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本日は日本対クロアチア戦です。 正直時間がないので、今日はこの先書こうと思ってた(たぶん半分以上は書かない)ネタをヘッドライン(別名手抜き、もしくは備忘録)でお届けします。●大石英司のブログ(とコメント欄)で、「医師は聖職か?」というようなやり取りがヒートアップしていてかなり面白い。おそらく本物の小児科医(他の医療分野より仕事がキツい)がコメント欄に登場し、「私が気に入らないんだったらよその病院に行ってくれ」というような発言をしている。●医者には「応召義務」という法律があって、初診患者を断わることができない。いっぽう患者は「自分がかかる医者」を選ぶことができる。医療行為を「医者と患者の契約」だと考えると、これはかなり不均衡な状態だ。●自由主義経済市場において、「売り手」(この場合は医者ね)が「買い手」(この場合は患者)を選ぶことはどこまで許されるのか? またその経済原則は医業(特に小児科や救急救命)にも当てはまるのか?●もちろん医者には「医者を辞める自由」がある。その待遇、境遇が気に入らなければ医者を辞めればいい。ただコトはそう単純じゃなくて、医療業務の多くが3Kであることは最近広く知られているところであり、医者数が不足したり優秀な人材が医業に集まらなくなったら困るのは結局ユーザー(患者、っつかほとんど日本国民全員)だというね。 ※●そのコメント欄で拾った聖書からの引用。<「マタイによる福音書」第10章34~39節より以下引用開始> わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。<引用終了> キリスト教が新興宗教だった頃の、キリストの言葉ですな。 大変深みのあるお言葉です。 ※●西欧における「近代の発生」と宗教改革は切っても切れない関係にある。それまで「信仰」とは神父や教会からの教えを信じることであった。しかし宗教改革以降、人は自分で聖書を読み、自身の内面の神と対話するようになった。ここに「個人」の発生起源がある。●例えばドイツ語の起源は、それまでラテン語(聖なる文字であり一部の人間にしか理解できないところに意味があった)でしか記されていなかった聖書を、ルターが当時ザクセン地方の方言であった言葉に訳したところにある。●上記が言語の統一による近代国家の萠芽である。 ※●当たり前の話だが、前近代には、近代小説というものは存在しなかった。あったのは「詩」か、もしくは「物語」(戯曲含む)、あるいは「随筆」である。では「物語」(戯曲)と「近代小説」とはどう違うのか? ものすごく乱暴に言えば、ひとつの文節における長さが違う。●中世以前、ひとりの主人公が(例えば『龍馬がゆく』だとか『大菩薩峠』のように)数百万字以上に渡って活躍し、成長(堕落)していく物語は存在しなかった。●重要な要素として、製本技術が未発達だったから、そんなに長い書物をぽんぽん作ることができなかった(国家の正史などは国家(王家)予算で作成可能)ということが挙げられる。●しかもさらに、「近代小説」の誕生には自己同一性と階級社会に強く関わるようだ。どうかかわるかは未考察。●「じゃあ源氏物語とかはどうなんだ?」というご意見もあろうかと思われる。源氏物語を始めとした前近代の物語は、すべて章(源氏物語は帖)が細かく区切られていて、単章だけでも閲覧可能。つまり「ひとつの長い物語」というよりも「一章ずつの個別の物語の集積」と考えるのが妥当。●どういうことかというと、中世以前の物語はだいたい「名画を集めた美術館」のようなものだと考えると理解が早い。名画はその一枚だけでも観賞可能。●ちなみに聖書もそういう個々の章で独立可能な構成だ。●例えば源氏物語だと『蛍』の帖とかね。絵画的で幻想的。「源氏物語」という一連の作品では存在しなくてもいいエピソードなのに、メチャクチャ美しい逸話。当時の長い「物語」とは、こうした美しかったりおかしかったりする「章」の集積なのだ●<『蛍』の帖ストーリー>光源氏は養父となった玉鬘の婿探しに苦心する。そんな時、源氏の腹違いの弟で妻を亡くしたばかりの兵部卿の宮が尋ねてくる。源氏はさっそくふたりを引き合わせるが、玉鬘は御簾の向こうにおり、夕暮れどきで暗くて兵部卿からは玉鬘の顔が見えない。兵部卿はあれこれと喋ってみるが、玉鬘は終始無言。隣室でそれを察した源氏は(玉鬘は美しく、兵部卿が見れば惚れると確信していた。なにせかつて源氏も養父のくせに惚れたほど)、御簾のなかにそっと蛍を放つ。 蛍の光で御簾の向こうにふっと浮かび上がる美しい玉鬘。 その蛍を見て(自分が兵部卿から見られている、とは気づかずに)玉鬘が手すさびに一句。 声はせで 身をのみ焦がす蛍こそ 言うより勝る 思ひなるらめ(声を出さないで身を焦がしてばかりいる蛍のほうが、貴方様(兵部卿)のように声に出しておっしゃるより、もっと切ない思いなのでしょう) こ れ に 惚 れ な い 男 が い る か この時22歳と(当時としては)けっこうな年増だった玉鬘に、この一撃でバッチリ惚れる兵部卿。この日以降恋文を送りまくるが、結局フられる。●なお中世文学上「玉鬘」とは女性の毛髪の美称辞。また、髪は勝手に伸びていくことから、「どうにもならない運命」なども指していた。源氏物語の作中、柏木などの二枚目からも思いを寄せられるが、突然さえないバツイチのオッサンである髭黒大将と結婚してしまう。数奇な運命を辿ったこの美しい女性に「玉鬘」と名づけた紫式部のセンスったらもう! ※●今日の日記はだいぶ脈絡がない。●まあいいか。探しものは見つかっていない。
2006/06/18
この5月24日に発売された『an an』のセックス特集号が凄いらしい。 私も噂には聞いていたが、さっき友人が「いま付属のDVDを見たが、えらいことになっている」と興奮して報告していった(暇なヤツである)。 聞けばAV女優の夏目ナナが「多くの女の望むセックス」を演じていて、まんまAVであるという。見てきた友人によると、セックス中のキスが多いこと、お互いの体をすり合わせることが多いこと、という点が男が見るAVと違うポイントで、あとはほぼAVだという。 公式サイトには「人気AV女優の夏目ナナさん主演で、女性が楽しめる内容を目指して撮り下ろした、約35分の力作です。彼と一緒に観るもよし、こっそりと一人で観るもよし、めくるめく愛の世界にぜひ触れてみてください。」とあった。 このDVDは『an an』が読者アンケートを集計して、「こういうセックスがいい」というほぼ純度100%の女性意見から構成されているそうだ。そういう視点からのセックス映像というのは大変興味ある。貸してくれ~、と頼んだ。 ええと。 セックスというのは非常に「閉じていく傾向の強いコミュニケーション」であるから、例えば付き合っている者同士、結婚している者同士は、なるべくお互い「こうしたほうがいい」とか「こんな方法はどうだろう」とか、話し合ったほうがいいと私は思っている。 セックスの快楽は形而上(精神)の要素も強いが、形而下(技術)の要素も強いからね。 世間一般的には「優しさ」だとか「気遣い」だとかいう精神論で語られがちだが、私は経験的に、精神と技術のプライオリティは半々、自動車の左右輪のように、どちらも備わっていなければ前には進めないと思っている。どちらか片方が速く回り過ぎると、あらぬ方向に曲がっていく。 しかもやっかいなことに、セックスは身体に直接的に関わることだけに、個人差が大きい。足並みを揃えて順調に前に進みたいと思うのなら、それぞれの好みを告解し合うのがいい方法だろう。 少し前に古い女友達とバーで飲んでるとき、「ちょっと聞いてよ、彼氏のセックスがもう下手で下手でねえ、ホントあたし、セックスが嫌いになってきて、もう一生しなくていいかなぁ、と思ってるの」と言われたことがある。そこまで思い詰める前に、「こうしてみようよ」だとか「こういう方法のほうが気持ちいいのに」と話し合えばよかったのに、と私は言ったが、もう手遅れっぽかった。 一度嫌いになってしまうと、(恋人関係がそうであるように)修復は難しい。 こういう雑誌(DVD)が、そうした異性との話し合いを持つキッカケになればと思う。 ただ面倒なこともあって、多くの女性、それもマジメで「いい女性でありたい」という女性ほど、そういう「気持ちいいセックスのやり方」の話を忌避する傾向にあって、自己抑制も強くなり、自分の意見を抑圧することになる。 そしてこの自己抑制は「恥ずかしい」という心理機制に強く関わることであり、かなり多くの男が、というよりこの社会全体が「あったほうがいい」と思うものだ。私も恥ずかしがる女性は大好きです。ああ聞いてませんねそうですね。 マジメでいい女ほど、悩みが深くなる、というこの悲しいスパイラル。 話し合いはしたほうがいい。けれど「恥ずかしがる」という心理機制はあったほうがいい。 このアンビバレントな2つの要素は、セックスを奥深いものにする、と思っている。 その点で、こうした週に60万部も70万部も売れてしまう、書店やコンビニで大々的に並ぶマスメディアの「セックス攻勢」には、なんだかなあ……、攻めすぎだよなあ、と思ってしまうわけで。 結論を言うと、早くDVD見たい。 探しものはまだ見つかっていないが、下半身的にはそれどころではない。
2006/06/17
サッカーW杯への熱狂を見ながら、まったく別のことを考えていた。 ※ 珍しく、読み終えたばかりの『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社刊/鴻上尚史著)を読み返している。いや面白いんだって。 本の帯には「これは小説です!」(つまり「フィクションです」ということ)と大きく書かれているが、鴻上のエッセイに何度か出てきたエピソードが何度も登場する。どこまでがフィクションでどこまでがドキュメントかも、この作品を楽しむポイントだろう。 主人公の「僕」はある日の深夜、60年代の歌謡曲を集めたCD集のTVCMを目にする。そこには資料映像として一瞬だが、主人公の母校である早稲田大学の校舎と、その入り口で学生運動への勧誘をする女性が映る。 ヘルメットをかぶりながらアジビラを配る女性の、その微笑みに魅せられて、演出家である「僕」はさまざまなツテを辿ってその女性を探すというストーリーだ。 作中には「60~70年代に日本の若者たちを覆った、学生運動とはなんだったのか」という考察が繰り返される。それは著者の鴻上や私自身も含めた「遅れてきた者たち」にとっては絶対に体感できない、共感することも難しいムーブメントだったのか。 おそらくたぶん、当時学生運動に身を投じていった若者たちにとっては、「政治」とか「国家」とか「思想」とか、あるいはもっと大きく「時代」だとか「世界」だとか(あるいはもっと小さく「日本」とか「戦争」とか)、そういう今となっては抽象的でボンヤリとしか理解されないものが、もっとずっと具体的で身体的で、手を伸ばせば届くものだと思えていたんだろうな、と思う。 喩えるならそれは、今、日本代表のユニフォームを来て、顔に日の丸をペイントした若者が「日本がんばれ!」とモニターに叫ぶとき、彼らにとって「サッカー」だとか「代表選手」だとかが、すごく身近に感じられるのと近いんじゃないか。 いま、何を「リアル」だと感じるか。 これはそういう話なんじゃないかと思っている。 もちろん当時「思想」や「国家」や「政治」に熱狂していた若者が、いま「サッカー」だとか「日本代表選手」だとかに熱狂するというのは、どちらが悪いだとかいいだとかいう話ではないだろう。いやどちらかというと、サッカーに熱狂しているほうが平和で温和でいい世の中なのかもしれない。 ベトナム反戦運動に命を賭けるよりは、4年に一度のサッカーの祭典に踊り狂うほうがいいに決まっている。どんなにドップリ浸っていたって、サッカーなら引き返すこともできるし傷も浅いだろう。 そういう確信がある上で思うのだけど。 どうも若者たちが熱狂する対象というのが、どんどんどんどん具体的で身近で「わかりやすいもの」になっているのは気になる。 いやもしかしたらこれは、「最近の若者はバカになってきている」という、そういう簡単な話なのかもしれない。「思想」より「サッカー」のほうがわかりやすい。「自分はいま感動している!」ということが、より身体的に、簡単にわかる。『資本論』より『ゴーマニズム宣言』のほうが手軽に読めるし、ゴダールの撮った映画よりハリウッドのドタバタ劇のほうがわかりやすい。どれも「物語」という点では同じだ。同じだけども、資本論やゴダールはわかりにくく、一応深みがあるとされている。 ああそうか。 たぶんこれは、若者が変わった、という話ではないんだろう。 それぞれが享受する「世界」のほうが、複雑怪奇でわかりにくくなっているんだと思う。先が見えなくて、暗くて、苦しくて、辛くて、面倒で、正誤や善悪の基準が壊れ切った世界だからこそ、物語くらいは「わかりやすいもの」が求められているんだな。きっと。 近代が成熟しきった。 そう言うと簡単なんだけども、悩み苦しむ人に処方箋を作るには難儀になっていると思うし、たぶんこの流れはもうこの先ずっと止まらないだろう。 探しものは見つかっていない。 いやまあ、バカでいいし、バカは楽しいんだけどね。
2006/06/14
いよいよ明日はサッカーW杯日本対オーストラリア戦である。 W杯とは何か?というと、それを定義する言葉はいろいろあるが、まあ一般的で有名な言葉を借りればそれは「お祭り」である。お祭りは単に見ているだけよりも、参加したほうが楽しいに決まっている。 そんなわけで本来であればスタジアムに行くべきだし、それが無理ならスポーツバーやモニターのある居酒屋かなんかで盛り上がるのが一番楽しいし、正しい姿だと思う。 4年前、私は池袋のスポーツバーでベルギー戦だかを観戦したのだが、店全体が一体となった感じになり、見ず知らずの人と抱き合ったり大声を掛け合ったりして、えらく楽しかった。帰路ではそれこそ意味なく通行人とハイタッチ。 ナショナリズムの原点がここにあるんだなあ、なんて思っていた。「個」が溶ける感じね。 最近話題になっているネット上の「炎上」なんかも、これと関係あるんだろうなあ、なんて思う。 とまれかくまれ、私のこれまでのサッカー観戦経験から冷静に分析すると、日本代表の戦績予想は三敗で予選落ちである。贔屓目に見ても1敗2分けだ。 しかし世界的なお祭りに、国を挙げて盛り上がろうというとき、「どーせ勝てないんだから盛り上がってもしゃーない」なんて言うのは、人生の楽しみ方がわかっていない愚か者なのである。 蓮實重彦は「サッカーの魅力は?」と尋ねられ、「精緻に構築されたシステム、文明、文化、構造が、野蛮で無規範な暴力によって砕け散るところ」と答えている。 オーストラリアは強い。クロアチアも強い。ブラジルなんざ世界一である。 10回戦ってその勝率を競うのであれば、間違いなく日本はズタボロに敗れるだろう。 しかしサッカーは受験勉強ではない。 W杯は出世レースではない。 サッカーW杯で代表を応援する時だけは、冷静な分析なんぞクソ食らえなのである。勝ってくれ。頑張れ。俺がついてるぞ。 明日はビール片手にモニターに向かい、酔っ払いながらそう叫ぶのである。 うむ。まことに正しい姿だ。 探しものなんぞどうでもいいのだ。
2006/06/11
(問)13個の宝石があって、そのうちひとつだけ偽物が紛れ込んでいる。 偽物は「重さ」だけがわずかに本物と違う、ということだけがわかっていて、それが本物より軽いか重いかはわかっていない。(本物はすべて同じ重さとする) ここに「どちらが重いか軽いか」を計る「天秤ばかり」がある。 これを使うと、最小何回で偽物を特定できるか? その方法も併せて答えなさい。 今年、中学1年になる従兄弟の娘さんから今朝突然電話がかかってきて、「いま教室で話題になってるんだけど、わかる?」と聞かれた。 職場で電話を受けて、メモ用紙片手に30分ほど呻吟。 3回だ。 検算にそれからもう30分。<以下、若干ネタバレ><1回目が釣り合わなかった場合> 軽い 重い 未計測(本物確定) ○○○○ ●●●● ◎◎◎◎◎ ↓(2回目) ? 本物確定 余り|○○●●●| |◎◎◎◎◎| ○○● <2回目が釣り合った場合>(3回目) 「余り」から 本物確定 |●○| |◎◎| →「余り」が重ければ「●」 軽ければ「○」 釣り合えば、「余り」のうち使わなかった「○」<1回目に釣り合った場合>(2回目)「未計測」から 計測済み(本物確定) 疑惑の余り |◎◎◎| |●●●| ◎◎<ネタバレ終了> こんな感じで、乱雑に書かれたメモ用紙を写メで撮って従兄弟の娘さんに送る。 しばらくしてから、「ショータ君、すごーい! クラスのみんなに自慢しちゃった!」という電話連絡が入る。最近の女子中学生って、休み時間にケータイかけてもいいのな。 いやー、今日もいい仕事したなー。 若干いい気分になったものの、今日は仕事のミスが発覚したので昼一から某社に謝りに行ってきます。もう平謝りね。ははは。泣ける。 探しものは見つかっていない。 マジでもう大人とか嫌。
2006/06/06
5月29日付けの日記に書いた不倫してる会社の女の子の話。 一昨日かな? 夜中に電話がかかってきた。「相手の男から電話があって、奥さんにバレた、と」。 女の子は「あ、これで終わりか」と思ったらしいが、相手の男は「嫁さんには不倫の相手とは別れる、と言った。でも別れたくない。会える機会は減るけど、関係を続けたい」と言っているらしい。 それで「どうしよう」という話だった。 どうしようもなにも、あからさまに「そんな男とは別れろ別れろ」と言ってほしがっているので(そもそも私に相談すること自体、そういう意図があると思われ)、期待通り「そんな莫迦男とはとっとと別れなサイ」と言った。 ただどうなんだろうね。 ちょっと熱心に別れを薦めたことを、いまは少し後悔している。「しあわせ」ってなんだろうね。 相手の男と私は、なぜか今月末のあるパーティで同席することになっている。 相談を受けた女の子はもちろん来ないわけだが、「知らないふりしててね!」と私は頼まれている。 さて、どうしたもんかね。 ※ 内田樹著の『態度が悪くてすいません』を読んでいて「あー」と思った話を少し。 現代文で書かれる「幸せ」という単語の語源は、「仕合わせ」、もしくは「為し合わせ」だと言われている。まあ能や狂言でよく出てくるし、国語の時間に習った方も多いのではないか。「仕合わせ」とはどんなものかというと、「あるものAと別のあるものBが出会って(出会わせて)、ピッタリといい具合に収まること(収めさせること)」である。 本来別々の「もの」や「人」同士が、「合う」ことによって丁度いい具合になる。その状態を「仕合わせ」と呼び、そこから転じて「幸せ」という言葉になった。 狂言の題目『末広がり』は、ある日「末広がりを買ってこい」と大名から命じられた冠者が、「末広がりってなんだ??」と思いながらも京で「末広がり屋(実は田舎者を騙そうとしている悪者)」に出会う話。 大声で「末広がり屋はおらんか」と言って回る冠者の前に「それがしは、末広がり屋でござる」と悪者が現われると、冠者は「それは仕合わせなこと」と答えている。「モノを探す人」と「そのモノを売りたい人」が、幸運にも道端で出会ったこと、「ぴたりといい具合に収まったこと」を指しているわけだ。 現代では「幸せ」は英語の「lucky」に近い、状態や心理を表わす言葉として使われるが、本来は「仕合わせ(る)」という他動詞的な使い方を含んでいた。「しあわせ」とは本来、偶然やってくることもあるし、求めて引き寄せることもできる(引き合わせる)ものなのである。 歌謡界の天才中島みゆきはかつて、『糸』においてこう書いた。♪縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます♪ きっちりと本来の「しあわせ」の意味を踏まえており、中島の仕掛けには毎度「さすが」、と唸る。最近ミスチルがカバーしたそうだが、そちらの歌詞カードではどうなっているのだろうか? ※ 私に不倫の相談を持ちかけてきた女の子の望みは、おそらくただ話を聞いてほしかっただけなのだろうと思う。愚痴をこぼしたり、自分の決心をほんの少し後押ししてもらうこと「だけ」を期待しているのだろう。 うん。そんなことはわかっている。 けれど。 私はかつて、「誰かを宗教から本気で脱退させようとするならば、別の誰かの人生がもうひとつ必要だ」と書いた。脱退させようと願うならば、その願った者は、自分の人生を懸ける覚悟が必要なのだ。「そんな男とは別れちまいなよ」と電話口で言う私には、もちろん相手の子のその後の人生を背負う覚悟も権利も能力も資格もない。そもそも背負うつもりがない。矮小な私は、ひとりでとっくに手いっぱいだ。 しつこいようだが、そもそも相手の子は、そんな覚悟なんか持たれたら困るんだろうけどね。 けどね。 相談者も回答者も、いろんなことに無自覚すぎるんだよね。それはきっと、私の自意識過剰な恥ずかしい妄想なのだろうけど。 もしも「恋愛力」というものが人に備わっているのならば、それはこの「自意識過剰」を長く持ち続け、恥ずかしい「誤解」を「誤解ではないかもしれない」と思い続けられる力のことなんだろう。 探しものは見つかっていない。 私はその子の仕合わせを願っております。願ってるだけです。 それは自分では彼女を「幸せ」にはできないから、余計強く願うんだろう。 それに今は、やっぱりとても「仕合わせ」とは思えないんだよね。 あー、無責任だなあ。
2006/06/02
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