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手の甲に目を落とすと、ついさっきは赤黒かったはずの水玉の色がすっかり薄くなっていた。目の錯覚かと思ってサングラスをはずしてみたが、やはり薄い茶色に変わっている。「なんだか、発疹の色が薄くなってるみたい」「どれ」 龍一は、私の顔を正面に向けるとじろじろと遠慮のない視線で眺めた。「そうかもしれないな。時間がたつと色が落ち着くとか、そういうこと?」「ううん。ついこの間は、どんどん色が濃くなっていったし、治るまでに10日近くかかった。もしかして、少しずつ毒が外に出てるのかもしれない。この間一回出たから、体内の毒素の総量が減ってきてるのかも」「毒って?」「今回さ、上司の命令で医者に行ったのね。いつも研究所でお世話になってる皮膚科の先生ではお手上げで、その人のお母さんって人を紹介されたのよ。お母さんの方は漢方を専門にやってる内科医だったの。 その先生が言うには、私のこの水玉は、心の毒が出てくるから起きるって。いつも自分を抑えていい子にしてる不満が、時々何かのタイミングでわいてくるんじゃないかって」「毒か。毒ねえ。でもその現象はそう悪いことでもないんじゃない? オレから見ると、亜南はすごく落ち着いてる。いつも安定した精神状態でいられるよう、自分をコントロールしてるでしょう。だからたまには、コントロールされたくない自分が、暴動をおこしたくなるんじゃないの」「そんな言い方したら、私が二重人格みたいじゃない?」「だれでも多かれ少なかれそういう要素は持ってるのさ。自分の中に、自分の理想にはそぐわない自分がいる。一方が楽天的なら、もう一方が悲観的だったりね」 そんなものかしら。「旅に出ると、今までの自分とは違う面が見えて来るって事があるじゃない?」 返事に困っていると、龍一は説明を続けた。「一人で海外にでてきて、砂浜を歩いて。最近、海を見たことなんてあった? 長い時間、太陽の下にいたこと、あった? ずっとビルの中で働いて、休みになると家にいたんでしょう。自然を楽しむってこと、してこなかったんじゃない?」「国内旅行ならしてたけど」「皮膚で感じてた? 風や太陽を」 ――それは。私はずっと肌をさらすことを避けてきた。それが仕事だったから、ということもあるが、夏でも長袖を着ていたのは、自分自身を外界から隔てて守るためだったのかもしれない。「今みたいに、肌で夏を感じるのは、ずいぶん久しぶりだわ。気持ちがいい」「心を解放してやることさ。カゴから出して羽ばたかせてやるんだ。今の阿南ならきっとそれができる。ついでに海で泳いでみればいい。しばらくやってなかったでしょ」 心を解放する。どこかで聞いた言葉。ああそうか、漢方の軍鶏婆さんが同じ事を言った。そして、塩水に体を浸すのは肌にいいとも言った。 海で泳ぐ。せっかくだからやってみるか。「そうね。でも私、プールならともかく、波があるところでなんか泳げないわ。水着を買ったのだって10年ぶりだったんだから」「泳がなくたっていいじゃない。地球の懐に入ってるって感覚を味わうだけでいい。そうだ、サーフィンに挑戦してみない? 教えてあげるから」「そんな勇気はまだないわ」「じゃあ、海に入るだけなら? やってみる?」「うーん。足がつくあたりまでならいいかな」 龍一はニッコリと笑った。「オレが占いをしないって言ったのはさ。阿南にはそんなやり方は必要じゃないって思ったからなんだ。阿南にとっては、オレに占ってもらうことがこの旅の目的だったんだろうけど。でも、目的なんて必要かな?」「海で泳いだあとなら占ってくれる、ってこと?」「どうしてもあきらめないなら、考えるけど」「だって、目的を果たさないなんて気分が悪いわ。私は何のためにここまで来たのかって」「旅しに来た、っていうのが目的でいいじゃない。旅っていうのは、一心不乱に目的を果たすだけじゃつまらないのさ。目的は何でもいいんだ。それにこだわる必要なんかない。動く動機になれば充分。動いて感じること、それが旅なんだし、人生の薬になるんだ」「薬って?」「いったでしょ。自然治癒力。旅ってのは自分のなかの治癒力を引き出す一番簡単な方法なんだ。特に一人旅はいいね。すごく効くよ。悩める女性にはもっと薦めたいと思ってるんだ」「それができれば、占いなんて必要なくなる?」「はは、商売あがったりだね。ただ、占いが必要ないっていうより、占いに頼るパーセンテージが低くなる。自分で決められる力がつくんだ」 龍一に会いたかったのは、自分の将来を自分で決められないからじゃない。 自分自身が何を求めているのか、目隠しになっているものを取り除いてほしかっただけなのだ。 それでも、彼が言わんとすることは、少しだけ理解できた気がする。知らない土地で車を運転する。海を間近で見る。それだけのことなのに、今までの自分とは違ったきた気がするのは確かだった。
2005.03.31
「阿南は、奈々のこと、忘れたわけじゃなかったんだ」 龍一はちょっと驚いた顔をした。「思い出したくなかっただけよ。完全に忘れることなんて、やっぱりできないわ。あの悲劇が始まったとき、私も隣にいたんだから。 あの子がバカなのは仕方ないけど、その場にいながらあの子を引き留められなかった私はもっとバカだって」「お姉さんなのに、そばについていながら何もしてやれなかった、って?」「そうよ。実のところ、最初にあの男を見たときの第一印象はサイアクだったわ。 うさんくさくて信用ならないって。奈々だって同じ印象を受けたと思ってた。 あんなに調子のいい言葉をずらずら並べられて、それをうのみにするほど脳が足りないと思わなかったのよ」「だけど、奈々のこと、本当に止められた? 恋は盲目って言うじゃない。奈々は一途で情熱的な子だった。横でいくら注意しても聞かなかったんじゃない? 奈々の相手がとんでもない男だって、その時は誰にもわからなかったんだよ。結果を見るまでわからなかったことで、自分を責めることはないさ」「そう思いたいわ。でも、奈々にとって初めての男が、あんなヤツだったってこと、私、許せないの」 いつのまにか、体が小刻みにふるえていた。 奈々のことを思い出さずにいたのは、考えただけでつらくなるからだった。 もし、あの男が目を付けたのが、奈々でなく私だったら? エリさんだったら? 「どうして私を止めてくれなかったの」。そう奈々に責められているような気がしてたまらなかった。私は妹を救う努力を放棄して、その場から逃げたのだ。 「龍ちゃんと東華がついていてくれなかったら、奈々、あの時ほんとに死んでたかもしれない」「奈々が死ななくて良かったと思う?」「うん。あんな目にあってそのまま死んじゃうなんて可哀想すぎる」「奈々が阿南に会いたがってるとしたら?」「私には会う資格がないわ。止められなかったし、助けてあげられなかったんだから」「でも、奈々がそんなこともう気にしてないって言ったら? あっちが会いたがってるなら、構わないんじゃない?」「そうね。奈々に会って謝りたい、っていう気持ちはある。もちろん、奈々にも謝って欲しいことがあるけど」「阿南、ずいぶん変わったね」 龍一は静かに笑った。「そうかしら」「そうだよ。奈々が家に帰ってくることは絶対に許さないって。ずっとそういうスタンスでいただろ。ひとり暮らしを避けて実家にいたのは、奈々が戻ってくるのを阻止するため、っていう意味もあったでしょう」 その指摘に、びくりとからだが反応した。 そうか、年老いた親が心配、そんな気持ち以上に、私は、あの家に奈々を近づけたくなかったのだ。私が門の前に頑張っていれば、奈々は絶対に家に入れない。もうこれ以上お父さんとお母さんを苦しめないで。「うちの両親が奈々の結婚を反対したのは、不幸になるのが目に見えていたからよ。 奈々はそれを逆恨みしてた。お父さんだってお母さんだって、ものすごく心が痛んだのよ。あんな重い時間を過ごすのは二度といやだった。元凶である奈々がいなくなれば、平安な日々が過ごせるって思ったの。そういうものじゃない?」「みんな、奈々が今どうしているのかって心配してるのさ。阿南だって、実はそうでしょう? やっとその気持ちを認めることができるようになったところだ」「そうかもしれない。ねえ、龍ちゃんは奈々の居場所を知ってるの?」「ああ。もし阿南が会いたければ、いつでもセッティングできるよ」 その時私はどんな顔をしたらいいのだろう。 東華が望んだように、子供が産まれるときは三姉妹が仲良くいられるのだろうか。そして、それは私の決断にかかっているのだ。 人にはみな、いろいろ事情がある。 龍一のうちあけ話は、さびついた扉のちょうつがいに油を差す役割をしてくれたのだった。
2005.03.30
それにしても、私はずいぶん奥手だったなと思う。適当に優しそうな人を捕まえて、恋人ごっこを堪能することだってできたはずなのに。腕を組んで歩く。服を選んでもらう。腕枕をしてもらう… でも、形から入る恋人なんて欲しくなかった。もっと、私を深く知って、他の人じゃなく、私でなきゃダメだって言ってくれる人じゃなくちゃ嫌だった。「龍ちゃんは優しいから、その子の希望をかなえてあげたんだね。付き合いたいって言われれば付き合ったし、別れたいといわれればその通りにした。でもさ、龍ちゃんはホントに好きだったの? 相手のこと」「痛いところをつくね。そう、オレは押されると弱い。相手に勢いがあると、かわせない。まず、理想の女性像っていうのが無いんだよ。みんな可愛いし、みんないいところがあるって広くとらえちゃう。だから誰がきても受け入れられるのかもしれない。ストライクゾーンが広いんだよな。 特別な誰かに魅力を感じるってことが、あんまりなかったんだ」「こだわりがなさすぎるわけ」「そう。そんな中で、改めて見た東華は飛び抜けていた。個性ってこういうことか、って思わされた。すごく惹きつけられたんだ。大人なんだけど、精神的には子供っぽい所もある。発想は自由でしなやか。冒険心があって積極的。まあ、国立家の女性はみんなそうだけど」 冒険心と積極性ね。私には薄いけど、確かに東華と奈々にはそれがある。母の若い頃もまたそうだったらしい。「大学に入ったら、酒を飲むようになるじゃない。東華はいい店をよく知ってたし、飲みながらの会話も弾んだ。週末になると国立家で朝まで宴会ってときもあったよ。亜南が受験を控えてるから、あんまり騒いだりはしなかったけど」 龍一は私よりも1年早く、大人の世界に入って行ったのだ。私はそのころ、次のステップに飛びあがるためにしゃがんでいた。二人の世界が大きくかけ離れる時期だったのだ。いろんな意味で、私は二人に置いてきぼりをくらっていた。 今聞いてみても、やっぱり、おもしろくない。「東華のことが好きだって気づいてからは大変だったよ。 その気持ちを黙って今まで通りの仲のいいイトコでいるべきか。それとも、もう一歩踏み込む勇気を出すのか。 でも、今までの時間の積み重ねは、たとえこの恋が成就しなくても、消えて無くなるものじゃないだろ。気まずくなるのはイヤだけど、もっと近づきたかったんだ、彼女に。 誰かにさらわれてしまう前に、隣に並んで歩いていたかった。 あんなに必死になったの、あれが初めてじゃないかな。もう断る隙は与えないって感じで」「今度は自分が押す方に回ってみた、ってこと?」「後にも先にもあれっきりだよ。絶対この人と一緒にいたいと強く望んだのは」 ふと。 千紗のジェラシーの原因がわかった気がした。彼女はおそらく自分からぶつかっていったのだ。だからいつも龍一の気持ちを確かめたくて仕方ない。 彼が私に夢中なんだ、という自信があればあんなにキャンキャン吠える必要はない。「そんなに好きだったの。別れるときつらくなかった?」「男だから泣いちゃいけないってこともないだろ。泣いたのはオレで励ましたのが東華。どうして彼女は、自分がつらいときでも人を励ますことができるのか、って思うともっと泣けてしかたなかった」「じゃあ、別れた原因は、もしかして…」「そう、東華の妊娠。彼女はオレに率直に事実を説明してくれた。 今、子供を産むわけにはいかないから、病院に行っておろすつもりだと。もし嫌じゃなければ付き添って欲しい、書類に名前が必要だからって。 一瞬、考えなくはなかった。結婚してもやっていけるんじゃないかって。親同士は近所に住んでるし、親戚っていうベースはすでにできてる。ひょっとしたらうまく行くかもしれないじゃないか、って。 でも現実的じゃないよね。それに東華はハッキリ言った。 今の私には出産や結婚に魅力を感じていないし、他にやりたいことがある。ひとつの命をつみ取るのは気が引けるけど、私自身の人生の方がもっと大事なの、って。ひどい女と思われてもいい。私は自分にウソをつかないで生きたい。 オレは無力だと思った。好きな人につらい決断だけ押しつけて、自分は何の力にもなれない。オレは彼女を幸せにするどころか不幸な目にあわせてる。嫌いな人にだってやらないようなひどいことを、オレは、一番好きな人に対してしてしまった。しばらく立ち直れないほどのダメージだったな」「やっぱりそういう事件があると、つきあいは続かないものなの?」「今でも忘れられないよ。東華は、オレとの間の子供だってことは嬉しい、って言ったんだ。ただ時期が悪いって。冷凍しておければいいのにね、って言われたとき、どうして自分に経済力がないのか悔やんだよ。もしオレの方が歳が上だったら、そのときから家庭を作ることが出来たはずだから。好きになったのが早すぎたのか。それとも彼女は永遠に追いつけないほど先を歩いているのか。 別れることになったのは、オレが自分の未熟さにうんざりしたからだ。惚れた女を幸せに出来ない自分には恋をする資格なんかないって。彼女にはオレよりももっといい男がふさわしい。そういう人が彼女の前には必ず現れる、って。だって東華はすてきな女性だから」 龍一にとって、東華との恋が壊れたことは相当なダメージだったのだ。 私がハワイで壊れた友情のことを引きずってきたのと同じ。 龍一はまだその傷に自分で塩を塗り込んでいるのだろうか。「龍ちゃんの失敗は、東華を好きになった時期が早すぎたことじゃないよ。避妊に失敗したっていう現実が引き金になっただけなのよ」 龍一は細めていた目を開けて、私を見た。 まさかそんなに深い傷を負っているとは思ってもみなかった。その時、力に慣れなかったどころか、こんなに時間がたってからほじくり返すなんて。悪いことをしたな、という後悔がわき上がった。「子供を産んで育てるってことは、その段階から大きく生き方が変わってしまうってことじゃない? やめておく、っていう選択肢があっていいのよ。奈々は絶対子供を産むってムキになったから、結婚でひどい目にあったんだし」
2005.03.29
「阿南ちとオレんちはずいぶん仲良くしてたよね。 小さいころから一緒に遊んでたもんな。でも、彼女が恋愛の対象として見たのはずいぶん後になってからだ。東華は、阿南より4つ年上で、オレからみたら3つ年上だろ。オレらが中学に上がる頃、彼女はもう高校生。それくらいになるとほとんど接点はなかったもんな」 そうなのだ。東華は頭ひとつ抜けていた。 同じ学区内だったから小中学校と通った学校は同じだ。しかし、年齢の違いで東華だけが一歩先を歩いていた。龍一にとって近い存在は私の方だ、という自信があったのに。「で、結局いつからつきあいだしたの?」「高校を出て、大学入る直前の春。東華は卒業まであと1年って時だね」 すると私が高校3年になるときの話か。 当時の龍一は、用があろうがなかろうが、学校の帰りは我が家でともに夕食をとっていたし、週末にもよく顔を出していた。 私も私で受験の準備に忙しかったから、二人のことには気がつかなかったのかもしれない。「東華のどこが好きだったの」「彼女はオレの人生にとっての、鍵だったんだ。将来はどんな仕事をしていこう、って考えたとき、オレの前には重い扉が立ちはだかっていた。先が全く見えない状態だったとき、彼女がその扉を開けて、その先に何があるのか、見せてくれたんだ」 なかなかに詩的な表現だ。 ストレートに言えば、彼が今の仕事で身を立てるきっかけを作ったということだろうか。「あのころは、占いって、免許を持たない人が外科手術をするようなもんだと思ってたんだよね。時には人の人生を左右する言葉を相手に与えるくせに、それに対する責任を果たす気は、ない。 母がやってる仕事は無責任で、人をあおってお金を稼ぐ不当な商売だと思ってたんだ。人を助けるんだったら、もっと深くつっこんで付き合うべきで、資格だって必要だって」 大学での専攻の話までは、私も知っている。 そういえば大学生になってからの龍一は、我が家に顔を出す機会がめっきり減った。 高校生と大学生の間には、子供と大人という線引きがされるのだ、とひとつ違いの年齢差を寂しく思ったものだ。私は今まで通り制服に身を包み、毎日規則正しく檻の中に通い、来るべき未来のために受験勉強をする。同じ歳の友人達とたわいないおしゃべりに興じる。その頃、龍一はもっと大きな歩幅で未来へ向かって歩いていたのだ。「オレさ、それまでは女の人って男が守るべき存在だと思ってた。フェミニストをきどってたんだな。でも、それがどこか違う、と気付かせてくれたのが、東華なんだ」「東華を好きになった時は、守ってあげたいと思った?」「いやいや、逆」「東華は強い女だもん」「そう。彼女は本当に独立したいち個人だった。すごく新鮮だった。それまでの自分の恋は間違ってた、と思ったくらい」 衝撃を受けた。 高校時代の龍一は、付き合っている女の子がいるなんて一言もいわなかったではないか。 私は勝手に、龍一は硬派で奥手で男の子たちとじゃれている少年だと決めつけていた。少なくとも私といるときはそう見えたから。もちろん私にも恋人なんかいなかった。お互い、奥手なんだって同胞意識まで持っていたのだ。 なんて的外れな思い込みだったんだろう。「龍ちゃん、高校時代に彼女がいたんだ」「そう。一つ下のコ」「同じ学校の?」「よくあるだろ、体育館の裏に呼び出されて手紙を渡されるってヤツ。あの子の偉かったところは、手紙を自分で持ってきたことだな。女の子ってよく友達に配達を頼むだろ。オレはそういうのシャイっていうより卑怯者だと思ってたから、まずはその勇気に感心してね。映画に行ったりお茶飲んだりする程度の関係だったけど」 なんだ、お子さま恋愛ごっこではないか。しかし、それまでに付き合っていた人がいたのに、東華が初恋の人っていうのは、どういう意味?「ところがその子が積極的で。私、龍さんとならいいよ、なんて言ってくる。こっちも血気盛んな高校生でしょ。そりゃもう、坂道を転げ落ちるように欲に溺れた日々が始まっちゃう。夜、うちは母親が留守だしね」 思わず、目を伏せる。また肌の水玉の色が濃くなってきている。 サイテー。龍一にも世間のバカな男なみに、やりたい盛りがあったのかと思うと吐き気がした。知りたくなかった事実だ。 龍一の言葉がよみがえった。聞いてみてはじめてわかるのね。聞かなきゃよかったっ、て。「どうしてその子とずっと付き合わなかったの?」「受験勉強しないといけない時期になっても、放って置いてくれなかったんだ。 オレが勉強のための時間が欲しい、って言っても納得しない。彼女はお嬢様学校に進むつもりだったから、受験の感覚が違うんだよな。それでも、女の子を泣かせちゃいけないと思ってずいぶん尊重したつもりだ。突然家に来るもんだから、受験勉強はぜんぶ国立家でやってた。その子も、国立家っていう存在は知らなかったから、いい隠れ場所でもあったんだ。 女の子っていつでも構っていて欲しいもんなんだね。ちょっと連絡をしない間に、むこうは新しい恋人を作ってた」「それこそ、私と受験とどっちが大事なの?って感じだったんでしょ」「そう、まさにそういう感じ。彼女は、相手にとっていつでも自分が一番大切な存在でなくちゃイヤだったんだな。そういう意味では、必ずしも相手がオレでなくてもよかったわけ。つきあい始める頃、オレのどこが気に入ったのかって聞いたら、優しそうなところ、って言ってたもんな。オレにはそれしか取り柄がないのか、って正直がっかりした」 高校生なんて、恋に恋する時代である。無理もない話だ。
2005.03.28
「なんだか今日は、オレの秘密の暴露大会みたいだなあ」 龍一はふうーっと長いため息をついた。「ごめん。でもホントなの? 東華が昔妊娠した時の相手って、龍ちゃんなの?」「東華から聞いたんじゃないの?」「ううん。不妊治療について聞いたら、昔、妊娠したことがあるから必要ないと思ってたって言ってたの。それだけ。それに、さっき、東華が初恋の人だって聞いたもんだから。もしかしたら、と思ったの」「言っておくけど、千紗が言うようにしょっちゅう東華の話がでたわけじゃないよ。あいつは、ふとしたタイミングに質問をはさんでくるんだ。今思うと、それをつなぎ合わせて、ひとつの話ができあがっていたんだな」「好きな人ことは何でも知っておきたいのよ、きっと」「でも阿南は恋人の過去をほじくったりはしないだろ」 確かにそうだった。祥二と付き合ってもう4年が経つが、彼の過去について気にしたことはない。ルックスも悪くないし性格だって明るく前向き。ヤツのような男がモテなかったわけがない。しかし、ヘタに昔話を聞きだして、嫉妬に駆られるのがいやだった。だったら知らない方がよっぽどすっきりする。自分から質問するだなんて愚の骨頂だ。「知らない方がいいことって、世の中にはたくさんあると思わない?」「まあね。でも阿南の場合は、知りたくないこと、の間違いじゃない?」 またしても心臓が不整脈を打った。なにかが引っかかる。龍一の言葉のいくつかは、腕のいい鍼灸師のひと鍼に似ている。ここぞ、というツボに鍼が刺さった時のように体が勝手にピクッと反応してしまうのだ。「知らない方がいいことだから、知りたくない。別に矛盾はないでしょ」「知らない方がいいことっていうのは、結果論だろ。その内容を理解してからでないと、知った方が良かったのか、知らなかった方が良かったのかはわからない。阿南の場合は順序が逆だ。知りたいことも、知りたくないこともひっくるめて、質問しないというスタンスでいたんだろ」 自分の人生をズバリと言い当てられて、私は身がすくむ思いだった。これが龍一の占いのスタイルなのか。「だって。人の心には、ずかずかと踏み込んじゃいけない領域があると思わない? 少なくとも私にはそういう場所がある。だから人に対してもそれをしない。ルールを遵守する、それだけのことよ」「オレには、ズバッと切り込んできたじゃない。ついさっき」「それは――」 そうだった。さっきの私のしたことは、主義に反することではないか。相手が心にしまっていた話を無理に聞き出そうなんて。「私だけ知らなかったってことが…龍ちゃんから友達扱いされてないって気がしたから」「そりゃあ、東華とのつきあいが長く続いたんなら、阿南にだって話をしたさ。だけど、二人の関係がものすごく時間で決着していたとしたら、どう?」「…ごめん。私の言い方、ちっとも優しさがなかったね」「いいさ。阿南だってビックリしたんだろうから。じゃあ、誤解のないように話をするよ。初恋の話」 龍一は大きく息をすってから、ゆっくりと話し始めた。
2005.03.25
食事が済んで食器を洗ってしまうと、もう、やることも話すこともなかった。昼食の後はいつも少し昼寝をして、夕方また波が立ってくるのを待つのが日課なのだという。 龍一は、恋人に向かって優しく言った。「千紗、少し日陰で休んでなよ。体きついんだろ。オレは阿南と話があるから、ちょっとその辺を散歩してくる。いい子にして待ってて」 彼女は渋々だったが承諾した。 ようやく龍一とゆっくり話ができる。 ビーチまで並んで歩くと、さっき放り出したままの日傘が白い砂浜の上でころころと転がっていた。 あわててそれを拾うと、頭の上に日陰を作った。大きな黒いパラソルをクルクルと回す。「なんだかずいぶんごっつい日傘だね」 龍一は笑う。「龍ちゃん、私が今なんの仕事をしてるのか知ってるでしょ。化粧品メーカーで美白の研究してるのよ。その私が日焼けするわけにいかないもの。ただでさえ敏感肌なのに、こんな強い陽差しの下にいたらどうなるかわかったもんじゃないわ」「昔よりもっと色が白くなったんじゃないの? 赤い水玉がよく目立つ」 そうか、子どもの頃はもっとダイナミックに太陽の下で遊んでいたような気がする。東華と、龍ちゃんと、私とで。夏休みは父の田舎でどろんこになって遊んだではないか。セミの抜け殻を集めたり、親戚の畑でトマトの収穫を手伝ったり。「あのころの阿南は面白かったな。ちょっといじめるだけですーぐ真っ赤な水玉になって、わんわん泣くんだから」 その頃はみな横一列だった。私たちはたった一人のいとこである龍一と、適度な距離を保ちながら仲良く過ごしていたのだ。そのバランスが崩れ始めたのはいつからだったのだろう。「オレ達、こうして会うのは10年ぶりになるのかな?」「そうね。なんで今までこんなに意地になってたのかって、後悔してる。 私ね。龍ちゃんと東華は奈々の味方であって、もう私のことはどうでもいいんだって、ガッカリして。それ以来もう、話す気がなくなったのよ」「奈々のこと、今でも許せないの?」「わからない。 ただ、奈々のことにこだわりすぎて、今まで時間を無駄にしてきたことだけは納得できた。今では顔も見ることもない人に、いまだに振り回されているのバカらしい、そう思うようには、なった」「阿南もあのころから比べたら大人になったでしょう。奈々のつらかった気持ち、少しは想像できるようになった?」 私はムッとして黙った。東華と龍一の言うことは同じだ。意固地な私をさとして、一番下の妹との仲を回復させようとする。「私、あのころのことを思い出すととっても気分が悪くなるのよ。だから考えないようにしてるの。もしも考え続けていたら、この水玉は消えるヒマがないでしょうね。永遠に私の肌はボツボツよ」 龍一は、ちらりと私の顔に目をやった。「おかげで大人になってからしばらくこの発作とは縁が無かったの。この間出たのは社会人になって初めてなんじゃないかな。上司が心配して医者に行けってうるさくて」「その時は薬で治ったの? 子どもの頃は、とにかく放って置くしかなかったよね。自然治癒を待つっていうか」「しぜんちゆ。難しい言葉を使うわね、龍ちゃん」「最近、色々考えるんだよね。人間の体や心のシステムって不思議だよなあって。例えば、悩みすぎて病気になるタイプの人っているじゃない。 オレのセッションを受けて、その瞬間から顔つきから肌の色までぱあっと変わっちゃう人っているんだよね。それまでは病気だったのに、一瞬で治っちゃう。あれって、心が体に作用してるからなんだとしか思えない。オレは医者じゃないから、病気を治してくれって来るひとには困っちゃうんだけどさ」「そんな不思議な話がいっぱいあるの?」「もう、日常的に発生してる。女の人ってなんかすごいんだよ、パワーが。精神力がそのまんま体につながってる感じ。見てて驚くことばっかりさ」「だから消耗するの? その疲れを海に流しに来るの?」 私は雑誌のインタビューで書かれていたことを思い出して言った。「まあそんなとこ。とにかく、人と向き合って心を見せてもらうっていうのは、ものすごく疲れる。自分が心底ハッピーでいないと、相手の絶望とか無気力に引きずられちゃうんだよ。感応しちゃう」「なんか、龍ちゃんのそれって…占いを越えたものじゃないの?」「自分では、占いの看板を掲げたセラピーだと思ってるから」 だからあんなに多くの支持を集めているのか。ふと、私は職場の後輩が龍一のセッションを受けたことを思い出した。「私の会社の女の子がね、龍ちゃんに占ってもらったことあるんだってよ。彼女が投稿したから、雑誌に龍ちゃんが紹介されることになったんだってね」 私はバッグからページがシワになった雑誌を取りだした。「ああ、これ、こんな風に載ったんだ。わっ、なんかやっぱり照れくさいね。こんな書かれ方したら、すんごいかっこいい生き方をしてるみたいじゃない?」 充分かっこいいわよ。体は引き締まっていて無駄な贅肉なんかひとかけらもない。日焼けした体に健康な笑顔。自由でありながら、金には困らない仕事を持つ。そして可愛い恋人も連れている。成功した人そのものね。「で、阿南が会いに来たわけ、話してくれる気になった?」「もちろんよ。さっきは邪魔が入ったから途中になっちゃっただけで」 龍一は、木陰に腰を下ろした。私も日傘をたたんで隣に座る。「オレはさ、阿南とはもう少し早く再会できると思ってたんだ。予想よりも時間がかかった。だからハガキを書いたんだ」「もっと早くに会いたかった、ってこと?」「そう。君が望めば、オレはいつでも会って話をするつもりだった。いつ来てくれるのかって心待ちにしてたんだ」「私が龍ちゃんに会いに来たのは…人生の岐路に立っているからよ」「そうでしょう」「男の人に結婚してほしいって言われたわ」「遅いくらいだ」「ううん、その人とは、食事を3回しただけでそれ以上の付き合いはなかったのに、突然プロポーズされたのよ。反対に、4年も付き合ってた人には浮気されて、その現場を目撃しちゃった」「うひゃあ~」 龍一は気の抜けた顔になった。「阿南のブツブツが出たのは、それが原因?」「たぶんね。どっちも同じ日に起こったし」「阿南の人生には、強烈な事件が起きるね。そういう星回りなのかなあ?」「そう、それよ。私のホロスコープを作って欲しいの。私も龍ちゃんのセッションを受けたいの。そのために来たのよ。少しでも早く相談に乗って欲しくて。お願い、特別に見てくれない?」「そんなこと言ってもなあ。今回の旅には、ホロスコープを作るソフトとパソコン、持ってきてないんだよ。すぐには無理」「じゃあ、昔みたいに話を聞いてよ。相談にのって」「うーん。でもさ、今の阿南なら、どんな問題だって一人で解決できるだろ? 人に相談するときには、自分なりの結論がすでに出ているもんだよ」 なに言ってるの? 龍一は、私がどれほど勇気を振り絞ってこの一人旅に挑戦したのか、わかっていないの? ただ懐かしがるだけで終わり? 悲しみよりも怒りの感情の方が強かった。黙っていようと決めたはずの言葉が、口から飛び出してくる。「奈々のことは助けたでしょう? どうして私はダメなの? ここに来たのが東華だったら、もっと優しくするんでしょう? あの時の選択が違っていたら、この海にいるのはあの娘じゃなくて、東華よね。龍ちゃんも、優雅な独身貴族じゃなくて、小学生のお父さんだったはずよ」 龍一は、遠くを見つめたまま、クールに質問した。「東華はホントにそう言った?」 私の心臓は、パタッと音を立ててとまりそうになった。
2005.03.24
さがしものが見つかった安堵感と、大泣きした疲れと、意外な過去の露見。 そして、一気に噴き出した発疹。 すべてが相まって私は、一瞬にして、気絶に近い深い眠りに落ちていた。「阿南、阿南! 具合が悪いの?」 ハッと気付くと、目の前に龍一の顔があった。 頭に乗せていたはずのタオルは地面にぽとりと落ちている。 それを拾い上げながら、返事をした。「私、やっぱり体質的にお酒ってダメみたい。ビール、ちょっと飲んだだけなのに気分悪くなって。吐いた」「そっか。無理に飲ませて悪かったね。つい、国立家の人間でお酒がダメっていうのは、ちょと考えられなくてさ。みんなすんごく強いじゃない」「でも、本当に、ダメなの」 演技じゃないとわかって欲しくて、かんで含めるように言う。「わかった。で、そのボツボツもアルコールのせい?」 龍一は私の手をとり、甲に浮き出た発疹をもう一方の手でなぞった。「顔にも出てる?」 龍一は、こくりとうなずいた。「もしかして、これって、子供の頃にもよく出てた、あれ?」 そうだった。龍ちゃんは私の発疹についてもよく知っていた。どうしてそれが起こるのか、ということも。 急に顔に血が上ってきた。恥ずかしい。まるで、心の中身を道路にぶちまけてしまったみたい。私、交通渋滞を起こすようなことをしたかったわけじゃない。そんなものを人に見せるつもりなんか無かった。これは事故よ。お願い、見ないフリをして。 私は、ふーっと息をついた。「しばらくこんな水玉は出なかったんだけどね。実はね、ついこの間も、この発疹がでたの。そのおかげで長期休暇が取れたから、龍ちゃんを訪ねることにしたんだ」 龍一は、そうだったのか、というようにうなずいた。「千紗のこと、ごめんな。あいつ今、生理なんだよ。ただでさえ海に入れなくて機嫌が悪いところへもってきて、驚いたもんだから、あんな態度になったんだと思う」「今頃、彼女、恥ずかしがってるんじゃないの?」「そうだな。まだゴネてるけど、じき落ち着くよ」「なんて言って説得したわけ?」「オレとこれからも長く付き合うつもりなら、オレの友達のことも好きになってもらわなきゃ困るって。そもそもオレが好きな人物なんだから、千紗だって気に入るに違いないって」「正論というか、なんというか…」 龍一の言葉はキレイだけど、ひとつだけ抜けていることがある。 彼女だって、男の友人が訪ねてきたらあんな風にはならないだろう。相手が女だって事が彼女には脅威なのに。 それでも、龍一は今でも私を友達と認めてくれている。その点は素直に嬉しかった。「でさ、一緒に昼飯食おうよ。ちょうど食料を仕入れてきたばっかりだし。ごちそうってわけにはいかないけど、バーベキューならすぐだから」 龍一は二人分の椅子を持って場所を移動した。 ホリデーパークの敷地内には、ガスが起こせる調理台がずらりと並んでいる。材料を切って並べるだけでできあがるバーベキューが、彼らの日常食だという。 そういえば、母の仕事時間が夜ということもあって、龍一はかなり早い段階から自炊の技を身につけていた。彼は、掃除洗濯、料理といった家庭内の仕事は一通りこなす。恋人になる娘は楽でいいね、と前から冗談にしていたほどだ。 熱くした網の上には、すでにアルミホイルに包まれた物体がいくつか並んでいた。泣きすぎたせいか、吐いたせいかわからないが、まったく食欲はない。「あんまりお腹が空いてないんだけど、のどが乾いて仕方ないの」 それを聞きつけた千紗は、立ち上がると、ブドウを一房皿に乗せて持ってきた。「これならどう? 気に入ったらぜんぶ食べて。調子が良くないときでも、果物なら大丈夫でしょ」 顔一面に出ている発疹のことを気づかっているのか、ぎこちない笑顔を見せている。 優しいところもあるじゃない。「そうそう、女の子は笑顔。笑顔が大事よ」 龍一がのんきに言う。 こいつ、ホントにわかってるのかよっ。 私と彼女は、ほとんど同時に心で叫んだ。と、思う。 千紗は唇の端を上げて、反感を示したが、当の龍一はどこ吹く風だ。 仕事柄、女の扱いには慣れているはずなのだが。わざと鈍感さを装うのもまた、テクニックのひとつなのだろうか。 千紗は、まだ私への警戒を解いてはいない。初恋の人じゃなかったのはいいけど、わざわざこんなところまで会いに来るのはヘンじゃないか、と。 彼女を安心させるには、私の目的を説明すれば済むとはわかっていた。だけど、今日初めて会った彼女に話して聞かせるのは気が進まない。 ジュウジュウと肉の焼ける音、プシュッと缶ビールを開ける音。会話の無い食事はとてもぎこちない。ついにしびれを切らした千紗が口を開いた。「阿南さん、リュウにどんな用があってここまで来たんですか?」 私はブドウの皿をテーブルに置くと、指先をタオルで拭って腕組みをした。「個人的な用事よ。さっきはちょうど、その話をしようとしたところだったの」 今度は龍一が訪ねた。「いつまでこっちにいられるの?」「あと1週間てとこ。でもずっと車を借りてるから、足には困らないわ。用が済んだらさっさと失礼するから」 そんなに心配しなくても大丈夫よ、私は千紗の様子をうかがった。「今はどこに泊まってるの?」 龍一は畳みかけた。「サーファーズパラダイスの日系ホテル。でもなんだかお金がもったいない気がして、少し気楽な宿に移ろうかと思ってるところ」「じゃあさ…」 龍一の言葉をさえぎって、千紗が口を挟んだ。「私たちは狭いテントだから、泊めてあげるわけにはいかないわよ。悪いけど」 苦笑。そんなことは考えてもみなかったのに。「ちさ。今日の千紗はずいぶん意地が悪いぞ。オレの大事な友達なんだから、もう少し優しくできない?」 千紗の豹変ぶりには目を疑った。彼女は急にしおらしくなり、弁解を始めた。「リュウちゃんごめん。私が悪かった。買い物で疲れて帰ってきて、ちょっとのんびりしようと思ったのがダメになって…。機嫌が悪いだけなのよ」「じゃあ、阿南にちゃんと謝って、仲良くできるね?」「もっ、もちろん」 彼女は、龍一に嫌われることを何よりも恐れている。それほど彼のことが好きなのだ、ということはよくわかった。 千紗は、こちらを振り向くと早口で言い訳した。「ごめんなさい、阿南さん。私この時期、すぐに機嫌が悪くなっちゃうの。海には入れないし、暑いし。今日、二日目なのよ」 同じ女なら、わかるでしょ? と彼女は言外に匂わせた。 まあ、そういう人もいるわよね、と私は納得することにした。 私は、昨日バイロンベイで会ったマイの事を思い出した。おそらく、彼女と千紗は同世代だ。マイとは波長があうように感じたが、この娘にはそれがない。 誰とでも仲良くなれるわけじゃない、という彼女の哲学が、私をささえた。 そうだ。龍ちゃんが好きな女性だからって、無条件に私と気が合う、というわけじゃない。あからさまに嫌われることだってある。だって彼女にとっては、私と仲良くしたくない条件が揃っているのだから。
2005.03.23
沈黙を破ったのは、私だった。「私、東華じゃないわ。妹の阿南よ」 彼女は、シマッタ、という顔をした。「ほら、千紗、ちゃんと謝って」 龍一にうながされて彼女は、しょんぼりと詫びを口にした。「ごめんなさい…阿南さん。失礼なこと言って。私、ただ、本当に…驚いてカーッとしちゃって」 そりゃそうだ。居所も教えずにフラフラと旅をしているのに、知り合いがそこに訪ねてくるなんて想像できるわけがない。エアメールを受けとっただけの人物が、飛行機に乗って訪ねてくるなんて、普通だったらあり得ない話だわ…。「確かに驚かせちゃったわね、ごめんなさい」 祥二の部屋で他の女と遭遇したことが鮮やかによみがえった。 私は逃走することしかできなかった。でも。ああいう場面で、このコは断じて戦うタイプなのだ。なるほど、納得はできる。 龍一だって、彼女と一緒にいるのなら、先にそういってくれればいいのに。 自分の彼氏の隣に、泣きはらした顔の女がいる。そりゃあ何かあると疑うのは無理のない状況よ。「…私と一緒だって、説明してなかったのね、リュウは」 千紗は不機嫌そうにくるりと向きを変えて、車の方へ歩いていった。乱暴に買ってきた荷物を降ろし始める。「手伝うよ」 龍一はその後ろ姿を追いかける。 私は気が抜けて、椅子にどさっと座り込んだ。 奇跡の再会に涙した、数十分前の気持ちがあっという間にしぼんでいく。今となっては腫れ上がった目元がただ恥ずかしかった。 まだ手に持っていたビールの缶から一口のむと、それは、ただ生ぬるくて苦いだけの液体に変わっていた。不味い。缶を逆さまにして、その中身をすべて地面にこぼした。 フキン代わりに使っているらしい小ぶりのハンドタオルを見つけると、クーラーボックスの冷水にそれをつけて軽く絞った。顔にそれを乗せる。 潮風に吹かれて、濡れタオルはますます温度を下げる。 ああ。冷たくて気持ちがいい。 しかし、目に当てたタオルをめくって手の甲を見ると、やはり、あの発疹が一面に浮かんでいた。 龍一にはすでに彼女がいた。 龍一の初恋の相手は、姉の東華だった。 どっちの事実が、発疹の引き金になったのだろう。 私にとって龍一は懐かしき親友だ。恋の相手ではない。だから、今の彼に恋人がいることを不満に思う必要はない。だとしたら、私がいやだったのは、姉と龍一がかつて恋仲だった、という部分になる。 龍一がそれを私に内緒にしていたのが、許せない、ということか。 どうして私は何も気づかずにいたんだろう。ほんの短い間のことだったのだろうか。それとも、二人は周到に私に隠してきたのだろうか。 龍一が東華の結婚式に参列しなかったのは、かつての恋人が、他の男と将来を誓う姿を見たくなかったからなのか。 それなのに、なぜ、今は彼女の妊娠を喜べるのか。 東華も、わざわざニュースとして元の恋人に伝えたがるのはおかしい。 どうして、東華は… そこまで考えて、ハッ、と思い当たった。 昔、東華が妊娠したのは、龍一の子供だった? ドクドクと皮膚が脈打って、胃袋の中がひっくりかえった。 慌てて席をたち、木陰にかがみ込む。苦い液体が逆流して、私の口から地面へと滝を作った。げほっ、とむせる。ノドの奥がじりじりと痛む。 二つ折りになった体を伸ばすと、私はよろよろと車に戻った。助手席からペットボトルのミネラルウォーターを取りだし、直接口をつける。ごくごくと、透明な液体を体の中に流し込む。 今日は、驚くほど体から水分が出てしまっている。乾いた喉に水がしみる。そうだ、最初にビールなんか飲んだから気分が悪くなったんだわ。私はお酒が飲めない体質なんだから。じたばたと暴れる心を静めようと、深く息を吐く。 皮膚の発疹は、心臓の鼓動に合わせて点滅するかのように、色を濃く変えていた。 私は、タオルで額の汗を拭うと、椅子に腰掛けた。 あえて二人のいる方からは目をそむけ、ひたすら、波が寄せる青い海だけを見つめる。冷たいタオルは、温泉に入っている時のように、頭のてっぺんにたたんでのせた。 それでも、波の上を滑ってきた彼の言葉は、今、現実のものだ。「本当に会いたかったんだぜ」 その鮮やかな感動は、過去の秘密を暴かれたことで色あせるものではない。 頭を冷やす、って言葉があるけどホントだわ。 カーッとしてる時って、物理的にも頭部が熱くなるもの。 くるくると思考が回転していると、車のエンジンがオーバーヒートするのと同じ状態になるんだわ、きっと。私は、いったん思考をストップしようと目を閉じた。 耳に入るのは波の音だけ。 肌にふれるのはやわらかな風だけ。 他のことは考えない。 頭を空っぽにして休息を取ろう。 私はこれからまた車を運転してホテルに戻らなければならないのだから。
2005.03.22
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