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例えば幼少から青年期にかけての頃、自分のなかの感情で、モヤモヤウズウズした「なんだかよくわからない思い」、「どうにも名付け得ぬ感情」が渦巻いたことはないか? 気になる異性のことを考えた時。 教師に理不尽なことで叱られた時。 名作と言われる小説を読んだり映画を見たりマンガを読んだりした時。 親の言動がどうしても許せないと思った時。 友人に裏切られた時。 可愛がっていたペットが死んだ時。 どうしてもやらなければならない勉強をしている時。 意味なく叫んでみたり、体を動かしてみたり、「この感情はどういうものなんだろう」と考え抜いても、結論はでたようなでなかったような。 多くの人はそんな「名付け得ぬ感情」があったことさえ忘れて、大人になる。 あるいは論理的であろうとする人間は、その感情の「名前の不在」に耐え切れず、「これは“恋”だ」「これは“怒り”だ」「これは“感動”だ」「これは反発”だ」 と、自分のそれぞれの感情を、社会一般によく言われているような、「誰でもが感じるであろう思いの名前」に当てはめ、「そうか、これは恋だったのか」と納得する。 けれど、それは本当に恋なのか?(byドルバッキー) 世間一般的に言われる「恋」という感情や、それにともなう言動。 これに自分のなかで生まれたモヤモヤした感情。 このふたつがピタリと一致することは、有り得ない。一緒であるはずがない。 ある人は「あの異性を抱きしめたい」と思い、ある人は「傷つけたい」と思い、ある人は「見守りたい」と思い、ある人は「忘れたい」とさえ思う。形態も大きさも質もまったく違うそれぞれの「モヤモヤとした感情」を、「それは恋だよ」などと乱暴に括っていいはずがない。 一緒であるはずがないふたつのものが、なぜ一緒になるのか。 それは自身が持つ感情を、人が積極的に「世間一般的に“恋”と呼ばれる感情」にすり合わせるからだ。 なぜそんな「すり合わせ」をするのか。「名付け得ぬ感情」は「わかりにくい」からである。「恋」や「怒り」や「感動」という名前をつけて、「わかりやすく」したい。「伝えやすく」したい。 人間は自身の感情であれ事象であれ事件であれ物体であれ、いま目の前にある「名付け得ぬもの」を、そのままにはしておけない生き物なのだ。 これが構造主義的記号論のキーコンセプトである。「わからないもの」を「わからないまま」にしておくのは難しい。「わからないまま」にしておくことは、実は知性の働きによるものだ。 少年はなぜ少女を殺したのか? 妻はなぜ夫を捨てて逃げたのか? 男はなぜいきなり包丁を振り回して無関係の人を傷つけたのか? 世に起こる数多くの事件、事象を、人はなんとか「わかりやすく」しようとして、理由付けをする。それは恋か、痴情か、病気か、社会悪か。なにがしかの理由をつけずにいられない。理由をつけて、既存の概念に「すり合わせよう」、「押し込めよう」としている。 9.11テロの時、「いま、本来はわかり得ないことを、“私にはわからない”と声に出して言う知性が求められているのではないか」と書いたのは蓮實重彦だった。この「わからないままでいる」という態度を知性と呼ぶ思想が、ポスト構造主義の考え方である。 ちなみにそのポスト構造主義を、私はよくわかっていない。 この説明で、説明しきれているとも思えない。 ポスト構造主義は「それでいいのだ」とバカボンのパパみたいに言う。 わかんねーなー。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/05/31
『君が代』の替え歌がネットに流布しているらしい(ソースはここらへん)。 産経新聞は若干お怒りのようだが、阿呆か? 内心の自由は縛れないし、そもそも誰も、縛ろうとすら思っちゃいないだろ。「国家は殺人を強いるものだと伝える歌だ」についちゃ荒唐無稽としか言いようがないよ。当たり前のことなに今さら言っちゃってんだ。国家は国民に、納税や勤労を強いるのと同じように、殺人を強いる。当然だろが。死刑執行官や法務大臣や裁判官をなんだと思ってるんだ?? 近頃の教師って、「近代国家が殺戮を担うシステムであること」、「暴力を集中管理するシステムであること」すら教えてないの??? 国歌や国旗に敬意を持て、と主張すること自体がすでにして内心の自由の侵害であり、原理主義信仰者による戯言だ。これは「愛国心教育」についての教育問題についてもいえることだが、学校で「愛国心」を教えるなんてこと自体、私はバカバカしいと思っている。「愛国心について」ならまあ許容範囲なんだけどね。 教育者にできることは、せいぜいが「敬意を表すこと/敬意の表し方」だ。 それ以上のことを教えようとするのであれば、それは職務を超えた不当な干渉であり、それすら教えられないなら職務怠慢である。 ※ 昨夕、長いこと仲良くさせてもらっている友人の女性と話していた内容なのだが、「世の中には恋愛のルールを破りたくても破れない人と、守りたくても守れない人がいる」という話について少し。 ※ 友人の女性は上記の基本路線に同意しつつも、「恋愛のルールってなんですか?」という質問を投げ掛けてきた。私はそれを「性規範だと思う」と答え、友人は「それは社会通念ではないか」と重ねた。 まあ正直申し上げて私にとってはその「恋愛のルール」が、規範であっても社会通念であってもどちらでもいい。多くの人々に「無軌道な恋愛は許されない」という認識があればよいと考えている。 けれどどうだろう。 友人の女性との話しで、最後まで決着がつかなかった問いのひとつに、「恋愛の始まりには理由がなく、終わりには理由がある」という沙翁の命題(確か『ロミジュリ』)についてのやり取りがある。 いま思い返すに、正確には「(恋愛の終わりには)理由が必要」だったかもしれない。むう。ちょっと意味が変わってくるな。まあいいや。 私はそれは、沙翁が吐いたペテンであり、「恋愛には始まりだって理由がある」とし、「それは恋愛者が弱ってハードルを下げていることだ」と答えた。友人の女性はそれに対し、「そんなことはすべての関係性で起こることだがら、勘案すべきではない(恋愛の理由として顧慮すべきではない)」と返した。 人間、生きていれば誰だって「心が弱る」ということはある。 不意に、つまんないことで、あっという間に、心は弱る。 風邪で寝込んでいる時に介抱してくれた異性にコロッとまいってしまうことがよくあるように、この「心の弱り」は体調にも非常に強くリンクしている。 けれど私は、(体調があるていどコントロール可能なのと同じように)この「心の健康状態」もあるていどコントロール可能だと思っている。人は見たいものしか見ない。信じたいものしか信じない。それと同じように、恋したいと思うから恋するのだ。 なに? 無意識は自意識下では制御不可能? そこのフロイト、ちょっとこい。説教してやる。テキトーなこと言うな。 私は近代思想史に燦然と輝く仕事を為した、大天才のジグムント先生より自分の経験を信じる。 恋心はコントロール可能だ。 自分を厳しく律することで、「この恋は許されざるものだ」と、想いを断念することはできる。 そう確信することで初めて、いや、そう思い込むことでしか、恋という不当なインベーダーに人が立ち向かうことはできない。 つまんない男に引っ掛かるなよ。 そいつはただのペテン師なんだよ。 そういう心の叫びを、何度吐いたかわからない。 恋愛はフェアであるべきだ。 そうでないと私だって、ズルのしがいがない。
2006/05/30
かつてウチの会社で働いていたバイト君の親御さんが、オレオレ詐欺に引っ掛かったそうだ。「貴方の息子さんが○○○(当社名)で働いている時に、120万円の負債を作った。今日中に振り込まないと訴えざるを得ない」という電話が掛かってきたそうだ。 このご時世にそんな典型的な手段でまさか、と思うなかれ。 そういう油断がオレオレ詐欺の蔓延を生む。 ※ 政治思想や運動について、ものすごく抽象的なことを考えている。 どれくらい抽象的かというと、「モダニズムの終わり」について思いをはせるくらいボンヤリとして実態のないものを想定している。 ※ 山本義隆という人物をご存じだろうか。 元東大全共闘議長であり、アカポスを持たない孤高の物理学者であり、教育者だ。 いま、この人物のことを少し調べたいな、と思っている。 1960年代後半に沸点を迎えた、全共闘運動の頂点にいた人物である。 ある作品や思想的イデオロギーや宗教や、あるいはある人物そのものの価値評価というのは、それを見る人それぞれ見方によってずいぶん変わるだろう。 私の場合は「その終わり方」というもののに、かなり影響を受ける。 物語を紡ぎ始めるというのは、意外と簡単だ。 試しに小説なりドキュメンタリーなり、自身の好きな方法で「物語」を書き出してみればわかる。原稿用紙にして1~2枚であれば、それなりのものは誰でも書けることに気づく。 それすら無理だ、という場合には、自分の人生について書いてみればいい。感動した場面、辛かった場面、泣いた場面。人間関係から時代背景まで書き連ねれば、誰だって(重ねて書くが、400~800字くらいまでなら)それなりに面白いものができるだろう。 しかし書き出したその「物語」を収束させ、読み手(それは書き出した自分自身も含まれる)に納得させるかたちで完結させるためには、相応の技術と経験と、知識と知恵が必要となる。「全共闘」という、ある時代を代表するイデオロギー的事件は、いったいなんだったのだろうか。それはどんな物語だったんだろうか、と考える時、私はその終わり方について大きな感銘を受けた。 ※ 1960年代中盤、京大基礎物理学研究所に国内留学していた山本は、母校の全共闘運動に参加すべく、研究生活を放り出して東京に舞い戻る。当時の京大物理研究所所長、湯川秀樹は山本の物理学における知性を惜しみ、涙を流して止めたそうだ。 山本が全共闘運動に参加したことは、日本物理学会における大きな社会的・学問的損失である、と語る人もあるという(03年、物理学論文『磁力と重力の発見』でパピルス賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞受賞)。 1969年1月、安田講堂陥落時点で逮捕状が出された山本は、同年9月の全国全共闘連合結成大会で警察当局に逮捕。その後、学生運動は度重なる組織分裂と対立、内ゲバにより急速にその勢いを失っていく。 内田樹に拠れば、1974年の冬、全共闘運動が沸点を超えて飽和し、急速に冷め「シラケ」が覆い尽くした東大キャンパスにおいて、安田講堂事件を指揮した山本義隆は、たったひとりで全共闘の最後の立て看板を片づけていたという。<以下引用開始>痩せて疲れ果てた山本義隆が1974年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らにはもう一人の同志も残っていなかった。冬の夕方、10畳敷きほどある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。目を向ける人さえいなかった。法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた「巨大な棺」を一人で引きずっている老人のように見えた。東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで「棺を蓋われた」と私は思っている。<内田樹の研究室 「政治を弔うということ」より引用終了> 学生たちが占拠した安田講堂が、8500人の機動隊により陥落する直前の69年1月19日午後5時50分、安田講堂防衛隊長の今井澄は「最後の時計台放送」を敢行する。われわれの闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん。われわれの闘いは決して終わったのではなく、われわれに代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時、この放送を中止します。 この放送のわずか5年後の74年冬に、山本義隆はどんな気持ちで、たったひとりで立て看板を片づけていたのだろうか。それは思想の葬送の儀式として、まっとうなものだったのだろうか。 陥落以降、現在までの37年間のあいだ、東大安田講堂から、学内解放を願った学生の声が響いたことはない。 ただひとつわかるのは、全共闘という思想運動は、聡明で偉大な頭脳を持ったひとりの科学者が、その幕引きを背負ったということだ。 いつか、現代の趨勢を握るモダニズムという思想が死んだ時、あるいは当世流行りのプチ・ナショナリズムが死を迎える時、たったひとりでその看板を片づける、思想の死を我が身一つで引き受ける「現代の山本義隆」を生み出すことができるのだろうか。 そんなことを考えている。 探しものは見つかっていない。 こんなことに拘泥していると、いよいよモテなさそうだ。あわわどうしよう。
2006/05/26
エヴァ関係の日記をフリーページに移す。 続きはそのうちこっそりアップします。 ※『ダ・ヴィンチ・コード』(映画版)を見た。 間延びしすぎ。 小説版の長大なエピソードを無理やり詰め込んだので、切迫感がない。かといって原作にある数あるウンチクを噛みしめるヒマはない。『24』のように長いTVドラマ方式にしたほうがよかったのではないか。 あと、主人公のラングトン教授とヒロインのソフィーのラブロマンス的な部分はバッサリカットされていた。まあそれは別にいいんだけども。 ※『人間は考えるFになる』(講談社刊・土屋賢二×森博嗣対談)読了。 お茶の水女子大の哲学教授でエッセイストのツチヤ教授と、ミステリー作家で元名大助教授の建築学者、森博嗣との対談本。どちらもキャラクターが立っており、ふたりの持ち味がよく出ている対談。両方の作品をそれぞれ2冊以上読んでないと退屈だろう。私は両方読んでいたので、まあそれなりに面白かった。 どちらも知性が高く切り口が独特なので、シリーズ化して時事ネタなんかを語らせれば毎回読むと思う。ただ問題は、たぶん与えられたネタについてそれぞれ別々に書いたほうが面白いだろう、ということだ。 対談じゃなくて往復書簡みたいなかたちのほうが、両者の知性が生きると思う。 あとタイトルが見事。ファンならクスリと笑える。 ※ 会社の庶務の女の子と昼食。 髪の毛がだいぶ伸びていたので、会社の近くで評判のいい美容院の場所を聞いた。いくつか教えてもらったが、どこもイマイチとのこと。仕方がないので理髪店に入り、まあそれなりにダサい髪形になる。 気になったのは、食事中の女の子との会話。「既婚男性は全員、つねに愛人を欲しがっているはずだ」と言われたので、「んなわきゃーない」と返したらえらくショックを受けられた。俺がそんなに愛人を欲しがっているように見えたのだろうか。 話の流れで今度、庶務軍団の飲み会に男子代表として参加することに。 むうううう。団交の危機。糾弾されてしまうのだろうか。 探しものは見つかっていない。(「男」とはそういうもんだ、という)それなりに強固な信仰を持った三十路前の独身女性4人を相手に、カッコをつけつつ説得する自信はもちろんない。しかしこれは自身の教義を掛けた聖戦だ。頑張れ俺。祝福を俺に。
2006/05/25
忙し過ぎてネットの逃避中。あかん、仕事終わらな過ぎて壊れてきた。 以下は4~5年前に友人から送ってもらった有名なジョーク。ある大学で教授が女生徒Aに、「適当な条件下で、大きさが通常の6倍になる体の器官を挙げてください。その時の条件も言って下さい」と質問をした。指名された女生徒Aは、顔を真っ赤にしながら冷ややかに「これは適切な質問ではありません。この件は学校に告発します」と答えた。しかし教授は平然としたまま、別の生徒に同じ質問を繰り返した。次の女生徒Bは落ち着いて答えた。「目の中の瞳です。暗いと大きくなります」「正解です。それからAさんには言いたいことが3つあります」と教授は続ける。「1つ、授業は真面目に聞きなさい」「2つ、あなたの心は汚れています」「3つ、6倍になるなんて思っていたらいつの日か本当にがっかりする日が来ます」 というわけで、瞳である。 私は学生時代ずっと、目からは光線が出ていると信じて疑わなかった。何かを真剣に伝えようとする時、必ず相手の目をシッカリ見据えて伝えるようにしていた。 まあ具体的に何を伝えたかったかというと、「一緒にお茶飲みに行かない?」とか「つきあってくれ」だとか「ホテル行こう」とかだったわけだが(阿呆である)。 以下はそんな阿呆な私が、大学の演劇論を受け持った先生に教わった話。 研究室まで追いかけていって、詳しい話を聞かせてもらった。 現代日本社会では一般的に、黒目が大きいほど意志が強そうだったり誠実そうだったり、女性だったら可愛く見えたりする。黒目とはいわゆる「虹彩」と呼ばれる部分(私はかなりブラウンがかかっている)で、特に真ん中の黒い部分を「瞳孔」(まあ多くの日本人は真っ黒)という。 虹彩の大きさは個人差があるが、せいぜいゼロコンマ数ミリであり、成長期以降は根本的な大きさが変わる人はあまりいない(病気を除いてね)。 ただこの瞳孔を、相手に大きく見せる方法はある。 言うまでもないことだが、相手に自分は誠実だと思わせたい時、意志が強い人間だと思わせたい時、可愛いく見せたい時にお使いください。役に立つかどうかは知りません。 まず第一点。 冒頭のジョークにあるように、瞳孔は筋肉によって一定の条件下で大きくなったり小さくなったりする。一般的には2ミリから6ミリくらいまで変わる。明るいところにいれば小さくなり(縮瞳)、暗いところにいれば大きくなる(散瞳)。さらにいえば興奮すると交感神経の作用で瞳孔は大きくなる。 これを最大限に利用するには、屋外から屋内、明るいところから暗いところに入ることだ。 告白の場所は屋内で。目が慣れる(充分に散瞳する)までジッとためてからにしましょう。 第二点として相手から見られる角度がある。 人間の瞳孔はネコやヤギと違って円形である。 円の面積を最も大きく「見せる」には、真正面から正対することだ。 何も胸を張って真っ正面を向く必要はない。顔だけが相手の瞳に正対するようにしましょう。 よく人間の動作を観察していると、話し相手の顔が真っ直ぐこちらに向いていることが、驚くほど少ないことに気づく。それは相手がアナタの顔を見たくないわけではなく、単に日本文化のうちに「相手の瞳に正対して話しかける」という動作が組み込まれていないだけである。 口説きたい相手、大事な商談相手、苦手な上司への弁明などは、相手の瞳に正対して臨みましょう。人がやっていないぶん、効果的になります。 以上。 重ねていうが、効果は保証しない。散瞳は意志の強さを表現するから、もしもまったく脈のない相手にこういう方法を取ったなら、かなり恐がられ嫌がられるだろう。 探しものは見つかっていない。 学生時代は、こんなことばっか真剣に考えていた。どう考えても効果なんかたかが知れているわけだが、それでも一所懸命こういう努力をしていた当時の私は、なんだか可愛い(そうか?)。 なお、これを先生からはもうひとつ。「効果的な喋り方」というものも教わった。 こちらも気が向いたらそのうち書きます。
2006/05/19
まだ偏頭痛が抜けない。 ストレスか、と思ったが、虫歯のような気もしてきた。 歯医者行きたくないなあ。。。 ※ 村上春樹がノーベル文学賞を受賞するのでは? という話がでている。 3月に産経が報じ(ここ)、かなり文学通の友人からも「そろそろだと思う」と聞いた。 産経のソースは村上が今年の「フランツ・カフカ賞」(チェコのカフカ協会が選出)に選出され、同賞の直近受賞者2人(04年のエルフリーデ・イェネク、05年のハロルド・ビンター)が連続してノーベル文学賞にも選出されたことを挙げている。 友人はそれに加え、村上の世界的評価の高さと、「そろそろ日本人にも」というタイミングを考慮して予想していた。村上の作品は20カ国語に翻訳されており、欧米やシナ、南米などでもミリオンセラーになっている。受賞が決まればノーベル文学賞の受賞は川端康成、大江健三郎に続いて3人目。 ノーベル文学賞の発表は毎年10月中旬だが(授賞式は12月)、またぞろ大手書店の棚が村上フェアで溢れかえるであろう。 この件について報じ、論考を加えるサイトは多々あるが、私が「ほほう」と思ったのは例に漏れず内田センセの記事。こちらで「村上文学には“父”が登場しない」と書いている記事だ。 この場合の「父」とはなにか。 内田の論考を借りればそれは、その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。である。 キリスト教世界ではそれは「神」であり、イスラム社会圏では「預言者」であり、コロニアルでは「宗主国の文明」であり、たとえば自然主義文学では「家父長制度」というような形態をとる。 村上は自身が形作る世界のなかで、その「不在」を描くことで「父がいない世界のなかで、人々はどう過ごしていくのか」を提示してきた、と内田は分析する。 上記のような定義に拠れば、父とは「補助線」である。それは原理的に個々人の自由を侵害する存在であるが、自身の立脚点を示すことになる。それが存在しない世界とはどんなものであるか。そこで人々はどう生きていくのか。 それが村上が描く世界観の本質だ。 そうした世界観の造形において、村上とカフカに共通点が生まれる。<上記内田のサイトより引用開始>「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」これが村上文学に伏流する「問い」である。「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。それが絶望的に困難な仕事であるかは誰にもわかる。けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面している・・・という感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されている。<内田樹の研究室、「村上文学の世界性について」より引用終了> まさしく我々が直面せざるを得ない、文学的ポストモダンの精髄である。 無限に相対化され続ける個々人の「善悪」や「正否」を、相対化されたうえでも選び取っていかなければならないためには。 村上文学に登場する「僕」のような生き方は、私はどうにも好きになれないのだが。それはたぶん、その世界には葛藤もカタルシスもないからだ。善悪や正否は、あらかじめ決めといてほしいんだけどなあ。 探しものはまだ見つかっていない。 ただまあ、「わかりやすいもんばっかり享受してるとバカになる」とは思っている。
2006/05/17
仕事が忙しくてレンタルビデオ屋に行けていない。 次にひと段落するのは21日あたりなのだが、その日は映画館に『ダ・ヴィンチ・コード』を見に行こうと決めている。なかなかエヴァの劇場版を見る機会が来なくて、残念やらホッと一息やら。 ※ ふとしたキッカケで古いメールの受信箱を読む。 昔、ちょっと好きだった人からのメールを読んで、ほわんとした気分になった。 メールをもらった当時は思い付かなかった、「こんな言葉を返せばよかった」というようなことが次々頭に浮かぶ。そこに書かれている文言が変わったわけではないのに、いま読むとまるで別の人からもらったように感じる文章もある。 もらった当時は返事を返さず、なぜ俺は返事を書かなかったんだろう、と心底不思議に思うものもある。 ロランバルトはこれを、『テクストの快楽』で解析した。 難しげな哲学系サイトに出てくる「テクスト」という単語は、「テキスト」が訛ったものではない。テクスチャア(Texture)の略だ。「織り成されたもの」という意味である。 何が織り成されているかというと、書き手の心情と読み手の心情である。 テクストは「書き手が書く時、どう思って書いたか」よりも、むしろ「読み手が読む時、どう思いながら読んだか」というほうが重要だ、とバルトは言っている。「読者の誕生は、作者の死をもって贖われなければならない」と、文学者風に書いた。 私が久しぶりに読んだ、懐かしく古いメールを書いたあの人もきっと、いまこれを読み返せば「なんでこんなことを書いたんだろう」と思うはずだ。そういう意味で、このメールの送り主はもうどこにもいない。作者は死んだのである。 どうしてバルトはこんなことを考えついたんだろう、と、ふと悩んだ。 たぶんラブレターだな。 読み返して赤面して思い付いたに違いない。 探しものは見つかっていない。
2006/05/16
朝起きてから偏頭痛がする。 苦めのコーヒーを淹れて飲んだのだけど、収まる気配がない。 気圧の関係だろうか。痛いなあ。 ※ 今日は寒いですね。東京はしとしとと雨が降っています。「風光る」とか「山笑う」とかは春の季語です。そして東京に住んでいるかぎりそういう言葉にピタッと合うような春の瞬間に出会うことは少ないのですが、それでもこの5月の春の加減はちょっとヘンテコな感じがしています。 寒い春の日は「冴返る」と言うそうですが、どうも春なのに寒い日ってのは「冬」とは違って、元気を奪っていくような寒さですな。何事も、始めから与えられないのと、一度与えられてから奪われるというのとでは、悲しさも切なさも違うもんです。「僕たちはいつも、希望には鈍感で絶望には敏感だ」というのは、なんともまあ辛い話です。はい。 ※ 休日出勤の途中でレンタルビデオ屋さんに立つ寄ったが、『エヴァンゲリオン』の映画版がレンタル中だった。明日からまたちょっと忙しくなりそうなので、新規レビューの続きはまた今度。 ネットをウロウロしていたら、内田樹先生がブログで『冬ソナ』と村上春樹の世界性という記事を書いていた。要旨としては、どちらの物語も「父がいない世界で息子はどうやって生きるか?」という問いをめぐる共通点があるそうだ。 冬ソナは見ていないのでよくわからないが、村上春樹の作品については、「父性の欠如」とよく言われてきたような気がする。実際読んでいて私もそう思ったし。 そうか。 私はエヴァンゲリオンという作品についても「父性の欠如」を読み取ったのだけども、これは村上春樹の作品観、世界観との共通点ともいえるのか。そういえば作品全体を流れる雰囲気も、両者は似ている。「何かが欠けていたまま育ってきてしまった“僕”が、その代替物を求め彷徨う物語」ね。ふむ。 ※ 気になって「エヴァ×村上春樹」で検索をかけると、大塚英志が怒っているテキストが引っ掛かった。<以下引用> 村上春樹が『アンダーグラウンド』執筆の動機としてこういう意味のことをいっている。自分はあちらこちらからサブ・カルの断片を引用してジャンクを作ってきた。それが自分の方法だ。それはオウムと同じである。ならばいかにすれば自分はオウムと異なるものを作れるのか。 庵野のバカに聞かせてやりたい、とは言わない。だが、村上の問いは正しい。結果としての『アンダーグラウンド』は不満だが、出発点は正しい。------------------------------------------------------------------------ <おたく>の問題とはつまりはそういうことだ。あんたもぼくもただのサブ・カルにすぎない。だが、幼女を殺さず、サリンをまかず、サブ・カルであり続けることは可能なのか。 そこで、サブ・カルをやめて国家とか教科書問題に逃亡するのは反則もいいところである。 そうではなくて、くり返すが、人はいかにして、幼女を殺さず、サリンをまかないサブ・カルでいられるかを考えること。そっちに行かないサブ・カルたること。------------------------------------------------------------------------ 別に考えたくなければ考えたくなくてもいい。秋だか冬になりそーな「エヴァ」の完結篇をカードでも集めながら待っていればいい。そうやってれば20世紀なんかあっという間に終わるのだから。 それにしても「エヴァ」のファンときたらどうして黙々と柔順なまでに「エヴァ」商品を買い続けるのだろう? この素直すぎる羊さんと化した新世代の<おたく>についても引っかかるものがあるんだけどね。
2006/05/13
(のっけから引用開始) 普通、関係性という言葉は、人間対人間を表わします。芸術は、常に、この対人間の関係性を描き続けてきました。そして、芸術は、観念の袋小路に踏み込んでしまい、物語という名のコピーを量産し続けるか、物語を嘆き続ける前衛を生み続けているのです。 が、この映画の関係性は、人間対物質の関係性なのです。関係性という時、人間の可能性を探るために、一度、対物質の関係性に取り組んでみようとしているのです。世界との関係性という時、今は、世界という名の人間のことです。が、世界という言葉の中には、物質が存在しているのです。 ★ 人間になった元天使はどうしたのだろう。いつか恋が終わり、それは少しも悲しいことじゃなく、それでも恋は終わり、そしてコーヒーであるだけで感動的だったコーヒーは、物質という存在から観念という存在へと、下落し、風景は風景でなくなる。その時、あの天使はどうしたのだろう。いや、どうすればいいのだろう。 そして、彼の後に続く天使はどうしたらいいのだろう。 ★ 旅立ちを書くことはたやすく、可能性を歌い上げることは感動的にやさしい。僕は、その後を書き続けたい。それが、僕が芝居を続けている唯一の理由なのです。 僕たちは、絶望よりも希望に鈍感で、希望よりも絶望に敏感です。 ですが、この作品は決して、悲劇ではありません。 (引用終了) あまりにも『新世紀エヴァンゲリオン』という作品と親和性が高い文章なので、敢えて引用させていただいた。 これは1988年に鴻上尚史が、『天使は瞳を閉じて』という戯曲を書き、それを上演するさいに観客に渡された「ごあいさつ」なるパンフレットの前文のようなものに記された文言である。全文はこちらを参照。 以前この日記で書いたことがあったが、鴻上は『ベルリン天使の歌』という映画を見て、深く感動し、そして腹を立てる。「大切なのはここからじゃないか。天使が人間になって関係性を構築し、そこから物語が始まるんじゃないか」と考え、この『天使は瞳を閉じて』を書くキッカケを得る。 エヴァには「近代」という時代、思想、イデオロギーに、「人」が直面せざるをえない問題意識を内包している。 そして(だからこそ)私がエヴァンゲリオンという作品に抱いた嫌悪感、忌避感、ジレンマは、鴻上が『ベルリン天使の歌』に抱いた感情に通じるのだ。なお、鴻上の諸作品にはエヴァに相通じる部分が多々見られる。『トランス』で描かれた精神病への記述もそのひとつである。機会があればこちらも論じてみたい。 ※ 先行して映画版の最終回まで先に見ちゃったのがよくなかったのか。 ハタとエヴァのレビューの続きを書くのが難しくなったことに気づく。 このレビューの冒頭に記したとおり、エヴァには父性が最後まで登場せず(よって登場人物は一人残らず子供のままで)、これは「少年の成長の物語」であり(最終回の途中で庵野は「近代人が抱える宿痾」と「少年の自立」をすり替えているが)、さらに神殺しのニーチェが忌避した論理展開であり、おまけに「エヴァとヒト/アダムとシト(リリス)」のふたつのカップルの可能性の話であり、アニメというメディアの独自性をフル活用しつつ、ハッピーエンドの話ではあるものの、ミサトさん可愛いなあなんてロジックが、いま私の頭のなかをグルグルと回っている。どうにもね。ちょっとね。 TV版25話、26話と、劇場版2話を、もう一度見直してみよう。 以後のレビューを書くのはそれからだ。 エヴァは(TV版も映画版もともに)「少年の自立」を言祝いで終わる。「僕はここにいてもいいんだ」「父に、ありがとう。母に、さようなら」「おめでとう。おめでとう。おめでとう」 おそらくこれは庵野監督の祈りだ。 祈りと願いだとわかりつつ、私はあえて思う。 甘ったれてんぢゃない。大切なのはその願いを成し遂げてからだろうが。 私の探しものは、まだ見つかっていない。
2006/05/12
これで5回ほどエヴァづくしの日記書いてて、おまけに毎回写真まで貼付してるわけなんだけど、大丈夫か俺? 読者置き去りにしてないか? ドン引きされてないか? ※ 先日何気なく立ち寄った本屋さんで『エヴァンゲリオンの夢』(東京創元社刊/大瀧啓裕著)なる立派な装丁の分厚い本を見つける。 価格は3400円。悩み抜いたすえ購入を見送り。 高ぇーよ。重いし。 パラパラとめくると、著者は宗教関連書やそれを元ネタにしたSF書などを翻訳することを生業とした翻訳家らしい。1話ごとの概要とその謎解き、読解などを丁寧に展開している。キリスト、ユダヤ、イスラムなどの各宗教に造詣が深く、エヴァのオープニングに使用されている「セフィロートの図」解説や使徒の構造分析などなど、緻密に解読している。 最終2話についての考察は読んでみたが、なかなか秀逸であった。(ミサトさんを「錯乱の女王」と呼ぶのは独断にすぎると感じたし、三位一体説へのこじつけはちょっと無理があると思ったけどね) 帰りに寄った古本屋で『新世紀エヴァンゲリオン』(マンガ版/貞本義行著/角川書店刊)の1~8巻をまとめて購入。しまった、前傾著(『エヴァの夢』)が買えちゃうぢゃん! と思いつつも、フムフムと読み進める。原作(DVD版)とディテールが違う部分がありますね。 9~10巻までは既刊のようなので、いずれ買うだろう。 ※<13話~16話>(DVD4枚目) コンピュータウィルスに模した使徒がネルフのマザーPCである「マギシステム」に侵入。赤木リツコ博士がその防御プログラムを作成し撃退するのが13話。「マギ」とは新約聖書でキリストの生誕を予言した東方の三博士のことを指すわけで、作中の「マギシステム」は3つのブロックに分けられていた。 赤木リツコの母親が開発エンジニアだったそうで、「母はマギを“科学者としての自分”、“母親としての自分”、“女としての自分”の3つに分けた」と解説する。リツコさんも「親」に対してトラウマかあるいはコンプレックスを抱えているらしい、という設定なわけね。 なんでこう、出てくる登場人物のみんながみんな、親に対して「心的外傷」を抱えてるかなあ。まあわかりやすい構図ではあるんだけどね。エディコンですわ。やっぱりエヴァには「父性」が存在しない。 14話は1月3日というTV公開時期の都合もあり、これまでの総括っぽい内容。13話までの各話に登場した使徒の各名称がここで明らかにされる。サキエル、シャムシエル、ラミエル、カギエル、イスラフェル、サンダルフォン等々、いわゆる「天使」の名前が使われている。イスラフェルのみイスラムに登場する天使の名前であり、冒頭に記した『エヴァンゲリオンの夢』で著者の大瀧は、「死海文書を物語のキーワードとして配置する以上、キリスト没後に成立したイスラムの天使を配置したのは庵野監督の間違い」と書いていた。 まあほら、衒学ですから。 同話ではテストのため、シンジ用の機体である初号機に綾波レイが搭乗。感想を聞かれ、「碇君の匂いがする」と言っている。ありていに言えば、ここらへんから綾波はシンジ君に対し、「同業者」以上の存在を意識し始める。恋ですなあ。嗅覚から入る恋愛感情ってなかなかやっかいだよね。 体臭は重要です。それはその人の生い立ちに関わることだからね。香水の起源は人類誕生とともにあった。 15話ではシンジ君と碇ゲンドウ、ミサトさんと加持リョウジというふたつの関係性についての邂逅が中心。どちらの関係もよじれ切っており、前者は寄り添いつつ離れ、後者は離れつつ寄り添う。父子よりも男女の関係のほうが簡単ですか。まあそうでしょうな。男女は「代わり」が効きますからな。 最後の5分で加持リョウジが内閣調査室のスパイだということが明かされ、ミサトさんの前に「セントラルドグマ」と呼ばれるネルフの地下中枢部が見せられる。使徒と思しき怪獣(?)が十字架に模した拘束具にくくり付けられ、二叉の槍が胸にドカンと刺さっている。加持は「アダム(第一の使徒)だ」とミサトに説明するわけだが、後にそれはアダムではなくリリス(第二の使徒)だということがわかる。 こういうつまんない嘘つくなよなあ。見てる時はたいそう混乱した。 旧約聖書に書かれるアダムとイブ(エヴァ)とリリスは、三角関係だと捉えることもできる(ちょっと無理やりだけど)。イブとはアダムの肋骨から作り出された存在であり、ふたりは人類を生み出していく。 それとは別に、リリスとはイブの前にアダムの妻だったとされる女性。 リリスは性にたいして奔放であったとされ、アダムに見捨てられて悪魔化されてしまう。 私としては、イブはアダムから作り出された「人(ヒト)」なのに対し、リリスはもともと存在していた(神ないし天使ないし悪魔だった)、という点に注目していたんだけど、エヴァ作中ではそれに引っ掛けたような話はでてこなかった。 このアダム-イブ-リリスという関係性をもって、シンジ-レイ-アスカと模すのは無理があると個人的には思う。 刺さっている二叉の槍は「ロンギヌスの槍」(磔刑に処されたキリストを刺したとされる槍。神殺しの武器であり、傷を治したりする奇跡も起こせる)。これは初出時からピンときた。この槍はのちにストーリー上、重要なアイテムとして登場する。「使徒」は加持に「アダム」と呼ばれたこの怪物との接触を狙っていること。 それを防ぐためにネルフは使徒と戦っていること。 使徒とこのアダム(と呼ばれた怪物)が接触すると「サードインパクト」なる人類を滅亡に導く大惨事が起こるだろうと予測されること。 実はそのサードインパクトなる事象が、碇ゲンドウとそれを裏で操る「ゼーレ」なる秘密組織が意図する「人類補完計画」の狙いであること。 などなどがうっすらとだが見えてくる。 ここにおいては「人類補完計画」の全容、つまり「どういう状態が、“人類が補完された状況”だと言えるのか」という、計画そのものの目的は明らかにされていない。 16話。見る前からタイトルの「死に至る病、そして」が気になっていたわけだが、それについての説明はほとんどなかった。 巨大な球状の使徒が登場する。内部に虚数空間と呼ばれる、まあドラえもんの四次元ポケットのような空間を持っており、そこにシンジ君が搭乗する初号機を取り込んで出してくれない。 救出作戦の甲斐なく初号機の電池は切れ、青息吐息のシンジ君の回想シーンが流れる。夕暮れを走る電車内でシンジ君は自問自答を繰り返している(『暗夜行路』の時任か?)。自意識過剰全開で、両親や友人との関係性に悩み苦しむシンジ君。 共感される方も多いシーンだと知りつつあえて書くが、自意識過剰による自己嫌悪は、自己を決定的には傷つけない(これは私の信仰なんだけどね)。たとえそれが長く続き終わりが見えなくても、だ。自己を本当に傷つけられるのは他者だけだ。 自己嫌悪はどこかで自己に甘い。「自分自身で自己を傷つけ、悩み苦しむ各登場人物」というのは、エヴァンゲリオンという作品全体を覆うキーカテゴリーなんだけど、私は「それは子供の理屈だよ」と思っている。 平たく書くと、甘ったれてねーで他者と向き合え、ということなんだが。 他者を傷つけ、傷つけ返されることでしか人間は「人」たりえない。 これは庵野監督も視聴者に伝えたいテーマだったことは想像に難くない。 また、同話には重要なシーンのひとつに、綾波がアスカに対して「あなた、人に褒められるためにエヴァに乗ってるの?」と問い掛けるシーンがある。アスカは「そうよ、悪い?」と興奮して返すわけだが、これはアスカが正しい。もっと自信をもって返すべきだった。「あなたはなんのために生きているのか?」などという質問を他者にするのは、自分が確固たる信念をもっている時に限るべきだ。綾波はなんのためにエヴァに乗っているのか。なんのために生きているのか。それは「他者に自己を認めてもらうため」ではないというのか。 結果的にこの質問を端緒にして、アスカは追いつめられていく。 アスカは認められたがっていた。誰よりも「他者からの評価」を露骨に気にしていた。「それは虚しいことなのかもしれない」と気づいた時、アスカは「ひとり」だということに気づき、無償の愛(母からの愛)を求めている自分に向き合うことになる(これにはアスカが幼い恋心を寄せていた加持リョウジとミサトさんのヨリが戻る、ということも重要だ)。 近代社会成立以後、「そんなもの(無償の愛)は幻想だ」ということになっている。まあそりゃそうだ。江藤淳はその著作(『江藤淳コレクション1』内に収録された「明治の一知識人」/ちくま学芸文庫)で、夏目漱石について「彼(漱石)はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかった」と書いている。 ※ 本項は前項までと違い、(これまで意識して避けてたわけだが)1話ずつその構造とキーワードを見てみた。案の定、長くなったわりに中身があんまりない。むううううう。 ただこのあたり(13話くらい)から、数話まとめて考察することが難しくなってきている。1話内に盛り込まれる要素がケタ外れに増えているのだ。おまけに触れる範囲が多様多彩になっている。もうね、あっちにいったりこっちにいったり。 衒学要素も露骨になってきた。 具体的にいうと、私が「お、これは」とか思うシーンがメチャクチャ増えているのである。まったく面倒な作品だよ。とほほ。「衒学的」と書くと大変卑下した言いようだが、「知的好奇心を刺激」と書くと、それを否定することはできないな、と思ってもいる。特に、かつて文学理論系を学んだ身としては辛い。(身についてないのがもっと辛い) いまは「意味を求めてしまう病」みたいなことを考えつつ、探しものは続く。(5/12 12:44頃微修正)>刺さっている三叉の槍は「ロンギヌスの槍」(修正前) どう見ても「二叉」です。本当にありがとうございました。
2006/05/10
うーむ。 これ書いてる途中に最終回まで見ちまった。 見なきゃよかったとちょっと思っている。なんというか、アニメーションってサブカルチャーだなあ、というのがいまの感想。 決してバカにしているわけではないけれども、バカにされても仕方がないような収拾のつけかただ。少し頭にもきた。 ※ ぼちぼち折り返し地点を越え、いよいよストーリーの全体像が掴みづらくなってきたので(こういう物語も珍しいわけだが)ネット検索を使って資料収集を始める。 参考になったサイトは以下のとおり。ガイナックス公式【補記】関連商品に興味がない場合はほとんど意味なし。ここではじめてマンガ版とゲーム版の存在を知る。「謎を残す」という手法は視聴者に対して裏切りだとは思うけれども、作品が終了したあとも話題を残す→関連商品が売れる、という効果はあるんだなあ、と思った。公開後10年経ってもこれだけ話題が続くのは、エヴァが作中でその伏線をすべて公開しなかったからだろう。でもやっぱり裏切りだと思う。電脳補完計画【補記】Yahoo!の特設ページ。各話の紹介が役に立った。五月末までの期間限定公開だそうなので、動画や画像などを落としたい場合は急いだほうがよさそう。新世紀エヴァンゲリオン-Wikipedia【補記】ものすげー詳しくてたまげた。作中のキーワード解説から元ネタ紹介、関連商品の網羅に資料整理と、ともかく緻密。エヴァンゲリオン(架空の兵器)や新世紀エヴァンゲリオンの登場人物等と、関連項目も充実。多過ぎてある程度の予備知識がないと、読んでもなにがなんだかわからない点も注意。まあ百科事典ってそんなもんか。EVANGELION(新世紀エヴァンゲリオンについての考察、謎解き、解釈)【補記】yasuakiさんという個人が作ったファンサイト。サイト中の使用画像がガイナックスからの掲載許諾を受けているものなど、ただの素人とは思えない。グッズのアフェリエイトが少々ウザいが、内容は盛りだくさん。広範な知識をフル活用してエヴァンゲリオン作品全体の解題に挑んでいる。全部読み切れてない。アニメ的なもの、アニメ的でないもの【補記】東浩紀による作品レビューと考察。買ったままで読んでない『郵便的不安たち』(朝日新聞社刊)を引っ張り出さねばならんかなあ、どこにしまったかわかんねえなあ……と困っていたが、ネット上で公開されているようで助かった。宮崎駿(『天空の城ラピュタ』等)、大友克洋(『AKIRA』等)、押井守(『攻殻機動隊』等)との比較が大変に興味深い。参考になったが、レビュー自体が映画版の2作公開前に書かれたものであり、それへの考察がないのが惜しい(近著『網状言論F』に言及があるらしい。読むべきか?)。著者の東は間違いなく賢くて鋭いのだが、ことオタク文化に関してはかの唐沢俊一翁に「オタクがわかってない」と批判されているところが気にはなっている(「(東は)文章が下手」という唐沢の指摘には同意。まあ内容には関係ないけど。ただ師匠の浅田彰も下手だったんだからしゃーないんでないかなあ)。新世紀エヴァンゲリオン【補記】ネット上のアニメ論客たちが、それぞれエヴァという作品に触れた時期の回想と、個々の考察が対話形式で展開。エヴァがTV公開された95~96年という時期に、アニメファンたちがこの作品をどう捉えたのかがわかって興味深い(いや私、当時はアニメなんてまったく興味なかったもんで)。エヴァのTV放映時期がWindows95の発売時期と重なっていた、という指摘は、いまさらながら「あ、そうか」と思った。年表つくらにゃイカンかなあ。むう。 ちなみにエヴァTV放映は95年10月~96年3月(翌97年の春と夏に映画版公開)、Windows95日本語版の発売は95年11月。オウム真理教による地下鉄サリン事件は95年3月。大塚英志のおたく社会時評【補記】大塚には吉本隆明との対談集『だいたいで、いいじゃない。』(文藝春秋刊)でもエヴァについての言及があり(こちらに引用記事あり)、ともかく同作品について攻撃的。「自己啓発セミナーと手口が一緒だ」という指摘は当を得ていると思うのだけども、それに対して庵野は「(自分は)セミナーに出たことはない」と言っているそうだ。違うよ庵野さん。反論すべきポイントはそこじゃない。「(セミナーと手口が一緒だからって)だからどうした」と言うべきだったんだ。そう答えられないところに庵野の(ひいては「アニメ」というカルチャー全体の)弱さがあり、かつ大塚がジレンマを抱くポイントだと思う。 優れた文学や演劇や音楽は宗教的トランスをもたらす。それをマネたのが自己啓発セミナーだ。だから作中に読者や視聴者を引きずり込み、その価値観を(脳ミソごと)揺さぶるためには、手口が似るのは当たり前。恋愛だってそうだ。ただ文学や演劇や音楽は、その表現活動と研究に一生を費やすに足る奥行きがある。揺さぶるほうも揺さぶられるほうも、そういう確信がある。が、アニメやマンガにはそれがない。それはたぶん「サブカルチャーだから」ではない。これについては後述したい。エヴァにとりつかれた人々の悲喜劇【補記】院生が書いたと思われる、エヴァを巡る言説論。膨大な先行研究をチェックしているあたり、学術論文経験者らしくて助かる。上述の東、大塚のレビューへの言及もあり。神崎のナナメ読み【補記】庵野秀明監督が04年5月に放映されたNHKのトーク番組『トップランナー』出演時のコメントが記載されている。注目すべきは以下。なんかすべてを説明しちゃってる気がする。庵野「何か内面的なモノを見てみたいと云う雰囲気が、バーってあの頃、増えたと思うんですね」本上「もの凄く心情を・・・こう・・・言葉にして出すって云う主人公だったりとか、そういうところが、ものすごく印象に残っているんですけれども。みんな、そういうモノを求めていたと云うことでしょうかねぇ」庵野「当時は、そうじゃないですかね。僕自身、哲学を知らないんですよ。あまり哲学的なことはやっていない、今までも。エヴァはそういう風に云われてますけれど、あれは哲学じゃなく"衒学的(げんがくてき)"なんですね」衒学についての解説テロップ「知識があることを自慢すること」庵野「あの~"知ったかぶり"と云うのが一番近い表現だと思うんですけれど。衒学的・・・」本上「"知ったかぶり"・・・」 庵野「よく知らないけれど、こういう言葉を使っていれば賢そうに見えると云う・・・(観客の薄ら笑い)。それがエヴァですね。でもそれは、賢そうに見えるところが、何かパッと見た目"かっこいい"とかですね、"何か裏があるかも?"そう云うところに行くので、それはそれで、そういう方法論だと思うんですけれど・・・。何だろう、僕にとってフィルムは"サービス業"なんですよ。お客さんがお金を出して、映画だと1000幾ら出して見に来てくれる訳ですから、その1000幾らをお客さんが出したのと同価値の"面白さ"、"見てよかった"みたいなのをお客さんに返す仕事だと思うんですね。少なくとも、サービス業である以上、お客さんに何かしらそういう"良かった感"みたいなモノをあげなきゃいけない。それをフィルムに入れとかなきゃいけないと思うんですよ。そこで、あの~う、エヴァの場合は、ちょっと"利き過ぎた"感じがしてですね・・・」武田「利き過ぎた?」庵野「ええ。現実逃避の"よりしろ"とか、後は現実からそこに逃げ込む"装置"みたいなモノにされつつあるのが、見ていて嫌だったんです。映画になった時(97年に劇場公開)は、元々そういう予定だったんですけれど、お客さんにはとりあえず水を被せて、何か目を覚まして帰って欲しい・・・そういうのがありました。僕にとっては、それも"サービス"なんですよ。お客さんにとっては良い事だと思うんで。あのまま、居心地の良い所にずっと居て、それも一つのサービスだと思うんですけれど、エヴァの場合はそれをもうやっちゃいけない気がしたんですよ。少なくとも目を覚ますキッカケみたいなモノを入れなきゃいけない・・・それがお客さんにも良い事なんだろうと云う事で、最後はそういう事をやっていましたけれど。僕にとっては、それも"サービス"なんですよ」(上記サイトの庵野秀明 in トップランナー【3】より引用抜粋) 上記発言を読んで、私は冒頭に記したような「頭にきた」が加速することになる。庵野はメディアとしての「アニメ」も、そしてそのファンも、信じていないのだ。 小説家が「小説ばっかり読んでるとダメになるぞ」と書くか。映画監督が「映画ばっかり見ているとオタクになるぞ」と言うか。ミュージシャンが「こんな曲ばっかり聞いてないで街に出ろ」というのか。 庵野は寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」をひいているが、それは寺山の文学に対する絶大な信頼(と悪魔的な魅力への理解)があってこそ成り立つテーゼだということを、庵野は理解しているのだろうか。 ここに私は、「アニメ」という表現手段そのものが、(それに生活を賭している庵野自身でさえ)信用に足るものではないことを示してはいるのではないか、という一抹の悲しさを見る思いである。 アニメにはまだ、衒学を気取るほどの厚みが足りない。おそらくそれは、人柱が足りていないということだろう。富野、宮崎、大友、押井、そして庵野といった表現者たちは、おそらく後世に記録されるべき天才たちだ。しかし、それら天才たちの人生を埋葬させてなお、「文化」は生け贄を求めている。 ありゃ、長くなった。 レビューの続きはまた後日書きます。 探しものは見つかっていない。 三十路すぎのサラリーマンの大型連休が、エヴァンゲリオンによって潰された。 これを情けないし悲しいと思うのは、アニメというメディアに対する差別である。 しかしこの差別は、庵野秀明という現代アニメーションの大家のひとりが引き起こしている。これを責任転嫁というか。いうな。うん。いう。
2006/05/08
「作品の考証をしたいならあらすじくらい書いたほうがいい」という助言をいただく。なので公式サイトからザッと引用。時は西暦2015年。南極の氷雪溶解による世界的危機(セカンドインパクト) から復興しつつある時代。箱根に建設中の計画都市、 「第3新東京市」に突如襲来する“使徒”。彼らはその正体も目的も不明だが、 さまざまな形態・特殊能力で人類に戦いを挑んできた。この謎の敵“使徒”に人類が対抗する唯一の手段が 「汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン」である。国際連合直属の特務機関「ネルフ」によって主人公「碇シンジ」を含む3人の少年少女がその操縦者に抜擢された。今、人類の命運を懸けた戦いの火蓋が切って落とされる。果たして“使徒”の正体とは? 少年たちの、そして人類の運命は?パワフルなバトルアクション。謎また謎のスリリングなストーリー。少年少女達の葛藤、そして心の成長。ダイナミックに展開する、本格アニメドラマです。 前回のラストでドイツにあるネルフの支部から、弐号機とともに「アダム」と呼ばれる細胞組織が日本に運び込まれてきた。その形態から、どうやら「使徒」と強く関係しているらしいことがわかる。 あーなるほど。Adam(アダム)とEve(イブ/エヴァ)で、「使徒(シト)」と「人(ヒト)」なわけね。 なんというか、ここにおいてこの作品全体に漂う衒学趣味の方向性がやっとこさっとこ理解できたような気がする。旧約聖書と構造心理学ですか。ははー。遅いですかね。<9話~12話>(DVD3枚目) 全般的にアスカが活躍する回が多い。 ロボットアニメらしからぬエヴァシリーズではあるが、この9~12話はアクションシーンが多用される。第10話「マグマダイバー」では使徒が使徒になる前の、胎児のような姿が映し出される。 使徒(シト)は人(ヒト)なのか? そこらへんの説明がいっさいないまま物語は進む。 制作者サイドの狙いとしては、ここらで単純な冒険活劇を見せておこう、ということがあったような気がするが、どうも私には合わなかった。エヴァンゲリオンというシリーズが旧約聖書に引っかけて人間の内面を描こうとするのであれば、中途半端な青春ドラマや恋愛ドラマ、いわんや「巨大ロボットアニメ定番のシーン」などは邪魔に感じてしまう。 特に「恋愛」と「青春」は、舞台となる第3新東京市が「セカンドインパクトによって四季が壊れ、常に夏」という設定と無関係ではないだろう。狙いはわかるが狙いすぎ、というヤツである。 もうひとつの狙いとして、この9~12話の連作では、アスカの魅力を見せようとしているところが気になった。エヴァに登場する3人のヒロイン、綾波、アスカ、ミサトを、制作者サイト(具体的には庵野秀明監督)は「それぞれ別の魅力を持った女性」として描きたかったのではなかろうか。 まったくタイプの違う3人の女性(赤木リツコ博士を入れて4人とカウントしてもいいかもしれない)が作中で活躍すれば、視聴者はどの女性かが好きになる。はずだ。そんな狙いがあったのではないか。 現実存在としての女性には、綾波的な要素もアスカ的な要素も、ミサト的な要素もあるんだけどなあ。私には登場する女性全員が、ファザコンに見えて仕方がない。庵野監督の持つ女性像の投影なんだろうか。 とまれかくまれ、まあ私ならミサトさんが好みかな。(まんまと庵野監督の狙いに引っかかっているわけだが) 探しものは見つかっていない。 職場の知り合いに聞いて回ると、「全編見た」という知り合いが2人いた。 感想を聞くと、「暗い気分になった」、「ラストが納得いかなかった」とのこと。 感情移入するとロクなことにならなさそうだ。 むうう。アニメくらい寝っ転がってラクな気分で見るべきだと思うんだがなあ。 旧約聖書によると、知恵の木の実(リンゴ)を食べたイヴは「あらやだ、私ったら裸だわ」と気づいて、イチジクの葉で体を隠す(「イチジクの葉」は機密機関ネルフのトレードマークであり「知恵による隠蔽」を象徴する)。 知恵を持ったことを知った神は、アダムとイブをエデン(楽園)から追い落とす。 このことから、キリスト教では「知恵」を「罪」と考える。 神ってずいぶん心が狭いなあ、って思うよね。 これは「人間の知恵が、やがて人間自身を滅ぼすんじゃないか」という不安から来ているのではないか、といま私は思うわけで。
2006/05/06
連休満喫中。 本日のお昼はクリームシチューでした。うむ。うまい。 ※ エヴァンゲリオンについては唐沢俊一と岡田斗司夫が「これは純文学だ」と言っているらしい。純文学の要諦は「そこに人間が描かれているかどうか」だと私は認識している。 そういう意味ではロボットもののアニメーションのいくつかは、エヴァ以前から人間を描いていた。鉄腕アトムや仮面ライダー、銀河鉄道999やサイボーグ009は「人間ではないもの(サイボーグやロボット)」を描くことで観客に「人間とはなにか」を問うていた。 これは人間か? それとも人間以外のものか? そうした問いを重ねることによって、人間の沿革を浮かび上がらせてきた。 こうした問いの元祖は「神学」にある。 古来より人は、神と天使と悪魔を語ることによって、「人とはなんであるか」を考えてきた。 もちろん結論はでていないわけだが。 ※<5話~8話>(DVD2枚目) このセンテンスはふたりのヒロインが象徴的に描かれる。 5話ではひとりめのヒロイン綾波レイが暮らすアパートの描写があり、主人公シンジ君との長い会話がある。また、8話ではドイツからの留学生というかたちでふたりめのヒロイン、惚流・アスカ・ラングレーがやってくる。 内向的で無口な綾波に対し、多弁で活発なアスカ。 これは3人目のヒロインともいえる葛城ミサトにも言えることだが、エヴァに登場する女性はよくシャワーや着替えのシーンが描かれる。まあここらへんは視聴者サービスだな、と思うのであるが、なんというか……あまにりも男性にとって「都合のいい女」として両名が描かれるあたりが、なんだか私は悲しい。 どの女性もステレオタイプにすぎるのである。 感情の多寡が認められるアスカと、明らかな感情の欠損が認められる綾波。 どちらにも共通するのは「自分が認めうる【大人(社会)】に自分を認めてほしい」という強烈な思いである。「わたしはわたしである」と、自分以外の誰かから認証をもらいたい。そういう欲求。 その指向性自体は間違えていないとは思うが、彼女たち(そして主人公シンジも)が認めてほしがっている「大人(社会)」は、作中には存在しない。かろうじてその欠片を残す碇司令は、(前項で触れたように)人間的に壊れてしまっている。ここにこの作品のひとつのパラドックスがある。 自意識過剰で不安定な主人公と、ステレオタイプな女性性。 文学作品でいえば漱石の『それから』や紅葉の『金色夜叉』が想起されるところだ。視聴者のなかで「こんな女はいない」と思う人はいなかったのか。 ※ また、主人公シンジとふたりのヒロイン(綾波とアスカ)のさらなる共通点として、「ここ(舞台)よりほかに帰る場所がない」という点が挙げられる。3人には帰るべき故郷も、そこで待つ家族も描かれない。この「逃げ場所がない」という心理状況は、自意識が肥大し、内向的な人たちによく見られる特徴だ。ようするに心に余裕がない。 他者との接触を拒否し、「自分」に逃げ込んだ人々は、さらなる逃げ場所として自意識を深化していき、精神世界を掘り下げていく。その先にはなにがあるのか。 いま目の前にあるリアルな現実(他者と社会と自己が絡み合う外在世界)から内在世界に逃げ出すことはできる。しかしその内在世界ですら追いつめられた人は、今度はどこに逃げればいいのだろうか。 ※ DVD映像末尾に記されているライナーノーツによれば、第8話以降は「アクション編」と題され、エヴァ全体のなかでは明るく外向的な話が基本路線とされているようだ。 これで外向的か。 アスカという存在がそのモチーフとなっているのだろうが、父性はあいかわらず作品全体から欠損しており、従ってカタルシスは相変わらずない。 ここにおいて指摘しておくが、主人公シンジ、綾波、アスカの3名にたいして、「なにか人間として大事なものが欠けている」と思う人が多かろうと思う(まあアニメの主人公たちにそういうものを求めるほうがおかしいのだが)。 冒頭に記したように、「不在」を描くことでその「存在」を浮き彫りにさせようとしているんだろうな、と私は考える。ここにないのは社会性(使命と正義と他者性)だ。 それが描かれることが、この先あるんだろうか。 探しものはまだ見つかっていない。「使徒」の目的も存在意義も、いまだ語られていない。
2006/05/04
4月末の嵐のような公務を終え、9連休を満喫しております。 ※ ちょっとした切っ掛けがあり、『新世紀 エヴァンゲリオン』のDVDを見ることになった。この作品がTV放映されていたのは10年前で、当時は巨大ロボットもののアニメなんぞ露ほどの興味もなかったのだが、まあ「ひとつの時代を作った」とまで言われるほどの情報ソフトであるならば、一度は見といたほうがいいかもしれない、と思って見ることにした。 ※ エヴァを語る予備考察として、まず前エヴァ時代、というよりすべてのアニメーション作品における重要なメルクマールとなった『機動戦士ガンダム』について書いておきたい。 ガンダムを考察する方法は多々あるが、ここでは「少年の成長の物語」としての側面を見てみよう。まずガンダムを家族的な意味合いで切り取ると、あまりにもわかりやすく、典型的な構造があることに気づく。 主人公アムロを中心に、アムロ(の成長)に対する「役割」を分析するとすると、父ブライト、母ミライで、兄はシャア、姉はセイラ、弟がハヤトで妹がフラウであろう。家はホワイトベースである。同作中にはそれぞれ構造的に重要な言動があったりするのだが、まあそれはここでは置く。 ここでは「そういやそうだな」と思っていただければいい。 作中では、「少年」であるアムロは手にした武器ガンダムを持って「家」であるホワイトベースを飛び立つ姿が何度も象徴的に描かれる。当初不完全で不安定なアムロ少年はホワイトベースから出撃し、さまざまな外部と触れ合って成長していく。 ガンダムの最終回では、それまでアムロ少年の心の拠り所であったガンダムが朽ち果て、それでも家族(ホワイトベースの乗組員)のもとに帰っていく姿が描かれる。「乗り越えるべき社会性」として振る舞う兄、シャアが、自身の社会的使命(ザビ家の排除)を果たして去っていくことを思えば、見事な大円団といえよう。 さてそんな「成長の物語」である『機動戦士ガンダム』を、エヴァンゲリオンは強く意識しつつ始まる。 ※<1話~4話>(DVD1枚目) いきなり疲れている。 10年前のアニメって画面がえらく稚拙なんだよな。 で、内容である。 アムロが17歳という設定であるのに対し、エヴァの主人公碇シンジは14歳である。低年齢化は時代の流れか。共通点をあげるとすれば、どちらの主人公も「実父が作成した巨大ロボットに、本人が望まないまま」、パイロットとして乗り込むことになる。 アムロ、シンジ両名とも自身の「社会的役割」に反発し、心身共に不安定になる点も同じ。「こんな役割はもうまっぴらだ」という意味のセリフは両主人公が両作品の初期にそれぞれ口にするが、シンジ君は葛城ミサト一尉に、アムロはセイラさんにビンタを喰らうのも象徴的だ。(ガンダムではアムロの代わりにカイが引っぱたかれるわけだが、この違いはあまり重要ではない。作中カイは常にアムロの影として描かれる) 両作品で大きく違うのは、「父性」の有無である。 少なくとも1~4話までには、エヴァに「父的存在」は出てこない。 父性とはすなわち「社会的存在」である。「少年」の成長に欠かせない、社会性を体現する者。 時に厳しく、特に暖かく、少年は社会に出るさいに社会との距離を測る基準となる者。ガンダムでは「軍人としてのブライト」であったわけだが、それがエヴァには存在しない。 主人公の実父である碇司令は単なるロリコンの異常科学者(マッドサイエンティスト)である。社会性を体現するとはとてもいえない。 見始めて初めて気がついたが、作中に「父性」が存在しないと、カタルシスがない。全編見た知り合いによると「エヴァには徹頭徹尾、カタルシスはない」と言っていたが、おそらくすれはこの父性の不在が大きく関わっているのだろうな、と思う。 4話までで主人公は2体の「使徒」(敵役ね)を倒すが、そこに「正義が実践された」というカタルシスはなかった。「とりあえず危機は去った」という安堵感が残るだけである。 人は何に触れたとき、正義を感じるのか。 おそらくそれは父性、すなわち社会性と強くリンクしているのだ。 探しものはまだ見つかっていない。 続きは後日。「使徒」の目的も存在意義も、まだ作中では語られていない。 主人公たちは「生き残るために」戦っている。 使徒はなんのために人類を攻撃しているのだろうか。
2006/05/03
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