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彦根城の裏側に廻る。

西の丸三重櫓に向かう途中の樹木にミツバチのブンブンという聞きなれた
羽ばたきの音が。ミズキの白い花か?

西の丸三重櫓。
三重櫓からは出曲輪への落とし橋や山崎山道への石垣群を見下ろし、北には琵琶湖を
一望する事が出来るのビュースポット。

そして再び正面に。
天守上層。入母屋破風(いりもやはふ)、唐破風(からはふ)、切妻破風(きりづまはふ)が配置され、

懸魚(けぎょ)、兎毛通(うのけどおし)は金色に輝き華やかである。
彦根城の唐破風は、小型の入母屋(千鳥)破風の真上にかぶさる「軒唐破風」と言うタイプ。

天守閣の鯱(しゃちほこ)。金色に輝いていたことが解る。

6:30前になると色々な所から天守閣前庭に市民の方が集まり始めた。
そしてラジオ体操を開始。

佐和山を望む。
佐和山城は、石田三成の居城としてあまりに有名な城。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、
小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃。石田氏滅亡の後、徳川四天王の
一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城。完成した彦根城天守に直継が
移ったことにともない、廃城となったと。

手前右側にあるのが天守付櫓。奥の右手にあるのが多聞櫓(続櫓)。
天守への入口はこの2つの櫓に設けれらている。
今現在、彦根城天守内へは多聞櫓(続櫓)から入る。

窓は華頭窓。
上枠を花形(花頭曲線)に造った特殊な窓。

一層目は、大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっていた。

「彦根城を世界遺産に」のポスター。

花菖蒲が美しかった。

軒瓦には巴紋が。反時計回りの三つ巴。

天守閣を後にし、再び天秤櫓とその先に廊下橋が。

白壁に朝の陽光が緑の樹木の陰を。

緑のシャワーを身体全体に。

廊下橋を大手門側から。

大手門への長い階段を下る。

彦根城の現在の正門は「表門」になっているが、当時は大手門だったと。
築城当時は敵方の大坂城の向き(西)に大手門を作り、豊臣氏滅亡後は東山道(中山道)に
近かった表門が実質の正門になったともいわれていると。

彦根城の南側正面にある大手門口近くにある地蔵堂。

ここは彦根城が築城される際に、山のあちこちにあったお地蔵さんを一箇所に集めて
祀ってあるのです。

内堀に架けられた橋が大手橋。

内堀の城壁近くの水面に小屋が作られていた。
その中に黒い物体が僅かに動いていた。コクチョウとのこと。

「ひこね市民活動センター」近くの中堀にかかる橋から見た滋賀大経済学部講堂。
旧彦根高等商業学校講堂で1924(大正13)年の建築物と。登録有形文化財。

滋賀大学正門。

スミス記念堂。
スミス記念堂は、昭和6年に日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で、
彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が
両親を記念し、感謝する思いと日米両国の人々の基督教を通じた交流を願って多額の
自己資金を投じ、日米双方からの醵金により、彦根城の旧・中濠端(現・外濠)に建設された
和風礼拝堂。

京橋から 江戸の城下町を再現した「夢京橋キャッスルロード」を見る。

京橋から再び彦根城内に入る。
京橋口には門脇には櫓が築かれ、堀に面して高麗門があったと。

京橋口内にある旧西郷家長屋門。

今度は白鳥が内堀の水面に。

再び表門前の木橋が見えて来た。

佐和口多聞櫓。

ポストの上にも彦根城が。

そして約2時間の早朝散歩を終え、ホテルに戻り慌しく朝食を。

そして再びレンタカーに同乗し、「夢京橋キャッスルロード」を通過し仕事場に
向かったのであった。

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