『とんとこひ・セクスアリテ』
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◆ ◆ ◆アメリカは、州ごとに婚姻関係の法律を持っており、「市(市長)に結婚資格を与える権利があるのか否か」を この間、カルフォルニア州の裁判所が審議していたようです。「この判決の結果、結婚証明書の発行を受けた4000以上の同性カップルと家族がその権利を失うことにな」るといいます。(米SF市の同性婚無効に-ジャパンゲイニュース#634-より) 判決を下した人たちにとってはおそらく、「同性カップル」の意味は、「住民トラブルを招きかねない」とか、「パパふたり・ママふたりの環境は 子に望ましくない」とか、そのような非常に想像力を欠いた「決め付け」ではなかったかと思います。「同性カップル」の意味は、これは両人の結びつきですから、ワタクシはもっと、何というか、自然なものである、というふうに思います。みなさんは「同性カップル」の意味、「同性カップル」誕生の意味を、どのように考えられるでしょうか?こういう、たいへん貧しい判決に、「従え」という事態が また傲慢に感じます。少なくとも、ここを訪れる人は、裁判や法律に、いろいろ疑問を持っていただきたいと思います。またここで紹介させていただきますが、ある同和問題に取り組まれている教師が、部落の青年から ゲイであることを伝えられたというエピソードが、以下のネット上に載っています。「解放へのはばたきNo.71”反差別連帯-部落解放への欠かせない課題-」よりネットならでは・・・の、お互いできることが、やはりあるようです。この期にぜひ 部落のセクシュアル・マイノリティの問題についても 関心を持って考えていただきたいことを 重ねてお願いします。◆ ◆ ◆ 日本は「同性婚制度化正常感覚疑う」 島津○○ 73歳 2004/05/13アメリカではサンフランシスコ市などいくつかの市で同性結婚を制度として認め証明書を発行している。また複数の最高裁が同性間での結婚を認める判断を下している。この傾向は今後アメリカの各地に広がっていくことが予想される。いうまでもないが、結婚は人類存続を究極の目的とする男女結合の社会制度だ。これによって夫婦間の生活、扶養、血縁関係、財産問題などが秩序化される。これに対し同性同士の結びつきは社会制度化する必要のない仲良し関係である。個人の趣味性癖で同性を愛するのは自由である。同せいするのも自由。他人に迷惑をかけなければ問題はない。生活のことも所有財産のことも自分たちで自由に決めればいい。公的機関が口を出すことではない。アメリカは過剰繁栄のあまり正常感覚を喪失しつつあるのではないかと疑いたくなる。少なくとも日本ではこういうアブノーマルな制度は排除しなければならない。 それに対する友人の投書文を部分抜粋し転載します。突然お手紙さし上げます。不躾とは思いますが、ご容赦ください。私は、西日本新聞を購読しているゲイです(正確にはユニセックスジェンダー系)。先日、貴紙こだま欄に掲載された73歳の無職の男性による投稿記事を読み、随所に見られる差別表現、及び行間を含め文章全体から湧く蔑視に、非常な憤りを感じましたので、こうして文をしたためている次第です。私が問題だと思った記事は以下のものです。・・・投稿者の偏見を一つずつ指摘していきますと、まず、この投稿者は、ゲイをはじめとするセクシュアルマイノリティが、先天的に「生まれてくる」という事実すら、知らないようです。性心理学者の高橋鐵などは、ドグマを振りかざして、「後天説」を提唱したまま他界しましたが、私たち当事者からすれば、非常にナンセンス。私たちは、胎児の頃から(インターセックスなどの場合は、受精した直後から)、周りの人間とは違います。トランスジェンダーにしても、ゲイにしても、ビアンにしても周囲とは違う、変異種の人類。脳の構造や、遺伝子の配列から、つまり、肉体そのものが異なった、人類の亜種です。特殊という言葉を使うのもいいでしょう。特別という言葉は、当事者の側から美化されすぎるきらいがあるので、私は使いたくありません。何にせよ、私たちは、そもそも、物理的に、セクシュアルマジョリティとは、差異があります。事実、それを裏付けるさまざまな学術的な根拠が、次々に発表されています。「変異種ならアブノーマルでいいじゃあないか」といわれそうですが、アブノーマルという言葉は、差別的で、いささか、不快。そこには、「ノーマルである我々と対比してアブノーマル」という認識があるから。でも、現実は、そうではない。私たちは、私たちの属する世界では、ノーマルです。だから、出来れば、パラノーマルと表現して欲しい。基準をセクシュアルマジョリティの側ばかりに持ってくるなんて、傲慢なことだと思います。数の大小ではなく、質の相違という捉え方をして、両方に基準を持ってくるのが、筋というものでしょう。それと、同性愛者のカップルは、仲良し程度の物、という考え方ですが、これも、とんだお笑い草。自分の愛する相手と結ばれるために、家族にカムアウトし、親から「死ね」と言われる人もいます。友達も離れていき、過去に関わったほとんどの人達は好奇のまなざしをむけてあざけり、新天地と決めて引っ越した先では、男二人で暮らすなんて怪しい――と、陰口を叩かれる。宗教者からは悪魔、ケダモノとののしられ、心が休まる空間は、同じ種類の人類――お仲間たちがたむろする、閉鎖され、隔離された空間だけという人も多いです(もちろん、人生を謳歌している人もいるにはいますが)。常に偏見や差別と隣り合わせで、家族も親類も味方にはなってくれず、孤独に違いの傷を舐めあい、相手が死ねば、ひっそりと、時には自殺してまで、後を追う――そんな形の愛が、「仲良し」程度で済まされますか。くわえて、趣味や性癖の問題ということに関しても、そう。まるきり、勘違い。先にも述べた通り、私たちは、「ゲイとして生まれた」人間です。そこに、趣味云々が介在する余地など、微塵も、ない。ずらりと並んだ男の中から、誰をパートナーとして選ぶか、それは「趣味」としてとらえても、それほど問題ではないでしょう。でも、ゲイとして生まれたことは、決して、趣味ではない。趣味という言葉をあてはめたいなら、そこには、選択の自由が与えられなければならない。でも、それは、私たちには、生まれる前から、与えられては、いない。どの国に生まれるか、どの人種に生まれるかということと一緒で、私たちは、ゲイとして生まれた。宿命として。そういうことなのです。それに、公的機関が関わる必要もないと言いますが、ゲイであるがゆえに、愛する相手に遺産を残せなかった(親類が反対して何一つ形見の品を残してもらえなかった)、とか、「家族以外は面会謝絶」と、死に目を看取ることが出来なかった、とか、最愛の人の治療の選択をさせてもらえなかった、とか、いろいろ問題は山積みです。法的な面でも「家族」として認識させるためには、現時点では、養子縁組制度を利用するしか、ない。税金の控除もないので、ヘテロセクシュアルのカップルより多率の税金を払っているゲイも多いですが、その税金は、最低限の還元しかされません。婚姻その他の権利がまるで認められていないせいです。子どもが出来ないのだから結婚の必要などない、と、投稿者に限らず、反対者は、口にします。しかし、子どもが出来ないから結婚という契約を交わす必要がないという論旨を展開するのであれば、なぜ、性的機能不全で子どもが作れない可能性が強いので婚姻を認めない、という、特別な法令が必要だとは言わないのか。それを口にするのは、特に対象が女性の場合は、「石女(うまずめ)」差別だという、明白な認識があるからでしょう。認識があっても差別する人はいますけれど、ほとんどの人は、部外者として口をつぐむはず。高齢者同士の結婚にしてもそう。子どもが作れなくても、また、要介護状態で、単純な意味での「労働力」として社会に貢献できなくても、結婚の制限は、少なくとも法律上は、されない。個人的な感情で反対をしても、法的には問題ないということは、誰でも、わきまえている。でも、ゲイに対しては、マジョリテイの多くは、そのような自制心なり、あるいは日常的に抑圧者にさらされている人間に対する慈みの心を、発揮しないケースが、多い。自分とは何の関係のない人間についても、感情的に反対し、法律的にも、壁を作る。「勝手にやれ」と言われて、「勝手に出来る」情況では、ないのです。勝手にやることを無条件で許してくれる家族など、いないに等しい。はなから矯正させることを目的で家族会議を開いたり、かどわかしたと言われたり、はなはだしいときには裁判沙汰になったり、紛糾するケースがほとんど。親を裏切ったと罵倒され、そのことを苦しく思いながら恋人と同棲しているゲイもいます。そうかと思えば、親を見捨てることが出来ずに、地方に埋没していくゲイもいます。一生キスも出来ず、好きな相手と手を握り合うことも出来ない人も、どれだけ、いるか。全部が全部そうというわけではないですが、これも、現実のゲイの姿。クローゼットに生きるにしても、オープンに生きるにしても、なまなかな覚悟では、やっていけないのです。海外で結婚をしようと思って、法務省に書類を申請しても、「同性愛者に海外で結婚するのに必要な書類を発行してはならない」という通達を出すような国ですから、この国は。・・・あと、露出願望や、小児性愛も、同じです。彼らも「変異種として生まれた」セクシュアルマイノリティ。チンパンジーなども、性的部位を見せ付けることで、脳内のホルモン分泌を盛んにするというシステムをもっているそうですから、人間にしても、同じでしょう。性的部位を見せることで、性的興奮を誘発するホルモンが分泌されるのであれば、その分泌量が著しく多い人間も、当然、出てくるはず。他の機能障害と同様、適切な分泌量をコントロールする機能が備わっておらず、常人より多量に分泌されてしまう、などの原因があるからこそ、脱ぐことに快感を覚えるのではないかというのが、現在の私の個人的な意見です。この種の露出願望者の場合は、法律でがんじがらめにしばられて、一切性を吐き出す場所を与えられずに破綻し、自分たちの性を謳歌するセクシュアルマジョリティによって、さばかれる。これ以上理不尽なことがありますか。彼らも何らかの形で、他人を傷つけず、望まない相手に性を強制して不快な思いをさせたりせずに、ガス抜きを出来るような場所があれば、「性犯罪者」「変質者」という烙印をおされずに済むのですから、そういう部分を考慮しないで「犯罪者だから問答無用で実名報道」というのは、その差別ぶりに慄然とします。これは、マジョリティによる、数の暴力です。望まぬ相手に性器を露出して、性的行為を強要した。それは確かに触法行為でしょう。自分だけが音楽を楽しみ、周りがそれを騒音とは思っていない――というのと、ほぼ同じレベルで。でも、その行為を裁きたいのなら、やはり根の部分までしっかりと見つめてからにしなければ、危険だと思います。「自分たちと同じ人間が、自制心をなくし、道を過った」とは、考えないでください。それは、絶対に、真実では、ないから。柳田國男は、憑き物筋として差別された家に生まれた著者が記した「憑きもの持ち迷信」という本の序文で、こう記しています。ここ数ヶ月のうちで、私の琴線にもっとも触れた文章です。「しかしながら私等の最初からの希望では、世間でくろ(憑き物持ち)と言われている人々の中から、これについて発言してくれるものが出ることを長い間期待していた。なぜなら、その発言が、憑きもの持ち家筋の人の口から直接出たものでない限り、真実は濁り、誤り伝えられる危険性が多かったからである」。この言葉を、こだま欄の編集責任者の方に、送ります。・・・◆ ◆ ◆
August 14, 2004
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