぱちさせた。「これなんだ。とうとう家賃を上げると言ってきた」喜一が、さっきの書類を元に見せた。「ここを借りて6年ほどになるけど、家賃はずーっと変わらないできた。それで、今日まで何とかやってこれた訳なんだけれど。家主が変わったからね」元が書類をパラパラめくっている。「へー、倍になるの。無茶苦茶だね」「でもないの。この辺の相場でいったらそれでも2割方安い。もう、この辺が限界かなって思い始めたよ」珍しく弱気な喜一がいる。さっきまで晴れ上がっていた空がにわかに掻き曇りザーッと音を立てて雨が、激しく落ちてきた。喜一も、そして日頃は口の軽やかな元も降り続ける雨を見ていた。どうしたものかとぼんやり見ていた。叩きつけるような雨足が少しやわらいだ頃クリーム地にボタニカルアート風のピンクのコスモスを描きこんだ傘がふわりと喜一の店のドアを開けた。「ごめんなさい。(傘を)差したままで入ってきちゃった」久しぶりに会うレモンの頬はいつになくばら色に輝いてみえた。傘の雫を払いながらレモンはスカートの裾を気にしている。ブルーのグラデーションが美しいくるぶしまでのテイアードスカート。「元さん、あの時はごめんなさいね」駅のホームでのことだ。元は、あの不思議な再会のシーンを幾分悩ましく思い浮かべていた。「いやいやなにも」言いながら、レモンの差し入れのバナナケーキをさーっと口に運びお気楽に応えた。喜一も、元からそのことは聞いていた。思いを残して別れた夫と思いがけない再会をしてしまったレモンのことを遠巻きに案じてもいた。「喜一さん、ネットカフェやめちゃうの」レモンが意外なことを口にした「え、どうして。いま元くんに話したのが、初めてなんだけど」喜一が不思議そうにレモンを見た。「不動産屋の安井さんが、多分そうなるだろうって、さっき」喜一は、今朝安井と立ち話をしたことを思い出した。「そうなんだ。もうこれ以上は無理かなってね。パソコンも一家に一台って時代になってこの店の役割も終わったかなって感じするしね」言い切ってしまうと喜一自身、本当にそれでいいのかもしれないとすっきりした気持ちになった。「違うかたちで、始めない?」レモンが声を弾ませた。「喜一さん、ここのスペース半分私に貸してくださらない?喫茶店やってみたいの、ねえ、どう思う?」(どう、と言われても、あまりにも唐突で、なんと答えたらいいのか)喜一は、思考が停止したようにレモンをまじまじと見つめた。「いいんじゃないの、オレ毎日来るし」元が勝手に乗り気になっている。(いいね、毎日レモンさんとジユウに会えるしラッキーだね)喜一が元の妄想を牽制するようにゆっくりと口を開いた。「簡単には答えが出てこない。少し考えさせてほしいんだ」(渡りに船のくせして、勿体をつけて)元は、喜一を軽くにらんだ。「ええ、そうね。よく考えてお返事くださる?あの、またゆっくり話しましょう。これからちょっと用事があるものだから」喜一が了解というようにうなずいた。いったん出て行こうとしたレモンが意を決したように戻ってきた。元は、ちょうど二個目のケーキを頬張ろうとしていた。喜一はコーヒーをカップに注ぎ足そうとしていた。「あの、わたしね夏が終わったら結婚することにしたの。かわいい五歳の息子ができるの。じゃ、また」と言うがはやいか、風のようにするりとレモンが出て行った。元は、ケーキをぽとりと床にだらしなく落としてしまった。喜一は、カップに淹れかけたコーヒーをあふれさせた。外は、雨上がりの澄んだ空にまぶしく日が輝いている。時は時を紡ぎヒトの痛みを優しく包み込んでいく。 楠田レモン
Aug 30, 2005
コメント(0)

――そのとき、真実がわかるのよ、とおんなが言ったおとこは、百年の酔いの奥からその託言をきいた《まっこと、季節は夏へ夏へそしておとこはそしておんなはすべもなく裸になる》 みなわ ひとし今年最初の台風の影響で駅のダイヤが大幅に乱れていた。元は、駅のホームのベンチに大きな黒いバッグをドスンと置いた。坐りしなにマイルドセブンに火をつける。「ついてない、まったく」本当はクルマで、隣町の檀家の家に行こうとしていた。この雨で、川が氾濫してそれが不可能になった。「まったく。ついてない」言ってもしようのないことをつぶやきながら、吸いかけのタバコを足元で踏んづけた。(ゴミ、みーつけた)ウワ、レモンが目の前にいる。「げえ、いつからそこにいるの」言いながら、テレ隠しにタバコの吸い殻を拾い上げる。「クルマ、ダメなの? 川あふれちゃったのね」レモンが隣に坐る。「そっちこそ、仕事?」「そう、なの。どうしても今日届けなきゃいけなくて」薄紫のサマーセーターが、無造作なまとめ髪によく似合っている。「オレ、ツイてるかもしれない」「エ、何?」、レモンが無邪気に問い返す。「いやー、なんもなんも」元は、ジーンズのポケットを探っている。「ガム、噛む?」「ありがとう」レモンが、素直にガムを口に運ぶ。元も、ガムをほおりこんだ。(台風もいいもんじゃないの)元は、じわじわと幸せな気持ちになってきた。「アラ」レモンが、反対側のホームを見て立ち上がった。中肉中背の、浅黒い引き締まった顔の男が、ホームの柱に寄りかかるようにして、こっちを見ていた。「まあ」今度は口の中でつぶやくようにレモンの声はか細くなった。そして、静かに腰をおろした。男は、軽く目を細めるようにしてレモンを見ていた。リラックスして、ふわりとそのままの姿勢でいた。レモンは、何か零れ落ちそうになるのを耐えるように、そっと目を閉じた。元には、確たる自信もなかったけれどただならぬ何かを感じてしまった。凝視するように男に強い視線を放った。――まもなく、上り特急電車がホームに入ってまいります――アナウンスがあった。向かいのホームに静かに電車がするりと入ってきた。男は乗り込むと、こちらのホームに向かってガラス越しに立った。レモンが顔をあげた。男は、その瞬間を逃さないように、唇を動かした。レモンははじかれたように立ち上がった。そうして、黙って男に向かってお辞儀をした。レモンもまた、同じように唇を動かした。電車がガタンと音を立てて動き出した。男が、微笑んで手を軽く振った。レモンは、電車が見えなくなるまでじーっと立ちすくんでいた。「元さん、私帰ります」レモンが小走りに、改札口を出て行った。あの二人なんて言ってたのだろうか。元にはこう聞こえたように思えた。「ゴ・メ・ン・ネ」 楠田レモン
Jul 28, 2005
コメント(1)

――そんなことはいつの時代にもあるサ、とおとこは言う――時代? ちがうわ(いま)と(ここ)だけよ、あるのは、とおんなは返した《空はすみれ色に淡く 風はもう夏を含み たしかに季節は今をうごかしていく》 みなわ ひとし「やあ」薄明かりの中で、その男はかすれた声を発した。商店街の真ん中に、その黒い扉はあった。扉を開けると、さらにもう一つの黄色いドアが続いている。喜一は、重い足取りで、そのドアを押した。天井の半分は、黒い闇の色に覆われている。奥の半分は、一面の星空だ。床は金茶で、ロゴが白く浮き出している。「Kent Boy’s Club」「ヨオ、こっち」男が物憂げに手招きした。「やあ、久しぶり」喜一が、足早に男に近づき、手を差しだす。その瞬間、男の手がカウンターの下にすばやく伸びる。喜一は、無意識に身構えた。と突然、満天の星が、頭上に煌めき始めた。天井のミラーボールを指して男が、いたずらっぽい笑顔を見せた。「まあ、飲んだら」男が、ウイスキーを生で注ぎかける。「ここ、いつから」と、グラスを受けながら、喜一。「今度の金曜日にオープン」喜一を横目で見て、「いや、設計をやっただけよ、オレ。バツイチの女がやるのさ」と、男の浅黒い顔が沈む。「戻ってきたのかと思ってた」喜一が、おずおず言うと、「またまた。相変わらずの根無し草」男は、その言葉を楽しむようにつぶやいた。コルトレーンのトランペットが地の底から聞こえてきた。あれから、いったい、何年たっただろうか。さっきの黄色いドアが、バタバタと開いた。黒いシフォンのドレスを着た女がふわっと入ってきた。「あら、喜一ちゃん」二人の高校時代のクラスメート、安村かほり、だ。「まさか。ここ、やるの、安村?」喜一は、目を丸くしている。「そう、専業主婦から、華麗なる変身、よ」「そうか、すごいね。けど、びっくりした」喜一が、間の抜けた素直さで応えた。「でしょ?」とすまして、かほり。「ちょうど、匡(ただし)が帰ってくるって聞いたもんで、ダメ元で頼んでみたの」「というわけさ」匡は、言いながら、空のグラスをもてあそんでいる。かほりが、気ぜわしそうに奥の小部屋に入っていくと、匡が、初めて真正面から喜一を見つめた。「変わりないかい、レモンは」深くて、いつくしむような声音で、そう訊いた。「元気だよ。レモンさんは、レモンさんのままでいる」コルトレーンの音楽が、静かに終わりを告げた。グラスの中の氷が小さな音を立てて溶けていく。喜一の目の中に匡とレモンの結婚式の写真が浮かんでは消えた。 楠田レモン
Jul 15, 2005
コメント(0)

<きっとね>と約束したことだけをおぼえている春の街並 みなわ ひとし 「おじさん」セーラー服の桃子が立っている。今日中に仕上げなければいけない仕事を抱え、喜一は少しいらだっていた。「なんだ桃子。邪魔するんじゃないよ」そう言うつもりで顔をあげた。おや。あれ。いつもの桃子じゃない。なにがどうしたとも言えないけれど。喜一は、少しの間ぽかんとしていた、らしい。「おじさん、ぼんやりして。どうしたの?」いやいや、喜一はわずかに首をふった。なんだ、やっぱりいつものうるさい桃子だ。「邪魔するんじゃないよ」喜一は、やりかけの仕事に戻った。桃子は、制服の袖口がぬれないように、クルクルと腕まくりした。小さな台所は、カップラーメンの空っぽになったのや、汚れたコーヒーカップがだらしなく積まれている。スポンジに思い切り洗剤をつけると、ごしごしと洗い始めた。うちにいるときの桃子は、喜一と同じで、食べたら食べっぱなし、飲んだら飲みっぱなしの、どうしようもない甘えん坊の高校生だ。けれど、自分がやるしかないとなったら、母親の見よう見まねで、俄然ヤル気を出すのだ。「こんにちは」あの、まったりのんびりした声はレモンさんだ、桃子は濡れた手を急いで拭いて台所から顔を出す。「こんにちは」と、桃子に笑いかけるとレモンが買い物袋をゆらゆらさせた。「桃子ちゃん、お好み焼き好き?」「だーいすきよ」「よかった。一緒に食べようと思って材料買ってきたの」言いながら、レモンは喜一の背中を見た。「忙しそうね」「いつも追い込まれないとやらないタイプだから」と桃子。「聞こえてるよ」喜一が肩をぐりぐり回すようにしながら振り返った。「忙しそうね」レモンが気遣うように言う。「やっとメドが立ったから。お好み焼きだって。うまいの?それ」「超、超、ウマイの」レモンが、おどけてみせた。「そりゃいい。腹ペコなんだ。小野さん、くるんだ。出張帰りらしい」喜一が乱雑にひろげた仕事を片付け始めた。ホットプレートにお好み焼きの具をのせて焼き始めるころ、小野さんがやってきた。「ほーら、また骨壷が手に入りましたよ」「ウオ、いいねー」喜一が小野さんにグラスを差し出す。「ふーん、いいにおいだ。今日はお好み焼きですか」小野さんは、プレートをのぞきこむように言った。桃子が最後のお好み焼きのタネをプレートに流しいれようとしていた時のことだ。「アレー」表通りをぼんやり見ていた小野さんが頓狂な声をあげた。喜一が、その声につられるように外を見た。「なーに」プレートのお好み焼きとにらめっこしていた桃子が振り返る。「元さん!」叫んだのは、レモンだった。桃子は、不自然に体を硬くして下を向いたまま、コテで、お好み焼きをひっくりかえそうとした。くるり。ぽっとーん。無残に床に落としてしまった。「ああ、台無しじゃないか。まったくドジだな」いつの間に近づいたのか、桃子の目の前に元が優しい目をしてたたずんでいた。床の落とし物を、元は、器用に手で拾いあげた。桃子がさっと皿を差し出した。「ありがとう」桃子がとても小さな声でそう言った。「お帰り」言いながら、小野さんが、おやっという表情をした。喜一に笑いかける。喜一は、桃子のぽっと染まった頬に目をみはった。ははーん。笑みがこぼれる。台所にふきんを取りに行っていたレモンが戻ってきた。おしぼりを元に渡しながら「お帰りなさい」と、レモンの顔がほころんだ。「いや、どうも。ただいま」元は、急にテレたように、斜にかまえた。黒いポロシャツからはみだした二の腕が、見違えるようにたくましくなっている。桃子の顔がほんの少し翳った。おやおや、やれやれ、喜一はそしらぬ顔をした。「それでは、元くんとの再会を祝して、乾杯!」小野さんの声が、ひときわはずんだ。春の名残のように、しずかに雨の降る宵のことだった。 楠田レモン
Jun 14, 2005
コメント(0)

スケッチ2春突風が帽子ごとわたしをとばした みなわ ひとし 「今年は満開の桜の下で入学式ができるのね。わたしの入学式もそうだったわ」数日前の母のことばが鮮やかに蘇る。春風に舞う桜がほの白く薄紅添えてみている桃子まで、ほんのり紅に染まりそう。桃子の髪に花びらがひとひら落ちてきて。あら、靄が立ちこめていつのまにやら桜はみえなくなってしまった。桃子は深い霧の中にたたずんでいる。前に進もうにも何もみえない。途方にくれて佇んでいる桃子の前にかすかにみえる三本の道すじ。右手の道にいるのはあれはたしか叔父の喜一だ。白いポロシャツにジーンズなんだかスリムになったみたい。喜一が後ろを振り返る。白いワンピースの少女はレモンさん?ふたりは桃子をみとめるとそろって手を振っている。桃子が近づこうとすると、ふたりはなぜか雲のエスカレーターに乗って少しずつ遠のいていく。左手の道には、親友のトモちゃんとナッちゃんが桃子に向かって何かしきりに叫んでいる。後ろから野球部のゴロウくんも。少し前まで桃子があこがれていた男の子だ。ゴロウくんが「おいでよ」というように手招きする。桃子は友達のほうに駆け出した。なのに、三人は桃子を無視するようにくるりと背を向けて消えてしまった。霧が少しずつ風に乗ってゆらゆら動き出した。桃子は、真ん中の道にしせんを移した。霧の切れ間に男(ひと)が後ろ向きに立っている。誰だろう。目をこらすと、短く五分刈にした男、短足だ。わかった、元さんだ。霧がすーっと消えていく。それとともに元も消えている。なぜ? なに?わたしは誰のところにもいけないの?桃子は心細くなって涙ぐんでしまった。なぜ?と叫ぼうとするが声は出ない。その瞬間ふーとあたりが真っ白になって意識が薄れていった。ほんのり桜の花の香りに包まれて、桃子はいる。誰かの胸に顔をうずめているみたい。おそるおそる見上げると心配そうにみている元の顔があった。桃子の頬が紅色に染まった。桃子はわけもなく元の腕の中でもがいた。元の腕がやさしく強く桃子を抱きしめて離さない。どうしよう。「起きなさい!」いきなりまぶしい光の中に放りだされた。「まったく、何時だと思ってるの。言いながら、母がカーテンをあけていた。桃子はベッドの中で目をぱちぱちさせている。「ユメだ。夢なのよね」それからのろのろと起き上がった。「始業式に遅刻してどうするの」母の小言がエンドレスに続く。桃子はあわてて制服に着替えた。白い一本線のセーラー服。いまどきセーラー服なんて古いよね、とトモコたちは言うが、桃子はセーラー服が好き。だって前にテレビで見た「白線流し」みたいでステキじゃない、とこころひそかに思っている。にしても、さっきのユメなんだろう。どうしてみちゃったんだろう。うーん、誰にも言えないよ。ヒ・ミ・ツ。桃子は白いリボンをきゅっと胸元で結ぶとすました女子高生の顔になった。 楠田レモン
May 7, 2005
コメント(1)

スケッチ1影法師が水面にたわむれてみどり葉の春がさわさわ みなわ ひとし この数日続いた物憂い雨も夕方にはやんで、久しぶりに春の暖かい風を運んできた。ネットカフェの「あおりんごの会」のメンバーが三々五々「ひまつぶし」に集合するころには、また沈丁花の香があたり一面に漂って宵闇を甘く彩っている。「お久しぶりです。まあ、一杯」小野さんが梁井さんに酒を勧めている。「どうも」と言いながら梁井さん、大きな湯飲みを差し出した。「オウ、いいね。しかし、残念だ」小野さんは、骨壷のことを思い出したんだわ。「小野さん、未練ですよ」喜一さんが、寝不足でふくらんだ目をいたずらっぽく細めてからかう。「聞きました。風祭さん、ひっくり返って割っちゃったんですね」「そうなんだよ」小野さんは、しみじみうらめしそうな顔をしている。「うまかったんだ、それが」喜一さんが煽るように付け加えた。「風祭さんを連れて帰るときタクシーでね、彼、暴れてね。ぼく、思わず殴っちゃおうか、なんて思ったんですよ。あの焼酎のために、ですよ」と、空(くう)を見上げ痩せた肩をおとし「まったく自分ながら、ケチなやつだと、思いますけどね」と小野さんは目をふせた。「お待たせしました。これ、安江さんからですの」と、しのぶさんが見事な鯛の尾頭付きを卓にのせた。「ウワー、こりゃあすごい」梁井さんは、また一回り大きくなったゆすりながら、叫んだ。(安江さん、見えたんですか)「いえ、少し遅くなるからって、これを届けてくださったの。今日は、何かお祝い事?」しのぶさんが喜一さんのほうを見て言った。「いや、別に。なんだろう」喜一さん、一瞬考えるような顔つきをしたが、それもつかの間、酔っ払いに戻って、「本人がまだだけど、先にいただいちゃいますか」と、ちゃっかり箸をのばす。「こんばんは。遅くなりまして」紺色のスリムなワンピースを着た安江さんが、手に花束を抱えて入ってきた。ほんのり紅潮した頬に、胸元のパールのネックレスが映えていつもより女らしい感じ。「先にいただいていますよ」と小野さん。「ウーム、今宵はなぜかきれいに見える」梁井さんが冗談めかして言ったが、本当に輝いているわ。コートを几帳面にたたんで、脇におくと、あらたまった感じで安江さんが三つ指をついた。「今日、辞令が出ました。私4月1日より、隣町の高校に移動になりました」「エッ、転勤なの」喜一さんが、ふくらんだ目をパチパチさせる。「あと1年は換わらない、と踏んでたものだから、あわてちゃって。でも、ちょうどよかった。あなたに電話もらったすぐ後だったの」(そうだったの。でも遠くなるわ。寂しくなるわ)「この会には、来るわよ。車で1時間くらいだもの。その代わり、夜泊めてね」(もちろんよ。なら、うれしい)しのぶさんが、フキと筍の煮物とタラの芽の天ぷらを運んでくる。「田舎から届いたばかりなの。わたしもお仲間にいれてください」言いながら、エプロンをはずしてまるめた。「で、風祭さん、入院されたんですか」と、心配そうにしのぶさん。「ええ、自分から、言い出して、昨日のことですよ。オヤジさんから連絡をもらった」と喜一さんが遠くを見た。「クスリを飲まなくなった、とは聞いていたけれど。残念、会えなくて」挨拶ができないと言いたげな安江さん。「まったく、振り回されて散々な目にあっても、彼がいないのは、なんだかつまらない、ですよ」家が近くて、いつもなにかと面倒を見ている小野さんが、いちばん寂しがっているのかもしれない、ふと、そんな気がした。「けど、聞いてると去年より症状が軽いんじゃないかな。今年は早く帰ってこられるんじゃないかな」半ば願望のような言い方の梁井さん。「待ちましょう。飲みましょう」喜一さんが、しのぶさんに、猪口をかたむけた。しのぶさんは、猪口に軽く口をつけると、「今日は、安江さんの送別会ですわね。さっき貸切の札を出してきましたから、カラオケでもやりましょうか」と、あでやかに微笑んだ。「いいな、しばらくやってない」梁井さんが重い体をゆらすように、立ち上がった。「しのぶさん、マイクマイク」梁井さんは、見かけによらず、ボーイズソプラノで、お得意の郷ひろみを歌い始めた。手拍子をしているうちに、それぞれの憂いが、少しずつ消えてひとときのやすらぎがおとずれた。 楠田レモン
Mar 29, 2005
コメント(2)

なにか、底なし沼に落ちていくようなこの感じ、わかる?――とおとこが言った。あら。じゃあ、いつまでもただよっているあたしの感じとはちがうのね――とおんなは返した。《そこは、ほの暗い居酒屋の片隅》 みなわ ひとし 昨夜来の雨のせいか、今日のネットカフェに人の気配はない。奥の事務所から、喜一が眠そうな目をこすりながら、出てきた。どうやら、徹夜明けらしい。カウンターの隅に置いてあるコーヒーメーカーのポットを取りにきたのだ。「こんにちは」レモンが入ってきた。(喜一さん、表に傘立てなかったけれど)ポットをもった喜一が振り返った。「忘れてた」と苦笑い。(まあ、どうしたの)と、喜一の寝グセのついた髪を見る。「徹夜だったから。今日これから届けるところ」(そう、大変ね。私、傘立て出しておくわ)「じゃ、ぼく、コーヒーセットしておくから」ポットをたよりなくぶらさげてまた事務所に入っていった。レモンが、大きなメロンパンを袋から取り出した。それからカウンターに近づいて鼻をくんくんさせる。「いいにおい。コーヒーできたみたいよ」喜一に声をかける。「メロンパンか。ぼく、甘いの苦手なんだけど」喜一の顔から、洗い立ての石鹸のにおいがほのかに香った。(ここの、焼きたてがおいしいの)「じゃ、半分もらおうかな」と手で分けようとする。「おっ、これ、やわらかいね」(中がふわふわでしょ)ちぎった半分をレモンにわたすと、待ちきれないように、残ったパンを口にそのままもっていき、がぶりと噛んだ。「うまい」言いながら、早くも手の中はからっぽになった。(でしょう。週に3日、それも午前中しかやってない店だからなかなか買いにいけないの。今日こそ、と思ってね、そのために出てきたのよ)喜一はうんうんとうなずきながら、2個目に手を伸ばしている。(コーヒーもおいしい)レモンは、ゆっくりと味わうように、カップを揺らしている。2杯目のコーヒーを注ぎながらレモンがふっと微笑した。ちらりと見上げた喜一が「何?」とうさんくさそうにたずねる。(さっき、甘い物は苦手とか言ってたのに、と思って)とうとう声をあげて笑い出した。「うまいものに国境はないんだから、ね」喜一は、すまして3個目に手を伸ばしかけ、ふっとためらう。「これ、家に持って帰るんじゃないの」(いいの。別にちゃんと買ってあるわ)喜一は、3個目にパクついている。狙った獲物を捕らえたときの狩猟民族のような食べっぷりというか。日ごろの静かな言動からは想像できない喜一の食欲に、レモンは目をまるくするばかりだ。自分を見つめるレモンに気が付くと、「うまかった。ごちそうさま」と目をふせたまま喜一がふいに立ち上がった。「届けてきます」喜一がアタッシェケースを抱えている。レモンは、片付けの手を休めて(留守番、してましょうか)といたずらっぽい表情をした。「助かるけど、後が怖いね。なにかおごってくれ、とか」(もちろん。ひまつぶしのしのぶさんところへ行かない?)「今夜?」(もしよければ)「よし、そうしようか。届けた帰りに、梁井くんと小野さんに声をかけてみるよ」(じゃ、わたしも安江さんに電話しとくわ)「じゃ、ということで、よろしく」(いってらっしゃい)レモンの弾んだ声に、喜一はちょっと肩をすくめてみせた。 楠田レモン
Mar 27, 2005
コメント(0)

ハトが路上を歩く姿はなんだかよちよち歩きのように思えるのだがよくよくみれば、なかなかに気を配っていて決してつかまえられたりはしない。でもいつもよちよちふうに歩いている。 みなわ ひとし 「おう、骨壷ね」と言いながら風祭さん、まるでビールでも飲むような一気飲み。「骨壷?」とけげんそうな喜一さん。「ほら、この甕、骨壷に似ているでしょ。通のひとたちは、そう呼んでいるんですよ、ね、風祭さん」ちょっと酔っ払った小野さんが、風祭さんの肩に手をかけた。その途端、風祭さんが、荒々しく、小野さんの手を払いのけたの。「ボクは、キミをトモダチとは思っていない」真っ赤な顔をした風祭さん。いったいどうなってるの?小野さんが、口をきゅっと結んで何事もなかったように、おでんを小皿によそい始めた。喜一さんが、黙って風祭さんのカップに骨壷を注ぎはじめた。「ボクはスキにやります」風祭さんは、邪険に自分のカップを喜一さんの手からもぎとったの。いったい何が、どうしたの。「風祭さん、おでん、召し上がる?」小皿に入れてあげようとすると、「ボク、勝手にやりますから」と、とりつくしまもないの。おいしい酒も台無しになるような奇妙な沈黙が流れたわ。それでも喜一さんと小野さんは、なんでもないように静かに飲み続けていたわ。桃子ちゃんが、ちょっと心配そうに風祭さんを見つめていた。風祭さんは、突然立ち上がると隅っこのいすを三脚運んできて並べるとごろりと横になった。桃子ちゃんが、そのそばにだまって、カップと、おでんの小皿をおいてあげてた。風祭さんは、足をぶらぶらさせて目を閉じている。「ねえ、どうしたの」小さな声で喜一さんに問うと、「多分クスリを飲まなくなったんだ」喜一さんの暗い顔。小野さんが、私のほうを見て、首をふった。「飲みましょう」小野さんが、カップをぐいぐい口にもっていく。「目、開けてる」桃子ちゃんが、私の耳元でささやくように言う。どすん、と音がして、風祭さんが椅子から落っこちたみたい。「ボク、スキにやりますから」言いながら、竹のひしゃくをとりあげたかと思うと、甕のほうにぐらりと体がかたむいて、そのまま小野さんのほうに倒れこんだ。甕が床に落ちて中の芳醇な液体が無残に流れてしまったの。ああ、あっ、まあ、えーっ声ならぬ声。小野さんが、風祭さんの重い体を支えるように立て直した。「風祭さん、ぼく送っていくから。帰ろう」小野さんが意を決したように言った。風祭さんの目がきっとなって、「ボクは帰らない。ボクはジユウです。キミは、ボクじゃない」と、桃子ちゃんと私の間に割って入るように座り込んだ。「そう、その通り。人間は自由なんだから」桃子ちゃんの顔がピンク色になっていたわ。「桃子、まさか」と喜一さんが、桃子ちゃんのコップを取り上げた。「あー、飲んでる。高校生なんだよ」と桃子ちゃんをにらんだ。「いいんだよー」桃子ちゃんは、すっかりいい気持ちで喜一さんからコップを取り返した。「きみから、なんとか言って」喜一さんが私を見る。「何がキミだ」風祭さんが、喜一さんの胸倉をいきなりつかんだ。「キミは、なんでもわかった顔して。鼻持ちならない。そうだ。ボクはキミと絶交する」風祭さんのひげには、卵の黄身がこびりついていた。「そうね。喜一さん、少し若年寄みたいなとこあるわ。でも、絶交はないでしょ」風祭さんを鎮めたくて言ったけど、かえってそれが、火に油を注ぐことになってしまった。「レモンさん、彼をかばうことないですよ。彼はね、優しさを装った偽善者ですよ。ボクはミヌイテいます」風祭さん、憎憎しげに喜一さんを見つめた。喜一さんは、こぶしを握りしめるようにしながら、目を閉じた。小野さんが、ケータイで、タクシーを呼んでいる。桃子ちゃんが、ぐいぐい飲んでいる。私のこころは、どうしたらいいのか、うろうろしているばかりだ。痩せた小野さんが、渾身の力を振り絞るように風祭さんを引き連れて出て行った。「ボクはボクで、キミじゃない」風祭さんのわめくような声が聞こえてきた。台所で片づけをしていると、桃子ちゃんがふらふらと入ってきた。「大丈夫?」振り向いて話しかけるとピンクにそまった頬に涙が流れていく。「どうしていいか、わからなかった。苦しくて苦しくて。風祭さん、いつもあんなに優しいのに」思わず桃子ちゃんを抱きしめると私の目頭も熱くなって、止まらない。ネットカフェの片隅に喜一さんがぽつんと座り込んでいた。「いつも春なんだ。クスリを飲まなくなってどうにもとまらなくなってここに来るんだ。けど、彼が、ボクに言ったこと本当だ。彼は、どんなときも真実しか話さない」誰に言うともなく、喜一さんが話し続ける。「もう、病院に入るころになったんだ。どうしてやることもできない。あんないいやつ、なのに」「帰ろう」桃子ちゃんが、喜一さんの腕を優しくゆさぶった。 楠田レモン
Mar 24, 2005
コメント(7)

少年は、なぜか、よくことばにつまずいた。石ころならば、ただよければいいが、しかしことばは、常に前方からやってくるものでもなかった。ときにことばは、不意に横合いからやってくる。少年は、そのことばをかわす術(すべ)をもたなかった。――ことばは、ときに凶器になる。さすればことばの遣い手となって、それを武器にひとに立ち向かおう。いっとき、その思いが少年のこころをいっぱいにした。おさない戦略であった。武器をみがくように、少年はことばを探し、それをみがいた。 みなわ ひとし どこからか沈丁花の香り漂う春の宵、ネットカフェで、あおりんごの会が開かれた。「お久しぶりです」やせほそったソクラテスのような小野さんが、甕のようなものを提げて入ってきた。(こんばんは)私の目は、はしなくもその甕の、様なものに釘付けになったらしい。察しのいい小野さんは「ちょっとうまい焼酎を見つけましたよ」と、眼鏡越しに微笑んだ。(まあ、どんな?)と行儀悪く覗き込もうとしていると、「きゃー、レモンさーん、来てー」と桃子ちゃんの声。あわてて隣室をのぞいてみると、おでんの鍋が、踊っている。「あー、こぼれっちゃった」あわわ、大変。駆け寄って火を止める。「あそうか、止めればよかったんだ」とのんびりした口調の桃子ちゃん。お正月、元さんの実家でお葬式の手伝いをした時は私よりもはるかに落ち着いて機敏に行動した桃子ちゃん。なのに、これって、何? そんなこと考えていたのが顔に出たのか、「あ、レモンさん、あたしのこと、ケーベツしてる」といたずらっぽく桃子ちゃん。(フフ、忍ぶれど色に出にけり、かしら)「まあ、ひどいよー」なんて可愛く甘えてくる。「そろそろ始めようか」ドア越しに喜一さん。今日は梁井さんも安江さんも都合でこられないとか。元さんはいないし、ちょっと寂しい会になりそうかな。小野さんが、さっきの薄緑色の甕の封を解いた。ふたを開けると、なんとも芳醇な香り。「こりゃあいい」喜一さんは、飲む前から目を輝かせている。「じゃ、乾杯」小野さんが音頭をとった。「ウ・マ・イ」喜一さんは、大きなカップに早くも2杯目を注いでいる。「美味しいわ」小野さんに言うと、「でしょう」と小野さんの得意げな顔。「これはね、宮崎のなんだけれど、知り合いがわざわざ送ってくれたの」「宮崎というと、百年の孤独ってうまい焼酎があったけど」あきれたことに喜一さん、三杯目に移っている。「そう、あれは今なかなか手に入らないんだ。でも、これもうまいでしょ」「うまいね、久しぶりだ、こんなの」桃子ちゃんは、おでんをほおばりながら、酒飲みをあきれたというふうにながめている。「やあ、諸君」風祭さんだ。ひげがもっと伸びて体も一回り大きくなったような感じだ。「いらっしゃい。元さんの家に行って以来だね」喜一さんが、早速カップになみなみと注いで風祭さんに勧める。続く 楠田レモン
Mar 23, 2005
コメント(0)

――人間とはなんだろうか、などと言わないようにしている。――こころとはなんだろうか、と考えるときすこしだけ闇の扉がひらく――わらってください、きょうという日があったから――なきましょう、きのうという日はもう、こないから みなわ ひとし 山また山を越え、元の家に着いたのは、夜の帳がおりたころ、午後7時をまわっていた。うっそうとした樹木が闇をいっそう暗くしている広い境内をぬけると左手に本堂らしき建物がほのみえてきた。と、脇の住居らしい玄関先に灯りをもったひとの影。「元さーん」はっきりした音声でそのひとが灯りを振った。「義兄さん?」元がひとり急に足早になってそのひとに近づいた。「お母さんが、ちょっと困ったことになってる。キミを待ってたんだ」ささやくように、義兄の直人が言う。直人は、後から歩いてきた喜一たちに向かい、「遠路ありがとうございました。お疲れになったでしょう」と深々と頭をさげた。本堂につづく長いほの暗い廊下を急ぎながら元は、さっきの直人のことばを反芻していた。「困ったことって、一体?」本堂に入ると、父が横たわる白い布団の横に普段着の母が横坐りに脚をなげだし、父の手をさするようにしている。「母さん」声をかけるが、振り向きもせずただうなづくばかりだ。元は黙って父の枕元に坐り白布をそっと開いた。穏かになった父が眠っていた。喜一たちは直人に客間に案内された。心地よく暖められた部屋には、食事の用意がされていた。「ごゆっくりなさってください」直人が足早に去って行った。「元さん、聞いて頂戴よ」広い本堂にひびきわたるような声で美奈が入ってきた。続いて美香、美弥。元の異母姉三人だ。直人も追いついた。「あなたのお母さんはね、どうやらお父様の葬式をしないおつもりよ」隣町の病院長夫人となっている長女の美弥が、いつもの冷静な声と表情で元を見据えた。元が母の肩を軽くゆすりながら、「母さん」とのぞきこむ。文子は、初めて息子に気が付いたように一瞬大きく目を見開きピクっと肩をふるわせた。「お願いします。せめて1週間、延ばしてください。あとは、あなたたちのいいようにして、ネっ」文子は居住まいをただすと、三姉妹のほうに懇願するような目を向けた。「そんな非常識なこと、できませんよ。文子さんわかって」美弥がうんざりした口調で言う。「姉さま、もういいわよ。私たちで日取り決めちゃいましょう。このひとに何を言ってもむだよ」美奈があきれはてたように立ち上がった。「イヤだー」文子が、子どものような悲鳴に近い声をあげるなり、突っ伏して泣き出した。「いい年して、気が違ったんじゃない」見下ろすように美奈がつぶやいた。「バカ」直人の平手が美奈の頬に飛んだ。「キミにはお義母さんの気持ちがわからないのか。ボクもさっきまで困ったとしか思ってなかった。仕事に差し支えちゃ困る、ただそれだけを考えてた」直人は、まだふくれっつらの妻の頬をやさしくさすって話しかける。「キミのオヤジさんが、いつだったか話してくれたことをね、思い出した」「どんな?」「あなた、死んだらきっと亡くなった奥さんに会いにいくわね。いいの、あんなきれいで優しそうなひとだもの。でもね、それまでは、私の大切なヒトでいてね。還暦を迎えようというのに、真顔で言うんだ、ってオヤジさん、笑ってた」「じゃ、今、ヤキモチ焼いてるの、あのひと。お父様を独り占めしたいのかしら」美香が、大きなお腹をさすりながらつぶやいた。「お母様に? そうかもしれない。女だもの」美奈が、目のふちを赤くして直人を見上げた。「檀家のこともあるし、面倒はいろいろあるけれど。いいわ。気の済むようにさせてあげましょうよ」美弥が、さっぱりした表情をした。そして、元に向かい「お義母さんを頼むわね」と言い残して姉妹が去って行った。元は、背中で一部始終を傍観しながら、疲労困憊して泣きじゃくる母を、やっとのことで、父のそばに寝かせた元が、直人のほうに近づいた。「義兄さん」と、目で礼をする。「これ内緒なんだけどね」隅っこで直人が笑いをかみ殺すような仕草をした。「さっきのオヤジさんの話さ、あれフィクション」「エーっ」直人がシーっと、指を口にもっていく。「あの話、昨夜読み終わった推理小説にあったんだよ。ちょっとアレンジしたけれどね」直人がいたずらっぽく元に笑いかける。「ボク、ちょっと感動したのに。チェッ」「女って、情が深い分、やっかいなんだ。一度パニクると、ヒステリーを起こして自分じゃとめられなくなる。理屈が通じないから。外野が(渇を)を入れるまでどうにもとまらない」「へえ、そう」「ボク、姉四人に苦しめられたからね」「でも、助かった。ありがとう」「いやいや」転職を繰り返し妻に頭の上がらないヒトと、元はこの義兄をほんの少し軽んじるところがあったが、今や自分の不明を恥じていた。いやはや、大人の男はつらいね。元は、父にかけられた白い布をまたそーっとひらいた。元の鼻筋を伝った涙が父の顔にポタポタ落ちた。 楠田 レモン
Mar 15, 2005
コメント(0)

ひともまばらな、まちの小さな公園。夏の終わりの空は秋をもうそこまで呼んで感傷の気をそそる。なんだか知らないけれどひとは生きるほかないんだよなぁ。 みなわ ひとし 穏かな陽射しが、フロントガラスからやさしく入り込んでいる。正月2日とあって、普段はにぎやかな繁華街もしんと静まりかえり、ただ年賀の張り紙と門松だけが、同じようにならんでいるのが目に入る。「左に寄りすぎだよ」「あ、右、寄りすぎ」助手席に乗った喜一さんは私の運転にハラハラどきどきといった感じで細かい指示を出す。「そんな心配しないで。これでもだいぶ慣れてきたのよ」「だめ。よそ見しないで。ほら、右折」失礼しちゃうわ。運転免許を取ったばかりでそのうえ運動オンチだからって、教官みたいに横で言われたんじゃ実力なんて発揮できないわ。喜一さんがこんなにうるさいひとだとは思わなかったわ。後ろの三人は、それぞれ思い思いの格好で沈黙のしじまにいた。元は、窓にもたれかかるようにしながら、走る景色を眺めていた。風祭さんは、くしゃくしゃになったあごひげを大きくてやわらかそうな手でふわりふわりとなでている。閉じた目を時折開いて、気持ちを整理しかねるようにまばたきを何度か繰り返す。そしてまた静かに目を閉じ、あごひげに手をやる。桃子は、そんな風祭さんと元を交互に見つめて、声にならないため息をつく。「あ、また右に寄ってるよ」喜一さんは、あー、とか、えー、とか本当にウルサイ、なぜ?(疲れてるんじゃない。少しやすんだら?)「寝てられないよ、心配で」(まあ、失礼しちゃうわ。ほんとに教官みたい)ああ、とうとう口に出してしまった。「赤、だよ。止まって」喜一さんの顔がゆがんでいる。もう、あなたがごちゃごちゃ横でうるさいからじゃない、あわててブレーキを踏みながら、喜一さんをうらめしく思っている。思いのほか早く郊外に出て、最初の山の麓に着いたのが、午後2時ころだった。「この先の森林公園で飯にしませんか」喜一さんが、後ろを向いて話しかけた。「そうしましょう」私と喜一さんの一触即発の会話を聞いていたのか、風祭さんが心配そうに言った。元さんもうなづいた。桃子ちゃんが目をぱっと見開いて「私、何も食べなくていいの!」と真剣な表情。「桃子!」わがまま言うな、と喜一さんの声がとがっている。「桃子ちゃん、ちょっと休んで腹ごしらえしたほうがいいと思うんだよ。みんな疲れているから」風祭さんが、やさしい声音で桃子ちゃんに話しかけた。桃子ちゃんが、素直にうなずくのが、ミラー越しに見えて、なんだかいじらしい。公園のキャンプ施設に車を寄せる。「ひえー、ちょっと風がつめたすぎるね」と風祭さんが、おどけた声を出した。「よし、窓ガラスが曇るかもしれないけど、ワゴンの後ろで食べようか」喜一さんが、いつもの穏かな声に戻っていた。狭い空間に身を寄せ合って黙々と準備してきた鍋をつついていると、いつのまにか、心までほぐれてきて、みんなの顔に笑顔をもどってきたみたい。「少し飲んだほうがいいよ」喜一さんが、元さんに酒を勧めている。「アッチチ」。風祭さんがズボンの膝に落っことしたつみれをつまみあげて、何事もなかったように自分の口にほうりこんだ。本当に食欲のなかった桃子ちゃんがそれを見て、クスクスっと笑う。元さんが、すかさず桃子ちゃんの手から小鉢をとって、エビとつみれと春菊をいれてあげてた。桃子ちゃんはそれを受け取りながらぱっと頬を輝かせたの。そしてきゅうに元気になってぱくぱくっと平らげると、「おかわり」甘えるように元さんに小鉢を押し遣ったの。「自分でやれば」なんていつもの元さんの憎まれ口。そう言いながら、またよそってあげている。ま、青春している。「道路が空いているから、この分じゃあと3時間ぐらいで着くね」喜一さんがまた助手席に乗り込んできた。「ボク、少し寝かせてもらうよ」まあ、大歓迎よ、私は思わずにんまりしてしまう。元さんたちは、後ろでトランプを始めた。やわらかな空気がふくらんでいく。ハハハヒヒヒ、元さんのいつもの笑い顔が聞こえてくる。(私、安全運転してお父さんのところへ無事届けてあげる)まっすぐに見つめる道の先に待ちわびる魂に向けてアクセルを一歩踏み込んだ。(続く) 楠田レモン
Feb 14, 2005
コメント(0)

いーい、ここから入ったらぜったいだめよ――と、言って少女は一本の線を引いた。なんの不思議もないただの一本の線少年はそこに深い闇のようなものをかんじた。 みなわ ひとし どこまでも広がる青い空。正月二日は新年にふさわしい日本晴れだ。「あっけまして、オメデト」元が、喜一の店の脇に、れいの赤いシビックをとめようとしていると、桃子の元気な声。振り返ると、桃子が、正月らしくウールのアンサンブルを着て立っている。「うおっ」と、おおげさによろける元。「明けましておめでとう」桃子が正しい日本語で、言う。「おめでとう。みんな、集まってる?」てれたのか、桃子を見ないようにしながら元。「レモンさんが、まだ。風祭さんとおじさんは、ワゴンに飲み物積み込んでいるわ」いつになくおしとやかな桃子。「そうか。喜一さんたち、裏?」あくまで桃子を避けるように、元が裏に入っていく。残された桃子は、口をとがらせている。大変。準備に手間取って20分も遅刻だわ。どうして私はこんなに愚図なんだろう、正月早々無駄な自己反省。タクシーがネットカフェの横に到着。「レモンさーん」桃子ちゃんが、可愛いきもの姿で手を振っている。(桃子ちゃん、ちょっと手伝ってくれる)タクシーの支払をしている横で、桃子ちゃんが荷物をとりにきてくれる。「わ、重いね、これ」風呂敷包みを持ちながら、桃子ちゃんの不思議そうな顔。(喜一さんから電話があって、山の上で鍋をしよう、って言うから)「鍋、おじさんが? 山の上? 寒くない」(そう。でも、そう言ったの)桃子ちゃんと話しながら、ワゴン車に近づくと、すでに3人が乗り込んで待っていた。「あけましておめでとうございます」「おめでとう」「早く乗り込んで」とドライバーの喜一さん。後部座席では、元さんと風祭さんが、ほんのりピンク色になっている。「さ、こっちに坐って」と、風祭さん。桃子ちゃんは、元さんの横にさっと坐った。元さんは、心なしか、身を固くしたように思えたわ。喜一さんが、運転席でひとり孤独にワゴンをスタートさせた。「今日は、3社まいりだからね」と、風祭さんが張り切っている。「ということは、三つの神社を回るってことね」特別に猪口でほんの少しお酒をいただいた桃子ちゃんは、目をとろんとさせている。(桃子ちゃん、着物よく似合ってるわ)「うん。今日は、美人に見えますね」と、ひげをさすりながら、風祭さん。「孫にも衣裳、フヒヒ」元さんたら、憎まれ口を言う。「なによー」と桃子ちゃんは、軽くたたく真似。ひょいと避けながら、「ぼくはね、レモンさんの着物姿だったら、見たかったなー」と、元さん。「もう、知らない!」桃子ちゃんは、きゅっと口をとがらせている。「桃子さん、彼はね、テレ屋なんですよ」風祭さんが、やさしく言った。最初の神社におまいりをすませるころには、元さんと桃子ちゃんは、ふざけながら、すっかり仲良くなっていた。「次の神社の山のところで、食事にしましょう」と喜一さん。(運転代わるわ)と私。「いいよ」と喜一さん。(ま、私のウデ、信じてないのね。お正月なんだから、後ろでお酒飲んだら?)喜一さんが、しぶしぶという感じで、後ろに乗り込んだ。途中、ぬかるみのところで、ほんの少し(ホント、少しだけ)車が揺れた。「ほらほら、でしょ」と、ほろ酔いの喜一さん。「あぶねー」と元さん。(失礼でしょ)と思わず振り返ると、「あ」「ぶ」「な」「い」と、みなが口を揃える。そりゃあ、ちょっと未熟だけど、運転免許持ってるんだから、失礼しちゃうわ。心で、ぷんぷんしていたら、だれかの携帯電話が、「踊る大走査線」のメロデイ―を奏でた。「もしもし」元さんだ。「はい。……はい。いえ、はい」ただならぬ気配が、だれもを無口にした。見守っている。「オヤジ、死にました」元さんが、静かにつぶやいた。私は、目についたドライブインに、あわてて車を止めた。「タクシーで帰ります」と元さん。「この時間だと、夜まで電車はないね」と、考え込むように喜一さん。(私、元さんを送っていくわ)「無理だよ」その運転じゃ、無理だというように、喜一さんが、きっぱり。「みんなで行けばいい」風祭さんがみんなの顔を見ながら話しかける。「お酒を飲んでいないのはレモンさんだけです。助手席でナビゲーターすれば初めての道でも大丈夫。急ぎましょう」「そうよ。私は行くからね」と桃子ちゃん。いいの?と目顔で問いかけると、喜一さんがうなずいて助手席に乗ってきた。元さんは、みんなのやりとりを聞いてるのかいないのか、ただ震える手で、コップの酒を飲んでいる。私は、元さんの田舎に向けて、車をスタートさせた。(続く)
Feb 7, 2005
コメント(2)

<ユメはこんなかたちね希望は、こうよとおんなが言う。――おとこはただうなずくばかりだが。「ホットコーヒーふたつあがりました」 みなわ ひとし まどろみの中で、かすかに聞こえる「セント・トーマス」のメロデイ―。(あら、ここはどこ、あなたは誰?)目を閉じたまま、枕もとのケータイに手を伸ばす。「おめでとうございまーす」このさわやかな声には聞き覚えがある。誰だっけ。「ごめんなさい。もしかして起こしちゃった?」わかった、スナック「ひまつぶし」のしのぶさんだ。(しのぶさん? あけましておめでとうございます)「本年もよろしく、ね。あの、よかったら初詣に行きませんか、と思って」(初詣、ご一緒に? 行きたいです)「じゃ、何時に待ち合わせします?」(すみません。今何時でしょう)「11時ころかしら。やっぱり起こしちゃったのね。悪かったわ」(ふふ。でも、もう目がぱっちり開いてますから)本当は、まだ目は閉じたまま、口だけ、なんとか動かしている。新年早々、誰もいないのをいいことに、夜更かし三昧しちゃったからだ。そのうえ、低血圧のせいか、起きて一時間はぼーっとしている。もっとも母は、あなたは一年中、ぼーっとしているわよ、と言うけれど。「じゃ、午後一時で、どうかしら。店のほうにきてくださる?」(ええ、うかがいます)初詣に出かけたら、心をこめて拝みましょう。この一年が、希望に満ちた日々となりますように。夢の実現にまた一歩近づけますように。あらためまして、広場のみなさま新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 楠田レモン
Jan 1, 2005
コメント(6)

その時なんだよ、きっと。――ちがうわ、たまたまよ。必然てもんがあるんでござんしょうてのが、ぼくの陣立てでございますよ。――たまたまよ、やっぱりそれはとあたしは言うのよ。 みなわ ひとし 晦日になって、急に冷え込んできた。それにともない、万福寺はここにきて、大忙しとなった。檀家の総代が、急死したからだ。まったく、寒暖の差が激しいときには、こういうことが、よく起きる。元は、郷里に帰るのを断念せざるを得なくなった。「というわけで、帰らないことになったんです」と、喜一に訴えている。これまた、飛び込みの仕事で、あたふたしている喜一の耳には、入っているかどうか、定かではないが。「聞いてるんですか」ひとわたりしゃべり終わると、喜一の気のない返事に、業を煮やして、じれている。「もうちょっと、待ってもらえますか」と、下を向いたまま喜一。「ボクが訴えられるところは、ここしかないんだから」元は言いつのる。(こんばんは)私が立ち寄った時は、まさにそんな状況だったらしい。「やあ、こんばんは」待ってました,と、元さんの愛想のいいこと。「ボク、残らなきゃいけなくなったんです」(あら、まあ)「聞いてくださいよ」といったが最後、雪崩を打つがごとく、話が続いた。「と、こんなわけなんです」「さっきから、繰り返してばかりですよ」やっと仕事の区切りがついた喜一さんが、顔をあげて、元さんをからかう。「よかったら、ちょっと飲みますか」と喜一さん。「賛成です!」と機嫌のいい元さん。(私、お重をもってきたの。なんだか、飲みそうな予感がしたから)「でもキミ、家のほう、かまわないの?」と心配して喜一さん。(父と母、温泉に行ったの。誘われたけど、断っちゃった。邪魔するようで悪いでしょ)と言うと、「そんないい子ぶって、鬼のいぬ間、じゃないの」とすかさず元さん。「そうだよな」と喜一さんまで調子に乗る。本当に、からかうのが生きがいみたいね。「まあ、乾杯と、いきましょう」元さんが、音頭をとる。「待ってー」ドタドタと、桃子ちゃんが入ってくる。「あれ、どうしたの?」と喜一さん。「風祭さんに誘われちゃったの」「風祭さん?」元さんと私が、同時に叫んだ。「こんばんは」風祭さんが、スーパーの袋を重そうに抱えて入ってきた。「とりあえず、乾杯」飲みたくて仕方ない元さんは、テーブルの準備もそこそこに、もう仕切っている。風祭さんがみんなのグラスにビールを注ぐ。「乾杯」桃子ちゃんが、ジュース片手に叫ぶ。「お疲れさん」(お疲れさま)いつも思うが、最初のビールってどうしてこんなに美味しいんだろう。「ボク、みんなに話そうと思って」と風祭さん。「なんですか、あらたまって」と喜一さん。「今年中に話そうと思って」と重ねて風祭さん。元さんがあれっという顔をする。「ボク、実は、沖縄……」と風祭さんが言いかけると、「いいよ、いいんじゃない」と桃子ちゃん。みんなどうしていいかわからない。「行かなかったんだ。というより、行けなかった」一同、うんうんとうなずく。「二駅で降りちゃった。情けないね」と、風祭さん。「夜こっちに舞い戻ってきたら急に落ち着いた気持ちになりました。ボクは、ここにいるべきだったんだ。言えなかった。ごめん」風祭さんは、ほっとしたような晴れ晴れした顔をしていた。だれも、なにも言えなかったし、気の利いたことを言おうなんて思わなかったわ。ただ、にこにことうなずいただけだった。「この煮しめ、うまいね」風祭さんが、褒めてくれた(うれしい)と私。「まあまあだな」とは、元さん。やっぱり生意気ね。「じゃ、私がデートしてあげようか」元さんの愚痴に、桃子ちゃんが応えた。「エーッ、ボク、レモンさんとならいいけど」と元さんの憎まれ口!「桃子、おじさんは、許さないよ」と酔ってきた喜一さん。「冬ソナですね。いいですね」と風祭さんがうれしそうに言った。(それで決まり、ね)桃子ちゃんに笑いかけると、Vサインで応える。「よし、行くか。ただし、保護者同伴だよ」と元さん。「保護者?」と桃子ちゃん。「喜一さんと風祭さん、ついでにレモンさん、でどう?」「いいけど」と桃子ちゃん、ちょっと口がとんがっている。「じゃあ、2日でどう?」と元さんが、みんなを見回す。「初詣、行きましょう」と風祭さん。「そうしよう」と完全に酔っ払った喜一さん。「お姉ちゃんもいいでしょ」と桃子ちゃん。(はーい、行きます。でも保護者はイヤらな)少し酔ってろれつが回らなくなったみたい。日めくりが、あと一枚を残すのみとなった。平凡な繰り返しのようで、思い起こせばやはりいろんなことがあったね。新しい年がよい年となりますように。輝ける一年となりますように。 楠田レモン
Dec 30, 2004
コメント(5)

――きっと彼女は振り返るいつものようにおとこは思いたかった(しかしおんなは素振りもなく角をまがった)――ちがう、もどってくる(ドラマなら、ここに雨が降り悄然たるおとこの孤影がにじむのだが)たしかにおんなはもどってきて、こう言った――あたし、決然とした感じ、あった? みなわ ひとし 「ちょっとごめんよ」ドスのきいた声。見上げれば、180センチはあろうかという大男。黒のタートルに黒と白の千鳥格子のスーツ。「ヒエッ」喜一の店の掃除を手伝いに来ていた桃子が、目をまんまるくして、この客を眺めた。「喜一さん、留守かい」真っ黒い顔にどんぐりまなこがぎょろりと動く。「すぐ、すぐ帰ります。この先の春陽堂さんに行っただけだから」「お嬢ちゃん、いくつかい?」暇をもてあましたのか、組んだ足をぶらぶらさせながら、桃子を見る。「高校2年です」怖さを隠すように、殊更に元気な声を出す。オジサン、早く帰ってきてよね、心で祈りながら、表の窓ガラスを拭くふりをして、外へ出る。仕方がないから、窓をふきながら、ちらちら中を見れば、相変わらず足をぶらぶらさせながら、あくびなんかしている。あれ、だれなのかしら、桃子の胸に不安がよぎる。「ヨッ」と、ふいに肩をたたかれる。「ヒエーッ」桃子は思わず目をつむった。「今、帰ってきたんだ」振り返れば、元がいた。元もそーっと中をのぞく。「なるほど、ちょっとあやしいような」と、むしろ面白がっている。喜一が菓子折りを抱えて帰ってきた。「あれ、吉田くん?」「おう、久しぶり」と坐ったままで大男。桃子と元が、興味津々で、中に入ってきた。喜一が吉田に茶を出している。「今、春陽堂さんから菓子をもらったんだ。食べようか」桃子に、開けなさい、と目でうながす。「こりゃあ、うまそうだ」吉田は、目を細めて和菓子に手を伸ばした。「甘党だったな」、喜一が懐かしそうに言う。「ところで、何か」と喜一。「ちょっと、話があったんだが、またにするよ。ちょっと、これから予定が入っちまってるから」吉田は、和菓子を3個ぺろりと平らげて、満足そうに出て行った。「ねえ、あのヒトだれ?」「吉田くん。高校の同級生なんだ」「ふーん。でもわたし、ヤクザさんかと思っちゃった」「格好で人のこと決めつけるの、よくないぜ」元が、きっぱりとした口調で言った。「まあ、さっきは、あやしいって言ったくせに」ズルイ、と桃子。「でもなんで帰ってきたんだろう」と喜一。「5年前まで、この商店街のはずれでパチンコ屋をしてたんだ。隣町に広い土地が見つかったとかである日突然、引っ越して。そっちで繁盛している、って耳にしていたんだけど」なんだろう、用事って、喜一にも思い当たることはなかった。「ところで、お父さん大丈夫だったの」と桃子が心配そうにする。「うん、たいしたことなかった」元がクールに応える。「もっといてあげればよかったのに」と、喜一が少しせめる口調。「ところがね、元気になった途端、おまえは修行中の身なんだから、とっとと帰れ、とこうなんだ。まったく、いつもああなんだ」と憎まれ口をきく。「なんでもなくて、よかったわね」桃子が、やわらかい表情をする。元が、意外に素直にうなずいた。「あれ、そういえばオヤジ、勘当とか言ってたのに、いつのまにか、修行中に変えてやがる」元がふふっと笑って、下を向いた。 楠田レモン
Dec 28, 2004
コメント(6)

――跳んでしまったんです。それしか、やっぱり、なかったんです。――あなたにしちゃ、愚かでしたね、その選択は。――それも、わかってるんです。しかし、それしかなかったんです。《霧がふたりをつつんで声だけがしんとざわめいている》 みなわ ひとし 山また山が続く国道沿いに濃い霧がかかっている。進もうにも、進めない。かといって、退路はない。ただゆっくり、霧の中を突き抜けていくしかない。「まったく、こんな時に」元(はじめ)の顔に疲労の色が浮かんでいる。父が倒れたという知らせがあったのは、早朝5時ごろのこと。「元くん、家にお帰り」万福寺の住職が、有無を言わさぬ口調で告げにきた。それから、どこをどういったか覚えていないほど、夢中で車を走らせた。それが、どうだ。あと1時間ほどで家に着くという段になって、この霧だ。暖冬には、霧が多く発生するというが、何も今日に限って。「何やってんだ。進むしかないじゃないか」元は、自分に言い聞かせる。やっと、山の麓に出てきた。遠くに町の灯が見える。「ふー、助かった」時計をみると、午後6時をすぎている。あたりはもうすっかり暗くなっている。かれこれ、10時間ほとんど休みなく走り続けたことになる。やっと市内に入ったが、今度は通勤ラッシュで、渋滞している。「なんてこった。ついてないなー」元の表情が険しく変わっていく。交差点のたびに信号が赤に変わって。「どうなってるんだ、いったい」いらいらしている自分にも腹が立っている。朝から飲まず食わずで、喉がからからになってる。信号待ちの交差点で小さな喫茶店が目に入る。「ちょっと休んでいこう」「いらっしゃいませ」銀髪の薄い髪を、几帳面に七三にわけた店主らしいヒトが迎えてくれる。「寒かったでしょう」とおしぼりと温かいお茶が運ばれてくる。「コーヒーお願いします」お茶の香りが、湯気とともに元の気持ちを落ち着かせた。切っておいたケータイをみると、3件の伝言が表示されている。「もしもし、ボクだけど」「あー、元? どこにおるん?」「ああ、もう少しでそっちへ帰れる。オヤジ、どうした?」「うん、もう落ち着いたわ。軽い脳しんとう、言うとった。大丈夫じゃけー」母ののんびりした声が流れてくる。「元、寄り道せんと、早う、帰ってこんね」すぐ帰る、と邪険にケータイを切った。コーヒーが運ばれてきた。手づくりらしいクッキーが2枚添えられている。コーヒーは少し濃い目でフレンチのようだったが、香り高く美味しかった。空腹をクッキーの甘みが満たしていく。運転している間、父が怒ったり笑ったりした顔が、走馬灯のように駆け巡った。父は父、自分は自分じゃないか、何も悪くはないさ、なるようになるだけじゃないか。コーヒーをゆっくり飲み終えるころには、安堵が体中にひろがるのを感じた。そしてふいに、目頭があつくなった。「よかった」だれに言うともなく、つぶやいた。「ごちそうさま」元は、軽い足取りで、車に戻った。 楠田レモン
Dec 27, 2004
コメント(4)

少年はおがくずの中にトカゲを入れてやった――冬眠させてあげようほんとうに少年はそう思ったのだが。春になって おがくずの中をさぐったら トカゲは時を刻んですでにミイラになっていた みなわ ひとし 恋文横丁の細い路地をぬけると、間口の狭い地鶏屋「田代」がある。(こんにちは)「あら、いらっしゃい」コロコロふとって愛想のいいおかみさんが出てくる。「いらっしゃい。ご注文の品届いてますよ」おかみさんがのれんをくぐって奥に引っ込んだ。まあ、いいお天気だこと冬の日差しとはいえまぶしいくらいで、思わず目をほそめてしまう。リンリン、チリリーン、自転車のベルの音。なあんだ、元さんだ。「やあ、どうもどうも」(こんにちは。今日も、お仕事?)袈裟姿の出で立ちを見て言うと、「この商売、盆暮れなしの過酷さ、ですよ」と、しかめっつらをしてみせる。「でも、もうフリーですから」「お待たせしました」地鶏屋のおかみさんが、包みをもって、表に出てきた。「お代はいただいていますから。脂がのっておいしいですよ」と手渡してくれる。あらっと、元を見とめて「先日は、お世話になりまして」と頭をさげる。「いやいや。それにしてもお寂しくなりましたね」と重々しく、元。(私、存知あげなくて。どなたか?)おかみさんが、違うと首を振って、「いえね、うちの犬、老衰でついこないだ逝っちゃたんですよ」(まあ)いつも表につながれて、うずくまるようにしていた黒いおとなしい犬のことが浮かんできた。「ボクがお経をあげたんで」「成仏できましたよ、きっと。アタシ、あの時、お経をきいていたら、すっきりしましてね、有難かったですよ」おかみさんは、割烹着の端で、目をこすった。(近頃は、ペットもお葬式とかするの?)「うん、わりに多いよ略式だけどね」自転車を押す元さんと路地から表のほうに歩いていくと、「ひまつぶし」の店先で、しのぶさんが、掃き掃除をしている。「お茶飲んでいかれません?ちょうど一休みしようと思ってたところなんです」しのぶさん、元さんにもどうぞ、と手招きする。「でもって、こないだなんて、カエルにお経あげたんですから」元さん、出されたお茶をいっきに飲んでしまう。(ヤケドしない?)と猫舌の私は、心配になる。「カエル?」しのぶさんが、手かごに干し柿をいれて出してくださる。「ほら、うちの寺、保育園やってるから」元さん、干し柿のヘタを器用にとって、むしゃむしゃ。(保育園の子たちのために?)「そう。あそこの庭のすみなんか、カマボコ板の墓だらけ」「フフ、でも、いいことですよ」としのぶさん。(あのね、ふっと思ったんだけど、お寺って、クリスマスやるの?)「ローストチキンも、ケーキも、なんでもありですよ」「そんなもんですか」と、しのぶさん、不思議そう。「もちろん、目立たないように、こっそり、ってやつですけど」(ステーキとかも?)「オーケイ、です。今の住職なんか、ステーキ大好き人間ですよ」(なんだか、変な感じ)しのぶさんと私が顔を見合わせて笑ってしまう。「もちろん、宗派によっては、キビシイところもある」(いろいろ、なのね)そう、なんでも決めつけちゃいけないよね。最初はぎょっとしたけど、あの赤い車だって、このヒトにとっては、既成概念に対する、ひそかな反抗かもしれないし、ね。そんなこと、ぼーっと考えていると、「ちょっと、ちょっと、昼間っからぼけないでほしいね」元さんが、私の目の前で手をひらひらさせている。「さっきから気になっていたんだけど」と、元さんがそばに置いた包みを指差す。(あ、これ? イノシシの肉なの)「まあ、珍しいこと」しのぶさんも、興味を持った様子。(うちの父って変なの。毎年クリスマスのころになると、しし鍋が、食べたいって言い出すの。だから、うちでは、クリスマスにしし鍋、なの。変でしょ)「そりゃあ、いい」ハハハ、愉快そうに元さんが笑い出した。もしかしたら、父も理由なき反抗をしているのかしら、ね。 楠田レモン
Dec 25, 2004
コメント(2)

――愛しているよと、おとこが言った(おんなは絶対に信じない)――海を見に行かないかと、おとこは困った顔で言う(かすかに笑みがおんなを染めた)――希望よネ、きっとおんなはようやく口をきいた みなわ ひとし イブの日の夕方、ネットカフェのストーブのそばで、小坊主の元がこっくりこっくり夢の中。表の扉を、ブーツで引っ掛けるような格好で、桃子がやってきた。大きななべを抱えている。「ちょっと、居眠りさん、ストーブのやかんどけてくれない」元が、ビクッとして、からだをおこす。「せっかくいいユメ見てたのに」なんだよ、とねぼけまなこでぼーっとしている。「やかん、どけてく・だ・さ・る?」慇懃無礼な桃子。「はいよ、はいはい」元がやかんを奥へ運んでいく。ストーブのうえで湯気の立ったなべから、おでんのにおいが充ちてきた。「おじさん、どこへ行ったの?」桃子が紙コップや皿を袋からとりだした。「春陽堂。あそこのおじさん、救急車で運ばれたらしいよ」「昨日見かけたけど、元気だったわよ」「それがさ、餅が原因らしいんだ」「餅?」「喉につまらせたんだって」「つまらせる?」「そう、よくあるんだよ。うちの檀家なんか、それで死んだヒトもいる」「ウッソー」桃子がコロコロ笑い出した。「笑い事じゃないって」まったく、ものを知らない子だ、といった表情の元。それがおかしくて、桃子はとうとうなみだ目になってしまった。「おやおや、もう盛り上がっているの」小野さんが、一升瓶を持ってやってきた。その後ろから、風祭さんと喜一が入ってくる。「春陽堂さん、もう大丈夫だよ。ただ今日は病院で様子を見るって」風祭さんと喜一が病院に行ってきたそうだ。宴会の準備が整うと、それまで黙っていた風祭さんが、「ちょっと行ってきます」と出て行った。小野さんと元がおやっと顔を見合わせる。「浩太くんを迎えに行ったんでしょう」と喜一。「そうか。あの子今日はひとりぼっちなのね」と桃子。「春陽堂の奥さん、まだ病院だから」と喜一が言うと、「ねえ、あの子がきたらクラッカーで派手に迎えちゃおうか。そうだ!」と桃子が駆け出した。表のツリーを引きずって入ってくる。「ね、これで、ちょっとにぎやかになったでしょ」こういうときの桃子ってちょっと可愛いな、と元はこそっと思った。「こんばんは」浩太が風祭さんとやってきた。よーい、どん。いっせいにクラーカーが鳴り出した。「うわー」浩太が、驚いたように目を白黒させると、「うわーい」今度は桃子が、心からうれしそうに歓声をあげた。「乾杯」テーブルには、骨付きチキンに、フライドポテト、ポテトサラダ、おでん、飲み物いろいろ。野菜のステイックサラダとポテトチップス、チョコレートが、ピンクやブルーの可愛い紙皿に、きれいに盛られている。桃子が口をとがらせて飾り付けをしたのだ。大人たちが酒を酌み交わすかたわらで、桃子と浩太が、慎重にケーキを切り分けている。桃子の手元を見ながら、浩太が叫ぶ。「お姉ちゃん、これ小さすぎる!」「そんなことないって。みんな同じに切ってるもん」「ううん、大きさがみんな違う!」「浩太、大きいほうからとっていいからね」と元がとりなすように口を出す。「子どものときって、あんなだったな」と小野さんが二人を見ながら昔を懐かしむ。「それで、けんかになるんだ、必ずね」喜一が、亡くなった弟を思い出しながらつぶやく。ケーキを食べ終わった浩太が、ひとりメールを見ている。「ねえ、みんなきてごらんよ」浩太が、弾んでみんなを呼んだ。「なになに」「どれどれ」そこには、巨大なツリーの前で、半そでTシャツに短パン姿の女性が笑いかけていた。「ほう」「夏なんだ」「ママが、ぼくのためにこのツリー作ってくれたんだって」浩太が誇らしそうに叫んだ。「きれい! すごいね」桃子が浩太の肩を優しく抱き寄せた。「そうか、オーストラリアって、夏なんだ、今」「真夏のクリスマスってえのもいいね」世界は広いな世界はせまいなそれぞれがそれぞれの思いをひめてイブの夜が更けていく。 楠田レモン
Dec 24, 2004
コメント(2)

――こんなときにそんなことをするなんてまったく――こんなときだからきっと、するんだよぼく。《わけもなく 時は止まって》 みなわ ひとし 暮れが近づくにつれてネットカフェを通り道にするヒトの数が増えてきた。「早く行かないと、日が短いからね」「メモしても、忘れちゃうんだから困ったものだわ」買い物カートをゴロゴロさせながら、女たちが、通っていく。喜一は、今年最後の仕事に取りかかっている。ゴロゴロゴロ、とまた買い物カートの音。あーあ、せっかく調子が出てきたところなのに。「喜一さん」顔をあげると、スナック「ひまつぶし」のしのぶさんが立っている。「やあ、お帰んなさい」「留守の間、お世話になりました」と、しのぶさんが、丁寧に頭をさげた。「で、お母さんの具合いかがです?」「おかげさまで思ったよりも軽くって。お正月まで居ると言ったんですけど、母が、もういいってきかないんです」「こっちの店のことを心配されたんですね」「そう。言い出したら聞きゃあしない。それでね」と、買い物カートをたたきながら、「これを、お礼に差し上げてですって。母が作った野菜なの。無理強いするようで、悪いけど」「いやー、おふくろ、野菜が高いって嘆いていたから、大喜びですよ」小ぶりのみずみずしい葉付きカブの束になったもの、ほうれん草にゴボウ、白菜、里芋がごろごろ、それに、大小のじゃがいもがいくつか、新聞紙を敷いたカウンターに並べられた。「うれしいけど、多すぎます」と喜一が遠慮がちに言う。「いいの。買ったものじゃないんだから。もてあますようだったら、お友達にでも差し上げて」忙しいからと、しのぶはまた買い物カートを転がしながら足早に出て行った。もらった野菜もそのままに、喜一はまた仕事に戻っていく。ふと、外を見やると、すっかり暗くなって、店じまいをしているところもある。「8時か。このへんできりあげよう」喜一がブラインドをおろそうと、のろのろ立ち上がった。表通りから、風祭さんが、のんびりと歩いてくる。「こんばんは。こんな時間に珍しいね」まあまあ、と椅子をすすめる。風祭さん、厚いコートのポケットから、バーボンを取り出した。「仕事納めでしたから」そして、またもぞもぞと、胸ポケットからチーズを出した。風祭さんは、ペンキ屋のお父さんの仕事を手伝っている。喜一が、グラスと氷を運んできた。「ボクもやっと、メドが立ったところなんです。少し飲みましょうか」「あれ、なんです?」風祭さんが、カウンターのうえに目を留めている。「お土産です。ひまつぶしのしのぶさんが、帰ってきたんで」風祭さんがつと立ち上がると、カブをひょいとつまんで、いきなりがぶり、と噛んだ。「うまい、ですね」ひげをぬらしながら、微笑んだ。「バーボンにカブって、意外と合いますね」喜一は、塩を振って、カブを口に持っていく。「味噌があると、もっとうまいんだけど」と、バーボン片手に風祭さん。商店街の明かりがすっかり消えて、イルミネーションだけが輝いて見える、静かな夜だった。 楠田レモン
Dec 23, 2004
コメント(5)

闇の底から輪舞しながら雪がやってくると――世界はこんなにもしずかになるのだが。《少年はいまも夢のままたたずんでいる》 みなわ ひとし 朝から曇っていた空が、午後からは、もう一枚ベールをかぶったようにみえる。(雪催いかしら、こまったわ)表通りを、買物袋を両手に、歩いていると、「ブッ、ブ」と短くクラクションの音。振り返ると、赤い車が、こちらへ寄せてきた。「やや、どうもどうも」(元さん? あら、こんにちは)「どこへ行くの?乗っけてあげますよ」(ありがとう。でも、ここへ寄るだけだから)と、ネットカフェを指す。中に入ると、喜一さんはいなくて、春陽堂の、浩太くんがしかめっつらでノートパソコンをカタカタいわせている。(こんにちは)声をかけると、「こんにちは。あの、お姉さん、ちょっと教えてくれない?」(ま、お姉さんだって)ちょっとにんまりしてしまう。この間なんか、知らない子たちに、「おばさーん、道教えてもらえますか」なんて言われて、ショックだったんだから。「メール、きてるかどうか、知りたいんだけど」(いいわよ)送受信をクリックすると、1通のメールが入っていた。(ある、あるわよ)言うがはやいか、浩太くんが、私を押しのけるようにして、マウスをつかんだ。「ありがとう。もうひとりでやれるよ」あっちに行って、という顔つきで私を見た。(まあ、ヒミツなの?)って、からかおうと思ったけど目が真剣で、そんなこと言える雰囲気じゃなかったわ。自動販売機で、飲み物を選んでいると、喜一さんが帰ってきた。「やあ、どうもどうも」後ろから、元さんの声。「ボク、コーヒーいれますから」と、喜一さんが奥へはいっていった。元さんが、浩太君に気づいて「やあ」と声をかける。浩太くんは夢中で、メールを打っている。(あのね、なんだかヒミツみたいなのよ)小声で言うと、「生意気だな、あの年で」と、小生意気な口調の元さん。喜一さんが、コーヒーを配りながら、「昨日の返事が、きたんだね」とひとり言。なんだか、ひとりだけわかってるような感じ。「おじさん、ありがとう」「何か、飲んでいけば」「ううん、いいです。もう塾だから」浩太が急ぎ足で出て行った。「今の子って、大人より忙しいんじゃないの?」まったく、と元さん。(そうかもしれないわね。元さん、ヒマそうだもの)元さんがすぐに反応して、口をとがらせた。(それにしても、誰からのメールだったのかしら)「言いたくないんだろうね」と、喜一さん。「そうだよ。女の人って、なんでも知りたがる」元さんが、さっきのお返しのように言う。(まあ、ひどいわ)軽く二人をにらむと、「もう、帰るんでしょ。ボク、送っていきますよ」元さんが、先に立って表通りに出て行った。喜一さんが、買物袋をもって、車まで運んでくれる。「じゃ、どうもどうも」と元さん。(ありがとう)言いながら、空を見上げると雪催いは消えて、うっすらと晴れ間が見えていた。 楠田レモン
Dec 22, 2004
コメント(4)

――少年は少女にたずねようとして――少女は少年にこたえようとして《時はそこで止まって》――少年はたずねることができなかった――少女はこたえることができなかった みなわ ひとし 浩太が、春陽堂の奥さんにつれられて喜一の店に、やってきた。「この子が、やってみたいってきかないんですよ。(小学)4年生でできるかしら?喜一さん、よろしくね」奥さんは、浩太に百円玉をいくつか握らせて忙しそうに出て行った。「浩太くん、やり方わかる?」喜一がちょっと心配して聞いてみる。「うん」浩太は、百円玉をいれながら、ズボンのポケットをごそごそしている。取り出した紙切れを、じっと見ている。「おじさん、フリーメールやりたいんだけど」喜一にたすけをもとめる。「いいよ。キミの名前、えーと、ニックネームを決めなくちゃいけない。それとね……」喜一が説明をしていると、風祭さんが、いつものように、音もなくすーっと、入ってきた。「ほら、これで、メールを受けたり、出したりすることができるよ」「あと、ボクひとりでできる」浩太はあの紙切れを握りしめたままだ。「おや。風祭さん、きてたの」「さっききたところです」隅っこのいすに腰掛けた風祭さんは、興味深そうに、浩太の様子を見ていた。浩太は、1本指でたどたどしく、キーボードに打ち込んでいく。最後にあの紙切れを開いて、文字をたどるように丁寧に打ち込んだ。喜一が、風祭さんにコーヒーを出している。浩太が、真剣な面持ちで喜一を見た。「おじさん、メールって、どのくらいで着くの?」「ちょっとこっちにおいで」喜一が手招きする。浩太に、オレンジジュースをすすめながら、「メールはすぐに届くと思うよ。ただ、受け取ったひとが、すぐ気がつくかどうか、だけど」と、喜一が考え考え答えた。「ふーん、そう。おじさん、明日もきていい?」黙って見ていた風祭さんが、ピクリとなった。何か思い当たる、というような表情をした。「もちろん。いつでもいいよ。それに、もうお金をもってこなくていいよ。ボクのノートパソコンをかしてあげるから」喜一がそう言うと、「ありがとう」浩太が、えくぼを浮かべている。風祭さんが、コホンと軽く咳払いして付け加えるように言った。「あのー、ボクのも、いつでも使えますから。ここに置いてありますから。メールは地球の裏側だって、すぐ届くんです。夕方、見にきたらどうでしょう」浩太は、にっこりうなずいた。「ありがとう、風祭さん。だけど、今日は塾があるから」ボクヲシッテルノ、と風祭さんは、自分を指差しながら、顔をほころばせた。「詩人だよね」いたずらっぽく言うと、浩太は駆け出した。「ボクさっき気がついたんですけど、彼は、きっと、お母さんにメールを出したんじゃ、ないでしょうか」「ボクは、ガールフレンドにか、と思ってましたけど。そうか、そうかもしれませんね。オーストラリアにおられるんでしたね」言いながら、喜一は風祭さんの顔をマジマジとながめた。「風祭さんって、ボクより、いろんなことわかるんですね」風祭さんは、お祭りが二つ重なったときの子どものように顔中に笑いを広げていった。 楠田レモン
Dec 21, 2004
コメント(5)

するとなぜか走り出すものがありぼくもまたなぜか追いかけていたのだったやがて――霧が深々とぼくらをつつんでぼくらはもう行方も知れない みなわ ひとし 「こんにちは。どうもでーす」小坊主の元さんが、ネットカフェに顔を見せた。「やあ、久しぶり」と喜一さん。「ボク、車買いました!」元は、表に止めてある車を指差す。「あの赤い車?」「そう、中古ですけど。いいでしょ」「うん、いいですねー」「ちょっと中見てくださいよ」喜一が、車内を覗き込む。「ね、音に凝っちゃったんです」背中越しに、元が得意げに言う。「ダサーイ」またその背後で、声がした。紺色のピーコートに、白い毛糸帽子の桃子だ。「ダサクないよ。コドモにはわからないんだ」元は、すっかり不機嫌になっている。元が、奥の席でネットを始めると、桃子はフン、という感じで、喜一に、持っていたケーキの箱を差し出す。「さっき、レモンさんと会ったの。これ、たのまれちゃった」「ウワ、アップルパイ。お・い・し・そ・う」「よし、コーヒーいれてこよう」やがて、コーヒーのいい香りがしてきても、元は背を向けたまま、ネットを続けている。「キミ、ちょっと休まないか」喜一が声をかけると、しぶしぶといった様子で、やってきた。桃子がちょっと気にしている。本気で怒っちゃったのかしら?元は、坐るなり、パイを手づかみして、口にもっていき、ムシャムシャ。「まいうー」と、おどけた表情をする。プッと桃子がふきだした。やれやれ、喜一が、ほほえんだ。「じゃ、ボク、これで」パイを三つもぺろりと食いらげた元が満足そうに立ち上がった。あわててフォークを置いた桃子が無邪気に叫んだ。「赤い車と、お坊さまってさー、ちょっと変な感じするね!」「ふーん、キミってそういう考え方」元は、今度は大人の余裕をみせてでもドスドスと足音を立てて出て行った。桃子がちょっと口を尖らせている。いつもより、しおらしく帰って行った。ひとりになると、喜一はそっと苦笑した。ほんの少し前まで、自分もこんなふうだったのかな。青春って、いったい、いつまでのことをいうのかなー。表通りに、イルミネーションがきらめいている。 楠田レモン
Dec 20, 2004
コメント(2)

――でしょう? だからよしなさいって、言ったのよ、私。――でもよ、そこがやっぱりあのひとなのよ、言うこときかないんだもの。《路地裏。晩秋。 青い空。 柿の木に 熟れきった実が一つ》 みなわ ひとし 夜の公園を冷たい風がわたる。どこからか甘いかほり。ベンチのそばの柊が小さな白い花を咲かせていた。(こんばんは)ネットカフェのドアを開ける。ストーブのまわりに「あおりんご」のメンバーがそろっている。あおりんごは、パソコン仲間の情報発信の場。毎月第三土曜に、メンバーが三々五々集まってくる。要するに、飲み会ってことね。「ということは、風祭さん、旅に出てないってこと?」やせたソクラテスのような風貌の小野さんがつぶやく。「そうきめつけるのは、よくないよ」と、のっそりグマみたいな梁井さん。「あら、行ったその日の夜に、駅にいたんだから、行かなかったことは事実でしょ」数学の証明問題を解くように、理路整然とした安江さん。喜一さんがカウンター越しに顔をのぞかせる。「運んでくれますか」(こんばんは。これ運べばいいの)「ええ。あともらったウイスキー持ってきます」今夜の喜一さん、こころなしか元気がない。買ってきたお惣菜を並べて、いただきものや持ち寄った酒、サケ、さけ。「では、乾杯!」グーイ。ああ美味しい。私はまずビールにした。「私、これ好きなのよね」赤玉ポートワインをもった安江さん、ほんの少し飲むと、ぽーっと紅色になって、やわらかいヒトになる。(懐かしい。子どものころ、ほんの少し飲ませてもらったわ)後ろでバタンと音がして、ハッと、振り返る。「やあ、どうも、どうも」小坊主の元さんが、日本酒をもってやってきた。「なーんだ、キミでしたか」喜一さんが、気落ちしたような声を出した。「ボク、招かれざる客ってこと?」安江さんと私が、そろってうなずいた。「チェッ」すねた元さんに、喜一さんが「まあ、飲んで」と、グラスを差し出す。バタン、またドアの開く音。桃子ちゃんが立っている。「なーんだ」こんどは梁井さん。「桃子、どうしたの」喜一さんが、とがった声を出す。「ちょっと待ってて」桃子ちゃんが、ドアの外に飛び出した。「ほらほらー」桃子ちゃんの声にうながされて、風祭さんが入ってきた。「お帰りなさい」と、喜一さんがうれしそうに微笑んだ。「キミ、キミ、旅はいったい、どうした……」悪いけど、酔っ払った小野さんの靴をちょんちょんギューっと踏みつけた。風祭さんは、カウンターの上に、泡盛とシーサーの置物、それにちんすこうの袋を黙って並べていた。そして、私たちのほうを見て、「土産、です」とにっこり笑った。「沖縄、どうだったの?」泡盛でべろべろになった梁井さんが聞く。風祭さんは、窓ガラスをジーッと見つめて、少し黙っていた。それから、ゆっくりと、「青い空が、どこまでもどこまでも広がって、そんなところでした」とにっこりした。桃子ちゃんが、隅っこで手招きをする。「公園で、会ったの。ちょうど柊の木のあたり、うろうろしてたよ。無理につれてきたんだけどよかったかなー」(よかった、よかったわよ。ありがとう)「じゃ、お父さん迎えにきてるから」桃子ちゃんが、可愛く手を振った。風祭さんの泡盛は、みなを桃源郷に誘ってくれた。風祭さんの笑顔は、みなを安らぎでつつんでくれた。しんしんと夜が更けていく。 楠田レモン
Dec 19, 2004
コメント(2)

水面(みなも)をみつめる男の肩にかもめがふうわり降り立った――それぞれの秋オオ、ボンジュール みなわ ひとし クリスマスが近づくにつれて、冬の寒さがもどってきた。風祭さんが、旅に出てから1週間がすぎようとしていた。「ひえー、さぶーい。」すぐ近くにある城山高校の制服を着た女の子が2人、ネットカフェに入ってきた。「おじさーん、ここ暖房きいてないよ」勝手に、いちばん大きいテーブルのまわりを陣取っている。自動販売機をがちゃがちゃいわせ、それぞれ好みのジュースを取り出している。なにが面白いんだか、キャッキャと騒がしい。「ちょっと静かにしてくれないか」喜一は、頼まれたホームページの仕上げをしようとしていた。「おじさーん、今日カリカリしてんだね」くるくるとよく動く目が印象的な子がいたずらっぽく言う。喜一は、マウスをぽんと放り出し、仕方がないな、というふうに、立ち上がった。「桃子、静かにしてくれよ」「わ、やだー。桃子だって」桃子の隣の、ふっくりした子が喜一を見る。2人はまた、意味もなくキャッキャ笑い出した。面倒くさいな、この子らは。喜一は相手にしないことにした。仕事は後にしよう。メール見てみようか。「元気にしています」と一言だけ書かれたいつものメール。「フーン、残波岬に行ったのか」喜一が風祭の写真を見ていると、耳のうしろがくすぐったい。桃子が一緒に見ている。「黙って、見るな」「喜一ちゃーん、沖縄でしょ、ここ。私、行ったモン」桃子は、喜一の、年の離れた姉の娘で、家も隣同士だ。「なになに、元気にしています、だって。これ、誰から?」「風祭さん、だよ」「あの、ひげもじゃの?」「そう。1週間前に旅に出たんだよ」「ふーん。今日会ったよ。学校にいくとき」「あれ、帰ってきたのかな」「それに、あれー。1週間前って、日曜日のこと?」「そう、だったかな」「駅で見たよ、私」「何時ごろ?」「バスケの試合の帰りだったから、10時ごろ。私たちと同じ電車だったみたい。荷物いっぱい持ってて。すぐ声かけようと思ったんだけど、なんだかぼーっとしてるみたいで、声かけそびれちゃった」うるさい2人が帰っても、喜一は、動こうとしなかった。ぼーっとして、表通りに面したガラス窓をじーっと見つめていた。(風祭さん、どうしたんだろう)ガラス窓に、夜の帳が降りようとしていた。 楠田レモン
Dec 18, 2004
コメント(2)

―― lovely なまちはやっぱりまっ白じゃないよけっこう、こう少しくすんだような晴れがましさが似合わないような――でも、それ、どこかにあるの?――うーん、さがそさがそふたりで。 みなわ ひとし 12月というのに、このところ暖かい日が続いている。商店街の入り口に置かれたツリーが、今年はホワイトに変わった。(おしゃれな感じだけど、やっぱり、緑のほうがいいみたい)にぎやかなクリスマスソングに誘われて、商店街をぶらぶらしていると、「おーい」と後ろから声がする。「小坊主」の元さんだ。自転車に乗っている。「こんにちは。今日はお仕事なのね」と袈裟を見ると、「いま、終わったとこ。お茶しようか」(これから、古本屋さんに行くところなの。じゃあね。)軽く流して、春陽堂に入っていくと、ついてくる。「紅屋の猫、帰ってきましたよ」(見つかったの!)「それを、伝えようと思ったのに」(どこで、見つかったの?)「話せば長いことになる、よ」(そうか。じゃ喜一さんところで……)と、言いかけたところへ、後ろから春陽堂の奥さん。「ウチの孫が! ウチの孫が、見つけてきたんですから」「浩太が学校で、お友達に話したら、同級生の子が写真をのせたんだそうですよ、猫のね、インタラなんとかに」「インターネット、にだよ」(まあ、で、どこにいたのかしら)「隣町のヒトらしいですよ、つれってったのは」「ボクは、あの猫がどこまでもどこまでもついてくるから、仕方なしに、って聞いてますけど」「そうだったかしらね。ともかく、うちの浩太とオサムさんが、迎えにいって……」「めでたしめでたし、となったわけ」(よかったね。よかったわ)「じゃ、茶しようか」(ごめんね。もう帰らないと。じゃ、またね)遠回りして、紅屋の前を通ると、居た居た。オサムくんが、表に出したいすにどっかり坐っている。その隣には陶器製のイヌ。そして猫は、オサムくんの腕にすっぽりくるまれていた。ぽかぽかと暖かい日のことだった。 楠田レモン
Dec 17, 2004
コメント(3)

こんにちは――やあ、こんにちはこんにちは――あら、こんにちはこんにちは――おや、こんにちは 《夢の中でも おやおや、なんと またこんにちは》 みなわ ひとし 喜一さんの店は、表通りに面している。表通りから商店街に通り抜けるべんりな近道となっている。ドヤドヤ、と買物袋を提げた一団が、足早に通っていく。(ここ、通路なの?)「らしい、です」(黙って堂々と通過していくのね)「フフ、そうでしょ」(ズーッと、そうなの?)「以前、ここって書店だったから、そのときから、らしいですよ」(そうなんだ)店に客がだれもいないので、そんな他愛ないことを話していると、「こんにちはー」やけに元気のいい声がする。どなた、という顔つきの喜一さん。「万福寺でーす」「やー、キミでしたか」「見違えちゃったでしょ」ジーンズに、フィッシャーマンズのセーターの若者が立っている。「やあ、昨日は、ありがと」喜一さんが私に、「留守番してもらったんです。風祭さんが旅に出たんで」(旅に出たんだー)「ええ、急に思い立ったみたいで」喜一さん、言いながら私と彼に目を泳がせる。「えーと、こちらはレモンさん。ボクの古い友達の奥さん」(だったヒトですけれど)おや順番が逆だったかな、と首をかしげながら続ける。「こっちが、万福寺の元さん。大学を卒業したばかりなんだよね」「ま、修行中の小坊主ってとこさ」(悪ぶってる)思わずクスリと笑ってしまう。元さんが、ちょっと赤らんだ。(はじめまして)「いやー、どうもどうも」初めてこちらを見て笑ってくれた。「で、ボク、寺を飛び出しちゃったんです」(じゃ、いま、家出中?)「のつもりだけど。オヤジと万福寺、同じ宗派だし。わかってると思う」(そろそろ)と、上着を寄せたら、ネットを見ていた喜一さんがあれ、と声を発した。「風祭さん、沖縄にいる!」メールがはいっていたのだ。お手製のピンホールカメラで撮ったらしい写真。沖縄のどこかの海。「元気です」と、たった一言書いてある。「北の海じゃ、なかったの?」と元。「気が変わったんでしょう」と、のんびり喜一さん。「だから、言ってんじゃん。今日は、帰る!」「何でだよー」高校生のカップルが、大声で通り抜けていく。まるで風の通り道のようにヒトが通りすぎていく。 楠田レモン
Dec 16, 2004
コメント(1)

――ヨシロウさんは風に乗って行ってしまったんですって。――それは、きっとそうですよあのひとは、いつもうつむいていましたからね――でも、だれもとめなかったんですって――それは、とってもいいことでしたね みなわ ひとし 師走の夕暮れは、なんとなくあわただしい。それに近ごろ、急に寒くなってきた。「こんばんわ」ネットカフェに、急ぎ足のしのぶが入ってきた。この裏のスナック「ひまつぶし」のママだ。カウンター越しに、見慣れぬ顔がのぞく。「あら」、喜一さんは?と聞こうとする間もなく、「喜一さんならいませんよ。ボク、留守番。何もわかりません」と、ふてくされたような返事。よく見れば、黒い袈裟姿。きりりとした眉が初々しい。「あなた、お坊さま?」なんでまた、としのぶ。「通りかかっただけなんですけどね、頼まれちゃって。ちょうど暇だったし、ね」なんて、訳のわからないことを言う。「いつごろ帰るの、かしら?」「知りませんよ、ボクだって」言いながら、ストーブにのったやかんをひょいと持ち上げて、急須に注ぐ。まあ、こっちへというように、ストーブのそばの椅子をしのぶのほうに引き寄せる。「困ったわ」、しのぶが腰をおろすと、見計らったように、茶を差し出した。「困ったって、なんです?」真面目な表情になった。「母がね、転んで腰を強く打ったらしいの。田舎で、ひとりなものだから。それで、店のカギを、頼もうって、ね。何があるかわからないもの。困ったわ」「ボク、預かっときます」でも、としのぶが言いかけると、「ボク、横田元。万福寺で修行中。心配なし」にっこり笑う顔があどけない。そうしようか、と思ったところに、喜一が帰ってきた。「いいですよ。ボク時々見に行きますから」喜一にそういわれると、ほっとする。「ボク、今、風祭さんを見送ってきたところなんです」「え、あのヒト?」「ええ、写真を撮るんだそうですよ。ピンホールカメラって言ったかな、それを自分で作ってね。北の海を撮りたいらしいですよ」「じゃ、すっかり元気になったのね」「うん、きっと良い詩が書けると思いますよ」喜一が目を細めた。しのぶが、来た時と同じように、小走りに出て行った。「元くん、今日はありがとう」喜一が、帰りかける元に声をかける。「いやいや、なんも。けど、さっきのヒト、年増だけど、いい女だったねー」「そのセリフはね、20年早いよ。ボクだってまだ言えないでいるんだから」喜一の目が笑っていた。
Dec 15, 2004
コメント(2)

――おーい、といえば、こだまがこたえる――おい、というと振り向くのは敵意、か《たった一本の棒が ひとにやさしさを わたす》 みなわ ひとし 紅屋の猫は、まだ帰ってこない。オサムくんは、机の前に坐ってペンをもったまま、ぼんやりしている。ネットカフェの喜一さんが、商店街の天井の猫の溜まり場に見に行ったけど、やはりいなかった、そうだ。喜一さんのところで、FAXを借りていたら、ひげもじゃの男のヒトが入ってきた。「いらっしゃい」カウンター越しに喜一さん。ひげもじゃのヒトは、目顔で挨拶すると、ノートパソコン片手に黙って誰もいない2階に上がっていった。(2階あったんですか?)「ううん、何もない。物置にしてるの」と喜一さん。(でも、今……)と、上を見上げながら問うと、「いいの、いいの。彼、ボク以外にヒトがいると、ああやって、2階にいるの」(そう。じゃ、早く帰ったほうが、いいかしら、わたし)「いいの、いいの。気にしないで。彼は、好きにしているから」喜一さんは、カウンターの向こうの棚にハタキをかけている。少しして、ひげもじゃの彼が、下りてきた。そうして、まるで風のように、すーっとドアをぬけて去って行った。(あのヒト、帰っちゃったの、かしら)「また、来ると思いますよ」喜一さんは、気にするふうもなく、棚を丁寧にふきはじめた。ネットカフェを出て、商店街の真ん中あたりにある「春陽堂」という古本屋で足をとめた。さっきのひげもじゃのヒトが平積みの本を手にとっている。こちらをみたので、思わず会釈してしまう。思いのほか、色白のそのヒトは、やさしい茶色の目でまばたきを数度、くるりと後ろ向きになる。(私、感じ悪かったのかしらね)次にネットカフェにいったとき喜一さんに聞いてみた。「違う、違う。彼ね、まだ地上にもどってきてないんだよ」(地上?)「そう。彼いつも春先に鬱が出てね、調子のいい年は夏から、ここにもよく出入りするんだけど。今年は、ちょっとひどくて、つい最近なんだ、来るようになったの」(そう。それで、あんなだったの)「あと1週間もすれば、にこにこして誰とでも挨拶できる。彼、詩を書いてるんだ。なかなか、いいんだ、それが」(まあ、詩人なの)「よかったら読んでやって。あそこの棚にあるから」様々なパンフレットにはさまれるように手のひらサイズの冊子が置いてある。(クオバデイスっていう、これかしら)「そう、それ。よかったら持ってって」(うれしい。読んでみるわ。あら、風祭 剛って名前なのね)「あー、ペンネームね、毎年変えてるの、それも」詩集は読んだが、正直うまいのかへたなのかわからなかった。私には、猫に小判、かもしれないけれど。ネットカフェの忘年会に風祭剛さんも来ていた。優しいまなざしで、にこにこしながら、みんなの話にあいづちをうつ。喜一さんの言ったとおりのヒトだ、こころひそかに、私はうなずいた。
Dec 14, 2004
コメント(4)

――おや、雨だ。また予報がはずれた。――心に雨の……かしら?――え、それ、なんです?――いえ、なんでもないわ。むかしおぼえたわたしの玉手箱。――雨が降る。まるで、希望のように。――あら、はじめてね、それ。――いたずらにこころが言ったのです。 みなわ ひとし 「この辺に喫茶店ありませんか」傘のしずくをはらうようにしながら見慣れぬ若い女性が言った。喜一は、ネットカフェのシャッターを下ろそうとしていた。「喫茶店はもうやってないと思いますよ。ですが、この商店街の裏に、ひまつぶしっていうスナックがあります。そこだったら、コーヒーとか飲めますけど」「ひまつぶし? 裏ですね。どうもありがとう」「この裏はね、恋文横丁っていう飲み屋街なんですよ。ひまつぶしは、この真裏だから、すぐわかります」その女性は、感じのいい笑顔を残して、また傘をさした。喜一の言うとおり、ひまつぶしは、すぐに見つかった。「コーヒー、それにサンドイッチ、お願いします」菜見子は、カウンターに腰をおろした。「まあ、雨にぬれたんですね。タオルお持ちしましょう」ママのしのぶが手早くタオルをもってやってきた。「取材で初めてきたんですけど。雨降るなんて言ってなかったし」「取材?」「ええ、私、隣町のタウン誌の取材やってるんです。粟津ホテル、リニューアルしましたね、その取材に」「ああ、あそこの」「ママー、久しぶり」背広姿の中年の男が二人、入ってきた。「いらっしゃい。今度はどのくらいいらっしゃるの?」ママが、二人の前に、おしぼりとグラスを置く。「それがさ、長期になりそうなのよ、合併のこともあるしさ。またよろしく頼むよ」菜見子は最後のコーヒーを、ゆっくりと飲み干した。「ごちそうさま。おいくらですか」ママに声をかけると、コートを手に取った。隣にすわっていた、さきほどの客の年上のほうが、「お嬢さん、一杯飲んでいかれませんか。ここであったのも、何かのご縁かもしれません」「ありがとうございます。でも電車の時間がありますから」「どこです、帰るのは」ともう一人が言う。「隣町、です」「なら、送ってきますよ、二人で。心配しないで。飲みましょう」困ったように菜見子が、ママを見た。「もしよかったら、飲んでいかれたら。この町にせっかくきてくださったんだから、記念に、ね」そうして男たちを軽くにらむようにしながら、「このお二人なら、大丈夫。保護者だと思ったらいいわ、ネッ。この雨じゃ、ほかにお客様もきそうでないし、私も飲んじゃおう」「秋に田舎に帰ったら、サクラが咲いてたの!」「おいおい、ほんとかい」真っ赤な顔の年上の男が言った。「ほんとよおー」と、マドラーをくるんとまわしながら、ママが続ける。「山桜。あんまり暖かいとね、ボケるんですって。だから咲いたのよ。びっくりしたけど、きれいだったなー」「へー、ボケるの。初めて聞いたなあ」年下の男が、新しいボトルを開けながら言った。「じゃ、来年の春は咲くのかしら」ほんのりサクラ色の菜見子が聞いた。「咲かないって。やっぱり体力が落ちるんだって」「オレたちみたいじゃないの」と年上が笑う。「そろそろお開きとしますか。お嬢さん、送っていくよ」菜見子を真ん中にして、男たちはタクシーに乗り込んだ。「今日は本当にありがとうございました。楽しかった、です」菜見子がこころからそう言うと、「こっちこそ、ありがとうだよ、な」と年上が、もう一人を見た。「うん。ほんとは、キミのこと、今風のさ、なんというか、軽いさ、そんな子かと思ったのよ、オレたちさ」「だってスナックに若い子が、一人で、だったから」もう一人がうなずき返す。「でも、こんないい娘が、いまどきいるとはね、うれしかったね」そんなこと、思われてたんだ、菜見子は内心驚いていた。「よーし、約束だ。来週、クリスマスイブにさ、またあそこで会おう」年上が菜見子を優しい目で見つめた。「仕事がどうなるか……」ためらう菜見子に、もうひとりが言った。「彼と過ごす?」「いえ、そんなんじゃなくて」「だったら、楽しく過ごそう。オレたち、同じ時間にあの店で待ってる」菜見子は、アパートの前で、ふたりの男たちが乗ったタクシーに丁寧に頭をさげた。クリスマスイブの夜、菜見子は、近くの叔母に会いに行った。「あのお見合いの話ね、いってみようと思うの」「まあ、よかった。いい人なんだから」「私、へんなんだけどね、なんだか適齢期になったのかな、って思ったの」菜見子は、翌春、30歳の誕生日を前に嫁いだ。
Dec 13, 2004
コメント(2)

波にゆれている心がふときりきりと立ちあがってそしてまた波にゆれている みなわ ひとし 小春日和の海辺に、友といる。波打ちぎわの石に腰かけて、ゆっくりゆっくり打ち寄せてくる波を見つめている。友の横顔にうっすらと疲労のいろ。「このところさー、見合いしたんだ、それも2回も、だよ」(うわ、すごい)知らなかった、ショック。でも、見合いって意外な感じ。「でしょ。それも知らないうちに、なの」(なに、それ?)「聞いてよ。警察の事務系だったの、ひとりは」(へー、2時間ドラマの世界だ!)「それがさー、ふたりになったとき、なんて言ったと思う?」(いきなり、愛してます、とか?)「フフ、違う。僕は女性のバッグの中身に興味がありますって、そういったの」(バッグ?)「そう。仕事でバッグの中を見ることがあるっていうのよ。ごちゃごちゃいれててあんまりきちんとしているのって見たことないんだって」(へー、そうか、あたってるかもしれない)「イヤな感じしたんだ、その瞬間。どうでもいいじゃない、そんなこと。アイ、ってそんなもの?」(いきなり見合いで、アイと言われても)「それにさー、私、その時、マズイモノいれてたの、バッグの中に」(マズイ、って?)「バナナ」(なんでバナナ、なの?)「寝坊して、あわてて家出たから、電車ン中ででも、食べようと思ったのよ」(フフ…、ハハハ、やだ、おかしい)「だから、断った。もうひとつは、断られた。元気すぎるって言うのよ」(フワッハハ、ハハ、笑えるね)「もう見合いはしない、決めたんだ」(アイは、いつか舞い降りてくる、って。なかなか降りてはこないけれど、ね)「あのさー、オヤジ、もうダメなんだって」(退院してから、元気そうだったじゃない)「こんどは、もう……」そう言うと、友はまっすぐ海を見つめて小刻みにゆれた。
Dec 12, 2004
コメント(2)

――ただ、ストンと落ちるんだって――どこへ?――さあそんなの、わかるわけないってば。 みなわ ひとしまた、あの夢を見た夢をおぼえていることなどめったにないが子どものころからあるひとつの夢だけは目がさめても記憶しているいつも少しずつ場所はちがうがブラックホールのようなところにいる スーっ、スーっと、落ちていく奇妙な浮遊感一瞬からだをゆだねてしまいたいそんな気持ちになるしばらくするとリアルな痛みを感じてきて後戻りしたくなるもがくすがるよじるもう、どうしようもないかな、と思った瞬間目がさめるこむら返りを起こしたのだ「あ、まただ。疲れているのかな」痛みをもみほぐすようにしながら、また目を閉じる今は少なくなったけれど子どものころはよくこの夢を見ていた大人になるまでこのことを だれかになぜと、問うたこともなかった日常ごとのように受け入れていた大学の女子寮に入ってから夜更かしのつれづれにいく人かに話したすると、驚いたことに「うちも見た」「私だって」みながみな、そう答えたのだみなわさんに言わせると「あ、それは、フロイトによりますとねよくあることらしいですよ」「ボクは、変わった夢をいろいろ見ますけど」なーんだ、そうかだれでも経験していることなんだヘー、そうなんだちょっと安心したようなちょっと肩すかしをくらったようなそんな心持になった夢まで平凡なのか、と思うとちょっとくやしいけれど 楠田レモン
Dec 11, 2004
コメント(4)

――それはネ、いつもネ、こう、なんていうか、せつめいがむずかしくてネ、あれなのよ、わかる? みなわ ひとし紅屋の猫は、まだもどってきていないらしい。同じ商店街でネットカフェを運営している喜一さんにその話をすると、「アー、それはね、あれですよ」と、天井を見上げた。「うちの猫も、この春いなくなったんですよ」(あら、そうだったの)「この商店街の周りをさがしたけどいなかったんです」とまた、天井を見上げた。「ここは、あれですよ、 だって古いでしょ」(あれって何?)とギモンがわいてきたが、アイマイにうなずいておいた。「この上に、猫のあれがあるんですよ」(あれ? アレって?)「ここ、アーケードでしょ。ずーっと通じているんですよ」(だから、ナ・ニ・が!)「天井に猫の通り道があるんですよ」(なるほど、そういうこと)「僕が、天井に上がってね、こう、目をじーっとこらしていたらね、猫が何匹か集まっているんですよ。もっとよく見たら、やっぱり、うちの猫もいたんです。すぐにつれかえりましたけど」「なら、紅屋の猫もそこにいるかしら、ね」「いや、それは、あれですよ。わかりませんけど、ね」紅屋の猫が天井の仲間たちのところへ自分の意思で走ったとすると、もう、戻らないかもしれないな、なんだかそんな気がした。それにしても、リアルな会話というのは、「あれ」だの「それ」だの、アイマイなことばの比重が大きいなあ。文章にすれば、1行で終わる内容が、上記のような数分の会話となるのだから。それがまた身振り手振りに補われてビビッドな楽しみとなるのかもしれないね。 楠田レモン
Dec 10, 2004
コメント(1)

ひと言だけ少女は輝きながら言う――少年はいつもたじろぐ沈黙の石であった みなわ ひとし 紅屋は町の商店街にあった。こぎれいな小さな化粧品屋。久しぶりに紅屋の前をとおると、店の前に大きな等身大のリアルな陶器製のイヌが置かれている。奥をのぞくと、後ろ向きで机の前に背中丸めて座っているヒトが見える。机の上にちょこんと座ってこちらを向いている猫の置物。「可愛い」白くて、むくむくで、シッポが白とうす茶のストライプ。まじまじと眺めているとその青いガラスのような目が動いた。本物だ、生きてる。その猫が、机の前のヒトを前足でちょんちょんといたずらした。背中を丸めていたヒトはこらっというふうに手をふりあげた。そのときチラリと横顔が見えた。あのアゴ、オサムくんだ。大人になったオサムくんだ。オサムくんは、いたずらしちゃだめだよそう言い聞かせるように頭を撫でてやりながら、猫に何か話しかけている。またある日、イヌの置物の横にあの猫と大人になったオサムくんが立っていた。一人と一匹と1個は、仲良くぼーっと同じ方向を見つめていた。オサムくんは紅屋のひとり息子。立派な後継ぎになっていたのだ。中学のころ、英語塾に通っていた。おじいさん先生のいるその塾は、古いきしんだ畳のうえにいくつかの長机が並べてあり、木のイスに腰かける、奇妙な和洋折衷の教室みたいだった。そのうえ、1年生から3年生までいっしょに授業を受けていた。1年生の私たちは、ただひたすらリーディングを繰り返す。そのそばで上級生たちは与えられた模擬テストに取り組んでいる。「ふわー」時折妙にまのびしたあくびとも、ためいきともつかない声(または音)を発する少年がいた。それがオサムくんだった。3年生のオサムくんは、他の受験生とちがってどこかのどかな雰囲気がある。他の3年生がテストとにらっめこしている間も外の景色をながめたり、1年生といっしょにリーディングしたりほんわりのんびりマイペースだ。おじいさん先生が、ぎろりとした大きな目で「オサムくん、静かに」というと、「はい」と素直に元気よくこたえる。またしばらくすると、元の木阿弥。他の生徒の邪魔になるというほどではないが、ひとりで静かに、ざわざわ何かをしている。あごがきゅっとしゃくれていて、下がり目で 笑うとなんともいえない愛嬌があった。またまた久しぶりに紅屋の前をとおった。店は休みのようだった。閉まったシャッターに張り紙があった。「ネコがいなくなりました。 見かけた人は知らせてください」と書かれていた。あの猫いなくなったんだ、そう思いながら通りを歩いていくと、同じ張り紙がいくつもいくつも張られてあった。文字は小学生みたいだったが、丁寧にていねいに書いてあった。大人になったオサムくんのあの至福のひとときが失われそうになっている。あの猫が戻ってきますように。あの猫が戻ってこれますように。そう心から念じていた。祈るように、その前を通りすぎた。
Dec 9, 2004
コメント(1)

――ちょっと旅に――それは、よござんすね。――で、あなたは、どちらへ?――岬です。――ああ、写真ですか。かもしれませんね。でも相手は風なんです。――ほう。風を撮る写真家、ですか。――ま、こころにこそっと写すだけですが。 みなわ ひとし 何年か前、女3人で英国を旅したことがある。7泊8日の自由旅行、出発の半年前から、英会話の個人レッスンを3人で受けた。にわか仕立てとはいえ、学生のころにこんな熱心だったらな、と思うくらい、予習復習(懐かしいな、このことば)を欠かさず、通い続けた。目的地は、ミナック・シアター。英国最西端のランズ・エンドの岬の近くに位置する。一時テレビCMでも放映されていたことがある場所だ。ミナック・シアターは、Rowena Cadeという女性が、1931年から亡くなる1983年まで、こつこつと積み上げた「石の劇場」として知られている。この旅行の計画を2人に話すと、「行こう」「いきましょう」と、目を輝かせてのってきた。お互い自由気ままな身の上とはいえなかったけれど、すべてのしがらみをほっぽりだし、いざ、旅へと一直進。7月初旬の旅立ちだった。げに恐ろしきは、ウーマンパワーってとこかしら。ところが、ロンドンに着いての第一夜、明日の予定をめぐって、はやくも意見対立。各自別々の憤懣を抱いて眠るはめに。翌朝、意見の調整ができぬまま、パデイントン駅(主要鉄道の乗り換え場所)で、右と左に分かれて出立する運命に。2人の友は、憤然とコッツウオルズに旅立った。そう、こちらは、ひとり悄然と、ランズ・エンドへと向かうことになったのだ。(私は、ミナック・シアターに行きたいんだから。平気よ)と強がってみたものの、列車に乗り込んだ途端、意思に反して涙がにじむ。(どうしよう)(どうしよう)、後悔と不安と興奮とがないまぜになって、涙がとまらない。さながら、『それから』(夏目漱石)の代助の、ラストシーンのような心持になった。(ちょっと大げさかな)泣くだけ泣いたら、気が済んだのか、宿泊予定地のペンザンスという港町につくころには、気分はすっかり日本晴れ。なんとかなるさ、ゆっくり行けばいいんだからと、お気楽レモンに戻っていた。長くなるので、今回は旅の中身は書かないでいるね。けれど、予定外のこのひとり旅が、その後の生き方を方向づける、最初の道しるべとなったことは間違いない。今、これを綴りながら、そのことをまぶしく思い出している。 楠田 レモン
Dec 8, 2004
コメント(4)

――すべてのものは虚無からうまれる。そして――すべて ものはまた虚無へかえる(――悟り人のごとくはいえない 今の今なれば) みなわ ひとし 駅前に、その喫茶店はあった。外看板も傾きかけて、「2階へ」と書かれた紙が、無造作にペタンと貼ってある。上がってみると、たしかに灯りがついている。ドアを開けると、ヒトの気配がない。どうしよう。ためらっていると、ジャー、ザーと音がして、奥のドアが開いた。「ウ、いらっしゃーい」やせぎすのそのヒトは、消え入るようにつぶやいた(ように聞こえた)。「コーヒー、お願いします」言いながら窓辺に坐る。ジャズが静かにながれている。見ると、素通しのガラス窓はうすぐもりテーブルの片隅にもほこりが積もっている。私はこういう喫茶店、落ち着けて好き。やがて、コーヒーが運ばれてきた「ウ、ごゆっくり」静かにカップをおきながらそのヒトは小さくうなずく。ひと口、ふた口コーヒーの苦味が口中に広がってそのくせ、のど元をすぎるとさーっと消える、後味のよさ美味しい!「このコーヒー、美味しいです」うれしくなって声をかける。「ウ、イヤー」またも、寡黙な返事。細身に、洗いざらしの白いワイシャツとジーンズがよく似合っている。下向き加減で、ちょっとニヒルで喫茶店の雰囲気にぴったり合っている。しばらくして、男たちが5、6人入ってきた。ドヤドヤとカウンター席を陣取る。「なー、新聞見たか」「○×、辞めるんだぞ」「わからん、わからん」急に雰囲気が一変した。野球の話でいっきに盛り上がっている。「ウ、ヒヒ、ベンチが、ベンチがアホやからなー」ひときわ甲高い声で叫んだのは、ほかならぬ、ニヒリストであったはずのそのヒトだった。参りました!
Dec 7, 2004
コメント(1)

――坂をのぼるときいつもワクワクする――キミだけさ、それは。坂は、いつも、つらい《さてもなお、風はやすやす 坂をこえる》 みなわ ひとし高島礼子が自転車で坂をのぼっていく。少し前のテレビCMだ。やや演歌調で、「今の人生峠越え……」と歌うあのCMのこと。つい最近まで、その歌詞を「今の人生遠見越え」と思い込んでいた。「遠見越え」ということばは、遠い将来を見越してこの坂をがんばってのぼっていこうという意味なんだわと勝手に解釈して、これをつくったヒトはなかなかじゃないの、なんて妙に感心したりもしていた。「ねえ、遠見越えって、あのCM見てる?」「なによ、それ」「知らないの、高島礼子がやってるCMよ」「もしかして、それ……」と友が鋭くこっちを見る。「今の人生峠越えって、あれのこと!」「そう、それ。エーッ、峠なの、遠見じゃないの」その途端、自分の勝手な思い込みは棚にあげてこのCMが平凡なものに思えてきた。そういえば、向田邦子のエッセイ(「夜中の薔薇」)のなかにも、歌詞の聞き間違えのはなしが出てきたっけ。こちらは単なる粗忽ばなしにとどまらず味わい深く書かれているけれど。それにしても、高島礼子の自転車に乗った姿は、生活感と活気に充ちていてよかったな。さっそうと自転車に乗って坂道を走ることができたらどんなにうれしいことか。「そんなの簡単じゃない」なんて言わないで。だって私は自転車に乗れないんです! 楠田レモン
Dec 6, 2004
コメント(1)

闇がおんなとおとこをつつむひとつごころにひらり――時は刻まる みなわ ひとし幼いころ、わたしは眠れない子どもだった。夜8時になると、床につかされるのだが目を閉じて羊が1匹、2匹、3匹……101匹と数えてもいつまでもくらい闇のなかでもぞもぞしているこの闇にとけこめるにはどうすればいいのだろう困ったな、だって眠くないんだものたーんと眠らないと大きくなれないよばあちゃんはいつもそう言ってちょっとだけ怖い顔をする父さんや母さん、それにばあちゃんは茶の間で テレビを見ながらひそひそ話なにか秘密のいいことがあるのかしらん大人はいいなあ早く大人になりたいなあそうしていつのまにか眠りに誘われていく学校へ通うため上京したとき、だれにも夜更かしをせめられないことがうれしくて仕方なかった。それ以後、眠れぬ夜の闇に悩まされることは少なくなったけれど、あのころ思ったほど、大人って楽ではないよねと、しみじみ感じている昨今だ。 楠田レモン
Dec 5, 2004
コメント(3)
少年は少女に言った.――夢につづきがあると、いつでも眠れる――ユメ?大人びた少女の貌(かお)に冷ややかに走ったものがある。 みなわ ひとし飲み会の帰りだとかいって、ほろ酔いかげんの友がきた。「ねえ、本当のこといって、冬ソナのどこが良いの?」まったくあきれるわ、といった表情で聞かれる。「どこ行っても挨拶がわりになってる。どこがいいんだろう。もううんざり」(あの冬景色がよかったわ。 それに出てくるヒトたちがみんな清潔な感じがした)「これでもかこれでもか、って(ドラマの)展開がいいっていうの。それに、ペだかポだか知らないけれど、あの俳優、ちっとも魅力ないよ!」いつも冷静な彼女なのに、今日は珍しくほとばしる感じ。何かあったにちがいない。だからって冬ソナにあたることないじゃん。こういうときは、くどくど言ってもしようがない。ビシッと決めよう。(わたしは、スキ!)「レモンは単純やから」(あっ、そう)「もうちょっと飲みたーい。ビール」(よし、飲んじゃおう)こういうときは飲むにかぎる。ことばはいらない。とはいうものの、このところの冬ソナ社会現象には、どうにもとまらないというか、ムムッムっという感じ。いやはや。 楠田レモン
Dec 4, 2004
コメント(3)

――その先は迷路だよと、おとこがいった。その女(ひと)は、黙然とただその角を曲がっていった。 みなわ ひとし「ゆめ」の話をするひとがいる。「昨日もまた空を飛ぶゆめをみたんだ。それがさ、ボクのは低空飛行なんだよね。あぶなくってしようがない。うっかりしたら、電柱だの家の屋根だのに引っかかりそうになるんだよ。たえずこう体をよじりながら、よけるんだ。オチオチ寝てられないんだよ」エッ、それって寝てるってことじゃないの? そう心の中でつぶやいていたら、そのひとはすばやく察知したかのように、はずみがついてしゃべりだす。「いや、そうなんだよ。寝てるんだ。けど、寝てない」何よ、それ。わからないよ。だまって首をかしげると、「そう、変だろ? つまりさ、ゆめのなかで、起きてるのよ。だから、睡眠不足なんだよ、困るよな」そのひとは、仕事中にこっくりこっくり居眠りをすることがあった。その言い訳もかねているのかしらん、そう思うと、おかしくておかしくて、笑いがとまらず困ってしまった。皆波均(みなわひとし)というひともまた、「飛ぶゆめ」をよくみるそうだ。彼の場合は、雲のうえのような、高いところを飛ぶらしい。「いろんなゆめをみますけれどね」とちょっと自慢げであった。ふーん。めったにゆめなるものを覚えていない私は、彼らの話を聞くたび、ちょっとうらやましいなという気がしていた。ところが先日、さる玩具メーカーが、みたいゆめをみることのできる「まくら」を発売したと、テレビで報じていた。なになに、思いどおりのゆめがみられる、すごいじゃないの。さて私ならどうするかしら。今なら、「ヨンさま」のゆめを望むひとが多いだろうな。あれやこれや、「ゆめ」みたいなことを考えたけれど、ハタと気づいたの。のぞむ「ゆめ」をみることよりも、〈夢〉の実現に向けて進むことのほうが先じゃない、ってね。これって、「花より団子」思想に近いのだろうか、とあらたなギモンがわいてきて、困ってしまう今日このごろです。はじめまして。どうぞよろしくお願いします。 レモン
Dec 3, 2004
コメント(0)
全41件 (41件中 1-41件目)
1