Freepage List

2005.01.28
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 言ったような気がするし誰も言ってないような気もする。聞いたことはあるけれど、誰が言ったのかわからない。というわけで、たまには日記をつけてみる。

 久しぶりに、というか、激しく調子が悪い。気を抜くとそのままどこかの世界に飛んで行きそうだ。こういう時に精神を安定させる方法がないのが残念だ。長い長い日記をつけてみようと思う。といっても、楽天日記は半角で10000字までらしい。全角で5000字、原稿用紙にすれば12枚ぐらい。書き切るのも無理ではないはずだ。(現在午後1:11)

 というわけで、とりとめもなく書いてみようと思う。日記というか妄想の羅列になるかもしれないが、気分が悪くなる前に読むのを止めて置いたほうが懸命だろう。そのうちに眠くなって、目覚めたら自分の愚行を笑うかもしれない。ただ、こういう狂った夜も私には必要なのかもしれない。

 人の命は地球より重い、というけれど、私が死んでも世界は変わることはない。もちろん、私を知っている人たちは悲しむのかもしれないけれど、それをカッコに入れておく。私が死んでも世界は滅びない。(当たり前だが)だが、私の世界は無くなる。私はどのような神も(現在のところ)信じていない。死後の世界というものも、信じていない。死んでしまえば、無だと思う。暗闇ですら、無いはずだ。それは無なのであり、私はそれを想像できない。そうだとしても、私が死んでも世界が滅びないことは重要だ。気休め、というか、それは救いだろう。私が死んで人々が悲しむにしても、人々の世界は私がいないという形で続いていく。

 ちなみに、この文章は順序が崩壊しているはずだ。思いついたままに書いていく。段落ごとに一応まとまるかもしれないが、たいして重要ではない。読む必要すらないのかもしれないが、私と、あと1人ぐらいは読んでくれるだろう。

 自分が狂っているのかもしれない、と考えたことがある。しかし最近では、自分はまだ狂っていないと思っている。もちろんいつそうしたところへ引き寄せられるかわからないし、今もいい感じに調子が悪い。だが、狂気は秩序の混乱ではない。たいていの人々が持っているのとは違った秩序を手に入れることが狂気なのだろう。混乱は不安ではあるけれど、不安は狂気ではない。

 ちなみにこの文章に書かれることの科学的な裏づけは全くない。よって科学的な知識は専門家に聞いてみよう。ただ読んでなにかしら得るものがあれば幸いである。

 というか、他人の文章に影響を受けやすい人は読まない方がいいかもしれない。こんな注意書きを入れるなんて、気弱な私。

 最近読んだ本のこと。もう誰かには話したけれど、書いてみよう。本の題名は『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』。構造主義の入門書としても良いが(と言いつつ、私は完全には理解していないと思うし、構造主義を良く知っているわけでもないが、あれです。構造の主義)

 無意識は実在するかもしれないし、しないかもしれない。ただ、外部からは観察できないし、無意識を言葉にすることもできない。(意識が及ばないところだから無意識なのだろう)。外部から観察できないもの(ここでいう外部は単に外ではない。科学的に、ということ)があるかどうかを問題にすることはできない。だが、無意識という概念はある。それはなぜか? それは、観察できるものをうまく説明できるためである。本当は12人の小人が脳の中に住んでいて脳を叩いたり削ったりして意識を操作しているのかもしれないが、それは問題ではない。無意識という概念を心理学に…というか、精神医学に導入したのはフロイトだが、それは単に無意識という概念を導入することで、様々な問題行動を一括して説明できたからだ。だから、無意識があるかどうか、ということは問題ではない。それはおそらく確かめ得ない。
 私はこの本を読むまで無意識を漠然とではあるが、実在として想定していたような気がする。(もちろん、実在というよりは構造としてだろうが。)
それは重力や位置エネルギーにも言える。重力がなんであるかは問題ではなく、それを仮定することで現象が説明されるにすぎない。

 派生として。すると、心も説明概念にすぎないのだろうか。哲学者にヒュームというのがいるが、彼は、「心とは比較的まとまった志向性の束にすぎない」と言った。つまり現象に対してある反応をする選択肢の束の集まりが心、ということだ。おそらく、外から観察したらそうなのかもしれない。心は説明概念として?

 養老猛という脳生理学者がいるが、彼は上のように考えるのかもしれない。彼は大脳一元論だろうから、全ての心的なことを脳によって説明するはずだ。確かに、脳が部分的に破壊されると、感情を失うということがありうる。そうすると、脳が我々の心(のように見えるもの)を作ることに関与しているのも本当なのだろう。足を切断しても意識はありうるが、脳を切断したなら意識は消滅するだろう。

 生命とは、意識とはなにか。我々は父親の精子と母親の卵子の結合によって誕生した。しかし、精子や卵子は最初からあったわけではない。父親や母親の体内である時点で物質的に作られたもの、それらの結合がわれわれを誕生させる。そこには物質から生命への飛躍がある。(これを単純に神の意志だー、と言ってしまうのは悲しいような気がする。我々にわからないことは多いけれど…)

 ある形式。詩と小説の違い。詩は天才にしか書き得ないのではないか? 詩は散文を飛び越える。散文は冗長にある一点を描き得るが、詩はある一点において無限なる物を書く。

 私は私の手を見る。皮膚は赤く、肌の下には血管が走っている。女性用の雑誌に載っている化粧品のモデルは、その肌に染みの一点も無い。(コンピューターで画像を加工しているのだろうが。)それが美であるならば、男は正方形を愛するべきであろう。正方形は美しい。人間に存在する脈絡のない凹凸がなく、その面は一様であり、歪むことを知らない。

 目をつむるべきである。世界には見えない物が存在している。

 コーンポタージュスープが自動販売機に売ってある。おしるこもある。おでんもどうやらあるようだ。味噌汁、味噌汁の自動販売機は? またはジャガイモのスープ。私はお腹が減ってきているのかもしれない。



 2歳以前の記憶は、成長すると無くなるようだ。幼児性健忘と言うらしい。私がもっとも昔にさかのぼったと信じる記憶。私は父と大きな滝の縁に立っている。それは実際にどこかにある滝なのか、私が記憶の中で作り出した滝なのかはわからない。だがそれは、大きく深かった。

 夕日の記憶。夕日は悲しい。そういえば、私は太陽を見ることはできるけれど、太陽に触れることはできない。熱いらしいし。だから悲しいのだろうか。だが、昼間の太陽は特に悲しくない。手は届かない。

 バナナにしょうゆをかけるとウニの味というが(違ったかもしれない)、私はうにを好まない。メロンは好きだ。メロンにハムで、メロンハム。(やはりお腹が空いているようだ)

 本当は、という言葉には悲しい響きがある。



 そういえば、ノストラダムスの大予言というものが20世紀の終わりに流行っていた。確か、「恐怖の大王が7の月に大きな器で味噌汁を人々にかぶせるだろう」とかそうした内容だった気がする。だが、世界は滅びず、こうして私は日記を書いている。子どもだった私は…おそらく小学校の低学年から中学年ぐらいだと思うが、真剣にノストラダムスの大予言を信じて恐れていた。眠ることが怖かった。眠っている間に、世界が滅びるのではないかと恐れていた。

 朝方に眠り目覚めると2005年1月28日の午後2時辺りになっていた。世界は私が眠る前と変わっていない。少なくとも、私の部屋の様子は変わっていない。私の知らないところで世界は変わるにしても、目覚めたら乾いた砂の上に寝ているよりはましだ。

 自分が死ぬ理由を、人が納得する必要はない。もしくは、人が納得する理由で自分が死ぬ必要はない。私の死は儀礼によって人々のものになるだろうけれど、私が死ぬまでは私だけのものだ。私の死は、他人の死とは決定的に異なる。数十億という単位で他人が死んだとしても、そしてそれを私がどれもを粒やかに知っているとしても、私は自分の死を知ることはできない。知ることができないものを恐れることは不合理である。だが、私は死を恐れる。知ることと体験することは違う。知っていることは言葉にできる。体験されたことは、言葉にできないものを含む。

 単純に生物の進化論を信じるならば、人間もいずれは新しい生物によって克服されるはずである。それは救いであるか。私は支配されることを受容するか。理論が現実に適用されたならば、それは私の生活を変える。その未来を想像できなければ、私はどうなる?

 特異な体験をしたものが、必ずしも新しい眼差しを獲得するわけではない。どのように特異な体験をしたとしても、それを自分にオリジナルな眼差しで見ることができるものは少ない。(もっともオリジナルなものがあるかどうかということは問題である。比較的にオリジナルな、と言い換えても良いだろう。)もしくは、その体験を受容できない。特異な体験をオリジナルな眼差しによって見ることができるのは、天才だけだ。(人々の多くは凡人であるし、天才は極めて少数だ。この割合が逆になったとすれば社会はうまく続かないだろうし、天才は多くは必要ない。)だから普通の人々にとっては、他人に理解されない言葉というものはない。誰も私を理解しない、ということはない。理解されない、ということは語る言葉が少ないか、語りかける相手が少ないということだ。

 自分らしい、ということはどのような意味を持つか。それは決してオリジナルなものを自分が作るということではなく、ある選択肢から自分が望むような選択肢を選ぶことにすぎない。人は生きている場所から、突出することはできない。選択肢は既に用意されている。

 その選択肢は選択肢であるが故に、隠された選択肢を探すことへ注意を向けることを妨げる。ある場所において、たいていの人が選んできた選択肢がある。それは常識と呼ばれるのだが、そうした常識は場所によって異なる。ある場所にない選択肢を、他の場所から借りてくることはできる。

 二つのうちのどちらかを選ぶこと、そうした選択は拒否しなければならない。二つの選択肢のどちらかを選ぶ、その選ぶことには選択するものの意志が関わっているように見えるだけになおさら悪い。二つしかない選択肢、というものは我々の行為においてはない。もちろん、「明日、郵便局に行く」ということに関しては、行くか行かないかの二つしかない。けれど、「明日行かないけれど、明後日に郵便局に行く」ということと「明日行かないで、ずっと郵便局には行かない」ということは異なる。二つの選択肢のうちのどちらかを選ぶにしても、その二つの選択肢にはどちらにも様々な濃度がある。「明日行かないけれど、明後日には郵便局に行く」ということは、「明日、郵便局に行く」ということとほとんど同義であることもある。(10日後までにハガキを出さなければならないような場合。)

 結構あっさりと全角5000字に近づいてきた。所要時間は3時間半ぐらい。ここまで読んでくれた方、ありがとう。まぁ、いるとしたらだが……自分でも読み返したくないな(笑)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2005.01.28 15:43:05
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

ひみ@喉

ひみ@喉

Comments

ゆう@ とうとう出ちゃったね うわさは本当だったよ。 <small> <a hre…
ミーシャ3216 @ ひみとさんへ 最後まで、楽しく読ませていただきました…
ミーシャ3216 @ ひみとさんへ 抱かれちゃうんだ・・。
ミーシャ3216 @ Re:『かなりあ』(11)(06/07) う。。どうなるのでしょうか・・(//・_・/…
ミーシャ3216 @ うん・・。 >とりあえず、わたしはでたらめだった。…

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: