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「龍ちゃん! 消えてる! 消えてるわ、水玉が!」 服を着ると私は部屋に駆け戻った。「知ってる。さっき、オレの目の前で、さーっと全部消えたから」 心が及ぼす体への影響、か。手の甲を顔の前にかざしてみた。もう、ソバカスのようなあの発疹はどこにもない。まだ驚きがおさまらず、手で腕をさすってみる。「阿南、信じる気になった? 自然治癒力の話」「私、自然に治ったの?」 自然に、というのはしっくりこない。薬を使ったんじゃないことは確かだけど。 ただ、治った瞬間というのがあるならば、きっとあの時だ。奈々が私の中に入ってきたのと入れ替わりに、一瞬にして毛穴から何かが蒸発した。ふちまでいっぱいにお湯が入った湯船にどぼん、と飛び込んだ時に似ている。お湯がざあっと流れ出すように、私の中から毒が押し出され、流れ出ていったのだ。 なんて不思議なの。 私は、素足のままベランダに出た。辺りは一面、ギラギラと白い光に包まれている。 夏だ。ここは、夏なのだ。 とぎれていた記憶がつながり、龍一の発言を裏付けた。 私は、昔、泳ぎが得意だった。だから、あの自殺未遂事件でも溺れないですんだのだ。 あの時死ななくてよかった。あんな可哀想なままで終わらなくて、本当によかった。 強烈な喜びがわきあがった。まるで間欠泉が吹き上がるみたいに! 私はベランダの手すりにつかまって、背中をそらせた。体の中からパワーがわき上がってくる。止めることができない勢いで。私の中には今、二人分の気力が満ちている。「龍ちゃん、私、どれくらいの時間、催眠状態になってたの?」「2時間、てとこかな。結構長かった。黙り込んでからが特に。こっちから声をかけようかどうしようか、ものすごく悩んだぐらい」 2時間もあの空間にいたのか。「あっという間だった感じがするの。それなのに、その前とは全然変わってしまった。催眠療法ってこんなに効果があるものなの?」 龍一はあごに手を当ててちょっと考えた。「オレにとっては、阿南が唯一のケースだから。比べることはできないな。ただ、阿南が奈々を受け入れる準備ができていたから、すんなり融合できたんだと思う」 私は、はずむ足取りで部屋に入った。「いつの間にかすごく天気が良くなってるじゃない。外に出ない? 私、早く自分の車を運転したいわ。なんだか気力が満ちてるの」「ホントに大丈夫? じゃあ、出かけようか」 龍一と千紗のベースキャンプまでは、龍一が運転することになった。あれから少し場所を移動したのだという。泊まる場所は固定していても、波の状態をみては、車であちこち移動するのがいつものやり方なのだと。「じゃあ、あの時会えたのは運が良かったのね。ずっと入れ違いになる可能性だってあったんだわ」 そういうと、龍一は笑った。「会いたいと強く願えば、必ずかなう、とは思ってたけどな」「私も。絶対に会って占ってもらうんだって、決めてたわ」 そうだった。私がこの地に来ようと思ったそもそもの目的は、龍一に占ってもらうことだった。「で、どう? やっぱり占ってみる必要はある?」「そうね。いらないわね」 私が求めていた答えは、違う角度から与えられた。意外な方法で。分裂していた過去の自分を統合する、というやり方で。「気力が満ちてるって言ってたけど。今はどんな感じ?」 ついさっき、自分を襲った激流のことを思うと、本当に不思議だった。私の中にはたくさんの情報が、感情が、集約されて渦巻いている。でも、決して不快ではないのだ。「ものすごい勢いで、全体をシェイクしてるって感じ。これから少しずつ細かいところをのぞいてみなくちゃ」「一人でも大丈夫?」「逆ね。一人になりたい。ゆっくり考えたいの」 それに、龍一のことを好きだ、という事実を飲み込むのには時間がかかる。自分自身がまだ納得できていないのに、龍一がすぐ隣にいるという、この状況は困るのだ。 チャンスだとは思うが、何をどうしていいのか、考えがまとまらない。まずは自分がどうしたいのかをよく見極めたい。「なんだか、今までよりも、しっかりしてきたみたいだな」「二人分だから」 私は笑った。 私は、若いときに悲惨な目にあった。でもだからこそ、その時に学んだことをベースに、成長してきたのだ。若い頃はバカだった。それはそれ、事実なのだから仕方ない。今こうして大人としてふるまえるのは、過去の資産があったからなのだ。会計の考え方では借金だって資産のうち。マイナス資産と考えるのだ、という話を思い出した。「ねえ、龍ちゃん。ハガキをくれたとき、私がオーストラリアまで訪ねて来るって、思ってた?」「それは、微妙なところだったな。できるかもしれないし、まだ無理かもしれないし。 飛行機に乗って言葉の通じない国に行くことは、ずっと避けてきてたでしょう。嫌なことを思い出しそうになるから。そのブレーキは結構強かったはずなんだ。よく、その線を越えてきたな、って感心してるくらい」「ブレーキよりも強烈なモチベーションがあったからよ」 私は久しぶりに不誠実な恋人のことを思いだした。祥二の新しいカノジョに出くわさなければ、私は旅に出ようとは思わなかっただろう。「プロポーズされたこと? それとも、恋人に裏切られたこと?」「どっちも。でも、彼の浮気の方が強烈だったかな」 旅を決意したのはたった数週間前のことなのに、はるか昔のことに思えた。 ホリデーパークの看板が見えた。短いドライブの目的地だ。 龍一は車をターンさせてから車を降りた。私は助手席から降りると、ボンネットの前から回り込んで運転席のドアを開けた。「寄っていかないの?」「千紗さんが私のことライバル視してるからね。それに三人でいてもあんまり盛り上がらないんじゃない?」 そう、今や私はハッキリと、千紗はライバルだと認めていた。だからこそ、余計な対決は避けたかった。「それはそうかもしれないけど」「厳密に言えば、私の用件は終わったわけだし」 龍一の顔に妙な表情が浮かんだ。口がへの字になっている。「龍ちゃんが背負ってくれた重荷はもうなくなったのよ。私はあなたのセッションを受けて充分にその効果を感じてるの。感謝してる。これ以上つきまとったら失礼でしょ?」 私は右手を出した。握手を求めるために。 龍一はゆっくり右手を伸ばした。私はその手をつかむと、ギュッと力を込めて握った。「だけど、帰国の前に一度、夕食でもどう? 今よりも落ち着いていると思うし、話したいこともまだあるわ、きっと。 そうね、海の見える店でシーフード。オーストラリアワインでも飲みながら、ロマンチックにね。私の部屋に迎えに来て。悪いけど、千紗さんは置いてきてよ。ゆっくり話ができないから」 私は思いだしていた。自分がアルコールが飲めない体質じゃなかったことを。酒の勢いがあのおろかな恋愛の引き金になったから、自ら封印していただけのだ。酒は冷静な判断を下せなくなるから、と。 待ち合わせの日時を決めると、私は車に乗り込んだ。 パシフィックハイウェイに乗ると、宿とは反対側、すでに走り慣れた感のあるバイロンベイを目指してアクセルを踏んだ。 一人で、自分の行きたい場所へ行けるって、なんて素晴らしいことなんだろう、と思いながら。
2005.04.27
燃え上がる紙をつかむと、イメージが指先から脳へと伝わってきた。 制服。夕暮れ。自転車を押す龍一。並んで歩く私。 土曜日の昼ごはん。龍一が作ったチャーハンと、大根葉のみそ汁。 英語で赤点を取った私に、龍ちゃんは家庭教師をしてくれた。「これからはどんな仕事に就くにしても、英語が必要になるんだから」そう言いながら、ペイパーバックをくれたよね。そのファンタジー小説には、熟語や難しい単語に蛍光ペンでなぞった跡があった。 あのころは、他の人なんか目に入らなかった。龍ちゃんはひとつ年上の素敵なボーイフレンド。 もっと親しくなりたい。ここからさらに一歩踏み出したい。 だけど。不安だった。子供時代から仲良くしすぎて、それ以上の仲にはなれないのではないか。天才子役と言われた女優は、成長してもなかなか大人の女として見てもらえない。それと同じじゃない? 幼なじみが恋人に昇格するチャンスはないんじゃない? それに。 もしも拒絶されたとき、私はそれを受け入れられるかしら。 口にした瞬間に、二人の距離が離れてしまうのが怖かった。 できるなら、いつまでも、このままでいたかった。 結局、私が言い出せずにいる間に、龍一の方が行動を起こした。 いとこという距離を飛び越えたのだ。東華に対して。 私は、龍一が東華に惚れた瞬間を、知っていた。 私は出遅れたのだった。 思い出したくない過去だから、都合良く忘れていたのだ。 だけど、それがすべての始まりになった。 うちあけるまえに壊れた恋。あの時、堂々と勝負に出なかったことが、後の悲劇の引き金になったのだ。 龍ちゃんが選んだのは東華で、私ではなかった。 あのころは、根拠なんかないくせに、龍ちゃんにふさわしいのは私だと信じていた。私は、鼻持ちならない自信家だった。それだけに、龍一が東華と付き合いだした時のショックは大きかった。全然知らない女性が相手だったらまだマシだったのに。 どうして私じゃなかったの? 東華へのコンプレックスはあの時生まれた。私の自尊心はこなごなに砕けた。 私が考えなしの結婚に走ったのは、壊れた自信を取り戻すためだった。 旅先での突然の出会いでも、私は男性を惹きつけることができる。その人が選んだのはエリさんじゃなくて、この私。私だってまんざらでもないじゃない。 龍ちゃんへの恋心がぺしゃんこにつぶれて以来、私は新しい恋に興味を失っていた。だけど、百戦錬磨の色男は、かたくなに恋愛を否定する心を開く鍵を持っていた。合鍵の束がじゃらじゃらと揺れる。 恋は楽しい、ということを味わいたかった。実る恋は、美味だということを。苦い失恋の後で、私は甘い果実を欲していた。 人を傷つけてまで、人を悲しませてまで恋人を選ぶ。最初はそのドラマに酔っていた。やがて悲劇に変わるとわかっていても、ひとときのヒロイン気分を味わっていたかった。 でも本当は。 本当に私が欲しかったのは、飾り立てられたウソの恋愛ではなかった。 結婚したい、と言ってくれるしゃれた恋人なんかではなかった。 私は、ずっと、龍一の恋人になりたかったのだ。 これまで封じ込めてきた記憶と、願い。その両方が激流となって私の中に流れ込んでいる。奈々が一人で引き受けてきた重石がずっしりと私の上にのしかかる。胸が苦しいほどだ。ちょっと待って。少しずつ消化させて。 部屋一面に舞っていた紙は、床を真っ白におおいつくしている。忘れることで逃れていた責務たちが、私の足もとにたまっている。だけど、今すぐ、そのすべてを引き受ける自信はなかった。 右手を伸ばして、手のひらを床に向けた。こっちにおいで、と念じると、紙たちは行儀のいいトランプのようにパラパラパラと音を立てて集まってきた。膝の上でとんとんとその紙束を整えると、それは一冊のノートに変わった。 10年前で止まっていた時間。今動いている時間。これからは、二人分の経験と記憶をゆっくりと混ぜ合わせながら生きていくのだ。 立ち上がろう、としてそれができないことに気がついた。そうだ、私は今、普段とは違う空間にいるのだ。龍一の手を借りる必要がある。「龍ちゃん…」「阿南、ここにいるよ。聞こえる?」「聞こえる。私、もう起きたいわ。手をひっぱって」「オーケー。じゃあ一緒に数を数えていこう。10から逆さまに数えてみて」 じゅう、きゅう、はち… 重たかった頭がすうっと軽くなっていく。 なな、ろく、ご… 左手が温かい。龍一のごつい手が私の手を包んでいるのがわかる。 よん、さん、に、いち…「さあ、目がひらくよ」 ゼロ。 私はベッドの上にいた。カーテンが乾いた風になびいている。 すでにスコールは去り、あたりは強烈な陽差しに包まれている。 私は目を上げて、龍一を見た。 龍一は優しい目をして私のことを見つめている。 ボッ、と音がしそうな勢いで、私は赤面した。 見なくてもわかるほど、頬が熱い。 私はこんなに長いこと、この人に恋こがれていたのだ、と自覚して、照れた。「水。水が飲みたい。お願い持ってきて」 慌てて、龍一の手を離す口実を作る。龍一は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、グラスにそそいで持ってきた。「気分はどう?」 冷たい水を飲み干しながら、私は自分の内部を探った。嫌な感覚はないかしら? 重苦しいことは? いや、全然ない。体は軽く、走り出したいような気分。「とってもいいわ」「それはよかった。さ、水を飲み終わったら、バスルームにいってごらん」 私は言われたままに立ち上がり、等身大の鏡の前に立った。 顔のブツブツが消えている! 顔だけじゃない。腕も、足も。 あわてて着ていた服をぬいで、背中を鏡に映してみる。 私の肌は、つるりと白く、元通りになっていた。
2005.04.26
「奈々が見えるかい。奈々はどんな格好をしてる?」 耳元で龍一の声がする。そんなもの、自分で見ればいいじゃない。奈々は今、この部屋の中にいるんだから。そう思いながらも、唇が勝手に動いて返事をしていた。「白いサンドレスを着てる」 サーファーズパラダイスで見た夢の中で、私が来ていた服だった。真夏の光をまぶしく跳ね返す、真っ白なコットンドレス。肩も腕もむき出しにしたノースリーブ。「奈々はどんなヘアスタイルをしてる?」 龍ちゃんにも見えればいいのにね、と思いながら説明する。「背中まであるロング。毛先をホットカーラーで巻いてるわ。お洒落してきたのね」 奈々はこっくりとうなずいた。そして私に謝った。「阿南ごめんね。私のせいで髪の毛を伸ばすのやめちゃったんでしょ。短かければ、髪をつかまれたり、勝手にハサミで切られたりなんかしないもんね」 鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。 あわてて口元に手をやる。 なんで謝るの? つらかったのは、奈々のほうでしょう?「私ねえ。あの結婚は間違ってたって、ずいぶん早くから気づいてたの。殴られるようになる前から、あのひとがいい人じゃないって、わかってたのよ」 じゃあどうして気づいたところでやめなかったの?「間違った選択をしたのは私よ。最後まで責任を果たさなくちゃダメだって思ったの。親を捨てて、友達を捨ててまでして、彼を選んだのよ。たとえそれがハズレでも、捨てることはできないと思った」 ハッとした。その生真面目な発想は、今の私そのものだ。だとしたら、私が奈々を窮地に追いやったのではないか。逃げた方がいい、と直感で分かっていたのに、理性でそれを押しとどめた。もともとは、他人になんと言われようと気にしない性格だったではないか。親に愛されている自信だってあった。 どうして人生の一大事に、それまでのやり方を180度変えようなんて思ったのよ。 わがままついでに、結婚なんてやっぱりやめるって出てきてしまえばよかったのに。 どっちに転んでも責められることに代わりはないでしょう? 奈々は寂しげに笑った。「すべてを捨てて彼を取ったの。だったら、意地でも彼と幸せにならなくちゃ」 ねえ奈々。そもそも、なんであんなうさんくさい男の言葉に耳を傾けたりしたの? 私はどうしてもそれが知りたいの。男なんていくらでもいるじゃない。「それまで、私が好きになる人は、私じゃない人が好きだった。 彼はね、生まれて初めて、私のことを欲してくれた男だったのよ。私、愛されたかった。ものすごく強い力で愛されてみたかったの」 愛されてみたい。それは自然な欲求だ。しかし、欲しいもの手に取った後の代償が大きすぎた。それにつけ込んだ男のやり方の汚さに、今さらながら胸がむかついた。「愛されてると思ってる時は幸せだった。でも、彼に愛されるためには、私には足りないものが多すぎたの」 足りないものって? そんなのは、人間的な魅力とは関係ない部分じゃない! 彼にとっての価値は、金よ。金にならない女には意味なんか無かっただけよ。あんたはなんにも悪くないの。「そういってくれて安心した。私、女として全然魅力がないんだって、がっかりしてたの。毎日ののしられるようになってからは、前向きな考え方なんてできなくなってたし」 頬に涙がつたうのがわかった。 この子は、なんてつらい目に会ってきたのだろう。今の私なら、いくらでも言ってあげられるのに。そんなに思いつめることなんか何ひとつないってことに。「阿南。二人で話をしてるの?」 龍一の声が響いてきた。そうだった、ここには龍ちゃんもいたんだわ。「うん」「奈々は、どうしてる?」「しょんぼり立ってる。ドアのそば。私、奈々をギュッって抱きしめたい」「そうしてあげて」 龍一の声が合図になったのか、奈々はおそるおそる私の方へ近づいてきた。私は両手を広げて、彼女を強く抱きしめた。奈々の長い髪からは、甘いココナツの香りがした。「阿南。私、ずっと寂しかったの。本当は、阿南と一緒にいたかった。話を聞いて欲しかったのよ。足かせになるのがわかってたから、ずっと言い出せなかったの」 わかってる。今ならよくわかるよ。ずっと放っておいてごめんね。私自身が子供だったから、奈々を受け入れることができなかった。 失敗したのは私じゃない、と思わなければ、現実に立ち向かえなかったの。許して。「阿南。奈々はなんて言ってる?」 龍一が質問してくる。こうして奈々と抱き合っていると、もう、言葉の必要性は感じなかった。メッセージは、心に直接届けられていた。「帰ってきてもいいか、って」「どうする?」「もちろん、OK」 奈々は、ぱっと体を離すと私の顔をじっと見た。嬉しそうだ。「本当にいいの?」 当たり前じゃない。迎えに来るのが遅くなって、ほんとにごめん。「いいの。もう、待たなくっていいんだから」 奈々は、再び私の首にしがみついた。 力の限りその体を抱くと、一瞬にして奈々は霧のように消えた。 そのかわり、私の胸の中がじいんと熱くなっている。体の密度が濃くなったような気がする。ふんわりとした熱が、血管の中を巡っている。そしてそれは体中の毛穴から、シュワッと外へ飛び出していった。 頭の中には、失われていた記憶が洪水のように暴れていた。こま切れの映像が猛烈なスピードで通り過ぎていく。 龍一の声が私の思考をさえぎった。「阿南。奈々はどこに行った?」「私の中にいる… 奈々が言いたかったことが、今、いっぱいに散らかってる」 今や、部屋の中は浮遊する紙でいっぱいになっていた。そのひとつひとつに、奈々の主張が描かれている。それは文字のようでもあり、絵のようでもあった。手を伸ばしてそれをつかむと、瞬時に映像として私の中に入り込んでくる。 その中のひとつを取ると、やけどしそうに熱かった。これは…。「龍ちゃん、席を外して!」 私は叫んでいた。これは、純粋に奈々と私の秘密だ。龍一に見られるわけにはいかなかった。お願い、あっちにいって。のぞかないで! 龍一の声が静かに響いてきた。「オレにできることはすべてやった。あとは阿南が好きなようにしていいんだよ」 私は安心して、燃えるような熱い紙に視線を落とした。
2005.04.25
私はがっくりと床に膝つき、手で体の重みを支えた。 どういうこと? 奈々が私? 私が奈々? 龍一は私に手を貸すと、四つの枕をクッションにして、私をベッドに座らせた。 ソファを引きずってきた龍一は、私のそばに腰掛ける。「阿南。君の名前をアルファベットで書くとどうなる?」「ANAN。昔、あだなはアンアンだった」「それを逆さに読むとどうなる?」 「NANA」 それがなに? どんな関係があるっていうの?「阿南は、オレが心理学を学んだこと知ってるよね」「うん」「奈々という人物を作って、分離させて欲しい、と言いだしたのは阿南だ。思い出せるかな?」 私は首を振った。私の記憶は一部分が欠落している。 それは奈々として事件に出会っていた頃のことなのだ、と今になってふに落ちた。「もちろん、普通の心理療法ではそんなことはしない。オレが阿南と近い存在だったこと、阿南が望めばいつでもその状態を解除できるという背景があったから、特別にやったことなんだ。あの時、オレは、プロの心理療法士にはならない、と決めた」「どうして?」「プロだったら絶対にやらない手法だから。人格を統合するという治療法はある。でも、分離するという治療法はないんだ。それは治療ではなく、病気の状態を作り出すことに等しい。ルールを破った人間には資格がないだろ」「でも…でも、そうしてくれたことで、私は生きやすくなったんでしょう? あの夢で見たことが現実だったなら、あんな目にあって元気に生きていけっていう方が難しいよ」 私は、奈々を自殺させようとしたあの男の表情を思い出して身震いした。「つらかった時間にフタをして、その間に、ゆっくり力をためていけるようにしたんだ。阿南は、奈々と別れてから力を付けていった。大学に戻り、技術を身につけ、就職した。お父さんやお母さんの元で、今まで心配かけた分までしっかり親孝行をした」 なぜ、奈々にことさらつらくあたってきたのか、やっと飲み込めた。私は会いたくなかったのだ、過去の自分に。それは人生に失敗したという屈辱であり、今後の自分の足を引っ張る存在だったから。「でもね、いつかは奈々と阿南が一人に戻る必要があった。あるキーワードが、阿南をオレの元に運ぶ役割をすることになっていた」 キーワード。もしかして、それは…。思い当たるフシはひとつだった。「結婚、のことね。私の意識の中では初婚だけど、本当は二度目の結婚になるから」 東華がパスポートの申請を代行したわけが分かった。私が自分の戸籍謄本を取り寄せれば、過去、他の名字を名乗っていたことがわかってしまうからなのだ。「そういうこと」 龍一は、私が訪ねてくることを知っていたのだ。遅すぎるくらいだ、とも言っていた。「私…。私、どうしたらいいの?」「奈々と会ってもいいって、そういう気になったって言ってたよね。奈々に会えばすべてがわかる」 私は、ふーっと息をついてうなずいた。龍一は、私の左手を軽く握る。「クッションに寄りかかって、楽な姿勢をとって。それから、オレの言うことをよく聞いて。体の力を抜くんだ。そして、お腹の中にたまっている空気を、少しずつ口から吐き出す。細く、長く。すべてを出し切るんだ。そう、上手だよ。ぜんぶ出たら、口を閉じて。今度は、鼻から空気が入ってくるのに任せる」「何をするの?」「催眠状態に入るんだ。何も心配しないで。オレを信じて」 龍一を信じない理由などなかった。彼は私を窮地から救ってくれたのだ。そして今、私が一人前に戻るために手を貸してくれる。 自然にまぶたが閉じた。次第に体が温かくなってきたのがわかる。手も足も温かい繭に包まれたように動けなくなっていく。怖くはない。私は安心できる場所にいるのだ。「阿南。奈々が君に会いたがっている。すぐ近くまで来ているんだよ。どうする?」 龍一の声が耳の中に響く。性能のいいヘッドフォンで耳が包み込まれているようだ。風の音も雷の音もなく、しんとした空間に私はいた。「奈々に会いたい。私、奈々に謝りたい」「どうして謝りたいの?」「奈々を無視したから。私、奈々が力になって欲しいと思ってるとき、あの子を突き放したの。つらいときだったのに。可哀想なことをした」 その時、部屋のドアが静かに開き、だれかが入ってきた。 奈々だった。「阿南、もう、怒ってない?」 か細い声で聞く。
2005.04.22
滝のように水が流れ落ちるフロントガラスの前にたち、ドライバーズシートに寄りかかる龍一の注意を引いた。龍一は慌ててドアを開けて飛び出してくる。「どこ行ってたの? そんなに濡れて」「まあ、ちょっと、散歩ってところよ。スコールってこんなに凄いものだと思わ…」 ピカッ! 海の色が一瞬にして白に変わるほどの閃光がグレイの空を切り裂いた。続いて、ガラガラ、ドカアンという轟音が響く。 体がびくりと反応し、しゃべりかけていた言葉が引っ込んだ。 龍一は傘を開くこともせず、私の体に手を回すと屋根のある場所を目指して走り出す。 二人揃って部屋に入ったときには、龍一の体もまだらに濡れていた。「ずいぶん早かったじゃない、車を持ってきてくれるの」「雨が来そうだったから、早めに上がったんだ。それより阿南、ちゃんときがえな」 私が歩いた後には、びしゃびしゃと足跡がくっきりついていた。スニーカーを脱いで、水が抜けるよう、壁に立てかける。 シャワーを浴びるついでに着ていたものを洗濯し、水を絞る。 部屋に戻ると、龍一は奈々のノートを開いて読んでいた。「阿南、これ、読んでみた?」「それが…。あんまりたくさんは読めなかったの。昼間あれだけ寝たのに、あれからもまた眠気が来て。ビールなんか飲んだせいかしらね?」 龍一はほほえみの消えた固い表情で言った。「オレ、阿南に聞きたいことがあるんだよ」「なあに?」「阿南の誕生日っていつだ? 生まれたのは何時?」「やだ、龍ちゃんだって知ってるでしょ。1月1日、元旦よ。時間は夜の8時で、場所は川越。ホロスコープを作るのに必要なのよね?」「ああそうだ。東華の誕生日は知ってるよね」「もちろん。8月5日、東華は獅子座の女よ」「じゃあ、奈々の誕生日はいつ?」「え?」 奈々の誕生日はいつ? 一つ年下の妹、奈々。 私があの子と疎遠になったのは、あの子が20歳の時だった。それまではそれなりに仲良くしていたはずだった。 どうして私、奈々の誕生日を知らないの? 知らないわけがない、きっと思い出せないのだ。でもどうして? 開け放った窓からゴウッと風が吹き込んで、カーテンが大きくめくれ上がった。「阿南は知らないだろう。奈々がいつ、どこで生まれたのか」 頭の奥が白くかすんで、立っていることがつらくなってきた。地面が揺れる。「しらない…」 龍一は、奈々のノートに挟んであった写真をとりだして、私に見せた。 子供時代の私たちが写っている。真ん中にスポーツ刈りの龍一。 右にはおかっぱ頭の東華。左側にいるのは…私だ。 これは、夏休みに田舎に行ったときの写真。「奈々は写ってる? どうして奈々がいないのか知ってる?」 確かにいない。一つ違いなら共に行動していてもおかしくないはずなのに。それともこの写真は、奈々がシャッターを切ったのでは? 慌てる必要もないのに、私の心臓はドキドキと音を立てた。「阿南は昨日、奈々の夢を見たって言ってたね。奈々のヘアスタイルは? 奈々はどんな顔をしてる?」「奈々は…。長い髪をしてる。顔は私によく似てる」 口は開くのだが、ゆっくりとしか言葉がでない。どうしてこんなに重苦しく感じるの?「阿南、どうして今まで奈々のことを避けてたか、わかる? どうして思い出さないでいたのか、わかる?」 私は力無く首を振った。考えないようにしてきたもの、あんな子の事なんか。「奈々の誕生日は、1月1日だ」 え? どういう意味? 偶然1年後の同じ日に生まれた? それとも私たちは双子だったとか? そんな大事なことを忘れるわけがないじゃない! 頭が混乱して、膝がふるえる。 龍一は一歩踏みだして私の肩を両手でつかむと、真剣な眼差しで言った。「奈々は、きみだ。阿南が、奈々なんだ」 稲妻が一瞬部屋の中を白く照らし、その後を追うように、轟音が鳴り響いた。
2005.04.21
ぱらりと表紙をめくり、ぎっしりと書き込まれた横書きの文字列に目をやる。 いくつかは、行をあけて大きな文字で書かれている。紙がへこむほどの勢いで書かれたその文字に目が吸い寄せられる。「彼は私を役立たずだと言う。本当にそうなのだろうか。彼にとって役に立たなくても、他の人には役に立つかもしれない、その希望を捨てたくない」「もし、彼の元から逃げられたら、私は二度とこの場所に戻らない。二度と彼につかまらないよう、自分の手でハンドルを握って走る。必ずそうする」「仕事をしたい。自分でお金を稼ぎたい。彼の家で飼い殺しの目にあうのは嫌だ。誰かの役にたって、生きていることに感謝できる日々を送りたい」「彼は私の命に感謝はしない。死んでお金になって初めて感謝するという」「両親は、東華の方が可愛かったのだろうか。私は本当に愛されていなかっただろうか。彼の言葉をうのみにするのは危険だ。しかし彼は私の弱いところを的確に攻撃する。東華へのコンプレックスがそれだ」 ぬるくなったビールを一気に飲み干すと、視界がぐらりと傾いた。 頭の奥に白いかすみがかかったようにぼうっとした。 これ以上文字をたどるのが怖い。これ以上見てはいけない、というブレーキがかかる。 いや、単に体が疲れているのだろうか。あれだけ強烈な陽差しを浴びて、慣れない運動をして。さらにはおぼれかけたのだ。疲れない方がおかしい。 私は、部屋の電気をつけたまま、ベッドに横になった。アルコールの力を借りて、重たくなったまぶたを閉じた。 今度は夢のない眠りにつかせて。もう映画はいらないわ。 目が覚めたときは、窓の外から波の音が聞こえていた。 部屋の中には自然光が差し込んでいる。 律儀に部屋を照らし続けていたスタンドのスイッチをひねって消すと、立ち上がって伸びをした。体中が筋肉痛に悲鳴をあげている。 当たり前だ。普段から、これといった運動もしていないのだから。悪い夢を見なかったのは幸いだった。 駐車場を見ると、私のセダンの姿はなかった。そうだ、昨日はあの車には龍一が乗っていた。今日の私には足がないのだ。 足がない。これまでの私が、周到に避けてきた事態だ。 いざというときに自分の行きたい場所へ行ける、それだけは奪われてはならない権利だった。 私は、自分で思うよりも強く、奈々に共鳴していたのだろうか。彼女の気持ちが痛いほど刺さっていた。 どこへも出かけられない、どこへも逃げられない苦痛。 サンスクリーンを塗った上に長袖のTシャツを着て、コットンパンツにスニーカーを合わせて外に出た。 まだ少し空気がひんやりしている。日傘は大げさだと思い、つばの広い帽子をかぶった。 海の音が聞こえる、といっても、そばにビーチが広がっているわけではない。一番近い波打ち際は崖なのだ。水平線を左手に見ながら、モーテルの近所を歩き始めた。 目的があるわけではない。ただ、風に吹かれて、足の裏から地面を感じてみたかった。車が無くても、自分の足で歩き回ることはできる。 宿があるくらいだから、小さいながらも街なのだ。少し歩けばスーパーや食べ物屋くらいはある。軽く朝ご飯を済ませると、散歩の続きにもどった。 空を見上げると、さっきまで明るかった空の色が変わっている。 いつの間にか薄暗い雲がたれこめ、海の色まで鈍くなっていた。 水平線の向こうからは、黒い雲が塊になって陸の方へと移動してくる。ごろごろ、という不吉な音がする。 雨が来る。 そういえばこの土地で雨が降るときはスコールなのだ、と龍一が言っていた。 雨雲はどのくらいのスピードでやってくるだろう。 少し足を早めて宿を目指したが、びゅう、と一陣の風が吹いたのと同時に雨が降ってきた。 乾いた道路に、親指の先ほどの水玉が、ボツボツッと音を立てて落ちてくる。 ああ、あの日傘を持ってくれば良かったと思ったが、時すでに遅し。 雨宿りも考えたが、どうせ10分も歩けば宿に戻れるのだ。私はこのまま歩き続けることにした。 大粒のシャワーのようだった雨は、やがて一粒一粒が指圧のように強烈になっていった。洗いたてのスニーカーが土と水を吸い込んで行く。 一歩ふみしめるごとに、靴の中がグショッ、と音を立てた。私は両手を広げ、手のひらに強烈な雨粒のマッサージを受けた。 初めて体験する感覚だが、不思議とここちよい。 打たれている、というよりも、洗い流されているような感じ。 雨の粒が、私の中の毒を叩き出す。 昨日は海の中、そして今日は雨の中。 この土地に来てから、ずいぶんたくさんの水に触れている。 軍鶏婆さんの説によれば、そのつど私の皮膚からは、毒が抜けていくはずだった。 激しい雨で視界はぼやけているが、手の甲に浮かぶ水玉模様の色は、だいぶ薄くなっている。ここまで濡れてしまっては、急ぐ必要もない。 私はずぶぬれのまま、一歩ごとに足の裏で水を感じながら、ゆっくりと歩いた。 宿の前につくと、雨で煙る駐車場に、見慣れた車の姿があった。
2005.04.19
いやあっ! 叫びながら身を起こしたとき、私は思いきりむせていた。息が苦しい。 はあはあと荒い息をつきながら、体がびっしょり濡れていることに気づいた。 辺りは暗い。ここはどこ? 少なくとも映画館じゃないし、海の中でもない。 私は記憶のなかから一番新しい事実を引っ張りだそうとした。 どれが最新だったっけ? たしか今、私はモーテルの部屋の中、にいるはずだった。 何か明かりをつけないと。 体を起こしてスタンドのスイッチを入れようとすると、部屋の中に人の気配がした。 パカ、っとドアの開く軽い音がして、冷蔵庫から細い光がもれる。だれかがいる。この部屋にもうひとり。思わず体が固くなった。「阿南? 目が覚めた?」 振り返った男の顔は。 一瞬。 あの男だったらどうしよう、と心臓が縮まった。 パチリとスイッチが入り、部屋がぱっと明るさを取り戻す。その中に浮かび上がったのは、間違いなく、昔なじみのイトコ、龍一の姿だった。 安堵のあまり、涙が出そうになった。「怖い夢を見たわ。ものすごくリアルな」「ずーっと苦しそうにしてたからなあ。何か飲む?」 私はベッドから出て立ち上がった。大きく背伸びをして体を動かす。着ていたTシャツは汗でベタベタ、ショートパンツも湿ってくしゃくしゃになっていた。「ビールでも飲もうかしら」「珍しい! 飲んだりして大丈夫なの?」「なんだか飲みたい気分なの」 私はシャワーを浴びようとバスルームへと向かった。 コックをひねるとぬるい水が滝になって落ちてくる。ほんものの水だ。塩辛くもなければ、冷たくもない。あの夢の中の海とは、全然ちがう。そして私の頭を押さえつけて息の根を止めようとする男はいない。 どうしてあんな夢を見たんだろう。今でも鼻先に海の磯臭い香りがまとわりついている。 この温かい海とは違う、日本の暗くて冷たい冬の海のにおい。 シャンプーの泡が顔をつたって床に落ちていく。あたまのてっぺんにお湯を当てて、かるくマッサージする。あごの力が抜けて、食いしばっていた歯への圧力がゆるむ。ただ単純に、きもちいい。そして私は生きている。今こうして、ちゃんと。 ザッと体の水気をふき取ると、ワンピースを頭からかぶった。タオルで乱暴に髪を拭く。鏡をみながら手グシで髪を整える。 鏡に映る私の顔。夢の映画館のスクリーンに映っていたのもこの顔だった。そう、奈々と私はとてもよく似ているのだ。まるで双子のように。 部屋に戻ると、龍一の姿はなかった。 ベランダに続く窓が開き、カーテンがひらひらとしている。私は裸足のまま窓に向かった。 龍一は、手すりにもたれて外を見ている。 私も、その隣に陣どって風に吹かれることにした。 左から右へ一直線に、水平線が視界を横切っている。上半分は、見たこともないほどの数の星がきらめいている。生き物が眠りにつく時間。そして星が目を覚ます時間。「降るような星、だろ」「こんなの見たの初めて」「テントに泊まってたら、もっとすごいぜ。明かりが少ない分、星がたくさん見えるんだ」「そういえば、ゴールドコーストのホテルではこんなにキレイに見えなかったわ。あれは町の灯りがまぶしかったからなのね」 龍一は、ほい、と缶ビールを1本手渡した。びっしりと水滴がついた缶はまだひんやりと冷たい。プルトップをあけて、一口飲み下す。 炭酸がピリピリと喉を刺激する。海水にむせた夢の記憶がよみがえる。「でも、おいしい」 ビールそのものの味は、まだわからない。喉にしみるし苦い。でも冷たさとともに喉に落ちていくこの感触が、自分が今生きているってことを体の内側から教えてくれる、そんな気がするのだ。「もうだいぶ落ちついた?」 うなずいた。が、暗すぎて相手に見えないことに気づき、言葉に乗せた。「うん」「昼間さ、頭を打っただろ。打ち所がわるかったんじゃないかと思ってそれが心配だったんだ」「さすがの私も、一人で動く気にはなれなかったしね」「きもちが悪いとか、どっかが痛いってことはない?」「それはない。でも、すんごく、ヘンな夢を見た」「変な夢って?」「ものすごく、リアルなの。まるで本当に海の中に頭をつっこまれたようだった。真剣に、死ぬって思った」「海の夢だったわけ?」「そうね。最初は、私と龍ちゃんが映画館にいるの。そしたら、その映画は奈々の事件をダイジェスト化したものだった。途中でそれに気づいたら、私自身がその映画の中にすっぽり入ってた。 忘れたくても忘れられない顔ってあるのね。ハワイでちょっとだけしか会ったことしかなかったあの男の顔が出てきたわ。怖い顔して、オレのために死ね、って」 ベゴン、という音に続いて、わっ、という小さな叫びが上がった。「どうしたの? 龍ちゃん」「奈々の話ね。何度聞いても、どうしても、怒りが止められないんだ。 あ、今のはね、ビールの缶がつぶれた音。中身が半分にへっちゃったな」 私は部屋にもどってタオルを取ってくると龍一に渡した。「ひどい話だね、たしかに」「助かってよかったよ。黙って民家に助けを求めたのが良かったんだよな。感謝したいのは、奈々の底力だよ。ヤツに洗脳に負けないだけの精神力が残っていたんだ。もしその強さが無かったら、奈々の命はは今頃、札束になってヤツのいいように使われていた」「人の命がお金になるって、なんだか嫌な話だわ。換金するだけしか価値のない人間なんているのかしら」「いるわけないだろう?」 思いのほか強い言葉の勢いに、驚いた。「オレが心配してたのは、奈々自身がそう思いこまされていたことなんだ。ヤツにとっては、奈々は換金材料でしかなかった。でも、他の人にとっては違うだろ。奈々は光り輝く個性であって、もっと楽しい人生を送れる人だ。他人のために命を奪われるなんて、されちゃいけない人物だ。少なくともオレにとって。東華だって、奈々の親にとってだって同じだ。 本当にあのタイミングは、ギリギリだった。奈々の自己評価はゼロに近いところまで落ち込んでいた。邪険にされた時期が長すぎたから」「だから、龍ちゃんと東華がついてカバーしてあげたのね」「そう。離婚をして、大学に復学して。裁判のための調書をとって、出頭に応じる。気の滅入るような後処理がだいぶあったから」「今までね。その話、全然聞く気にならなかったの。奈々のこと嫌いだったし、内容だって楽しくも何ともないしね。でも、やっとあの子のつらさが想像できるようになったみたい。あの夢は本当にリアルだったから」「奈々が近くまで来てるんじゃない?」 龍一はカラになった缶をベキベキとつぶした。「そうなの?」 龍一がよき占い師として活躍しているのは、母譲りの霊感の強さがあるからだ。霊感、というか、共鳴する力を持っている。その龍一がいうならば、本当にそんなことがあるのかもしれない。 この地に来て、奈々に対して閉ざしていた扉が開いた。彼女がそれに気づいて訪ねてくる、なんてことがあるのだろうか。「奈々からずっと頼まれてたんだ。阿南が会ってくれる気になったら教えて、ってね。オレは約束を守る」 今の私には、奈々に対してヤキモチを焼く気にはならなかった。あんなにひどい目にあっていて、姉やいとこが心の支えになってやるのは当然だ。むしろ私が冷たすぎた、と素直に反省しているほどなのだ。「奈々が飛行機に乗ってこの場所に来るの?」「うーん。それなんだよね。阿南が帰国するまでに間に合うかなあ。とりあえず、先にあれを渡しておくか」 龍一は私を促して部屋に戻った。メッセンジャーバッグから薄い紙袋を取り出す。「これ。奈々から」 袋の中身をみると、年季の入った大学ノートが1冊入っていた。パラパラとめくるとボールペンで文字がぎっしり書き込まれている。これは、日記?「それね。奈々が、あのひどい結婚してるころに、書いていたもの。電話も使えず外出もできず、使えるお金もほとんどない。彼女にとっては、紙だけが相談相手だったんだ。上手に隠してあったから、裁判の時の資料として役にたった。戸籍上の夫がどれほどひどいことをしたか、が書いてあったからね」 それを聞くと、ぺらぺらの紙の集合体が、ずしりと重みを増した。怖いくらい重い。 表情が暗くなった私を見て、龍一は言葉をついだ。「全部読むことはないよ。阿南にとって大事なところは少しなんだ。どう、読んでみる?」 私はうなずいた。今まで突き放してきた妹を、もう少し理解してやりたい。そんな気持ちになっていた。「わかった。これを読んでみる。龍ちゃんはもう戻って。それで明日、私をピックアップしてくれる? 明日になれば私も運転する元気が戻ってると思うから」「昼過ぎでもいいかな? 朝はちょっと波に乗りたいんだ」「OK。それじゃ千紗さんによろしく」 彼女はひとりで、龍一の帰りをジリジリと待っているだろう。気の毒に。でもガマンしてもらうほかはない。龍一は彼女のためだけに生きているわけじゃない。 龍一は、冷蔵庫の中にビールを2本残していった。これを飲んだらもう少しリラックスできるだろうか。私はあらたに1本の口をあけながら、目の前に置かれたノートの表紙をじっと見つめた。
2005.04.13
女が口を開くと同時に、回想シーンが始まる。 顔をしたたかになぐられる。目の周りにはアザが、あごには鼻血が一筋つたう。 うずくまったところを蹴られる。何度も、何度も。 裸足のまま逃げだそうとして髪の毛を捕まれ、ひきずりもどされる。 長かった髪の毛をハサミでじゃきじゃきと切られる。こんな頭ではとても外には出られない。男が去った部屋の中で一人涙する。 強引に車に乗せられ、小さな病院に押し込まれる。助けを求めることもできず、手術室へ送られる。目を覚ますと白い天井。年老いたナースが涙を拭ってくれる。 女は部屋でシャツにアイロンをかけている。 ちゃんとしておかないとまたなぐられる。 機嫌がいいときはとことんやさしく、機嫌が悪いときは徹底的に痛めつける。 その行動に規則性はない。黙ってやり過ごすしかない。やがて女は、自分が動物なのか植物なのかの区別もつかなくなっていく。 なんて暗い展開なんだろう。私は立ち上がってここから出ていきたい、という気持ちになった。 この話がどう続くのか、私は知っていた。 これは奈々がたどった道だった。 奈々は籍を入れた男の家で半ば監禁状態にあった。自発的な行動はすべてさえぎられ、精神的にも不安定になっていた。暴力と甘い言葉で男は巧みに奈々をコントロールしたのだ。まるであの子が、あの男の道具になるために生まれてきたかのように扱ったのだ。 私の気持ちにお構いなしで、スクリーンでは物語が展開している。 女は、車の運転席に座らされていた。相変わらず目には光がない。しかし、顔には傷もなく美しく化粧がほどこされていた。まっくらな画面に、白い文字が表れた。「これしか方法がないんだ。お前が金を作れなければ、オレはあいつらに殺される」 車は海にほどちかい埠頭に止まっている。手袋をした男の手が、キーを回し、エンジンをかける。「やってくれるよな。頼りになるのはお前だけなんだ」 女は無表情のまま、ブレーキを踏んでいた足を、アクセルに踏み変える。 もうやめて! もう見たくない! なのに、私の目は意志に反して見開かれたまま。 スクリーンが私のほうへ倒れ込んでくるというのに、逃げることもできない。 映画館の椅子に座っていたはずの私は、今や車の運転席におさまっている。私はこの映画の中にすっぽりとはまりこんでしまっていた。 走り出した車は、まっすぐ海に飛び込んだ。エレベーターでワイヤーがきれたらこんな感覚だろうか。ふわりと体が浮き上がる。 次の瞬間、大きな水柱が上がって車は水面へと引き込まれていく。 目の前にたくさんの星がちらつく。そこから鋭い言葉が刺のように飛び出し、私の肌にざくりざくりと突き刺さっていった。「オレの見たてちがいだった。お前はクズだ」「こんなに困っているのに親が手を貸さないなんて、お前は愛されてなんかいなかったんだよな」「親が愛したのはお前の姉さんだけだ。お前は出来が悪かったから」「お前にはオレしかいない。こんなクズのお前を愛せるのはオレだけだ」「なあ、お前がこのまま生きていても、価値なんかないぜ?」「愛する人のために命を投げ出すって崇高なことだろ。今のお前ができるただ一つのことがそれだ」「華麗に人生の幕を引くんだ。お前の舞台はオレが見届ける」 こしらえた借金を返すことができなくなった男。女の親から搾り取ることに失敗した男は、妻の死亡保険金で補填することに決めたのだった。 いわく、妻は情緒不安定だった。鬱病にかかっていた。つねに死にたいと口にしていた。自分が外出している間に、妻は車を運転して飛び出していったと証言する予定だったのだ。 車ごと飛び込んだ夜の海は、冷たい。 皮膚感覚はどこまでもリアルだ。 私は思わず息を止めた。本当に溺れるかもしれない、という不安が一気に押し寄せる。心臓はこれ以上は無理だというスピードで鼓動している。 言われるがまま、他人のために死ぬのか。 そんな命の使い方があっていいものか。 クズよばわりされて、己の人生を無価値だと洗脳されただけではないか。死んだ方がいいのはいったいどっちだ! 怒りが一点に集中し、小さな弾丸のようになる。どこまでも中央に集まろうとしたその物体は、自らの圧力に耐えられず、真っ白な爆発を起こした。死んでたまるか! シートベルトをはずし、開けっぱなしになっていた窓から身を乗り出す。水はどんどん中に入り込んでくる。窓枠を蹴る。 空気を求めて海面へと水をかく。 頭が水面に飛び出したところで、周囲を見渡してみる。男は、車が沈んだ場所をまだ見つめている。しっかりと沈んだかどうかを確認しているのだ。 水はその場で心臓の動きを止めてしまいそうなほど冷たい。足の指先がじんじんと痛み出す。肺が空気を求めるあまり、口がパクパクと開く。 立ち泳ぎのために動く手は、ヌルヌルと量感のある海水を切り分ける。動いていないと体が冷えてしまう。 頭の中には男の身勝手なセリフがぐるぐると回る。「華麗に人生の幕を引くんだ」 人生に失敗したのはあんたでしょ? あんたの失敗の穴埋めのために私の人生使うのはどうして?「お前の舞台はオレが見届ける」 あんたに見せる舞台なんかない。あんたの期待にそうようなストーリーを演じる必要なんてない。私はあんたのあやつり人形なんかじゃない! なるべく音を立てないように、岸に上がれそうな場所を目指して泳ぐ。持てる力のすべてを使って、冷たい水の中を。 ああどうして。どうして夢の中なのにこんなにも冷たいの。 そうよ、夢なんだから好きなところで醒めてもいいはず。 私は目をきつくつぶって、映画館の椅子に座っていたあの感覚を思い出そうとした。 ぱっと目をあけて右隣をみると、龍一が心配そうに見ている。 ふるえる私の右手を、龍一の温かい左手が包む。ほっと息を吐き出して、今味わった恐怖を吐き出そうとした。ねえ龍ちゃん聞いてよ、と。 顔を上げると私の手を握っているのは、海に落ちろと自殺を強要したあの男だった。その顔はすでに男前のアジアのスターではない。 あの時見た顔。ハワイのホテルで初めて見たあの顔だった。「お前が死ねばすむんだ!」 男は手をふりほどき、ちからいっぱい私の頭を水の中に押し込んだ。映画館だったはずの空間は暗く冷たい海に戻っている。 私は、酸素を求めて、ひたすら暴れる。水が肺に入ったら溺れる。水の中に押しこめられている時は口を開いてはいけない。水の外に顔をだすのだ。 しかし押さえつける手の力はゆるまるどころか、一層強くなっていく。もう、息が続かない。本当にここで私の人生は終わるのか…
2005.04.08
私は、照明が落とされて真っ暗になった部屋にいる。 映画館だ。 一番前の列に腰掛けて、首が痛くなるような角度で、スクリーンを見上げている。 椅子はマッサージチェアかと疑うほど座り心地がいい。クッションは深いのに柔らかすぎない。背中にさわる革は、まだヒヤリとしている。席についたばかりなのかしら。 膝に手を置くと、スカートのプリーツに触れた。 紺サージのプリーツスカート。身につけているのは、ラインの入った紺のカーディガンと白いブラウス。ごていねいに胸元にはえんじ色のリボンまで結んでいる。 ああこれは高校の制服だ。 右隣から、細長い紙コップが差し出された。口元いっぱいに白い泡が盛り上がり、中には小さな泡が出る黄金色の液体が入っていると知れる。 ビールなんていらないわ、断ろうとして顔を上げた。 ひとつの空席を挟んで、右にいるのは龍一だった。 高校生時代の龍一。顔がまだ幼い。 そうだ、昔はよく、二人して古い映画を見にでかけたものだった。 話の合う仲のいいイトコ。ボーイフレンドとか恋人とか、そんな緊張感がなく、人間対人間として一緒にいられる相手。ジャンケンで負けた方が、二人分のコーラを買うのがおきまりだった。 私は手を伸ばしてコップを受け取った。ひとくち飲むと、さわやかな苦みが口の中に広がった。シュワっと小さな泡が喉を刺激する。ぷはっ、と息をついて目を上げると、一瞬にして龍一は、筋肉たくましい日焼けしたサーファーへとと変わっていた。 ああこれは夢だな。 ときどき、自分で見ている夢が、現実ではなく、ただの夢だと自覚するときがある。 どんなに五感がリアルでも、内容が突飛すぎるから、わかる。 でも、その中にいる間は、いつもの生活にはない刺激が味わえる。酒もタバコもやらない私にとって、睡眠はひとつの娯楽なのだ。 今もまた、私は自分が作り出した亜空間に吸い込まれているらしい。 ビールを口にしたとたんに、私にも変化が起きた。 着ているものが白いサンドレスに変わる。長かった髪もいつのまにか短くなり、首筋に空気を感じるようになる。 スクリーンでは、モノクロの模様がカウントダウンを始めている。5、4、3、2… 画面には若い男女が現れた。男はアジアのアイドルといった風体。 太い眉にあっさりした顔立ち。黒目がちな目は二重のまぶたに縁取られている。セリフはあるが日本語ではない。耳慣れない言葉が続く。と、隣からおもちゃのようなメガネが手渡された。 これを装着すれば画面が立体的に見えるって? メガネのつるを耳にかけ、ペラペラのセロファン越しにスクリーンを見つめる。すると無声映画のようなその画面に、字幕が浮き出した。「今はじめて、この旅に出たわけがわかった。君に出会うためだったんだ」 色男が歯の浮くようなセリフを口にする。 対する女は少女のおもかげが残るふっくりとしたほっぺたにやわらかなロングヘア。はにかんだ表情が愛らしい。疑うということを知らない笑顔、恋に落ちた瞬間。「君といると楽しい。人生が輝いて見えるよ」 水着姿でビーチを走る二人。波打ち際で水を掛け合う。波に足を取られて頭まで水びたしになる女。それでも大声で笑う。首を振ると長い髪の先から水しぶきが飛ぶ。 画面は一転。キャンドルの明かりと白いテーブルクロス、ビールのジョッキで乾杯する二人。身の上話をする男、ほおづえをついてそれに聞き入る女。店内のステージには生バンド。「踊ろうよ」 男に促されて立ち上がる女。ステップを踏むよりも、体を寄せ合うことが目的のゆったりしたダンス。女は言う。「このまま時が止まればいいのに」 陳腐なストーリーだった。出会い、恋に落ちる二人。 だからそれがなに? 美男美女であれば、どんな筋書きでも絵になるってこと? 一般人はそのシナリオを見て学べ、というのか。恋を劇的に演出する方法はあまたの映画が与えてくれる、と。 どこかで聞いたようなセリフに、だれでもやっていそうなデート。 画面の中の女が、あれほどうっとりすることが不思議だった。 これではまるで女には脳味噌が足りないみたいではないか。私は居心地が悪くなって椅子の上でお尻をもぞもぞした。龍一が、私と同じ紙製メガネをかけた顔の前で人差し指を立ててみせる。しーっ。ちゃんと見て。 ホテルの部屋で荷造りする女。借り物の大きなスーツケースには、詰めるべき荷物などほとんどない。ルームメイトらしき人物の手が、受話器を手渡す。電話を手にしてハッとする女。「ちょっと出て来られない?」 小さなバッグを握りしめ、駆け出す。ロビーで待っているのはもちろんあの男だ。男は車のキーをクルクルと回し誘いの言葉を口にする。「少し外を走らないか」 夜風に吹かれながら海岸沿いを走る。一方には暗い海、もう一方にはキラキラと夜景が広がる。女の黒い髪が風に暴れる。車を止めて見つめ合う二人。「明日、きみと同じ飛行機に乗るよ」 驚き、喜びに涙する女。「もう一時だって離れていられない」 隣あったシートで体を持たせかける女。 映像はそのまま飛行機のシートに変わった。男の肩によりかかる女。二人の手はしっかりと指がからまりあっている。 空港で別れを惜しむ二人。女をきつく抱きしめて、男はささやく。「かならず迎えに行くから」 男に見送られて立ち去る女。 おきまりの別れの場面。まだこんな話が続くのかとなかばあきれ、手にしたビールを口にはこぶ。不思議にいつまでも冷たいままだ。ほてった体を中から沈める効果があるみたい。やがてスクリーンでは足早にシーンが切り替わっていく。視神経がマヒするようなビデオクリップのように。 夢見る表情で手紙を書く女。 手にした妊娠検査薬に青ざめる女。 公衆電話で受話器を握りしめ涙する女。 父親になぐりかかられそうになる女。それを止める母と姉。 小さな鞄を手に家を飛び出す女。 電車から降りてきたところを、抱きしめられる女。 泣き顔は男の両手に挟まれ、熱いくちづけが悲しみにふたをする。そして、役所に届け出をする二人。「これからはずっと一緒だよ」 喜びで顔をくしゃくしゃにする女。 そして暗転。 舞台は地味な会議室に移る。女はスチールの椅子に腰掛けている。その後ろ姿はか細い。うつろな目の中には悲しみだけがある。中年の男がくたびれたワイシャツにぶらさがったネクタイを緩める。 女の膝には、ぱたぱたっと涙の粒が落ちる。肩がふるえている。
2005.04.07
レクチャーは、足がつく深さから始まった。水面に浮かべたボードに腹ばいになり、背中を反らせて両手で波をかく、パドリングの練習である。「これができないと、波のある位置まで動けないからね。しっかり背中をそらせて!」 水面に龍一の頭がぽこんと飛び出ている。 板が水面と私をへだて、沈まないよう命綱の役割をしてくれる。 予想していたよりも、怖いとは感じなかった。沖の方からゆっくりと水がもりあがってくる。板に乗っていると、するりとその山を越えて沖へと近づける。 龍一が見守っているという安心感もあり、どんどん水をかいていく。「この辺で、ボードにすわってみようか」 こぐ手を止めて、水に浮かべた板に馬乗りになる。上半身だけ水面にでていて、腰から下は水に浸かっている。腰でバランスを取らないと、ひっくり返ってしまいそう。 言われるままに手でくるくると水をかいて方向を変え、岸に目をやった。 景色が目に入ると、ざあっと血の気が引いた。 前だけを見て必死になっている間に、ずいぶんビーチから離れていた。本当にここから自力で陸まで戻ることができるのだろうか。 軽いパニックに襲われて、私は板からすべりおりた。両手でボードをつかみながら足の下の海がどれほどの深さか確かめてみようとする。おろかな行動だった。 もちろん足がつくほど浅いわけがない。 恐怖心がフルスロットルで私を身動きのできない場所へと連れ去る。 怖い! 立ち泳ぎで浮かんでいた龍一の顔がこわばった。「阿南、怖くなった? ちょっと待って。ボードを絶対離すなよ? 大丈夫、ボードをしっかり握っていれば、おぼれたりしないから。さっきと同じように板の上に乗ってこげば、岸につけるから」 絶えず話しかけてくれるのだが、私の体はガチガチに固まってしまい、なんの命令も受けつけない状態になっている。かろうじて、頭を水面より上にだすことがやっと。 龍一がこちらに泳ぎながら近づいてくるのが見える。 そばまできてくれればどうにかなるかしら。浅くなった呼吸でそう考えていると、突然、後頭部から波をかぶった。水を吸い込んでしまい、むせる。 片手を離して顔についた水を拭っている間に、もう一度水が襲撃した。 あわてて沖の方を振り返る。 この勢いで波をかぶっていたら、溺れるのは時間の問題だ。と、次にやってきたのは、ついさっきの2回とは比べものにならない大きさの波なのだった。 両手でボードをつかもうとしたが、つるりと滑る。 あっ、と思う間もなく、私は水の中にはまりこんでいた。 頼みの綱のボードは、手の届くところにはない。 どうしよう。こんなところで私、溺れて死ぬのかしら。 必死に手足をバタつかせて、水面に顔を出す。少しだけ岸に近づいている気はする。しかしまたしても足で海の深さを調べようとして、体ごと水面下に沈んでしまう。 だめだ、海の深さなんかどうでもいい。 とにかく、平泳ぎで顔を出しながら、少しずつ進むしかない。 思うように動けないのは、私の手から離れたボードが、勝手に岸に向かって動いているから。足首につけたコードで体が引っ張られているらしい。 どうしよう。すでにだいぶ水を飲んでしまっているし、呼吸を整える余裕もない。 心臓が激しく収縮を繰り返し、頭の中には、不安感がどす黒い入道雲のようにわき上がる。これまで海を避けてきたのはなぜだった? 冷静な自分の声が、エコーをかけながら耳の中に渦巻く。「だから言ったじゃない、やめておけって」 必死に岸を目指す途中、後ろから頭に何かが激突した。水から顔を上げると、それは私の足につながっているはずのサーフボードだった。 いったいどうなってるのよ、と泣きたくなったところで、ここがすでに足のつく浅瀬であることがかった。 砂浜にあがると、転ぶようによつんばいになる。鼻水が垂れていることに気づき、手鼻をかむ。口の中に入った砂をぺっぺっと吐き出す。 つい数時間前には、海って気持ちいいじゃない、と思ったのがウソのようだ。 体中がガクガクとふるえる。 せき込みながら、深呼吸を試みているところへ、龍一がやってきた。「阿南、大丈夫? 少し休んだ方がいい」 私の足首からボードをはずし、抱えて歩く龍一の後ろ姿を見ながら、私はよろよろと車へ向かって歩き出した。 水を浴びて海水を落とし、体をタオルでくるんでいるところへ、千紗がやってきた。「リュウ。言ったでしょう。無理させちゃダメだって」「ああ。でも、阿南は昔、泳ぎが得意だったんだ。だから大丈夫だと思って」 え? 何言ってるの? 私が泳ぎが得意だったって? 龍一はヘンなことを言う。「とにかく! プールで泳ぐのと海とは違うし。波乗りに興味がない人を沖に連れ出すなんてムチャなのよ。さあ、もう今日は上がり! リュウ、彼女を宿まで送ってあげて。これで海が嫌いになったりしたら、可哀想だと思わないの?」 千紗は、テキパキと私の着替えを手伝ってくれた。乾いた服を着ると、ホッと人心地がついた。龍一が私のレンタカーを運転すると言い、私は黙って助手席に乗り込んだ。 ちょうど昼時ではあったが、とてもじゃないけど食欲なんかない。「阿南、ごめんな。怖い思いさせて」「うん。最初は楽しかったんだけど。沖にでてから、急に怖くなってきて。岸から離れていることがものすごく嫌だったの。ちゃんと陸に戻れるのかしら、って不安がどーっとやってきて」 せっかく、千紗がいないところで二人になれたというのに、何か会話をするほどの元気は残っていなかった。途中、食料品店で果物とミネラルウォーター、龍一用にビールの6本パックや食べ物を仕入れて、海の見える私の部屋へと戻った。「いい部屋だね」 龍一にそう言われると、嬉しくなった。そうだ、私はこれまで子供時代からずっと親に与えられた部屋で暮らしてきた。自分がこだわって探した部屋を誉められるのは、気分がいいものだ。「私、シャワーを浴びたら少し休憩する。龍ちゃんはすぐ戻る?」「いや。もう少しここにいてもいいかな。さっき頭、打ったでしょう。具合が悪くなったら怖いし」「わかった」 海で溺れそうになる。 この旅に出てから、あんなに不安な思いをしたのは初めてだった。普段の暮らしでは、死にそうな思いなんてしたことがない。 冷静であれば溺れる事なんてないはずだったが、パニックになると、人は持っている能力のすべてを放棄することになるのだ。 私は太陽から体を守ってくれたサンスクリーンを洗い流すと、サッパリとした格好で部屋に戻った。「少し眠ったら。体もずいぶんビックリしただろうから」 龍一の言葉に視線を落とすと、赤いブツブツの色がまた一段と濃くなっていた。 ソファに腰掛けてビールを飲む龍一に見守られ、私は溺れる心配のない、シーツの海にと仰向けになった。
2005.04.06
朝。ベランダに出ると、次第に明るくなる海に向かって大きく息を吸った。 海で泳ぐ、か。振り返れば、10年前のハワイ旅行が、海で泳いだ最後の記憶だ。 親をつれて日本の各地は旅したが、海辺は夏をさけて冬を選んでいた。どのみち、3人が求めていたのは温泉での保養と海の幸なのだ。海辺はすいている季節の方がいいにきまっている。 確かに年寄りくさい旅行の仕方ではある。 そこに若さはあるか? いや、ない。冒険のボの字もなければ、挑戦のチョの字もない。私はいつも安全なルートしか歩いてこなかった。千紗の言葉にムキになるのは、私がまるで本物の年寄りのように思われるのがいやだったからだ。私だって、冒険に全く興味がないわけではない。慎重だっただけだ。 シャワーを浴びてサッパリすると、武岡から持たされた紫外線ケアグッズをベッドの上にズラリと並べた。2人用の部屋だから、ベッドがひとつ余っているのだ。 裸のまま、体中にサンスクリーンを塗りたくる。水着には紫外線防止機能なんて期待できない。新素材と銘打ってはいるが、自らが実験する前に全面的に信じる気にはならなかった。 やがて全身がベールに包まれたことを確認すると、水着を着た。その上からは、買ったばかりの白いラッシュガードをかぶる。布地は薄くて良く伸び、水はけがいい作りになっているという。サーフパンツをはいて、着替えをバッグの中に詰める。 鏡をのぞくと、やはりうっすらと全身にぶつぶつが認められる。 でも、もう、さほど気にはならない。いずれ治ることだ。私には自信があった。肌は、前回よりも早く元通りになるだろうと。漢方医の薦め通り、太陽を浴びているしこれから海水にだって浸かるのだ。長年ガマンしてきたことにもケリがついたことだし。 サングラスをかけると、私は二人がいるはずのビーチを目指した。 車を止めて海を見やると、すでにいくつものボードが水面に浮かんでいる。しかし、波はこのあいだ見たときよりも小さいようだ。荷物を降ろして、お尻のポケットに車のキーをつっこんでベロクロのふたをバリリとしめる。降り注ぐ陽差しは強烈だったが、日焼けへの恐怖はほとんどなかった。今こそ自社製品の力を実感する時だ。 サーファー達の邪魔にならずに海に入れるのはどのあたりだろう、と観察する。 と、一人の小柄なサーファーがひらりと波にのった。黒と白に染め分けられたラッシュガードを身につけた姿は、ショーでジャンプするシャチを連想させる。よくよく見ると、それは女性だった。千紗だ。 なんだ、波乗り、うまいんじゃない。 さすが、サーフィン旅行に同行するだけのことはある。彼女自身も、海の中でこそイキイキする本物のサーファーだったのだ。ファッションだけの丘サーファーではなく。 私の中で、彼女の評価は一気に3段階アップした。能力を持った人が私は好きだ。ああまで見事に体を使うことができるなら、丘に打ち上げられた状態は面白くないに違いない。 挑戦的な姿勢の数々は、この際、棚に上げてもいい、という気になった。 サンダルを脱ぎ、熱い砂の上を裸足でビーチに向かう。 とりあえずの自分への課題。海の中に入ってみるために。 波が引いた直後の濡れた砂は、しっかりとかたまって歩きやすい。 一歩ごとに砂がけりあがる乾いた砂浜とは全然ちがう。 鏡のように景色をうつしだしている砂の上にたたずむと、白く泡だった水がざあっと足首を洗っていった。 覚悟していたほど冷たくはない。むしろ、どこかあたたかい感じ。 そのまま歩を進めると、足の下で砂が崩れていく感触がくすぐったかった。 崩れてくる波に、背中をぶつけてやり過ごす。波の力を直に受けて、その激しさに驚いた。ぼうっと立っていたら転びそうな勢いだ。 それを超えるとしばらくは波の崩れはおこらない。それを確認しながら一歩また一歩と沖へと進む。 膝から腰へ、腰から胸へと水が体を濡らす。泳げるかどうかの自信がないので、顔が水面から出る位置より奥へ歩く気にはならなかった。 ふんわりと盛り上がる波の山を見ると、それを飛び越えようとジャンプしてみる。体が軽い。陸上で跳び上がることを考えたら何倍も何倍も楽だ。 水の透明度は高く、視線を落とすと白い砂の上に立つ自分の体が見える。そうだ、このまま同じ深さの所を横に移動すれば、遠くへ行かずに済む。 サーファー達はこの浅瀬までは滑ってこない。沖よりの位置からパドリングで波の向こうへと戻っていく。安心した私は、足を蹴って、顔を水面に出したままの平泳ぎを試みた。 競技に出ようとか、人に勝とうとする必要はない。 ただ、この水の中に浮いてみたいだけ。足がつく深さなのだから、疲れたら休めばいい。小学生時代にマスターしたはずの動きに神経を集中させた。 目線が水面とほぼ同じ高さになる。海面が上下する度に、ちらりと波に乗るサーファーの小さな姿が目にはいる。陸上であれば、マンホールに体を沈めて、頭一つ分、地上に飛び出しているみたい。 これまで私は、なぜ、海に入ろうとしなかったのだろう。 何するわけでもなく、浅いところをちんたら泳ぎながら疑問に思った。いざやってみたら、避けて通るほど嫌なことじゃない。 嫌どころか、熱い陽差しが透ける海の中に体ごと包まれるのは、気持ちがいいではないか。すい、すい、と少しずつ体を進めながら、私は顔がにやけてくるのを止められなかった。思ったよりも簡単だ。ビビる必要なんてないじゃない、と。 体をくるりと回して、水面に体を浮かべてみる。耳の中に暖かな水が入ってくる。 ゆら、ゆらと浮かびながら、太陽を浴びると手と足の指の先すべてから、じわじわと何かが溶けて出ていく気がした。 私の中に凝り固まっていた何か。意固地に守ろうとしていた何か。過剰防衛で外界から遮断しようとしてきた何か。 心地よさに身を任せていたら、顔の上を波がざばりと通過していった。空気を吸い込もうと口を開けていたのだから、たまらない。 瞬時に気道の中に塩水が入ってしまい、激しくせき込みながら体を起こした。いつの間に流されていたのか、足をついたら水面は腿の中程までしかなかった。 涙を流してむせながら、水への警戒心を忘れるとこういう目にあうのだな、と納得する。 何歩か歩いて肩までの深さの場所に落ち着くと、今度は立ったまま、水の抵抗を使って体を斜めに倒してみた。水によりかかって体を伸ばす。 まだ喉の奥はしょっぱかったが、体はすっかり心地よい。 心を解放する、という言葉が脳裏に浮かぶ。 私は自分の心をどこに閉じこめてきたのだろう。そして檻の扉を開けたら、どこへ飛んでいきたがるのだろう。 指先がふやけてきたことに気づき、陸に上がった。枝にかけられた見覚えのあるバスタオルを目標に、熱された砂をふみながら歩く。頭についた塩水をタオルでザッと拭き取ると、後ろから声をかけられた。「よう、阿南。海はどう?」 振り返るとボードから水滴を垂らした龍一が立っていた。「波をかぶらない場所にいる限りは、快適だわ。10年ぶりって言っても、泳ぎ方は覚えてるもんなのね。自分でも驚いた」「そうでしょ。阿南はね、自分が何をできるかを、忘れてるだけなんだよ。ずっと封じ込めていたから」 龍一は妙な言いかたをした。 水を飲んでひと休みすると、私は彼の誘いを受けて、再び海の中へと入っていった。波が小さくなり人が減ってくる時間帯だから、サーフィンの練習には最適だというのだ
2005.04.05
翌日、モーテルの部屋に落ち着いたときには、太陽はすでにオレンジ色に変わりかけていた。 あのゴージャスなホテルをチェックアウトしてから、気に入った宿を見つけるまでにおそろしく時間がかかった。どうせなら、徹底的に自分の好みにあった所に泊まりたかった。 だって、「レンタカーが赤くなかった」のがすごく不満だったんだもの。今度は最初から自分で選べるんだから、妥協しないでいこうと決めたのだ。 海沿いに建っていて、部屋のベランダから海が見えるという条件。 せっかく長い休みがとれたのだから、時間の余裕はある。幹線道路から海に抜ける道路を何本も何本も走ってみた。ついに努力が実って、こじんまりしていて気分のいい部屋が見つかった時には小躍りしたくなった。 もし誰かと一緒に旅していたなら、こんなに時間をかけてまで部屋を選んだだろうか。どこか適当なタイミングで「もういいよここで」と言ったに違いない。 正直言って、自分がここまでしつこく部屋探しをする人間だとは思わなかった。普段通りの生活だったら絶対に見えてこない一面だ。なんの制約もなく、自分のしたいとおりに行動できる、って面白い。あのときマイが言ったとおり、私にはコドクリョクがあるに違いない。 大きなガラス窓をあけてベランダにでると、マイのことを考えた。 彼女はなんて言ってたっけ。探している人が見つかったら、教えて? もしたずね人が見つからなくても、イルカと泳ぎにきたら、と。 今になって、見つからなかったときのことを心配してくれた言葉のありがたみがしみた。毎日あの勢いで人さがしをして、それでも成果がなかったとしたら、私の落胆は想像に固くない。彼女は、必死すぎて一つのことしか見えていない私に、ほかの道もあることを教えてくれた。 ここからバイロンベイまではそう遠くない。30分も車を走らせればつく。彼女を夕食に誘ってみようか、という気になった。バッパーの敷地内にはレストランもあったことだし。 落ち着ける部屋が見つかったことで、肩の荷がおりた。さっきまでの緊張感と、本当に見つかるんだろうかという不安感、もやもやとした疲れがスッキリと消えている。さっとシャワーを浴びると、体がシャキッとした。服を着替えて車に乗り込む。 のっぺりとした大陸の上を時速90kmで走る。 空気も、土の色も、季節も。日本とはあまりにも違う。いつもだったら、一日の仕事を終わらせようとしている時間だ。暖房の効いた、清潔な箱の中で過ごす日常を思うと、今、夏の風に吹かれていることが不思議だった。 いつもと違うことをしていても、どんな場所に身を置いていても。私という人間の根っこは何も変わらない。だけど環境が変われば、これまで使ってこなかった側面が見えてくる。新しい発見だ。 部屋探しをしていた時は、本当に今日中に見つけられるのかと不安で、胸の中にピンポン玉が暴れているようだった。龍一をさがしているときに似た緊張感があった。ハンドルを握る手には余分な力が入るし、頭の奥はいつもピリピリととがっている。 ところが今は、心は波の静まった海のようにフラットだ。体はリラックスしているし、余裕のある運転ができる。日本にいたころの、安定した日常生活と何ら変わらない、足が地に着いている感覚がある。 人間を動かしているエネルギーって、一体なんなのかしら。 もしかすると、感情がガソリンの代わりなのかも。 すると、これまでの私は、とても燃費のいい暮らしをしていたということになる。低めに安定した精神状態で充分活動できていたのだから。 千紗の挑発に乗ろうとしている私は、いつもよりはるかに多い「やる気」を感じている。これは外部から受け取る刺激がエネルギーに転換されたということなのだろうか。「やだ、びっくり!」 探し当てたマイは、突然の訪問に驚きながらも、歓迎してくれた。「お礼かたがた、ご飯でも一緒にどうかと思って」「ってことは、うまく見つかったわけ? イトコ殿は」「そう、昨日、見つかったの」「わーお、乾杯しよ、乾杯」 マイはVBというビール、私はジンジャーエールで乾杯をした。メニュー選びは彼女に一任した。私はこの地に着いてから、だれかと夕食を共にするのは初めてなのだ。 龍一が見つかったら、そこからは彼と一緒に食事をするつもりでいた。まさか、それを邪魔する存在が龍一にべったりひっついているとは予想もしてなかった。 あらためて、マイと出会ったことに感謝する。会話をしながら食事ができる喜び。一人ではできないことに付き合ってくれる人と出会えたタイミングのよさ。「で、どうよ、イトコとはたくさん話ができた?」「うーん。それが…」「もっと喜んでも良さそうなもんなのに、いまいち顔が冴えないもんね。それとも元気がないのはそのじんましん、みたいなもののせい?」 言われてはじめて気がついた。この地に来てから、また、ブツブツが出ていたことを。日本ではあんなに人目を気にしていたのに。今日なんか、買い物に出たときも、部屋探しのときも、顔のブツブツのことはすっかり忘れていたのだ。思わず笑いがこみ上げる。「そうだった。じんましんがまた出てたんだったわ。やっぱり目立つ? すごくヘン?」「んーん。ソバカスが一面に出てるって感じ? ビョーキっぽくは見えないけど」 一度笑い始めたら、止まらなくなってきた。ブツブツの事を忘れていたのは、千紗の挑発に乗ってやろう、海で泳ぐための道具を買いに行こう、とムキになるので手一杯だったからなのだ。日本では、どんなに仕事に集中しようとしても、どうしても肌の事が気になって仕方なかった。それがどう? 今はケロリと忘れ去っている。 マイが変な顔をしてこちらを見ている。少しは説明しないと不自然だ。私はイトコ発見のいきさつを語ることにした。「なんだ。つまり、アナンはその女のコが気に入らないわけね。負けたくないんだ」「ちょっとちょっと。なんかそんな言い方したら、彼女が恋敵みたいじゃない?」「そんなこと言ってないよ。でも、ムキになってかかっていくところを見ると、そのコがアナンのこだわりのどこかに引っかかってるのは確かだよね。どんな言葉がヒットしたんだろ?」「スポーツが得意なようには見えない、とか。日陰でパラソルさして見てるだけがお似合いよ、とか」「でもアナンはもともと理系なわけでしょ、仕事から言っても。別にスポーツが苦手でもかまわないじゃない」「だって、海に入って泳ぐことすらムリでしょう、って顔で見られたんだもの」「そりゃあまあ、仮に泳げなくたって、浮き輪とかボディボードとかがあれば、海に入るぐらいはできるわよねえ」「私、やる。絶対海に入ってやるわ、明日」 「それで、そのコに対抗してサーフィンにも挑戦しちゃうわけ?」「できないでしょ、って顔されたら、やっちゃいそう。たとえできなくても」 マイは3本目のビールを空けながら、カラカラと笑った。「あんた見てると面白いわー。すんごく落ち着いてる大人かと思えば、しょうもないところでムキになるし」 自分でも、今までの自分らしくない行動に走っていることはわかる。 だけど。あらゆるショックがブツブツと肌から噴出した瞬間に、心のガソリンタンクはオーバーフローしたのだ。 今までの燃費のいいお利口さんではいられない。 もう、くそまじめだとか、冒険心がないと言われることにはうんざりなのだ。地球の反対側、季節も反対なこの場所でぐらい、新しいことをしてみてもいいではないか。いつもとは違うことをする、それが解毒になるはずだ。 今まで、やりたくてもやらずにいたことに挑戦してみる。やれば気が済む、ってことを体験したい。上手下手は関係ない。今までの「やらなかった自分」とは違うことをしてみたいのだ。「なんだか、マイとは気兼ねなく話ができる。不思議ね。年の頃はあのコと同じ位なのに、こんなにも違うなんて」「だーかーらー。年齢でくくるのも無理があるんだってば。アナンはまだまだこれからね。波長があう人ってのはね、年とか性別とか、国籍だって関係ないのよ。もっと数をこなさないと、わかるようにはならないかな?」 これまで、人と深い関わりを避けてきた私は、数をこなすという言葉に新鮮な驚きを覚えた。 すべての人と仲良くなれるわけじゃない。 だけど、すべての人が他人である必要もない。 自分に合う人を、自らのレーダーを使って関知していけばいいってことか。「さて。アナン、明日に備えて早く寝た方がいいんじゃない?」 確かにその通り。私はマイに別れを告げて、海の見える部屋へと車を走らせた。
2005.04.04
「私、そろそろ宿に戻るわ。なんだか疲れちゃった。車で戻ること考えたら、動き始めないと」 精神的にもいろいろありすぎた。疲れるのも当然だ。一人になってゆっくりしたい。龍一の居場所がわかった以上、もう何も慌てることはなかった。 私たちは、ゆっくりと歩いて車へ戻った。 千紗は、日陰に置いたビーチベッドで文庫本を読んでいた。「千紗さん、私、これで失礼するわ」「おかまいもしませんで」 社交辞令が返ってきた。「オレらはしばらくここにいるつもりだから。新しい宿決まったら教えて」 龍一の言葉に、千紗は失望を隠せなかった。この女、また顔を出すつもりなんだ、と顔に書いてある。あまりのわかりやすさに、笑いがこみ上げそうになった。「泳ぐつもりなら、水着の上に着るものを用意したほうがいいと思うんだ。千紗、ラッシュガード貸してあげられない?」 千紗は私の体を上から下までながめた。「龍ちゃん。サイズが違うから無理だって。彼女は私よりだいぶ小柄なのよ」 私は先を制して言った。小さくて女の子らしい体つきをした千紗の服に、私の体が入るとは、とうてい思えない。 彼女の目が勝ち誇ったようにきらめいた。言いたいことは想像がつく。「私、電信柱みたいにおっきな女じゃないから」。 つまりバカにしているのだ。まあしょうがないか。可憐なボディラインが彼女の自慢なんだから。「そっか。じゃあさ、ホテルに戻ったら近くのサーフショップに行ってみて。長袖のラッシュガードをひとつ買うといい。日焼け防止になるから。それとポケットのついたサーフパンツだな。車のキーをしまうポケットがいるから」 私はバッグからボールペンを出してメモを取った。「ね、阿南さんて泳げるの?」 千紗がちくりと攻撃してきた。「あんまり。水着を買ったのも10年ぶりってところ」「サーフィン、やってみるつもり?」「まだその勇気はないけど、海には入ってみようかなと思って」「泳ぐのも10年ぶりじゃ、ちょっと危ないんじゃない? 運動神経がいいっていうならともかく。リュウ、なんかあった時に責任とれるの?」 まるで子供扱いではないか! 温厚に接しようと努力してきた私だが、さすがにムッとした。龍一が保護者で、私はその監視下に置かれた子供? 海に入るのが10年ぶりだからって、それだけの理由でバカにされるいわれはない。 私だって人間だ。海に入るくらい何てことはない!「責任をとって欲しいなんて考えたことないわ。自分で判断できるわよ」「でもじんましん、出てるでしょう。海なんかはいって大丈夫なの? 日陰でパラソルさしてるほうがお似合いだと思うけど。無理するのは良くないわよ」 言葉の最後に、「もう年なんだし」とつけ足したいことは明白だ。二人の間に青白い火花がピシッパシッと不吉に光り始めた。「と、とにかくさ。道具を揃えてまた来なよ。波打ち際で遊ぶだけでも楽しいよ、童心に帰るって感じで」 龍一があわてて割ってはいる。 私はムキになっていた。仕事以外でこんな気持ちになるのは我ながら珍しい。 言っておくけど私だってまだ20代ですからね。あんたがいくつなのか知らないけど、10も20も違うわけじゃないんだから。絶対、海に入ってやる。ええ、入ってやりますとも。 挑戦してやろうじゃないの! 私はね、やれないわけじゃないのよ、やらないことを自分で選んできただけなの。できることとできないことを冷静に判別してるだけなんだから。 確かに私は水に入るのは久しぶりよ。でもお風呂に入るのと海にはいるのと何が違うっていうの。ちゃぽんと水に浸かるだけなら私にだってできるわよ。子供のプール教室を見学してるお母さんみたいに扱うのはやめてくれない? 言いたいことは頭の中で渦巻いていたが、口にするのはやめておいた。 そのかわり、この渦が自家発電の役割をして、どろんと疲れていた体に、エネルギーがみなぎった。私はざくざくと足を運び、レンタカーのドアを開けて乗り込むと、道路へと走り出す。 一人に戻ると、大きく息を吸い込んだ。 旅に出ると、こんなにも色々なことが起きるのか。疲労の度合いに比例して驚きもまた大きい。日本での暮らしはもっと、静かで落ち着いたものだった。なんていうか、秩序があった。会社で接する女の子たちには節度があるし、あんなに露骨に攻撃したりはしない。利害関係がないのだから当然といえば当然か。 千紗にとって私は危険な存在で、どこまでも戦う姿勢を崩せない相手なのだろう。 ふと。祥二のことが思い出された。 私は雑誌の編集者だという例の女性と戦ってまで、祥二を取り戻したいだろうか。一瞬、お互いの髪の毛をひっつかみあって、とっくみあいをしているイメージが浮かんだ。 いやだ、そんなことしたくない。 男を取り合うなんて考えられない。だって祥二は賞品ではない。恋愛とは、勝負に勝った方が手に入れる、なんて単純なものではない。奪いあうのはモノではなく、感情を持った人間なのだ。 仮に、すでに祥二を巡る戦いが始まっているのだとしても、私と彼女が直接対決する必要なんかない。ジャッジを下すのは祥二なのだから。 そう考えると、千紗の態度は興味深かった。ジャッジの目に、他の選手が映らないようどんな妨害措置でもとる、という姿勢だから。 恋愛へのエントリーに条件なんかないってことを、彼女は学ぶ必要があるだろう。一年365日、一日24時間相手を監視することなんかできないのだから。相手を信じることを学ばない限り、成長はない。 もっとも、ただ信じてさえいれば悲劇は起きないか、といえばそんなこともないが。 悔しいけれど、祥二と私のケースは彼女の逆パターンなのだ。放任しすぎれば足もとをすくわれる。 いったい、どういう距離感が、恋人という関係にふさわしいのだろうか。 私は、ぼうっと考え事にふけりながら、ビーチに林立した高層ビル街へと車を走らせた。 夜、ホテルの部屋から国際電話をかけた。家に帰ってきたタイミングを見計らって、東華の家へ。「阿南? 電話の声って意外と近いわね。遠くにいるとは思えないわ!」「お姉ちゃん、今日やっと龍ちゃんを見つけたわ」「わあ! 元気そうだった?」「うん。ちゃんとニュースも伝えたよ。よかったね、おめでとうって言ってたわ」「よかったあ。ありがとね、阿南。で、龍ちゃんとは話できたの?」 素直に喜ぶ東華の声に、迷いは感じられなかった。東華は過去の選択に振り回されてはいない。自分が選んだ道をしっかり歩いているのだな、と思う。龍一から思い出話を聞きだしたことは、黙っていよう。「ああ。龍ちゃんの彼女がヤキモチやいてね。なかなかゆっくり話せないのよ」「えっ。女の子連れで旅してたんだ、龍ちゃんて。その子も半年オーストラリアにいるのかしら? 仕事は何してるの?」「さあ。詳しくは聞かなかったけど」「せっかくまだ日数があるんだからさ、しっかり海で遊んできなさいよ。あんたって子はほんとにお堅いんだから。少しはハメをはずしてパーッとね。なんか派手にマリンスポーツとかさ」 そういえば、ここではモーターボートだってパラセイリングだって、やりたいとさえ思えばありとあらゆるマリンスポーツが用意されているのだ、ということを思い出した。どれにも魅力を感じていないのが私らしいが。千紗の指摘どおり私はスポーツが好きって言うタイプではない。せいぜい、海水にちゃぷちゃぷ浸るのがいいところなのかもしれない。「考えとく」「あ、阿南。ホテルからの電話料金ってすんごく高いから、早く切った方がいいわ。で、帰国前にはもっかい電話ちょうだい」「OK。じゃ、体に気をつけてね」 受話器を置くと、もう一本電話をかけた。今度は祥二の部屋へ。この時間に部屋にいるわけはない。留守番電話にメッセージを残した。帰国の日と、乗る飛行機の便名を。それを聞いてどうするかは、祥二の選択に任せよう。
2005.04.01
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