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平成16年4月~平成18年3月 私は広島広域公園テニスコートの体育主事として勤務する。山を削った土地のハードコートのテニスコートでは地盤がしっかりしているため、クラック(傷)の発生率は低かった。盛り土の土地は地盤が弱く、クラックの箇所に同じ材質の材料を埋め込み、職員が部分補修を行っていた。しかし、テニスボールがクラックの補修箇所に当たるとイレギュラーでバウンド方向が狂うと利用者からクレームがあった。そのため、1面全体を業者に修繕をしてもらったが、3か月後にまたクラックが発生し、修繕を繰り返し維持管理費が高額になっていた。盛り土の場所は維持管理が困難であった。ハードコートのテニスコートを設置する場所は、盛り土ではなく岩盤の強い土地にすべきである。 降雪時には山奥にあるためか雪深く、雪の撤去作業に時間をかなり要した。利用者を待たしていたため1日中雪かきをしたこともある。土木作業的な仕事での疲労が原因で銀行への使用料納付を失念していたこともあり、始末書を作成したこともある。豪雪地域にテニスコートを設置することは雪かき作業にかなり時間を要し、稼働率が低くなるためお勧めしない。また、平地と違って山奥の環境なので、利用者から降雪の電話確認が度々あった。屋内コート4面含めてコートは20面あるが、大会を開催するには会場が1か所で済むので、大会主催者は楽だったと思う。ただ、過去の資料に記載されていたが、テニスコート経営者から利用者が激減し廃業に追い込まれるとクレームがあったようだ。実際に安佐南区にある東野小学校が新設される前は、テニスコートがあり、広域公園テニスコートが新設され、使用料が民間企業より格安であったために廃業に追い込まれたと感じる。他の同業者も廃業に追い込まれたはずである。 民間企業と競合する施設を設立する場合は、税金で設置したものなので民間企業にどのような悪影響があるか事前調査が必要である。民間企業側に納得いく事前説明会があったのかどうか疑問ではある。 高齢者のテニスサークルがあったが、ある高齢女性は夫に対して「夫は良い人を演じているが、家に帰れば違うのだ。年金、年金と思って我慢してる。」と生の声を聞いていた。当時未婚の私は結婚が幸せとは限らないし、夫婦仲の良い人は案外少ないかもしれないと思い始めた。 トレーニング指導士の資格取得のための講習会に参加する。東京の国立競技場が会場であり近隣に明治神宮があったため、広島市スポーツ協会職員の該当する職員分含めて合格祈願をして講習会に臨んだ。晴天であり結婚式が行われていたため幸運だった。お陰様で皆無事に合格した。 嘱託指導員から私が不合格になるのではないかと噂になっていたようで、意地悪な嘱託指導員に嫌気がさしていた。 先代の出雲大社広島分祠長にも相談したことがあるが、体育主事2人に対して嘱託指導員5人くらいの管理者であったが、嘱託指導員1人だけは褒めていたが残りの嘱託指導員は意地悪であると教えてくれた。褒めていた嘱託指導員の1人は地味であったが私も信頼していた。複数の嘱託指導員の人間関係が悪く、休み希望が多いため勤務割の作成に大変苦慮し、所長に相談したことがある。平成18年度は広島広域公園の陸上競技場を管理するように所長から指示があったため、平成18年1月から広島広域公園の陸上競技場の施設管理の研修を始めた。
2025.05.31
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平成12年4月~平成16年3月 私は安佐北区スポーツセンターの体育主事として勤務する。館長と主任(市から派遣された公務員)は仕事熱心だった。私の仕事のレベルの低さから、館長は他の体育主事へ私に仕事を教えるように指導した。先輩の体育主事は後輩を育てるという認識が無かったためと思われる。隣の席の先輩は少し教えてくれたが長続きせず、教える気がないことが分かり独学が始まった。私は退職までどの職場でも正規職員の中で1番年下であった。私の後の採用試験はあまり行われていなく、私が退職するまで採用試験があったとしても3人の女性が体育主事になっただけだった。休憩中に食事をしながらテレビの国会中継をよく視聴していると、同僚から政治家になれば?と言われたことがある。私が政治家になったら暗殺されると思った。 体育主事でありながらも教員採用試験を受け続けたが、やはりコネがないため2次試験までいっても不合格だった。(女性2人程度の枠に100人を超える受験者数)父は広島市議会議員に声を掛けて、採用してもらえる様に頼んでみようかと言ってくれたが、私は採用されるために父が嫌な広島市議会議員の選挙活動の応援等に協力させるぐらいなら、この広島市スポーツ協会の職員で良いと思った。過去に安佐南区の広島市議会議員が呼んでもないのに実家を訪問されたことがあったが、その人物が広島市議会議員と知らず対応したことがあった。「わしの顔を知らないのか!」と激怒されたが、私は気分を害し不愉快になった経験があったからでもある。 教員採用試験の2次試験の面接官(校長か教頭)から、30歳になっても不合格になっているのは人格に問題があるのではないかと言われた。初対面の私に人格否定する管理職の教育者に疑問を持った。その生徒が気の毒に思った。あなたこそコネで採用されたのかと逆質問したかったが耐えた。これを機に学校教育の道は諦め、社会教育に力を注ぐ決意をする。 この頃先代の出雲大社広島分祠長(神の声が降りる神主として有名で、全国の出雲大社で神の声が降りるのは先代の広島分祠長のみとの噂があった。東京分祠にも出張相談に行き、島根県の経営者がよく相談に訪れていた。岸田元総理大臣も過去に電話相談していたようだ。お偲びの会と一回忌は岸田元総理大臣の弔電が入っていた。私は約25年前から毎月パワハラ被害相談等に伺っていた。先代の分祠長は「わしが言う言葉は神が言っていると思って聞いてくれ」と言っていた)から、スポーツセンターの職員としてやっと使える戦力になったと言われた。 研修会が定期的に行われていたが、今までは年功序列で若手の私が研修に参加する機会はないと諦めていた。しかし、ある時から事務局の管理職の判断であるが、論文の選考によって研修に参加できるようなり、私は青森県へ出張して研修会に参加できるようになった。当時の館長が何故かと疑問に思い事務局に問い合わせ、私の論文を読んだと教えてくれた。館長は今まで私の評価は良くなかったと思われるが、館長からお褒めの言葉を頂き、また私の才能を知らなかったと謝罪された。 水泳教室の講師は個人事業主ばかりだが、講師が体調不良になった場合、講師同士で連携を取りお互いにフォローし合うよう対策を講じていたので安心していた。水泳教室の講師は指導の報酬が中抜きされずに、すべて収入として確保できるので、長期に渡り水泳の講師を勤めてくれた。私の子どもの水慣れ体験指導では笑顔を引き出すことを考えていた。アンケートには文字だけでなく絵も描いてくれたのが嬉しかった。 トレーニング室での指導は利用者との交流が深まる場で楽しかった。親切な利用者に恵まれ、紅葉の穴場スポットの紹介など良い情報を提供してくれていた。パソコンの技術的なアドバイスも受けていたので助かっていた。プロ的な写真家の利用者は素晴らしい写真を見せてくれていた。高齢者の利用者が多いためかトレーニングより会話の方が長く、信頼関係が深まった。 トレーニングの指導は私はダンスを得意としていたため、社交ダンスを習っている利用者と鏡の前で姿勢の確認から始め、ダンスに必要な筋肉トレーニングを指導できた。大学の授業では女性はダンスが必修科目であったことから、世界中のダンスを学び、ダンスを通じて世界文化に興味を持った。いろんな民族舞踊を体験したが、ヒップホップも習いながら、言葉で表現が難しい感情を踊りで表現できるフラメンコに夢中になった。約10年学んだが、職場のストレス発散になっていたこともあり、講師は職場が上手くいっていないのだねと私の踊りで感じたようである。それから私は神様に捧げるつもりで巫女のように踊るようになった。 残念ながらこの先のスポーツセンターは指定管理者制度の導入によりトレーニング室の指導業務がなくなり、施設管理業務だけになり生きがいを失った。売店業務があるため、食品衛生責任者資格を取得する。
2025.05.31
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平成10年4月~平成12年3月 私は中区スポーツセンターの体育主事として勤務する。 初めて体育主事になったので、先輩の体育主事に基礎からていねいに業務の指導をしてもらった。新人の私を育てるために、良き人事(体育主事と嘱託指導員)をしてくれた事務局長(元舟入高校教員)に感謝している。南区スポーツセンターより利用者の多いこの施設は館内放送を度々掛ける必要があったことから、しばらく戸惑った。ここでも館長(市から派遣された公務員)が勤務中に嘱託指導員(女性)といっしょに打ちっぱなしゴルフに出かけることがあった。さすがに体育主事はこの館長の行動に疑問を持っていた。 広島市議会議員が土日の大会のあいさつに来館すること頻繁にあった(これは他のスポーツセンターでも同様)が、挨拶したら試合を見ずに、呼んでもないのに勝手に事務室に入ってくる広島市議会議員にあまりいい印象はなかった。多くの選手の前に顔と名を売るための行為だと思った。次期選挙のための対策かもしれない。ある広島市議会議員は僕らがこのスポーツセンターを設置するようにしたのだと権力を振りかざすような発言もあった。わしの言う事を聞けというニュアンスもあった。また、ある町内会長に館報やちらしを町内会で回覧してもらうために町内会長宅に赴いたが、町内会長はいつも不機嫌であまり尊敬できる人物ではなかった。会長になる人は名誉欲の野心家で、自分の仕事に好影響があるから会長になる人もいることが分かった。名誉欲の野心家は愛情がないと聞いたことがある。エアロビクス教室の講師を派遣する社長と講師にトラブルがあった。講師はその会社からの給料は広島市スポーツ協会が支払いする報酬の40%しかもらえないので、退職し独立したとのことだった。会社としては広報に力を注ぎ集客に投資したのに、顧客を奪われたのでトラブルになったことが伺われた。講師が体調不良で教室の指導が出来なくなった場合、会社であれば代替の講師を派遣してくれたので安心はできた。しかし、講師は長続きせず、講師はコロコロ変わっていた。ふれあい広場という高齢者の健康づくりのための指導も定期的に行われていた。事務局の管理職が現場の視察に来られたこともあったので緊張した。
2025.05.30
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平成8年4月~平成10年3月 私は南区スポーツセンターの嘱託指導員として勤務する。大学の同級生は同じ南区スポーツセンターの体育主事として勤務する。コネを使って体育主事になったと教えてくれた。同級生の仕事ぶりは不評であり、聞くに忍びなかった。本当は私が1番で体育主事になっていたはずなのにと、大学の同級生だけに非常に辛かった。同級生には頑張って欲しくて声掛けをしていた。同級生は私が嫌っていると思っていたようであるが、嫌いだったら声を掛けるはずがない。事務局長(元舟入高校教員)は広島市スポーツ協会より教員の道を目指しなさいと言い、教員採用試験勉強のできる利用者の少ない南区スポーツセンターに配属したと教えてくれた。 主任は広島市から派遣された公務員だったが、私の斜め前の席でおしゃべりばかりして集中できず困っていた。事務室からトレーニング室に移動しても、主任は付いてきておしゃべりを続ける。事務室に帰ればまた主任が付いてきておしゃべりが続く。 また、利用者が少ない施設のため、残業をすることはあまりない環境にあったが、主任は体育主事に残業代を付けたいから、残業していなくても時間外カードに記入してもいいと言っていた。さすがに体育主事は主任がおかしいと感じていた。 父(県の公務員)にこのことを告げると、財団法人に派遣されるの館長、主任は公務員の掃き溜めになっている傾向があると教えてくれた。これを聞いてかなり落胆し、やはり広島市スポーツ協会ではなく教員の道を目指すことにした。(昔は確かに広島市の公務員で派遣される人で尊敬できる人は少なかったが、時代が変わり広島市スポーツ協会に派遣される良識のある公務員が次第に増えたので救われた。) 毎週日曜日は競馬の時間になれば勤務時間中であっても事務室から休憩場所へ移動し、テレビ観戦している職員が複数いた。私だけ事務室に取り残されたことも度々あり、教員時代と比べると何とも表現し難い。 後に私が嘱託指導員の試験を受けていないのになぜ嘱託指導員でいるのかと館長(元舟入高校の教員)が知り、納得がいかず館長室から1週間出てこなくなった。 常務が館長に説明のため来館し、常務と館長からいっしょにカラオケに行くように誘われカラオケに行った。常務から演歌は歌わないのかと言われたが、20代の私はまだ人生経験が浅く詩を味あうにはまだ早すぎるので、人生を深堀りするまで経験を積んでから演歌を歌うつもりだと回答した。常務と館長は僕たちもまだその域に達していないのにと感動されていた。 常務からまずは嘱託指導員の試験を受験するように言われた。2年後に体育主事の試験をするので、転職せずに待っていて欲しいと言われた。館長は「あなたは利用者の指導で活躍するのが目に浮かぶ」と言ってくれたのが嬉しい思い出である。その後体育主事の試験を受け合格した。この職場のある体育主事から「私は噛めば噛むほど味が出るガムみたいだ」と言われたことも嬉しい記憶で残っている。
2025.05.30
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平成8年1月~2月 高取北中学校の病休の代替えとして保健体育の常勤講師を勤める。養護学級の副担任で体育の授業も行なった。障害児の生徒はグラウンドのトラックの線のとおりに走らずジグザグ走りだったり、校外でのマラソンでは急発進と突然止まるを繰り返し、交通事故にならないか心配しながら追いかけ、授業後はぐったりしていた。ストレッチ体操も見て学ぶことが出来ず、生徒の手と足を動かして同じポーズになるようにするのにかなり手間がかかった。普通学級の体育の授業はバスケットボールだったが、生徒のパス回しでそのクラスにいじめがあるのかどうかが分かった。パス回しが偏っていたりするからだ。集団競技であればクラスの人間関係が分かった。中学校3年生の受験のシーズンで忙しい時期から始まった。ここでも他の教員から1番忙しい時期に赴任したと言われていた。職員会議が度々開かれ、短期集中で高校より激務だったため職員室で倒れ保健室に運ばれたことがある。試験監督が出来なかったので生徒が心配して保健室に来てくれた。その生徒は掃除をしながら悩み相談に応じていたからである。 その生徒は両親から体育の教員はバカだから相手にするなと言われたと教えてくれた。かなりショックだったが、すべての体育の教員がバカとは言えないので自分の目で判断するように助言した。数学の教員を目指した方が良かったと後悔する。(小学生の時から教員の道を目指していたが、中学校3年生の担任が数学の教員で、偶然にもこの高取北中学校の職員室の机の隣の席だった。中学校3年生の時にこの教員から体育の教員より数学の教員を目指しなさいと言われていた。女性の体育の教員は数学より体育の教員を目指すことを勧めていたので、どちらの道を選択するか迷っていた) 陸上部の顧問となり駅伝シーズンのため病休の教員の入院先に出向き、駅伝のメンバーの選択と順位の相談に伺った。駅伝大会では、参加する生徒がとても心理的に不安定な状態にあったが、私は大丈夫だからと言うしかなかった。宮島の駅伝大会では帰りに厳島神社に生徒を引き連れて参拝したことが良き思い出である。本来クラブ活動の引率では寄り道をしてはいけなかったが、神社に参拝して神様に生徒を守ってもらうためなら許可されるだろうと思った。教員が退院したので、自宅に出向き成績表の付け方の相談に伺った。この時に小さなお子様がいるのを見ていた。教員の旦那さんが広島市スポーツ協会の職員であることを教えてくれた。(後に安佐北区スポーツセンターの館長であり、私は同じ職場で主任として勤めた。)
2025.05.29
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平成7年9月~平成7年12月 舟入高校で病休の代替えとして保健体育の常勤講師を勤める。いきなり体育祭という忙しい時期から始まった。他の体育の教員から一番大変な時期に赴任して大変だねと言われていた。約500人の傘を使った創作ダンスをまとめた。その傘を提案してくれたのは当時広島市スポーツ協会の東雲屋内プールの主任(広島市から派遣された公務員で元舟入高校の教員)で舟入高校の体育教官室に頻繁に出入りし、傘の補修を行ってくれていた。複数の体育の教員から様々な指導的なアドバイスを頂き、また指導研修会にも参加させて頂き大変勉強になった。体育の授業ではある生徒が砂いじりばかりして、問いかけても反応がない状態が続いたので保健室の先生に相談したが、その生徒の両親が離婚したとのことだった。その生徒は心を病み、授業を受ける気になれないのが分かり救いようがなかった。夫婦仲が良いことが子どもにとって安定した教育基盤であることに気付く。 体育の教員は校門で風紀検査することを任されていたが、まだ生徒との信頼関係が出来ていないのにルーズソックス、ピアスの有無の確認で該当する生徒に声を掛けるのが一番のストレスだった。私の出身校の高校は校則があっても教員は指摘することがなかった。マフラーの着用は禁止であったが、生徒のマフラーが落ちたと先生が追いかけて渡してくれたこともある。一応校門指導はあったが、あまり注意はしていなかったと思う。制服のミニスカートが流行り、大きなリボンを髪飾りに使用しても先生は注意をすることはなかった。風紀検査が厳しくなくても学校は荒れることなく平和的な高校時代を過ごしたので、このギャップに苦しんだ。 体育の授業はなわとびだった。手作りでなわとびを作成していたのは私の母校と同じ要領だったのでスムーズだった。技もほぼ同じなので取り込むのは容易だった。舟入高校体操も指導した記憶もわずかながら残っている。私の母校の高校体操も授業で行っていたので取り組むのはスムーズであった。バレーボール部の顧問を引き継いだが、広大のバレー部の先輩が顧問でいたのでとても安心できた。母方の祖母は一女(舟入高校の前の呼び名)の出身校だったので、常勤講師ではあるがとても喜んでくれた。 母が常勤講師では将来の補償がないとのことで、市民と市政に掲載されていた広島市スポーツ協会の採用試験を勧め私は受験した。結果は補欠合格で有効期限が記載されていた。広島市スポーツ協会事務局から連絡があり、体育主事ではないが嘱託指導員なら採用できると話があり了承した。 掃除の時間では生徒の悩み相談に応じていた。私は当時23歳と若く、生徒は18歳であることから年が近いだけにお姉さん的存在で共感する部分が多かったと思われる。任期を終える時にはとても寂しい思いがした。生徒も寂しがった。病休の教員は定年退職3か月前に心臓の手術をして胸にペースメーカーを入れたと聞いた。生徒には復帰される教員に精神的プレッシャーを与えないように暖かく迎え入れるよう助言し、その教員の机に花束を贈呈して去った。 病休の教員が復帰した際、当時の広島市スポーツ協会の事務局長(元舟入高校教員)と知り合いで、私の実際の成績を聞いてくれた。本当は1番だったが4番にされたとのことだった。体育主事として採用されるはずが権力者からのコネがないため、1年契約の給料の安い嘱託指導員にされたことが分かった。ここでも広島市スポーツ協会も採用試験は公募をしても実態は出来レースだと感じ、正直者はバカを見た。
2025.05.29
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~平成7年3月大学の在学中は家庭教師(小学生、中学生)をして生活費に企てていた。私は大学を卒業したが、昭和47年生まれのベビーブームの超氷河期で、特に女性はどの業界もコネしか採用の道が無かった。保健体育の教員採用試験は1次試験は合格しても2次試験はコネがなく不合格だった(当時は女性2人程度の枠に100人を超える受験者数) 平成7年4月~ 広島市教育委員会に保健体育の常勤講師を希望しつつ、高校の同級生から家庭教師を引き継いでほしいと依頼があり、知的障碍者である双子の家政科の高校生の家庭教師を始める。 私の高校の同級生が引っ越すのでこの高校生の家庭教師を託されたのが発端である。私は知的障害と知らず高校1年生なので数Ⅰを教えるつもりで臨んだ。しかし、高校レベルでないことが分かり、どこまでレベルを下げたらいいのだろうと試行錯誤を繰り返しながら、行きついた先は繰り上げの足し算レベルだった。 算数だけでなく他の教科も同じレベルだと気付き、私では手に負えないと自信を失い、高校の家庭教師を頼まれた同級生に電話をした。同級生もきっと電話があると思っていたようで、誰にでも託すことは出来ないレベルなので助言が必要とは感じていたようである。彼女も相当苦しんだようで、保護者が中学校でも養護学級ではなく普通学級にこだわっていたため授業について行けず困っていたそうである。 遠くの高校に通っていたため、当時は定期券がなかったのか通学のバスと電車の使用では、引き算が出来ないためお釣りの要らないように料金を用意していたようである。試験では毎回赤点で宿題を提出しないと進級できない事態になっていた。それでも彼女たちは呑気に「木村拓哉と結婚する!」と言っていたが、お母様と私で宿題を仕上げるのが精一杯であった。その宿題はテストの回答欄の空白を埋めることと間違いを訂正するものであったが、問に対する回答欄がどこか分からない程重症だった。 お母様も働きながらよく頑張られていたと思う。彼女たちは「先生、夕焼けが綺麗よ。見て!」と窓際まで誘ってくれていっしょに夕焼けを眺めたが、純粋な彼女たちに高校卒業まで付き添うことにした。それは父親が知的障碍者と認めたくなく、養護学級ではなく家政科に進学させたようであったが、母親は父親が相談もなく自動車を購入したと嘆いていた。夫婦仲が悪く、お母様は将来この子達と3人で過ごすと言われていたことが原因で放置できないと思ったからである。私はお母様の心の支えになっていたので、誰にでも託せない複雑な家庭環境もあるため、中学校と高校の常勤講師と南区スポーツセンターの嘱託指導員時代まで付き合うことにした。 高校の教員から卒業後の進路について学校では紹介できないから、家庭で進路を検討して欲しいとのことだった。介護福祉専門学校に入学することになったが、私は彼女達がむしろ介護が必要なレベルなのに大丈夫か心配になっていた。公文で大学レベルの数学の勉強をしていたこともあり、数学の塾の講師も勤める。高校受験の中学校3年生に因数分解等を教えていたが、生徒の反応が分かったのかどうかイマイチだったので、体育であれば出来たかどうか一目瞭然で分かること、保健であれば健康に繋がる大切な教義と思い、保健体育の教員の道を選んだ。(母方の祖祖母が薬局を営んでいたこともあり、隔世遺伝かもしれないが、小学生の時から畑で薬草を育てたいという夢があった) 小学校の時は体育の授業ではトップの男子と競っていた。体育だけは誰にも負けたくなかった。中学校1年生から体育の授業は男女が分かれたため、ライバルのいない授業に面白味がなかった。中学校2年生になった時、男子は筋肉が付き私は丸みを帯びてきたので、私は男子に勝てないと悟った。 体育と健康に興味のある私は保健体育の道を進むが、体育が軍隊的な組織であると気付いたのは中学校に進学してからだった。中学校のバレーボール部では、先輩に挨拶をするにも見下ろしてはいけないから階段を降りて挨拶をしなければならず、毎回練習後に先輩から後輩に厳しい指導がありいつも誰かが泣いていた。高校のバレーボール部は民主的な組織で、先輩も後輩も平等で意見を自由に交わすことが出来た。大学のバレーボール部はまた軍隊的な組織であり、4年生は神様扱いであり1年生は兵隊扱いで4年生の先輩にマッサージをしていた。また、練習後は先輩から後輩に厳しい指導があり、いつも誰かが泣いていた。軍隊的な保健体育の道を選んでいなかったら平和的な社会で過ごせたのかもしれない。 保健体育の教員採用試験で高校の同級生は2次試験の面接官に、あなたは合格させるからと言われ、彼女はコネがあったと教えてくれた。私も2次試験に臨んだが不採用であった。教員採用試験は公募をしても実態は出来レースだと感じていた。私の高校の保健体育の教員から、ひろしま国体の時期であり定年退職組が少ないから採用試験はかなり厳しいとは聞いていたが、実態を知って愕然とする。
2025.05.28
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精神病院を退院して障害年金を申請し、障害等級が2級で更新が3年後でした。しかし、半年後の2024年度になり支給停止の通知が来て、障害等級が3級となり更新も短く2年後に変更されてしまいました。何故なのだろうか?と思っていたのですが、ユーチューブで支給停止になった人が前年度の2倍以上に増えていたと知りました。私も同じ被害に遭ったのです。私は母に学びながら農業をしていますが、収入はあまりありません。なのに厚生年金3級は月5万円余りしかなく困ります。母とは意見が食い違い、母と私は別々に作業をすることにしました。苗の購入と出荷は携わっていますが、労働は別行動にすることにしました。しかし、障碍者いじめですね。。。医師が判断する前に、年金事務所職員が審査するようになったと聞きましたが、コントロールしているとしか思えません。この情報は内部告発だと思われますが、真実より強いものはありません。障碍者は生活苦なのに、それを分かって支給停止にするなんて障碍者いじめもひどすぎます。徹底的に追及して欲しいです。そろそろ私たちの障害年金も更新なのですが、生活苦なので深刻です。
2025.05.26
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農協に出荷していますが、生産者にとっての疑問点を挙げてみます。・無農薬の記載は不可・有機肥料の記載は不可・健康に良い等の記述も不可・マージンは販売価格から18%も取られる・売れ残りは処分されるので損である・作付けの記録(種や苗の植えた日付、肥料の日付の記録の義務)・加工品の場合はマージンが23%も取られるし、保健所の事前確認が必要生産者にとって、上記の内容はとても苦しいものがあります。保健所に行きましたが、無農薬、有機肥料と記載できない理由は、近隣の農家が農薬を散布した場合、飛散して農薬がかかる可能性があるため、無農薬と記載できないとのことでした。日々、口にする食材なので、農薬を使った野菜は体を害するだけで病気になると思うと納得は行きません。儲かるのは医者と薬局だけです。いくら健康体操をしようとも、農薬を使った野菜を毎日口にしていると、ガンになってもおかしくないでしょう。料理店、加工品は無農薬、化学肥料無使用かどうか分かりませんので、自分で手料理する方が一番安全だと思います。ただ共働き夫婦は出来合いのおかずを購入することが多いでしょうが、本当に安全な食品なのか疑問です。外国産の材料は農薬が多く使われているか分かりませんし。やはり共働き夫婦ではなく、昔ながらの一馬力で奥様が家庭を守り、奥様が手料理で家族の健康を守るのがトータル的に好ましいと思います。女性のキャリアを捨てるのではなく、子育てが終わった時に管理職になるべきだと東洋医学の講師に教えてもらいました。子育ての方が仕事よりも大変なので、その経験を活かして管理職になるのもいいと思います。話は戻りますが、農業を営めるのは殆どが年金暮らしの高齢者になっているのも頷けます。現役世代は農業では生活が出来ないのが現実だと思います。米騒動が話題になっていますが、コメの価格は高騰していると言われますが、生産者の立場で考えると作付けに長期間の時間が掛かり、重労働でもあるのでこの価格でいいと思います。若者は農協に出荷するのを避けている気がします。直接消費者にマージンを取られずに収入にしているのも納得がいきます。消費者も安心できる生産者から購入したいはずですし。消費者が知りたい無農薬、有機肥料の記載が自由にできるから安心ですよね。今まで農協は生産者を奴隷扱いしてきたのでしょうが、時代は変わり、袋も100均で購入でき、販売ルートもネット通販ができる環境が整っているので、若手は農協に出荷しないと思います。農協も考え方を改めないと、若手は出荷するのを辞めるでしょう。
2025.05.20
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東京大学大学院特任教授の鈴木宣弘さんの「ごはん会議」の講義に参加してきました。主催者はれいわ新選組の政党でした。この教授も農業を営まれているようですが、農水省と昔から関りがあるため、真実の情報を提供してくれました。テレビと新聞は革新をつく部分はなかなか報道しないものですから、真実の情報を伝えてくれる人を探しています。自民党が過去に行った政策の失敗だと思いますが、減反政策をした結果、農家は廃業に追い込まれたため、自給率が30%代とかなり低く、世界が食料を輸出してくれないと餓死する人が出てくると思います。なぜ自給率がここまで低くなったのか。。。それは輸出産業の自動車部門が強く、アメリカとの駆け引きで、農業にかける予算を激減させ、海外の農産品の輸入を増やしたためです。畜産も海外産の物を輸入していますので、国内の畜産、農業も衰退の一途で、それに携わる労働者は減るばかり。。。日本とアメリカとのやり取りで、食料より自動車を優先した結果、食料危機になる事態になってしまいました。政治に無関心でいると、食料が手に入らない事態になりつつあります。国民も流石にコメ不足の現実を知り、なぜこんな事態になったのかを調べる必要があります。NHKのテレビ討論を見ましたが、重要な情報が流れていなかったように思います。自動車産業を有利にさせた結果、食糧自給率が30%代に落ちぶれていきました。今はアメリカのトランプ大統領が高額の関税をかけてきましたので、今まで恩恵を受けていた自動車産業を始め大手のメーカーが衰退し始めました。国民に知られないところで恩恵を受けてきた大企業をトランプ大統領が懲らしめている気がします。無能な行政と政治家にうんざりした国民から動き始めたようです。女性は学校給食の食材の確保のために、放作地を利用して地域の主婦で農業を始め、その作物を給食センターに頼らずに地域で自給自足を始めた自治体もあるそうです。国は国民を守るつもりはなく、税金を取ることばかり考えている気がします。気付いた国民から、自給自足のできる家庭菜園を始めています。ロシア危機ではロシア人はダーチャという家庭菜園をしていたために、食糧危機は間逃れたようです。日本の戦後は配給制でコメが配られましたが、不足分は闇市を使っていました。富裕層は貴金属や美術品を持って田舎の農家に食料と交換をしていたのです。どんなに富があっても、食糧がなければ生きていけません。食料の奪い合いになるのは目に見えています。1次産業である農業、漁業を営む労働者を下級国民扱いしてきたツケが今起きています。昔の農家さんの話ですが、小さな子供を連れた母親が「勉強をしなければあの農家さんのようになる」と言っていたのを聞いた農家さんはかなり怒っていました。こんな母親に育てられた子どもは財務省官僚になって天下り先を作るのでしょうね。学校教育で農業を体験し、出来れば3世代で家庭菜園ができるような講義がもっとあっても良いと思います。外国からの圧力をかけられないためには、自給自足で海外に頼らずとも暮らせる日本にするべきだと思います。第一次産業に力を注ぎ、自給自足100%に近づけると国力が上がり、海外の圧力に屈することはないはずなのです。未だに戦後の日本は敗戦国で植民地扱いなので、アメリカの言いなりにならないと左遷されるか、暗殺される歴史があります。国民のために農政の大臣をしていた人は、嵌められてその地位を追われました。権力者は自分の意に反することをする政治家と官僚に圧力をかけて、富を独占していたのです。失われた30年の日本ですが、自民党の失策で国民は不幸になっています。私は超氷河期世代の就職難でしたが、今度は高齢者になった時の年金の受給が減ると思っています。悲劇な世代だと思いますが、この超氷河期世代が声を挙げて行かないと、私達の老後は心配でなりません。そのためには富を独占している富裕層を無くすことです。最低賃金があるのだから最高賃金を定め、昔のように一億中流社会に戻すべきです。そうすれば子育て中の共働き夫婦は激減し、子どもは母親からたっぷり愛情を貰えます。2025年は今までの膿が出る年だと知りました。女子アナの性接待から始まりましたが、私も指定管理者制度の闇を暴露している最中です。広島市と広島市議会議員に意見投稿をして約10日経ちました。未だに返答はないのですが、そう簡単なものではないと思われます。私の意見は、教育、建築、政治、経済、建物の維持管理と多岐に渡るものです。150ページの意見になりましたので、小説になるのではないかと思ったほどです。
2025.05.18
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2025年5月になりました。一白水星の獅子座の私はとても強運の月のようです。人脈づくりに積極的に動きたいと思います。今までの人間関係運の悪い状況から抜け出し、私と波動の合う仲間が増えそうです。林業を学ぶ講師も受講生も素晴らしい人ばかりで幸運でした。広島市植物公園で出逢ったボタニカルアートの主催団体と講師も素敵な方でした。私はこのサークルに入って、自分で作った農作物をデッサンし、色鉛筆で色付けをしていきたいと思っています。昨日、占い師にタロット相談に伺ったのですが、出雲大社広島分祠での健康体操、あさみなみ大学のスタッフ入りはどちらも「スター」で星でしたので、占い師は感動していました。私も同感ですが、これも神様が霊導してくれたものと感じています。1年後に児童館で体育、音楽、美術、算数を指導したいと話しましたが、とても喜ばれました。ピアノを作曲と演奏をしてくださいと言われましたが、そのうちボチボチと。。。児童館の子どもに演奏を披露し、子どもにも自由に演奏をさせてあげたい思いがあります。子どもに癒しのエネルギーを注げれたらいいですね。児童館に関わるとしても正規職員ではなく、パートです。農業と大工見習との兼業になるので、無理のない週2回の1回4時間勤務がいいかなと思っています。
2025.05.14
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精神病院を退院して2年が過ぎました。新築に住み始めて約8カ月弱が経ちました。広島市議会議員の詐欺被害の報告書等の作成に約3か月費やしましたが、その労務が無くなり、農業と家事に時間を掛けることができるようになりました。広島市議会議員の詐欺被害報告書の仕上げ直前に帯状疱疹になりましたが、詐欺被害のストレスの影響かもしれません。それか最近帯状疱疹になる人も増えているとか。。。コロナワクチンの薬害なのか免疫力が下がっている影響もあると思います。私は精神病院に入院していたので、障碍者は健常者より接種回数が多かったのです。高齢者も同じように多かったのですが、労働力にならない人は邪魔な存在だったのかと疑念を感じています。コロナワクチンの被害はこれから明るみになってくるでしょう。今年は農業を本気になって種まきから収穫まで自分の思うように実験と思って作付けを行ってきます。母は農協から学んだ慣行農業、私は独自で学んだ自然農業でどう違うのか実験したいと思っています。私の自然農業は農薬、肥料の不要なものなのですが、本当にこれで害虫が寄り付かないのか実験です。世界一の農業を目指している人の講習会に参加して驚きましたが、これも神様が導いてくれたのかもしれません。まだ実験段階なので何とも言えませんが。。。後はユーチューブを見て勉強中です。もし自然農法で商品価値があるのなら、無肥料、無農薬で、健康に良い作物ができるのならこれ以上ないですね。支出の経費もかなり減りますので、農家が手取りが増えるので若手が農業を営める環境になれるといいですね。私の自然農業の特徴ですが、・エレクトロカルチャー 大気のエネルギーを地中に流し土力を活性化させるのですが、鉄より銅の方が土と相性が良いそうです。農業の道具は少しだけですが、銅製のスコップ、クワ、鋤、草削り、ジョロを揃えました。銅線を木の棒に巻き付けて土に差し込みました。・月の暦の農作業 新月(5日前から)に苗を植え付ける。 満月(5日前から)に種を撒く。 薬草は月のさそり座の日に収穫する。 葉物、果実、花、根物の吉日はそれぞれ違うので、できればこの吉日を選んで収穫する。・農地を聖地に近づけイヤシロチを目指す 出雲大社広島分祠長が教えてくれましたが、イヤシロチのン農作物は成長が早くて大きいそうです。 私はガヤトリーマントラを唱えながら農業をしていますが、聖地に近づけたい思いがあります。・無肥料、無農薬を目指す 健康に良い作物にするために、毒の農薬は使わない農法を目指しています。病気になるだけですから。 肥料も不要という講師の助言どおりに実験しています。・生産者である私がモラルの高い人格者になること 作付けする人と作物は共鳴するようで、人柄の良い人物になれるように日々邁進します。・家庭菜園、地産地消を目指す 自給自足の生活を目指していますので、畑の野菜で料理をし、産直市場に出荷することで地域住民の健康を守りたいです。 私は健康体操の指導者でもありますが、体操より食事の毒を摂らない生活し目指して欲しいと願っています。林業を学ぶ講座で出逢った受講生も農業に興味があるようで、メール交換しました。良い出逢いに感謝です。
2025.05.14
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旧姓が樹木に関する苗字であること、大学の研究室が自然観察を専門とする教授だったため、復活の意味もあり女性のための森林づくり入門体験に参加しました。林業と言えば男性の仕事を思っていたのですが、女性対象のため安心して参加できました。山の手入れが出来ていない現実を知りました。自然に親しむ環境を整え、子どもの時からの教育が必要と思いました。山の手入れに困っていた参加者もいましたが、深刻そうでした。私は山は保有していないのでいいのですが、先祖から引き継いだ山を放置していると、里山に住んでいる住人から小川の水はけが悪く溢れるとクレームを言われるそうなのです。樹齢300年のクスノキの伐採を業者に依頼しているそうですが、音沙汰もなく放置されているからかお困りの様でした。私の新築でお世話になった現場監督の業者とそのお困りの参加者は、偶然にも近所でしたのでご紹介しました。とても喜ばれていました。山の所有者は悩み深いですね。重労働が必要な山の作業は広範囲であり、他の協力者がいないと無理があると思います。行政や民間企業の協力を得て、山を守って頂きたい気持ちでいっぱいです。女性が山を守るのはかなりつらいことでしょう。今回は檜林と竹林について学びましたがとても充実した内容でした。
2025.05.14
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あさみなみ大学の受講生挨拶をすることになったことがきっかけで、学長が原爆資料館元館長ということを母に告げると、母方の祖父のことが記載されている新聞を渡されました。祖父は山中女学校の後、修道中学校の社会の中学校の教員で、広島原爆の後、広島文化の道標的な存在で7000冊の蔵書を広島市民に無料で貸し出し、いかに生きるべきかを熱意を込めて座談会を開いていたようです。大変驚きました。52歳になって初めて祖父の功績を知った訳ですが、私の生き様を思うと祖父の思いとかなり近いものがあると感じています。平和活動をしていた祖父と、私も幼き頃から平和について考え続けてきました。大学1年生はバレーボール部の部活動で比治山を毎日走っていましたが、その頂上にはABCC(今は放影研)がありました。それは母は被爆3か月前に誕生していたのですが、母の同級生は体内被曝でしたので、南区の大河小学校に大型バスが定期的に来て、特定された生徒だけバスに乗せられ、このABCCの建物で裸にされ診察もなく観察されていたと聞きました。最後に進駐軍からチョコレートを貰ったようですが、とても嫌がっていたようです。原爆の投下はやはり人体実験だと思っています。遺伝的にどのような影響があるかを知りたいのだと思います。私は被爆2世ですが健康診断は無料なのです。なぜ無料なのかを考えると被爆の遺伝的データーを収集したいためとしか考えられません。祖父は峠三吉という原爆詩集の著者との交流もあり、祖母は原爆市長と言われる濱井信三さんとも交流を深めていました。濱井信三さんは祖母の近所でもあったからです。祖父は宮城県出身で祖母とは東京の大学出会い、祖父は婿入りで広島に来たようです。祖祖父は警察官、祖祖母は薬局を開き、財をなして広島市に移住してきたそうですが、富裕層であったと思います。7000冊の蔵書を持てるのは資産があったから出来たのだと思います。比治山のおかげで倒壊を間逃れて7000冊の蔵書は無事だったので、広島の文化の灯になるように広島市民のために私設図書館を開いていたのです。祖父の生き様と私の共通点が非常に多く、隔世遺伝だと思っています。私は広島市議会議員に厳しい指摘をしているのは、祖祖父が警察官だったからかもしれません。これも隔世遺伝なのでしょうか小学生の時から農業を手伝っていましたが、薬草を育てたい夢がありました。精神病院に入院することによってボタニカルアートに出逢い、牧野植物園に行くことになりました。広島市植物公園でのボタニカルアートのイベントに参加させて頂き、私の塗り絵を講師が褒めていました。20年前から東洋医学を学んでいるのは祖祖母の隔世遺伝かもしれないと思っています。最近母の勧めで占い師に手相を見てもらったところ、先祖の思いを強く引き継いでいると言われましたが、祖祖父、祖祖母、祖父、祖母の4人の思いを引き継いでいると思います。精神病院を退院し、今後の人生をどのように生きるべきかを考えていましたが、先祖の思いを叶えるべく生きるべきだと思っています。そのためにあさみなみ大学の受講生挨拶をすることになったのも、神の霊導だと思っています。不思議な縁ですね。。。
2025.05.11
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約3カ月かけて被害届を作成しました。採用試験のコネの実態、市会議員のウソばかりの詐欺被害、新築での設計士のウソとミス、市民大学、市への要望について投稿したのですが、なんと約150ページになってしまいました。問い合わせがあることを前提に文章を作成するのですが、予め疑問に思われるであろう案件を具体的に記述すると膨大な量になってしまいました。市の指定管理者制度の導入による過重労働、財団法人のパワハラ職員による被害。これは労災になるのではないかと思っています。市議会議員のとのやりとり経過報告、設計士との繋がり。裏金疑惑があるので調査を依頼しました。被害を受けた市会議員はまだ1期目なので、相談役がいると思い、その関係する道路、建築物での裏金疑惑です。芋づる式に出てくると思っています。今回被害に遭った市会議員1人の問題ではなく、他の市会議員も同じような容疑があると思っています。市民大学のスタッフ入りについても、私の母方の家系で戦後同じような座談会を開いていたのです。それを復活してくれた市民大学に感謝しかありませんが、この市民大学の受講生挨拶をすることで、詐欺師の市会議員に圧力を掛けることが出来たものと思います。これも神様が霊導で私に経歴を書かせたものと思っています。私は名誉欲はないので、今回初めて経歴を書いてしまったのですから。占い師曰く、私が投稿しないとこの市会議員は一生議員であり続けるが、私が投稿すると議員でなくなり、私は有名人になり協力者が現れるとのことでした。悲惨な目に遭った私達夫婦ですので、文章を作成しながら小説になりそうだなと思っていました。終盤、夫に議員と設計士の名前を出して愚痴を言っていたら、夫は精神が止むからもうその名前を聞きたくないと言われ、私は我慢して文章を作成していると今度は私は吐き気と痛みと痒さから夜間の緊急外来まで行きました。夫はまた私が9回目の入院をするのではないかと具合が悪くなりました。結局、帯状疱疹でしたが初めての出来事なのでどうなるかと思っていますが、約3週間経ちますが、背中と胸回りの痒さは取れません。痛みは軽減しましたが。きっとこのマイナス的な人物からの被害届を作成するにあたり、大変な精神的なストレスはかかっていたのです。5月4日の夜に文章が仕上がりましたので、早速投稿しました。関係する現場監督にも転送しました。私の投稿は多岐に渡るので、関係部署に転送されるでしょうがかなり時間を要するものと思っています。重症な事態なので、必ず連絡があると思います。連絡の前に関係部署に実態のヒアリングが為されていることだと思います。広島市は被爆80周年でもありますが、被爆2世の被爆証言活動が行われますが、私も被爆2世として被爆証言とともに、市の過重労働とパワハラ被害も証言活動しようと思っています。市も私が市民大学のスタッフに入るかもしれない人物なので、スルーは出来ないことでしょう。出雲大社広島分祠とも私は昔から付き合いがあり、大きな宗教団体だけに市も対応に迫られることと思います。加害者の市会議員は議員を辞退することになるのであれば、補欠選挙が行われます。そうすると私が有名人になるということでしょうか。今回、トラブルに巻き込まれた関係する人物も文章に乗せていますので、その人物も同じように有名人になるのでしょうか。
2025.05.08
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