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門司港・博多から長崎までを結んだ「L特急かもめ」です。これらの写真は25年前に博多駅で撮影しました。
Sep 28, 2008
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「寝台急行銀河」、「寝台特急なは・あかつき」が廃止されると言うことで、ハナブウも折角なら所持している写真を掲載してみようと思い、かつてハナブウのブログで掲載した20系時代の寝台急行銀河の再アップと、未掲載写真である「寝台特急あかつき」及び、583系時代の「寝台特急なは」の写真を掲載します。東京寄りに連結されていた展望車です。おそらく、京都駅で撮影したと思います。20系客車特有の美しい弧円形のデザインが美しいですね。こちらは、大阪寄りに連結されていた電源車です。おそらく、東京駅で撮影したのではないでしょうか。銀河を含め紀伊や瀬戸のような深夜遅くまたは早朝早く発着する列車は、撮影するのに大変苦労した思い出があります。おそらく、「あかつき」が単独で運転されていた頃の写真だと思います。長崎駅で撮影しています。こちらは、記憶が曖昧ですが大阪駅で撮影したと思います。「なは」と言えばハナブウにとっては583系という意識があります。最近の客車時代の写真を所持していないのが残念でたまりません。
Mar 15, 2008
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伊豆熱川から横浜まで乗車した「特急あまぎ」の硬券の特急券です。現在、東京駅から何本もの「特急踊り子」という列車が伊豆方面を結んでいますが、特急踊り子の前身はこの「特急あまぎ」という列車でした。「特急あまぎ」は昭和44年に「急行伊豆」の157系格上げ列車として登場しました。昭和51年に老朽化した157系から順次183系へ置き換わりましたが、「急行伊豆」が昭和56年3月に153系から185系へと置き換わり、同時に伊豆方面への列車本数の増加と共に「特急あまぎ」と「急行伊豆」が統合する事で、昭和56年10月から「特急踊り子」が183系と185系で運転される事になりました。当時の「特急踊り子」の評判は特急車輛を使用していた183系はまだ良かったのですが、「急行伊豆」で使用されていた185系は殆ど停車駅や車輛設備が変わらずに、急行料金から特急料金へと値上げされたため評判がとても良くありませんでした。
Mar 1, 2008
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今年初めての更新はハナブウが大好きな583系にしたいということで、「特急みちのく」の写真を掲載したいと思います。「特急みちのく」は上野から青森を常磐線経由で結んでいた1日1往復の昼行特急でした。1972年に急行十和田からの格上げで登場しましたが、1982年の東北新幹線開業により廃止されるまで583系で運転されました。2002年11月に「特急みちのく」のリバイバル運転がされているようですが、これらの写真は1982年に上野駅で撮影しています。
Jan 26, 2008
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2007年12月15日及び16日に「583系のL特急ひばり」が復活するようです。「L特急ひばり」は上野~仙台間を結んでいた特急でしたが、東北新幹線が開業すると同時に廃止されてしまいました。ハナブウも当時の「L特急ひばり」の写真を古いネガから探してみましたが、残念ながら583系の写真を所有していないため485系の写真を掲載します。583系の「ひばり」の写真を持っていないようなので写真を撮りに行こうかな~。
Dec 8, 2007
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平成19年10月20日にNHKの大河ドラマ風林火山で頻繁に出てくる、長尾影虎の居城として有名な春日山城へ行ってきました。そして、「毘」の旗の由来となった毘沙門堂や春日山神社等歴史散策を楽しんできました。春日山城以外にも「頸城」という言葉の方が鉄道ファンには知られていますが、新潟県上越市頸城区百間町にある頸城鉄道展示資料館にも行ってきました。頸城鉄道は1971年4月30日に廃止された軽便鉄道ですが、特にこの軽便鉄道はホジ3という客車改造気動車の独特な形状が有名で、ハナブウも鉄道雑誌に掲載されるホジ3の写真を眺め憧れた鉄道のひとつでした。1960年代及び70年代に多くの軽便鉄道が廃止となりましたが、廃止と同時に車輛もスクラップまたは他の鉄道会社へ売却される事が多く、ホジ3を含め頸城鉄道の車輛も例外無く既に現存していないと思われていました。数年前にインターネット上で、兵庫県の六甲山麓に頸城鉄道の車輛が隠されているという話を知りました。この話を地元の頸城村商工会が聞きつけ「けいてつ協会」が仲介役となり、長きに渡り車輛を保存していた株式会社フルヴィアートの曽我部氏から、地元の「現NPOくびきのお宝のこす会」へ、将来は動態保存をするという条件で保存車輛一式が譲渡されました。そして、以下の写真は頸城鉄道旧百間町駅跡で開催された展示会の写真です。六甲山麓に眠っていた車輛群が初めて公開されたのは平成17年6月19日ですが、ハナブウも今回やっと現地へ向かう事が出来たので、300枚以上撮影した写真のうち容量の都合上25枚ほど掲載しようと思います。百間町駅跡には記念碑があります。百間町駅には左の旧本社と右の旧機関庫が現存しています。既に取り壊されていますが駅舎及びホームは機関庫の手前にありました。旧本社を反対側から撮影しました。1階部分は畳敷きになっていましたが手入れがされておらず荒れ放題でした。沢山のレールや朽ち果てた貨車も譲渡されています。この車輛がかの有名な客車改造気動車のホジ3です。ハナブウも古い鉄道雑誌を見ながら長きに渡り憧れ続けた車輛で、まさか六甲山麓に現存していたとは思いもしませんでした。外装を含め内装も再塗装されていますので現役当時の美しい姿へ再現されています。車内の中央には大きくエンジンルームの出っ張りが有り、昔はちょっとした荷物置き場に使用されていたようです。車内を撮影している時に地元の年輩の方と話をしましたが、「まさかこんな物が残っていたなんて思いもしなかった」と言っていました。鉄道ファンでさえ驚いているのに地元の方にとっては驚きと共に感激深いことでしょう。運転台は車輛の両端に有りますが仕切りが無いため運転士と会話が出来そうです。ホジ3は小さな車輛であるにも関わらず吊り革もあります。お洒落な事に吊り革の上端はハートマークになっています。ホジ3以外にも譲渡された車輛が有り、この車輛は元魚沼鉄道のハ6です。地元の女性の方が「こんなに小さな車輛だとは思わなかった」と言っていました。確かに子供の頃に乗っていれば大きく感じると思いますが、大人になれば小さく感じるのかもしれませんね。このコッペル2号機は頸城鉄道廃止後に整備され、西武山口線で赤く塗られた井笠鉄道の客車を牽引しました。引退後は直江津の市街地にある頸城自動車本社前に展示されていましたが、その後、百間町にある車庫に保存されるようになりました。このDC92機関車も譲渡された車輛です。スタッフの方に聞くと「DC92は整備をすれば動く」と言っていました。機関庫にある展示物には大池駅の駅名票があります。この駅名票も譲渡された物のひとつです。ワ7という銅体製の貨車です。木造ではないため保存状態も良くホジ3、ハ6、DC92が再塗装された今では、オリジナルカラーのまま保存されている車輛のひとつです。譲渡された木造貨車のワ14です。木造貨車でありながら綺麗に原型を保っています。この貨車もオリジナルカラーのまま保存されています。腐食して原型を辛うじて保っているト5です。この貨車も譲渡された車輛のひとつです。頸城鉄道は国鉄黒井駅の隣接地にある新黒井駅から浦川原駅までを結んでいましたが、車社会の発展により路線の両端部分で乗客率低下の影響が有り、新黒井駅から百間町駅及び飯室駅から浦川原駅が先行して廃止となりました。この横断幕は部分廃止時に掲げられた横断幕です。このコッペルの模型は地元の小学生が地域の歴史を学ぶ名目で制作したようです。ここから、終着駅の浦川原駅へ向かう事になりました。百間町駅から浦川原駅へ向かう途中に線路跡の土盛りを見つけ、朽ち果てた枕木も残っている箇所も有り感激しました。終着駅の浦川原駅は今でも駅舎が現存しておりバスのターミナルとなっています。待合室は鉄道時代のままなのでしょうか、切符売り場も少し改装しただけのようです。この写真はホーム側です。線路跡は駐車場スペースとなっており、その上には「ほくほく線」が通っています。鉄道の頃の名残が残っていないかと探したところ、待合室を出たところに改札口と思われる跡がコンクリートにありました。今度は車で始発駅であった新黒井駅へ向かいました。新黒井駅跡は何も形跡が残っておらず薮の中にそれらしき跡地があるだけでした。ただ、よくよく調べてみると新黒井駅跡の石碑が残っていました。
Oct 22, 2007
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たまには最近撮影した鉄道写真を掲載したいと思っているのですが、ブログ用に撮影した未加工写真が1000枚以上も在り、選別、加工作業が滞ってしまっています。古い鉄道写真ばかりで飽きられるかもしれませんが、今回も既に加工作業が終わっている古い鉄道写真を掲載しようと思います。今回掲載する写真は、東京駅~高松駅を結んだ寝台特急瀬戸です。瀬戸は1950年に東京駅~宇野駅を結ぶ四国連絡急行として登場しました。1972年に寝台特急として20系車輛で運転され、1977年からは24形25型で運転されています。1988年に瀬戸大橋開通により運転区間が東京駅~高松駅となりました。1998年からは寝台電車の285系「サンライズ瀬戸」となり、岡山駅までを「サンライズ出雲」と連結して運転されています。
Oct 2, 2007
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ハナブウはお盆の時期を含め実家へ帰省する機会は度々あるのですが、帰省するたびに父親から「倉庫にある鉄道雑誌をなんとかしてくれ」と言われます。数冊なら良いのですが父親に「なんとかしてくれ!」と言われるような束のため、「鉄道ファンの定め(意味不明)」と思い、意を決して実家から持ち帰ってきました。そこで、「折角なら鉄道雑誌の表紙だけでもブログに掲載出来ないものか」と思い、表紙のみ写真を撮り掲載しようと思います。まず、「鉄道ファン」という雑誌からスタートです。1987年3~4月号です。コレクション熱が冷めてしまったのか5月号以降は集めていません。1985年7月号です。大好きなブルトレ特集だったため購入しました。1984年1、2、4、6月号です。4月号「なは」のヘッドマークがカッコいいですね。1983年1~12月号です。猛烈なコレクションをしていた頃の最終年でしょうか。7月号のSE車ですが大井川鉄道はSLを含め歴史ある車輛の保存活動により、1987年に鉄道友の会からグローリア賞を受賞しています。1982年1~12月号です。ハナブウの撮り鉄が始まった頃です。1981年1~12月号です。振り子車輛である381系「やくも」の写真を、撮影する機会に恵まれなかったことが悔やまれます。1980年1~12月号です。2月号は伊豆箱根鉄道の5000系第1編成が掲載されていますね。1979年1~12月号です。5月号の表紙で1979年に開業した、北総開発鉄道7000形凸凹顔のデザインが懐かしいですね。1978年1~12月号です。6月号のようなEF65の500番台ブルトレが大好きでした。1977年2、3、9、10、11、12月号です。鉄道ファン創刊200号の年です。1974年2、6月号です。次の写真の72年も含め古い年代の雑誌はタイムリーに購入していません。1972年2、9、10号です。SLの年代まで来てしまいましたね。こちらは「鉄道ジャーナル」という雑誌で年代もバラバラです。EF65の500番台「あさかぜ」が懐かしいですね。「旅と鉄道」や「鉄道ジャーナル別冊」です。DD54の出雲が表紙の雑誌はバックナンバーで購入した思い出が在ります。ここからは「鉄道模型趣味」という雑誌です。1982年1、2、3、6月号です。1980年1、2、3、4、5、7月号です。鉄道模型の雑誌を購入していますがレイアウトを含め模型には疎遠でした。1977年2月号、1978年11、12月号、そして、1980年11月号です。最後に、飛び飛びですが1985年から1989年迄の時刻表です。古い鉄道雑誌の表紙を掲載してきましたが楽しんで頂けたでしょうか。ハナブウのブログの更新は滞りがちになっていますが、機会があったら「廃止後のくりでん」の写真や、仙北鉄道登米駅跡の写真を撮影してきましたので追々掲載しようと思っています。
Aug 18, 2007
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気分次第で更新をするため1~2ヶ月の更新ペースとなっていますが、古い鉄道写真を眠らしておくのももったいないため久しぶりに更新しようと思います。前回の更新は国鉄色ボンネット車輛の写真を掲載しているため、今回は私鉄を掲載しようと思い和歌山県にあったローカル線で、2002年12月31日に廃止された有田(ありだ)鉄道を掲載しようと思います。有田鉄道は紀勢本線の藤波駅から金屋口駅を結ぶローカル線で、和歌山県名産の「有田みかん」を紀勢本線藤波駅の隣駅である湯浅駅(湯浅港)まで、貨物輸送する目的で1913年から1916年に掛けて開業した路線です。この車輛は富士急行が「急行かわぐち」という名称で、新宿駅から「急行アルプス」と連結して河口湖駅までを直通運転させるために、国鉄の急行型気動車であったキハ58を真似て作った車輛です。形式もキハ58と同じですが国鉄のキハ58とは異なり両運転台付きとなっています。「急行アルプス」(「急行かわぐち」は「急行アルプス」と統合)の電車化と共に、2基のエンジンを1基降ろして有田鉄道に譲渡されました。キハ58入線前は国鉄の気動車で民間へ払い下げられたキハ07が活躍していました。なお、有田鉄道廃止までの晩年は樽見鉄道のレールバスであった、ハイモ180が導入されキハ58は予備車輛扱いとなっています。この写真の車輛は国鉄紀勢本線湯浅駅からの直通列車です。藤波駅の隣駅である田殿口(たどのぐち)駅の駅名票です。同じく隣駅の下津野駅です。沿線は有田みかんの産地であるため農地が至る所にありました。御霊(ごりょう)駅です。営業路線であるにも関わらず駅舎を含めて線路周りは草がボウボウに生えていて、保守点検が細部に渡って成されているのか不安になりながら乗車したのを覚えています。終着駅の金屋口駅です。駅舎を含めてもっと撮影しておけば良かったです。。。金屋口駅手前には車輛基地が在り「有田みかん」の貨物輸送が盛んな頃に活躍した、DD353が車庫から顔を除かせていました。
Jun 12, 2007
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ここ数ヶ月、ブログの更新及び閲覧とは縁遠い日々を過ごして来ましたが、今朝方メールチェックをしたところ更新をしてほしい旨のメールが届いていましたので、久しぶりに更新をしてみようと思います。ブログの更新は滞っていますが鉄道ファンは未だに続いており、3月から5月の間に富士急行のフジサン特急、トーマスランド号の撮影、岐阜の樽見鉄道及び旧名鉄谷汲線谷汲駅跡の撮影、長野の旧佐久鉄道(現小海線)のキホハニ51形56等を撮影しました。機会がありましたら追々ブログに掲載しようと思っています。本日の鉄道写真は久しぶりの更新という事で、ここ最近に撮影した写真を掲載するか、廃止となったローカル線の写真にするか、古い車輛の写真にするか迷いましたが、メールを頂いた方が国鉄色のボンネット特急が好きな方なので、金沢駅で撮影した国鉄色ボンネットの特急白鳥にしてみました。ハナブウのお気に入り写真の一つで一時期パソコンの壁紙に設定していました。絵入りボンネットの特急白鳥はインターネットや鉄道雑誌でもあまり見かけないため、貴重な一枚かも知れませんね。
May 24, 2007
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京都・新大阪から大分・宮崎・南宮崎を結んだ寝台特急彗星です。寝台特急彗星は平成17年10月1日のダイヤ改正を持って廃止となりました。この写真に見られる583系の彗星は昭和53年10月から、昭和59年2月までという極めて短命で廃止されています。だいぶ御無沙汰ぶりのブログ更新となりました。20000アクセスの少し手前から重度の「mixi疲れ」に似た症状に落ち入り、自宅にあるパソコンの電源を立ち上げる事さえも気が滅入るようになりました。このままではブログが荒れてしまうため閉鎖も考えましたが、楽天リンクスに誘って頂いた方のメールに心が動かされたため、不定期ですが細々と更新を続けようと思っています。
Mar 31, 2007
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ボンネットの「L特急しらさぎ」と「L特急雷鳥」です。「L特急しらさぎ」は名古屋から金沢・富山を結ぶ特急で、「L特急雷鳥」は大阪から金沢・富山を結んでいます。なお、現在は1991年の七尾線電化により和倉温泉も結んでいます。
Mar 11, 2007
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上野から会津若松を結んだ「特急あいづ」です。「特急あいづ」は1968年に1日1往復で運転が開始されました。1993年12月よりシルバー色の「ビバあいづ」の登場で郡山発着となりましたが、2002年に「ビバあいづ」から「あいづ」へ名称が変更され、翌年には「快速あいづライナー」として快速に格下げされています。2006年に新宿から会津若松までの季節特急として復活しましたが、車輛はリニューアル車でトレインマークも赤色主体、キャラクターマークのあかべこの「あかべえ」が記されていました。
Mar 7, 2007
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1984年に品川駅で撮影したサロンエクスプレス東京です。サロンエクスプレス東京は今流行のジョイフルトレインの先駆けとして、1983年に洋風型団体列車として登場しました。大阪版の「サロンカーなにわ」と共に14系客車を改造した客車ですが、サロンエクスプレス東京は1997年にお座敷列車の「ゆとり」へ改造されています。
Mar 4, 2007
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東北・上越新幹線の初期型200系車両です。200系は1982年の東北・上越新幹線開業に合わせて1980年に登場しました。この車輛は車体下部の機器をボディーにマウントした一体型成形となっており、耐雪・耐寒性にも優れた構造となっています。ただ、東海道新幹線の0系新幹線と同じ鋼製にすると車体自体が重くなってしまうため、200系は軽いアルミ合金製となっています。
Mar 1, 2007
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大阪から富山・和倉温泉を結ぶ特急サンダーバードです。681系及び683系は大阪方面と北陸方面の先頭車のデザインが異なります。北陸方面の先頭車は485系を意識したようなデザインですが、大阪方面のデザインは流線型のデザインとなっています。北越急行(ほくほく線)所有の681系及び683系車輛の「はくたか」は、JR西日本のOEM車となっていますが車輛の保守整備は、JR西日本の金沢総合車輛所に委託しています。681系のヘッドライトは丸形4灯で連結器が隠れるデザインとなっています。一方、683系のヘッドライトは細長いタイプの2灯で、連結器部分がむき出しでスカートを履いたようなデザインとなっています。
Feb 26, 2007
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ブログ開設357日目で目出たく20000アクセスを突破しました。20000アクセス目で閲覧していただいた方は、いつもハナブウのブログにアクセスしていただいているhiryu4398さんでした。hiryu4398さん有難うございました。hiryu4398さんが運営しているブログでは、筋目となるアクセス数がここ数日急増しているエッチ系サイトであったため、お嘆きしている日記を拝見したことがあります。最近、ハナブウのブログにも頻繁にエッチ系サイトからのアクセスがあったため、筋目の20000アクセスがエッチ系サイトでなかったことを嬉しく思います。今後とも皆様に愛される鉄道ブログを目指して精進しようと思いますので、ハナブウの鉄道ブログを応援していただきますよう宜しくお願いいたします。
Feb 23, 2007
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大阪から富山・和倉温泉を結ぶ特急サンダーバードです。サンダーバードという名称は平成9年3月の改正でスーパー雷鳥から改められました。681系及び683系電車は「サンダーバード」以外にも「しらさぎ」や、「はくたか」等にも使用されています。富山駅発大阪行きのサンダーバードです。サンダーバードの車輛脇に貼られているステッカーには、「THUNDERBIRD」と記載されており「しらさぎ」には「SHIRASAGI」、「はくたか」には「Hakutaka WHITE WING」と記載されています。北越急行(ほくほく線)所有の681系及び683系車輛の「はくたか」は、車輛正面及びサイドの線が赤色となっています。また、北越急行(ほくほく線)の路線内では160キロ運転を実地しています。
Feb 23, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。写真の右側奥方向には貨物積み替えのための広大なヤードがありましたが、貨物車はヤードへ入るために一旦ホームに進入してバックでヤードへ向かいました。気動車のヘッドライトは細倉鉱山のイメージを感じさせるカンデラ風となっています。駅には架線の柱がそのまま残されており電気鉄道時代の名残が垣間みれます。写真を撮影した地点のすぐ後ろはJR石越駅の駅舎となっており、向かい合わせの位置に「くりでん」の石越駅があります。石越駅右側の駐車場スペースへ向かう方向には観光案内板があり、沿線案内と周辺の観光地が記載されています会社名が「くりはら田園鉄道」となっても案内板の表示には、「栗原電鉄」の文字がそのまま記載されています。
Feb 20, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。石越駅右手奥には貨物輸送の入れ替えのためのヤードが広がっていました。右手側の空き地は「くりでん」利用客のための駐車場として開放されているようです。頭端式ホームは土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故のような、大規模な鉄道事故の危険性があるため土盛りが大きく成されています。右手側は駅員室でしたが現在は無人駅となっているため、乗務員の休憩室のとして利用されているようです。駅改札口の鉄格子です。かつてはここで改札鋏を使って切符にパンチを入れていたのでしょうか。駅舎内の中は他の「くりでん」の駅舎内と同じく、色々な情報をベタベタと貼付けてあまり見た目が良いとは思えませんでした。左手にはかつて使用していた切符売り場が残っています。
Feb 17, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。石越駅に到着しました。石越駅には貨物中継のためのヤードが一面に広がっていましたが、貨物輸送の廃止に伴い線路等の設備が取り払われてしまいました。石越駅のヤードでは若柳駅に見られるDB101が貨物の入れ替えで活躍しました。また、元東武日光軌道線で活躍していたED351は、石越駅のヤードに長い間放置されていましたが、個人の鉄道ファンに買い取ら綺麗に保存されているようです。幾度か説明しているOH!バンデスですがミヤギテレビで放映されている情報番組です。番組内で「くりでん応援プロジェクト」をしているようです。KD95型は3両在籍していますが各々側面のマークが異なりKD951が「白鳥」、KD952が「野菊」、KD953が「栗駒山と馬」となっています。この車輛は「野菊」なのでKD952となります。OH!バンデスのプロジェクトで子供達に描いてもらった絵がサイドに貼られています。青葉城恋歌で有名な歌手の「さとう宗幸」さんが車内アナウンスをしており、OH!バンデスのプロジェクトに協賛して「宗」の字が記されているようです。石越駅のゼロポストを撮影してみました。石越駅は地方鉄道の始発駅にありがちな頭端式ホームとなっており、旅人達に取って郷愁を重い起こさせる演出に一役買っているかもしれませんね。
Feb 15, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。1984年に製造され元名鉄広見線、三河線で活躍したKD10型です。常に2連で運転されワンマン化されていない車輛であるため、走行時には車掌が乗車する必要があります。M15型のM153です。M15型は3両が製造されていますがM151とM153は若柳駅に留置され、M152はチャチャワールド石越に保存されています。M15型のM153を反対方向から撮影しました。DB10型のDB101です。DB10型は2両製造されていますがDB101は石越駅に配置され、DB102は細倉鉱山に配置されました。DB102は細倉鉱山閉山と共には廃車となっています。手前の車輛は福島交通から入線したM183です。同形のM182とM183にはヘッドマークが取り付けられていましたが、M182は栗駒山を描いた「くりこま」でM183は伊豆沼の「はくちょう」でした。湘南顔で金太郎塗りのC151型ですが、反対側のフロントマスクは運転台無しの切妻型となっています。
Feb 13, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。旧栗駒町の中心駅であった栗駒駅です。栗駒駅は有人駅で若柳駅、沢辺駅を含め有人駅は3駅しかありません。沢辺駅では列車の交換をします。ハナブウの乗車している車輛は上り列車で、写真の列車は下り列車です。駅員が列車の交換のために運転士へタブレットを手渡すところです。上り列車が先に出発しました。沢辺駅のホームを見ると列車が停車しているホームより、駅舎が建っている手前のホームの方が低くなっていますが、軽便の頃に使用していたホームのためその名残りで低く作られています。沢辺駅に設置されている腕木式信号機です。
Feb 11, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真を掲載しました。今回の2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。まずは細倉マーインパーク駅前に保存されているED20の202です。栗原電鉄の前身は軽便のナローゲージであったためこのED20の車輛は小さく、パンタグラフが車体に比べて大きく見えます。車輛の前後には木製の鉄道模型が飾られています。「OH!バンデス」とはミヤギテレビで放映されている生放送の番組で、俳優の津川雅彦さんが「くりでん応援プロジェクト」に賛同したという事で、記念に木製の鉄道模型を譲ったようです。また、次の停車駅等を知らせる車内放送は青葉城恋歌で有名な、歌手の佐藤宗之さんが担当していました。細倉マインパーク駅の200メートルほど手前には1990年に廃止された、旧細倉駅の駅舎が沿線沿いにそのまま放置されています。細倉マインパーク駅で休憩中の運転士さんに旧細倉駅の事を聞いたら、「厳密に言うと廃止されたという事ではなく、細倉マインパーク駅へ移転した」と言っていました。また、運転士さんは「駅舎は民間に貸し出され、今はどうなっているのか判らない。」と返答していました。
Feb 9, 2007
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小倉・博多から西鹿児島を結んでいたボンネット型のL特急有明です。なお、以前ハナブウのブログで掲載しました「L特急有明」関連の記事は、以下のリンクをクリックしてください。ボンネット型のL特急有明博多駅に停車しているL特急有明を列車の窓越しから撮影しているので、窓への反射光が写真に写り込んでしまいました。
Feb 7, 2007
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国鉄香月線は福岡県にある中間駅から香月駅を結んだ路線で、筑豊地区の石炭輸送のため1908年に貨物線として開通しましたが、炭坑閉山による貨物輸送の廃止が起因となり1985年に廃止されました。今回は途中駅である岩崎駅が抜けていますが、廃線前に撮影した駅名票と切符を掲載します。案内板の次の停車駅欄で左下の「あらて」が香月線です。左上の「ちくぜんはぶ」と右下の「おりお」が筑豊本線です。中間駅と折尾駅の間に東水巻という駅が1988年に設置されています。右上の「くろさき」への路線は既に時刻表から抹消されていますが、黒崎駅から中間駅まで短路線がありました。後ろの車が古さを感じます。途中駅の岩崎駅が抜けていますが終着駅の香月駅に到着です。香月駅跡には今でも駅名票が記念に保存されているようです。始発駅の中間駅で購入した硬券の入場券です。終着駅である香月駅の入場券です。
Feb 5, 2007
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東京から館山・千倉を結んだ183系の「L特急さざなみ」です。定期列車としての「さざなみ」は1962年にキハ58系を使用した、全席指定の準急列車として登場しました。1972年の総武本線東京駅開業と共にL特急となり、183系が使用されることになりました。1993年に255系使用による「ビューさざなみ」が運行され、2004年にはE257系が「さざなみ」に導入されています。
Feb 3, 2007
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米原から金沢・富山を結んだL特急加越です。湖西線の開業により北陸方面へ向かう特急が米原を経由しなくなり、さらに、「しらさぎ」の補完をする役割を担うため、米原から金沢・富山方面を結ぶ特急として1975年に登場しました。上越新幹線の開業と共に金沢止まりとなり、「加越」のグレードアップ版として「きらめき」が登場しましたが、1997年に「加越」に統合され「加越」自体も、2003年に「しらさぎ」へ統合されました。
Feb 1, 2007
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急行ごてんば号、さよなら記念切符を掲載しようと思います。「急行ごてんば」は「急行東海」と併結運転をして、3両のみが国府津で切り離し「急行ごてんば」として御殿場へ向かいました。首都圏から御殿場へ向かう小田急SE車「あさぎり」との競争に敗れて、「急行ごてんば」は1985年3月に廃止されました。
Jan 30, 2007
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1985年に茨城県つくば市で「つくば科学万博」が催された期間中に、サイエンストレイン・エクスポ号という列車が全国行脚しました。その列車が高崎駅に展示された時の記念切符が一枚だけ手元に残っていましたので、掲載しようと思います。サイエンストレイン・エクスポ号は7両編成で各々の車輛には展示テーマがありました。1号車は「科学万博-つくば’85のすべて」2号車は「あなたも参加して見ませんか、”少年少女発明クラブ”」3号車は「遊びながら科学の原理がわかる”おもしろサイエンス”」4号車は「遊びながら科学の原理がわかる”おもしろサイエンス”」5号車は「パソコンと遊ぼう」6号車は「科学にチャレンジ!!」7号車は「科学技術がひらく未来の生活」車輛のテールマークにはマスコットの「コスモ星丸」が描かれています。
Jan 28, 2007
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1984年に寝台特急「さくら」及び「みずほ」にカルテットという、4人用の個室寝台車輛が併結運転されました。今回はその時に発行された記念切符を掲載します。品川駅駅長が記載した記念切符購入感謝状付きです。
Jan 26, 2007
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北陸鉄道浅野川線の地下化される前の北鉄金沢駅で撮影した写真です。北陸鉄道浅野川線は北鉄金沢駅から内灘駅を結ぶ路線です。北陸鉄道浅野川線は1925年に浅野川鉄道により開業しました。1945年に北陸鉄道が浅野川鉄道を合併して北陸鉄道浅野川線となりました。2001年には北鉄金沢駅が地下化されています。1986年当時は趣のある車輛が走っていましたが、現在は東急井の頭線で使用されているステンレスカーが導入されています。写真撮影のために入場券代わりに購入した薄くてペラペラの紙の切符です。
Jan 24, 2007
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1986年に京福電鉄三国芦原線芦原湯町駅で撮影した写真です。京福電鉄の福井地区の路線であった三国芦原線及び勝山永平寺線は、2003年2月1日に「えちぜん鉄道」へ譲渡されました。そのため、京福電鉄は福井地区の鉄道事業から撤退して、バス、タクシー、不動産等の事業のみが福井地区に残っています。また、京福電鉄の鉄道事業は京都地区の軌道線である嵐山線や、叡山ケーブル・ロープエーのみが残っています。昔は三国方面へ向かう鉄道は福井方面から三国駅へ向かう京福電鉄と、金津駅(現:芦原温泉駅)から三国港駅へ向かう国鉄三国線がありました。三国港へ向かう国鉄三国線の途中駅に芦原湯町駅(現:あわら湯のまち駅)があり、芦原湯町駅で国鉄三国線と福井方面からの京福電鉄が合流して並走しながら、国鉄三国線が三国港駅へ向かい京福電鉄が途中駅の三国駅までを結んでいました。国鉄三国線は1972年に廃止されましたが芦原湯町駅から三国港駅までを、京福電鉄が旧国鉄三国線の同区間の駅舎やホーム、路線を引き継ぎ、私鉄の京福電鉄が旧国鉄の廃止路線を走ることになりました。そのため、1986年当時に撮影した跨線橋の脇に据え付けられていたこの看板は、国鉄の駅ではなくなっているにも関わらず既に廃止された、国鉄芦原駅(1972年に芦原湯町駅に改称)の文字がそのまま残っています。京福電鉄(現:えちぜん鉄道)であった頃に入場及び乗車した切符です。2枚目は芦原湯町駅の入場券が2枚あったため裏返して撮影しました。
Jan 22, 2007
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東海道本線の清水駅から三保駅までを結んでいた清水港線の記念切符です。恐らく何枚かセットで売られたと思うのですが、他のセットの切符が見つからなかったためこの切符のみ掲載してみました。清水港線は全長8.3キロメートルという極めて短い盲腸線でした。1916年に清水から清水港までが開業し1944年までには三保まで全通しました。1972年に1日2往復の旅客列車が1往復へ削減され、1984年3月31日限りで路線が廃止されました。
Jan 20, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。細倉マインパーク駅で石越側からKD95型を撮影しています。KD95型は平成7年に3両導入されていますが、各車輛ごとにサイドに描かれているマークが異なりKD951が「白鳥」、KD952が「野菊」、KD953が「栗駒山と馬」となっています。細倉駅が細倉鉱山へ向かう貨物線の200m先へ移設して、平成2年に新たに開業した細倉マインパーク駅です。一見有人駅に見えますが無人駅となっています。ただ、無人駅の割には立派なトイレや待合室も設置されています。ワフ7型はワフ71~74までの4両が在籍していましたが、ワフ71は細倉マインパーク駅前に保存されワフ72~73は廃車され、ワフ74は若柳駅で倉庫代わりに利用されています。細倉マインパーク駅の全体写真という感じで撮影してみました。ED20型は昭和25年に栗原電鉄が電化した時に導入されました。その当時は762ミリメートルのナローゲージであったために、1067ミリメートルへ改軸された際に架線も高い位置に設置され、めいいっぱいパンンタグラフを広げて走行するスタイルを取っていました。
Jan 18, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。左側が若柳から細倉マインパークまでの硬券と、右側がワンマン運転のために車内発券機から発券される整理券です。KD95型の車内に設置してあるシートを撮影してみました。車内は2×2のボックスシートと1×1のボックスシート、車輛前後の運転台近くのシートはロングシートが設置されていました。車内の床には木の温もりが感じられるフローリング仕上げで、テーブルや肘掛け、シート頭上の取っ手にも木が使用されています。平成2年に設置された終着駅の細倉マインパーク駅へ到着しました。昔は細倉鉱山まで貨物線が伸びていましたが、1988年の鉱山閉山と共に貨物線は廃止されました。なお、細倉マインパークという名称は鉱山跡地に開園した、テーマパークの名称である「細倉マインパーク」に由来しています。車輛に描かれている「OH!バンデス号」は2006年4月から運行されており、ミヤギテレビで月曜日から金曜日までの15時50分から19時まで放映されている、生放送の番組「OH!バンデス」に由来しています。細倉マインパーク駅前に保存されているED20型のED202と貨車のワム71です。ED20型は3両のうちED201は石越駅の近くにあるチャチャワールド石越へ、ED203は確認出来ませんでしたが若柳駅に留置されているようです。
Jan 16, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。KD95型の窓と窓の間の柱毎にはデザインの異なるレリーフが飾られています。沢辺駅に到着しました。沢辺駅の駅舎は大正時代に作られており「くりでん」唯一の交換駅となっています。また東北を南北に結ぶ国道4号線の最寄駅であるため、現在は運行されていませんが東北新幹線の「くりこま高原駅」へ、シャトルバスが運行されていました。若柳駅と同じように沢辺駅にも腕木式信号機の設備があります。大正時代の駅舎と言う事もありレトロな沢辺の駅名票や、改札口の木枠を撮影してみました。石越行きの気動車が沢辺駅のホームに滑り込みました。この上りの列車と交換するため多少の時間停車しました。駅員が左手にタブレットを持ち列車の交換が行われます。
Jan 14, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。この水色の電車はカラオケ電車で使用されたM181です。ホームには電車が到着する直前にしか入れてもらえなかったため、十分に時間をかけて電車の撮影をする事が出来ませんでした。若柳の駅名票を撮影してみました。大正時代に作られた駅であるため駅名票にも貫禄があります。かつては腕木式信号機やタブレット閉鎖は全国の路線で見られましたが、この「くりはら田園鉄道」では当然のように使用されています。露出アンダーの写真ですがハナブウが乗ろうとする、細倉マインパーク行きの列車が到着しました。「くりはら」という名称からか車輛の前後には栗の木のモニュメントがあります。谷地畑(やちはた)という駅で「くりでん」の大抵の無人駅は、この駅のようにホームに白い待合室がポツンとあります。
Jan 12, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。この車輛は大正12年に木造車輛として製造され京阪神急行で活躍しましたが、昭和31年に西武鉄道の台車を組み合わせて入線し、その後、車輛の傷みが激しく鋼体化されたC15型のC151です。この車輛は運転台が石越側にしか無く細倉方面は切詰型となっています。左手前がC151で奥の車輛がM182、真ん中の貨車がト10型のト102です。ト102は日本車輌で明治40年4月に製造されましたが、ト102の後方に連結しているト103と合わせて日本で最も古い貨車です。この車輛は現役主力車輛のKD95型で3両が在籍しています。元名鉄八百津線で活躍したKD10型のKD11とKD12です。珍しい2連の旅客車輛ですが定期運用は無いようです。KD10型はワンマン仕様ではないため運用に付く時は車掌が乗車します。
Jan 10, 2007
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2007年3月31日限りで廃止される「くりはら田園鉄道」に乗車しました。大量の写真を撮影してきましたがその中から厳選して、1月、2月、3月の3回シリーズで途中小休止しながら掲載しようと思います。まず、1月は若柳から細倉マインパークまで乗車した時の写真、2月は細倉マインパークから石越まで乗車した時の写真、3月は若柳周辺の保存車輛及び事業用車輛と、大正時代に作られた沢辺の駅舎の写真を掲載しようと思います。まず、「くりはら田園鉄道」の歴史を簡単に説明しようと思います。「くりはら田園鉄道」は1921年12月20日に栗原軌道株式会社が、石越から沢辺間を軌道幅の狭い軽便鉄道として開業した事から始まります。1922年に岩ヶ崎(現:栗駒)まで開業し1941年に栗原鉄道へ名称変更しました。1942年に細倉鉱山まで開業し1952年には路線が電化されました。1955年に762ミリから1067ミリへ軌道幅を変更して、同年に栗原電鉄へ名称変更しました。1964年に陸前乗合自動車を吸収して宮城中央交通へ名称を変更しましたが、1969年に栗原電鉄へ名称を戻しました。1987年に細倉鉱山閉山のため貨物営業が廃止され、翌年には細倉から細倉鉱山間も廃止されました。1990年に細倉駅が200メートル先の細倉マインパークへ移転しました。1993年に三菱マテリアルが沿線5市町村に株式を譲渡して第三セクターとなりました。1995年に「くりはら田園鉄道」へ名称変更してワンマン運転化の実施、電化を廃止して気動車の運転が始まりました。2007年4月1日に鉄道路線が廃止される事になりました。この写真は若柳の駅舎で駅周辺には保存車輛や事業用車輛が多く留置されています。若柳の駅舎内には記念切符や伝言事項等のビラが沢山壁に貼られています。なお、若柳、沢辺、栗駒駅は有人駅となっています。元は福島交通飯坂線モハ5318として活躍したM18型のM182です。若柳駅正面に向かって右側に留置されていますが、現在は自転車置き場となっています。昭和30年に栗原電鉄が3両新造したM15型のM153です。昭和30年に鋼体化されて入線したM18型のM181です。元は大正時代に製造された西武鉄道のモハ204で、末期はカラオケ車輛として使用されたようです。手前の車輛はM183、真ん中はM181、後ろがM153です。
Jan 8, 2007
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富山駅北から岩瀬浜を結ぶ富山ライトレールです。ライトレールのボディーカラーは立山の新雪の白色を基調としています。7両保有している車輛は各自フロントデザイン及び各乗車口のカラーが異なり、赤色、青色、橙色、黄緑色、黄色、紫色、緑色が使用されています。また、車輛はTLR0600形という路面電車が使用されています。ライトレールは2004年4月29日に開業して、2006年には建築・環境デザイン部門でクッドデザイン賞を受賞しています。富山ライトレールの路線は元JR富山港線であり、富山駅北から奥田中学校前迄は新設の軌道線を走り、奥田中学校前から岩瀬浜迄は元富山港線の専用軌道を走ります。折りたたみベンチは暖かみのある再生木を使用しています。また、ベンチの背面には防風用のガラスを設置しています。富山駅北はJR富山駅北口の西側に停留所があります。富山港という海をモチーフにしたマストのデザインが取り入れられています。
Jan 6, 2007
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札幌から旭川を結ぶ国鉄色のL特急ライラックです。1980年から室蘭~札幌~旭川を結ぶ特急として781系で運行が開始しました。2002年からは札幌から旭川を結んでいたスーパーホワイトアローが、新千歳空港へ乗り入れるのと入れ替えで札幌から旭川を結ぶ特急となりました。
Jan 4, 2007
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小倉・博多から佐世保を結んでいた485系の「L特急みどり」です。なお、以前ハナブウのブログで掲載しました「L特急みどり」関連の記事は、以下のリンクをクリックしてください。ボンネット型のL特急みどり485系の頃の「L特急みどり」は、肥前山口まで長崎行きの「L特急かもめ」と併結運転をしていました。なお、この頃の「みどり」は特急としては最も短い4両編成で運転されていました。この写真のネガは真っ黒で太陽光部分が真っ黄色でしたが、フォトショップでなんとか修正しました。
Jan 2, 2007
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小倉・博多から長崎を結んでいた485系の「L特急かもめ」です。485系の頃の「L特急かもめ」は、肥前山口まで佐世保行きの「L特急みどり」と併結運転をしていました。ハナブウは肥前山口駅で行う連結作業をぜひ写真に撮影したいと思い、興奮しながら車輛が少しずつ近づきながら連結する光景を撮影した記憶があります。
Dec 31, 2006
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富山地方鉄道の立山から宇奈月温泉を結ぶアルペン特急です。この車輛は西武鉄道沿線に住んでいる方には御存知かもしれませんが、元西武鉄道のレッドアローとして活躍した5000系車輛でした。なお、以前ハナブウのブログで掲載しました「5000系レッドアロー」関連の記事は、以下のリンクをクリックしてください。西武鉄道のレッドアロー西武鉄道のレッドアロー5000系富山地方鉄道内の形式は16010形であり台車を除く車体のみが、富山地方鉄道へ売却されました。なお、台車は西武鉄道のニューレッドアローとして現役で活躍しています。
Dec 29, 2006
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名古屋から長野を結ぶ381系の「L特急しなの」です。なお、以前ハナブウのブログで掲載しました「381系車輛」関連の記事は、以下のリンクをクリックしてください。国鉄色のL特急くろしお中央本線西線は木曽路の奥深い山々に囲まれているため、車体を傾けながらスピードを落とさずに急カーブを走り抜ける事が出来る、381系や383系の振り子式電車が使用されています。多くの「しなの」はワイドビューという383系を使用していますが、「しなの81号」及び「しなの84号」の名古屋側の先頭車は未だに国鉄色で、485系や183系に見られるような国鉄時代の先頭車で運行されています。ただし、「しなの81号・84号」の先頭車のデザインは、この昔の写真と比べると前面に扉が無い非貫通式タイプの車輛であるため、「くろしお」または「やくも」で使用されていた381系なのかもしれません。
Dec 27, 2006
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大阪から日本海側を経由して青森迄を結ぶ寝台特急日本海です。寝台特急日本海1号を富山駅で撮影しました。ヘッドライトが煌煌と照らされているため逆光状態となり、写真撮影の難しさを痛いほど感じました。富山駅の発着時間は22時20分なため辺りは真っ暗闇です。JR西日本の行き先案内板は黒地に白字で描かれています。残念ながらテールマークはライトが逆反射したため上手く撮影が出来ませんでした。
Dec 25, 2006
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今回のシリーズは鉄道ブログを少し逸脱して信濃大町から扇沢、黒部ダム、大観峰、室堂から美女平を通って富山方面へ旅行した時に撮影した写真を掲載しようと思います。元相模鉄道2000型のモハ2024として活躍したコデ165です。この車輛は大雄山線内の保守点検・車輛の回送等に使用されています。相模鉄道にも保守点検用の車輛として同系列のモニ2000型が在籍しています。また、銚子電鉄の犬吠駅にはモハ2000が留置されています。参考 : 銚子電鉄(5) 銚子電鉄(6) 保守・点検で使用される車輛です。大雄山駅付近の留置繊に停車していました。大雄山駅全景です。右側はコデ165、真ん中2両はステンレス製車輛の5000系、左側は第1編成で銅製車輛の5000系です。
Dec 23, 2006
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伊豆箱根鉄道大雄山線大雄山駅で撮影した時の写真を掲載します。大雄山線は1925年に大雄山鉄道により小田原~大雄山までが開業しました。1941年に駿豆鉄道に吸収され1957年に伊豆箱根鉄道へ名称を変更しました。上の写真2枚は5000系車両です。これも5000系車輛ですが第1編成のみステンレス車輛ではありません。車体色の青色は足柄平野の青空、白色は山あいに咲くヤマユリ、車内のオレンジ色の座席はヤマユリの花粉を表しています。また、ちょっと見づらいですが行き先案内板が固定式となっており、左側が小田原、右側が大雄山と記載され裏側から光を充てて行き先を照らします。大雄山鉄道は大雄山駅からバスで10分程にあり関東の霊場として知られる、曹洞宗最乗寺の参詣鉄道として開業しています。
Dec 21, 2006
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熱海駅の駅前に保存されている元熱海鉄道7号機関車(愛称:へっつい)です。ボイラーが極端に低いため運転士は機関車の運転及び石炭の投げ入れを、しゃがんだまま行っていました。「この機関車は明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間の25キロメートルを2時間40分かかって走っていたものです。この鉄道は関東大震災により廃止されましたが、その後、各地の鉄道建設工事に活躍したのち神戸市の国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げをうけ修復して、ゆかり深い故郷へ貴重な交通記念物としてかえってきたものです。」と記載されています。国鉄鷹取工場内に標本車として展示されていた7号機ですが、標本車の頃はカットモデルであり正面から見て車体左側は欠落していました。雨宮敬次郎が経営した車輛メーカーの大日本軌道鉄工部、後の雨宮製鉄所は、多くの「へっつい型」機関車を製造して全国の軽便鉄道で走るようになりました。ただ、鉄道経営は東海道線が真鶴迄延伸したため真鶴~熱海間へ路線を短縮しましたが、1923年の関東大震災による壊滅的な被害により復旧されないまま廃止となりました。全国には多くの人車軌道が運営されていました。豆相人車軌道の車体は既に解体・廃車されましたが、他社の人車軌道の車体が数カ所に現存しています。宮城県大崎市にあった松山人車軌道(金谷~千石)の実物の車輛が、「松山ふるさと歴史館」と「神田の交通博物館」に展示されていました。なお、神田の車輛は埼玉にオープンする「鉄道博物館」に展示されるか否かは不明です。「松山御本丸公園」には復元車輛が実際に運行されています。また、千葉県にある「茂原市立美術館・郷土資料館」には、県営軌道庁南線(茂原~地蔵町)の実物の車体が保存されています。
Dec 19, 2006
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