『とんとこひ・セクスアリテ』
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物吉 ものよし物吉 竹の皮籠のすみぬりにはりたるを負ひて 洛中を勧進にいづる 物吉といひそめしより 儀縁よしとて 名付けしものなり 『人倫訓蒙図彙』 」(じんりんきんもうずい)(1690 年)のラスト(巻七---勧進餬部) を飾るのが、彼ら物吉の人たちです。これは、たまたまだったのでしょうか。詳しいことをご存知の方がおられましたら、ぜひご連絡くださいね。画像提供先のトップページはコチラになります。補足一)京都部落問題研究資料センターに後日、メールで問い合わせてみたところ「こちらに所蔵しております日本古典全集、東洋文庫所載のものの解題等をみてみましたが、掲載の順序につきましてはわかりませんでした。・・・ただ、当時物吉は賤視を受けていた人々の中でももっとも厳しい賤視を受けていたというのは確かだと思います。それが、「人倫訓蒙図彙」の順序に反映されているかどうかは不明です。」とのご回答を得ました。取り急ぎ、報告まで。補足二)阿部謹也氏『松の木のあっち』(田中龍雄『被差別部落の民話』収録)・・・被差別部落の人々が住む部落は人外地とされている。つまり村の側からみて村人でない人びとが住むところという意味であり、村人からすれば小宇宙の外を意味していた。ヨーロッパの村でも垣 Enter の外は人間の住むところではないとされていた。村側にのびた枝で首をつった乞食について「かたいでさえも死ぬまぎわには(中略)」と部落の爺さまがいったとき、部落のものは声を失ったという。今の私たちには十分には理解しえない人外地のもつ意味がここには十分に表現されている。同氏『ざるにはざるを』(田中龍雄『被差別部落の民話』収録)・・・この話は私がとても好きな話です。通常なら、差別された者が仕返しにざるに品物を入れさせたところで話は終わりでしょう。しかし、そこに与平が登場します。与平は頭が悪いので差別のこともあまり知らず、ただ皆のまねをしたにすぎないのです。与平が塩を洗って塩がまったくなくなってしまったときの、がっかりした顔を想像して皆期待していたのですが、最後にどんでん返しがあるのです。(塩屋の)おやじは最後になって自分が汗水垂らして運んだ塩が流されてしまうことに気付いて、あわてて与平に抱きついてとめたのです。 ここには差別する者とされる者を越えた、人間に対する暖かい目があります。差別と被差別を越えたところで、人間に対するこのような見方が生まれるようになるのに、人間は何百年もの間 差別をし、苦しまなければならなかったと思うと残念ですが、ここにも大宇宙に生きる者のおおらかさと、小宇宙に生きる者へのやさしいまなざしがあるといえるでしょう。差別-被差別の関係だけで見ない歴史の勉強も楽しみ、「業病」「隔離」などの身の毛のよだつ時代思想も見させてもらい、繰り返すまいと思う、というふうでありたいんですよね。みなさんも、おんなじなんじゃないかと思うんですよね。京都部落史研究所発行の『京都の部落史1前近代』にて、古代から病者と乞食の救済施設であった悲田院が、近世に非人との「関係を絶」った背景を詳しく知ることができました。「癩者」は中世非人の中核をなしていましたが、「癩者」を収容する施設として長棟堂が作られたことが、近世には非人とは呼ばれなくなる契機となりました。左は、清水寺参詣曼荼羅(16世紀半ばに作成)周辺拡大図です。物乞する「癩者」の後が長棟堂(創建時期は不明)です。 『洛中洛外図屏風』ひんてん寺悲田院が経営困難から現在の泉桶寺の寺地に移転し(1645年)、元居た非人たちは岡崎村に無税地を与えられて移り住み、そこの村名が悲田院村と称されました。「以降の悲田院は非人との関係を絶つにいたるのである。」「安居悲田院の移転とともに非人の移住も行われたのである。」 「排除」した・「隔離」したと、結ばれてはいませんでした。そういう史料はないと理解しました。 そこをはっきり抑えたもとでしか、差別の歴史のべんきょうをさせてもらうことは、しんそこ楽しめないのだと、思い至った矢先のことで、こういうアンラッキーな(?)タイムリーといふものもじんせひにはあるものだなと(苦笑)。 以後どうしたものか、思案中です。
June 3, 2006
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