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1
私は、目を開けていられずに強くつぶると、ウンウンと大きくうなずいた。「わたっ、私も。私も、会いたかったのよ、龍ちゃん」 龍一はボードを抱えて海から上がると、ついておいで、というジェスチャーをした。 少し離れた木陰に、ディレクターズチェアが置いてある。木の枝にはTシャツとバスタオルがひっかけてあった。「ちょっと水を浴びて、ボードを洗ってくるから。椅子に座ってまっててくれる?」 私はうなずくと、手で目元を拭いながら、キャンバス布を張った椅子に腰掛けた。 捜索には何日もかかるかもしれない、と腹をくくったはずだった。 でも、覚悟を決めたとたんに、彼が目の前にあらわれるなんて。早く見つかりますように、彼に会えますように。そんな希望は水風船の中につまった水のようだった。 今、その風船がパンとはじけて、中につまった希望が飛び出した。喜びという名の水滴が私の目からあふれ出す。 夢の中にいるようだった。足下がふらふらとおぼつかない。後頭部から脳味噌が細い煙になって天に昇っていく。 あんなに意固地になるんじゃなかった。 10年もの長きに渡って心に壁を作っていた自分は、なんていう愚か者だったのだろう。 そう思うと、あとからあとから涙が出てきて止まらない。 最近、こんなにまで泣いたことがあっただろうか。どうして、嬉しいはずなのに涙が出るのだろう。一度スイッチが入ってしまった大泣きモードは、ちょっとやそっとでは止まりそうもなかった。 水を浴びてさっぱりとした龍一が戻ってきた時はもはや、わあわあと声を上げて泣いていた。「阿南、よくがんばったね」 その一言で、泣き声のボリュームが上がった。 言いたいことが少しも言葉にできない。 龍一は、少し湿ったバスタオルを私の頭にばさっとかけて、大きな手で私の頭部をゴシゴシとゆさぶった。そしてもうひとつの椅子を広げると、私のとなりにどさりと座った。 私はしゃくりあげが止まらないまま、天を仰いだ。上を向いたら涙が止まるかもしれない、と期待して。 そばでプシュッという音がする。「阿南、取り込み中みたいだから、お先に失礼するよ。阿南もビール飲む?」 私は首を大きく左右に振った。 まっぴるまからビール? 飲み物を勧めてくれるのは嬉しいけど、私はアルコールは飲まないのよ。 そう返事をしたくても、涙の合間に酸素を吸い込むだけで手一杯だ。 私はひたすら子供のように大泣きし、その横で龍一は黙ってビールを飲んでいる。 ようやく涙が涸れて、呼吸が整うまでの間、龍一は2本の缶ビールを空にしていた。 真っ赤に腫れ上がっているであろうまぶたと、赤く血走った白目のままでは、素敵な笑顔は作れない。それでも私は、ようやくクリアになった視界の中心に龍一の姿をとらえた。 そして、遠く日本から預かってきたメッセージのことを思い出した。「龍ちゃん。東華から伝言がある。私はそれを伝えに来たの」 龍一の体は、ちょっと固くなったようだった。「わざわざ阿南が伝えに来てくれたの?」「そうよ。東華ね、今、おめでたなの。来年の夏には子供が産まれるわ」 ほわあ~っと、彼の顔に笑顔が浮かんだ。ただでさえ優しげなタレ目が一本の線になる。「そうかー。そりゃよかった。おめでとう」「確かに伝えたわよ、私」「うん。教えてくれてありがとう。オレも嬉しいよ。じゃあ東華のために乾杯だ。さ、阿南も1本あけな」 龍一は傍らにおいたクーラーボックスの氷の間からビールを2本取りだした。ざらり、と氷が水の中を泳ぐ音がする。「私、アルコールは飲まないもん」「何いってんの。それだけ出したら、今度は水分を補給しなきゃダメだろ。ほらこれ、TOOHEYSなら飲みやすいと思うよ。物はためし。開けてみて」 よく冷えた缶についた水滴を、頬に当てるとひんやりと気持ちが良かった。首から上がガスにかけたヤカンのように熱くなっている。そうだ、再会の奇跡を祝って飲んでみるか。 私はプルトップをプシュっと開けると、龍一の缶にぶつけた。ベキョン、という鈍い音が乾杯を彩る。私は目をつぶってよく冷えたビールをノドに流し込んだ。 意外に美味しい、気が、する。泣きすぎてぼうっとした頭が少しずつ引き締まって元のサイズに戻る感じ。「ねえ龍ちゃん。私、あなたに話したいことがあるんだ」 ビールの缶を唇から離すと、龍一はうなずいた。「そうでなければわざわざここまで来なかっただろうね」「私ね…」 口を開きかけたとき、後ろから車が近づく音に気がついた。 キィッ、と急ブレーキを踏むと、ものすごい勢いでドアがバタンと閉められる。慌てて振り向いた私に見えたのは、怒りに燃える一人の若い女性だった。「ちょっと、あんた誰? リュウになんの用事よ!」 けんか腰の口調に、凍り付いた。このあからさまな敵意はなに? 彼女の目に浮かんだ動揺をみて、最近似たようなシーンがあったことを思い出した。 この子は彼が浮気してると疑っているのだ。「私は龍一のいとこよ」 冷静に説明する。が、彼女はそれでは納得できないようだった。「今頃になって、昔の男をおっかけてきたっていうの? おあいにくさま。リュウにはもう、私っていう相手がいるんだから」 ちょっと待って、昔の男って。私にとって龍一はそんな存在じゃないわよ?「なんのことを言ってるのかわからないけど、誤解だわ」「誤解もへちまもあるもんですか。私が買い物に出たスキに、わがもの顔で彼の隣に座ったりして!ずうずうしい! ええと、国立さんでしょ。私の椅子を返してくれない?」 彼女は、私の名前まで知っている。龍一は、私のことを人に話して聞かせていたのだろうか。当惑していると、ようやく龍一が会話に収拾をつけるために立ち上がった。「チサ! よしな。そういう態度は良くないぞ」「だって! これが冷静でいられる? あれだけ聞かされたリュウの初恋の人が目の前にいるんだよ? この人が東華さんなんでしょう!」 バッ。 音を立てて、一瞬の間に発疹が浮き上がった。すべての毛穴から、毒素がプシュッと飛び出してくる。 東華。 リュウの初恋の人。 一瞬、その場の空気が凍り付いた。ただ、潮風だけがさわやかに、ざざーっと音を立てて3人の間を吹き抜けていった。
2005.02.25
オーストラリアに到着してから3日目。私は、マイの忠告に従って、早起きした。 昼に海についたのでは遅すぎる。サーファーは早起きして波を待つものらしい。 昨日は長距離ドライブでヘトヘトになった。あの場所にいないのがわかった以上、今度は近場から探してみるつもりだった。 昨日走った道、ここから1時間ほどのほど所に、クーランガッタという空港がある。サーフィン目的の場合はこの空港を利用する人もいる。この空港に近いトゥイードコーストに、いくつかサーフポイントがあるから。そう聞いたことが気になっていた。 私は朝のターゲットをここに決めた。 朝の捜索で見つけられなかったら、夕方はまたバイロンベイまで行ってみよう。一度走った道だから、夜になって移動するのも苦ではないはずだ。 もう慌てるのはやめた。車は帰国の前日まで借りているし、その帰国まではまだ1週間ある。このホテルを引き払って、もっと田舎町のモーテルを探そう。あの龍一が、こんな大都会にいるわけがない。だとしたら車で動く距離を減らした方が得策だ。 日本語が通じる高級ホテルを出て、地元のモーテルへ。私は自分にそんな度胸があるとは思っていなかった。でも、昨日のマイとの出会いが私に自信をつけてくれていた。 濃い友情を求めながらも、ずっと一人でいた私。そんな自分を情けないと思い続けてきたけれど、その時間があったからこそ、一人で動ける力が身についたのだ。彼女は私にそれを教えてくれた。私は一人で歩ける。そして同じく一人で歩けるマイのような人と、並んで歩くのは、気楽で楽しめる時間だということを知った。 旅は人を成長させる。そして人との出会いは宝物になる。 旅のエッセイによく登場するフレーズだ。私はその理想をあまりにも美化していた。そんなに大げさなものじゃないんだ。ほんの一瞬の景色、ほんのひとときの会話で、つぼみがほころぶような、そんなささいな中で生まれる変化のことなのだ。 私は車のエンジンをかけると、昨日と同じ道を走り出した。 初めて走る道のりはとても遠く感じる。しかし、おかしなものでもう一度通るときは、とても短い時間で走れる気がする。 距離が目測できると、時間の感覚に余裕ができるのだ。「まだ?」と思いながら走る道は長いが、「このつぎはこんな光景」と知っている道は短い。 人生で経験を積む、というのも同じ事なのかもしれない。 初めてでは失敗したことも、二度目ならもっと上手に乗り切れる。 もしかして、これからの私は、友達を作るということに少しだけ積極的になれるかもしれない。自分から動くことはできなくても、自分を取り巻く壁を壊すことならできそうな気がする。今までは、悪いことが起こるのが怖くて壁をどんどん高く積んでいた。 この壁がある限り、外部からの刺激は遠い。いいことも悪いことも、どちらも起こりようがないのだ。「悪いことだって当然起きる。でも、いいことだってたまにはある」 口に出して言ってみた。 常にいいことだけに巡り会うなんて都合のいい話はなかったのだ。中には全戦全勝できる人だっているのだろうが、それはほんの一握り。私は凡人なんだから、苦労しながらつかみ取っていくしかない。ハズレも当たりもつかんでみなければわからないのだ。 クーランガッタエアポートの標識が見えた辺りで、少しスピードを落とした。トゥイードコースとはもう少し先。にぎやかな街を抜けると海が見えてくる。 サーファーが浮かぶ海岸をいくつか見て回っているうちに、陽差しが強くなってきた。昼が近いのだ。そろそろ人の数が減ってしまう。 車から降りてサングラスをはずすと、双眼鏡を目に当てた。 10人ほどのサーファーが海に出ている。 海が盛り上がって大きな波を生み出す。その上に板を浮かべた青年が、さっと立ち上がった。岸に向かってよせる波の上に乗った姿は、スローモーションのビデオを見ているようだ。なんて優雅な動きなんだろう。 私は、滝から落ちる水の様子を思い出した。 遠目から見ると、激しい勢いで落ちていく水だが、その粒のひとつに焦点を合わせると、意外なほどゆっくりとしたスピードで下に向かっていることがわかる。遠くから眺める波乗りにもその錯覚が起きるのかもしれない。あの板は、走るよりも、自転車を漕ぐよりも、もっと早いスピードで動いているのだから。 その人物の髪は黒かった。そして身につけているパンツの色には見覚えがあった。 あわてて車から雑誌を取りだし、サーフボードを持って立つ龍一の写真を確認してみる。ブルーとオレンジのツートンカラー。同じだ。体型はどうだろう、似ているだろうか。あれは私が探しているいとこ、龍一なのだろうか。 少しでも彼の気を引こうと、私は走り出した。日傘を投げ出し、両手を大きく振り、叫ぶ。「リュウーッ! リュウーッ! リューウーッ!」 たとえ間違っていたって恥ずかしいもんか。お願い、早く私に気づいて! 彼は、一瞬にしてバランスを崩し、海の中に落ちた。 あっ。 思わず立ち止まる。 見守っていると、海面にぷかりと頭が飛び出した。ボードにつかまっている彼は、私に向かって片手を大きく振って見せた。 気がついたんだ。 しかし、ボードに体を乗せた彼は、再び波の彼方へとパドリングしていった。滑るように沖へ沖へと進んでいく。 どうして? 手を振ってくれたのはただのあいさつ? それともあれは別人なのかしら。気は焦ったが、私が彼へ近づく方法はない。あちらが寄ってきてくれるのを待つしかないのだ。 私は、日傘を拾うことも忘れて、その場に立ちすくんでいた。彼の動きのすべてを見逃したくない。 やがて、水面に大きなうねりが生まれ、彼は波を漕いでスピードに乗った。 さっと板の上に立ち上がり、波を切り裂く白いしぶきを長く引きながら、すうっと水の上をすべってくる。 さっきとは違って、まっすぐこちらを目指している。 私は思わず、波打ち際に駆け寄った。すこしでも早く彼に近づきたい。 スカートに潮水が跳ねる。「リュウーッ!」 彼は私のすぐ目の前まで板に乗ってすべってきた。 ひょいとボードから降りると、私をみてにっこりとほほえむ。「よくきたね、ここまで!」「龍ちゃん! 龍ちゃん!」 私は他の言葉を忘れたかのように彼の名を呼ぶことしかできなかった。涙で目の前がにじむ。「阿南。久しぶり。本当に会いたかったんだぜ?」
2005.02.24
私たちは海へ向かって歩いた。彼女との会話は実に自然で、肩に力をいれないですむ。一対一、というのがいいのかもしれない。 さっきのヌシとの会見のように、一対多数になると、無理矢理ステージにあげられてスピーチしているような気分になるのだ。私は人前に立たされて話をするのが好きではない。仕事がら研究発表という場に立つことはあるが、それは一方的にストーリーを語るだけだからまだマシだ。シナリオがあるのをなぞるだけ。今回みたいにアドリブで何か面白い事を言え、と強要されるのはしんどい。 一対一であれば、相手の様子を確認しながら会話が展開できる。自分が丁度いいと思うペースで。 マイは、こちらが黙っていればいくらでも話をしてくれそうでありながら、ゆっくりと間を取ってこちらが口を挟むスキを与えてくれる。彼女は一緒にいてホッとできる雰囲気を持っていた。 日本人だから安心、ていうわけじゃないんだ。 同じ日本人でも、気の合いそうな人と、そうでない人がいる。それは日本にいる間だって同じなのだけど。 私は彼女に水を向けた。「旅に出ているってことと、今同じ場所にいるって言う意味では、同じグループに属してるのかもしれないけど…」「その集合に含まれていたって、必ず仲良くなるとは言えないよね」 マイは簡潔に言葉を引き取った。「マイはずっと一人旅なの?」「そうね。基本は一人だよ、ここでも一人部屋を確保してる。たまに気が合いそうな人と2人部屋をシェアすることはある。でもね、知らない人と仲良くなるのってパワーがいるから。旅でめいっぱい疲れてる時は、ちょっと離れていたいくらいだな」「そういうもの? 例えば、学校や会社だったら、ある程は人と仲良くしていないと生活しにくいじゃない。表面的であっても付き合いが必要でしょう。でも、逆に旅先ならそういうしがらみから解放されて、すごく仲良くなれる人ができるんじゃない? 濃い友情っていうか」「濃い友情? なんか面白いこというね、アナンて。そんな人に巡り会うのはすんごくまれなことだよ。むしろ失敗の方が多い」「旅の途中で誰かとケンカ別れになったこと、ある?」「いくらでもあるよ。いちいち気にしてたらやってられないくらいね」 さっぱりとそう口にする彼女の横顔に、私は胸を突かれた。 目の前には、白い砂浜が広がっている。波も風も、空の色も。私が何を考えようとお構いなしに、毎日ただあるがままに広がっている。小さな事を気にして、人生をつらくしているのは私だけなのだろうか。 木陰に腰を下ろして、海から吹いてくる風を浴びながら、私たちは話を続けた。私はこれまでずっと心にしまってきたエリさんとの決裂について、聞いてもらいたくなった。旅の経験豊富な彼女なら、傷に塗る薬を知っているに違いない、と思えたのだ。「アナンって変なところ繊細だね。もっと自分を大事にしたらいいのに」「どういう意味?」「だってさあ、アナンは確かにエリさんを傷つけたかもしれないけど、アナンだって彼女から傷つけられたじゃない。充分痛がってるのに、どうして自分で自分をもっと傷つけるの? どうして傷をふさごうとしないで塩を塗り込むの?」「どっちが先に傷つけたかっていうのは無視できない順番でしょ。どっちが悪いって聞かれたら、そりゃ私の方が悪いに決まってるもの」「だから。それだけ反省したんだから充分じゃない。次からそういう事をしなければいい。罪を憎んで人を憎まずって言葉、知ってる?」 これまでの私は、同じ失敗を繰り返さないでいようと思いつめるあまり、他人と距離を縮めることを避けてきた。しかも10年間も。 それって無駄な時間の過ごし方ではなかったんだろうか。初めてのトライが失敗だったからって、その後は試合にすら出なかった私。成功したことのないままこの歳になってしまった自分がなんだか悔しかった。 黙り込む私に、マイは言葉を続けた。「人と関わるってことは、そこに何らかの摩擦が起きるってことよ。それが楽しいこともあれば、つらいことだってある。どっちも起こり得ることなのよ。 アナンはさ、なんか理想が高すぎるんじゃないの。旅に出て人と出会うことは、楽しいことの連続だ、それができない自分はおちこぼれだって思ってるんじゃない? 旅ではねえ、嫌なことだってたくさん起こるんだよ。それを越える力をつけるのがまた醍醐味じゃないの」 なるほど。 今までの暮らしの中で、そんな言葉を持っていた人物が他にいただろうか。学生時代の知人、あるいは、会社での知り合いに? 例えばホームパーティ好きの上司、武岡はどうだろう。彼は、誰とでも仲良く、みんなで楽しく、これも何かの縁だから、という主義でやってきている人間だ。 彼のようになりたい、でも自分にはとても無理だ、と私は自分に引け目を感じてきた。もしかして、武岡にとっても失敗はたくさんあったのだろうか。人と人をつなげるパーティを狙っても、ちっとも成功しなかったことが。「マイってさ、私なんかよりもずっと大人なんだね」「やあね、アナンだって私とたいして歳違わないでしょう」「うそ。私来年で30になるんだよ?」 マイは体をひねってこちらを向くと、私を見た。「へえ。んー、てことは、アナンは遅咲きなんだね」「どういう意味?」「だからさ、人を訪ねて一人で知らない国に来るなんてさ、大冒険でしょう。特にハワイで失敗して以来避けてきたって言うし。 時間軸で想像すれば、いって25くらいだろうと思ってさ。旅が好きな人って、もっと早くから開眼してフラフラ旅行してる人が圧倒的多数だから。ちょっと驚いた」「私、別に旅に開眼してるってわけじゃないわ。ここに来なくちゃ仕方ない理由があったから。だから来ただけなんだから」 マイはふふふ、と笑った。「あんたねえ、初めてに近い海外旅行で、レンタカーを運転して人を探すなんて、なかなかできる事じゃないよ。充分適性あるじゃない。そうね、私から見たらアナンのコドクリョクは相当なレベル。見込み充分」 マイは不思議な言葉を使った。「コドクリョク?」「私が勝手にそう呼んでるんだけどね。一人でいられる力。一人を楽しめる力っていう意味。孤独っていう字じゃなくて、個、が独立してるっていうイメージ」 マイは指先で砂に「個」と「独」と漢字を書いた。「私はね、個性が独立している同士で、お互いを尊重できる関係を築きたいといつも思ってるの。バッパー ――バックパッカーズロッジみたいなの、私たちはバッパーって略すんだけど―― での日本人グループ、見たでしょう。 彼らの関係は、どこかでお互いを頼ってる、一つにとけ込みたがってるようにしか見えないの。誰かがいないと生きられない、誰かと一緒でないと楽しくないっていう発想は、好きじゃないのよ」 ふと、私は彼女の恋愛観について知りたくなった。彼女は恋人にも当然その個独力を求めるのだろう。それはどんな人物なんだろうか。私はかつてそんなタイプの人間に出会ったことがない。なかったような気がする。 しかし、会ったばかりの人にそんなつっこんだ質問はちょっと気が引けた。 感謝している相手に失礼なことはできない。彼女は10年前の私の傷によく効く薬を配合してくれたではないか。「さて、そろそろ戻ろうか。アナンは帰り道が長いでしょ」 マイは立ち上がると、お尻についた砂を払った。 彼女は言う。「あのさ、サーフィンする連中っていつでも海にいるわけじゃないんだよ。いい波が立つ時間帯って、風向きに影響されるから。日中はオンショア…つまり海からの風でね、波のコンディションはいまいち。探すなら朝とか夕方とかの方がいいと思うよ」 非常に有益なアドバイスだった。「ありがとう」 歩いて車に戻ると、マイにお礼を言った。「あなたのおかげでなんだか元気が出てきたわ。いとこがすぐに見つからなくて、かなりガッカリしてたの」「私も毎日ヒマにしてたから、楽しかったよ。いとこが見つかったら教えて。 ロッジに伝言してくれればいいから。私はまだしばらくここにいるつもりだし。 そうだ、もし最悪、彼が見つからなくても、イルカと泳ぎにきてみたら。その時は私もつきあうよ」 悪くない提案だった。確かに、何も楽しみがないまま帰国するのではつまらない。自分がやりたいことに時間を割いてもいい。そんな心の余裕が出てきたのかもしれない。エンジンをかけると、彼女に手を振って別れた。 窓から流れ込んでくる、夕暮れの風を感じながら、思った。 今すぐに龍一に会えなくても、いいではないか。 日本を離れて、自らの「個独力」を高め、今まで見たことのない、青く広がる波の前に立つ。これは龍一が間接的に私にくれたプレゼントなのだ。それを楽しまずに、脇目もふらず、龍一の行方だけを追うのは、あまりにも味気ない。 私は、アクセルを踏み込んで、ゴールドコーストの宿を目指した。
2005.02.23
必死に車を飛ばしたが、教わったバックパッカーズロッジについたときは夕暮れが近かった。一歩足を踏み入れると、そこは学園祭のようなにぎやかさ。受付らしき場所で、人を捜してるんだけど中に入ってもいいか、と聞くとノープロブレムという返事が返ってきた。 敷地には宿泊施設以外のパブリックスペースがたっぷりある。楽器を手に集まって練習するグループがあったり、輪になって語り合うグループがあったり。ふらふらと歩いていると、日本語で声を掛けられた。「あなたもここに泊まるの?」 振り返ると、小麦色に日焼けした女性がいた。髪は金髪に近いほど明るい色に染めていて、短く切ったジーンズからのぞく足はすらりと引き締まっている。素足にビーチサンダルをつっかけている彼女からは、貧乏旅行のキャリアが漂っていた。「実は人を捜してるの。サーフィン旅行に来てる日本人で、3日前まではスコッツヘッドのホリデーパークにいたんだけど」「へえ。その人って、あなたの恋人?」 どきんとした。でも普通だったらそういう想像をするよね。わざわざ一人で訪ねてくるんだから、それなりの関係だって。「ううん、いとこ。急用があるんだけど、テント暮らしだっていうから連絡のつけようがなくて、直接来てみたの」 相手の顔が急に曇った。「急用って、家族が病気とか? 身内に不幸があっとか?」「そんなんじゃないわ。逆よ。いい知らせ。ぜひともそれは私が自分で伝えたかったの」 彼女はフーッと息をつくと、私の目をヒタと見据えて言った。「そっか。それならいいんだ。旅暮らしが長くなると、日本の家族が一番心配なんだよね。私もほら、連絡のつけようがない旅の仕方してるから。バックパッカーにはね、親が死んだのを1ヶ月も知らないでいた人ってのもいるんだよ。そういうのって良くないと思わない?」 確かに。龍一はもし自分の身内に何かがあったらどう連絡をつけるつもりでいたんだろう。定期連絡くらいは入れているのかしら。少なくとも1ヶ月よりは短い間隔で。「ねえ、探してる人の名前なんて言うの? 歳はいくつくらい?」「新谷龍一。歳は30よ。ここ2~3年は冬になるとオーストラリアでサーフィンしているらしいんだけど」「リュウイチねえ。少なくともこの3日くらいはそれらしき人は来てないよ。あ、でもヌシに聞けば何かわかるかも」「ヌシって?」「この宿に居ついてる人よ。この宿の日本人コミュニティのトップにいる男。彼なら何らかの情報を持ってるかもしれない。彼の『お城』に案内するよ」 すたすたと歩き出す彼女の後ろにくっつきながら、私はまだ自分が名乗っていないことに気が付いた。「私、亜南っていうの。あなたの名前を聞いてもいい?」 彼女はクルリと振り向くとにこっと笑った。「そうだったね。私はマイコ。マイ、って呼んで。あなたのことも、アナンでいい?」「もちろん」 敷地内を歩きながら、マイは自分がどんな旅をしてきたのか話してくれた。オーストラリア大陸一周の途中なの。体調を崩したからこの土地でちょっとのんびりしてところ。もうだいぶ調子もいいから、気が済むまで海で遊んだら出発するつもり。 合宿所のようなロッジの前には、5、6人の若者がいた。中央にいる男性は色あせたグリーンのランニングに、ダボッとしたベージュのショートパンツをはいている。大型のクマを連想させる、堂々とした体型だ。日に焼けたスネと、大きくあいた胸元からは立派な毛皮がのぞいている。その隣には小柄だがボリュームのある胸を強調した女が、ぴったりと寄り添っている。マイはその男に向かって私を紹介した。「ねえ、このヒト、人を捜してわざわざ日本から来たんだって。何か知らないか、教えてあげて」「おー、いいぜ」 彼は仲間にもう一つイスを用意させると、そこに座れと私に言った。寄り添う女は私に氷のような視線を投げてきた。 別にとりゃしないわよ、あんたの毛むくじゃらの彼なんて、と内心あきれる。 マイはそのままきびすを返し、去っていく。その後ろ姿を見ていると、また心許なさが戻ってきた。確かに今私は言葉の通じる日本人のグループの中にいるのだが、どこか居心地が悪い。 彼女はこの場をお城と呼んでいたが、確かにヌシはこの城の王だった。私は謁見を申し込んだ旅人というわけだ。「シンタニ、リュウイチかあ。少なくともこの宿にはいないね。この辺りにはいいポイントがたくさんあるからなあ。サーフィンのために来てるなら、車であっちこっち移動してるだろうね、いい波を探して。場所は限定できないなあ」 ヌシの答えは歯切れが悪かった。しかしこの情報に対しての報酬は要求された。「最近さあ、日本では何がはやってるの? 歌とか、ドラマとか」 何でそんなことが知りたいのかと思ったら、中にはすでに日本を出てから1年たつ、という強者までいて驚かされた。旅人がもたらす情報はいつの時代でも新鮮なものなのだ。仕方なく彼らの質問に答えながら、日本でのニュースを報告する。が、次第に疲れを感じ始めた。これでは私は単なるニュースキャスターではないか。これは会話ではない。観客とステージが近すぎるショウでしかない。 やがて質問の方向は私個人のことへと移ってきた。いくつ? どこに住んでるの? 仕事は何してるの? その探してる男とはどういう関係? この人たちにそんな話をするのはなんだか気が進まない。特にヌシの顔つきが気になる。彼に興味を持たれるのはなんだか不愉快だった。どうしてなのかはわからないけど。 どう話を変えようかと困っているところへ、マイがふらりと現れた。「ねえこのヒト、ちょっと借りてっていい? 用事はもう済んだんでしょ?」 まさに彼女は救世主だった。「色々教えてくれて本当にありがとう」 私はお礼を言って立ち上がると、彼女に連れられてこの場から逃げ出した。ヌシの視線が私の後ろ姿を追っていることに気がついたが、どうしようもない。一刻も早く彼の視界から抜けたい、という気持ちでいっぱいだ。 ヌシの隣にいた彼女がどうしてあんなに鋭い視線をなげてきたのかが納得できた。ヌシという人は、女であれば誰でもそういう目で見てしまうタイプの男なのだ。つまり、彼女にしてみたらどんな女でも敵になりうるというわけだ。 歩きながらマイは私に聞いた。「よけいなお世話だった?」「とんでもない! 助け出してくれてありがとう。実はあの場所にいるのがすっごくつらくなってきたとこだったの。なんでかわからないけど、居心地悪くて」「そうじゃないかと思った。実は私もあの中にはいたくないクチでね。大勢でつるむのって好きじゃないんだ。言葉が通じるもの同士で集まってるだけなら、わざわざ違う国に出てくる意味なんかないじゃない? 少しだけクロスする関係ならいいけど、ああまでどっぷり仲間意識を作っちゃうと、重いよね」「マイはこの宿が気に入ってるの?」「バスターミナルから近くて便利だし、いろんな国から人が集まってるからおもしろいよ。それに、ここの海にはイルカが来るんだ」「イルカが?」「そう。ね、時間があるならビーチまで散歩しない?」
2005.02.21
ホリデーパークに置いた車まで戻ると、木立がつくる日陰が心地よかった。 どこかで小鳥が鳴いている。日本の夏だったらセミしぐれだろうけど、小鳥の歌っていうのも悪くない。 なんか、いいかも。ようやく一息つける感じ。 私は今、日本からものすごく離れた土地にいる。 海も鳥も食生活も、何もかもが違う場所に。 世の旅人はこの違和感を感じるために飛行機に乗るのだろうか。 日本の日本らしい美しさは、すでに何カ所も巡って目にしてきた。 でも、こんな風にまるで違う空気の中に身を置くのは、ほとんど初めてのことだ。初めてだけど、悪くない。いやむしろ心地よい。 私は、木に寄りかかって、また水を飲んだ。深く息を吸い込んで、はき出す。 もし、この旅の目的が人捜しでなかったら、私は一体何をしたいだろう。 欲が深いことは浅ましいことだ。 私は今まで、強烈に何かを求めることを避けてきた。もし何でも好きなことをしていいと言われても、何を欲しがっていいかわからないほどに。 いつでも人の望みをかなえることを優先してきた気がする。それにつけ込んでいたのが、妹の奈々だ。あの子は自分のやりたいことのために、他人が協力してくれるのは当たり前だと考えている女だった。あの子を見ていると、ああいう風にだけはなりたくない、と思ったものだ。わがままで自分勝手。人の幸せをかすめ取っていく小ずるい立ち回りをする女。 汗が引いて涼しくなったところで、私はバッグから龍一の顔写真が載っているあの雑誌を取り出した。ここは龍一が何日間かは過ごした場所のはず。人に聞いてみたらなにかわかるかもしれない。 それにしても、ホリデーパークっていうのは宿泊者以外が足を踏み入れてもかまわない場所なのか。誰にどう質問したものだろう。 ぼんやり対策を考えているところへ、サーフボードを小脇に抱えた青年が海の方角から歩いてきた。 さっきみかけたサーファーの一人に違いない。「ハーイ」 彼は私に笑いかけるとボードを芝生の上に置き、近寄ってきた。上半身はピタリと体に貼り付くウェアに包まれているが、たくましい筋肉がつまっていることがわかる。一歩ずつ距離が縮まるごとに、不安で心臓がきゅっと絞られる。 この人は私に何を言うつもりなのか。その英語を私は理解できるのか、そしてそれに対する正確な答えができるのか。ああ、こんなことなら日本にいる間に駅前で留学しておけばよかった。やはり語学を身につけるには体験を重ねるしかないのだ。こんな見知らぬ土地でパニックに陥りながら実践するのはしんどすぎる。私は地道な努力が出来る女だったはず。どうして出発前にもっと対策を練ってこなかったのだろう。いやいや、旅程が決まったことが急すぎた。それまで海外旅行を予定していなかった私が準備不足なのは当然なのだ。私は怠け者ではない。 思考が高速回転している間に、その青年は、その距離1メートルほどの位置まで近づくと、リックと名乗った。「どっからきたの?」 たぶんそう言っている。私はぎこちなくフロムジャパン、と答えた。「ひとり?」 そう聞かれて初めて、背中に冷や汗がつたった。 言葉の通じない国で、日本人で、女で、一人歩き。いくら太陽がカンカンに照っているといっても、ちょっと嫌なシチューションではないか。 かろうじて、たどたどしく答える。私にはサーファーのボーイフレンドがいて、この近くで待ち合わせをしているのだ、彼はこのビーチにいるはずなんだけど、と。「見つからなかったの?」 私はうなずく。「でも、彼はここにいたことがある」 私はあわててバッグから絵はがきを取り出した。これが証拠よ、とばかりに。どこまでも青い海の写真を見せてから、さらにひっくり返してメッセージが書いてある面を出して見せた。彼の身体からはまだ水が滴っている。そのまま手渡すことは避けたかった。「彼の名前は?」「リュウイチ」 そう答えてから、ニックネームで呼ばれることがあったかもしれない、と思い立ち、言葉を続ける。「リュウはドラゴンという意味」 リックはうなずいた。長く同じ場所でサーフィンをしている人ならば、もしかして横のつながりがあるかもしれない。芝生に放り出していた雑誌を取り上げると、龍一の顔写真とサーフボードを持った姿を見せた。「ムムム」 彼は首をひねった。知り合いではないようだ。落胆のあまり私はうなだれた。 すると彼は、管理棟らしき建物を指さし、そこで聞いてみろと言う。そうか、ひょっとすると利用者の名前くらいは記録が残っているのかもしれない。「ここには、今、日本人は来ていない。たぶん、バイロンベイまで行けばだれか見つかると思うけど」 彼は私の車においてあった地図を指さして、それをもってこいというジェスチャーをした。バイロンベイ、という地名を一緒になって探す。あった。すでに通ってきた道沿いだ。彼は私からボールペンを受け取ると、その場所に丸印をつけ、宿の名前を書き込んだ。 そこは通称バッパー、バックパッカーが集まる宿だという。「町は小さいけど、この宿なら人は大勢いるよ。もちろん日本人も」 青年に礼を言うと、彼は笑いながらボードを手に去っていった。 さっきまで強烈な早さで脈打っていた心臓が、少しだけそのスピードを緩める。 バイロンベイ、か。とりあえず、次にどこにいったらいいかが決まって少し気持ちが落ち着いた。管理棟に行ってみようじゃないか。 私は車に乗り込み、もと来た道を北上した。 ホリデーパークの受付で聞いてみたら、龍一は確かにそこに長く逗留していた、ことがわかったのだ。しかも3日前まで! 本当にわずかの差だった。 でも、もしも彼がこの近辺のビーチに移動しただけならば、会えるチャンスはあるはずだ。日本人滞在客がいるというバイロンベイはサーフィンのメッカだという。だとしたら彼がいる、もしくは彼を見かけた人がいる可能性は高い。 希望がつながった。 気分が萎えそうになったときは、気心の知れた道づれが欲しくなる。こっちがへこんでいても、相手にまだ元気があればひっぱりあげてもらえる。そんな期待がわき上がる。 でも私にはそんな権利は無かった。かつての私がしたことはなんだったのか。病気で心細くなっている道連れを放り出して、奈々と一緒に旅先で出会った男と出歩いていたのではなかったか。 エリさんが怒るのも当然だ。部屋をシェアしない? といって始まった関係だったけど、その意味は物理的な相部屋だけではなかった。それ以上の心の支え合いが含まれていたはずなのだ。それが友達っていうものではないか。私は友達を持つ資格のない女だった。 思い出したくない過去なのに、あの時のハワイの光景が、枯れることのない湧き水のように頭の中に満ちてくる。私は頭を振ってその幻想を追い出そうとした。
2005.02.13
翌朝。私は車でパシフィックハイウェイを南下していた。 日本から予約してあったレンタカーの受付で地図をもらうと、SCOTTSHEADは簡単にみつかった。といっても人に教えてもらわないと見落としてしまうほど小さな文字で書かれているが。しかし問題は距離だ。今いる場所から軽く300キロ以上離れている。大型地図でみるとずいぶん近いような気がしていたのだが。 それにしても。せっかくこんなイケイケ観光地なんだから、レンタカーだってもっと派手にしたらいいのに。地味な紺色のセダンをあてがわれてせっかくの冒険心がしおれる。 私のイメージでは、海沿いを車で走るなら、真っ赤なオープンカー。ハリウッド映画に属されていると笑わば笑え。 運転には慣れているつもりだったが、初めての土地だし、走行距離は長いしで、緊張感がぬけない。 それでも1時間も走ると交通量がグッと減り、プレッシャーが軽くなった。 そういえばハワイでも車に乗った気がするけど、あのときはどうしたんだったっけ? 私は助手席にいたような気がする。 免許は持っていたはずなのに、なんで助手席なんだろう? うまく思い出せないまま、10年前の記憶は意識の底へゆらゆらと落ちていく。 一人きりで行動してみると、意外なほど寂しさは感じなかった。 スーパーで買い物をするのに言葉はほとんどいらないし、買ってきた荷物はきちんと整理されたまま、散らかされる心配もない。人に煩わされることなく、自分のペースで動けるのだ。支度の遅い母やあちこち動きたがる父の運転手役をしていたころとは雲泥の差だ。 唯一の不満点は食事だが、それもホテルのレストランを使っている間は特に不便は感じない。優雅なムードが、女の一人旅というもの寂しさをカバーしてくれる。それに、街を歩いてみると、フィッシュアンドチップスをはじめ、テイクアウトのスナック類がいくらでもあった。味にこだわらなければ気楽なランチに困りはしないだろう。私は助手席においたペットボトルから水を飲んだ。なぜだかとてものどが渇く。 車の窓を全開にして、オープンカーの気分を味わおうとしたが、これは失敗だった。太陽で熱せられたアスファルトはフライパンのようだし、吹き込んでくる風はどこかじゃりじゃりとほこりっぽい。結局、窓を閉めてクーラー全開、強風モードにすることで落ち着いた。 太陽が白く反射するアスファルトを、サングラス越しに眺める。 この強烈な日差しの下に、裸同然の格好で飛び出していくなんて、恐ろしくてできない。 もしかしてその気になったときのためにと、服の下には水着を着込み、体中にサンスクリーンを何重にも塗っていたが、とても勇気がでなかった。 体に赤い水玉が出るのもイヤだが、体中が真っ赤に腫れ上がってサンバーンに苦しむのはもっとゴメンだ。 交通量の少ない道路をひたすらまっすぐに走る。海岸線を望む道路ではなく、海から何キロも入ったところを海と平行している道路だ。これもまた計算外でがっかりする。 私は、青く輝く海と白い砂浜を左手に見ながら、真っ赤なオープンカーで走りたかった。 せっかく日本とは違う場所にいるというのに。日本ではできなかった大胆な冒険をしてみたい。変身願望がくすぶる。 いくつも現れる小さな街をゆっくりと通り抜け、ガソリンを補給しながら進む。車はオートマチックなので、いったんリズムに乗ってしまえば運転は難しくない。ハンドルを握る手と踏み込むアクセルにだけ気を配ればよかった。目は景色を楽しんでいるが、頭に浮かぶのは別のこと。 無事に龍一をみつけたあかつきには、なんと言って声をかけたらいいのか。 東華からは双眼鏡を借りてきていたが、そんなもので豆粒ほどのサーファーを見分けることができるのか。 いくら雑誌に乗っていた写真を見たと言っても、実物を拝むのは10年ぶりなのだ。不安はつのる。 朝早く出発したにも関わらず、目指す土地の標識を見つけた時は、昼をとっくにまわっていた。 心臓がドキドキと飛び跳ねる。私はついに龍ちゃんのすぐそばまで来たのだ。再会までは秒読み段階? 額に汗の玉が浮かぶ。 左折すると、森の中をくねくねとうねる細い道に入った。本当にこんな道でいいのか、と不安になったとき、目の前が開けた。 そこには公園が広がっていた。ホリデーパークという看板が出ている。 道路をふさがない場所に車を止め、外に出た。周囲の木が心地よい日陰を作っている。曲がりながら伸びていく道の先には、白い砂が輝くビーチがあった。 木の上からは、小鳥の声が響いている。 辺りにはキャンピングカーや、カラフルなテントがいくつも立っていた。見わたせば、規模の大きな炊事場や、シャワーやトイレが入っているであろう棟もある。 私はバッグから絵ハガキを取り出した。 テント暮らしでサーフィン三昧って。 テントだなんていうから、よっぽど貧乏な暮らしをしているのかと思っていたのだ。あるいは、雪山登山隊が作るベースキャンプのようなストイックな暮らしを。オーストラリアにはこんな文化があるのか。 知らない国では驚くことがいっぱいだ。 龍一に会えるというドキドキは、この新しい発見によって少し落ち着きを見せていた。 車にもどって水や道具をバッグに詰めると、スリップオンのコットンシューズを脱ぎ、ビーチサンダルに履き替える。捜索活動のスタートだ。 私は怪しい日傘を開いてビーチへ向かう。一歩ごとに、足下でキュッキュッと音がする。鳴き砂だ。 青い水面から盛り上がって白く崩れていく波が見えた。その波の向こうで波まちしているサーファーの数はまばらだ。全部で7人といったところか。 それにしても、この海の色! なんて透明な深い青なんだろう。いや、青と言うより青緑? 波打ちぎわで水は完全に透明になり、白い砂が透けて見えている。 海岸線は岩場に遮られ、そこで波が割れている。 建物に遮られることのない、大きな空間が広がる。こんな場所に立ったのは何年ぶりだろう。これまでは海沿いの観光地には足を向けてこなかった私である。年寄り夫婦を連れての旅に海水浴は向かないし、なにより日本では泳げる季節に海がこんなにすいていることはないのだ。 海は広い。そして大きい。 童謡の歌詞を改めて思い出した。人間なんて小さな存在なのだ。この大きな水と空気の中にぽつんと立つと心の底からうなずける。胸一杯に潮風を吸い込んだ。なんて気持ちがいいんだろう。 ただし陽差しの強烈さだけは別として。 私は、武岡が持たせてくれた黒い日傘に感謝した。ビーチまで出てしまうと日光を遮るものがないのだ。見回しても、ビーチパラソルを使っている人すらいない。私の傘は非常に目立ったが、この殺人光線のごとき太陽の光にあぶられるのは耐えられない。 傘をさしたまま、岩場を見渡せる場所にあるボードウォークにむかった。ここが観戦場所の役割を果たしているらしい。 双眼鏡を取り出す。 板にのった人物に焦点を合わせるのはけっこう難しい。そもそも、拡大率が大きすぎて少しでも角度が狂うとあっという間に人影が視界から消え、何もない水面だけがアップになってしまうのだ。 と、その中の一人がうまく波をつかまえて、ボードの上にすっくと立った。その姿をよく見ようと双眼鏡をおろし、肉眼で小さなサーファーの姿を追う。白く崩れていく波は右から左へと一本の線のようにつながり、そのエッジ部分を板がすべっていく。波に乗った若者の頭は金色に輝いていた。優雅な動きにしばし見とれる。 ひとつの波には、ひとりの人。波乗りにはそういうルールがあるという。私は持てる鍵りの集中力を使って、ひとりひとりの観察を続けた。が、黒髪の人物は一人もいない。 龍一はここにはいないのだ。 うそでしょう? 私はなんのためにこんなに長い距離車を走らせてきたの? へなへなと膝から力が抜けた。 でも、龍一はたしかにこのビーチにいたはず。少なくとも数週間前までは。もしも、今は違う場所に移動していたらどうしよう。この大陸は広いのだ。ここまでの道のりにだって数限りなくサーフポイントはある。 なぜ私は龍一がひとつの場所に落ち着いていると信じ込んでいたんだろう。うかつだった。ハガキにその土地の名前が書いてあるからって、何ヶ月もそこに暮らしている証拠にはならないではないか。 サーファーがいるであろうビーチをひとつひとつ探し回ったら、いったいどれくらいの時間がかかるのだろう。 絶望感がこみ上げてきた。私はいったいなんのためにここにいるの。彼が見つからなかったら、この旅に意味なんかないじゃない。 ため息をつくと、その分、体が縮んだ気がした。いや、体がとても水を欲しているのだ。汗でベタベタ、という感覚はないのに、確実に体賀から水分が抜けている。慌てて大きなペットボトルからミネラルウォーターをラッパ飲みする。口元から水がこぼれて、胸へ一筋つたっていった。 ボトルをおろして、ぷふーっと息をつく。水で濡れた口の周りを手で払う。 しっかりしろ、阿南。 私は探偵でもないし、海外旅行にも慣れていない。最初からうまくできなくて当たり前。 でも、龍一に会いたい気持ちは人一倍だ。 最後の最後、ブリスベンから日本に帰るその日まで、彼を捜して走り続けよう。やるだけやってダメだったら、初めてそこで失敗に納得できる。私はショッピングにも観光にも興味はない。だたら最後までビーチに龍一の姿を探し続けることだ。 私はもと来た道へと歩き出した。 宿に帰るにはまた何時間も車を走らせなければならないのだから。
2005.02.11
成田を出て、飛行機で夜を越え。 今、私は通された部屋のベランダに立ち、青く輝く海を眺めている。日差しは肌に突き刺さるほど強く、吹く風はどことなく塩辛い。 私は来た。見知らぬ土地へ、たった一人で。 日本では雪が降りそうな寒さだというのに、こちらはまるで反対だ。真冬から真夏へ、飛行機に乗って一気に季節を飛び越したのだ。 青いテーブルのような海面にはいくつものサーフボードが浮かんでいる。それは笹船のように小さくて、サーファーの顔までは見えない。でもこの海のどこかに、龍一がいるのだ。今、私は彼の近くまで来ている。 ブリスベンの空港についてから、サーファーズパラダイスの日系ホテルまでは、何の問題もなかった。東華の行動マニュアルは実に正確に描かれていた。入国手続きをする、預けていた荷物をピックアップする、そしてエアポートバスを探して泊まるホテルを告げてから乗る。言葉の問題といっても、プリーズとイエスノーが言えればことたりた。しかもホテルのチェックインでは日本語で出迎えられる。「お待ちしておりました、国立様」。 気が抜けてしまうほど、危険とは縁がない。なーんだ、心配ないじゃない。準備さえちゃんとして入れば何にも問題ないものなのね。 なぜ今までこんな旅をしてこなかったのかしら。 ミニバーからよく冷えたミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いで口をつける。 とてものどが渇いていた。夏だから、ということもあるだろうが、この土地はとても空気が乾いている。それとも、塩気を含んだ風がのどの渇きをあおるのだろうか。 裸足のままぺたぺたと部屋の中を歩き、化粧ポーチを手にバスルームへと向かう。洗顔をするとコットンに化粧水をたっぷりしみこませてパッティングした。身体には中から水を。そして肌からも水を。 そろそろ身体が睡眠を欲しがっている。 予想通り、飛行機の中での熟睡は無理だった。映画を見ながら、知らない国に行くという興奮を抑えるのがやっとなのだ。でもこうしてホテルについたんだから一安心。まずは睡眠。おっと、その前に荷物をきちんとほどいておきたい。 ふと、自分の几帳面な性格に笑いがこみ上げた。誰もいないんだから、私だけなんだから、散らかしておいたってかまわないのに。 そういえば、母も東華もエリさんも、荷物はひっちらかす人たちだった。 なんでスーツケースのフタをがばっと開けたまま床に放置できるの? なんで脱いだ服を椅子の背にかけたままにしてるの? なんで飲みかけのペットボトルを冷蔵庫にしまわないの? なんで、なんで? 私にはさっぱり理解できない。 とにかく物はあるべきところにきちんとしてあるのが好きなのだ。私はスーツケースから服を次々と取り出すとハンガーに掛けていった。 ひととおり作業が終わると、どさり、とベッドに横になる。 見上げた白い天井には、窓から入る日差しがちらちらと影を作っている。薄いカーテンがまぶしい日差しを和らげている。私はシーツを目の上まで引き上げると眠りにおちていった。 私は白いサンドレスに身をつつみ、日傘を放り出してビーチを走っている。 だってついに、会いたかった人が見つかったのだから。 龍一は、日焼けした肌に水滴をいっぱいつけたまま、サーフボードを脇にかかえてビーチを走ってきた。ボードをソッと砂の上に置くと、塩辛い手で私の両手をつかむ。「亜南、よくきたね。オレの送ったメッセージにちゃんと気づいてくれたんだ。 もっと早くこうして会えればよかった。ずっとずっと、気になっていたんだよ」 私は、服が濡れるのもかまわず、彼の太い首に飛びつく。 私だってずっと会いたかった。とっても話がしたかったの。どうして私のそばから離れていったの? 私が奈々をいじめた悪い女だから? お願いだから違うって言って。その思いは声にはならず、涙となってあふれ出る。「亜南は自分らしくしていればいい。奈々を許せないのは正義感が強かったからなんだ。亜南は自分だったらやらないような恩知らずの行動をとった彼女を許せない。でもそれが君の性格なんだから気に病むことはなかったんだ」 龍一は、涙に濡れた私のほほを両手で包み、その唇を近づけた…… がばっと身を起こすと、反射的に時計を見た。午後1時。 いかん、変な夢を見てしまった。 これじゃあまるで私が龍ちゃんに恋をしているみたいじゃない。 仲良くしてる頃だって、二人の間にそんな雰囲気はなかった。恋愛論を戦わせることはあっても、題材は映画や小説だったし、実生活における色恋沙汰が私たちの会話に登場することはなかった。私は龍ちゃんにつきあっていた女がいたかどうかは知らないし、向こうだってそうだ。 となると原因はひとつしかない。私は欲求不満なのだ。 思い返せば祥二とはここ1ヶ月何もなかったし、末吉さんとだって何もない。だから私には不満がたまってる。そう、ロマンス指数が低下しているだけなのよ。 気づけば首の周りが汗だくになっていた。クーラーを切った部屋の中はだいぶ熱くなってきている。この汗は生理的現象なのか、それとも心理的要因なのか。 追求するのはやめてシャワーを浴びることにした。 私が龍ちゃんを探しているのは、占いをしてもらうためなんだから。 私の人生の中に隠れている新しい選択肢に光を当ててもらうのが目的なんだから。
2005.02.10
空港ってこんなにきれいなところだったかしら。 成田に来たのは、そう、10年ぶりのことになる。 私はいつもどおり仕事を終えてから、23時のフライトに搭乗するべく成田へとやってきた。「亜南ちゃん、オーストラリアは夏だっていうし、日本よりも5倍だか7倍だか紫外線が強いんですって。お願いだから、サンスクリーンだけはしっかり塗ってちょうだいよ。それとこれ、紫外線カット効果の高い日傘。見た目は黒くて暑苦しいけど、使うとすっごく涼しいから」 武岡はくねくねと身をよじらせながら、せんべつの品々が詰まった袋を手渡した。ずっしりと重い。恐ろしい分量である。スーツケースにしてよかった。 夏に活躍した紫外線対策グッズがつまっている大型スーツケースに、新しく増えた品物を押し込む。 旅立ちを決めてから2週間とちょっと。私はバッグの中に手を入れてできたてホヤホヤのパスポートの赤い表紙をなでた。これをチケットといっしょにカウンターに出すのよね。そうそう、ぶ厚いコートは空港に預けていけって、割引券をもらったんだった。 搭乗はふつう2時間前から始まるという。気が焦った。東華が持たせてくれたメモには、時系列を追ってするべきことがかかれている。この通りにやれば問題ないはず。「知らない人と接するときは、最初からあんまり信用しないことよ。自分のことは最小限しかしゃべらなくていいの。でも英語では、何をしたいか何はイヤなのかをハッキリ言わなきゃだめよ」 龍一を訪ねてオーストラリアに行くと告げると、母はそう言った。「本当は一人で海外なんてやりたくないんだよ。東華の場合は博君がついてるから心配ないけど、おまえは一人だし」 父はしぶしぶだったが認めた。結局、今までの国内小旅行はすべて私が仕切ってきたという実績がものを言ったのだ。もう私は子供じゃない。いったい何がそんなに心配だというのか理解に苦しむ。 私が今まで海外旅行を避けていたのは、犯罪に巻き込まれることや、事故にあうことをやみくもに怖がっていたからじゃない。 誰かと行動をともにすること。そのときに、相手に不愉快な思いをさせること。そのときの失敗が痛すぎたから、あえて旅の道連れを家族に限定していただけなのだ。 ボーディングパスを手に、ボディチェックをくぐり抜けると、出国手続きのカウンターへと進んだ。周りの人と同じ行動を取っていれば大丈夫。どうせやることは同じなのだ、ベルトコンベアーに乗っているように。 真新しいパスポートのページにスタンプが押されると、免税店がひしめくエリアへに出た。強烈な香水の香りが鼻の奥に突き刺さる。これはいくら何でもやりすぎだ。足早に搭乗ゲートの待合室へと移動する。 ベンチに腰掛けると、ポーチから手鏡を出して、顔をのぞき込んだ。 大丈夫、もう、あの斑点は消えている。こういう連続したトーンの低い緊張感には反応しないのだ。 あの赤い水玉が顔から消え去るのに、たっぷり10日かかった。斑点は水ぶくれのようになり、かさぶたを形成した。すべてがぽろぽろとはがれてつるりとした肌に戻ったのは、つい最近のことだ。経過は清水みどり医師に見せに行ったが、どういうしくみで治癒に向かっているのかはわからずじまい。もっとも、私にはこれを研究しなければならない義理はない。頻繁に起こるのでなければ放っておきたいくらいなのだが。 大きなガラスごしに外を眺めると、初めての海外旅行に胸はずませていた二十歳の頃がよみがえる。 ハワイ行きを提案してきたのは、エリさんだった。バイト先で知り合った、二つ年上の大学生。「格安でハワイにいけるツアーがあるんだけど、一緒にいかない? 一人部屋だとすっごく割高になっちゃうのよ。私のルームメイトになってくれれば嬉しいんだけど」 彼女は大学生とは思えない落ち着きのある女性で、私は密かにあこがれていた。スタッフの中で唯一、天気やテレビじゃない会話ができる相手。こっちが好ましく思っていれば、相手もまたそう思ってくれるものなんだ。私は有頂天になって二つ返事で承諾した。初めての海外旅行、初めてのハワイ。あこがれのエリさんとの旅行。すっごく楽しそう! だけど。 あの旅行が失敗に終わったのは、奈々のせいだ。奈々が割り込んできたからいけないのだ。そもそも、旅先でルームメイトの体調が悪くなったら、つきそってあげるのが普通ではないか。私たちがいないほうがエリさんはゆっくり休める、なんて奈々の口車に乗ったのが間違いだった。おかげで私は、友達を裏切った薄情なヤツになってしまったのだ。エリさんは私のことを許してはくれなかった。 私は、ペットボトルのフタを開けると、エビアンを一口飲んだ。今までだったらコーヒーを買っているところだが、私はまだあの軍鶏ばあさんの忠告を守っている。 おかげで身体が軽くなってきたし、あの漢方薬を飲み始めてから今日までの間に、何もしていないのに体重が2キロ落ちている。 気にくわないばあさんだったが、この旅行のきっかけを作ったのはあの人だし、体調もよくなっているというのも事実だ。てことは、太陽を浴びて海水に浸かれば、もっと調子がよくなるということだろうか。あの予言通り。 考えるのはもうよそう。 私はすでに何度と無く読み返したガイドブックを開いた。あの旅と、この旅は、全く違うものなのだ。出発地点は同じだが、今回は私ひとり。もめ事を起こす妹や、不機嫌な友達はいない。それがとても気楽だ。 しかし同時に、旅慣れた先輩もいない。私は、自分の行動のすべてを自分自身で決めて行かなければならない。そのための予習はいくらやっても十分だという気がしなかった。 そう、ここからは自分だけが頼りなのだ。
2005.02.09
家に戻ると、ガイドブックで予習することにした。昼過ぎからは冷たい雨が降り出し、ゆううつな週末を演出している。末吉からの電話がかかってきたのは、夜だった。「阿南さん、どうしてます。この雨の中」「家でおとなしくしてますわ」「明日、お時間とれませんか。ドライブがてら、笠間の陶芸美術館にでも行ってみませんか。知り合いが特別展に作品を出してるんですよ。それに、自分でろくろを回して器を作ることもできますよ。そういうの、好きなんじゃないかと思って」「お誘いは嬉しいんですけど…」 笠間だったら、笠間稲荷の菊人形展を見に行ったことがある。陶芸に興味があるわけではないが、父母と一緒の日帰り旅行では、体験的なイベントは発生しにくい。粘土をこねて器作りだなんて、ユニークなデートになりそうだ。なかなかセンスのいい誘いかたではないか。私的にはポイントが高い。 しかし、今の私は人前に出られる顔ではない。鏡を見ると、発生当初にくらべたらだいぶ色は薄くなっていた。それでも人が見たらどうしたの、と聞きたくなること間違いなしの一面の水玉模様なのである。「忙しいの? 急な誘いなのがいけないのかな。展示会は始まったばかりだから、何も明日じゃなくても…」「ええ、今はちょっと体調が悪いんです」「風邪かい?」「そうじゃなくて。顔と身体一面にじんましんみたいなブツブツができてて、人前に出るのがちょっとイヤなんです」「じんましんって。あんなにきれいな肌なのに! 原因はわかってるの?」 原因が精神的なものなら、間違いなく末吉もその一端を担っているのだが、今それを口にしたところで何も始まらない。「いいえ。でも、医者からは休暇をとって転地療養をすすめられてて」「じゃあしばらく会社を休むの?」「そのつもりです。もう少し仕事を片づけてから」「日常を離れて自然の中に行くってことでしょう。そういうことなら、知人の別荘を借りられるかもしれない。ちょっとヤツに聞いてみようか。八ヶ岳にあるんだけど、薪ストーブのある丸太小屋でね、雰囲気もいいんだよ。元気があるならスキーやそりで遊んでもいいし、近所には温泉もある」 ぎょっとした。なんでそこまで人の世話を焼こうとするんだろう。いやしかし、相手は私とつきあいたいと言う世なれしたダンディな中年男だ。派手な広告業界にいるあいだに、いろんな手練手管を身につけているのだろう。知り合いの別荘なら、彼が間に立って話を進めないとヘンだし、彼自身がその場所を訪ねないのも不自然だ。 それって、彼の車の中で二人きりになるよりも危険な状態ではないか! 背中からゾクゾクと寒気がはいあがり、皮膚が一斉にドクドクと反応しはじめた。手の甲のブツブツはみるみる内に暗い褐色へと色を変えた。急激なスピードで悪くなっている。 そんな申し出はもちろん、断らなくては。「心配してくださるのは嬉しいんですけど、療養先は温かいところがいいと言われたので、海外にするつもりなんです」「ハワイとか? 今はプーケットもシーズンかな? だれかあなたに付き添ってくれる人はいるの? ビーチに女性ひとりってのはちょっと不用心じゃないのかな」 ――よけいなお世話よ! 思わず頭に血が上った。「末吉さん、お言葉ですけど、私はもういい大人です。一人で外国に行くくらいどうってことありません。それに厳密に言えば一人じゃないんです。オーストラリアにはいとこがサーフィン旅行に行っていて、その場所を訪ねるだけですから」 言葉の勢いが強くなる。しかし、末吉はちっともそれに気づいていないようだ。「オーストラリアか。で、いつから行くつもり」「12月の中旬です。ちょっと早めに冬休みに入らせてもらうことにして」「うーん、12月はまずいなあ。私はちょっと動けないなあ。本当は君一人でやりたくないんだけどなあ。お友達とか、お姉さんとかは一緒に行けないの?」 心底困ったような声を出している。ひょっとしてもしかして、この人の場合は下心じゃなくて、親心? 「普通の人は長い休みを取るのは難しいですよ。それに、一人で海外旅行っていうのもいい経験になると思って」 それはまあ、そうだろうが。受話器の向こうでもごもごと末吉は意味不明な言葉を発している。「じゃあ私にできることは何かないだろうか。空港まで見送りに行こうか? それとも持っていく物で何か新しく買う物はある?」 この人もまた、東華のような世話焼きなのかもしれない。あるいは女に対してちょっと過保護なだけなのか。見送りも、出迎えもいらなかった。でも、何かを頼ってみるほうが、彼にとっては嬉しいのかもしれない。「お正月までには戻ってきますから、デートのお誘いは、改めてご相談させてください」 末吉は大きなため息をついた。「では君の誕生日は一緒にお祝いさせて欲しいな。楽しみにしているよ。それまでの間、私は一人寂しく仕事に精を出そう」 4年つきあってきた祥二が知らなかった私の誕生日を、末吉はしっかり知っていた。まったく、どこまでも対照的な二人だ。私は、ちりちりとかゆくなりはじめた手の甲を、爪でがりっとひっかいた。
2005.02.08
これまでの私にとって、旅行といえば、両親と連れだっての神社仏閣、花と温泉巡りが定番だった。関東から東北までは車で。もう少し遠い場合は羽田出発のツアーで。 が、老夫婦と連れだって娘が一人、というメンバー構成は、あまり一般的ではないだろう。少なくとも同年代の女性の多くは、もっと年の近い人と旅をするはずだ。友達とか恋人とか夫とかと。 そんな私が一人で、しかも海外に行くなんて大冒険である。 東華はここぞとばかりに私の一人旅を援護射撃することに決めたようだった。パスポートの申請から旅の組み立て、航空券はもとよりホテルやレンタカーまでビシバシ手配するつもりらしい。 たとえ人ごとであっても、旅を楽しくする工夫には絶対に手を抜けないのが東華という女なのである。ぶあつい地球の歩き方を手に東華の家を訪れると、さっそくレクチャーが始まった。「一番苦労したのは、スコッツヘッドっていうのがどこにあるか、ってことだったの。場所がわからないと、どの空港を使ったらいいか決められないもんね。えーとね、場所は、ブリスベンとシドニーのちょうど真ん中ぐらいだったの。でも、ゴールドコーストにあるサーファーズパラダイス周辺も気になる。だから、ブリスベンから入って南下するのがお薦めコース」 私は地図のページをひろげてフムフムとうなずく。「資料に寄ればこのサーファーズパラダイスってのはその名の通りサーフィンのメッカなの。ただ、龍ちゃんは性格的にもっと田舎のんびりしたビーチを選ぶはず。波にのるのも混めば順番待ちになるって言ってたし。て、ことはよ。バスとか電車とかタクシーとかそういう手段で彼を捜すのは難しいと思うの。パスポートがとれたら次のステップは国際免許証よ」「じゃあレンタカーってことね。空港で借りるの?」 北海道では、空港を降りたところでレンタカーを借りる手配をしていた。国土が広い国ならばその方法はメジャーなはずである。「それなんだけど。私が考えてるのは、サーファーズパラダイスでホテルをとって、そこで車を借りるっていうプランなのよ」「どうして?」「あんたの乗る予定の飛行機は、成田を夜11時に出て、ブリスベンに朝7時に着く直行便がベストだと思うの。言葉の心配もないJALね」「ご親切いたみいります。なにしろ私、海外旅行は初めてにちかいもんね」「そう、それなのよ! いくら夜の便で寝られるっていったって、あっちに着いたら疲れてるわよ。いきなりレンタカーに乗って運転なんてできる? だから最初はもよりの街に移動。ホテルにチェックインして初日はここで疲れをとる。レンタカー会社はこの街にもあるから、地図を手に入れて次の日からの移動予定を立てればいい。もちろん、レンタカー自体は日本から予約していけるから安心して」「で、その街ってどんなとこ?」「あんたが初めていった旅行先にそっくり。ホノルルみたいなもんよ。ビーチのそばに高層ビルがずらーってあって、ブランドショップに免税店。世界規模のリゾート地。日本資本のホテルもあるから、英語に自身がなくても心強いはずよ。だからここに泊まって、日帰りで車を走らせたらいいと思うんだ」「そっか」 午前中にホテルについて、のんびり疲れをとってから捜索にはいる、か。うん、悪くない。なんだか映画の主人公になった気分だ。「お姉ちゃん、ありがと。なんかこう、ドラマチックだよね、私の一人旅」「そうよ。本当だったら私がついていきたいくらいよ。あんた、しっかりしてるけど、経験のないことにはてんで腰が引けちゃうんだから。もしあんたが旅なれたバックパッカーだったら、また違うプランを提案するとこだけど」「持つべきものは旅慣れてる姉だわ。だけど本当にパスポートの申請までお願いしちゃっていいの?」「いいってことよ。産科の検診って言っておけば会社はちょっとぐらいの遅刻は認めてくれるし、あんたこそ長く休暇を取るなら、それまでの間まじめに会社に行った方がいいじゃない」 その言葉に甘えることにして、私はパスポートの申請書にサインをした。使い慣れた漢字で書くことにする。国立亜南。左右対称の文字はバランスがいいし運が開けると信じている父がつけた名前だ。 アジアの亜に、南。姉の名前は東の華、中国をイメージしているのだという。そして奈々は、七つの海、から来ているのではなかったか。 申請書に添える写真は、会社の身分証明カード用に撮影した残りがあったのでそれを持参した。猫っ毛のショートカットに、ブツブツのない白い肌。自社のメイク道具を使った完璧な顔がそこにある。本来ならば6ヶ月以内に撮影したものでなければいけないというが、なに、この年齢になったら半年も8ヶ月もたいして変わらないはずだ。「で、出発日のことなんだけど」 東華は航空券の価格表を取り出した。 年末年始というのは世界的にホリデーで旅行者が増えるらしく、混むは高いはでいいところなしだという。しかし私はこれからパスポートの申請をする身である。パスポートや国際免許の準備ができ、なおかつ年末価格に引っかからない12月中旬の平日、ということで話の大筋は決まった。それならば、少し早めに冬休みに入るというイメージで動ける。「亜南、ブツブツのほうはどう? 色は少し薄くなってきたみたいだけど」 東華は私に拡大機能の付いた手鏡を差し出した。この家のリビングは明るい自然光がさしこむので、私の部屋よりは観察条件がいい。「あの漢方の先生の言うことを聞いたのがよかったのかな。もらった漢方薬飲み始めたら、なんか身体が引き締まってきた感じもするし」「あら、漢方の病院に行ったの?」「そこで転地療養を勧められたのよね。旅に出ようかと思ったのはそれも理由のひとつなの」「そういうことだったの。おしりの重いあんたがよく決心したな、とは思ってたんだけどね。ま、医者が薦めないんだったら私が薦めたけど、傷心旅行」「やめてよ傷心旅行だなんて。まるで私が祥二にふられたみたいじゃない」「ふられたんじゃないの?」「その反対よっ。例の女は仕事の都合で一時的につきあってるだけだから、目をつぶってくれって言われたのよ」 東華は手のひらを天井に向けて、肩のあたりまであげた。あきれた、のポーズだ。「そんな男に、まだ未練があるの?」「当然、私だって頭に来たわ。だから彼のいないところへ行きたくなったの。少し頭を冷やしてもらなわいと気が済まない。もし本気でまだ私と続けるつもりがあるなら、考えを改めるべきだってことをわからせないといけないのよ!」「つまりあんたはこの期に及んでも、びしっと切ることができないってわけね」「一時の感情で行動を決めるのはよくない、と思ってるだけよ。じっくり考えて、物事は慎重に運ばなくては」 東華は、ああそうですか、という顔をした。「じゃあさ、例のプロポーズの男はどうするわけ? その人の存在だって、これからのあんたの人生に影響を与えるかもしれないわけでしょ」 いけない。すっかり忘れていた。「まあそれにしたって、今すぐどうなるってもんでもないし。相手がどこまで本気かもわからないし、あの食事以来電話してこないし」「あんた、携帯の電源切ったままなんじゃないの? 今朝、私がかけたら出なかったわよ」 ああそうだ。祥二からの電話がいやで、電源を切ったままにしていたのだった。末吉は携帯のナンバーしか知らないのだから、電話のつながりようがなかったわけである。 小さな電話機の電源をいれると、私は祥二のナンバーだけ、呼び出し音を変更した。ヤツ以外の電話なら出てもいいんだから。もっとも私は、気軽に人にケイタイの番号を交換するようなタイプではない。もともと携帯電話の使用頻度は恐ろしく低いのだが。
2005.02.07
エンジンをふかして一気にスタートしたのはいいが、腹の中はいまだにグツグツと沸騰していた。 漢方の先生がいみじくも言い当てたように、私は今まで優等生すぎた。そのツケが今、体中にブツブツと吹き出しているのだ。もうたくさん! 恋人に振り回されるのはもううんざり。 祥二とすっぱり別れたら気分がスッキリするのだろうか。末吉を相手にすげ替えたら私の恋愛は順風満帆に進むのだろうか。私はいったいどちらを望んでいるのだろう。 この混乱に陥って初めて、私は占いを頼りたくなる女の気持ちが少しわかった気がした。 人に決めてもらう、というのとはちょっと違う。自分が何を求めているのか、冷静に判断できなくなっているのだ。落ち着いて、じっくり考えてみれば、答えは出る。誰かにそう言われたい。つきっきりで励ましてもらいたい、そんな気持ちになるものなのだ、と。 私は進路を変えて姉のマンションを目指すことにした。善は急げ、だ。できるだけ早く旅に出られるように、義兄の協力をあおごう。会社に妊娠を告げた東華は、早めに仕事から上がっているはず。実家から車で10分という距離は、電話をかけるよりも直接訪ねた方が話が早い。「あらっ。亜南、めずらしいわね、こっちに来るなんて」 昨日会ったばかりでこんな訪問をするなんて、それについての疑問はないのか? と思うのは私だけか。東華にとって私の行動は十分予想の範疇だったらしい。 靴を脱いでリビングに通されると、東華は急須にお湯を入れた。「で、何? 昨日は何か話し足りなかった?」「違うわ。私、海外旅行経験の豊富なお姉ちゃんにお願いがあるのよ」「あらら、一体何かしら。亜南はたしか、大学の頃にハワイに行ったきりよね」 そう、そこで奈々にひどい目にあわされたのだ。だから私はずっと旅行を避けてきた。だけど今の私には、何か新しい突破口が必要なの。「私、オーストラリアに行って龍ちゃんに会いたいの」 東華の目がきらりと光った。「そう! ついにそうする気になった?」「このぶつぶつのおかげで、会社から休みをもらえそうなの。思い切ってでかけてみるのもいいかもって気になって」「あたしも一緒に行かなくていいの? 一人じゃ不安じゃない?」 はっとした。私は最初から一人で行くつもりだったのだ。 英語に自信があるわけでもなく、旅慣れてもいないというのに。我ながら勇気あるじゃん、と胸が膨らむ思いだった。「妊婦なんだから、無理しない方がいいんじゃない? 私だって子供じゃないんだから、一人で旅ぐらいできるわよ。でもまあ、経験はないに等しいから、いろいろ教えてもらえないかと思って」「そっか。私もこれからは検診なんかで会社をちょくちょく休むことになるから、今はまとまった休みは取りにくいしね。だけどあんた、パスポートがないでしょ。どうするの?」 そうだった。10年前に一度使ったきりのパスポートの有効期限は5年間だった。今はすっかり期限切れのはず。「可及的速やかに出発、が希望よ。どうしたらいい? パスポートを取るには何が必要なの?」 あー、と口を開けたまま、東華は本棚からガイドブックを取り出した。「戸籍抄本か謄本でしょ、顔写真でしょ、それに申請書に自筆のサインが必要なのよ。で、それを駅ビルの中にあるパスポートセンターに提出する。10年用のもので手数料は1万5千円ね。それからハガキが一枚。でも、どうがんばっても、申請してから土日を抜いて1週間から10日、だったかな。今日は金曜だから、一番早くて週明けの月曜に提出って感じ。それとオーストラリアの場合はビザが必要。もっともこっちはインターネットですぐ発行されるからなんの問題もないけど」「そっか。土日は受付してないのか」「戸籍の方がどうかなあ。申請書だったら博の職場にあるはずだから持ってきてもらえばいいし、写真はスピード写真でいいの。そうだ、あんた今からちょっと写真を撮ってきなさいよ。って、その顔じゃダメか。どっかに最近撮った写真がないか探してきなさい。それと、申請書にサインをしたらあとは私がやっといてあげる。明日の朝もう一度うちに来て」 パスポートの申請がどれほど面倒なことなのか知らないが、なにしろ東華のダンナは旅行代理店につとめている。まかせた方が話が早いだろう。私はその提案を受けることにした。「ね、お姉ちゃんたちはオーストラリアに行ったことあるの? ガイドブックや何かの資料があれば見せて欲しいわ。参考になるから」「オッケー。私たちが行ったことあるのはシドニーだけど、今回はどうなのか、博にも聞いてみる。スコッツヘッド、だったっけ? とにかくサーフィンで有名なところなんだろうね」「悪いけどお願い」「ちっとも悪くなんかないわよ。あたし、旅行の手配したり準備をするのが大好きなの! だって旅って楽しいじゃない? あたし自身はしばらくおあずけくらいそうだけど。あんたがようやくその気になってくれて嬉しいのよ。しかも龍ちゃんに会うつもりなんでしょう。ずいぶん思い切ったなって」「何か新しいことに挑戦しないと、手詰まりな気がしてね」 東華はふふふ、と笑うと、私を玄関にせき立てた。結局、お茶を飲むヒマもない。「私はさっそく手配に取りかかるから! 博に電話しなくちゃいけないし、スーツケースとかカメラ用の赤外線防止バッグとか南京錠とかマネーベルトとか双眼鏡とかいろいろグッズを出してこないと。オーストラリアドルも少し残ってたんじゃなかったかしら。とにかく、明日の朝、どうにか写真を用意してきなさい。待ってるから!」 早々に家に帰ると、母の作った食事を一緒に食べる。今夜も父は帰りが遅いらしい。母の仕事の話に耳を傾ける。私はもっぱら聞き役だ。自分の旅行計画はまだ口にする段階ではない。 いつもよりも長風呂しようと、東華に持たされたガイドブックを手に湯船に浸かった。指定通り、自然塩をひとつかみお湯に溶かす。幸い、肌にも刺激は感じられない。 お湯の中に毒が流れていくって言ってたっけ。確かに、今の私にはなんらかの解毒処置が必要に違いない。祥二とのやりとりではドッと消耗した。熱い物をあわてて食べて、口の中をやけどしたときに似ている。心もまたやけどをおうのだ。私の粘膜は今どろどろに崩れてはがれそうになっている。 気を取り直して、ぶあついガイドブックのページをめくった。「オーストラリアは、日本の21倍もの広い国土があります。国内で時差がある数少ない国のひとつです」 そっか。日本の四国にそっくりな形をしたこの大陸は、実はものすごくスケールの大きな広い土地なんだ。旅行プランのたてかたのページを見て腰が抜けそうになった。 最低でも1週間、ぐるりと周遊するなら2ヶ月は欲しい、なんて書いてある。しかし、私の場合は行きたい場所はわかっている。龍ちゃんがサーフィンをしている街、スコッツヘッドだ。テントに暮らす彼を訪ねて、話したい、それが目的であって私は観光には興味がない。 それにしても、その街は一体どこにあるというのか。目次にも索引にもその街の名前が見あたらないことに気づいて私は初めて不安になった。 会社を休んでまで訪ねていくというのに。本当にその場所は見つけられるのだろうか。日本の21倍もの広さがあるその国の中で。 姉の夫が旅行代理店勤務であることに、今ほど感謝したことはなかった。彼ならきっと私の要望を満たす旅のプランを提示してくれるにちがいない。プロの力に期待することにして、私はさらにページをめくった。
2005.02.06
「なあ、オレたち、まだこれから続けていけるよな。亜南はオレが自由でいたいっていうのを尊重してくれてるんだろ。だったら認めてくれてもいいじゃないか、今度のことだって」 祥二にとってはすべては物理的な問題なのだ。心理的な要素は彼にとっては無視できるパーツに過ぎないらしい。「でも、あなたは私の気持ちを踏みつけにしてる」 どうして私のことは尊重しないの。私のことが大事なら、他の女と深い関係になったりしないはずでしょ。結局、私は、祥二にとって都合のいい女のひとり。あまりにも都合がよくて便利だから、今まで続いてきただけなのよ。 この力関係がこれからも続くのかと思うと、一気に気持ちが冷めた。「なあ、せっかくの週末なんだから、これからメシでもくいながらゆっくり話そうぜ? このまま立ち話じゃあ身体が冷えちゃうよ」 祥二はいつものようにその腕を私の腰に回そうとした。 これ以上何を話す必要があるのだろう。祥二は私の怒りの意味を理解できないのか。言わなきゃわからないなら、言葉にするしかない。「いやよ。もう帰る。あなたの顔は見たくない」 のばした手を乱暴に振り払う。「おい、怒るなよ」「ねえ。しばらく冷却期間をおきましょ。あなたにとって私はどういう存在なのか。じっくり考えて欲しいの。電話はかけてこないで。気が変わったらこっちからするから」「オレの気持ちはどうなんだよ」「どういう意味?」「亜南に会いたくなったら、声が聞きたくなったらどうしたらいいんだ」 今までの私は、彼の望みを元に自分の行動を決めてきた。彼が会いたいときのために自分のスケジュールを空けていたのだ。私が会いたいときは、いつも他のことをしていたくせに。たまには逆の立場を味わえばいいのよ。 今まで自分がしてきたことは何だったのか。私は、この身勝手な男を前に、自分の人生が間違った方向に進んできたことを認めざるを得なかった。彼を尊重する、彼を大事にするといいながら、その都度、私は自分に我慢を強いてきたのだ。その結果がこれだ。 祥二は何をしても私が許すとたかをくくっている。私はバカにされているのだ。 私がおろかだった。 今、この態度を改めないと、私はずっと彼の小間使いで終わってしまう。 彼の顔が見えないところに行こう。 オーストラリアに行ってやる。 上司の提案をきっぱり断ったことを瞬時に後悔した。 長期休暇を取ることにはメリットがあるではないか。祥二と電話すらできない場所に行くのだ。そしてちゃんと考えよう。本当に私が欲しいと思っているのは、どんな人間関係なのかを。「おい、なんとか言ってくれよ」 祥二は、黙り込んでいた私の肩をゆさぶった。ようやく、言うべき言葉が見つかったので口を開く。「私、しばらく海外へ行くことになったの。だからあなたが電話を掛けるのは無理ね」「亜南、飛行機が苦手だろ? 今までだって海外旅行なんて行ったこと無かったじゃないか」 そっか。祥二は私が旅行をしないこと、飛行機が苦手だからって思いこんでたんだ。別に私は飛行機が嫌いなわけじゃない。一度だけハワイに行って以来、およそ外国というものに興味がわかなかった、それだけのことなのに。「今までは行かなかったけど、今は行く必要があるの」「どこに行くっていうんだよ」「オーストラリア」「しばらくって、いつ戻ってくるんだ」「そうね、誕生日までには戻る。そのころには、私の気持ちもはっきりしてるだろうし… あなたの野望も進展してるんじゃない?」「前向きに考えてくれよ。オレ、亜南でないとダメなんだよ」 一体なにがだめなんだか。私に似た女を自分好みに調教すれば済む話ではないか。思わずため息がもれた。ドアをあけて車に乗り込む。「ねえそれより。私の誕生日っていつなのか知ってるの?」 祥二は口をぱくぱくして言葉に詰まっていた。そうだろう、今まで、私の誕生日を一緒に祝ったことなどないのだ。プレゼントだって甘い言葉だってなかった。 私はいつも誕生日を家族と過ごす。初日の出を拝んでから、一つ年を取るお祝いをするのだ。 私の誕生日は一月一日、なのである。
2005.02.04
電車を降りると、駅のそばに借りている月極駐車場へと向かった。 昨日のこの時間は、末吉と食事をするために池袋へ向かっていたんだっけ。ここ24時間の間に、普段の生活ではお目にかかれないほど強烈な事件がわらわらと私の人生の中に飛びこんでくる。まるで車を走らせているときに急に道に飛び出してくる猫のように。 私はいちいち急ブレーキを踏みながら心臓をどきどき言わせている。これは一体なにごとなのかしら。 外は真っ暗だというのに、サングラスをかけたまま道を歩く。 まるで、視力ががくんと落ちたかのような暗さだ。いっそこのまま、周りで起こっていることすべてをこんな薄暗闇のようにトーンダウンさせてしまいたい。私はいつも同じ道を歩く。少しくらい視界がわるくたって、歩くことに困ったりはしないのだ。 そう、サングラスはブツブツが出ている顔のまま、人混みを歩くのには必須だった。これさえ身につければ、その下にある顔はいったい誰なのか特定しにくくなる。犯罪者の目の周りを黒い線で消すのと同じ。 顔中にみっともない発疹が出ているのは、私ではない。少なくとも普段の私ではない。他人からみて、これが私だとわからなければそれでいいのだ。 今日は風がまったくない。昼間もぽかぽかと温かかったが、夜の冷え込みもない。マフラーを出そうかどうしようか悩んだあげく、やめる。どうせあと50歩もあるけば愛車が待つ駐車場なのだ。 こっ、こっ、とアスファルトを蹴りながら角を曲がる。バッグの中を探ってキーホルダーを取り出し、車の方にまっすぐ手を伸ばしてボタンを押した。ガション、と音がしてドアのロックが解除される。オレンジ色のライトがふたつ同時にウィンクする。サングラスをはずしながらドアに手を掛けると、突然、声がした。「キーレスエントリーのボタンって、そんなに腕を伸ばして押さなくてもいいんだよ」 振り返った拍子に、敷地内一面に引かれた玉砂利の上にサングラスが落ちた。「よっ。どうして携帯の電源切ってるんだよ」 目をこらしてみるまでもない。聞き慣れた声は祥二のものだった。「どうしてこんな時間にこんなところにいるの?」「話をしようと思ったら、直接会いに来るしかないじゃんか」 奴は、腰をかがめてサングラスを拾い上げ、私の手に持たせた。ところが、その手がびくっとひっこむ。顔のぶつぶつに気がついたらしい。「その顔、どうしたの」「べつに」「アレルギー? それとも仕事の関係で?」「敏感肌用の化粧品を作ってるメーカーなのよ。自社製品でこんな症状がでたらうちの会社は倒産だわ。試作品だってこんなひどいことにはならないわよ」 よっぽど言ってやりたかった。私がこんな顔になったのはあなたにも責任があるのよ、と。直接手を下さなくても、人の心を傷つけることはできるの。私のこの発疹は心の叫び、心に負った傷の大きさのバロメーターなのよ。「理由なんかわからないわ。強いて言えば精神的なことかしらね」 昨日の女の存在をどう問いただしたものか、脳がフルスピードで回転する。まるで老朽化したパソコンの中で必死に働くハードディスクのように。頭の中でカリカリカリ、という音がする。「昨日、オレの部屋に来たんだろ」「行ったわ。そしたら風呂上がりの女のひとがいた」「来るはずじゃなかったんだ」 バッティングさえしなければいいと思ってるわけ。そういえば今までもそうだったよね。携帯が通じないエリアにいる夜。つながっても要領を得ない電話。追求してみればボロが出る行動はたくさんあったのよ。証拠が挙げられないから見逃してただけじゃない。「カギまで渡してるなんて、今までとは扱いが違うんじゃないの」 カマをかけてみる。他の女は部屋に連れてこなかったか、あるいは、連れてきても常連にはしない工夫をしていたに違いないのだ。私がたまにしか顔を出さないから、いくらでもやりようはあったでしょうよ。 祥二はあごに手をやると、伸びはじめたひげを指でなぞった。「あの人さ、雑誌の取材で知り合ったんだ。ヘンシューの人」 祥二は、働く女性をターゲットにした雑誌名を口にした。そういえば雑誌に顔入りで紹介されてから仕事が増えたって言ってたっけ。実際は、注文してくる客の対応で忙しかったんじゃなくて、雑誌に載せてくれたお礼をするのに忙しかったのね。いいんじゃない。自分の得意分野で接待する。肉体で接待。ふん。「取材のときオレの部屋で撮影もあってさ、なんか話も合うし、あっちはフリーだっていうし。ちょうどいいから、もっと雑誌で取り上げてもらえるまで引っ張れないかと思ったんだよね」 私は黙っていた。あなたがどんなつもりだったかなんて私には関係ないわよ。「オレだっていつかは事務所から独立したいと思ってるからさ、これってチャンスだろ」 そうよ、女性はネームバリューに弱いから。いとこの龍一だってあんなに大々的に取り上げられたら、これからしばらく仕事には困らないでしょうよ。それに女にも。いや、本人がそう望めばだけど。 ――少なくとも私の記憶の中にいる龍一は、手当たり次第女をくいものいするような男じゃなかった。もっとこう、一本筋が通っていた。女の子には優しく。女の子は大事に。あれは女は無能だと見下したときの優しさではない。生き物の特徴を客観的にとらえた上での紳士ぶりだった―― つい、遠くにいるいとこに思いがとんだ。それを現実に引き戻したのは、祥二の必死の言い訳だ。「野心があるのはいいことだろ。もっと上を狙いたいと思ったっていいだろ」 私はまだ口を開けずにいた。あきれて物が言えないって言葉の意味がはじめてわかった。 祥二は、一人でしゃべり続けている。「なあ、機嫌直してくれよ。オレさ、あのヘンシューの人のこと、別に本気じゃないんだよ。少しの間我慢してくれれば、上手に別れてみせるからさ」 堂々とふたまた掛けることにしたわけ。私の許可があれば正当化されると思ってるのね。 私の心の中はいまや熱く沸き立つ泥火山のようだった。ぼこり、ぼこりと大きな球体が水面から浮き上がってばちんとはじける。周囲に濃い灰色の泥が飛び散る。首の後ろの発疹が、じくり、じくりと痛み出す。高層ビルのてっぺんについている、赤く点滅する照明のように。 ついに私はその怒りを抑えこむことが出来なくなった。口から毒が漏れていく。「だから私は妹っていう存在にしておいたわけ。あなたお兄さんはいても妹なんかいないじゃない。その編集者のひとを利用するためだけに寝てるんだったら、私と寝るのはどんな利用価値があるっていうの?」「おいおい、よせよ。オレたち長いつきあいだろ。亜南のこと好きだから一緒にいるんじゃないか」 確かに私は彼を有名にすることはできない。彼の仕事を手伝うこともできないし、一人暮らしの予定もないから部屋のリフォームを発注することもできない。だけど、彼にとって何らかのメリットがあったからこそ、この関係は4年も続いてきたのではなかったか。 私はその理由を掘り起こそうとした。私にとっておもしろくないことだから、今まで避けてきた問題だったのだが。「私は、祥二にとっては都合がいい女なんだよね。何かおごってくれって言わない。何か買ってなんてねだったりしない。仕事と私とどっちが大事なのなんて言わない。一緒に住もうって言わない。旅行しようって言わない」 祥二の眉があがった。今はじめてそれらの事実に思い当たったらしい。 そうよ、私はあなたが望んだ自由な暮らしを妨げないように、あなたが嫌がる要素をすべて排除してきたの。「そういえば。亜南が何か欲しがるのはベッドの上でだけだよな」 瞬時に、体中の血液が頭に集まった。なんてデリカシーのない男! セックスのことを茶化すなんて最低! とんでもなく下劣。自分という存在が果てしなく安っぽくなった気がする。 心の火山活動は、沸き立つ泥火山から、赤く光る溶岩へと変貌を遂げた。今にも頭からマグマが噴出しそうだ。
2005.02.03
会社に戻る途中、つらつらと考えた。 仮に私が何かを我慢していたとして、それはいったい何に対してだろう。 祥二の浮気に怒ること? でももう怒るのにも疲れた。あのあとどんな言い訳をしてくるのか。気にならないことはなかったが、昨夜からずっと携帯電話の電源は切ったままだ。実のない会話の応酬はむなしい。だいたい、私は彼とこれからもつきあい続ける気があると言えるのだろうか。…保留。 それとも、東華の言葉に憤慨しても反論できないこと? でも私の口べたは今に始まったことじゃない。むしろ東華は私のことを理解した上で言葉を発している。あれは口論じゃない。あくまで会話の範疇ではないか。…これも違う。 それじゃあ、今は文句も言えないところにいる奈々への怒りのぶつけ先がないこと? だけどあれはもう10年前の話だ。現に、会話に上らない限りあの妹のことは思い出さずにいる。あきらかに違う。却下。 どれも、決め手に欠ける。身体からでる毒の源になっているとは思えない。 いままで一番、我慢をしてきたのは、何に対してか。 否定できないのは、かつての親友、龍一とあれ以来会話をしていないことだ。もういちど会いたい。会って話をしたい。悩んでいることを打ち明けたい。それは確かに我慢している。 龍一が奈々の味方になった以上、私は彼とは敵対関係だと決めつけていた。 奈々から龍一を取り戻そうという努力はしなかったではないか。 仕事は順風満帆。恋愛に紆余曲折があったって、私は幸せなはず。でもどこかで求めている。親友との関係を取り戻したいと。 そうだ、あのハガキがいけないのだ。今まで何の連絡もなかったくせに。それにあの雑誌。どうしてこのタイミングで私の目に入るのだろう。これじゃあ呼ばれているみたい。 こだわりは捨てて、もう一度会おう。 そう誘われているみたいだ。 これは拡大解釈だろうか。でも…。 龍一に会うためには、飛行機に乗らなければならない。彼のいる場所を探し当てなければならない。もちろん週末の二日間でどうにかできるレベルの問題じゃない。なんていっても南半球にいくのだから。 さっきの軍鶏ばあさんは私になんて言った? 塩水につかれ、太陽をあびろ、休みをとって気分転換をしろ。それに我慢をやめて自分を解放しろ、だっけ? もしかして、龍ちゃんに会いに行くことって、すべての条件を満たすことにならないかしら? 休みをとってオーストラリア。 それも人を捜すためだけに。 …バカらしい。およそ私らしくない。 居所の分からない旅をしているといっても、いずれは龍一だって帰国するのだ。何を慌てる必要がある。だいたい、じんましんの治療に旅行が効くだなんて、誰が信じるというのだ。私は、頭に浮かんだ旅のイメージを振り払った。 会社に戻ると3時を回っていた。仕事をしないまま一日の半分が終わってしまった。心身ともに不完全燃焼。武岡の姿を見つけて、戻ったことを報告する。「ただいま戻りました。遅くなって申し訳ありません」 武岡はくねっと振り返ると、眉をひそめた。「病院に行ったからすぐ消えるってもんでもないのね。お肌、さっきと変わらないじゃない」「言ったじゃないですか、薬で治ったことはないって」「そりゃそうだけど。ね、あっちで一緒にコーヒーでもどう?」「お医者さまからコーヒー禁止令がでたんです。他のお茶でよければもちろんつきあいますけど」 給湯室で飲み物を作ると、武岡のオフィスに入った。オフィスと言っても閉鎖的なところはなく、腰から上はアクリル板になっていて明るい。イスに腰掛けると、武岡はマグカップの向こうから質問した。「で、病院ではどうだったの?」 私は、清水医師を訪ね、さらにその足で漢方クリニックに向かったことを説明した。 休暇をとって気分転換を薦められた、と切り出そうと思ったところで、武岡が口をはさんだ。「ね、亜南ちゃん。精神的なショックが原因って、一体なにがあったの? プライベートなことを無理やり聞き出すのは趣味じゃないけど、やっぱり気になっちゃって。 もしかして、恋愛関係のトラブルじゃないの。ほら、祥二くんとのつきあうきっかけは、うちでのホームパーティでしょ。私があのとき二人を引き合わせなかったら、あなた達は恋人にはならなかった」「なに責任感じてるんですか。私は大人ですよ。どこで知り合ったにしたって、その関係が行き詰まったからって、人を責めるほど子供じゃないです」「だって。美咲ちゃんはうちのパーティで結婚相手に出会ったでしょ。美咲ちゃんは結婚できて、あなたは浮気に苦しめられてるなんて理不尽よ。私にもっと人を見る目があったら、祥二くんをあなたに会わせやしなかったのに」 どうして武岡が、祥二の浮気グセについて知っているのだろう。私は会社の同僚はもちろん、武岡にも話したことはない。「別の女がいたことを知ったのは昨日です。確かにそれまでも他の女の陰がちらついてモメることはあったけど、彼の浮気の証拠を押さえたのは昨日が初めてなんですよ」 武岡は、はっと手を口に当てた。まずいことを言った、と思ったらしい。「ごめんなさい。彼の芳しくないうわさが耳に入っていたのよ。あなたに言おうかどうしようか悩んだんだけど」「そうですね、武岡さんに言われるよりは、自分で発見するほうがマシですね」 私はクールに言い放った。 人に情報をコントロールされるのは好みじゃない。私は子供じゃないのだ。「亜南ちゃんには幸せになって欲しいのよ。何か協力したかった」 武岡はうなだれた。「お気持ちは嬉しいんです。でも、結婚しない女は不幸ですか? それは決めつけじゃないですか? だから末吉さんをけしかけたんですか」「末吉さん、なにか言ってきたの?」「ええそれも昨日。まじめなおつきあいをしたいって。結婚を前提としたつきあいだって言われましたよ。すこし先走りすぎじゃないですか。まだ何回も会っていないのに」 武岡は、大きな手のひらをおでこにあてて、上半身をのけぞらせた。「あああ。いくらなんでも直球すぎるでしょ、末吉さん」「私についての情報を流したんでしょ、武岡さんに。お堅い娘だからまじめにアプローチしないとダメだって入れ知恵したんですね」「亜南ちゃん。怒った? こういうのもセクハラになるかな」「怒ってません。セクハラって感じもしませんよ。私は武岡さんと奥さんに、とても好意を持っています。ただ、昨日はびっくりすることが続いた、それだけのことです」「そう。あなたって本当に冷静なのね。その分、顔に出たみたいだけど」「そうですね、私は、自分で思うほどタフじゃかったってことです」「で、どうすればその肌は治るのって言われたの?」「そんなことが治療になるのかなって、私、今ひとつ納得できないんですけど」「専門家が言うなら間違いないんじゃない?」「でも」「だから何て言われたの」「みどり先生は、最初、心療内科を紹介してくれようとしたんです。結構ショックでした。心療内科を薦められるなんて、精神的にものすごく問題があるみたいじゃないですか。だから漢方のクリニックへ行ったんですけど。でもそこでも、妙なアドバイスがあって」「妙ってどういうの」「ま、コーヒーをやめるとか、お風呂に塩を入れろとか。そういうのはまだいいんです。でも。太陽に当たれとか、海に入れとか。サンスクリーンを使えば肌にはダメージは出ないはずだ、なんてことを言われて」「つまり、少し仕事を離れて休息した方がいいってことじゃない?」「いやですよ」 私は間髪入れずに否定した。「なんで。阿南ちゃん、毎年毎年、使わなかった有給がムダになってるじゃない。調子が悪い時くらい、まとめて休んだってバチは当たらないよ」「病気じゃないですから!」 肌にでたブツブツくらいで病人扱いされてはたまらない。その原因が精神的なものだと断定された日には自殺したほうがマシだ。「まあ、考えてみてよ。美咲ちゃんが旅行から戻ったら、早めの年末年始休暇に入るっていうやり方もあるし。治療なんて大げさな考え方しなくてもいいじゃない。気分転換するだけ。いつもとは違うことをすれば、気分が変わるものよ」「そうでしょうか」「一般的にはそう言われてる。阿南ちゃんもたまにはのんびり旅でも楽しんできたらいいのよ」 私は、力無く、考えてみます、とつぶやくとその場を辞した。 会社に来なくていいと言われると、まるで自分が世界の誰からも必要とされていない気分になってしまう。すっかり勤労意欲がなくなった私は、定時のチャイムとともにオフィスを出ることにした。
2005.02.02
時計をのぞくと、簡単な昼食を取る時間があった。コーヒーショップに入り、ベーグルサンドとアメリカンを注文する。昼休みが終わった店内は人影もまばらで静かだった。トレイを持ってテーブルにつき、読みかけだった雑誌のページを開く。「私は捨てられるのが怖いんじゃなくて、私の良さをわかってくれない彼に腹を立てているだけだったんです。別れてよかった。Sさん26歳」「勇気を出して婚約を解消しました。それが私の望みだと気づかせてくれたことに感謝しています。そして今は本当に結婚したい人に出会えました Nさん28歳」「結婚したかった相手が本当は誰なのか、自分の本心がわかりました。隠れていた自分の本音が見えて嬉しくて泣けました Mさん25歳」 占い特集で龍一がセッションしたという女性達のコメントに目を通す。やはり、女性にとって恋愛や結婚は重要な関心事なのだ。そのどちらも人生を左右する大きな要素。そう考えると、私だって例外ではない。 私の人生の柱は仕事だ。それに満足しているし、前途は洋々と開けている。そんな私ですら、突然のプロポーズには動揺するし、彼の浮気には腹が立つ。思わず誰かに相談したくなっても不思議はない。龍ちゃんはどうやら腕のいい占い師らしい。建前が大事で本音を押し殺してきた人に対して、自分の本当の望みを引き出す手伝いをしているのだ。 では、私の本当の望みはなんだろう。 恋愛するにしても、結婚することになっても、仕事を続けることは絶対条件だ。しかし、私は今の暮らしに満足している。あの家を出たくないのだ。それが人に語れない私の本音。いつまでも親元を離れない、自立できないと責められるのが怖くて言えないでいる、私の本音。 私は手早くコーヒーを飲み干すと、寒風吹きすさぶ街へと飛び出した。急がなければ遅刻してしまいそうだ。 教えてもらった漢方クリニックに着くと、束になった問診票が待ちかまえていた。「うちでは初診の患者さんには必ずこの問診票を書いてもらっているんです。ご面倒でもよろしくお願いしますね」 受付の女性にうながされ、バインダーに挟まれたその紙をパラパラとめくると、質問項目はなんと10ページにもわたっていた。ひとつひとつ答えるだけで軽く30分はかかりそうだ。 漢方的な診断とは、そこまで問診が重要なんだろうか。これはここの先生ならではの方式なんだろうか、と首をひねりながら答えを書き込んでいく。 ようやく書き終わって受付に提出する頃には、ちらほらと順番を待っていた患者もすべて姿を消していた。すぐに診察室に通される。「はじめまして。清水藍子です。国立さんね?」「はい、清水先生、えーと、みどり先生のご紹介でおじゃましました」 藍子医師は、娘とはずいぶん印象が違う。細くて骨張っていて、背がひょろりと高い。その眼光の鋭さは、武芸の達人のようだ。娘が愛らしいめんどりならば、その母は軍鶏(しゃも)というほうがぴったりくる。「その発疹が、当面の問題ってわけね?」「はい。子供の頃から時々起きる症状なんです。2、3日すればたいてい自然に治ってしまうので、今までは気にしないでいたんですけど。化粧品の開発研究が仕事なので、この肌の状態ではまずい、と上司から病院へ行くように言われまして」「まずは、あなたの身体をよく拝見しましょうね」 藍子医師は、手際よく診断を開始した。口を開けて舌を上下する。目の周りを抑えて、まぶたの裏側の色をチェックする。左右の手首から脈をとる。そして、ベッドに寝かせると腹部を押したりトントンと小さくたたいたりした。一通り済むと、先ほどの問診票に目を落とす。「発疹の原因については心当たりがある?」「だいたいは。精神的に大きなショックを受けたときに、ばーっとじんましんのように出ます。食べ物やアレルギーとはちょっと違う気がするんです」「そう。正直言って私としても、この薬ですぐ治る、っていう提案はできないわね。ただし、身体全体を健康な方向へもっていくアドバイスならできるわ」 やはり薬で治るような症状ではないのだ、とため息がでた。しかし、それに続く藍子医師の言葉は興味深いものだった。「あなたね、今よりも3キロ体重が減らせるわ。そのほうが体調がよくなるはず」 いきなりダイエット指導? 確かに私はやせ形ではないが。驚く私にアドバイスは続く。「あなたの身体は、水はけが悪くて冷えやすいの。冬はスカートがはけないくらいの冷え性でしょ。腎臓の働きが弱ってるのよね。だからそこに元気を与えてあげれば、不要な水分が尿として出て行って、身体が軽くなるわ。今出ている発疹は、体内に蓄積された毒素が、ある種のスイッチに反応して皮膚から出てきた、って感じがする。あなた、性格的にはとっても優等生でしょう。まじめ一筋で、人に遠慮ばっかりして、自分のやりたいことを口に出せないタイプじゃない?」 これではまるで占いではないか。居心地が悪くなって、目をそらせた。「図星でしょ。精神的に不満がたまっているから、時々身体から出てきちゃうんじゃない?」「そんな風に考えたことは無かったですけど」「試しにそう考えてみて。それから、あなたのその肌の白さ、ご自慢なんでしょうけど、ちょっと異常じゃないかしら? ずいぶん長いこと日に当たってない感じよ」「美白は私たちの仕事のテーマですから。紫外線防止対策は徹底しています。夏でも冬でも、素肌が太陽に当たらない工夫をしてます」 思わず説明に力がはいった。敏感肌だからこそ、今までいろんな苦労があったのだ。昔は日に当たっただけで赤く顔が腫れたこともあった。「でもそれって、生き物としてちょっと不自然じゃないかしら。確かにオゾン層が壊れてから今の紫外線は肌に有害かもしれないわ。でも、それを防ぐサンスクリーンが開発されているわけでしょう。それを塗った上で日光に当たるなら問題ないはずよ。別に私は日焼けしなさいって言ってるわけじゃないの。生物として、太陽の光を浴びなさいって言ってるだけ。考えてみてくれる?」 思わず、むっとして口を閉じた。なんで私が、こんな他人の言うことに耳を貸さなくてはいけないのだ。そもそも、そんなことは私の利益に反することではないか。「あら、気を悪くした? でもねえ、健康でなければ、どんなに仕事ができたってむなしいものよ。ひとつしかない自分の身体をもっと大事にして欲しいわ。あなた、お年はいくつ?」「来年の1月で30です」「お子さんはまだいないのよね?」「ええ、独身ですから」「あらおかしい。まじめな人らしい発言ねえ。独身だって子供を産んでるひとはいるわよ。バツイチだって独身って言うし、私自身も独身。ご存じのように、すでに娘がいるけれどね」 かちんときた。どうせ私は視野の狭いまじめ人間でしょうよ。この人の意地悪ぶりは、姉の東華を思い出させる。相性がいいのか悪いのかわからないのだが、確実に私のエリアにずかずかと踏み込んでくるタイプだ。「えーと、阿南さん。私が言いたかったのはね、子供を産まないでこの年齢までくると、身体にはいろいろな不都合が起きてくるってことなの。身体は子供を作る準備が出来ているのに、その能力を使わないでいると、バランスが崩れてくることが多いのよ。そのことを自覚して、せめて、仕事に注ぐ情熱の半分でいいから、自分の身体を愛することに使って欲しいの。日に当たることもそのひとつよ。休みが取れたら、自然のいっぱいあるところへ旅をするとかね」「それで、なにかお薬は出していただけるんですか?」 この会見を早く終わらせようと、私は口を出した。 自分のライフスタイルを他人に干渉されるのはまっぴらだ。これさえすれば必ず幸せになれる、というやり方は、資金集めが目的の新興宗教の勧誘と同じではないか。うさんくさいこと、この上ない。「そうね、薬としては、水はけをよくするためのものを2種類だすわ。顆粒になっているから、お腹が空いているときにぬるま湯に溶かして飲んで。一日3回、1袋ずつね。それから、生活の中で実行して欲しいことがあるの」「何でしょう」 医師は私が書いた問診票をパラパラとめくった。「あなた、お酒を飲まないのはいいんだけど、少しコーヒーを飲み過ぎね。刺激物はなるべく避けて。特に今みたいに毒が出ているときはよくないわ。コーヒーや紅茶は全くやめるか、どうしても我慢できないんだったら、1日1杯までにして。代わりに、番茶とか麦茶、ハトムギ茶のようなものを飲んで。熱いお湯で入れたものを、暖かい内に飲むの。ハトムギ茶は肌を白くするからお好みにも会うでしょう。それから冷たい飲み物やアイス、果物はしばらく避けて。そして、毎日湯船のお風呂に入ること。身体の中の毒素が出て行きやすくなるわ。途中で冷たい水のシャワーを浴びること。お水、お湯、と3回ぐらい交代で浴びて。肌が活性化して、早く発疹が消えるかもしれない。どう、覚えられる?」「コーヒーと冷たい飲み物は禁止、お風呂は水と交互、ですね」「水シャワーはこの季節、つらいわよ。でも必ずやってみて。身体にいいから」 水をかぶるなんてまるで修行ではないか。軽く口にする軍鶏ばあさんに怒りがわいたが、顔に出ないようにと口を引き締めた。「ああそれと、肌にしみないようであれば、お風呂にひとつかみの塩をいれてみて」 なんで塩? 不思議に思っていると、説明が追加された。「温泉でもしょっぱいものがあるでしょ。塩の入ったお湯は湯冷めを防ぐし身体を上手に暖めてくれるのよ。本当は、海水浴も肌のトラブルには効くことがあるんだけど。この季節じゃとても無理でしょ、太陽を浴びて海水浴なんて。代わりに、塩の入ったお風呂で代用するわけよ」「わかりました。今日はありがとうございました」 立ち上がる私に、彼女はたたみかけるように言った。「ねえ、心と体はつながっているのよ。あなた、口で言いたいことの代わりに、肌がぶつぶつになってるって、気づいてる? 何が言いたいのか、何がやりたいのか。もっと自分を解放してみなきゃ。我慢が一番よくないの。もっと上手に外にだす方法を覚えないと、何かあるたびに発疹が出ることになるわよ。身体の不調には、原因があるの。その原因をよく考えてみることよ。身体からのメッセージを受け取って」 軍鶏ばあさんは、まるで魔女のようだった。不吉な予言をして、お姫様の将来に暗雲を落とす悪い魔女。これでは心療内科のほうがマシだったかもしれない。 だけど、彼女の言葉は一枚の紙となって、心の深いところにひらひらと降りてきた。その紙には、なにやら文字が書いてある「もっと自分を解放してみなきゃ」 解放。でもいったい何から? 私は自分の自由意志で歩いている。何かにとらわれているわけなんか、ないはずなのに。 憮然としたまま、会計を済ませると処方箋をもらい、隣にある薬局でカサカサと音のする顆粒の漢方薬を受け取った。次回は2週間後に、と言われたが、またくる気にはなれなかった。今度はいったい何を言われるのかと思うだけで身体がすくむ。 私は、誰からも責められることのない、日の当たる道を地道に歩んでいるはずだ。「あなたは間違っている」と言われるのが、なによりもこわかった。 もしも自分が間違っていると認めてしまったら、いったい何をささえに歩いていけばいいというのだ。
2005.02.01
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