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清水医師のクリニックは、地下鉄で駅4つほど離れた場所にある。11時半にオフィスを出たのに、着いたときには12時を回っていた。まだ診療まちの患者が3人いる。保険証を出して受付を済ませると、待合室のソファに腰掛けた。バッグの中には、今朝、万里たちから預かった雑誌が入っている。暇つぶしにパラパラめくってみた。 美咲が感銘を受けたという占い師は一体どんな人物なのだろう。 8人の占い師のトップには、およそ占い師のイメージではない男が載っていた。「波に乗るサーファー占い師、新谷龍一さん(31) 海からうけるパワーをセッションに活かしています」 アロハシャツを身につけた男が、こちらに向かって笑っている。バックには青い海と白い波。 真っ黒に日焼けした肌。笑うと横線一本になってしまう奥二重の目元に、太い眉。口元には輝く真珠のごとき白い歯がこぼれている。アップの写真の横には、サーフボードを立てた水着姿のカットある。その下には小さな活字で説明がついていた。「冬になるとサーフィン休暇を取って南半球にくりだす龍一さん。仕事は半年、遊びに半年というのがドラゴン流、だそう」 思わず口が半開きになった。 見開き2ページ、カラー写真の男は、いとこの龍一だった。 龍ちゃん。ずいぶん大人になったのね。すっかりカッコよくなっちゃって。それにしてもなに? この演出、まるでタレント気取りじゃないの。まったく女性雑誌ってやつは。一体なにが書いてあるのだろう。私は、本文へと目を移した。――新谷龍一さんの占いセッションは、1回2時間2万円。事前に生年月日と生まれた場所を連絡し、当日はホロスコープとタロットカードを使う。本誌編集部でも数名がセッションを受けたが、その内容の濃さにファンが続出した。彼の占いの魅力とは何だろう?「まず、ホロスコープによって、その人の本質を見極めます。今、自分らしさを押し殺している女性って多いですよね。いろんな垣根をとっぱらって、その人本来の魅力はどこにあるのかを事前に見定めておきます。そして、セッション当日、話をしたり、その人のオーラを感じながら、問題点を探していきます。現代の女性は、自分が本当にやりたいことにフタをしているようにみえる。いろんな壁があるんですね。その壁とはなんなのか、それを取り除くにはどうしたらいいのか、僕にわかる範囲でお答えします。タロットカードを使うのは、向かいあった相手の心と僕の心をつなぐ役割をするため。出てくる絵柄は必ず、その人の問題点を的確に浮かび上がらせます。カードは、相手が口で言えないことを、表面化させるための触媒(しょくばい)なんですよ」――新谷さんは、大学時代に心理学を専攻している。なぜカウンセリングという方向へ進まなかったのだろう?「僕の母が占い師だったんです。とても人気のある人でね、早くに父親を亡くしたのに生活に不自由しなかったのは、母のおかげです。でも僕は、長いこと、占い師という職業に疑問を抱いていた。そんなの、いくら実力があったって、無免許医のブラックジャックじゃないかって(笑)人の心に踏み込む仕事なのだから、何かしら勉強が必要なんじゃないかと考えていた。でもね、勉強したことを活かすには、占い師の方がストレートに役に立つってことに気づいたんです。日本はアメリカとは違う。精神科医に毎週何万円もかけて通うエグゼクティブがたくさんいるのはアメリカの一部だけですよ。僕は、1度のセッションで充分効果が感じられるようにしています。何度も通わなくていいんです。高額で長くかかる最新治療より、一発で効果ある民間療法こそ、今求められているものじゃないかと」 ――なぜ、年の半分は仕事、半分は遊びいうスタイルをとっているのだろう?「僕の占いのやり方は、人対人、です。相手をじっくりみるので、どうしてもその人からの影響を受けやすい。特に悩みが深い人の波動を受け続けているとダメージになるんですね。それを自分の中から取り出すために、海に行く時間が不可欠なんです。海に行くと、すべての嫌なことが体と心から溶けて流れていく感じ。だから一年の半分はサーフィンに出かけているんです。こじつけっぽいかな? ただのサーフィンバカだってことに理由をつけてるだけだったりして(笑)――冬はオーストラリアにサーフィン旅行に出かける龍一さん。その予約待ちリストは長い。インターネットサイトで登録しておき、後日、占いの日時を決めるシステムになっている。申込は「ドラゴンズ・アイ」http:www//....... さらに「彼の一言で人生が変わった!」という証言が続く。いずれも実名は伏せた5行程度のコメントである。美咲のものはどれだろう。探しながらページを繰っていくと、名前を呼ばれたことに気がついた。あわてて雑誌をバッグにしまい、立ち上がる。「清水先生、ご無沙汰しています」 清水医師は、私よりも5歳ほど年上の女医だ。専門を美容皮膚科と絞ったことが功を奏し、今や化粧品関連のアドバイザーとしての地位が確立されている。色が白く小柄で元気いっぱいな姿は、小さなめんどりを連想させる。「久しぶりねえ、阿南ちゃん。お仕事は順調?」「ええ、おかげさまで」 イスに腰掛け、向かい合って顔を向けた瞬間、清水医師の顔つきがさっと曇った。「今日は仕事の用件じゃないのよね」 慎重な視線が私の顔と手の甲に移る。「はい。個人的な、体調不良でうかがいました」「この発疹は、全身に出ているのかしら」「そうなんです。昨夜から」「じゃあ、体の他の部分も診察させてくれる? ここで、ガウンに着替えてね」 ベッドを囲むように吊されたベージュのカーテンの中で、ピンクのガウンに着替えると、「もう準備できた?」と声を掛けられた。「OKです。どうぞ」 座った状態では脚と背中を、横たわった状態では腹部と腕を念入りに診察された。「かゆみはある?」「波がくるように、かゆい部分が移動するんです。脈うつみたいに、一部がドクドクする感じもある。でも、かきむしりたいっていうほどでもない、かな」「首の付け根は少しかさぶたになってるね。寝ている間に掻いたのかな。この組織をちょっとだけ取らせて」 ピンセットでかさぶたをはがすと、チリッとしみるような消毒薬が塗られた。「あとねえ、もし差し支えなかったら、写真を撮らせてもらえないかしら。資料として」 写真なんて大嫌いだ。それに私は実験動物じゃない。だけどそれを口にして断ることはできなかった。笑顔がこわばる。「いつもお世話になってますからね、いやとは言えないですよ」 ガウンの下は下着姿だったが、私は承諾した。研究に使う写真は、被写体の容姿など関係ない。患部を撮影したいだけなのだから。現時点での写真がなければ、治療の効果を証明する写真にも意味がない。 隣の部屋に移動して、一眼レフを構えた清水は、ストロボを反射させる傘のようなものを開いた。バシャバシャッとストロボが光り、顔、首、手の甲と足の甲が、3方向からびしばしフィルムに記録されていった。 診察室に戻ると、清水医師は私の病歴について質問した。「この発疹はよく起きるの? 原因って想像がつく?」「子供の頃から、心理的に嫌なこと、まあショックなことですよね、そういう事件があるとバーッと浮き出すことがありました。医者に行っても原因不明でお手上げ。アトピーとはちょっと違うんじゃないかとは言われましたけど、放っておいても3日ぐらいで引くんです。だから今までは大騒ぎしたことがなかったんですよね。今回は武岡さんが心配しちゃって」「薬を塗らなくても自然に引いていたのね」「そうです」「食べ物のアレルギーって可能性は? 甲殻類、つまりカニとかエビね。それに貝類でも出ることがある。牛乳や乳製品、それに意外な所では小麦に対するアレルギーっていうのもあるのよ。でも頻繁に出ないってことは、日常的な食べ物じゃないか。ダニとかのみとか、その手の虫に刺されて反応するとか? まあ、この辺は血液検査でわかることだけど」「食べ物だったら食べる度に再現性があるはずですよね。だから心当たりはないです。動物は飼ってないですし、アウトドアの趣味もないから、虫っていうのも違いそう」「じゃあ、自分でも心理的なものだと思う?」「その可能性はあると思っています。その証拠に大人になってからはあまり発症してませんから」 清水医師は、イスをくるりと回して、デスクの方へ向き直った。視線が天井をさまよい、ボールペンのお尻が唇をぺしぺしたたいている。何か考えているようだ。「一応ね、血液を採ってアレルギーの検査はしておこうね。でもね亜南ちゃん、他の病院を紹介しようか」「というと? 皮膚の問題じゃないと思われるんですか?」「そうね、皮膚に限っていえば私は人を紹介したりしない。でも、あなたの場合は、もしかして…」「どなたを紹介してくださるんですか?」「今思い浮かぶのは二人。一人は診療内科の先生で、もう一人は漢方治療を専門にしている先生。どっちも女性だから、固くならなくて大丈夫」 心療内科。その言葉のもつ響きに血の気が引いた。 社会人としてまっとうに暮らす私が、心の病になんてなるわけがない。弱い人間がなるのだ、心の病気なんて。私はそれには合致しない、と反発を覚えた。自分の心は自分で守れる。そこを他人に触られたくはない。「できたら、漢方の先生がいいんですけど」「そっか。それがいいかもしれない。紹介するのは私の母なの。母は漢方薬しか処方しない内科のクリニックをやってるんだけど、原因不明のケースをいくつか解決したことがあるのよ。中国四千年の歴史の方が得意な分野っていうのがあるらしいのね。電話をかけておくから、採血が終わったら、着替えて待合室で待っていてくれる?」 私は採血のために処置室へと移動した。「もしもし。みどりです。午後の診察で一人診て欲しい患者さんがでたんだけど、都合はどうかしら? OK。うーん、先入観はない方がいいと思うけど。国立さんという女性よ。じゃよろしく」 清水医師のめんどりボイスが電話の向こうと約束を取り付けている。「阿南ちゃん! 午後の診察は2時からなの。悪いけどこのままこのクリニックへ行ってみて」 着替えた私は、文字のかすれたコピーを受け取った。「清水漢方クリニック」院長 清水藍子 場所は、ここから会社に戻る途中にある。「これから行かないとダメですか? 今日は仕事の残りが」「そうよー、このまま行って。武岡さんから、あなたの体を治すことが最優先って言われてるの。第一、問題の発疹が出ている間でないと、診察の意味がないでしょ」 なるほど、一理ある。私は受付で会計を済ませると、クリニックを後にした。
2005.01.31
明けて金曜日。私は重い足取りで会社へと向かった。 茶のタートルネックのセーターに、ベージュのパンツスーツを合わせる。胸元には愛用のコインのペンダントを下げた。脚と腕はしっかり隠れた。問題は手の甲と顔だ。一晩寝ても発疹は引かなかった。肌はちくちくと痛がゆく、集中力は散漫になる。 しかし、熱があるわけでもなければ、体を動かせないわけでもない。ましてや人にうつる病気でもないのだ。会社を休む理由にはならないだろう。 無遅刻無欠勤を誇る私には、具合が悪いから会社を休むなんて、口が裂けても言えない。 自己管理のできない人間はクズだ。断じてこの症状は病気ではない。 だいたい、会社を休んだところで何をする? 私は今の仕事が好きだ。全身全霊を傾けられる仕事に対して、皮膚の発疹がブレーキになるわけはない。サングラスとマスクを装着し、深くマフラーを巻き付けてできるだけ顔の露出を減らすと、私は車を降りて電車に乗り込んだ。こんなに混んだ電車の中で、他人の顔に興味を示す人物がいるとも思えない。気にしない、気にしない。 私は始業30分前には会社に着くようにしている。タイムカードを押す時間が、9時ギリギリ、バタバタと駆け足で席に着くというスタイルはどうも好きになれないのだ。ゆっくりと余裕を持って一日を始めるのが私流。コートをロッカーに置くと、白衣をはおり、給湯室でお湯を沸かす。コーヒーメーカーに豆と水をセットし、流しに腰を預けて今日一日のスケジュールを頭の中で組み立てる。ノルマをきちんと予定通りにこなすことが何よりの喜びなのだ。 私のいる部署は新製品の試作と臨床の窓口になっている。発売目標に間にあうように製品化するのは、正直いって難しい。しかし、発売日がずれ込むのは、あくまで真面目に実績を積み上げた上でやむなく、でなければならない。作り手の私たちが手を抜くことは許されないのだ。終わってみたらムダだったと思われる行程であっても、やらずに結論を出すわけにはいかない。 やがて、サーバーの中に、琥珀の液体がポタポタと落ち始めた。鼻をくすぐる香りが辺りを包み込む。と、廊下の向こうから華やかな笑い声が近づいてきた。「おはようございまーす。あっ、亜南さん! コーヒー1杯もらってもいいですか?」「ありゃ、亜南さん、そのお顔、カニにでもあたったんですか?」 隣の部署の仲良し二人組、真理と香苗だった。25歳というのはここまで屈託なく明るいものなのか。先週結婚式を挙げた美咲もたしか、彼女らとおない年だったはず。「真理ちゃん、コーヒーはもう少し待って。10杯分作ったからあと2分はかかる予定。顔はね、そう、アレルギーなの。心配しないで」 真理は、長い黒髪をかき上げながら、小首をかしげた。「いつもすいませーん。本当なら私たち後輩がやる仕事ですよね、こういうのって」「いいのよ。女性のための商品を作ってる、女性が中心の会社なんだから。せめて世間一般に言われているお茶くみなんて制度に踊らされるのはやめよう、私たちの世代がそう運動を起こしたの。欲しい人が、自分でお茶をいれる、それが我が社のスタイルってね」「ここまで話が分かる先輩がいる会社って、他にないですよー」 香苗がヨイショした。調子のいい若い娘たちなのだが、憎めない。バカさと若さは紙一重なのかもしれない。しかし、悩みなきその明るさ、裏表のないのどかさが私を和ませてくれる。「ねっ、亜南さん、美咲ちゃんてもう休みに入ったんですよね?」「そう、昨日から新婚旅行に出たわ。確か、行き先はモルジブ」「じゃ、これ彼女のデスクに置いといてもらえませんか? 頼まれてたんです、留守の間に発売になるから買っておいてって」 香苗が手にしているのは、月2回発売の女性誌だった。ファッショントレンド、成功した女性のインタビュー、恋愛相談に占い、といった他愛もない内容だ。我が社の広告も入れているので、ユーティリティルームにいけば、好きな時に閲覧できる雑誌のひとつでもある。わざわざ買わなくても良さそうなものだが、と首をひねった。「なんかねー、この号で取り上げられるイケメン占い師の記事が大事らしいんですよー。美咲ちゃん、見てもらったことがあって、すごく惚れ込んでるの。で、その人を雑誌に紹介するべきだって投書したら、ホントになったっていうんですよー。美咲ちゃんのコメントも載ってるんだって」「楽しみだよ~。早く読みたい。ねっ、亜南さんもあとで読んでみてくださいよー。ホントにいい占い師なんだって。私たちも今度見てもらおうって思ってるんです。2時間で2万円って高いけど、いい内容だったら後悔しないわ」 二人は顔を見合わせてきゃっきゃと笑った。「はいはい、わかりました。後で見てみるわ。それよりほら、早く行きましょ。あと5分で9時よ」「はあ~い」 二人はパタパタと軽い足音を響かせて廊下を駆けていった。私の手元には1冊の雑誌が残された。「人生のターニングポイントに効く! 今、この占い師が熱い! 本誌厳選の8人を徹底レポート」 はあ。占いね。全くもってくだらない。人生を切り開いていくのは自分自身でしょ? そのためにアカの他人からなんのアドバイスが欲しいって言うの? ため息とともに、マグを片手に私はデスクへと急いだ。「あらっ! 阿南ちゃん! どうしたのそのお肌!」 ドアを開けたとたん、武岡の声が裏返った。「いやだ、試作品に問題でもあった? 成分的には問題でるわけないんだけど」 巨大なターコイズブルーの石が入った指環の光る人差し指が、私のあごをクイと持ち上げた。しぐさのひとつひとつがクネクネしている武岡は、ゲイと間違われることが多い。ガタイはいいし、黙っていれば一種の色男なのだが、口を開けばおネエ言葉がほとばしる。「昨日は何ともなかったじゃない? あなたエビとかカニにアレルギーあった?」 両手を胸の前で合わせてもみしぼる姿は、おカマバーのママを連想させた。白衣よりも胸元のボタンを3つくらい開けた派手なブラウスのほうが似合いそうだ。「ええ、昨夜遅く発疹がでまして。実は子どもの頃から、たまにこういう症状が出るんです。他に具合が悪いところはないですし、うつる病気ではないので…」 最後まで説明する前に、武岡の指は電話の短縮ダイヤルボタンを押していた。「清水先生ですか? 研究室の武岡です。うちの研究員の一人が今、顔にブツブツが出てて、大変なんです。診ていただけませんか? ええ、保険証を持たせますので。12時過ぎですね? わかりました。ありがとうございます!」 デスクからくねっと振りむくと、武岡は断固として言った。「うちの大事なリトマス試験紙がそんな状態じゃ困るのよ。あなたの肌がOKを出した製品はどれも大ヒットしたこと、わかってるでしょ。すぐに治してもらって」「そういっても。今まで、薬で治ったことはないんです」 私は説明を試みた。どの医者もお手上げだったのだ、このナゾの発疹には。「専門家に診てもらわなくちゃ、わかんないでしょ! とにかく、そんな状態じゃ困るわ。肌を治すのが第一の使命よ。お昼休みには清水先生の所に行ってちょうだい。ちゃんと手みやげ持って行ってよ、先生にはお世話になってるんだから。銀の葡萄でケーキを6個以上偶数、領収証を忘れないで」「はい」 病院ほど嫌いな場所はない。しかし後には引けない。武岡はああ見えても私の上司なのだ。しかも、とても目を掛けてくれている。そう、少し暑苦しく思えるほどに。バッグを探って保険証を確かめると、断る理由は何ひとつなかった。 考えてみれば、社会人になってからこの発疹は出たことがなかった。武岡の言うように、専門医に診てもらうチャンスかもしれない。清水医師は仕事で提携関係にある、敏感肌のエキスパートだ。何か有益な対処法が見つかるかも。昼からの診療ならば、午後の何時間かは仕事にならない。今のうちに作業を進めておかなくては。
2005.01.26
「お姉ちゃん、龍ちゃんのサイトを知ってるぐらいなら、いつでもメールでやりとりできるんでしょ? 今回だってメールで報告すればいいじゃない。ようやく赤ちゃんができましたって」「それがね、今は完全オフなんだって。出したメールが帰ってくるのよ。帰国したら連絡するから、そのときに改めてメールしてくださいって。もし何かを伝えたかったら、彼のいる場所に訪ねていくしかないって感じ」「サーフィンが目的なら、あっちが寒くなる頃には日本に帰ってくるでしょ。えーと、今が妊娠3ヶ月だとして、予定日には十分まにあうんじゃない?」「そういう問題? 私は今の気持ちを伝えたいのよ。あんたにはそういうのわからないの?」 東華の叱責にはうんざりする。しかし、連絡したいときにその方法がないのは確かにイラつくものだろう。ふと、祥二が電話に出ないときのことを思い出した。「わかった、私が悪かった」 おとなしく認める。東華はさらに言葉をついだ。「龍ちゃんは私にとって数少ない男の友達なの。大切に思ってるのよ」 かつては私だってそうだった。今でも友達だと言える姉が憎らしかった。しかし、私は私のプライドを守るために、彼らにこれ以上近づくわけにはいかないのだ。話題を変えよう。「ねえそれにしても、34歳で初産ってどうなの? 高齢出産って心配じゃなかった?」「今は医学が進歩してるからね、別に不安はないわよ。だいたいが、真剣に子供を欲しいと思ったのがここ2年のことだし」「そうだよね、結婚してからもずっと仕事続けてたし、休みともなれば、博さんと旅行ばっかしてたもん。ずっと子供はいらないのかと思ってたくらい」「うちは博が旅行代理店に勤めてるでしょ。条件のいい海外旅行ができるのに、使わないとソンだし。でもまあ、年3回の旅行を何年もやれば、気が済んだというかなんというか」 両親は、東華夫婦に子供が出来ないことをずっと心配していた。孫が欲しいと大騒ぎだったのだ。やいのやいの言われる中、自分のやり方を貫くその姿勢には、常々感心していたのである。「でもさ、子供って欲しいと思ってすぐできるものでもないんでしょ。特に年齢が上がってからは? 私の会社の上司もさ、ずっと不妊治療してるんだよ。お姉ちゃんは病院に相談しなかったの?」「うん、行かなかった。でも私、絶対に妊娠する自信があったから。もし出来ないんだったら、博の身体に問題があるって思ってたし」「なんで?」「決まってるわ。昔、妊娠したことがあったから。ほかの人の子」 さらりと口にされた東華の秘密に、一瞬脈が止まった。自由にやっているようで、抑えるところは抑える、しっかり者の東華が。いったいいつそんな「失敗」をしたというのか。「それってつまり、そのときは堕ろした、ってこと?」「私が子供生んだの見たことある? あのときはまだ若かったの。相手に経済力も無かったし、私もまだやりたいことが一杯あった。あの時点で子供を産んでいたらやっぱり後悔の多い人生になってたと思う」「あきれた。ずいぶん身勝手だね。奈々の応援をするはずよ、お姉ちゃん自身が奈々の図太さを持ってるんだから」「何とでも言って。あんたには軽蔑されるだろうと思ってたわよ。でも、産んでから愛せない方が問題だと私は思ったの。誰に責められようと、私は私の人生における決断を下しただけよ。あのときの子供には悪かったと思ってる。でも、子供を産んで育てる心の準備ができたから、今、あのときできなかったことをやり遂げることにしたの」 浅くなっていた呼吸から肺を解放しようと、私は大きく息を吸った。「今日は驚くことばっかり。なんか、どっと疲れたわ」「お風呂に入って、すぐ寝たら? 私は少しあっちの輪の中に戻るから」 イスから立ち上がりながら、私は東華に冷たく言い放った。「博さんは知ってるわけ、お姉ちゃんの過去」「なに? 密告しようってわけ? おあいにく。私は隠し事をしないタチなの。了承済みよ、初めからそんなこと」 がつんとカウンターパンチを食らった思いだった。あけすけな東華。秘密のない東華。後ろ暗いところのない東華。どうやったらそんなにあっけらかんとしていられるのか。人に弱みを握られると考えたことはないのか。 身内だといっても、理解できないことはあるのだ。私にとっては、東華も、奈々も、想像の範疇を超えた生き物だ。 湯船に浸かって身体をあたためると、体中に浮かんだ水玉模様がよりいっそう赤くなった。今回は一体何日でこの発疹は引っ込むだろうか。過去の例で言えば、早いときで3日かかった。今回はショックなことが重なりすぎた。私の身体はどれほどの違和感を訴えているのだろうか。 もう大人になったんだから、そんなに驚くことはないのよ。人にはいろんなことが起きるもの。びびらずに、事実として受け入れてこそ、対処できるのよ。そんなに拒否反応をしないで。 自分の身体に、語りかけたい思いだった。気に入らないことがあるからと、ストライキを起こしているかのような自分の身体がもどかしい。 いつまでも子供のままじゃいられない、物のわかった大人になるべき頃合いなのに。
2005.01.25
龍一は、私より一つ年上の父方のいとこだ。 父の妹は、早くに病気で死んだ夫の一粒種を、女手ひとつで育て上げた。お互い の家が近かったこともあって、幼い頃から私たちと仲が良かった。龍ちゃんは、 いつでも私に近いところにいた。どんな話も聞いてくれたし、私を子供扱いする こともなかった。クラスメイトよりも深く私のことを理解してくれていた。性別 こそ違うけれど、本当の親友だと、私は思っていた。 高校を出るまでずっと。 だけど、龍一はもう、あっちがわの人間だ。私よりも奈々をかばうことを選んだのだ。あのころは親友だったのに、今となっては他人よりも遠い。 奈々の行動によって、私はいたく傷つけられたのだ。先に意地悪をしたのはあの子のほうだ。結果的に、奈々のほうが悲惨な立場になったから、私は自分の怒りが正当であると認めてもらえなくなってしまった。東華も龍一も、「より可哀想な立場の奈々」をかばうことにして、私を悪者にした。もはや二人とも私の味方ではないのだ。「龍ちゃんか。龍ちゃんともずいぶん会ってないね」 思わずクールな口のきき方になる。「あんなに龍ちゃんのこと慕ってたくせに、薄情なものよね。 そうだわ、龍ちゃんにも私に子供ができること、喜んで欲しいな。どうしたら連絡できるかしら。今、彼、日本にいないんだよね」「龍ちゃんて、占い師になったんでしょ? どうしてそういう人が海外にいるわけ?」「あんたねー、どんな人でも、一週間に5日間、会社に通わなきゃならないわけじゃないのよ。どんなペースで仕事をしたっていいじゃない。龍ちゃんは今売れっ子なの。インターネットで探してごらんなさいよ。すんごい人気で予約待ちが長いんだから。 人にはね、働くときには働く、遊ぶときには遊ぶっていう生き方が選べるの」「で、どこで遊んでるの?」「南半球でサーフィン旅行の真っ最中。あっちは今、夏だもんね。場所はどこだっけ。そうそう、これが届いてたわよ、あんたあて」 東華は、電話の横からひらりと1枚の絵はがきを取り出した。 あなん、元気? オレは今オーストラリアに来てる。 ビーチにテントをはってサーフィン三昧。 人生は喜びに満ちている! 文面は短い。 くるりと返すと、太陽の下、白砂のビーチに波が寄せている写真だった。その縁にSCOTTSHEAD、というアルファベットが踊っている。スコッツヘッド、これが土地の名前なのか。住所は書いていない。宿を取っていないのだから、連絡先もなにもあったもんじゃないけれど。「ここ何年も連絡なんかなかったのに。どういうつもりなのかしら」「ふと気になったってことじゃないの。あまりにも楽しいから、あんたにもその気分をお裾分けしてあげようと思ったんじゃない? あんたがいつでもまじめでお堅い顔をしてるもんだから」「もう10年も会ってないのに、私の暮らしぶりがわかるわけないじゃない」「いんや、そんなことはないね。私と龍ちゃんの会話に、あんたのことが出ないことはないんだから」 早い話が、私はスパイされてるってことか。それとも二人の会話に欠かせない道化役? どっちにしてもおもしろくない。私は、毎日を堅実に生きている。人の口に上るほどおもしろい体験をしているわけじゃない。私は酒の肴になるほどゆかいな人物じゃないのだ。
2005.01.24
もはや、頭に上った血は、高温を保ちながら全身を駆けめぐっていた。指先までがドクドクと音を立てる。実の姉とは言え、ここまで侮辱されては黙っていられない。「私は、私の人生を楽しんでるわ。仕事はやりがいがあるし。結婚にこだわらないからって女を捨ててるみたいな言い方はよしてよ」「百歩ゆずって、自分らしい人生を歩んでるって認めてもいいわよ。でもさ、今のあんた、とてもじゃないけど自立してる女とは言えないじゃない」「両親の家に住んでるのは、自立してないってことなの? 私、毎月家賃と生活費を入れてるわ」 たしかに、私は一人暮らしを考えたことがない。 お金がないわけじゃない。洋服やバッグは、高くても長く使えるものを選び、余計なものは排除しているし、酒をのむわけでもなく、買うとしたら本ぐらいなもの。貯金だってかなりある。そう、その気になればマンションの頭金をポンと出せるほど。「もういい大人なんだから、身の回りのことを自分でやったっていいでしょ」「そういうのって、働いてる主婦のひがみにしか聞こえない。お姉ちゃんは結婚して主婦業をやってるのに、私がそれをしてないから面白くないんでしょ。言っておくけど、週の半分以上は私が夕食作ってるのよ。お母さんの仕事が忙しくなってるから」 東華は鼻にしわを寄せた。「小憎らしい口をきくわよね。つまりあんたは、お母さんの助手だってこと? お母さんにとって無くてはならない存在だから出て行けないっていいたいわけ」「お姉ちゃんはそういうけど。自分はとっくに嫁に行ってるから気が楽でしょうよ。でも妹は家出したっきりだし、お父さんたちに何かあったら誰が面倒みるのよ。私以外にいないじゃない」「そうかしら。うちの両親が歳とって人の手を借りるようになるのは、もっとうんと先の話よ。今から心配することじゃないでしょ。あんたのは、親への依存を、親孝行にすり替えてるだけじゃない?」 風向きが悪くなってきた。東華は弁が立つのだ。しかし、私にはとても、家をでて独立するなんてことは考えられない。かといって、結婚相手とこの家で同居することはもっと想像ができない。私はただ、お父さんとお母さんのいるこの家で、心穏やかに暮らしたいだけなのに。なぜ東華は私がやりたくないことを無理強いしようとするのだろう。「あんたはさ、奈々のことバカにしてるし認めてないかもしれないけど、私にとってはあの子は一人前の女よ。少なくとも、奈々は自分で行動して、自分でぶつかって、自分で危険を乗り越えた。21歳でバツイチになってボロボロになっても、それでも一人で頑張ってるんだよ。それだけじゃない。意地悪な真ん中の姉のおかげで、実家には帰れない。亜南やお父さんたちに謝りたいと思っても、それができないだけ」「謝る気なんか無かったでしょ、あのころ。何でも悪いのは人のせいで、自分はちっとも悪くないって顔してた。甘やかされて育ったから、人の心を思いやることができないのよ。それを教えてやるのが私の立場なの」「はっ。だから、私の結婚式にあの子がくるのを反対したわけ? 反省がたりないって?他人に見せるのが恥ずかしい身内だって? ああ、そっか。あんたは品行方正で親孝行してるから、人を罰する資格があるって言いたいわけね。つまんない人生ね。失敗した人に石を投げていじめるだけが生きがいだなんて」「どうしてそんなに嫌がらせを言うのよ」「そうね。見ていてもどかしいからよ。あんたは、自分の力を正しく使ってない。もっといろんなことができるはずなのに、できないフリをしてる。 私はね、力があるのにそれを発揮しない意気地なしを見ていると、腹の底からムカつくの。もっと楽しいことを追い求めたっていいじゃない。それで少しぐらい痛い目にあったって。何がそんなに怖いのよ」「奈々みたいになりたくない。私にはもう、悪い見本が見えてるからよ。あの子はね、昔から欲張りだった。欲しい物は何でも手に入れなきゃ気が済まないのよ。どんなエネルギーを使っても、それが無駄になってもかまわない。それ以上に、周りに迷惑をかけることすら気にしないの。そんな人が幸せになっていいと思う? 人の不幸の上にしか成り立たない幸せなんて間違ってるよ」 東華はため息をついた。「あんたの言うことも一理ある、とは思うわよ。でも、極端すぎる。人は許すことを覚えて成長するの。もしもあんたが何か過ちを犯したとき、一番近いところにいる人がつらくあたったらどう思う?」「私はそういうことはしない。行動する前に考えるもの」「あんたは想像力がないのね。実際、自分がそういう立場になってみたら、そんなこと言ってられないものよ。ねえ、あんたももういい大人なんだから、奈々のこと、許してあげたらどうなの。会ってみたら気持ちも変わるかもしれないよ」「今でも、お姉ちゃんは奈々の居所、知ってるの?」「私と龍ちゃんは知ってるわ」 カチン、と来た。東華と龍一は今でも懇意にしているのか。二人して裏切り者の奈々をかばっているのだ。私だけがのけものだ、という気にさせられる。
2005.01.23
結婚できない? 「でき」ない、という表現にカーッと血が上った。体中の水玉がチリチリとうずく。「失礼ね! 私は結婚できない、んじゃなくて、し・な・い、だけ!」 東華はにやにや笑いを浮かべた。幼い頃から姉にはなぜか逆らえない。いや、東華はいつもタイミングがいいのだ。人に相談したいことが起きたとき、必ずその場に居合わせる。一緒に住んでいたときはいざ知らず、嫁いでもなお、間の良さは変わっていない。絶妙な時に顔を出す。「例の建築の彼はどうなったのよ。最近会ってる? 人の結婚式の話がでると、オレ達もそろそろって言う?」 誘導尋問だとわかっていても、口が開いてしまう。言いたくないと思った言葉が口をついて流れ出てしまう。「久しぶりに会いに行ったら、部屋に別の女がいた」 東華の目がまん丸に見開いた。「サイテー! そりゃ水玉もでるはずだわ。あんた、いつまでそんなつまらない男に関わってるつもりなの。女にだらしない男ってのは、絶対に浮気癖がなおんなないのよ。そいつの浮気事件だってこれが初めてじゃないでしょ。もう若くないんだから、しょうもない男とつらつら付き合って時間を無駄にしてちゃダメだよ。4年もつきあってクズ男だってことを認められないわけ? いいかげん、ハズレくじを引いたんだって認めたら?」 わかってる。 彼もいずれは変わるかも、という希望ももはや見えなくなってきている。「でもね、捨てる神あれば拾う神あり、だったし」「なにそれ」「仕事で知り合いになった人からプロポーズされた。ケッコンを前提につきあって欲しいって。まだデートらしいデートだってしたことないのに」 東華の口からあごが落ちそうになった。「そりゃあまた、極端なお話で」 東華はまた一つ伊予柑を手にとってむき始めた。私は、湯飲みに残ったぬるいお茶を飲み干す。「今日はいろんなことが一度に起こって、なんか疲れた。ホントだったら、お姉ちゃんの妊娠をもっと喜んであげられるはずだったのに」「いいよ別に。あんたのニュースの方がでっかいもん。私の場合は、これから半年はたっぷりスポットライトの中だし、子供が生まれたらそれだけで、お父さんやお母さんがべったべたに寄ってくることは目に見えてるし。 ね、それよりも亜南はどうするの。結婚する気あるの? その求婚者ってどんな人?」「バツイチで50に手が届こうかっていう歳」「あんただってもう30なんだから女としては若くないわよ」 そんなことはわかってる。「でも、まだ深く話をしたこともないし、そんな人といきなり結婚なんて考えられないよ。経済力だけはありそうだけど」「でもさ、普通だったら、今までの恋人がダメそうで、しかも新しくお金のある男性が結婚してくれっていうなら、渡りに船じゃない。もっと貪欲になっても良さそうなもんだけど」「だって。結婚ってそんなにいいものかしら」「あらご挨拶ね。ま、もっとも、あんたに結婚に対するいいイメージがあれば、とっくの昔に片づいてたはずよね。身を固める気のない浮気な男とだらだらつきあうのも、その人とだったら絶対に結婚できないってわかってるからなのかもしれない。あんたは結婚から逃げてるのね」 ドキリとした。 結婚で痛い目にあった妹が、私を臆病にさせたのだ。彼女のように、間違った相手を簡単に信じてしまいそうな自分が怖いのだ。目の前の男は、誠実な人間なのだろうか。結婚したら豹変して、私を苦しめる人間になってしまうのでは? 結婚なんて逃げられない仕組みの中に飛び込まないのが、一番安全ではないか。だからわざと見込みのない男と恋愛ごっこをしているのだろうか。「私は、奈々みたいになりたくない。あの子のおかげで、結婚恐怖症になってるのかも」「人のせいにしない」「だって事実だもの。奈々と同じ血が流れている私は、同じ失敗をする可能性が高いと思わない?」 東華は哀れみの眼差しを私に向けた。「じゃあ私の結婚はあんたの意識を変えなかったの? うちは上手くいってるし、お父さんとお母さんだって息の合った夫婦だわ。 ねえ、犯罪者の子供は必ず犯罪者になるの? 犯罪者が親戚にいる人は、ずっと肩身の狭い暮らしをしなくちゃいけないの? 親がガンで死んだら、自分もずっとガンの心配をしながら生きなきゃならないの? 精神的なことって、後天的なものなのよ。人は学習できるの。例えば私だったら、生まれてくるこの子が女の子だって、堂々と海外旅行へ出すわよ。たとえ旅先で詐欺師と出会おうと、その後どうなるかは本人次第でしょ。私は過保護にするつもりはないわ。 あんたみたいに、実家から独立もせず長い旅行もしない生活なんてまっぴらよ。無駄づかいもせず、遊びもせず、ただただ、親に心配をかけない堅実な毎日を過ごす。そんなんで人生楽しいって言えるの?」
2005.01.22
私が着替えて二階から降りてくると、東華は飲んべえ団体からはぐれてキッチンのテーブルで伊予柑をむいていた。「亜南、なにがあったの?」「どうしてそんなこと聞くの」「あんたがそうやって顔にブツブツを出してる時って、何か嫌なことが起きた時なの。過去の例から言えば」「そう? しばらくこんなの出なかったから、気にしてなかったわ」 厳密に言えば、気にしていないというのはウソだ。 ただ、レベルによってじんましんが出る部位が違うから、人目につかないですんでいただけ。 まず、足の裏がムズムズする。その後は、ふくらはぎと膝の裏を中心にした脚の裏側。続いて背中、さらに進むと首の後ろまでのぼってくる。人目につく体の前側、ましてや顔いちめんに出るのは、最高レベルの発疹状態なのだ。「ウソつけ。私の目は節穴じゃないのよ。脚だけとか、首の後ろまでだったら何度もあったじゃない」 さすが身内の観察眼。舌を巻く。「お姉ちゃんが実家にいたのってだいぶ前でしょ。私、学生時代からそんなにじんましん出してた?」「そりゃあもう。体育の先生の体罰事件でしょ。片思いの男の子が彼女と歩いてるところを目撃したときに、校内放送のアナウンサーテストに落ちたとき、それから…」 東華は伊予柑の汁をぬれ布巾でぬぐい、数え上げる。「そんなの、高校生までの話じゃない。今は大人なんだから、そんなつまんないことでいちいち水玉になったりしないのよ」「他にもあるわよ、大学に行ってからもねえ…」「やめてっ。もう、忘れたわ。昔のことほじくり返すのはやめてよ!」 私は腹立ちまぎれに、カゴに盛られた伊予柑を一つ手に取り、乱暴にヘソの部分に指をつっこんだ。バリバリと皮を剥く。白く筋張ったワタが爪の間にはさまった。気にしない、どうせ今夜、爪を切るつもりだったんだから。隣の客間からは、時おり大きな笑い声が爆発している。引き戸一枚隔てたこちらは静かなものだ。「あっ。これ、ハズレだわ」 私が手にした伊予甘は、白いワタばかりが多く、肝心の実が小さくしぼんでいた。「アハハ、あんた、チェックが甘いのよ。手に取る前に真剣に選ばないから」 東華は果物を選ぶときに、はずしたことがないのが自慢だ。ひとかごに盛られたなかから、最も甘くて美味しいものを見つけることができる。「お姉ちゃんみたいに要領よくないのよ、私は」「あんたが要領悪すぎるの。どうせ食べるなら一番美味しいもの、っていう気迫がたりないのよ。強く求める者にこそ、美味なる物の価値がある」「偉そうに。だいたいね、お姉ちゃんがいつも自分ばっかり美味しいところをもっていくから、私のときにカスしか残らないんじゃない。そういう罪の意識は感じないわけ?」「感じない。弱肉強食が世の中の常よ。それにまだ甘いやつ残ってるし」「どれ?」「これ!」 東華の選んだ伊予甘をむいてみると、確かにぎっちり実が詰まっていた。「何が違うのかしら、私とお姉ちゃんと」「そりゃあんた、真剣さよ。気合いよ。あんた本気になってないもん」 そんなものだろうか。ふと、今までの人生でも、要領のいい姉に幸運をかっさらわれてきたような気になった。頂き物のお菓子が一つだけ残っているとき、それはたいてい姉の口に入り、私は間に合わないのだ。 あら、もう少し早くきたらこれが食べられたのに、あんた、どんくさいわねえ。 そんなシーンが一体何度くりかえされたことだろう。首筋の水玉が、ずきずきと脈打ち始めた。「ねえ、亜南、今でも奈々のこと怒ってるの?」 東華の発言は突然だった。聞かれるまで、末の妹のことは思い出したことがなかったのだ。「あらやだ。すっかり忘れてたわ、あの子のこと。今いったい何をしてるのかしら」「私は会いたいな、あの子に。姪か甥ができるって教えたいし、せっかくこうやって家族が揃ってだんらんしてるところに呼んであげたいわ」「あんな身勝手な女、来なくていいよ。今さら…、お父さんとお母さんにどんな顔して戻ってこれるっていうの? 私は反対。あの子がうちに戻ってきたって、みんなが気まずくなるだけよ」 思わず言葉の勢いが強くなる。 一つ違いの妹、奈々にはさんざん手を焼いた。ワガママが過ぎて人に迷惑をかけることしかできない娘。私に嫌な思いをさせても何一つ反省のないあの態度。自分のことしか考えられないくせに、他人から嫌われたことなんかないって顔をするところ。「ねえ亜南、もう10年も前の話じゃない。あんたが嫌な思いをしたことはわかってるわ。あのころは子供だったのよ。もう許してあげたら? あの子だって大人になったわよ。 ねえ、親にとってはどんな子供だって可愛いわ。たとえ、恋の相手を間違えて馬鹿なことをしでかしたってね。ううん、過酷な目に会ったからこそ、いたわってあげたいと思うのが人情でしょ。私から見たら、あんたがガンコにあの子を嫌ってるから、親は遠慮して奈々を呼び戻せないでいるのよ」「意地悪なのは私だってこと?」「早く言えばそう。だって考えてもみてよ。二十歳になったばかりで駆け落ち結婚したはいいけど、有り金ぜんぶ巻き上げられて、生命保険目当てに殺されそうになったのよ? 世間知らずの小娘が百戦錬磨の色男にだまされたっていうのは……事故でしょ」「いっそ死んでりゃ良かったのよ。そしたら周りだって同情するだろうし、私たちだって恥ずかしい思いをしないで済んだわ」 東華は、むっとした顔で立ち上がると、流しの水で手を洗い、ポットから急須にお湯を足した。二つの湯飲みに番茶を注ぐと、一つを私の目の前に置く。「ねえ、縁あってこの世に姉妹として生まれてきて、瀕死のところを助かったんだから、そんな言い方することないじゃない? 奈々は犯罪者じゃないのよ。被害者なの。どうして被害者の家族が恥ずかしいことになるのよ」「たとえば、わたしが結婚するとき、そんな妹がいたってことが足かせになるってこと。おろかな血筋の女だって思われるのはいやよ」 ふうーっと長い息を吐きながら、東華は湯飲みを両手で包んで口元へと運んだ。「ふん、じゃあ、うちのダンナはどうなのよ。私たちが結婚するとき、奈々のことが障害になった? 博の親戚の間で騒ぎになった? すべては済んだことなのよ。うちの近所の人だって、奈々があの事件の被害者だってこと、だあれも知りゃしないのよ。気にしてるのはアンタだけ。奈々は、あの事故にあったとき関西に住んでたし、結婚そのものが駆け落ちだったから、近所にも知らせてないしね。 ね、亜南。もしかして、自分が結婚できないこと、奈々のせいにしていない?」
2005.01.21
開いた口がふさがならなかった。 いや、あいたつもりの口は固く閉じられ、強く強く歯ぎしりをしていた。 ああ、そういうこと。1ヶ月も会わなかったわけは、これだったんだ。カギを渡すほど親しい仲の女。なんて答えよう。兄はもうすぐ帰ります、って妹のふりをしてこの場を納める? それとも、出て行って!って叫ぶ? そしたらもうすぐ帰ってくる祥二と三すくみの修羅場が始まる。今日の私には、とてもそんな元気はない。 意外すぎるプロポーズに、申し開きのできない浮気の現場。 私は、何も言えずに身体をひるがえして、階段を降りた。もう家に帰りたい。 階段を駆け下りながら、頬にイヤな熱っぽさが上ってくるのがわかった。頭は血が全部集まってしまったようにズキンズキンと脈打っている。どうやって電車に乗って降り、車までたどり着いたのか覚えていない。かろうじてバッグからキーを取り出し運転する力を振り絞る。どうせ走れば10分の距離だ。事故を起こす心配はない。 家の庭につくったガレージにバックで車をいれ、懐かしき我が家のドアを開ける。 と、ここでもまた非日常的な空間が繰り広げられていた。 夜の11時を回っているというのに、客間からにぎやかな人声がする。 車の音を聞きつけて、姉が玄関で出迎えてくれた。「亜南! お帰り! ずっと待ってたのよ」 東華は私の顔を見ると妙な表情を浮かべた。「お姉ちゃんが来るって知ってたら、早く帰ってきたのに」 もし、末吉との食事をを断っていたら、今夜こんな事件にあうことはなかったのに。思わず、ため息が出る。「突然だけどいいニュースは早いほうがいいからね」「いいニュースって?」 私はバッグを玄関にぽんと投げ出し、パンプスを脱いだ。「えへへ。ついに妊娠したのだ~。結婚6年目の快挙よ」 28で結婚した東華は今34。不妊治療も視野にいれなきゃダメかなあと言っていた矢先のことだった。「それはそれは。よかった。おめでとう」 姉はバラ色、私はブルー。同じ親から生まれたはずなのに、どこで道は違ってしまうんだろう。ため息、第二弾。 部屋で着替えてこようと階段に手を掛けると、後ろから東華の声が飛んできた。「ねえ亜南、今日あんた何かあったの?」「どうして?」 振り返ると無理して笑ってみせる。「鏡みてみな。あんた、顔から首から、足の先まで、真っ赤な斑点が出てるよ。そんなにじんましんが出るなんて、カニでも食べたの? それとも…」 階段を駆け上がり、ドアを開けて姿見の前に立った。 顔にも足にも、じんましん。服を脱いでみると、体中まんべんなく、不吉な水玉模様が浮き出していた。 昔からそうなのだ。激しいショックや怒りを感じると、身体にじんましんが出る。やがてそれはじくじくと膿をもって赤黒く腫れ上がってくるのだ。 自分で思った以上に、今日はしんどい一日だったということか。 しかも今日はまだ木曜日。明日も会社に行かなくてはならない。 鏡の中の私は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
2005.01.20
電車に乗ると、ドアに寄りかかって、ガラス窓を鏡がわりにしてみた。 マフラーをはずすと、ショートカットの首筋にはブツブツと赤く斑点が出ている。足の裏がムズムズとかゆい。かかとから這い上がって点々は背中を経て首にまで到着した。自慢の白い肌が一瞬にして変身を遂げる。どうしてこんな反応をするのか。精神的な動揺が関係していることだけはわかるが、そのシステムは謎に包まれたままだ。 だからこそ、常に心は平穏を保ちたいと思っているのに。 結婚か。末吉さんと? それとも末吉さんをソデにして、祥二との未来を考える? 近頃の祥二は、事務所が雑誌で紹介されたこともあって大忙しだ。最近、古い2LDKをぶち抜いて生活感のないクールな空間にリフォームすることがブーム化してきている。その成功例を多くもつ彼の所属する建築事務所は、今まさに伸び盛りなのだ。それにしたって、最後に会ってからもう1ヶ月近くになる。だからこそ、末吉と3度も夕食をともにする時間があったのだ。 今日はあきらかに末吉が有利な展開になっている。 ここで祥二にもポイントを稼いで欲しい。 部屋に寄ってみようか。 途中下車して、携帯を鳴らしてみる。夜10時。そろそろ仕事を切り上げてもおかしくない時間だ。 プルルル、プルルル。 呼び出し音2回で懐かしい声につながった。「おっ。亜南。久しぶり。どうした、何かあった?」「んんー、たまには顔を見たいなっていう気分なの。部屋にちょっと寄ってもいい? 電車があるうちに帰るから。祥二は今どこ? 仕事は終ったの?」「ああ、今ちょうど片づけてたとこ。先に部屋いってて。もう道もすいてるから、10時半には着くよ」 冷たい風に背中を押されながら、勝手知ったる恋人の部屋を目指す。二人のつきあいが長く続いてきたのは、同じ沿線に住んでいるからという理由も大きい。快速電車で駅三つという微妙な距離。 泊まるほど遠くなく、お互い車を使っているから好きな時間に家に帰れるのが利点だった。建築デザインをするのなら、もっとおしゃれな土地を選ぶものかと思ったら、祥二は実際的な男だった。広さと古さ、大家の性格などを考え会わせて決めた物件は、埼玉ならではの掘り出し物なのだという。もちろん内装は本人のデザインによる大幅なリフォームを施してある。賃貸なのにここまでできるのは、まさに大家の理解があってこそ。しかも同じ大家から空き部屋の模様替えを請け負うという抜け目なさ。 祥二は仕事を波に乗せるのがうまいのだ。 そして女を乗せることもうまい。「オレとつきあったら、別れられないぜ。オレ以上に満足させられるやつなんてそうそういない」 その言葉はまんざらウソじゃない。悔しいけれどそれはハッタリじゃない。かなりの割合で真実に近い。 末吉はどんなセックスをするのだろう。もし結婚したら彼とやることになるのか。せめてそこまで好意が拡大してから話をしてくれればいいのに。もし身体が合わなくて、それが結婚を断る最大の理由になったらどうする気なんだろう。それって、男にとってはひどい屈辱なんじゃない? ふとそんなことを考えた。 駅から徒歩5分の道のりはあっという間だ。真っ暗な玄関で手探りでカギを開ける。 ドアを開けると、中には明るい照明がついていた。 それだけではない。ステレオからはスティーリーダンが流れ、奥の冷蔵庫の周辺から声がした。「おかえり~。ねえ、ビールもらってもいい? ちょっと長風呂しすぎてのどが渇いちゃった」 見知らぬ女の声に凍り付く。 ついで、バスタオル一枚巻いただけのロングヘアの女が私の視界に入ってきた。「あらやだ。ごめんなさい! 祥かと思って。あなた、妹さんね? 私今、祥二さんと、そうね、ええと、おつきあいしてるんですけど。こんな格好で失礼」 身体の中で血が逆流して、毛穴の一つ一つから吹き出してくるような気がした。
2005.01.19
「私が言いたいのは、つまり、独身でいるからといって、おつきあいしている人がいないってお思いになるのは早計だってことです」 そう、私には4年ごしのつきあいになる男がいるのだ。決して誠実とは言えない男だが、それでも愛着はある。結婚の話が出ないからといって、最近、会う時間が減ってるからって、うまくいってないわけじゃない。「あなたほどの人だ。もちろん、ライバルが全くいないなんて都合のいい想像はしていませんよ。私にとって大事なことは、あなたが、今、だれの妻でもないってことです。それは、私の妻になって頂ける可能性がまだ残されてるってことなんです。私は、欲しい物を手に入れるための努力は惜しまない男ですよ。今日のところはここまでだ。また会う約束をして頂けますね? おうちまでお送りしましょう」 げっ。このムードを引きずったまま、車で送られるなんて耐えられない。密室の中、どこに連れ去られるかわからない恐怖でイヤな汗をかくのはさけたい。「いえ、私も最寄り駅からは車で通ってますから。まだ時間も早いし、電車で帰ります」「送らせてくれないんですか?」「そうです。自分の足で帰る。それが私の希望です」「あなたの希望を優先したら、また必ず会ってくれるって約束してくれますか」 しかたない。その約束にどれほどの効きめを期待しているのか知らないが、私はこの場を逃げるためならどんな方便でもつかう。「もちろん」 彼は財布を開こうとする私を手で制止すると、ウェイターを呼んで金色のクレジットカードを手渡した。女性にはごちそうをするもの、という既成概念の持ち主なのだ。 預けていたコートを受け取ると、彼はさりげなく私に着せかけてくれた。紳士ではある。 店を出る階段を下りると、冷たい空気が鼻の奥をツーンとさせた。まだ11月だって言うのに、今夜は冷える。末吉から、腕をまわして並んで歩きたいという態度がただよってくる。おっとそうはいかない。二歩下がって後をついて行く。「この店の料理、気に入りましたか」「ええ。池袋にこんなすてきなイタリアンレストランがあるなんて知りませんでした」「昔からある店でね。私にとってこの店は、特別な存在だ。今日こうしてあなたに告白をした場所ですから」 きざなせりふに立ちくらみを覚えた。しかし、末吉が口にすると、そんなせりふも嫌みではない。押しは強いが泥臭くない。どこかスマートで憎めないのだ。「ところで末吉さん。私のどこが気に入ったんですか?」「肌、ですよ。キメの細かい、透明な肌。精神のありかたが透けて見えるような。あなたは自分の美しさに気がついていないらしいね」「肌のキメを整えることは、うちの製品を使っていれば簡単なことですよ。お化粧の効果が私の個性ってわけじゃないでしょ」 そもそも、私が化粧品メーカーに就職したのは、何にでもかぶれる敏感肌が悩みだったからだ。既成品で私の肌にあうものがないのなら、作る側に回ればいい。「いいや。私はいいものを見極める目を持っているつもりだ。あなたはメイクなんかしなくても十分輝く肌をもっている。おせじじゃなくね」「でも、そんなこといったら、化粧品の存在意義そのものを否定することになりませんか? 私は、私のようなかぶれやすい肌の人が安心して使える品物を開発することに必死になってるんですよ。それはほめ言葉じゃない」 首筋がカーッと熱くなってきた。ああ、なじみのあるこの感触は、まさか。 ぶつぶつと赤い斑点が身体に浮かび上がってくる、じんましんだ。 幸い、駅が見えてきた。末吉には気づかれないで済む。「今日はごちそうさまでした。それから。沈着冷静がモットーの私ですけど、久しぶりにびっくりしましたわ」「前向きに考えて。また電話する」 末吉は、軽く手をあげるとクルリと振り向き、来た道を戻っていった。
2005.01.18
「アナンさん! 私と結婚を前提としたおつきあいをしていただけませんか?」 口元に運んだカプチーノのカップが、ぐらりと傾いて前歯にガチンとぶつかった。熱々のミルクの泡が押し寄せて、上唇にビリリと刺激が走る。手が滑って、カップがテーブルに落下した。 がちゃん、と音を立ててソーサーの上にカップが不時着した。中身は真っ白なコットンのテーブルクロスに飛び散る。キャンドルは茶色い液体の直撃を受け、ジュッと音を立てて消えた。「すっ、スエヨシさん? 今なんておっしゃいました?」 私は、大抵のことでは動揺しない。あと2ヶ月で30歳の誕生日を迎えるという大人の女なのだ、ケツの青い小娘とはわけが違う。 しかし今回は特例と認めよう。これは驚きに値する発言だ。 何しろ私は彼とまだ3回しか食事をしたことがない。いや、それどころか手をつないだとかキスを交わしたとか肉体関係を持ったとか、そんな実績が何ひとつない状態での申し出だ。驚かない方がおかしい。 っていうかこのおじさん、大丈夫? 何考えてんの! いきなりこんなこと言って、私がビビるとは思わないわけ?「私本気なんです。亜南さん、これからの私の人生に、あなたが居てくれればそれだけで幸せだ。こんな歳になって、しかも10以上も歳の若いあなたにこんな申し出はいかがなものかとは悩んだ。悩みました。でもね、私は思うんですよ。自分の気持ちに正直にならないと、悔いが残る生き方しかできないと」 ウエイターがおしぼりを手に飛んできて、私がひっくり返したカップと無惨に消えたキャンドルの残骸を下げ、「代わりをおもちします」と言った。ジャマが入って、末吉は少しだけ口を閉じた。 心持ち紅潮しているそのほほを見る限り、たちのわるい冗談ではなさそうだ。てことはこの発言は本気ということに。一体なぜそんなことに? 文字通り開いた口がふさがらない。「末吉さん、あまりに突然なお話で、私、なんて言っていいか」 お願い、冗談だといって。私を困らせないで。「まだ何も言わなくていいのです。だけど、口元のミルクのひげは拭いたほうがいい」 はっとして、膝からナプキンを取り上げ、口の周りを抑えた。「あなたが私について知っていることはごくわずかです。末吉貴一48歳。広告代理店勤めをへて独立。ちょっと歳食ったベンチャー企業家、ってところでしょう」「そうです。うちの会社のホームページやインターネット通販システム作りを担当してくださっている、頼りになる方ですわ」「初めてお会いしたときから、ぐっと惹かれる物を感じていたんです。亜南さんはクールでソリッドだ。冷たいのに強力な磁石のようだ。砂鉄が引きつけられるように、私の細胞はあなたの方へざああっと流れていってしまう。自分ではとても止められないのです。これは一種の自然現象だ。地球の引力から離れられない月と同じなんだ」 末吉は、テーブルの上で組んでいた私の手を、両手でぐっと包み込んだ。「あなたのことを知りたい。もっと一緒に時間を過ごしたい。だからこそ、最初に誠意を見せたいと思った。どうか引かないでください。私たちの時間はこれから始まるんですから」「カプチーノをお持ちしました」 タイミングよく、ジャマが入った。ぱっと手をふりほどき、両手を膝の上にひっこめる。ちょっと汗ばんだ、ごつい指先の感覚がまだ私にまとわりついている。 私は、カプチーノの泡をスプーンでぐるぐるとかき混ぜながら、どう言葉を継いだものかと考えていた。とにかく即答は避ける。いきなり断って仕事に支障がでるのは困る。「末吉さん、ワインに酔ったんじゃありません?」「今日の私はあなたと同じ物しか飲んでいませんよ。サンペリグリノ。あなたと食事をすると炭酸水ですらワインに勝る甘露だ」 さすが広告代理店でならしたコピーライター、口の達者な男だ。「お酒を飲まれるかたは、私みたいに一滴も飲めない女と食事をしてもつまらないでしょう。バーで語らうことだってできないし。いつもシラフでいるからおもしろみに欠けるでしょ?」「正直言って、これまで夜を迎えるたびに、酒抜きでいることなんて考えられなかった。今までは毎晩浴びるように飲んでいたんです。でも、私が欲していたのは、あなたのように、私に新しい喜びを教えてくれる人なんだ。アルコールが無くても食事は楽しめる。会話が食事のスパイスだと気づかせてくれた。酒を飲まない日ができたら、身体の調子もいいんです。ますます仕事もはかどる。すべてあなたのおかげなんです」 くそっ、マイナス面すら考慮の上か。もっとも、お酒がダメだとわかっていても3度まで食事に誘うってことは、気に入られている証拠でもあるけど。 しおらしく攻めてみるか。「でも、私はあなたにふさわしくない女です」「どうして。私こそ、あなたにふさわしくない理由がある。離婚歴ありで、中学生の息子が一人いる。育てているのは元の妻です。父親として中途半端な男なんです。だけどあなたに何の問題があるっていうんです。おうちもしっかりしているし、何よりあなたは仕事熱心でまじめだ。どんなに遅くなってもご両親の待つ家に帰って安心させてあげているというじゃないですか。旅行にだって出ないそうですね。仕事が生き甲斐で、家族を大事にする人なんだ」 確かに私は外泊をしない女だ。でもなんでその話を知ってる?「…私のこと、調べたんですか」 勝手なことを! 声が固くなる。血の気が下がって顔が能面のようにフラットになっているのがわかる。 私に近寄らないで光線が自動的に発射され、彼のひたいにつきささった。 さすがの末吉もたじろいでいる。「調べたなんて、そんな! 気を悪くしないでください。私はただ、武岡さんにあなたのことを聞いただけです。上司としてだけでなく、プライベートでも仲良くしているというので」 タケオカ~! よけいなことを! どうりで今日は様子がヘンだった。定時のチャイムと同時に私を会社から追いたてた。約束の時間まで余裕があるから1時間は残業しようと思ってたのに。 タケオカの陰謀か。ヤツのことだから、結婚をにおわせろ、というアドバイスをしたに違いない。私のことを、結婚したいのにできない気の毒な女だと思いこんでいるのだ。ひょっとすると、自分に責任があると気に病んでいるのかもしれない。なにしろ、祥二に出会ったのは武岡宅でのパーティだったのだから。
2005.01.17
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